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『京都新聞』1999年3月3日朝刊
脳死移植に考える 森岡正博
高知赤十字病院で脳死に近い状態になった患者に脳死判定が行なわれ、本人の意思にもとづいて脳死状態からの移植への道が開かれそうである。和田移植から30年をへて、ようやく日本でも脳死からの臓器移植が本格的に再開されるのであろうか。
今回のプロセスを見ていていくつか思うところがあったので、書いてみたい。しかし、原稿を書いている時点では、まだ正確な状況がよくわからないこともあり、その点はご了承願いたい。
まず、今回の報道で「臨床的脳死」ということばが、テレビや新聞の報道でさかんに使われていた。臓器移植法にもとづく脳死判定をする以前の段階で、医師によって臨床的に判断された脳死状態という意味だと思うが、そのことばは誤解を招きやすい。専門家ではない知人に聞いてみたが、やはり、脳死には「臨床的脳死」と「法的脳死」のふたつがあるのか、と疑問に思ったと言う。
このような誤解を避けるためにも、「臨床的脳死」ということばは使用するべきではないと私は思う。もしそれを言いたいのなら、「臨床的に見て脳死に近い状態」とでも表現すべきだ。というのも、日本においては、ある患者が「脳死」かどうかを決定するためには、必ず、竹内基準をパスしなければならない。そして、その竹内基準こそが、臓器移植法によって採用されている唯一の判定基準だからである。すなわち、日本においては、「竹内基準」をパスしていない「脳死」などというものは、そもそも存在してはならないのである。
だから、竹内基準をパスしていない状態の患者のことを、いかなる意味においても「脳死」とは呼ぶべきではない。これは脳死判定の原則ではなかったか。だから、竹内基準による脳死判定をまだ済ませていない患者のことを「臨床的脳死」と表現することは、筋からして許されないことである。
脳死移植にかかわる医師たちのあいだで「臨床的脳死」という表現が使われていたことは想像できるが、それはやはり筋をはずした表現だということを認識すべきである。マスコミも、この表現を鵜呑みにして用いるべきではないと私は思う。そうでないと、またしても、「脳死には二種類あるのだ」という誤った考え方が広まってしまい、一般市民のあいだに無用の混乱と不安感が広まる危険性がある。それは避けなければならない。
もちろん、医師たちのあいだには、臨床的にすでに脳死という病態になっている患者を、あとで竹内基準によって手続き的に追認し、法的な根拠を与えるにすぎないのだという考え方があるかもしれないが、それはここ一五年間の日本の脳死論議の蓄積を軽視することになる。
もうひとつ、今回、マスコミが高知赤十字病院に殺到して、患者家族のプライバシーを軽視するかのような行動をしたことに対し、家族側が強い抗議をしているらしい。家族のこの心情はよく理解できる。家族は、いままで生活をともにしていた人間のいのちを失いかけているのだから、そのまわりに群がって取材攻勢をかけるということはしてはならないと思う。その意味で、家族の言い分は正しい。神戸の事件や、和歌山の事件などに見られるように、マスコミのプライバシー侵害すれすれの取材に対しては、すでに視聴者自身が違和感を感じているのではないだろうか。
では、今回のような、脳死移植再開かもしれない重大事件のときに、マスコミはなにもせずに座して情報を待っているべきなのだろうか。私は思うのだが、今回のように「人の死」が同時進行で進んでいる場合、やはりマスコミは取材攻勢を自粛すべきであると思う。誘拐事件が起きたときにマスコミは自粛するが、そこまではいかなくても、なにかの自粛をするべきだろう。
しかしながら、それと同時に、ことがすべて終わってから、脳死移植のプロセスがほんとうに妥当だったのか、インフォームド・コンセントはきちんととられていたのか、関係者はすべて納得していたのかなどについて、あとからきちんと検証すべきであると思う。そして、マスコミは、あとからこれらのことが検証できるように、病院や移植関係者などに要請し、資料その他の保持と公開を確約しておくということはできないのだろうか。
ことが終わってから、公開すべきはきちんと公開してもらい、冷静に検証して報道する。こういう態度がいま望まれているのではないのだろうか。脳死移植というのは、一般市民に危害が加えられるかもしれない傷害事件などではない。いまは冷静に推移を見守り、そして事後検証に精力を傾ける。そのような協定を医療側と結ぶくらいの力量がマスコミにはあってほしいと私は思っている。
(大阪府立大学教授・生命学)