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第四章 田中美津論 とり乱しと出会いの生命思想
第1節 便所からの解放
田中美津は、胎児の生命を絶つという事実から目をそらすことなく、その行為を殺人としてとらえる。そのうえで、自分が殺人者とならざるを得ないようになっているこの社会の構造を、殺人者の目からとらえ直そうとする。もちろんこの言説は、われわれに最終的解答を与えるものではない。しかし、これは中絶賛成/反対の不毛な二分法に足をすくわれがちなわれわれの知性を、もう一段高い地平に引き上げる可能性を秘めている。
田中のこのような独特のスタンスは、その後のフェミニズムの言説にきっちりと受け継がれたとは必ずしも言えない。しかし、われわれは田中のこの道筋を、もう一度受け継いで展開してみるべきである。
田中のこの思想の背景には、田中独自の「とり乱し―出会い」論がある。常に二つの本音から出発するリブの「とり乱し」論の裏付けがあって、この「殺人者」論が出てきているのである。女の身体は女のものという想いと、私は胎児の殺害者だという想いとの、その間でとり乱す地点から出発するのが、田中のリブなのであるから。
・・・(中略)・・・
田中は一九七〇年六月に、「便所からの解放」(2)という長文ビラを、「ある日突然、しかも一気に書き上げた」。それは同じような想いをもっていた女性たちにたちまち流通してゆく。田中がその後書いたビラには、この文章からの転用が多い。この、いわば田中の第一作において、すでに「とり乱し」論が展開されている。それをまず見てみたい。
田中は言う。男にとって、女とは、「母性のやさしさ=母か、性欲処理機=便所か」のどちらかである(3)。男は、女を、この二面に抽象化し、分割する。そして、母性の面を結婚相手の女に当てはめ、便所の面を遊びの女に当てはめる。女は、男のこのような二分法に自分を合わせようとして、「やさしさと性欲を一体として持つ自らを裏切り抑圧してゆく」。女は、部分として生きることを強要される。しかし、逆説的ではあるが、「女を部分としてしか生かさない男は又、そうすることによって、自らも部分としてしか生きることができず自らの性を抑圧しているのだ」(4)。
このように分断された性によって、全体的な性のふれあいが消滅し、人間は不完全燃焼状態に陥る。そして、「権威に依存した意識構造」が作り上げられる。こうやって、男も女も惨めな生を送らなければならない。
そのことに気付いた女は、「性」の管理を手がかりにして女と男を支配しようとするシステムに対して、闘いを挑んでゆくのである。
田中は言う。「われわれは、女の解放を、性の解放として提起する」と(5)。「性」の解放から出発する田中のリブ論がここではっきりと提唱される。
さて、ここから田中独特の論理展開がはじまる。
こういうふうに、支配権力のやり方に気づき、それに立ち向かってゆこうと決意した女が、しかしいったん好きな男ができて子どもを持ったりすると、どうして自分が批判していた家庭や家事などの日常性へと簡単に埋没してしまうのか。田中はこの点に執拗に注目する。そこには、「単に惰性に負けたとか、経済的に自立できなかったという理由だけでは片づかない何かがある」。それは、頭では女の闘いの論理を分かっていても、情念の世界では、好きな男が現われればその男のために尽くしたいとつい思ってしまうという、女の歴史性に刻印された「マゾヒズム的傾向」のせいなのだ。そしてやっかいなことに、女が主体的に男に尽くそうとして自らを抑圧するとき、そこには「陰湿な喜び」「嗜虐的な生きがい」が生じてしまう。そしてそのような陰湿な喜びを感じてしまう自分自身に対して、女は、「どうしようもない自分に対するいらだち」「やり場のない哀しみ」「言葉にならない怨念」を抱いてしまう。こういった、複雑な女の内面が、〈女のうらみ、つらみ〉という表現にあらわれている(6)。
ここから目をそらしてはならない、と田中は言う。
〈女であること〉とは、このような矛盾をかかえて生きることなのだ。理性と矛盾してしまうものをいっぱいかかえた〈ここにいる自分〉を直視し、その中で、「女が生きるとは何か」「はたして自分は女なのか」を何度も問い返していかねばならない。女の解放論理は、このような「理性と情念の相克の中でとりみだしつつ、とりみだしつつ切り拓かれていくのだ!」と田中は宣言する。自分の中の矛盾をさらけ出したり、とりみだしたりすることを回避してはならないのだ(7)。
すなわち、田中のリブとは、女としていまこの時代に生きる自分の中にある「矛盾」や「みっともなさ」を「直視」して、そういう自分自身のあり方に「とりみだしつつ、とりみだしつつ」、「こんな私にした敵に迫っていく」という生き方なのである(8)。
女である自分を、矛盾に満ちた存在としてとらえ、その矛盾に気付いたときの自分自身の「とりみだし」にリブの出発点を置くという田中独自のスタンスは、このビラにおいてすでに確立している。田中のリブは、完全に首尾一貫していて決してとりみだすことのない「どこにもいない女」「どこにもいない男」をめざすのではなく、逆に、自ら矛盾をかかえて、自分自身に「とりみだす」ような「ここにいる女」の解放からはじめようとするのである。
田中のこの思想は、「とり乱しウーマン・リブ論」という副題のついた主著『いのちの女たちへ』によって、さらに深く展開されることになる。
(続く)
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