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デンマークの場合:
臓器提供─生前同意か推定同意か?
てるてる翻訳 2001年1月8日



(Organ donation. Informed or presumed consent?
 http://www.etiskraad.dk/publikationer/orgdon_eng/ren.htm
 
 

要約
(Summary)

デンマーク倫理委員会は、死者からの臓器提供は生前同意で行うべきか推定同意で行うべきかについてレポートを発行した。

デンマーク倫理委員会の臓器提供についての審議で鍵となった問題は、死は、個人的な内輪の事柄であるとともに、社会的公的な事柄でもあると認められうるという事実から派生している。それゆえに以下の問題が起こっている。

*個人の希望には、その人の死後のできごとに属することまで含まれるべきだろうか?
*近親者は、死者の臓器提供について意思を表明するべきだろうか?
*社会は、死者が、もし生前に意思を表明していなかったならば、臓器を提供するつもりだったと仮定するべきだろうか?

このレポートは、決定の権限はどこにおくべきかについての、倫理委員会の倫理的な考察と勧告を含んでいる。
 
 

前書き
(Foreword)

デンマーク倫理委員会は、ここに死者からの臓器提供は生前同意で行うべきか推定同意で行うべきかについてのレポートを発行する。
 

このレポートの目的は、誰が臓器提供に承諾を与えるべきかという質問に関する、倫理的な問題を議論することである。もし移植と承諾獲得の方法についての法制の改正があるならば、このレポートが、必要とされる倫理的な問題の議論に寄与することを、当委員会は望んでいる。

このレポートは、倫理委員会の臓器移植部会から出されたアウトラインに基づき、全員出席の審議で作成された。臓器移植部会のメンバーは、次の人々である。
Niels Henrik Arendt,S?ren Holm (chairperson), Sigurd Olesen, Lars-Henrik Schmidt, Karen Schousboe and Marianne Wangsted
レポートの文章とレイアウトは、Claus Holm医学博士の監察のもとに、臓器移植部会と倫理委員会の議論に基づいて、委員会の秘書が行った。

1998年6月

Linda Nielsen 議長
Berit Faber   秘書室長
 
 

序文
(Introduction)

デンマーク倫理委員会は、脳死判定基準と臓器移植は、論争の的となるトピックだとみなしている。脳死判定は、1990年に、臓器移植の可能性を広げるという目的でデンマークに紹介された。脳死判定の議論はまだ終わっていないが、しかしながらこれは、脳死を死と医学的に理解することと並行して、心臓死を死と認めるということを、実証している。

この臓器移植の議論は、しばしば、他の関連する課題を俎上にのせる。それには、次の3点が含まれている。1)臓器の不足、2)移植待機患者リスト、3)死者からの臓器提供を行ってもよいかどうかを、誰が決定するべきかという問題である。この文脈では、臓器提供への問いに、一つにまとまった全面的な意思を表明することは、困難であるばかりか、たぶん、嫌悪さえもあることを認めざるをない。ある人々はこの問いに意思を表明しなければならないということにさえ嫌悪を抱く。別の人々は、死の意味するところについての確信に基づいて、はっきりとイエスまたはノーということができるだろう。

このレポートでデンマーク倫理委員会は、臓器提供への問いに誰が意思を表明するかという問題に限定して立場を表明する、という選択をした。これは、このレポートは、脳死判定についてのメンバーの感情を含めて、脳死者からの臓器提供にまつわって問題となる事柄に対する、すべてのメンバーの基本的な見解と方法の、完全で充分な表明であるとはみなすことができないということを意味している。あるいはこのレポートは、重大な危機の状態にいる遺族に臓器提供の意思を問うことには本質的に倫理的に問題があるのではないか、または、その逆の場合、つまり、遺族に質問する義務があるのではないか、ということについて、一つの立場を表明してはいない。

さらに、このレポートで、倫理委員会は、死者からの臓器提供だけを扱っているが、それは、生体からの臓器提供には、取り上げるべき非常に多くの問題─たとえば、臓器移植の商業化、家族の間の心理的関係、両親の目には、承諾を与える能力がないように見えるこどもが、こども(幼児)のために臓器提供を承諾すること─があるので、別に考える必要があるからである。近い将来、倫理委員会は、生体の臓器提供者に関する、具体的な諸問題についてのレポートを作るために積極的にとりくむつもりである。
 

デンマーク倫理委員会の臓器提供部会の鍵となった課題
(Key issues in the Danish Council of Ethics' work on organ donation)

鍵となる問題は、死は、個人的な内輪の事柄であるとともに、社会的公的な事柄でもあると認められうるという事実から派生した。それゆえに以下の問題が起こっている。

*個人の希望は、その人の死後のできごとに属することまで広げられるべきだろうか?
*近親者は、死者の臓器提供について意思を表明するべきだろうか?
*社会は、死者が、もし生前に意思を表明していなかったならば、臓器を提供するつもりだったと仮定するべきだろうか?

この3点は、適用されるべき承諾の形式に議論が及ぶ。すなわち、死者の生前同意(インフォームトコンセント)、近親者の代理および/または同意(インフォームトコンセント)、あるいは、推定同意(プレジュームトコンセント)である。

本人が生前に情報を得たうえで与えた同意(インフォームトコンセント)
(Informed consent given by the individual while alive)
臓器提供に関する個人の自己決定権は、死後の遺体の取扱い(たとえば、埋葬、葬式、宗教あるいは無宗教など)に関する個人の希望と同等に尊重されなくてもよいだろうか?

近親者の代理および/または情報を得て与える同意(インフォームトコンセント)
(Next-of-kin's proxy and/or informed consent)
同意は近親者によるべきだろうか、そのひとは、自発的な意思と与えられた情報に基づいて、臓器提供への問いに答える機会を与えられなければならないだろうか? この論点は、死者が、もし、臓器提供について意思を表明していたら、それに関連してもいつも近親者の同意を調べなければならないという理由によって複雑になる。それゆえに、それはまた、次の─よりよくバランスのとれた─問題に関連づけることが適切である。1)近親者は代理で承諾を与えるという選択肢を持つべきだろうか? 2) 近親者は、もし死者当人が臓器提供に反対だったと知られているか登録しているならば、その人のために承諾を与えることができるべきだろうか? 3) 近親者は、自分自身の利益に基づいて、たとえば悲しみのために、同意について、死者の意思に左右されずに意思を表明することができるべきだろうか?
4)死者の意見と近親者の意見とがくいちがっているとき、どうするのが適切なふるまいなのか?

推定同意(プレジュームトコンセント)
(Presumed consent)
社会は、個人が生前に臓器提供を拒否していなかったのならば同意するつもりだったのだと推定するべきだろうか? もしそうならば、その同意の推定はどんな根拠に基づいているのか?
 
 

倫理的考察─決定の権限はどこに置かれるべきか?
(Ethical deliberations-where should the decision-making competence lie?)

個人の死に際して臓器提供に関する決定をする権限を、その個人、近親者、社会に帰するべきとするにはどんな根拠が与えられるだろうか?

個人
(The individual)

生きているときに個人が臓器提供をするかしないかを決定するべきなのか?

この問題に対する肯定的な答えは、すべての個人は、他者の自律を侵害しないならば自由に行使されることができる自己決定権によって保護されるべきであるという、基本的な認識によって得られるのだろう。さらに付け加えれば、自己決定権は身体の完全を保つ権利もまた含むべきであるといえるかもしれない。つまり、誰も、本人の承諾なしに、身体を損なわれることはないということである。この見解に従えば、第一にそして最も尊重されるべきことは、その個人の自分自身の死との関係である。

人によっては、火葬にするよりも土葬にしてほしいという望みが前もって口にされているときに、それを無視するのはよくないとも考える。それは、臓器提供者として利用してほしい(ほしくない)という望みを個人が前もって表明していたときに、それを固守するのに失敗することは、おそらくまた死者のからだの完全を保つという多くの人々の考えに逆らうのと同じことである。しかしながら、死者の近親者は、埋葬などに関しては本人の望みを無視することが知られてきた。

それゆえに、個人の自己決定権と身体の不可侵の原則は、その人が生きているときのことに属する望み、およびその人が生きていることがあまり重要でない条件のもとに属する望みだけを含むべきである、という反論がありうる。この反論は尊重されるだろうか、個人が自分自身の死に関する望みを述べた、書面または口頭による、生前の「遺言」の効力は、無視されるべきだろうか。
しかしながら、前述のように、それは、多くの人の、個人の自己決定権と身体の完全性についての概念を侵害するものである。

さらに、個人が自分自身の死について述べるということはまた、近親者と話をする機会も与える。
デンマーク厚生省(Danish National Board of Health)のドナーキャンペーンの見出しの「あなたの最も近しい人といっしょに心を決めよう」はまた、個人に、最も近いそして最も親しい人にとってのそのひとの死の重大さに基づいて意思を表明しようという、呼びかけである。
 

近親者
(The next-of-kin)

どんな議論が、死者からの臓器提供についてどんな質問がなされうるにしろ、近親者もまたいっしょにまたは単独に決定するべきであるということに賛成しているのだろうか? この質問に答えるには、
近親者が死者のために意思を表明する場合と、近親者自身の利益に基づいて意思を表明する場合とが区別できければならない。

死者のために意思を表明する場合
(Stance on behalf of the deceased)
近親者は、死者の価値観と希望について内密に知っているという理由で、死者のために意思を表明する機会を持つべき唯一の人とみなされてもよい。このような意思表明は必ずしもいつも必要ではないだろう─たとえば、死者本人が自分の意思を登録しておいたというような場合は、普通は。しかしながら、ときには、本人が前もって登録しておいても、近親者が反対する場合がある─それも本人のために─そしてそれが適切な場合がある。第一に、その近親者は、家族どうしの会話で、本人が何年か前にドナー登録をしたが、その後、決心を変えて登録を取り消そうと思っていたのに、実際に取り消すのがまにあわなかった、ということを知っているという場合が挙げられるだろう。第二に、その近親者は、本人の、家族、両親、兄弟姉妹等に対する全体的な態度から、もし、いま、家族の感情を知ったなら、登録を取り消しただろうと推定することができるという場合が挙げられるだろう。

近親者自身の利益に基づいて意思を表明する場合
(Stance based on own interests)
近親者はまた自分自身の利益に基づいて意思を表明する機会を与えられることができる─死者本人がドナー登録をしているかどうかにかかわらず。これは、臓器提供が問題になるような場合には、死はしばしば突然にそして暴力的に近親者に訪れるという事実によっている。

これに関しては、遺族のなかには臓器提供に関するどんな誘い掛けもはねつけるだろう人々がいる、邪魔や中断をされずに悲しみたいという望みが許されるように。たとえどんな内容形式の意思表明が法律によって求められても─臓器提供の認可、確証、あるいは拒否でさえも─遺族はそれを受け容れがたい干渉と中断をもたらすものと感じるだろう。結局、臓器提供に関するあらゆる働きかけは、結果的に遺族から死者を目に見えるかたちで奪い取ることになる─ちょうどある人々にとっては、死者を「切り刻む」ことが礼儀に反することであるように。実際問題として、これは、近親者が臓器提供を拒否するときに高い確率で起こることである。このような背景に反して、そして、火急の危機的状況に放り込まれたと近親者に思い知らせてまで、遺族は臓器提供について質問されるべきではないと感じる人々もいる。

一方、同じ状況で反対の見解を持つ遺族もいる。このような人々は、最愛のそして最近親の者の突然の無意味な死に、何か意味のあるかたちを分かち与える機会を遺族に与えるという唯一の理由で、医療スタッフが臓器提供の問題について質問するのを全然構わないとみなすだろう。たとえば、亡くなったこどもの臓器を提供することによって、こどもの死にたえて生きていきやすくなるという意見を持っている人々がいる。

つけくわえていうならば、もし死者が臓器提供の意思を登録していなければ、死者本人のために代理の役割を取るのであろうと近親者自身の利益の反映であろうと、それを近親者の意思表明から推論するのは不可能である、ということを強調するのは重要である。

同じように、死者本人が承諾を与えていたのに、近親者が拒否するという、明白な衝突の状況におかれたことを自覚するとき、危機が強まるということが重要である。死者本人の望みが無視されることは受け容れられるだろうか? これに関しては、二つの熟慮を必要とする事柄に対する感受性が必要とされる。

第一に、上記のように、近親者の、かきみだされないで死者を看取りたいという望みは、死者本人が与えた承諾と釣り合うことができるぐらいに充分に重みがあると認められうる。

第二に、デンマーク倫理委員会が入手した情報では、死者本人が登録した臓器提供の希望と近親者の臓器提供拒否の希望との衝突がある状況が起こるのはごくごくまれな場合であると推測されている。死者本人の承諾を無視することが受け容れられるか受け容れられないか決めなければならないケースの数はわからないけれども、この問題は、事実上アカデミックである。

しかしながら、そのような衝突がごく少数に限られているということを明らかにすることは、臓器移植についての議論にとって肝要である。すなわち、一般に、近親者が、死者本人が臓器提供に承諾を与えているときに、臓器提供の妨害になるとは言えないのである。あるいは、臓器の不足を、死者本人と近親者とのそのような衝突のせいにすることはできない。
 

社会
(Society)

臓器提供は、たとえ死者本人が生前に臓器提供したいと表明していなかったときでも、死後、本人は、それによって命と健康とが救われる人々のために、すすんで臓器提供するだろうという推定に基づいて行われるべきだろうか。

推定同意(プレジュームトコンセント)に賛成する議論は、死者本人が、もし生きているときに臓器提供に同意するかどうかきかれていたなら、承諾しただろうという推定に基づくことができる。

死者の価値観は、利他的で、苦しんでいる人々を助ける義務があると基本的に認める連帯の思想を持っているとして述べられうると推測されている。臓器提供はまさにそのような、臓器をうけとることに健康状態が全面的に頼っている人々を救うという義務の表現と明確にみなされうる。臓器移植がなければ、移植待機患者は、恐らく、死ぬか、後半生を無力なままに送るだろうから。

別の観点からは、現実にアプトアウトしなければならないシステムを導入することの公平性が強調される。もし臓器提供に関連していくらかでもバランスが保たれなければならないとしたら、社会は個人にすすんで臓器を提供することを要求しなければならないのに、逆に社会は命と健康を臓器提供に頼っている人々のために臓器を獲得しようとすることを引き受けている。発想を転換すれば、自分自身はすすんでそしておそらく社会の福利として臓器を受け取る権利さえあるとみなすのに、社会的な「臓器の平衡」とでも呼ぶべきものが起こってくる可能性があったものを、それには、自分は貢献したくないと考えるのは、不公平であるということになるだろう。個人の権利と相殺的な義務とを分けることは、苦しんでいる人々を救うのは社会的な義務であることを忘れがちな人間のさがを個人的に理解することに役立つ。

実際、平衡という観点は、臓器を受け取る権利は、自分自身がすすんで臓器提供者になるかどうかにかかっていると意識することを、すべての人に要求するであろう。そして、なんらかの登録の形式を要求する。一つのモデルは、臓器を受け取る権利とそれに相応する臓器を提供する義務と関連づける必要を肯定したすべてのひとが登録するのがよいだろうというものであろう。もう一つのモデルは、臓器提供の拒否する人が登録し、その結果、登録していない人は潜在的にレシピエントにもドナーにもなるとみなされるというものであろう。

第一の反論は後者の登録モデルに対するもので、その実施にあたって、われわれは臓器提供を拒否する人々を道徳的に非難する危険があるという点があげられるだろう。このような非難の危険は、もし潜在的ドナーになることを拒否しているひとが臓器を受け取る状況になるとさらにますだろう。

第二の反論は両方の登録モデルに対するもので、たとえ利己的で無思慮で非倫理的でさえあると人々に受け取られることを認めるという意思を表明しているひとがいても、これを不要にすることを許すという慈悲の伝統が─特に医療職にとって─厳として存在する。実際には、これは、患者は非倫理的な行いを非難されうるかどうかということに基づくのでなく、目前の医学的必要に基づいて扱われるということを意味する。

推定同意(プレジュームトコンセント)の導入に対する第三の反論は、ひとりの人の死を、別の、誰かわからないが、もっと予後が長く、そしてたぶんより健康な人生を送る人のための手段とみなす傾向を促進するだろう、というものである。その結果、われわれは死者とその人を悼む人々の悲しみに対する尊敬を失うかもしれない。もし近親者の悲しみが尊敬されなくなったら、それは悲しみを無力感とないまぜにする作用を及ぼすかもしれない。付け加えて言えば、悲しみは、近親者の死を受け容れ、結果として遺族に降りかかってきた新しい人生を生き抜いていくための能力をもたらすための重要な要素であると認められうるのである。

特にここに付け加えるべき問題は、承諾は、それが生きているときに与えられていただろうと推定されるだけであるということである。亡くなったこどもからの臓器提供の場合、その子の両親がそれを望まないとはっきりといったとしたら、社会は推定同意(プレジュームトコンセント)を与えうるかという問題が起こる。

人によっては、推定同意(プレジュームトコンセント)は、死者本人が生前に意思を表明していないという状況で近親者が意思を表明したときにのみ受け容れられるという見解をとるかもしれない。
そうでなければ、推定同意(プレジュームトコンセント)は、移植ができるようにするために死者の臓器を配分するという一般公衆の要望にのみ帰する─そして合法化されるだろう。それは、ひとりひとりの個人が自分自身の死を理解することに関する標準化された推定の方法を導入することによって、近親者の意思表明ができないようにすることによって実現される。利用可能な知識データベースによると、現在では大部分の人がドナーになることを望むと推量する理由はない。たとえば、1997年にデンマークでは92件のドナー適合者があったが、41件は近親者が拒否し、2件は本人の希望により拒否された。そしてこれらの近親者による拒否のほとんどは、死者本人の臓器提供の承諾に反して主張されたのではなくて、承諾が与えられなかったという単純な理由による。
 
 

ヨーロッパ諸国の臓器移植法─決定の権限はどこに置かれるべきか?
(European countries' transplantation legislation-where does the decision-making competence lie?)

法律上の決定権限はいろいろな立場に置かれうる。大体は、自分の死に先んじて臓器提供の決定をなしうる個人か、死者の近親者か、あるいは社会か、そのうちのどれに権限が帰属するかが問題になる。「社会共同体の決定権限」と表現する場合には、無論、規定の決定権限を個人かまたは近親者のどちらに割り当てるかは社会的な決定であるという前提であることが強調されなければならない。しかしながら、臓器提供が行われてもよいかどうか決定するという点で、社会共同体がそれ自身に現実の直接的な決定権限を授けるかどうかということもまた、社会的決定である。このレポートでは、「社会共同体の決定権限」という表現は、後者の意味で使われる。

デンマーク倫理委員会によるヨーロッパ諸国の臓器移植法調査では、おもに、個人、近親者、社会への重点のおきかたによって分類した。言葉を変えて言えば、どの国の移植法も、どれか一つの立場に排他的に決定権限を置くというような方法では明確に区分できなかった。移植法は熟慮された結果を反映しているけれども、多くの移植法の例はつながって一つの基本的な動きを形作っていると仮定することができる。近親者を単独のまたは共同の決定者として含んでいる個人の決定の重視から、死者本人が生前に臓器提供を承諾したであろうという社会の推定に重きをおくものまで。

a)個人の決定としての臓器提供
(Organ donation as the individual's decision)
もし臓器提供が個人の決定によって行われているならば、その人が生前に臓器提供を承諾していることが必須の要件である。これは、承諾がなければ臓器提供の拒否とみなされなければならぬということであり、近親者もどんな社会的権威も個人の決定を変える権能を与えられない。これは、個人による臓器提供の承諾かまたは拒否かどちらかを含んでいるだけで有効である。ヨーロッパ諸国の臓器移植法を調べた結果では、臓器を提供するかどうかという質問をするにあたって、このように個人中心の承諾条件をつけている国を見つけることはできなかった。

b)近親者も決定する臓器提供
(Organ donation-the next-of-kin's decision too)
近親者を考慮に入れるためにとりうる一つの方法は、死者本人が生前に臓器提供を拒絶していなかったか、何も言っていなかったならば、近親者が臓器提供を承諾するかどうか選択できるようにすることである。この方法にはまた、もし、本人が生前に臓器提供をしたいと言っていたならば、その場合には、近親者に死者本人の決定を拒否する権利を授けるという選択肢を増補追加することができる。
全般的に、近親者が臓器提供の正当化にも拒否にも決定的な影響力を与えられている代理承諾は、バランスが保たれるだろう。ノルウェーとデンマークの臓器移植法がこのことを実証している。以下に、デンマークの移植法を具体例として示す。

身体の医学的検査、検視、移植等に関する法律(1990年6月13日法律第402号)(Danish legislation  on Medical Examination of Bodies, Autopsy and Transplantation etc., Act No. 402 of 13.06.1990)では、死者からの臓器提供を規定する条件は次のとおりである。

1. 書面で臓器提供をする旨の決定をなした者、または、口頭で臓器提供に賛成すると宣言した者が18歳以上であること。

2. 上記の場合以外は、死者本人から臓器提供に反対するどんな言明もなく、かつ、本人にとってたいせつな人々が臓器提供に承諾を与えた場合にのみ許される。もし本人にとってたいせつな人々がいなければ、臓器提供をしてはならない。

出発点は、死者本人のたいせつな人々のなかにひとりでも臓器提供に反対だという人がいたら、移植への承諾が存在すると推定できるはずがないということである。

さらに、デンマーク法の説明文によれば、前例と医学倫理的原則に従えば、死者本人が臓器提供に賛成であると言明していたという事実があって、一方で遺族が臓器提供に反対しているときには、医師は臓器摘出を控えるだろうと推定されている。

もう一つの近親者を壇上にのせる方法は、臓器提供を拒否する機会を与えることである。これはスウェーデンの臓器移植法が適切な例として挙げられる。

スウェーデンの移植に関する法律(1996年7月1日施行)(Swedish legislation on transplantation, effective from 1 July 1996)では、生物質が死者から摘出できるのは次の場合である。

1. 死者が移植またはその他の医療行為を目的として自己の遺体から器官その他の生物質を摘出採取する同意を与えている場合、または何らかの方法で死者が自己の遺体から器官その他の生物質を摘出採取することに同意を与えていることが確認できる場合、死体から器官その他の生物質を摘出採取することができる。(第3条第1項)

2. 死者の意思が確認できない場合においても、書面によって死者が明らかに自己の器官その他の生物質の摘出採取を拒否している場合、または口頭で反対の意見を言っていた場合、またはその他の理由から、死者の遺体から器官その他の生物質の摘出採取を行うことが死者の意思に反すると認められる場合を除いて、死者の遺体から器官その他の生物質の摘出採取を行うことができる。(第3条第2項)
2) 第3条第2項の規定によって器官その他の生物質の摘出採取が認められる場合であっても、死者の身近にいる者から反対の意思表示が行われた場合、器官その他の生物質の摘出採取を行ってはならない。ただし、死者が移植またはその他の医療行為を目的として自己の遺体から器官その他の生物質を摘出採取する同意を与えている場合は、この限りでない。(第3条第1項参照)いいかえるならば
死者の臓器提供の意思に死者の身近にいる者が賛成する必要はない。

3. 諸般の事情から死者が臓器移植について反対の考え方をもっていたみなされる場合、またはその他特別の事情ある場合、死体からの器官その他の生物質の摘出採取を行ってはならない。(第3条第3項)

4. 死者と特別の関係をもっている者がいる場合、その者に対して遺体からの細胞、組織の摘出採取について説明を行い、且つ摘出採取について反対の意思表示を行うことができる旨を伝えた後でなければ遺体からの器官その他の生物質の摘出採取を行ってはならない。器官その他の生物質の摘出採取の説明を行う場合、相手方に相当な考慮期間を与えなければならない。(第3条第4項)

(てるてる注:ここの訳は「スウェーデン臓器移植法」 http://www.senshu-u.ac.jp/~thj0090/rex16.htm をもとにした)

スウェーデンの法規およびスウェーデン国家健康福祉委員会(Swedish National Board of Health and Welfare)の一般勧告(SOFS 1997:4)によれば、最善の方法は一般に近親者に死者本人の臓器提供への賛成反対の見解について伝えることであるという─たとえ移植法では正式な要件として命じてはいなくても。実際、デンマーク倫理委員会が入手した情報によれば、本人の臓器提供の意思に近親者が反対するような場合、たとえそれが法律に従わないことであっても、臓器提供はおそらくできないだろうということである。

c)社会の決定としての臓器提供
(Organ donation as a social decision)
臓器提供の社会的な利益の尊重は、一般に死者本人は臓器提供に同意しただろうと推定することになって表われされる。実際に病院の保護のもとで死ぬということは、生前に拒否の意思表示をしておかない限りは、おそらく移植のために臓器を提供することに同意するつもりだろうということになる。
その結果、意思を表示していない個人は同意しているとみなされ、現実に個人の影響力の及ぶ範囲は臓器提供者になることに否ということができるだけである。スペイン、ポルトガル、オーストリアがそのような法律を実施している。次にスペインを具体的な例として挙げる。

スペインの法律では(1979年10月27日法律第30号)、臓器はだれのものでもないというところから出発している。回覧では(1980年2月22日第426号)、はっきりと、臓器提供についての公の情報は法律の基礎にある原則に言及しなければならないと、述べている。基礎にある原則とは、利他主義、連帯、人々の自由、私的な生活、望み、宗派関係の尊重である。このことの意味を具体的にいうと、明らかに抵抗を示しているという証拠がなければ臓器は死者から狩られてもよいということになる。そうでない場合は、医師は、患者が他の医療職に自分の望みを知らせていないかどうか知るために手をつくさなければならない。遺族は、医師が─環境が許せば─移植の手続を説明しなければならない人々として言及されている。

実際には、しかしながら、家族の承諾はドナーが臓器提供に反対していなかったことを確証するものとして利用されているという事実がある。
 

ヨーロッパ諸国の移植法システムの違いの鍵となる部分
(Key differences between the legislative systems of European countries)

諸国の移植法を調べたところでは、個人が与えられた情報に基づいて臓器提供者になるかならないかを決める権利に基礎を置く法律と、個人の臓器提供を拒否する権利および/または近親者の臓器提供を拒否する権利とが相手に左右されずに別個に効力を持つとともに、個人がすすんで臓器を提供するだろうという推量に基礎を置く法律とに、分裂する傾向がある。

デンマークとスウェーデンの移植法を比較すると、違いは小さく、たぶん、実際の運用においては、それもほとんど無いも同然であろう。デンマークとスウェーデンの移植法は両方とも死者本人の臓器提供への態度に基礎を置いている。デンマークでは、近親者は、本人の臓器提供の希望を拒否するか支持するかしなければならない。スウェーデンでは、本人が臓器提供について意思を表明していないときにのみ、近親者に臓器提供を拒否する機会が与えられなければならない。しかしながら、スウェーデンでは実際には、一般に、近親者は必ず、死者本人が臓器提供に賛成しているか反対しているか知らされ、─デンマーク倫理委員会が入手した情報によれば─近親者による臓器提供の拒否はたぶん尊重されるだろう、たとえ本人が臓器提供の意思を持っていても、ということである。

一つの結論として、調査の対象となったヨーロッパ諸国の移植法は、実際に行われている承諾のとりかたを完全に充分に表現してはいない傾向があるといえる。いくつかの国では、実際の方法は、法律をある程度露骨に破っているかのようにさえ見える。もう一つの結論としては、近親者による臓器提供の同意または拒否が実際にはどのように扱われるかという問題が、ヨーロッパのそれぞれの国で行われる臓器提供の数を決定づけるうえでかなりの部分をしめているといえる。
 

臓器提供の件数をふやすための実用的な組織の重要性
(The significance of practical organization for the number of organ donations)

公共の議論では、生前同意から推定同意への法改正が、ウェイティングリストの問題といっしょになった臓器不足の問題をある程度解消するだろうという主張にしばしば出会う。この文脈では、人々は、法律と臓器提供の件数との間にはっきりした一本線が引かれるのかどうかという問いを忘れているように見える。承諾についての規定は決定的な要素なのだろうか?

ここに、他の要素が臓器提供の形式を規定する法律と同じぐらいかそれ以上に重要な働きをしていることを示すものがある。たとえば1996年1月に実施されたスウェーデン臓器移植法の改正は臓器提供の件数にさしたる変化を及ぼさなかった。それに対してスペインは、臓器提供の件数にとって、組織的なパラメーターが特に重要であるという最もわかりやすい例である。

スペインの臓器提供者獲得モデル
(The Spanish organ donor procurement model)
スペインでは1989年以来、年間の臓器移植の件数が増加している。1996年には、腎臓移植の件数が世界中で一番多かった。100万人あたり43.8件、あったのである。スペインのある研究者によると、公式に述べられている臓器提供の増加数は、国立の臓器移植の機関、ONTの設立に負っているとのことで、この組織の主な目的は提供臓器の獲得の改善である。国立の臓器移植機関は、この目的の達成に数々の主導性を発揮している。

第一に、包括的、組織的な方法が取られた。国立の移植機関は、全国的な移植コーディネーションシステムの首脳部としてマドリッドに置かれ、地域コーディネーターが17の地域のそれぞれに、そして、コーディネーターがすべての病院に一人ずつ置かれた。病院コーディネーターは特に中心的な役割を果たす。彼らは、潜在的ドナーの家族に話し掛け、臓器提供の恩恵について説明する。彼らの成功は、臓器提供の承諾をしぶるのは4分の1以下であるという事実によって評価されるだろう。

 「移植のための臓器提供 スペインモデル」("Organ Donation for Transplantation. The Spanish Model")という、ONT発行の本によると、ドネーションインタビューとよばれるもののさまざまな側面が検討されている。1)インタビューの準備。病院のなかでその家族のためにプライベートな場所を確保し、さまざまな家族メンバーの態度についての情報を得る。2)できるだけ、脳死判定基準について、形式ばらないくだけた説明を家族に対して行う。3)次に、実際的な、臓器提供についての質問を行う。その際、最初の試みの後、30分か45分して再び試みるのがよいかどうかという見積もりも含めるべきである。4)臓器提供に賛成する具体的な議論を特殊な組織的方法によって行う。まず、ドナー本人の利益を強調するべきである(たとえばドナーの寛大な人柄とか)。つぎに、仲間への配慮の重要性に触れる(たとえば仲間への連帯を鼓舞するとか)。最後に、最終局面として、社会の利益を強調するべきである(たとえば待機患者のリストとか臓器への社会的な需要とか)。さらに、家族が臓器提供を拒否できる10の理由を追・u毆)加するが、これは、この拒否を臓器提供賛成に変える戦略的陳述と結び付けておく。(Cf. particularly pages 93-111 of "Organ Donation for  Transplantation. The Spanish Model", Organizaci?n Nacional de Trasplantes, 1996.)

一方、経済的な牽引力も臓器提供の件数を押し上げている。すべてのコーディネーターはこの仕事で報酬を得ている。全国的および地域レベルではフルタイムでコーディネーターに雇われる。病院コーディネーターは、病院の仕事と臓器移植の仕事とを持っているので、潜在的ドナーの死体が上がったときだけ、パートタイムで雇われる。病院コーディネーターは、ふだんの給料の一番多い額でボーナスを受け取る。ボーナスの額は、病院コーディネーターが供給する臓器の数によって左右される。獲得数が15より少なければボーナスも少なく、15より多ければボーナスも多い。加えて、国の健康システムは、提供臓器一個につき賞与を払う、それは、臓器提供に係わった医療スタッフの人数に応じて配分される。賞与の額は、獲得された臓器のタイプによって左右される。

オランダとデンマークにおける、医師と看護婦のためのイニシアチブ─コミュニケーションコース
(Dutch and Danish initiatives-communication courses for doctors and nurses)
デンマークでは、医師と看護婦が、死者からの臓器提供ができるかどうか近親者に働きかけるための訓練するためのコースが役立っている。デンマーク移植協会が責任をもって教育を運営しており、これは、デンマーク厚生省(Danish National Board of Health)と、免疫抑制剤サイクロスポリンを製造している製薬企業のSandoz Ltdに助成されている。

このコースはEDHEP (European Donor Hospital Education Programme)と名づけられて始まり、もともとは1990年頃にオランダで発達したプログラムである。デンマークでは1993年から実施されている。コースは二つに分かれていて、EDHEP 1とEDHEP2があり、全部で二日間である。1997年までに、臓器提供に係わる350人の医師と看護婦とがこのコースを受けた。

オランダのプログラムの主な目的は、状況を改善する可能性があるという前提で臓器不足に注意を向けさせることである。デンマークのプログラムでは、一つには、近親者に臓器提供を承諾する気持ちをいかにして起こさせるかという訓練を行う。同じように、コースのより全体的な説明によれば、近親者に対して礼儀正しく尊敬を払った接近法に焦点を当てており、近親者の状況についての情報と理解(共感)が中心的な課題になっている。
 
 

デンマーク倫理委員会の見解
(The Danish Council of Ethics' views)

デンマーク倫理委員会の臓器提供の承諾についての議論の中心は、個人、近親者、潜在的レシピエント、社会等をより尊重する方法の可能性だった。

デンマークの法律の規定は近親者を保護している。これは特に、身体の医学的検査、検視、移植等に関する法律(Danish legislation on Medical Examination of Bodies, Autopsy and Transplantation etc.)の、近親者は死者本人の臓器提供の希望を拒否できるという点に反映されている。これはなにもデンマーク移植法が、死者本人の希望や、ましてや、臓器提供と潜在的レシピエントとをを考慮に入れないということではない。本人の意思の尊重は、生前に、その人が口頭で臓器提供に関する希望を述べる可能性をもっているという事実でもって表現されている。潜在的レシピエントの尊重としては、臓器提供への問いかけが、大々的には公衆への一般的な情報提供キャンペーンとして行われ、個別具体的な問いかけの方法としては死者の遺族へ向けて行われている。

倫理委員会全員の意見は、推定同意(プレジュームトコンセント)の導入を勧めないという点で一致した。

Niels Henrik Arendt, Naser Khader, Lene Koch, Ebba Lund, Linda Nielsen, Sigurd Olesen, Marina Cecilie Ron?, Lars-Henrik Schmidt, Karen Schousboe, Inga Steiner S?rensen, Erling Tiedemann and Marianne Wangstedは、デンマーク臓器移植法における臓器提供承諾の要件に関しては法改正しないことを勧めている。これらの委員たちのほとんどは、臓器提供に関する本人と近親者の両方の希望が尊重されるべきであり、現行の臓器移植法は両者への顧慮においてちょうどいいバランスを保っていると強調している。これらの委員達はまた、遺族と病院スタッフとが対決する必要が生じるかもしれないような状況は、誰も倫理的に受け容れられないので、避ける必要があると強調した。

Frederik Christensen, S?ren Holm, Pelse Helms Kaae and Sven Asger S?rensenは、本人が表明した臓器提供の承諾を遺族が拒否できないようにデンマーク移植法の承諾の要件を法改正することを勧めている。その結果、遺族の意思は、本人が何も意思を表明していないときのみ関係してくることになる。

デンマーク倫理委員会は、委員会の決議において、臓器の需要が満たされ、ウェイティングリストの問題が解決されるような、どのような法改正をすることも意味がない、と指摘したい。

なんとなれば、第一に、われわれが臓器を獲得する方法を改善すれば、ますます臓器の需要が増すだろうからである。治療方法としての臓器移植の指標が変化すれば、医師たちはより多くの健康に関連する問題を移植によって解決することができるとみなすであろう。その意味において、移植のための臓器の需要は、たぶん、常に臓器の供給の一歩前を行くであろう。

第二に、承諾に関する規定は、おそらく、臓器提供の件数の決定的な要素ではないからである。他の国々の経験から推し量るに、異なるタイプの組織的な方法が臓器獲得の数を決めるのに同じぐらいかそれ以上にだいじな働きをしている。デンマーク倫理委員会は、このような組織的な方法のなかには倫理的に問題のあるものがあるとみなしている。

たとえば、獲得された提供臓器の数に応じて医療スタッフに報酬を払うなどということは、倫理的にほとんど受け容れがたい。臓器を獲得するために、医療スタッフにこのような経済的刺激を与えるべきではない、なんとなれば患者の最近親者が臓器提供について非指示的な情報を得て承諾を与えられるか(non-directed informed consent)を与えられるかどうかについて重大な疑いが生じるからである。

デンマーク倫理委員会は、それゆえに、医療スタッフを、経済的刺激を受けて臓器提供への問いかけをするような状況におかないことを勧める。

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