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(財)余暇開発センター 編 『都市にとって自然とは何か』 農山漁村文化協会(人間選書213) pp.72-80
自然保護を都会人のエゴイズムにしないために
森岡正博
【72】
「自然を守れ」というエゴイズム
いま「環境を守れ」、あるいは「緑を守ろう」と言う人がたくさんいるわけですが、彼らのライフスタイルがどうなっているかと考えた場合に、やはり都市に住んでいる。東京に住んでいて、いつも仕事は東京でしている。休みになると、郊外とか山の中へ行って、緑を体験して「ああ、よかった」と。また平日になると東京へ戻って仕事をする。ですから、休日に自分たちがリフレッシュするための緑を残しておいてほしいという、ある意味で、都会人のエゴとしての緑の保護を言っている人たちというのも、けっこう目につくような気がするのです。自分たち都会人のエゴが基本にあるにもかかわらず、そこには目をつぶったままで「美しい環境を守れ」とか「木々を守れ」と言っているような人たちも多いのです。
実はそのようなところ、つまり「環境を守れ」とか緑を守れと言っている自分たちの足元を、まずもう一回ちゃんと見てみるということは必要だと思うのです。私はいつも感じるのですが、「環境を守れ」という運動とかディスカッションをするときに、それを言っている自分たちはどういうライフスタイルで生きているのかというのを、やはりもう一回考えるべきだと思うわけです。
それに関連して言いますと、ここは東京ですが、世界中どこでも「環境を守れ」ということ【73】で本を書いたりしている人は、だいたい都会に住んでいたりするわけですが、例えば日本でも過疎地というところがあるわけです。過疎の村とか町で住まなければいけない。あるいはそこにずっと住みつづけている人がいるわけですが、過疎地に住まなければいけない人にとっての環境問題というものは、都会に住んでいて休みになったら森に入って行くという人たちが考えている環境問題とは、かなり違っているのではないかと思うのです。そのあたりのこともやはり見ていかなければいけないのではないかと思います。
余暇ではなく仕事の日の過ごし方を考えよう
この本では、余暇が一つのキーワードとして出ているわけでして、余暇をどう使うかという場合に、休みのときに緑とか自然の中に行くことによって、自然の大切さをもう一回再認識しようではないかという考え方があるのだと思います。それはそれでよいので問題はないのですが、あまりそこばかりに意識を集中していると、また変なことになっていくと思うのです。
と言いますのは、いま環境破壊が進んでいるわけです。これはもうみなさんご存じなわけで、その大きな原因はわれわれの文明といいましょうか、工業文明、産業文明、都市化、人口増加などが絡まっていろいろな環境破壊や資源枯渇を生み出しているわけですが、われわれが環境破壊をいつ生み出しているかと考えると、それはわれわれが遊んでいるときではなくて、仕事【74】をしているときであるわけです。
工場でがんがんモノを生産して、いろいろな有害物質を出したりする。そして環境破壊が起きるわけですが、それは工場が動いているからそうなるわけで、工場がいつ動いているかと言うと、われわれが仕事をしているときに動いている。つまり、われわれが本当に考えなければいけないのは、余暇にどう自然を考えるかということではなくて、平日に職場へ戻ってきたときに、われわれはどのように仕事をしているのか、ということです。われわれが給料をもらってご飯を食べているときにしていることが、実は環境破壊を生み出すような大きな産業社会の仕組みに飲み込まれていて、その歯車にならない限り、われわれはサラリーがもらえないということが問題を生みだしているのだと思うのです。特に日本のような国の中流サラリーマンや官僚たちにとっては。
環境問題よりも不況対策を望む声
もっとも、本当にわれわれが余暇やゆとりを重視しているかというと、そこにも疑問があります。
余暇の時間とかゆとりを持って、ゆっくりするのは大事だというのはその通りで、言われれば誰も反対しないと思うのですけれども、やはり気になるのは、例えば新聞のある面を開くと【75】「これからはゆとりが大事だ、環境問題の解決が大事だ」と書いてある。それで次のページ、経済面を見ると、「不況が大問題だ」と書いてあるのです。それはいったい何だと。つまり不況ということはゆとりができるわけなので、この二つの記事のあいだには大きな矛盾があるわけでしょう。
例えば選挙などのときに、有権者は政治家に何を求めるかというアンケートなどがよくあるのですが、それを見てみるとやはり環境問題の解決よりも不況の解決の法が上に来るのじゃないかと思うのです。つまり、風流に生きられる人はよいのだけれど、しがないサラリーマンの方がずっと多いわけでして、彼らは環境問題の解決とかよりも、やはり不況を解決してほしいと思っている。つまり猛烈に、もっと働きたいと思っているわけです。ですから、問題はそういう環境問題不況の解決のほうを何とかして欲しいと思っている人がマジョリティーの社会。そういう社会をいったいどうしていくのだ。ですから、理想論では、それは余裕があって、ゆとりがあって、自由な時間があるほうがよいけれども、具体的に明日からどうするかと考えると、やはり不況だったら困ると思っている人がマジョリティーの社会の中で、こういう問題をどう考えていくかという視点がやはり必要であると思うのです。
いずれ、、余暇を考えることも大事ですが、本当はそれより大事なのは、仕事をしているときにいったいわれわれは何をしているのかということを考えること、つまりもう一回自分の足元【76】を見ていくということだと思います。
「余暇に自然を」の落とし穴
あまり「余暇をどうするか」ということばかり考えていると、自分たちが仕事をしているときに、どのくらい環境に悪いことをしているかということを考えなくてもよいような仕組みができていってしまうのではないか。余暇に森の中に行って楽しんでいるから、あるいはそこで自然を考えているから、われわれは環境のことを十分考えているのだというように自分の中で納得してしまうと、仕事をしているときは環境をがんがん汚しているということが頭から消えていってしまうのではないかという感じがします。
つまり、余暇に森に行って自然と触れ合って、自然を考えているということはそれはそれでよいのだけれども、そういうとこで陥る罠があるのです。休みの日に自然の中に行って、自然を考えているのだからそれでよいのだと自分に言い聞かせていくということは、やはり罠だと思うのです。これは最初にも言いましたけれども、休みに自然の中に行って、週に二日間自然の中で活動して、週に二日考えたからあとの週五日の仕事の日には自然について何も考えなくてもよいと自分をだましていくような・・・・・、そのほうが楽ですからね。まさにそのような落とし穴として使われていく危険があるのではないか。【77】
仕事とは何かを問うことから
それに関連が働いたのですが、例えばオウム真理教がああいう問題を起こしたわけですけれども、オウム真理教に入った初期の幹部たちというのは、やはり動機は純粋なのです。「本当の自分とは何か」とか「生きる意味は何か」とか「真理とは何か」ということを追求するために全財産を投げうって共同体に入っていった。その結果、ああいう悲惨な事件を起こしたわけです。
では、オウムに入って修行をしている人は何をしているかというと、結局あそこは全部余暇なのです。全部自由時間なので、全財産を投げうって、あそこは何も生産をせずに修行という、いわば遊びの時間を二十四時間、一年中やっているわけです(修行そのものはつらいのですけれども)。これはうがった見方かもしれませんが、オウムの人たちはあまりにも自由時間があって、自分の生きる意味ばかりに集中したおかげで、世界のさまざまな他のことが見えなくなっていったという一面もあると思います。ですから、やはり余暇を考えるのも大事だけれども、それ以前に仕事のことを考えるほうが大事ではないかという気がします。
私が強調したいのは、仕事の中で地球とか自然を見ていこうということではなくて、仕事とは何かを見ていくということなのです。結局いま環境問題が起きているわけで、それを解決するためには、一方においてはわれわれが本当に忘れている自然というものを、余暇【78】を通じて見ていくということは絶対に必要なのだけれども、それだけじゃダメなのです。もう一つ、なぜ環境問題が起きているのかというと、われわれが日々している仕事が生み出しているからで、その意味では産業社会はどう動いているのか、自分が組み込まれている産業社会、自分たちが働いている足元がどうなっているかという、その産業社会を見ていくということがやはり必要なのです。一方において自然とは何かということを見ていくことが重要なのと同時に、われわれの都市文明、産業社会が本当はどのように働いていて、自分がどのようにそこに組み込まれているかを見ていく必要がある。そこを見るためには、やはり自分たちの仕事というものを見ていかないとダメなのではないかということを強調したいのです。
創造的不況の道
そうのように考えてくると、やはり都会に住む者が率先して、エネルギー多消費的型の都市システムを解体していかなければならないと思うのです。都会に住んでいる人々が、エコロジー的生活を求めて田舎に移り住むというのでは構造は変わりません。なぜなら、そのかわりに田舎から都会に出てくる人々がそのあとを埋めてゆくだけだからです。ですから、都会に住む人々は、あくまで都会に住みつづけつつ、都市システムそのものを変えていかなければなりません。【79】
その一つは、不況に強い経済−生活システムを作ってゆくことでしょう。モノが売れなくなり、不況に陥ったときに、新たなモノ作りを模索するのではなく、その不況のままで基盤都市システムを維持し、失業部分は多人数で分担シェアし、何とか食べるだけはやっていく。すると、ここに、本物の「余暇」が出現します。することのない時間、生産にたずさわれない時間がたくさんできるのですから、本物の「余暇」です。その余暇を、お金を使わずに、つまり消費行動に走らずに、どう使ってゆくのか。不況ですから、お金を使って遊ぶことはできなくなります。「余暇開発」真の意味はここにあるのです。お金を使ってレジャーに行くことが「余暇開発」では断じてありません。このような「不況」こそが目標であることにわれわれが気付き、そしてそのことに納得してゆくこと、それがこれからの課題なのではないでしょうか。
日本が構造不況になれば、国際競争に負けます。そして、それでよいのです。そのことによって、日本と途上国のあいだにあった南北格差が、本当の意味で解消されてゆくのですから。
自覚的にその道を歩むことによって、日本は世界に、一つのモデルを示すことができるはずです。
(国際日本文化センター助手・生命学)