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『いのちジャーナル』2000年6−7月号 8−12頁
「臓器移植法見直し」をめぐる危ない状況
鶴田博之
●不在の対象
小渕元首相の様態はどうなっているのだろう? いずれ「ここぞ」という頃合いで発表され大騒ぎになるのだろうが、今日4月27日の時点では、まったくわからない。人の生死と情報が完璧に操作されてるな、という不気味さもさることながら、別の感慨もある。
石原発言やら、株の暴落やら、中日の不振やらが続くうちに、この短期間の間にも、小渕さんの存在自体がつい忘れられがちになる。森政権は何事もなかったかのように動いているし、世間もそんな事に関わりなく動き続けているようだ。
小渕恵三氏に面識などない多くの人にとって、テレビや新聞にその名が登場しない限り、当人もこの世に存在しないも同じだろう。今さらながら、つくづく「存在するとは、報道されることだ」と思う。
さて、「『脳死』からの臓器移植」である。「5例目」「6例目」「7例目」はどうなっているのだろう? もちろん、初の「脳死肺移植」や「膵腎同時移植」の成功云々はわかっている。しかし、何日か前まではまったく元気だったはずの20歳代、40歳代、50歳代の女性が、それぞれ一体いかなる訳で入院し、どんな治療の手を尽くされた上で諦められ、どのような「臨床的脳死診断」を受けた後に「法的脳死判定」の対象とされるに至ったのか、という不可欠な情報に関する報道が一切ない。
言うまでもなく、例の「プライバシー保護」の成せる技なのだが、マスコミのこの姿勢については、今回は置いておく。いずれ詳細な調査報告がなされることと信じる。が、それにしても、「脳死判定があった。移植が行われた。手術は成功」という結果だけを知らされることの問題は大きい。高校や大学でも「意思表示カード」が配られるという今、「ドナーカード、持つべきか、持たざるべきか?」という判断材料として提供されるべきは、「今は元気な自分が、どのような経緯で『脳死判定』の対象などになり得るのか?」という具体的な情報のはずだ。「それは後で追々知らせるから、今は『移植で人が助かった』という報告だけ」というのでは、課題も疑問も消し飛んでしまう。価格も購買方法も知らせずに商品のメリットだけを誇張する悪質CMのようだ。
今さらながらの前置きが長くなったのには、わけがある。目隠しをされたまま不在の対象についての判断を迫られるのが今の「脳死移植」をめぐる状況なのだが、大きな問題を孕むこの状況が、つくづく「脳死・臓器移植」問題の本質なのだと思うからである。
●筋書き通りの「町野案」
あわただしい毎日を送る人々にとって、結果だけを知らされた「脳死移植」のイメージは、「どうやら大きな問題はなく定着しつつある」「それで確実に人が助かっている」「しかし、それでもまだたった7例で、提供者が少ない」といったものにしかならない。その果てに待ち構えるのが、この秋に予定されている「臓器移植法」の「見直し」である。
その見直しの方向を示した「町野報告書」そのものについては、他の頁で紹介されるものと思うから、詳しくは触れない。子どもを含め、「脳死」と判定されたすべての人から、家族の同意だけで移植を可能にしようとする報告書の意図は、もともとは本人の意思表示のある場合に限っていたというアメリカの現状を見れば、別段驚くべきものではなく、3年前の「臓器移植法」成立時から十分に予想されたものであった。移植推進派としてはずいぶん妥協したと思われる現行法が成立したのは、どんな条件であってもとにかく1例でも既成事実を作ってしまって、後戻りのできない状況から法を次第に都合良く変えて行く、という計算があってのことだろう。
町野報告書は、その筋書きに沿った予定通りのものなのだが、10月(?)の「法見直し」に向けて、第5例?第7例の実施と、特にその消極的な報道は、予定以上の追い風になってしまう危険がある。つくづく、高知の第1例で「プライバシー保護」という隠れ蓑を用意させてしまったマスコミの失態が腹立たしい。
●高知新聞社の良識
そのマスコミの自己批判も込めて、高知新聞社会部「脳死移植」取材班が注目すべき本を出した。『脳死移植 いまこそ考えるべきこと』(河出書房新社)である。
1999年2月末の「第1例」報道の際、「結果的にはただ騒いだだけに終わり、家族からも拒絶された。肝心の医学的情報は引き出せず、冷静なチェックなどはできずに終わった」という地元マスコミとしての自省から、本書は改めて高知事例を一から検証する。早すぎる救命治療断念、執拗な無呼吸テスト、不当な脳波検査、判定の手順違反、薬物の影響下での判定、……すでに『「脳死」ドナーカード持つべきか持たざるべきか』(さいろ社)をお読みの方には周知の問題点が、専門家による是非双方のコメントとともに指摘されているが、改めて賛否両方の意見を並べられると、「問題なし」とする方は明らかに分が悪い。
そして、結局、ドナーは本当に「脳死」だったのかどうか? この点について、本書は、脳幹の「機能の一部が残っていた可能性も消えない」と結論している。慎重に言葉を選びながら、厚生省の検証作業班の杜撰な「検証」をも厳しく批判する本書は、マスコミの良心を示したものとして、大いに評価したい。
ただ、高知事例では、臓器提供の決め手となった「ドナーカード」の正体に疑問が持たれており、高知新聞社はその情報をつかんでいたと聞くが、この「疑問」について本書が触れてないのはどういうわけか?
ところで、この本は、町野報告書に対しても、厳しい批判を浴びせている。報告書の非道さを的確に指摘しているので、幾つかの批判点を私なりにまとめ、紹介しておく。
●「脳死は一律に人の死である」とする町野報告は、「脳死」を「死」とは考えない人の声をくみ取らぬ一方的なもので、異なる立場を認めることで「臓器移植法」がかろうじて保ってきた極めてきわどいバランスをも大きく崩すものである。
●竹内基準による判定では「脳のすべての機能が失われている」とは言い切れない。そのことが社会的に十分認知されていない実状を放置したままの報告は不当である。
●高知事例など、実際に臓器を提供した患者や家族たちについて一言も触れない報告は、人の死を考える誠実な姿勢とはいえない。
町野報告の目玉の一つは、親権者の同意があれば子どもからの臓器摘出も可とする点である。もちろんこの点についても、本書は激しい批判を投げかける。
●「子どもの臓器を摘出する権利は親にはない」としながら、「子どもでも大人でも遺族の承諾で臓器の摘出を可能とすれば、(「子どもと親」という問題はなくなって)すっきりする」という報告は、報告者だけが「すっきりした」に過ぎぬ意味不明の論理である。
町野報告の馬鹿馬鹿しさがよくわかる。これほど滅茶苦茶な論理を、敢えて研究班が示したのは、高知新聞社が危惧するように「わざと提示することで論議を起こし、法改正への土俵を無理矢理つくってしまおうとしている」からであろうか?
●不可解な批判
困ったことに、その仕掛けにまんまとはまってしまったとしか思えない論説も登場した。
『論座』2・3月号に掲載された森岡正博氏の文章は、町野報告に反対して、本人の意思表示がない場合は「(臓器摘出はできないとする)現行法の条件を堅持すべき」だとする一方で、驚くべきことに、その表題が示す通り「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」と主張する。この文章は、森岡氏たちが開設するホームページ「臓器移植法改正案を問う」にも載っている(http://ishokuho.tripod.co.jp/)ので、いつでも読めるのだが、主な論点を紹介しておこう。
(1)脳死の人からの臓器移植が正当化され得る唯一の原則は、本人の「暖かい善意」である。
(2)本人の意思が不明の場合、その臓器は誰にも利用されずに大地に帰る権利をもっている。
(3)意思が確認されないドナーの臓器を使って生きのびる権利を人はもっていない。
(4)(だから)臓器摘出には、脳死判定を受け臓器を提供するという本人の意思表示と家族の同意、という条件が不動の前提である。
ここまでは、私には異論があるものの、認める人も多いであろう普通の論理である。しかし、「児童の権利条約」を楯にとっての、以下の論理が全く不可解なのである。
(5)改正案(町野報告)は、子の臓器が別の人の体の中で行き続けてほしい、という藁をもつかむような親の願いに強く訴えるものである。
(6)しかし、子どもの生命は子ども自身のものであって、親のものではない。
(7)だから、そんな親の願いだけによる、子ども本人の同意のない脳死判定と臓器摘出は、児童虐待でしかない。
(8)15歳未満の子どもであっても、自分の死に方と死体の処理のされ方について意思表示する能力は備わっている。
(9)自分の死を脳死で判定してほしいかほしくないかというのは、思想・宗教の自由である。
(10)だから、子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示を認め、大人はそれを尊重すべきである(ただし、親は子からの臓器摘出に拒否権をもつ)。意思表示がある場合にのみ、臓器摘出は虐待とはみなされない。
(5)-(7)は(ここでも私自身には異論があるが)ともかくとして、(8)-(10)には驚かされる。森岡氏の文章は、町野報告への批判であり、もちろん(1)-(7)に重きが置かれているにせよ、その特異性は(8)-(10)にあり、表題の通り「子どもにもドナーカードを」と強く訴えるものになっている。
ここで森岡氏の言う「子ども」とは12歳以上の子どものことであり、結局その主張は「法の改変には反対だが、そのかわりに脳死判定と臓器摘出の対象を、現行の15歳以上から12歳以上に下げよ」というものにしかならない。「反対者」が始めからこれほどの譲歩をしてくれているのは、推進者にとって勿怪の幸いだろう。
●現実離れの議論
森岡氏が町野報告に反対する一方でこのような極論に陥るのは、議論の根底に「生命はその人自身のものである」という原則と、それに由来する「自己決定」の原理を置くからである。生死の選択決定は本人にのみ可能とした上で、子どもに正当な権利を保障するとなれば、形式論理としては氏のような主張になるのも、ある意味でもっともである。
そして、もう一つの原則として、子どもに十分な判断材料があることが前提となるが、まず先にこの点について、簡単な反証を挙げておく。
私には恰好の年齢の娘が2人いるので、尋ねてみた。16歳になる、読書好きで生真面目な性格のKは、「脳死・臓器移植」に関する文章を読んだことなどはないが、常日頃の私の断片的な発言の影響で、臓器提供には「ノー」である。友人たちには情報・知識は全くなく、「判断しろというのは無理」とのこと。明るくちゃらんぽらんな13歳のAは、この問題に全く興味・関心がなく、誰が見ても「判断不可能」である。クラスメートの中には、「面白がって」コンビニから持ち帰ったドナーカードを多数所持している子がいるそうな。12歳以上どころか、15歳以上の高校生でさえ、「意思表示」に十分な情報は有していそうにない。
もちろん、「情報」と「能力」とは別である。おそらくそれ故に、森岡氏は「死の教育」を奨めるのだろう。「子どもにドナーカードをもたせるには、家庭で、あるいは学校で、子どもに『死』のことを正面から話さなくては」ならない、と。
しかし、例えば学校という圧力の場で、こうした目的で「死」を教え、その延長でドナーカードを配ったりすれば、一体どういうことになるのか? 「意思表示カード」には「ノー」と答えることもできるとはいえ、配布すること自体が「イエス」への大きな誘導なのだから。
子どもには、のみならず大人にも、「何も知らず、考えなくても守られるという権利」があると思う。
●「脳死・臓器移植」論議の宿命
議論が現実離れを起こしているのは、先に紹介した高知新聞社会部の本も同様である。本書は、竹内基準が「全脳の機能停止」を判定し得ないことを示唆し、基準の不備を批判し続けてきた立花隆氏を讃えながらも、そうした議論が、「脳の機能を失った人」を死亡したとみなしてよいのかという「大切で根源的な問い」を置き去りにしてきた、と苦言を呈する。しかし、これは実に奇妙な議論である。現実として「脳の機能停止」が判定し得ないのなら、「脳の機能を失った人」について考える必要など全くないはずなのだから。
「脳死・臓器移植」をめぐる議論には、むしろこうした「現実を置き去りにした空想」が常につきまとう。
大抵の人にとって、「脳死」は現実に目の当たりにしたことのない、不在の対象である。見ることも触れることもできない「脳死」という対象について、人はどうしても理屈だけで議論してしまう。「脳の機能を失った人は……」「これこれの判定基準を満たした人は……」云々。とても人間について語る条件ではない。
私たちに必要なのは、せめて事故や発作から「脳死判定」に至るまで、ドナーが実際にたどる経緯を想像力の限りを尽くしてたどってみることなのだが、そのために必要な情報は、見事に隠され続けている。「意思表示」の前提となる情報が公正に与えられたことなど、これまで全くなかったのである。こんな状況で「自己決定」もへったくれもない。
以上を前置きした上で、「臓器提供の自己決定」について考えてみたい。
「死の自己決定権」批判者として知られる小松美彦氏が、『思想』2月号・3月号で新たに注目すべき考察を行っている。しかしもはや紙面と時間が尽きてしまった。その紹介と私なりの考察は、本誌編集者に甘えて、次回に回すことにしたい。ただ、結論を2ヶ月も先送りするのは心苦しいので、ここで「結論」めいたものに少し触れておく。
「人の生死をどこで分けるのか?」という問をどうしても迫られるなら、私は「ともに生きているという共感の有無」としか答えることはできない。
これは観念的なことでも難しいものでもないと思う。「脳の機能」だの「判定項目」だの、実は実証できない怪しげな理屈を取っ払って目の前の現実のみを見つめたとき、触れれば温かく、心拍があり、汗もかく人を現にまだ生きていると考えるのは、人類がその知性と感性とを尽くして為してきた知的な判断である。
そうした実感に反する妙な理屈で「そんな人は死んでいるのだ」と主張するのは、少なくとも私にとっては、「ミイラは生きている」と言うのと全く同等に違和で不自然なものでしかない。
そのことを、次回はきちんと述べてみたい。
さいろ社ホームページに、関連情報があります。