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『京都新聞』2001年8月1日 シリーズ「新世紀考・電子メディア2」
携帯時代が深める孤独感覚
森岡正博
大学の授業の補佐をするために、教室の後ろのほうで立っていると、興味深い光景によく出会う。最近は、携帯電話のメールがおもしろい。広い教室の後ろから眺めていると、あちこちで、携帯のオレンジの光が、蛍のように点滅する。学生たちは、授業中にもかかわらず、学外の友人たちと、あるいは同じ教室内の友人たちと、ひんぱんにメールのやりとりをしているのである。
携帯電話を持つと、常に誰かとつながっている安心感がある、と学生たちは言う。パソコンよりも先に、携帯電話でのメールのやりとりを経験している彼らは、これからどのようなコミュニケーション文化を構築していくのだろうか。
私は、一九九三年に『意識通信』という本を出版した。九三年といえば、商業インターネットが登場する以前のことだ。私は、データの受け渡しを目的とした「情報通信」に加えて、誰かと会話することそれ自体を目的とする「意識通信」が、電子メディアのコミュニケーションの大きな部分を占めるようになるだろうと予測した。
「意識通信」とは、誰かと電子的につながっていることで、お互いの存在感を確かめ合ったり、気持ちを交流させたりすることだ。執筆当時はパソコン通信のようなものを想定していたのだが、それが携帯電話によって達成されたと言える。
そしていま見えてきた哲学的な問題は、携帯電話によってつながりあっているはずの人たちが、どうしようもなく抱え込んでしまうであろう「携帯時代の孤独」である。
近代化の歴史を簡単に振り返ってみよう。社会の近代化と都市化によって、それまでの地縁・血縁のネットワークがゆるやかに崩壊に向かった。マンションの隣の部屋に誰が住んでいるのか分からなくなり、親族たちは遠い地域に離ればなれに散った。携帯電話の登場によって、核家族までもが離散を始めている。家に帰ってこない子どもであっても、携帯電話で連絡が付きさえすれば安心だから、それを許す親がたくさんいる。
携帯時代の人間関係の原風景は、したがって、「私は親しい人々とつねにバーチャルにつながってはいるのだけれど、物理的身体のまわりを見渡しても親しい人々はどこにもいない」という事態である。いつでも親しい人々に話しかけることができるのに、私は物理的にはつねに孤独であるということ。
いまわれわれの前に浮かび上がってきているのは、「携帯電話を通じて誰かとつながっているのにもかかわらず、私は孤独」という原感覚だ。これは、非常に哲学的な性質の孤独感覚であると思う。孤独には二種類ある。しゃべったり、遊んだりする相手がまったくいないという意味での孤独と、誰かと楽しく会話しているときにふっと襲ってくる孤独。後者の孤独は、「私はこの人生をひとりで生き、ひとりで死ななければならない」ということに気づいたときの孤独と言い換えてもよい。携帯電話が、われわれに開きつつあるのは、この後者の意味での孤独感覚なのである。
この孤独感覚は、身の回りに絶えず地縁・血縁のコミュニケーションが溢れている状態、言い換えれば、『サザエさん』的な世界においては、うやむやにされてしまうたぐいの感覚である。ところが、都市化が進み、個室化が進み、携帯電話化が進むことによって、われわれの物理的身体の回りからは、シャワーのような地縁・血縁のコミュニケーションが消え始めている。
親しい人々のあいだの配慮のやりとりは、携帯電話のようなバーチャルな次元へと移行し、われわれの物理的身体は、三次元空間にぽつんと取り残される。携帯電話を通じたひんぱんなやりとりは、かえって、ここに取り残された私の身体と、そのなかに存在する「孤独な私」の姿を浮き立たせてしまう。
携帯時代の人間たちもまた、このような根源的な孤独を直視できるほど、強い心を持ち合わせてはいない。しかし、この孤独感をうやむやにして紛らわせてくれるような、『サザエさん』的な人間関係は、もはやマンションの部屋の三次元世界には存在しない。
だから、残された道は、孤独から目をそらすために、より一層はげしく電脳のコミュニケーションに没頭することだけなのだ。われわれは、根源的な孤独から逃がれようとして、憑かれたように電子メディアにアクセスするのである。