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倉持案へのコメント
てるてる

  「てるてる案」発表後(http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/civil.htm)、松本歯科大学の倉持武氏から、10月6日に日本医学哲学倫理学会主催で開かれた生命倫理コロキウムで発表されたという、チェックカードの増補版と、「脳死・移植・自己決定 -- 脳死臓器・組織移植に関する倉持私案 --」(松本歯科大学紀要第26輯 1997 p.1-13)を送っていただいた。
  増補版チェックカードの付加項目は、脳死の実際の状態や脳死判定の内容にふみこんでいる。また費用関係の項目では、「臓器提供に必要なお金」を取り上げている。これらの重要な項目を加えたおかげで、非常に充実したものになっていると思う。
  「倉持私案」は、1997年の現行の臓器移植法が制定された後に発表された、現行法への批判論文のなかにおさめられているが、私案そのものは、1996年11月に作成されている。
  私案のなかには、てるてる案と共通する点や、疑問を提出しただけで留めておいたもの・今後の課題としたものへの一つの解答となるものもあり、早くからこれらの条文を作成されていた倉持氏に敬意を表する。一方、臓器提供者本人が「脳死を個体死と認める」ことを臓器提供の必須の要件としている点で、てるてる案とは根本的に異なっている。以下に、まず相違点について、つぎに共通点および課題への解答となっている点について、コメントをつけさせていただきたい。
  現行法への批判論文のなかで、倉持氏は、「脳死移植は権利問題なのである」と定義し、
  「脳死移植は、最大限保護されるべき法益、生命と、最大限尊重されるべき自由、自己決定権が正面衝突する現場なのである」
と敷延している。その考え方にしたがって、
  「『生者からの心臓摘出は殺人だ』という見解も、脳死移植に反対する人からのものであれば、事柄に即した議論の出発点になる。しかし、脳死移植を推進しようとする人からのものである場合、それは事柄に即した実質を持たない法律技術上の一見解にならざるを得ない」
と指摘し、また、金田案などの違法性阻却案については、
  「『特殊な状態』で、『生と死のグレーゾーン』にあり、『蘇生限界点を越え』『死につつある者』を、いかなる根拠と権利に基づいて、その者の心停止を早めてまで、移植のための手段として利用するのか、という形で問題を立て、ここで問われている権利問題に答える仕方で、比較考量と妥当性の根拠づけを行わなければならなかった」
と指摘している。
  では、倉持私案では、権利問題としての脳死移植に、どのように答えているのか。
  まず、法案のなまえが「脳死臓器・組織移植に関する倉持私案」となっているように、「臓器」の摘出だけでなく「臓器・組織」の摘出を扱う法律として、明確に定義されている。ただし、対象は「脳死」の場合に限られ、角腎法のもとで規定されている心臓死下の角膜・腎臓の提供については、附則で検視などの捜査手続を必要とする場合にふれているほかは、影響を及ぼさないものとなっている。また、生体からの移植については規定していない。この点、てるてる案では、身体死(心臓死)・脳死・生体からの移植を一つの法律で扱うことにしたのと異なっている。
  つぎに、第一条「法律の趣旨」で、「脳死体」からの臓器・組織の摘出は、「提供者の趣旨を活かし、移植適応者の救命等のため」に行うものとしている。
  そして、「脳死を法的に生とするのか死とするのか」という点について、第六条で、「脳死を個体死と認める者が脳死と診断された場合」に、本人の書面による生前の意思表示と、家族の同意、または、家族がいない者については代表弁護士の同意があれば、脳死体からの臓器摘出を認める、としている。さらに、後の条項で、脳死体の定義を「不可逆的脳不全と診断されたもののうち、脳内酸素供給停止に陥った者」とし、「法的脳死判定」と言われているものも、「不可逆的脳不全」の診断としている。診断そのものには家族の同意を必要としていない。死亡時刻については、第七条で、(脳死を個体死と認める者から)臓器・組織の摘出を行う場合に限り、脳死診断終了時刻を死亡時刻とするとしている。
  このように、倉持私案では、本人が「脳死を個体死と認める」ことが臓器提供の必須の要件となっている。つまり、「不可逆的脳不全」と診断された場合、本人がその状態を「個体死」と認めていれば、臓器の摘出は殺人ではなくなるとしたわけで、これは脳死選択論と呼ばれる立場のものである。「最大限保護されるべき法益、生命と、最大限尊重されるべき自由、自己決定権」の衝突を、本人が臓器提供への意思と、「脳死を個体死と認める」意思とを表示するという、死の定義または選択までを含めた自己決定権を、最大限に尊重することによって、解消している。
  この点、脳死後の臓器提供の意思表示と脳死判定の承諾との両方を要件としている、森岡案(現行法)とよく似ているけれども、本人が「脳死の判定」ではなく、「脳死を個体死と認める」ことと明確に定義している点、および、脳死判定に家族の承諾を必要としない点で、より本人の意思を尊重していると言えるであろう。
  このことの当否であるが、脳死は、高度に延命治療技術の発達した現代医学によってつくりだされた状態でもあるのだから、死の定義または選択を自己決定権のなかに含めることが、ただちに不適切であると決めつけるわけにもいかないと思う。ただ、この方法によっては、脳死が条件によって死になったり生になったりするという、現行法の根本的欠陥の一つとして指摘されている点は、解消されたとは言えない。それに対して、法的な死を、町野案は「脳死」で統一し、てるてる案は「身体死」(心臓死)で統一し、死の定義または選択を本人の自己決定権に含めないという方法で解決を図ろうとしている。
  以上が、倉持私案とてるてる案(および町野案・森岡案)とのおもな相違点である。
  つぎに、倉持私案とてるてる案の共通点をいくつか挙げる。
  臓器提供の承諾権を認める家族の範囲を限定したり、臓器提供者に家族がいない場合の代理承諾権者を立てるなどは、基本的にてるてる案と同じである。また、臓器提供者側に、移植後の記録の閲覧だけでなく謄写(複写)を認めている点が現行法と異なり、てるてる案と倉持私案との共通するところである。総じて、家族のいない人の権利の保障を法制度化する点、および、移植の当事者に対する情報開示を重視する点で両案は共通している。
  最後に、てるてる案でカバーしていなかった改正点を挙げる。
  倉持私案では、臓器提供希望者への、意思表示前の臓器提供についての説明を制度化していない。しかし、移植希望者への、移植待機患者として登録する前の移植医療についての説明と記録の作成と本人への開示を、第四条「医師の責務」で制度化している。また、第十一条「記録の作成、保存及び閲覧」でも、移植を受けた人に移植後の記録の閲覧だけでなく謄写(複写)を認めている。
 そして、異状死の扱いについて、第八条「臓器・組織摘出の制限」で、詳細に規定している。異状死については、倉持私案で引用している日本弁護士連合会の修正案や、生命倫理研究会の1991年の案でもとりあげているが、それらよりもきめこまかなものになっている。
  最後に、附則の第七条で、脳死判定から摘出までの費用を、「医学的もしくは刑事訴訟法上の事由により移植が行われなかった場合においても」、「全部移植術を受ける者が負担する」と明確に規定している。これは、倉持氏が現行法への批判論文のなかで、不合理であるとして批判していた部分でもあり、非常に適切な規定であると思われる。
 

以上