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作成:森岡正博 
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アメリカ人よ、9月11日のテロで自らを責めてはならない
 

Catherine Labio

"Americans, don't blame yourselves for Sept. 11"(Christian Science Monitor Oct.10)

(翻訳:岩田憲明

NEW HAVEN, コネティカット。 「どうして彼らは私たちを憎むのか」この問いは子供からブッシュ大統領に至るまで、9月11日の痛ましいテロ攻撃以来、広くアメリカのあらゆる層の人々によって繰り返し問われつづけてきた。それはアメリカ人が憎しみのためにこのような忍びがたい攻撃が行われたのであり、彼らの憎しみを知りそのことを問題にする機会がありさえすれば、このようなテロ行為が防げたのではないかと考えているのではないかと思わせるほどである。この問いは多くの面で奇妙であり、根本的にバランスを逸した行為に対して異常なまでに自ら進んで非難を受けているような印象を受ける。
 学者や知識人の中にはアメリカ人にこのテロの責任があるかのように思わせるような態度を取っており、それは時として聖人君子の体をなし、困惑するほどの自然な盛り上がりを見せているがが、今までこれほど明らかに誤った行為はなかっただろう。彼らはほとんど容赦なく自分たちの議論に引きずり込むが、それと同じように、その原因はおろか、その責任でさえ、その議論とは別にしなくてはならないことについては眼を向けようとはせず、そのことはテロ攻撃のために合衆国が非難されている状態に油を注ぐ結果となっている。もちろん、なぜ(アメリカ人)以外の人たちがアメリカの空前の経済的、政治的、文化的支配を不愉快に思うかを知ろうとすることは大切なことである。しかし、現在のアメリカの力を9月11日に起ったことの第一の原因とするのは全く筋違いである。

 本当に、いかにしてかつて米国を狙った外国からの敵が米国国土で攻撃を仕掛けるに至ったか、また、間違いなくそれを仕掛けるにせよ、自己防衛の必要や批判の余地のない文化の実力を省みずに、皆でよってかかって喜んで自分たちを鞭打つことにどのような意味があるというのか。

 他に広く行き渡っている「どうして彼らは私たちを憎むのか」ということへの答えが、彼らが自由、そして「文明」は言うに及ばず、アメリカや西側世界の持つすべての偉大なものを憎んでいるためであることはこれ以上説明するまでもないのは真実である。しかし、そのことによってテロリズムが弁護の余地がないと理解するメリットがある。米国の外国政策が9月11日の攻撃の原因ではなかったことは連邦政府がオクラホマシティの爆破を引き起こしたのではないのと同様である。米国への憎しみ、連邦政府への怒り、これらは事の十分な理由ではない。もちろん、「名誉殺人」を我々が突然良しと考え、レイプの犠牲者は自業自得であり、フェミニストや堕胎医、ゲイの活動家、ACLU(米国自由人権協会)、その他キリスト教原理主義者が目くじらを立てる人々による堕落の故に攻撃がなされたとするなら話は別である。

 私は米国の政策を国の団結の名のものに考察するべきではないとか、多くの人が感じている無力感を捨て去れと言っているのではない。しかし、この問題を論じるにあたって、アメリカ人がそれらの問題を9月11日のテロ事件の原因であったと示唆するのはおろか、そう主張することに注意を促したい。また、約80以上にものぼる国々の数千人にものぼる大虐殺がアメリカ人にその経済的もしくは政治的不正を正すべく「もたらされた」などという議論もそうである。

 これだけの規模のテロはほとんど政治的に云々することではない。ハイジャッカーが貧しく教育を受けていなかった者たちでなかった。彼らの激しい攻撃の裏にある論理を詳しく列挙する不満やメッセージのリストは残されていない。この原因の一つはこの攻撃が正当化されないからである。人々や社会的組織はその不正な行いを非難され得る。(しかし、)それらが正しい行いの故に、もしくは何の根拠もなしに、力と開かれた政治システムに恐怖を与えることを望む人々に故に恐怖にさらされている。

 私は「どうして私たちが憎まれるのか」という問いの背景にある論理を信じないが、その問いの中には注目に値する唯一のアメリカ人の特質もある。私はこの国に約18年間住んできたが、まだまだヨーロッパ人であり、この手の質問がやまないことの背景にある誠実さに戸惑い心を打たれている。ひとつには、外国からの反米の意思表示に私がアメリカ人ほど驚かないからであろう。また、恐らく私がこのような憤慨があまりの富と力に不可避に伴う副産物だという考えをアメリカ人よりもあっさりと受け入れてしまうからであろう。

 しかし、そのことを以って「どうして彼らは私たちを憎むのか」という問いをヨーロッパ人の「同じ世界に住んでいるのに、どうして私たちは憎まれないのか」という問いと共に捨て去るつもりはない。そのことが純真さに基づく、恐らくは米国の外の世界に関する痛ましいまでの無知、時としてあまりにご都合主義で偽善とさえいえるある種の無知にとっては思いがけないこととはいえ、またこの問いは、広い意味で、外交政策は道徳の原則によって導かれるべきであるとするアメリカの共和主義に顕著な緊張をさらけ出してしている。

 いかなる国も常にこのような理想に従って行動できないからといって、そのことがアメリカ人がこのように主張しようとすることを否定するわけではない。より重要なのは、アメリカの自身の持つ力とそれを監視せずにはおれない性格とが落ち着かない関係にあるのだが、そのことが、どうやら、今までアメリカの反撃を支え続け、これから軍事的な優位と共に道徳的権威が決定的な役割を果たすグローバルなテロリズムに対抗する世界規模で支持されている組織的活動をリードする政府の働きにとって、マイナスというよりはプラスに働いているということである。

※ Catherine Labio:ベルギー出身。エール大学助教授。フランス文学との比較文学専攻。

原文の一部:"Nowhere has this fallacy been more in evidence than in the sometimes sanctimonious and embarrassingly automatic alacrity with which some academics and intellectuals have invited Americans to take responsibility for the attacks. Their almost relentless insistence on contextualization and their unwillingness to focus equally on the need to separate context from cause, let alone responsibility, have added up to blaming the United States for the terrorist attacks. It is, of course, important to try to understand why others might resent America's unprecedented economic, political, and cultural dominance. It is something else altogether, however, to go on to represent American power as the primary cause of the events of Sept. 11."
http://www.csmonitor.com/2001/1010/p9s1-coop.html