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庄さん、じゃあ、また
『労働者住民医療』2000.7.25、pp.42-44 発行:労働者住民医療機関連絡会議(連絡先 VZP05217@nifty.ne.jp)

糸山敏和



 

 親友が死んだ。
 2月18日、臨終の言葉も残さずに、死んでいった。

 映画会社に入った最初の1年は、ほとんど社長のことは知らなかった。1年少し過ぎたあたりで、辞表を出しにいったのが彼との関わりの始まりだと、私は勝手に思っている。特に遺留されるでもなく、行きつけの「田原坂」でしこたま飲んだ挙句、彼は最後にこういった。
 「一人の男にかけてみないか。」
 私は映画会社から、庄建設に籍を移した。
 でかい言葉の割には、たいした給料は出なかった。しかし、「食う」ということだけは、しっかりと守ってくれた。経営が厳しくなり、人件費も苦しくなったとき、田辺さんという、私と同い年の経理の女性の提案で、社長の給料は80万円から9万円になった。それでもきついときには、個人でどこからか借金をしては、必ず給料だけは支払った。
 「遊び」に関しても、寛容だった。遊びに行きたくて早退する時は、正直にそういえば「おおいに行くべきです」の一言だった。忙しいときには、誰か他の人に頼めばよかったし、それでも手配ができないときは、社長に仕事を頼んで出かけることもあった。部屋を出て行こうとすると、少し小さな声で「おい、ちゃんと金は持ってるか」と呼び止められた。

 労住医連の機関誌が出来上がり、少しのんびりしていたときだった。
 「糸山さんには言っておかなくてはいけないと思って。」
 庄さんが倒れたという電話だった。
 そんな予感はあった。奥さんの一周忌の頃から、彼の気力が見る見る衰えていくのが良く分かっていた。
 中小企業で親父が倒れれば、倒産は時間の問題だ。まして、莫大な借金を背負った会社を何とかして維持するために、私も奔走しなければならなかった。みな、見舞いに行く時間すらなかった。私がやっと病院に行ったのは、彼が倒れてから10日も経ってのことだった。
 病室に横たわる彼の寝顔は、気味が悪いほど安らかで、血色も良かった。倒れる直前にはげっそりとこけ落ちていたほほもわずかに膨らんでいるように見えた。人工呼吸器の音と、心拍計の光が彼の生命を伝えている。
 看護婦が30分おきに出入する様子は、かなり厳しい状態であることを伝えていた。漠然とした不安の中で、治療についてたずねると、「先生に聞いてください」の一言だった。葬式の準備だなと、私は思った。
 氷嚢を換えるため頭を動かすと急に心拍が早くなり、血圧もがくんと上下した。いま、この瞬間彼が死んでしまうのではないかという恐怖がおそった。
 容態が悪化しては、何とか持ち直す。その連続の中で、少しずつ彼の生命のともし火は消えていくようだった。次の日も、その次の日も、彼の見た目には何の変化もなかった。ただ、少しずつ、彼の心拍が弱くなってきていることを、機械は教えてくれた。
 そして、人間の体にはこんなに水分があるのかと不思議に思うほど尿の量が増えた。ああ、もしかしたら。そう思いながらも、尿量は輸液の量との関係が重要だと自分に言い聞かせ、物言わぬ姿をずっと見ていた。
 ほどなく、田辺さんから、社長が危篤だと電話があった。危篤になったのではないということはもう分かっていた。彼の「死」が確認されただけのことだった。
 「こんな真っ白なのははじめて見た」
 医者は、家族と田辺さんにCTを見せながら説明したという。気の毒そうでうれしそうな医者の顔が目に浮かんだ。
 「でも、泣いてるときじゃないのよね」
と田辺さんは言った。私は「俺の死に様をよく見ておくといい」という社長の言葉を思い出しながら、会社にあった安ウィスキーをあおった。
 次の日の夕刻、今のうちにお別れを言ってあげてくださいと家族の人にすすめられ、彼の枕もとに立った。昨日と何も変わりない姿だった。彼の胸は、規則正しく上下している。ただ、呼吸器の酸素の量が少し減らされ、投薬が減っていた。
 お別れというのはどうすればいいのだろうとぼんやりと思った。手を握り、さようならといえばいいのだろうか。しかし、彼の手を握るのは、とても恐ろしかった。その手には間違いなくまだ血が通い、温かいはずだから。それを感じることはとても恐ろしいことのようだった。30分ほど、彼のそばで黙っていた。
 それからやっと、それでも、恐る恐る彼の手に触れた。かさかさしていた手の甲は、しっとりとやわらかかった。普段から彼の手は温かかったが、ほてるような熱さが、今でも私の左手に残っている。本当はぎゅっと握りたかった。しかし、その手を握り返してはくれないことを知るのが恐ろしくて、黙って、手を添えただけだった。彼の目にはうっすらと涙がにじんでいた。これが生理現象に過ぎないということが、なんともいえず、さみしかった。
 そして、病室を後にした。言葉はかけなかった。

 それから四日後。庄建設に電話をかけた。電話に出た松本さん―松本さんは48年来の親友だった―は「今、ちょっと告知板の発送作業やってるから」といった。庄さんが亡くなったんだと思った。
 その晩、実家の近くの駅前で、ばったり庄さんと出くわした。いつものように、灰色のジャンパーに、黒いリュックを背負っていた。「これから仕事がないんだったら飲みに行こう」と庄さんに誘われた。わたしは「庄さん、庄さんはもう死んだんですよ」と答えた。庄さんはちょっと戸惑ったような顔をして、「それだったら、医者も文句は言わないから、いい、一杯だけ飲もう」そういってずかずか歩き出した。

 嵐のように日々が過ぎた。さまざまな問題も大方は片がつき、庄さんの飲み友達だった人に誘われて久しぶりに「田原坂」にいった。お店の女将さんは一通りの挨拶をした後「でも、お兄さんが一番さびしいでしょう」と言った。2か月分の涙が止まらなかった。

 私は今でも、「脳死」は「ヒトの死」だと思っている。しかし、そのことを受け入れることはあまりにつらい。
 「脳死」という言葉を見るたびに、左の手がじわりと熱くなるような、変な錯覚に陥る。ひとり、そぞろなく本を読んでいると、「庄さん、死んどらんたい」と突然気付く。そしてすぐに、「そんなことあるか」と気付きなおす。あの時、手を握っていれば、さよならといっていれば、庄さんはびっくりして目を覚ましたのではないか。
 この不安はいつかゆっくりと消えていくのだろうか。それとも、このままずるずると引きずっていかなければならないのだろうか。
 私は無神論者で、彼も信仰というべきものはもっていなかった。しかし、再会を夢見ることぐらいは神様も許してくれるだろう。その時には、バラの花束のようにたくさんのビールを抱えて、彼のもとに行こう。