LIFESTUDIES.ORG/JP
ホーム > 論文・エッセイ > このページ |
作成:森岡正博
掲示板|プロフィール|著書|エッセイ・論文 English Pages | kinokopress.com |
論文
The Review of Life Studies Vol.3 (March 2013):1-9
「生まれてくること」は望ましいのか
デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』について
森岡正博
1 はじめに
筆者は、吉本陵と共同執筆した2009年の論文「将来世代を産出する義務はあるか?:生命の哲学の構築に向けて(2)」において、人類には将来世代を産出する義務があるかという問題、すなわち、人類は本当に次世代を産出し続けなければならないのか、次世代産出をやめて静かに滅びていくことは許されないのかという問題を哲学的に検討した。その問題意識は、ハンス・ヨーナスの「将来世代への責任」論に触発されて浮上したものであった。ヨーナスは、人類には将来世代への責任があり、それは倫理的な命法なのであって、すべての人類に課せられると主張する。しかしその主張を行なうためには、その基盤として、そもそも人類に将来世代を産出する責任あるいは義務がなくてはならないはずである。
その点を明確にするために、まず吉本陵は、ヨーナスの主張を検討し、ヨーナスが次世代産出の義務を主張していることを確認した。次いで森岡は、この問題をヨーナスから切り離して考察し、以下の結論を得た。
(A)われわれには将来世代を産出する最低限の義務がある。それは、「「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みをする義務」である。
(B)「われわれには将来世代を産出し続ける絶対的な義務がある」という考え方は、必ずしも成立しない。
(C)女性の産まない選択を尊重して人類を「穏やかな自己消去」に導く立場も、人類の持続的な維持を最優先して女性の産まない選択により大きな制限をかける立場も、理論的には成立し得る。しかしこの二つの立場は、調停不可能である。[1]
私の結論は、人類には将来世代を産出する最低限の義務はあるが、しかし将来世代を産出し続ける絶対的な義務はない、というものであった。これはヨーナスの倫理学に反するものであり、また一般的な常識とも衝突するものであると考えられた。一般的な倫理から言えば、人類はできるかぎり長く存続していくべきであり、たとえそのような規範がなくとも人類は勝手に子どもを生み続けて存続していくであろうというものになると考えられるからである。
以上が、私の思考実験であった。その論文を刊行した後に、同様の問題意識にもとづいてこの問いを考察し、「人類には将来世代を産出する義務がないばかりか、なるべく早く絶滅するべきである」と主張する哲学書があることを知った。それが、南アフリカの哲学者、デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』(2006年)である[2]。この本は、分析哲学の手法を用いて、「生まれてこなければよかった」という命題を緻密に考察するものである。その結果として、ベネターは、すべての人間は生まれてこないほうが良かったという結論を導き、さらには、人類はなるべく早く滅亡したほうがいいと主張するに至るのである。ベネターの立場は、分析哲学においては「反―出生主義anti-natalism」というカテゴリに属しており、彼の考察は英語圏の哲学において最近とみに注目を集めている。(反―出生主義のもっとも有名な主張者は、アルトゥル・ショーペンハウアーである)。
本論文では、ベネターの同書での議論から、将来世代の産出義務と、「生まれてくることの害悪」論を紹介し、検討していくことにする。
2 ベネターの人類絶滅論
ベネターの「生まれてくることの害悪」論によれば、どんな人にとってもこの世に生まれてくることは、生まれてこないよりも、かならず悪い。これは生まれてきた本人が、生まれてきたことについてどう思っているかにまったく関係なしに、論理的にそのようになっているのだとベネターは主張する。その理由については次節で詳しく紹介するとして、もしこのような前提を採用するならば、我々が子どもを産んでいくことは、より悪い人生をこの世に生み出し続けていくことになるから、それは避けなければならないことになるのは当然である。
ベネターは言う。「「何人の人間が存在すべきか?」という問いに対する私の答えはと言えば、「ゼロ」である。すなわち、人間は存在すべきであったなどとはまったく思わないのである。そして、たとえこれまで人間が存在してきたという根拠をもってしても、それが今後も続くべきだとはまったく思わないのである」(p.182)。このようにして、彼は未来において人間が存在すべきだという考え方を否定する。
ベネターによれば、人類の絶滅こそが人類の目指すべき道である。
考えるべき問いは、絶滅が良い[3]か悪いかということではなく、どのようにして絶滅するかという道筋である。ところで、絶滅を目指して人口を減らしていくときに、人類のQOLが低下する場合がある。その道筋は二つあり得る。
第一に、もし低い出生率によって人口があまりにも急激に減少した場合、生産性のない高齢者が増大するので、人類のQOLは低下する。このようなケースでは、若年層の人々は、以前のようなQOLを全人口に与えられるほどの生産をすることができない。
第二に、新しい世代の人口がある閾値を下回ってしまって、そもそも人々の絆を維持することができなくなる場合である(ベネターはアダムとイブを例にとって極端な思考実験をしている)。このときも人類のQOLは低下する。
人類の絶滅は必要だが、人口を不用意に減らすことで現存している人間に害悪を加えることは避けなければならない。また、閾値を下回って害悪を被る人々の数も減らすべきである。それは、人類の数を一定の割合で徐々に消し去っていくことによって成し遂げられるだろうとベネターは言う(pp.182-184) 。
ベネターのこの議論は、私が2009年論文で行なった縮小的絶滅論と同じものである。もし人類の絶滅を目指すのならば、こういう形しかあり得ないという点では、私とベネターは意見を同じくしている。しかしながら、彼は引き続いて以下のようなところにまで進んでいくのである。
ベネターは言う。
人類の絶滅について言えば、人類の絶滅は引き延ばされてはならず、むしろ早く起きれば起きるほど良いと考えられるit would be better if this occurred sooner than later (p.194)。しかしながら、最後の世代が負うことになる害悪は、もっともシビアなものとなるであろう。なぜなら彼らは、人類の未来に向けた希望や欲望というものを持つことができず、もっとも極端な形でそれを遮断されるからである。しかも彼らは、解体した社会システムの中で暮らさなくてはならない。若い人たちはもう存在しないから、誰も助けてくれないのである。
人類はいずれ絶滅するのである。そしていつその絶滅が訪れようとも、最後の世代が被る被害は甚大なのである。だとしたら、これらの被害を先延ばしにすることで得られるものは何ひとつない。しかしながら、もし絶滅が早めに起きるならば、絶滅を引き延ばすことによる不必要な被害を避けることができる。したがって、数世代のうちに絶滅するほうが、無数の世代を経て絶滅するよりも望ましいと言えるのである(p.198)。
人類の存在しない世界は悪いものではない。人間やその他の意識ある存在がいない世界は、もし絶滅が起きなければ存在していたであろうそれらの存在にとって、悪かろうはずはないのであるA world without any humans (or other conscious beings) cannot be bad for those who would have existed had extinction not occurred (p.199)。それらの存在がいない世界は、かくして、より良い世界である。そのような世界には害悪がないからであるA world devoid of such beings is, in this way, a better world. There is no harm in such a world (p.199)。
このようにベネターは、人類の絶滅は早いほうが良いし、人類や意識的存在のいない世界は良い世界だと結論付けている。注目すべきは、この結論を出すに当たって、「意識存在のいない世界は、そこに生まれていたかもしれないが実際は生まれることのなかった人間にとって、良い世界である」という価値判断をベネターが行なっている点である。意識存在のいない世界には、そもそも判断主体が存在しないはずなのに、どうしてこのような判断をすることが可能だとベネターは思っているのだろうか。それを見るために、次節ではベネターの議論の核心部分である、「生まれてくることの害悪」論を検討してみたい。
3 ベネターの「生まれてくることの害悪」論
ベネターによれば、「生まれてくること」は常に害悪であるcoming into existence is always a harm (p.29)。すべての生はいくばくかの悪いことbadを含むが、ほんの少しでもそのような悪いことを含むような生は、常に害悪である。ちょうど、ほんの少しでも染みの付いた白衣は汚れていると言わざるを得ないのと同じだと考えると分かりやすいであろう。それに比べて、そもそも生まれてこなければ、悪いことによって汚されることはいっさいなく、どこにも害悪は発生しない。したがって、「生まれてくること」と「生まれてこないこと」を比較してみれば、「生まれてこないほうが、より良かった」ということになるというのが、ベネターの発想の概略である。
しかしそのように言われても、生まれてきたときには良いことgoodも経験するはずであるが、生まれてこなければ良いことは経験できない。だとしたら、良いことを経験できるという点で、生まれてくることの害悪は帳消しになるはずではないだろうか。このような反論に答えるために、ベネターは以下のような議論を行なうのである。
ベネターによれば、害悪harmsと利益benefitsのあいだには、非対称性がある。それを示すために、悪いことの例として痛みpainsを考え、良いことの例として快楽pleasuresを考えてみる。このとき、次のことが言える。
(1)痛みが存在することは悪いことである。The presence of pain is bad.
(2)快楽が存在することは良いことである。The presence of pleasure is good.
この二つは議論の余地なく正しいとベネターは言う。ところが、このような対称性は、痛みや快楽の非存在については見出されない。
(3)痛みが存在しないことは、たとえその良さが誰によっても経験されていない場合であっても、良いことである。The absence of pain is good, even if that good is not enjoyed by anyone.
(4)快楽が存在しないことは、快楽を奪い取られたがゆえに快楽を経験できなくなるような人間がいないかぎり、悪いことではない。The absence of pleasure is not bad unless there is somebody for whom this absence is a deprivation (p.30).
ベネターの言いたいのは、こういうことであろうと思われる。すなわち、ここにAという人間がいるとする。Aに痛みが存在しないことは良いことである。ところで、もしこの宇宙に誰もいないとしよう。そのとき、この宇宙には痛みが出現しないのであるから、それもまた良いことである。快楽については、次のことが言える。すなわち、Aという人間が経験していた快楽がAから奪われて、その結果としてAに快楽が存在しないのは、悪いことである。しかしながら、そもそも当初からAに快楽が存在していないことや、この宇宙に誰もいないときにこの宇宙に快楽がないことは、悪いこととは言えない。
このとき、(3)と(4)について、それぞれベネターは注釈を付ける。まず(3)であるが、次のような反論があるだろうと彼は言う。すなわち、たとえ痛みがないのが良いことであったとしても、その良いことが誰によっても経験されないのならば、どうしてそれが良いことであると言えようか。痛みがないことは、それを善として経験するであろうところの人間が誰も存在しないのならば、けっして良いことではあり得ないのである、と。
しかしそれは間違っているとベネターは言う。なぜなら、(3)は、現存する人間がもし仮に存在していなかったならばという「反事実的なケースcounterfactual case」についての文章だからである(p.31)。まず現存する人間の痛みについて言えば、(3)が意味するのは、痛みが存在しないことが、たとえ痛みをいま感じている人間が存在しなくなることによってのみ達成可能だとしても、それは良いことであっただろう、ということである。このことは、いま現存する人間の利害によって判断することができる。次に、けっして存在することのなかった人間の痛みについて言えば、痛みが存在しないことは、もしその人間が非存在なのではなくて存在していたと仮定したらばその人間が判断していたであろう利害に基づいて、良いことと言える、というのが(3)の意味なのである。(3)は、痛みが存在しないことが良いことであるところの現実の人間がいるというバカげた主張なのではない。
これが(3)についてのベネターの発想の核心部分である。言い換えれば、「生まれてこなければよかった」というのは、「本当は生まれてきていないのだけれどももし仮に生まれてきていたとしたら人は何を経験するだろうか」というものと、「実際に生まれてきたときに人は何を経験するだろうか」というものを比較すれば、前者のほうがより良いと言える、ということだと主張するのである。
次に(4)についてであるが、(3)と(4)のあいだに非対称性があることにベネターは注意をうながす。すなわち、痛みが存在しないことは良いことであるけれども、快楽が存在しないことは悪いこととは言えない。この非対称性が正しいのは、次のような例を想像すれば容易に分かるであろう。すなわち、我々には、苦しむ人々をこの世に生み出すのを避ける義務はあるだろうけれども、幸福な人々をこの世に生み出す義務はないであろう。我々には害を避けなければならないというネガティヴな義務はあるけれども、それに対応するような、幸福を生み出すポジティヴな義務はないであろう。そのことを承認するならば、(3)と(4)のあいだにある非対称性が間違っていないことが分かるはずだと言うのである。
ベネターはこれらの論理をもって、「生まれてこなかった」ときと、「生まれてきたとき」を比較する。
まず最初にベネターが出してくるのは次のような比較表である(p.38)。
シナリオA (Xが存在するとき) |
シナリオB (Xが存在しないとき) |
(1)痛みの存在 (悪) |
(3)痛みの非存在 (善) |
(2)快楽の存在 |
(4)快楽の非存在 |
これはさきほどの議論をそのまま表にしたものである。この左右を比べてみると、(2)と(4)の優劣がいまいち分かりづらい。そこでベネターは、さらに次のような主張を行なう。すなわち、善か悪かという議論よりも、選好preferenceを用いた議論のほうが好ましい。これは選好功利主義の議論を見ても明らかだろう。たとえば喉が渇いたときに水を飲んでその渇きが満たされたときと、そもそも喉が渇いていないときを比べた場合、どちらがより良いということはなく、強いて言えば同じく良い。すなわち次の比較表が出てくる(p.56)。
シナリオA (Xが存在するとき) |
シナリオB (Xが存在しないとき) |
(1)選好が満たされない (悪) |
(3)シナリオAにおいて満たされなかったところの選好がそもそも存在しない (善) |
(2)選好が満たされる (善) |
(4)シナリオAにおいて満たされたところの選好がそもそも存在しない (善) |
この比較表を見れば一目瞭然のように、ある人間が存在するときと、存在しないときを全体として比較してみれば、存在しなかったときのほうが「より良い」とロジカルに言える、とベネターは結論するのである。このことは、生まれてきた人が実際にどんな内容の人生を送るかにはまったく依存せず、どんな人間においてもこの比較は成立するとベネターは言う。したがって、すべての人間について、「生まれてこなかったほうがよかった」ということが論理的に導かれる、とするのである。
ベネターの議論は非常に細かくまた錯綜をきわめているので、全体像を捉えるのは難しいが、私の見るところその大筋は上記のとおりであると考えられる。
4 ベネターの議論の陥穽
ベネターはこのほかにも、中絶について議論し、プロライフならぬプロデスの主張を行なっている ‘pro-death’ view of abortion。すなわち、すべての胎児はなるべく早い段階ですみやかに中絶してこの世に生まれ出ないようにしていくのが好ましいと言うのである。ベネターのこれらすべての主張の根本にあるのが、さきほどの「生まれてくることの害悪」論なのである。
この論は、しかしながら決定的な欠陥を持っていると言わざるを得ない。というのも、そもそもの問いは、「生まれてこなければよかった」ということが本当に言えるのかどうかというものであった。それはすなわち、「生まれてきたとき」と「生まれてこなかったとき」を比較したときに、後者が前者よりも「より良い」と言えるかどうかという問いであった。その二つを比較するためには、「生まれてこなかったとき」というものをどうやって評価すればいいかを定めなくてはならないのだが、ベネターはそれを、「もし仮に生まれてきていたならばそのときに経験していたであろうこと」を反事実的に想定して評価すればいいとしたのである。
しかしながら私の見るところ、ここに大きな落とし穴がある。というのも、「もし仮に生まれてきていたならばそのときに経験していたであろうこと」というのは、「私が生まれてきていないこと」とは全く異なる事象だからである。少し考えてみれば分かるように、もし仮に、生まれてきていたという反事実的な想定をするとき、そこには反事実的な私の存在というものが導入されている。ということは、そこで成立しているものは「私が生まれてきていないこと」ではなく、「私が生まれてきているという反事実的なできごと」にすぎないのである。このようにして反事実的な私の存在というものが導入された瞬間に、それが導入された宇宙は、「私が生まれてきていないような宇宙」とは別の宇宙、すなわち「私が生まれてきているという反事実的なできごとが成立している宇宙」になってしまうのである。ベネターの議論は、「生まれてきたとき」と「本当は生まれてきていないのだけれどももし仮に生まれてきていたとしたとき」の比較をしているだけなのであって、けっして「生まれてきたとき」と「生まれてこなかったとき」の比較をしているわけではない。
そもそも、「私が生まれてきた世界」の状況を認識する私は当該の世界の中に存在するが、「私が生まれてこなかった世界」の状況を認識する私は、たとえ反事実的にではあれ、当該の世界の中に存在することは不可能である。ここにベネターの議論の決定的な誤謬がある。
そのほかにも、ベネターは「痛みが存在することは悪いことである」のは明白であるとしているが、それも疑わしい。たとえあるときに痛みが存在したとしても、その痛みを経験することを経て、私に新たな世界が開けてきて、私により良い世界の可能性が訪れることはあり得るからである。そのようなプロセス全体で考えれば、「痛みが存在することは悪いことである」と断言することはできない。[4]
もちろんベネターの主張の全体は、「生まれてくること」と「生まれてこないこと」をめぐる分析哲学の蛮勇じみた試みとして評価されるべきものであるとは言える。彼の議論が、「生命の哲学」の様々な考察に大いなる刺激を与えることだけは確かである。私もベネターの議論に触発されるかたちで、「生まれてこなければよかった」の意味について独立した考察を行なった。その論文は、「「生まれてこなければよかった」の意味:生命の哲学の構築に向けて(5)」(『人間科学:大阪府立大学紀要』7)として、本論文と同時に刊行される予定であるので、筆者自身の見解を知りたい読者はそちらを参照していただきたい。
ベネターは一貫して「ある人が生まれてくるときと、その人が生まれてこなかったとき」というふうに、「ある人」の存在・非存在をテーマとして論じている。上記拙論を参照していただけるとすぐに分かるのであるが、これは森岡の問題設定である「私が生まれてくるときと、私が生まれてこなかったとき」というものとは位相がずれている。言い換えれば、森岡が究明しようとしているのは「私は生まれてきて本当によかったのか、私は生まれてこなかったほうがよかったのではないか」という問いなのであるが、ベネターはそのような問題設定を取っていない。ひょっとしたら、ベネターと森岡は同じ言葉を使いながらも別の問いを問うているのかもしれない。
ベネターの議論に対する論究や批判は多数出ている(たとえばChristine Overall Why Have Children?: The Ethical Debate. (MIT Press, 2012) など)。それらの批判についての検討も他の機会に行なう予定である。その点を補足して、本論文を閉じることにする。
*この論文は、科学研究費「新生殖技術の倫理的妥当性に関する基礎的研究―生殖意識のジェンダー差異調査を中心に」(研究課題番号:22510292代表:浅井美智子)の研究成果の一部である。
*The Review of Life StudiesはLife Studies Pressの出版物である。(www.lifestudies.org/press)
註
[1] 森岡正博・吉本陵 (2009)、91頁。
[2] David Benatar Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence. Oxford University Press, 2006. 以下、頁数はこの書籍からである。なお、著者名であるが、おそらくベネターと発音すると思われるが、ベネイターかもしれない。本人には未確認である。
[3] ベネターのgood、betterという語を、以下、「良い」「善い」「善」という日本語で訳し分ける。原語はすべて同じである。
[4] この点については、拙著『無痛文明論』(トランスビュー 2003)にて詳細に論じた。