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1999年10月15・22日 『毎日新聞・九州版』夕刊掲載 文化欄 批評と表現
たのしい不便−消費社会を超えて 対話編 福岡賢正(学芸課)との対話
*入力ボランティア:MAPUさん
15日(上)
『生の喜び奪う無痛文明』 『「身体の欲望」から「生命の欲望」へ』
森岡 かもしれない。
福岡 例えば、毎日新聞は昨年「過剰な消費にブレーキ」をという社説を出しました。そこで過剰な消費の最たるものとして指摘していたのが、多量の電力を食う自動販売機です。でも、ぼくが所属する福岡総局のビルには自動販売機がいたる所にあって、社員は使いまくっている。言っていることとやっていることが違うんです。誰だって過剰な消費にブレーキをかけなきゃいけないなんてことは、もう分かっています。問題なのは、人も自分も分かっているのになぜできないかなんですね。そこに目をつぶって正論を吐いても世の中は変わらないでしょう。もちろん現状肯定でも変わりませんが。
森岡 かと言って欲望の否定でも変わりません。
福岡 そういう禁欲の思想は古代から世界中いたるところにあったんですが、それらが消費化とか、環境破壊型文明の進展を止められたかというと、全く止められなかった。総負けですよね。
森岡 欲望の問題は人間の内面の問題だとは言い切れないんですよ。かと言って下部構造、経済構造だけの問題だけでもありません。社会の中にあるいろんな装置によってわれわれの内側にある欲望のある部分が活性化されます。でもわれわれの中のある欲望が回転し始めると、それが社会の中のある装置を育てていく面もある。つまりわれわれの内面と社会の中の装置とを行ったり来たりしながら社会全体をある方向に押し進めている何者かが敵なんです。流れとしか言いようのない何者か。
だから「内面を見つめなさい」と言われた時に、欲望の文明は「それはそうですね」と言っとけばいい。そして「おいしいリンゴがあるよ」とか、「こっちにこんないいもんがるよ」と言えばいい。内面の問題はどうぞご自由にって。内面だけの戦いをしていたらそうなる。でも、敵はどこだと外ばかり探して敵退治しててもダメなんです。
福岡 自分の内にも外にもあるその敵とどうやって闘っていけばいいか、それを懸命に考えたのが「無痛文明論」ですね。それにしても無痛文明とはうまい命名だと思います。苦しみやつらさを極力排除しようという文明の方向性と、その結果人々がだんだんと生きる喜びを失っていきつつある状況が見事に表象されている。
森岡 でも、反響は賛否両論ですよ。もっとも批判されたのが「条件付きの愛」「条件抜きの愛」という部分でした。「条件抜きの愛」なんていう言説そのものが「お前の愛は本物じゃない」と言って上からたたいていく抑圧装置だ、みたいな。私の表現にもまずいところがあったんだけど、それにしてもすごい反発でした。
福岡 障害を持った生を極力はやく見つけて排除し、親や社会が望む生だけを選択して誕生させようとする受精卵診断などの生殖医療を例にあげて論を展開しておられた部分でしょ。そういうテクノロジーを押し進める現在の文明の方向が、「自分は条件付きで存在を許されたんだ」という原感覚を社会に蓄積させていき、「条件付きじゃないと愛されない」という雰囲気を作っていくんだ、と。一番痛い指摘だったんだろうな。みんな直視したくない部分だから。でも、それが愛の確信を奪っていき、自分の存在を肯定しにくくしているというのは当たっていると思います。
森岡 テクノロジーの進み方を見ていると、私にはそうとしか思えない。でも、それは文明が誕生した時からその方向に進んできて、それが近年よりはっきりしたベクトルになったという見方です。
福岡 今や障害児だけでなく、子ども全般が親にとって自己実現の邪魔と感じるようになりつつありますからね。その足かせの重さを少しでも軽くしようと、親好みの子になるよう強要している場合が多い。
森岡 逆の場合もありますよ。子ども命みたいな。
福岡 でも、自分のために子どもをいじっている点では同じで、結局はどちらも「能力」で子どもを評価してるでしょ。勉強やスポーツができるとか、言うことを素直に聞くとか。ぼく自身も子どもが邪魔だと思ったことが随分あります。腹が立って、虐待に近いことをしたこともある。子どもって全く先の読めない存在でしょ。いつ病気するか、いつ泣き出すか、いつウンコするか分からない。全く計画が立たない。無痛文明とは計画を立てて、それを実現するためにさまざまな条件をつけてコントロールする文明だと書かれていました。その意味で子どもは極めて反無痛文明的存在ですよね。だから今や、受精卵診断や出生前診断で排除しようとしている障害者だけではなく、子ども一般が邪魔と感じるところまで文明の無痛化が進んでしまったということじゃないですか。その流れが子どもだけではなく、老人とか、病人とか、リストラした人とかに罪悪感を懐かせている根源だと思うんです。
森岡 今、遺伝子の解読やってるでしょ。そのうち受精卵とかの遺伝子をバーッと見ておいて、あまり病気しないとか、何とかのウイルスに耐えるとか、老人になってもボケないとか高血圧にならないとか、そういうやつだけを選んで育てたら楽だろうという技術がきっと出てきますよ。まさに子どもを予測可能にしていこうという流れです。文明の方向は。
福岡 そういう無痛化の流れを生み出しているのは、苦痛を避け、現状維持と安定を図り、すきあれば拡大増殖しようとする「身体の欲望」だと書いておられましたね。
森岡 ええ。この身体の欲望というやつは、自分を守った上で拡張していこうとする。崩しにくるやつは徹底して排除して攻撃して、またガッと守る。その挙げ句、先の見通しを全部つけちゃって、そこから外れるものは予防的に排除していくという性質がある。ところが欲望っていうのは、実はそういう形の欲望だけではないんです。
福岡 例えば。
森岡 変わっていきたいという欲望ってやっぱりあると思うんですよ。今と違った私になりたいと。その違った自分になりたいという欲望の中には、自分が今確保しているものを捨てながら変わりたいというものが含まれている。自分がやりたいと思ったことができるようになることで、それまで維持してきたものを捨てられていたとか、捨てると同時に変わっているみたいな。そこに欲望が身体の欲望のほうに花開いていくのとは別の道筋が見えている。つまりモノをいっぱい集めて太るよりも、むしろスリムになりながら自分を変えていきたいっていう欲望もあるんですよ。これさえできるようになれば、ほかはどうでもいいというような時がそうです。
身体の欲望とは違うそういう欲望を、私は「生命の欲望」と呼びたいんですが、文明の無痛化の流れを変えるには、身体の欲望として噴出してくるものを、この生命の欲望に変えていく道筋しか残されていないと思うんです。
福岡 問題はその考え方ですが。
森岡 私は転轍(てんてつ)という言葉で考えているんです。列車のレールをガチャンと切り替える、あれ。欲望というのは列車みたいにガーッと走ってるでしょ。その走ってる列車を正面から止めに行ったってつぶされて終わりです。でもレールをカチッと切り替えると、走ってきたその勢いをそのまま生かして向きを変えることができるでしょ。「そっちもいいけど、こっちもいいぞお」って言いながら、私の外にあったり内にあったりする身体の欲望をそそのかし、誘惑していく。そしてよろめいた所をカチンと転轍しちゃう。だから禁欲じゃなく、闘いは誘惑になるんです。で、誘惑する時には「こっちのほうがもっと気持ちいいよ」って、向こうの言葉を使う。気持ちよさって身体の言葉でしょ。
福岡 自転車のほうが車より気持ちいいし、健康にもいいよって。
森岡 で、転轍されて来てみると、確かに気持ちよさとも言えるかもしれないけれど、実はそれは喜びのことだったんだと気がつく。最初からこっちは喜びだぞって言っても、向こうはソッポ向いちゃうから。ただ、身体の欲望というものはすべての人が自分の内にも外にも抱えているわけですから、そそのかす時には人もそそのかすけれども、自分もそそのかさないといけない。
福岡 こっちはいいぞと言ったり書いたりすることは、自分をそそのかしていることでもありますよね。人は言葉に出したり文字にしたりすることで、自分に言い聞かせたり考えを整理したりするものだから。ぼく自身こういう連載をやりながら、自分に「そうだろ」「そうだろ」と言っているところがあります。
森岡 私も半分は自分に対して言ってるな。で、残りの半分は私以外の人々のある部分に働きかけているつもりです。どんな人の中にも無痛文明の中で楽して生きていたい私と、どっか変と思っている私と大概二つ別にある。そこに葛藤があって、葛藤が多い人も少ない人もいるんだけれど、いろんな人の「これじゃダメなんじゃないだろうか」と思っている部分には届いてほしいわけです。
22日(下)
『エロス−交わることで変わる』『防御の力を受容の力へ』
福岡 環境問題やジェンダーの問題などは既得権を捨てないと解決不能なのが分かっているのにもかかわらず、人々は既得権を捨てずに現状維持したまま何とかしたがってますよね。それは既得権を捨てると自分のアイデンティティが壊れてしまうからだと「無痛文明論」書いておられましたが、同感です。でも、心の深層で自分を支えているアイデンティティを壊さなきゃ既得権を捨てられないとしたら、自分一人で作業するのは難しいでしょうね。
森岡 欲望を転轍する一つのやり方は、自分はこれさえできるようになれば他はどうでもいいと思える何かが見つかった時に、その欲望を徹底して追及するという形に欲望の流れをもっていくことですが、もう一つは他者と交わる方向にもっていくことです。人とのやりとりは自分を防御していてもできますが、自分の自分の防御壁を開かない限り、交わることはできません。エロスというのはまさにそうでしょ。防御を解いて、生身の自分をさらして交わる。
福岡 交わったら、人は変容しますよね。ぼくも妻と随分衝突しますが、本当に存在をかけて迫ってきますからね。男女同権だ、弱者の味方だ、なんて口では言っていても、意識の底では女性や弱者を抑圧するような考えを持っていたりする。それが暴かれるわけです。それを突きつけられた時に、ハッとする。染みついたものだからなかなかすぐには変われませんが。
森岡 目隠しを張りめぐらし、構造を変えずにうまいとこやってる人も世の中には多いけど、それは交わってないんです。本当に交わったら、そんなことしてる自分が息苦しくなって変容せざるをえなくなる。そのプロセスの中で「身体の欲望」というのは崩されてるわけですよ。既得権を守ってる限り、人を道具として使うことはできても、交われないですから、誰とも。その交わりたいという欲望はエロスという形であるわけです。既得権を捨てて自分を殺しながら、誰かと融合するプロセスを経て自分が変わっていきたいという欲望、これはすごいでしょ、と言いながらまた誘惑する。だから、「身体の欲望」を転轍する時に、エロスの力って使えると思う。ただ、無痛文明はエロスも全部骨抜きにして、エロスじゃないものに変えちゃうんです。エロスじゃないものは安全だから。
福岡 変容を迫られませんからね。「身体の欲望」を満たすだけの道具として使えば。
森岡 予想の範囲内での快を提供してくれる。そんなものはエロスでもなんでもない。エロスは、自分を守ってきたものが全部崩れるかもしれない、自分のプランが全部ダメになるかもしれない、けれどっていう瞬間に訪れるようなものですよね。実は人間にはそっちの欲望が強くある。それを骨抜きにして快楽を供給してくれるのが無痛分明なわけですよ。だから快を得た後で虚しさだけが残る。
福岡 自分が崩されることも覚悟して交わってこそ、その虚しさから解放され、生の喜びが訪れるというのはとても分かる気がします。
森岡 もう一つ「身体の欲望」で大きいのが、他者を犠牲にしたい欲望。自分のために誰かが犠牲になるのもやむをえないというだけでなく、他者が犠牲になるからこそ楽しいっていう何か。これはとても根深い。ボクシングとかで相手がグチャグチャにされるKOシーン見て興奮するのは、自分が応援してる側が勝ったからじゃないですよ。
福岡 勝者に自分を重ねているにしても、その勝者の目で相手がやられているのを見て喜んでいるわけですからね。
森岡 それを転轍する方法は、微妙な部分があるのでこれから出る無痛文明論の続きを読んでほしいんですが、一言で言うと私はここまでやってきたけれど、これが限界という時に、その私を無慈悲に犠牲にして別の人が前に進んでいってくれ、みたいな話です。
福岡 つまり意に反して犠牲になるんではなくて、喜んで犠牲になるような。
森岡 ええ。自分の限界に達した時に、自分を踏み台にさせるというかな。その相手はだれだか分からないんだけど、踏みつけていく人は恩にきらず、無慈悲に奪っていくべきだということ。それを「補食の思想」と名付けたんですけど。
福岡 進んで相手の食物になっちゃうということですね。以前対話の相手をしてもらった森崎和江さんが、赤ん坊におっぱいをやっているときに、自分は赤ん坊の食べ物なんだという感覚を覚えたと何かに書いていらっしゃったけど、それと通じるな。子どもにスネかじられるという言い方もしますよね。
森岡 ただ、これは民主的な考え方ではないんです。その点で徹底的に批判されると思う。でも、他者を犠牲にして喜びたいという欲望を転轍する方策としては、今んとこ私はこれしか考えつかない。それを転轍しない限り、その欲望に対しては禁欲の思想しかないわけでしょ。人間にはそういう悪があるから、なるべく禁欲しましょうと。転轍するとしたら、それを補食の思想で変えていくしかない。ただそれは見かけ上、共犯関係的支配や帝国主義的侵略を容認する考え方と同じ言葉になっちゃうのね。でも可能性がある以上、私は言いたい。
福岡 食べてもいいよと身を投げ出された時に、おおきにと食べて、前に進んでいくことも可だと。
森岡 そういう連鎖が続いていくという世界。これは何かの急所を突いていると私は思う。危ない面を含みつつも、何か突破口になるんじゃないかと思うんです。
福岡 今まで話してきたようなことは理屈では理解していても、「人間は弱いから」と、現状肯定に逃げたい自分がすぐに顔を出します。
森岡 それがウソだと言いたいんです。「人間は弱いから」と言って防御する力って弱くないでしょ。
福岡 なるほど。「自分は弱い」と言い聞かせることで自分を必死で守ろうとしてますね。
森岡 すごい力で防御しながら、「私は弱い」と言う。力はあって、使っているのに、それ全然見ようとせずに「私は弱い」と言う。「そんなことはとてもできない、とてもできない」と言っている。
福岡 確かにそうです。
森岡 例えば、エネルギー消費を減らさざるを得なくなったら、暗黒社会になると思いこんで怖がってることろがあるでしょ。でも、実際にエネルギー消費を減らして暮らしはじめたら、予想していたものとは全然別のものが現われて、ありゃあ話が違うじゃんみたいになる可能性もある。
福岡 多いにあります。
森岡 いろんな問題においてそうなっていく可能性があるとうことですよ。なのに、その可能性がないと思わされているし、自分でも思い込もうとしている。それこそが、無痛文明の罠だということです。「私は弱い」とか「人には欲望があって」とか言ってみんなで信じ込もうとしている。そこから外れたら暗黒の世界が広がっているぞ、と。その罠にはまってませんか、と問いたいわけです。
福岡 家族などが引きこもり、非行などの問題行動を起こしたり、病気や障害で要介護状態になるなどの事態に陥ったときにも、人はアイデンティティの変容を迫られますよね。ということは、それらの問題を可能性として生かすこともできますよね。
森岡 だから、今問題だと言われていることはすべて可能性だと私は思います。先延ばしにしてきたものに、そこで初めて直面できるんだから。
福岡 その意味では環境問題も巨大な可能性ですよね。高齢化社会の問題も。少年問題も。生命の喜びを感じられるような社会にしていくチャンス。マクロレベルでもそうだし、ミクロの個人的な問題に直面した時もそうです。変容を迫られるわけだから、その問題を通して。
森岡 ただ、誰のために変わるのかと言えば、自分のためなんです。あんたのために変わってやるという話じゃない。そこがポイントです。
福岡 恩を着せるのは違うということですね。自分が生の喜びを得るために変わるわけだから。でも自分のために変わると言いつつも、そういう自分を誰かに認めてほしかったりします。
森岡 でも、それは「身体の欲望」です。だから認めてほしいという欲望に自分の営みが引っ張られていくというのはダメだと思うんですよ。認められてうれしいっていうのは別に構いません。でも認められることが目的になって、それを中心に自分が回り始めることが問題なんです。だから認められてもいいし、認められなくてもいい。
福岡 子どもの絵みたいですね。別に認めてほしくて書くわけではないでしょ。
森岡 確かに似ています。
福岡 内面から表現したいという衝動が起きて、それに突き動かされるように自然に手が動くという感じ。それを見て誰かが「面白いね」と言ってくれるとうれしい。でも別に言われなくてもそれで満足している。それに近い。そんな内側からわき出る生命の欲求みたいなものを表に出しにくいから、今の社会は息苦しいのかもしれません。
森岡 それはあると思う。昔はどうだったかは分かりませんが、今の社会を見ているとそういう表現は抑圧され、無力化されていますね。
福岡 なかなか自分を出せなくて精神的な便秘状態になっています。だったら、評価を求めないそういう表現の方法をそれぞれが獲得していくことも、無痛文明から脱出する糸口になる気がします。
森岡 私もそう思う。ただその場合、表現というものは非常に幅広くとった上で。
福岡 生き方自体が表現みたいな。
森岡 そういうことだと思います。