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作成:森岡正博
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論文
『人間科学:大阪府立大学紀要』8 2013年3月 87−105頁
「生まれてこなければよかった」の意味
生命の哲学の構築に向けて(5)
森岡正博
1 はじめに
私は2011年の論文「誕生肯定とは何か:生命の哲学の構築に向けて(3)」において、生命の哲学の基礎を「生まれてきて本当によかった」という「誕生肯定」に置いた。そしてその逆すなわち「生まれてこなければよかった」という「誕生否定」へと人を追い込んでいくことを根源悪とした。ここに生命の哲学の基礎が据えられたわけであるが、そのときに残されていたいくつかの問題がある。
そのうち緊急の問題は、「生まれてきて本当によかった」「生まれてこなければよかった」とは正確なところ何を意味しているのかというものである。本論文ではこの点について考察を行ない、暫定的な解答を与えようと試みる。本論文は上記2011年論文の続編という位置づけになるであろう。
2 存在と非存在を比較できるか
「人間は生まれてくるよりも、生まれてこないほうがよかった」という考え方が古来より存在する。それはペシミズムの思想として種々の文献で語られてきた。その考え方に正面から分析哲学的検討を加えた書物として近年脚光を浴びているのが、南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』(David Benatar, Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence. 2006)である。ベネターは、人が生まれてきてこの世で存在するときと、その人が生まれてこなかったときを比較すると、生まれてこなかったほうが「より良かったbetter」と言えると主張し、これはすべての人に例外なく当てはまると言う。なぜなら、生まれてくることの善が、生まれてこなかったことの善を上回ることは決してないからである。ベネターの議論の詳細な検討は他の論文で行なうこととし[1]、ここではベネターによる存在と非存在の比較についての議論を取り上げる。
「生まれてこなければよかった」という言葉が正確に何を意味しているかを理解するのは容易ではない。一見すれば、その言葉は、「生まれてきたことと、生まれてこなかったことを比較すれば、生まれてこなかったことのほうがより良いbetter」ということを意味しているように思われる。しかしながら、生まれてきた場合には生まれてきた状態を把握する私というものが存在するが、生まれてこなかった場合には生まれてこなかった状態を把握する私というものが存在しないわけであるから、後者がどういう状態であるのかを知ることのできる者は誰ひとりいないことになり、したがって、この二者を比較することは原理的に不可能であるように思われるからである。そして、もしそれが不可能であるならば、そもそも「生まれてこなければよかった」ということは言えないはずである。これは、「生まれてこなければよかった」とか、「生まれてきて本当によかった」とか言おうとする者が必ず直面してしまう哲学的難問である。
「すべての人は生まれてこなければよかった」、という主張をするベネターは、以下のように反事実条件法を導入して、この難問を回避しようとする。すなわち、「生まれてきたこと」と「生まれてこなかったこと」を比較するとは、「生まれてきたときに何を経験するのか」ということと、「本当は生まれてきていないのだけれどももし仮に生まれてきていたとしたら何を経験するのか」ということを比較することであり、その二つを比較したときに後者のほうがより良いというのが「生まれてこなければよかった」の意味である、とするのである。
しかしながら、「もし仮に生まれてきていたならばそのときに経験していたであろうこと」というのは、「私が生まれてきていないこと」とは全く異なる事象である。少し考えてみれば分かるように、もし仮に、生まれてきていたという反事実的な想定をするとき、そこには反事実的な私の存在というものが導入されている。ということは、そこで成立しているものは「私が生まれてきていないこと」ではなく、「私が生まれてきているという反事実的なできごと」にすぎないのである。このようにして反事実的な私の存在というものが導入された瞬間に、それが導入された宇宙は、「私が生まれてきていないような宇宙」とは別の宇宙、すなわち「私が生まれてきているという反事実的なできごとが成立している宇宙」になってしまうのである。ベネターの議論は、「生まれてきたとき」と「本当は生まれてきていないのだけれどももし仮に生まれてきていたとしたとき」の比較をしているだけなのであって、けっして「生まれてきたとき」と「生まれてこなかったとき」の比較をしているわけではない。ここにベネターの議論の決定的な誤謬がある。
そもそも、「私が生まれてきた世界」の状況を認識する私は当該の世界の中に存在するが、「私が生まれてこなかった世界」の状況を認識する私は、たとえ反事実的にではあれ、当該の世界の中に存在することは不可能である。ベネターの議論はこの論点を決定的に見落としていると言わざるを得ないのであり、「存在と非存在の比較」の不可能性という難問はベネターにおいてまったく解決されていないことになるのである。[2]
3 「生まれてこなければよかった」を比較を用いずに解釈する
では、「生まれてこなければよかった」とは、正確にはいったい何を意味しているのだろうか。それが「比較」ではないとしたら、ほかにどのような可能性があるのだろうか。「生まれてこなければよかった」という言葉の中に込められているのは、生まれてきてしまった私の存在や私の人生の全体を否定しようとする感情である。こんな人生なのだったら、いっそのこと、これまでの人生まるごとを世界の中から消し去ってしまいたいという気持ちである。自分が生まれてから今日に至るまで過ごしてきたすべての軌跡を、この宇宙から跡形もなく消去してしまいたいという絶望的な否定感である。
「生まれてこなければよかった」という言葉が真に意味しているのは、「生まれてきたこと」と「生まれてこなかったこと」を「比較」して後者が「より良かった」とすることではない。そうではなくて、「生まれてこなければよかった」という言葉が真に意味しているのは、自分が生まれてから今日に至るまで過ごしてきたすべての軌跡を、この宇宙から跡形もなく消し去ってしまいたいと、私がいまここで「欲する」ことなのである。
もしすべての軌跡を跡形もなく消し去ることができたとしたら何が起きるかというと、私が生まれ出たことによって生起したすべての出来事の痕跡が宇宙全体から消去され、またその消去された世界を確認すべき私の存在もまた同時に宇宙から消去されるのである。そして、この世界は、私が生まれてくるという出来事が過去において一切起きなかったような世界として、私の存在しないいまここに現われ出るということになる。すなわち、「生まれてこなければよかった」とは、「私が生まれてくるという出来事が過去において起きなかった」という歴史を持つ世界が、私の存在しないいまここでありありと実現することを、私がいまここで心から欲することなのである。これが「生まれてこなければよかった」という命題の正確な意味であると私は考える。
世界から私を消してしまうことだけならば、単に自殺をすればよい。だが、「生まれてこなければよかった」というのは、それ以上のことを要求する。これまで私が生きてきたすべての軌跡を宇宙から消し去らないといけないからである。そんなことは実行不可能に決まっている。自殺は実行可能だが、「生まれてこない」ことは実行不可能だ。すなわち、「生まれてこなければよかった」というのは、自殺よりもさらに難度の高い、誰が何をしようとまったく実行不可能なことがらを心から欲することになるのである[3]。
しかしここで、もう一つの問題が生じる。すなわち、この言葉は実行不可能なだけではなく、そもそも理解不可能なのではないかという問題である。「比較」が不可能だったと同じくらいの強さでもって、この言葉が意味する内容は「理解」不可能なのではないかというわけである。すなわち、「「私が生まれてくるという出来事が過去において起きなかった」という歴史を持つ世界が、私の存在しないいまここでありありと実現する」とは、いったいどういうことなのかを、すでにいまここに存在してしまっている私がその存在を続けながら「理解」することができてはならないのである。では死んで無になれば理解できるかというと、それでもやはり理解できない。
この理解不可能性の問題は回避できないように私には思われる。すなわち、「生まれてこなければよかった」という言葉は、「「私が生まれてくるという出来事が過去において起きなかった」という歴史を持つ世界が、私の存在しないいまここでありありと実現することを、私がいまここで心から欲することなのである」というふうにパラフレーズすることはできるが、その内容が何を意味するのかを正確に理解することはできないし、それを実現することもできない、ということになるのである。
では、理解不可能であり、実行不可能でもあるような状態になることを、私は本当に「欲する」ことができるのだろうか。存在と非存在の比較は不可能であったが、存在が非存在になることを欲することは本当に可能なのだろうか。私は可能だと考える。
まず、理解不可能な状態になるのを欲することが可能であるのは、人が自殺することが可能であるのを見れば分かる。自分が死んでいるという状態は私にとって理解不可能であるが、私は自殺を欲することができる。また、実行不可能なことを欲することができるのは、我々が「あの頃に戻りたい」と欲することができるのを見れば分かる。したがって、私は、理解不可能であり実行不可能でもある「生まれてこない」状態を、欲することができるのである。
「生まれてこなければよかった」という言葉がどういう欲求であるのかをさらに探るために、自殺を例にとって考えてみたい。自殺を欲するあり方には、「私は死にたい」というものと、「私なんか死んでしまえばいい」というものがある。この二つは似ているがニュアンスが異なる。「私は死にたい」は直接的に自殺を欲しているのであり、状況さえ許せば本当に自殺の行為へと結びつくものである。これに対して「私なんか死んでしまえばいい」は、自殺を欲する気持ちはあるものの、何かしらの留保がまだ残っている。つまり、何かのためらいが残っていたり、他人から声をかけてほしいといった期待が残っていて、まだ直接的に自殺へと結びつくまでには距離がある。すなわち、自殺への欲求には、直接的にそれを欲する場合と、何かの留保付きでそれを欲する場合があるのだ。
この区別を「生まれてこない」ことに適用すれば、以下が言えるはずである。まず、直接的に「生まれてこないこと」を欲するあり方があり得る。それをあえて言葉にしてみれば、「生まれてこなかったという状態になりたい」というふうになるだろう。日本語として奇妙な表現であるが、その意味するところは明瞭である。これに対して、何かの留保付きで「生まれてこないこと」を欲するあり方が考えられる。まさにこれこそが「生まれてこなければよかった」という表現になるはずである。それはすなわち、直接的に「生まれてこないこと」を欲するわけではなく、そのような状態を望みつつも何かのためらいや、他人からの援助などのアプローチへの期待が残存しているようなあり方であり、その留保のあり方が「××ならばよかった」という言葉づかいによって間接的に表現されているからである。
ところで、自殺の場合とは異なり、「生まれてこないこと」は実行不可能なのであった。したがって、「生まれてこないこと」を直接的に欲するあり方は、すぐさま挫折することとなる。そしてまた、何かの留保付きで「生まれてこないこと」を欲するあり方も同様に、つねに留保付きの状態のままで留まらざるを得ないことになる。かくしてこの二つのあり方は、実行不可能の壁の手前で同じような姿勢で留まらざるを得ないことになり、その結果として、この二つは同じような意味として認識されることとなる。ここにおいて、「生まれてこなかったという状態になりたい」という言葉は、「生まれてこなければよかった」という言葉へと事実上吸収される。
以上のプロセスの結果として、「生まれてこなければよかった」という言葉には、次の二つのニュアンスが混在することになる。すなわち、(1)「生まれてこなかった」という状態を欲するのだが、それは実行不可能なので、その欲求はあきらめや挫折に行き着かざるを得ないというニュアンス、(2)「生まれてこなかった」という状態を欲するのだが、その欲求には何かの留保が付いているというニュアンス、の二つである。
以上の考察から分かるのは、「生まれてこなければよかった」とは、「私が生まれてくるという出来事が過去において起きなかった」という歴史を持つ世界が、私の存在しないいまここでありありと実現することを、私がいまここで心から欲することなのであるが、それはそのことをストレートに欲するようなあり方ではなく、そのことをあきらめや挫折や留保を伴って欲するようなあり方である、ということだ。そしてまたそれは、「私が生まれてこなかった」とはどういうことかという具体的な内容を私が理解することが不可能であるにもかかわらず、それを目指そうと欲することであり、「生まれてこなかった」という状態を実現するのが不可能であるにもかかわらず、その実現を目指そうと欲することなのである。このように、「生まれてこなければよかった」は、非常に深い意味での挫折が運命づけられたあり方だと言えるのである。
4 「生まれてこなければよかった」のもうひとつの解釈
ところで、私たちが実際に「生まれてこなければよかった」という言葉を発するとき、ふつうはその言葉の前に何かの限定条件が付いていることがほとんどであると思われる。すなわち、「生きているのがこんなにつらいのならば、生まれてこなければよかった」とか、「みんなにこんなにいじめられるのならば、生まれてこなければよかった」というふうに。このような言葉を発するときに、それが意味するものは、前節で述べたようなものとはまったく異なっている可能性がある。
たとえば、「生きているのがこんなにつらいのならば、生まれてこなければよかった」を例にとって考えてみよう。それが意味しているのは、「私が生まれてこなかったという歴史を持つ世界がいまここで実現することを欲する」というものではなく、「生きているのがこんなにつらくないような世界がもしどこかにあるとすれば、私はそのような世界へと生まれてくればよかった」というものである可能性がある。たとえば、「みんなにこんなにいじめられるのならば、生まれてこなければよかった」というのは、「みんなにこんなにいじめられるのではないような世界がもしどこかにあるとすれば、私はそのような世界へと生まれてくればよかった」を意味している可能性がある。私が生まれてきていないことを欲するのではなく、私が別のあり方をした世界へと生まれてきていることを欲するのである。この二つは、その目指す方向性がまったく逆である。
すなわち、このような限定条件が付いている場合、たとえ「生まれてこなければよかった」という言葉が実際に使われていたとしても、その文章の全体が真に意味しているのは、「生まれてきていない」ことへの希求ではなくて、別のあり方をした世界へと「生まれてきている」ことへの希求である場合があるのである。「生まれてこなければよかった」という言葉を用いつつも、全体として目指されているのは「私の無」ではなくて、別のあり方をした世界における「私の有」なのである。前節で述べた解釈を、「生まれてこなければよかった」についての「無化解釈」と呼び、いま述べた解釈を、「生まれてこなければよかった」についての「別世界解釈」と呼ぶことにしよう。別世界解釈を定式化しておけば、「生まれてこなければよかった」とは、現状とはまったく内容の異なる世界がもしあり得るとして、その世界では私のかかえている深刻な問題が解決されているとするならば、そのようなあり方を持つ世界のなかに私は生まれてきたかった、と私がいまここで心から欲することなのである。最後の2文節をさらに正確に言い換えるならば、「そのようなあり方を歴史として持つ世界が、いまここでありありと実現することを、私がいまここで心から欲することである」となる。注意すべきは、そのような世界をいまこれから作り上げていくのではダメだという点である。そのような状況がすでに過去の歴史として成立してしまっているような世界に、私は生まれてきていなくてはならないというのである。この差異は微妙だが、大事な点である。
「生まれてこなければよかった」の別世界解釈は、その無化解釈にはない大きな特徴がある。無化解釈においては、生まれてこなければよかったという欲求がもし満たされたとして、それが満たされたときの世界や私がいったいどういう状況であるのかを私が理解することはできないのであった。なぜなら、その状況を理解するはずの私という存在者がそこにはもはや存在しないからである。ところが、別世界解釈においては、別の世界へと生まれてきたかったという欲求がもし満たされたとして、それが満たされたときの世界や私がどういう状況であるのかを私は理解することができる。なぜなら、そのとき、私は別のあり方をした世界のなかにすでに存在しているわけであるから、その私が経験するであろう世界の状況や私自身の状況というものを、その私は理解することができるはずだからである。別世界解釈は、理解可能性へと開かれているのである。しかしながら当然のこととして、そのような別世界をいまここで実際に生成することは不可能であるから、実行可能性はないと言わざるを得ない。
以上の議論を参考にして、「自殺」「〈生まれてこなければよかった〉の無化解釈」「〈生まれてこなければよかった〉の別世界解釈」について、それらの「理解可能性」「実行可能性」との関連を表にまとめると、以下のようになる。
|
理解可能性 |
実行可能性 |
自殺 |
× |
○ |
無化解釈 |
× |
× |
別世界解釈 |
○ |
× |
表1
ところで、これらの議論の背後には、そもそも「××でなければよかった」「××しなければよかった」とはいったいどういうことか、という問題が潜んでいるように思われる。その点について少しだけ考えてみたい。
たとえば、私があるときに子どもと一緒に外出したのだが、その子が道で車にはねられて死んでしまった、という出来事があったとする。そのときに、私は「あのときに子どもと一緒に外出しなければよかった」と思い、後悔するであろう。そしてその後悔は一生続くかもしれない。では、「あのとき子どもと一緒に外出しなければよかった」とは、どういう意味なのだろうか。それは、外出の直前の時点にまで時間を巻き戻して、その時点から自分の人生を新たにやり直し、子どもと外出をしないという選択をしたあとに引き続いて起きるであろう人生でもって、その後の現実の人生をすっかり置き換えてしまいたい、という意味であるように思われる。
自分の行為ではなく、外的な自然現象や事故による場合でも、同じことが言える。たとえば、「大地震が起きなければよかった」を例に取ってみる。それは、大地震の直前の時点にまで時間を巻き戻したうえで、仮に大地震が起きないという歴史がその時点から進行していったときに、そこから引き続いて起きるであろう私の人生でもって、その後の現実の人生をすっかり置き換えてしまいたい、という意味である[4]。
では、その重大な出来事が起きる分岐点を、私がこの世界へと生まれてきたときにまで巻き戻したらどうなるだろうか。これは私が生まれてきたときを時点として指定できるという仮定に基づいた話となるが[5]、その場合に二つの解釈が可能であることが分かる。
ひとつは、時間を私が生まれてきたときにまで巻き戻したうえで、私がそこから別の内容を持った人生を新たにやり直し、そのあとに引き続いて起きるであろう人生でもって、その後の現実の人生をすっかり置き換えてしまいたい、という解釈である。これは、「生まれてこなければよかった」の別世界解釈と同じになる。もうひとつは、時間を私が生まれてきたときにまで巻き戻したうえで、私が生まれてくるということが起きない歴史を生じさせ、そのあとに引き続いて起きるであろう歴史でもって、その後の現実の歴史をすっかり置き換えてしまいたい、という解釈になるであろう。これは、「生まれてこなければよかった」の無化解釈と同じになる。
このように考えれば、「××でなければよかった/しなければよかった」という側面から、「生まれてこなければよかった」の意味を統一的に解釈することができるようになる。
上で検討した三つの場合すべてにおいて、それを実行することは不可能である。であるから、「××でなければよかった/しなければよかった」というのは、実行不可能なものに向かって人を追い込んでいくような機能を持った言葉であることになる。「生まれてこなければよかった」という言葉の持つ「絶望」感覚の一端は、この「××でなければよかった/しなければよかった」という形式から発していると考えられる。
ひとことでまとめれば、「××でなければよかった/しなければよかった」とは、いまここで成立している生のあり方を受け容れることができないがゆえに、その生のあり方から自分を脱出させようとし、その生のあり方を準備したところの人生の軌跡(の一部)を過去に戻って消し去りたいという実行不可能な行為へと自分を追い詰めていこうと欲することである。
「××でなければよかった/しなければよかった」を考察するときに忘れてはならないことがある。それは、この欲求がある種の暴力性をはらんでいるということである。たとえば、外出によって子どもが死んでしまったケースで考えてみよう。「外出しなければよかった」とは、外出の直前の時点から自分の人生を新たにやり直し、子どもと外出をしないという選択をしたあとに引き続いて起きるであろう人生でもって、その後の現実の人生をすっかり置き換えてしまいたいということであるが、それはまた、外出後に事故が起きて、それから様々な人々が駆けつけたり、医療措置を施したり、見舞いに来たり、葬式で涙を流したり、残された自分のことを心配してくれたり、心の支えになろうとしてくれたりして、私のその後の現実の人生に陰に日向に関わってきてくれた人々の好意や善意や援助の行ないを、すべて一方的に「なかったこと」にしたいという欲求でもあるのだ。私の人生は私だけによって構成されているのではない。私の人生は、私へと関わりを持とうとするすべての人々の気持ちや行為が織り込まれているのである。「××でなければよかった/しなければよかった」という欲求は、そのような他人からの関与を一方的に無化してしまう暴力性をはらんでいるのである。
5 死によってすべてが無になってしまうのなら、生まれてこなければよかった
ここで少し視点を変えて、以下のようなケースを考えてみよう。
死によってすべてが無になってしまうという観念にとらわれている者にとって、自分が死ななければならないのは最大の不条理のひとつである。死によってすべてが無になってしまうのは、どのようにしてもけっして変えることのできない運命のようなものだとその人は考える。その人は、「死んでも別の世界に生まれ変わる」とか「死後に永遠のいのちを得ることができる」といくら説得されても、どうしても信じることができない。その人は、どうして「死によって無になることが運命づけられた人生」を自分は生きなければならないようになっているのだろうと自問する。そして「死によってすべてが無になってしまうのなら、生まれてこなければよかった」と心の底から思う。
これはたしかに極端な例である。しかしこの極端な例を考察することをとおして見えてくるものがある。
まず予備的作業として、次の二つの言葉を考えてみる。
「生きているのがこんなにつらいのなら、死んでしまいたい」
「生きているのがこんなにつらいのなら、生まれてこなければよかった」
どちらの言葉も、それを発する人間の気持ちを容易に察することができる。いま生きているのがすごくつらいから、いまのこの状態を捨てて、どこかへ別の場所へと逃げ出してしまいたいのである。その逃げ出す先が未来の無であれば「死んでしまいたい」となり、過去の無であれば「生まれてこなければよかった」となる。
では、次の二つの言葉はどうであろうか。
「死によってすべてが無になってしまうのなら、死んでしまいたい」
「死によってすべてが無になってしまうのなら、生まれてこなければよかった」
まず後者の「生まれてこなければよかった」のほうを発する人間の気持ちは、容易に察することができる。死によってすべてが無になってしまうような人生に生まれてくるくらいなら、いっそのこと生まれてこなければよかったというのである。なぜ自分は、死によってすべてが無になってしまうような人生へと生まれてきたのであろうという呪詛の念が表現されている。これに対して、前者の「死んでしまいたい」のほうを発する人間の気持ちを理解するのは難しい。死によってすべてが無になってしまうことを許容できないわけであるのに、それにもかかわらず、そのような無をもたらす死へと飛び込んでいきたいというのは極度に自己矛盾している。死によってすべてが無になってしまうことを避けたいということなら、この前者の言葉は錯乱した者の言葉でしかあり得ない。
この二つを比較してみて分かることがある。それは、「死によってすべてが無になってしまう」という悪夢のようなことがらを解消するためには、自殺はまったく役に立たないということである。「死によってすべてが無になってしまう」という悪夢のようなことがらを解消するためには、過去へと戻って、「私が生まれてこない」という状態を作り出すしか方法がないのである。そのように考えるとするならば、「死によってすべてが無になってしまうのなら、生まれてこなければよかった」という言葉の、より深い意味が明らかになるはずだ。すなわち、その言葉が意味しているのは、「もし私が生まれてこなければ「死によってすべてが無になってしまう」ということすら起きなかったであろう」ということであり、「「私が生まれてこないこと」によってのみ、「死によってすべてが無になってしまう」ことが完全に予防される」ということなのである。もし「私に死が襲ってくる」ことから完全に逃げたいのなら、それは「私が生まれてこない」ことによってのみ可能になるはずだ、というわけである。
「死によってすべてが無になってしまう」ことは、自殺によっても解決されない。ただし、自殺によってもけっして解決されないことは、他にもたくさんある。たとえば、私がなにかひどいことを他人にしてしまったとき、その他人が受けた心の傷は、私が自殺することによっては解決されない。私が他人を殺してしまったとき、その他人の家族が受けた心の傷や精神的な損害は、私が自殺することによっては解決されない。このような、自殺によってはけっして解決されないことを、根本から解決したいという気持ちが沸き起こってきたときに、それを解決するかもしれない観念として「生まれてこなければよかった」というものが浮上してくると言ってもよい。自殺によって解決されないことは、「生まれてこないこと」によって解決するしかないということなのだ。
ここまで考察してみて分かるのは、「生まれてこなければよかった」という言葉の根本に流れる情念とは、これからの人生をどのように生きてみたとしてもそれによってはけっして解決できないと思われるどうしようもない悪夢のようなことがらがあり、また私が自殺したとしてもけっしてそれは解決できないようになっているときに、「それを最終的に解決する手段として「私が生まれてこないこと」がもし可能だとしたらそれによってはじめてその悪夢のようなことがらを完全に予防できただろうに」と思い、その観念へと自分を追い詰めていこうとする情念なのである。しかしながら、すでに何度も述べたように、このような方向への情念は空回りするだけである。「生まれてこないこと」を実現するのは不可能だからである。この情念の空回りは、深い絶望を呼び起こすであろう。自分を無にしたいというもっとも深い形の情念によって突き動かされているのに、そのような形で自分を無にすることは断崖絶壁のような障害によって阻まれているからである。
しかしながらこのような情念によって突き動かされる人間は、「「生まれてこないこと」を実現することが不可能ならば、せめて自殺することでみずからを無にしよう」と考えて、自殺を実行するかもしれない。「生まれてこなければよかった」から「自殺」へと移行するこのような流れは、論理的とは言えないが、その背後にある心の力動を理解することは可能である。だが自殺によって当初の問いが解決されないことはすでに述べたとおりである。
自殺によっても解決しないし、かといって「生まれてこないこと」は不可能であるとすれば、残された道はただひとつだけ、すなわち生き続けることによって新たな形の創造的解決あるいは運命との和解を模索していくしかないのである。
6 「生まれてきて本当によかった」とは何か
ここまで、「生まれてこなければよかった」について考察してきた。それを参考にすることで、「生まれてきて本当によかった」という言葉[6]が正確に何を意味するのかについて一歩踏み込んだ考察をすることができるはずである。
その前に、「生まれてきて本当によかった」という言葉になぜ「本当に」が追加されているかを説明しておきたい。「生まれてこなければよかった」に対応するのは、語義上は「生まれてきてよかった」である。しかしながら、「生まれてきてよかった」だけだと、「よかった」という言葉に本来潜在的に含まれているところの感謝の念をよりよく表現することができないように私には思われる。であるから、私はこれに「本当に」を追加し、「生まれてきた」ことに対する深い感謝の念を明示的に表現しているのである。このように、「本当に」という言葉は、「よかった」という言葉を強調する役割しか担っていないので、「生まれてきてよかった」と「生まれてきて本当によかった」のあいだに根本的な意味上の違いはないと考えてよい。
本題に戻ろう。まず、「生まれてきて本当によかった」という言葉は、「生まれてきたことと、生まれてこなかったことを比較すれば、生まれてきたことのほうがより良い」ということを意味しているわけではない。これは前節までの考察によってすでに明らかである。
語義的に考えて、「生まれてきて本当によかった」は、「生まれてこなければよかった」の正反対の意味であると考えられる。ということは、「生まれてこなければよかった」の無化解釈と別世界解釈にそれぞれ対応した意味内容があると思われる。それらを順番に考察してみたい。
「生まれてこなければよかった」の無化解釈は、「私が生まれてくるという出来事が過去において起きなかった」という歴史を持つ世界が、私の存在しないいまここでありありと実現することを、私がいまここで心から欲することであった。まずこの文章の動詞部分に着目してみる。すなわち、「生まれてこなければよかった」というのは、現状を否定したうえで、現状ではない状態を「欲する」ものであった。
ところが、これに対して、「生まれてきて本当によかった」というのは、その逆であり、「生まれてきた」ことを基本的には肯定するものである。「生まれてきた」ことに関して、基本的にそれで良いと思い、それを受容し、そのことを感謝し、そのことに対して自己充足するような姿勢を表現している。すなわち、「生まれてきて本当によかった」とは、「私が生まれてくるという出来事が過去において起きた」という歴史を持つ世界が、いまここでありありと実現していることを私が肯定し、受容し、そのことに感謝し、そのことに対して自己充足することである、ということになる。このような肯定や受容は私にとって理解可能であるし、また実行可能でもある。肯定し受容するとはどういう意味かと言えば、それは、「私が生まれてくる」ことが世界に起きたという件について、それが他のようなあり方、すなわち「私が生まれてこない」というあり方である必要はなかったと私が心の底から思えるということである。
では、別世界解釈ではどうなるだろうか。「生まれてこなければよかった」の別世界解釈は、現状とはまったく内容の異なる世界がもしあり得るとして、その世界では私のかかえている深刻な問題が解決されているとするならば、そのようなあり方を持つ世界のなかに私は生まれてきたかった、と私がいまここで心から欲することであった。これを参照しつつ「生まれてきて本当によかった」の意味を考えれば、次のようになるだろう。すなわち、「生まれてきて本当によかった」とは、現状とはまったく内容の異なる世界がもしあり得るとして、たとえその世界では私のかかえている深刻な問題が解決されていたとしても、そのようなあり方を持つ世界のなかに私は生まれてきたかったと私がいまここでけっして心から欲したりしないことである、ということになる。
この別世界解釈については注釈が必要である。もし現状とはまったく内容の異なる世界があったとして、そこには、私にとって現状よりもさらにより良い状態が実現されている可能世界が含まれるであろう。たとえば現状とほとんど同じ世界であるが、現状の世界のつらいことや苦しいことのいくつかが楽しいことや気持ちいいことに置き換わっているような世界が、その一例として考えられる。快楽の総和の大きい方が望ましい世界であるというふうに考えると、現実のこの世界よりも、その可能世界のほうがより良い世界だということになる。そしてこのような可能世界は、無数に考えられるであろう。
しかしそのような可能世界が無数に考えられるにもかかわらず、そのようなあり方を持つ世界のなかに私は生まれてきたかったと私がいまここで心から欲したりしないというのが、「生まれてきて本当によかった」の別世界解釈の核心部分なのである。隣の青い芝がたくさんあることはよく分かっているが、しかし私は自分の庭で満足であり、隣の青い芝のほうにあえて行こうとは思わないということである。ここにおいては、「もし現状と、より良い可能世界の両方の選択肢が与えられたら、自分にとってより良い世界を選択するのが合理的であるはずだ」という推論は成立しない。自分にとって現状よりもより良い可能世界はあるかもしれないが、自分はそのような可能世界に生まれてきたかったとはけっして思わないし、この世界に生まれてきて今日まで生きてきたことに後悔はない、と心の底から思えるということである。「生まれてきて本当によかった」とは、そういうことなのである。
これが意味するひとつのインプリケーションは次のものである。先天的な身体障害を持って生まれてきた人間について、もし仮にその人間が身体障害を持たずに生まれてくるという選択肢があったとしたら、身体障害を現に持っている人間は、身体障害を持たずに生まれてくるという選択肢を選ぶであろう、という議論がある。これは一見するともっともらしい論なのであるが、「生まれてきてよかった」の視点からすれば一面的な考え方にすぎない。
身体障害を持って生まれてきたある人間に、現状の世界と、自分が身体障害を持たずに生まれてきた世界の両方を提示して、「どちらが自分にとってより良い世界か」と聞いたとしよう。その人間は、現状の世界のほうが自分にとってより良い世界だと答えるかもしれないし、あるいはまた、身体障害を持たずに生まれてきた世界のほうが自分にとってより良い世界だと答えるかもしれない。その同じ人間に、今度は、「仮に身体障害を持たずに生まれてくるという選択肢があったとしたら、その選択肢を選ぶかどうか」と聞いたとしよう。このときに、最初の問いに対して「身体障害を持たずに生まれてきた世界のほうが自分にとってより良い世界だ」と答えたにもかかわらず、次の問いに対して「仮に身体障害を持たずに生まれてくるという選択肢があったとしても、自分はその選択肢は選ばない」と答える人間がいてもかまわないのである。そしてそのような態度こそが、「生まれてきて本当によかった」と心の底から思っている人間のひとつのあり方なのである。「生まれてきて本当によかった」と思っている人間は様々な姿を取るが、いま述べたような態度もそのうちのひとつである[7]。
すなわち、「どちらがより良い世界か」ということと、「どちらの世界に生まれてきているという状態を選択するか」ということは、一直線には結びついていないのである。「自分が身体障害を持たない世界」のほうがより良い世界だと考えながらも、「自分が身体障害であるというこの世界へと生まれてきている」という選択肢のほうを理性的に選ぶということがあり得るのである。このような選択が合理的でないとする論者は、合理性の解釈をきっと間違えているのだと私は思う。この点については、選択や選好における合理性とは何かという観点から哲学的に再考しなくてはならない。それについては別の機会に行ないたい。
もうひとつ考えておかなければならないのは、次のことである。すなわち、この別世界解釈は、現状のこの世界に生まれてきたことを肯定し、受容し、そのことに感謝し、そのことに対して自己充足することなのであるが、それはけっして、現状のこの世界のあり方が自分にとってもっとも素晴らしい最高の世界であるということを意味しないということだ。自分は現状のこの世界に生まれてきたことを肯定し、受容し、そのことに感謝し、そのことに対して自己充足するのであるが、しかし現状のこの世界よりも良い世界は無数にあり得るし、現状のこの世界やこの世界を作り出した歴史の中には繰り返されてはならないことや改善すべきことがたくさんあるということを、私は率直に認めなければならない、ということである。現状のこの世界に生まれてきたことを、「生まれてきて本当によかった」と肯定し、受容するのであるが、それと同時に、現状のこの世界には繰り返されてはならない暴力や、搾取や、殺戮や、悲劇があふれていることを、認めなければならないのである。現状のこの世界に生まれてきたのを肯定することと、繰り返されてはならない暴力や搾取などが現状のこの世界に存在するのを認めることは、けっして矛盾しない。それは両立する。「生まれてきて本当によかった」とは、それらが両立することを自覚しつつ、現状のこの世界に生まれてきて本当によかったと心の底から思うことなのである。
現状のこの世界を心底肯定するがゆえに、現状のこの世界に存在する暴力や搾取だけでなく現状のこの世界を作り出してきた暴力や搾取をも含めて全世界と全歴史を肯定しなければならないし、それらの暴力や搾取などがたとえもう一度繰り返しこの世界に巡ってきたとしてもそれを肯定する必要がある、とまで言い切ったのがニーチェの「永遠回帰」の思想であるが、それは断固として否定されなければならない。私の2011年論文でも述べたように、ニーチェは誕生肯定の思想の始祖のひとりであり、その重要性は強調してもしすぎることはないが、しかしニーチェの辿り着いたこの思想はなんとしても却下しなければならないと私は強く思う。
7 おわりに
以上の考察は、さらに様々な角度から深めていかなければならない。たとえば、「生まれてきて本当によかった」の無化解釈と別世界解釈が、互いにどのように関わっているのかについて、本論文では議論できなかったが、その考察はぜひとも必要である。また、肯定し、受容し、感謝し、自己充足すると述べたが、それを正確に説明するとどういうことになるのかについても、さらなる解明が必要である。これは、そもそも世界全体を肯定するとは何をすることか、世界全体を否定するとは何をすることかという論点につながっていく大問題である[8]。また、そもそも「生まれてくる」とは何なのか、についても考えていく必要がある。「生まれてくる」ことすなわち「誕生」については2011年論文で考察したが、不充分である。「誕生」概念についての哲学的掘り下げをしなくてはならない。
これらの作業を今後順次行なっていくことをここに記して、本論文を終えることとしたい。
文献
Benatar , David. (2006) Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence. Oxford University Press.
森岡正博(2011)「誕生肯定とは何か:生命の哲学の構築に向けて(3)」『人間科学:大阪府立大学紀要』6、173-212頁。(リンク)
森岡正博(2013)「「生まれてくること」は望ましいのか:デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』について」(リンク)。
註
[1] 森岡正博「「生まれてくること」は望ましいのか:デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』について」
[2] ベネターの誤謬は、本論文で後に述べる「無化解釈」と「別世界解釈」を混同しているところから来ると言えるのかもしれない。この点についてはさらに慎重に考察する必要がある。
[3] この点については上記拙論「誕生肯定とは何か:生命の哲学の構築に向けて(3)」において述べたことがあるので参照してほしい。
[4] もちろん、「××でなければよかった」と「××しなければよかった」の違いを厳密に考察する作業はなされなくてはならない。
[5] 誕生の哲学から言えば、この仮定は不可能だということになる。しかしながら本文の思考実験はそれとは無関係に成立すると私には思われる。
[6] ベネターは、「生まれてきて本当によかった」に対応する英語表現として、“I am glad to have been born” と“It is better that I came into existence” を区別する。そして真に考察されるべきは後者であると示唆する。ベネターの志向性はこのあたりに明瞭に現われている。しかしながらこれまでの私の議論に従えば、後者は偽の問いであり、真に問われるべきは前者であることになるはずである。Benatar (2006), p.58.
[7] 他には、たとえば、どちらの世界がより良いということは言えないから、自分は現状の世界を選択する、という態度などがあり得る。
[8] 「世界全体を肯定すること」と「世界全体を否定すること」が、それぞれ厳密に何を意味するのかは、それほど明瞭ではない。また、この二つは一見すると正反対であるように見えるが、ブッダの悟りのように、後者を経て前者へと開けるような形でこの二つが重なり合わされる可能性もある。またその場合でも、この二つは相即なのか展開なのかについて考察が必要である。