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リバーフロント整備センター編『FRONT』2000年4月 50〜51頁
環境問題と企業の思想 
森岡正博


 今から一年間、この欄で、「市民社会と科学のあいだ」という連載をすることになった。いろいろなテーマを例に取りながら、今日の科学技術をめぐるトピックスを考えてみたいと思っている。連載タイトルに「市民社会」という文字が入っているのは、現代の科学技術を考えるうえで、科学の専門家ではない「一般市民」からの視点というものがどうしても必要だろうと思うからだ。あまり大上段に構えると話が小難しくなるので、具体的なエピソードを交えながら、素人の目から現代社会と科学技術について考えていくことにしたい。
 私はここ一〇年ほど、環境問題を思想や倫理の次元から考えるとどうなるのか、ということを考えてきた。いわゆる環境倫理という分野なのだが、このテーマについて発言をしていることもあって、関連の会合や研究会などに参加する機会も多かった。何度か経験をしているうちに、面白いことに気がついた。たとえば、市民運動をしている人々の会合では、話の流れが基本的に、「どうすればいまの大量消費社会の流れを食い止めることができるか」という路線で進んでいく。そのためには省エネが必要だし、公共交通機関の充実とマイカーの減少が望まれる、というふうな話になっていく。いまの社会の進み方はどこかおかしいから、その流れを変えることが必要だという基本認識では一致しているのだ。私も学生のころは、この種の活動にタッチしていたから、この雰囲気はよくわかる。
 ところが、企業の環境問題対策室あたりの会合になると、また全然異なった世界が広がってくるのである。市民運動のノリに染まっていた私は、最初、企業主催の会合でなにが議論されているのかがよくつかめなかった。何度か出席しているうちに、ようやく論点が呑み込めてきた。つまり、彼らにとっての環境問題は、まず第一に、「みずからの会社が環境危機の時代を生き残るために何をすればいいかを考えなければならない」という問題なのである。たとえば自動車会社にとっての環境対策とは、環境規制がきびしくなり、購買者の環境意識が高まってくるであろう時代に、どうすれば上手に対応できて、これからも車を売り続けることができるか、ということなのだ。電力会社にとっての環境問題とは、化石燃料がいずれ少なくなる時代がやってきても、電力をいまと同じレベルで供給し続けて、会社の収益を減少させないためにはどうすればいいのか、という問題である。原子力発電所というのは、そのひとつの答えでもある。
 このことが分かってから、私は彼らのことばをようやく理解できるようになった。彼らの前提には、「経済成長はぜったいに必要である」というものがある。これはほぼ信念に近いもので、彼らに「なぜ経済成長が必要ですか」と聞いても、納得できる答えはあまり返ってこない。ある人は、「企業の存在意義は、市場における利潤追求であってそれ以外ではないから、経済成長が必要なのだ」と答えてくれた。経済人の大前提というのは、おそらく、このあたりにあるのだろう。
 だから、企業の環境問題対策というのは、なかなか興味深い思想構造になっている。つまり、一方においては「環境危機の克服」が主題とされながら、他方においては「不況の克服」もまた重大な主題となっているからである。私は、彼らの会合で、「環境危機の克服をするためには、二酸化炭素の排出の減少やエネルギー消費の抑制をしなければならないわけだから、現在の不況という状況は、まさにうってつけではないのですか」と発言してみたが、なしのつぶてであった。
 私は本気で思うのだが、社会全体が不況になったら、工場の稼働率も下がるし、電力消費量も上昇スピードを落とすし、省エネにもつとめるだろう。まさにこれこそが、いま求められている環境対策そのものではないのだろか。もし、不況を脱して好況期に入れば、工場はふたたびフル回転し、人々は電力を派手に使いはじめ、資源の消費と二酸化炭素の排出はうなぎのぼりに増え、結局、環境危機はさらに拍車をかけて悪化するだろう。
 もちろん、不況が続けば、多くの人々が職を失い、生活の安定が損なわれることであろう。だが、たとえば「ワークシェアリング」を取り入れたり、都市への人口の一極集中を緩和する政策を取り入れたりすることで、全員で少しずつ痛みを分かち合うという知恵は、いくらでもあるはずだ。不況になったときに、一方では高給取りが残存し、他方でまったくの無給者が増えるというこの社会の経済の仕組みがおかしいのだ。
 だから、私は、職を失う者の痛みをみんなが応分に負担する仕組みを整えたうえで、社会全体を不況にもっていくことが、効果的な環境問題の対策だと考えている。しかし、このような考え方を、企業の方々は、笑い話としてしか受け取ってくれなかった。彼らの至上命題は、「不況からの脱出」である。それにくらべれば、実は、「環境問題の克服」などは二義的な問題なのである。
 私は、かなり極端なことを言っているのかもしれない。私が話をした企業人のなかには、個人的には利潤追求第一の企業の姿に疑問を感じている人もたしかにいた。しかしながら、企業全体の動き方の次元の話になったとき、そのような個人的な意見が出ることはなかったように思う。
 であるから、彼らにとっての環境問題の克服とは、経済成長が維持され、自分の会社が利潤を上げ続けられるかぎりにおいて、地球環境への負荷を減少させることなのである。経済成長と利潤追求という前提が崩れた場合には、当然、環境問題の克服というものは後回しにされる。それが経済界の掟なのだろう。
 従って、彼らの発想は、「環境問題を技術の力で解決できないか?」というものとなる。排出される二酸化炭素を先端テクノロジーによって固化して海に捨てる可能性などが語られる。そしてあわよくば、「その技術開発をすることによって儲けられないか?」ということになるわけである。産業技術が生み出した問題は、あらたな産業技術の開発によって解決し、さらにその開発によって利潤もあげたい、というたいへん虫の良いことを考えているわけである。
 であるが、これではやっぱり、虫が良すぎであろう。今日の環境問題というのは、そんなことでしのげるような生やさしいものではない。われわれのライフスタイルを根本的に変えていく、ということを組み込まないかぎり、問題解決には至らないぐらい深刻なのだ。企業の利潤追求構造を支えているのは、しかしながら、ほかならぬわれわれひとりひとりでもある。肩肘張った運動は私もしたくないけれど、企業のいまのあり方をささえているわれわれの意識を再考することはぜったいに必要だと思う。
 

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