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NHKスペシャル『驚異の小宇宙・人体3 遺伝子DNA』5巻 秘められたパワーを発揮せよ―精神の設計図
NHK「人体」プロジェクト NHK出版協会 1999年9月 112−118頁
対談5: ゲノム社会学
遺伝子が織り成す脳と心の世界―遺伝子研究は社会をどうかえるか
石浦章一×森岡正博
心を規定する遺伝子はあるのか 精神世界への科学のアプローチ
石浦 ヒトの遺伝子を解析するヒトゲノム計画が進められていますが、そうした研究によって遺伝子に変異が起こると病気が発生することがわかってきています。すでに原因遺伝子が明らかになっている血友病や筋ジストロフィーのように、精神疾患や痴呆という心の病気の中でも、脳に発現する単一遺伝子の変異が原因で起こる病気もあることが明らかになってきました。こうした精神疾患などの研究の過程で、もしかすると性格や行動といったものも、遺伝子の働きによるのではないかという考えが生まれてきたわけです。
ただ、「人間の心を科学で解明することができるのか」というテーマは、科学者にとって究極の命題であり、そもそも「心とは何か」を定義することすら非常に難しい問題ですから、まず、心から生まれる性格や行動が、どのくらい遺伝子で規定されているのかを調べてみようというのが現状です。その場合、環境などに左右されずに、なるべく変化しないものを対象として研究しなければいけないと思うのですが、人間の行動で変わらないものがあるかというと、あまりない。遺伝的に研究できる範囲はかなり限られていて、たとえば神経質であるとか、短気であるとか、そうした人間の気質とか素因といったものが、遺伝的要素が高いだろうということで、研究が始まっています。
森岡 ヒトの遺伝子は約十万あるといわれていますが、二〇〇三年頃までにはすべての解析が終わるといわれていますね。ヒトの能力や行動なども含めてすべてが遺伝子によって決定されているという「遺伝子決定論」を唱えている人もいますが、本当に人間の精神の分野までも遺伝子だけで説明ができるのかという議論に関しては、解析が終わってからになると思うのですが。
石浦 ええ、今はまだ一つひとつの要因を調べつつあるというのが現状です。特に精神疾患のように心の異常を遺伝的に研究することは、最近始められたばかりですし、疾患のターゲットも少ないんですね。まして異常ではない場合の性格や人格に関する解析は、ほんの小手先程度の段階でしかないといっていいでしょう。遺伝子というのは、もともと機械のハードのようなものであり、それをどう動かすのかというのは、教育や経験といった環境で決まってくるもので、はっきりと遺伝か環境かを分けることはできない。遺伝子がすべて決定しているということをいうと、それこそ「遺伝子決定論」になり、それが差別や偏見につながったりしてしまう危険があります。遺伝子で構成されているハードをどう動かすかは、やはり環境であるというのが、私の基本的な考えです。これから遺伝子の解析が進んで、もっと詳細が分かるようになれば、心の問題をどう総括的にとらえていけばいいかという議論もきちんとできるのではないかなと思いますね。
森岡 これまで「人間とは何か」を考えてきた心理学や哲学とは違う、誰が行っても同じ結果が得られるという再現可能なミクロな方法論で研究が進んでいった場合、われわれが現在抱いている疑問のある一定の部分は確かに明らかになっていくと思いますが、逆に再現可能なものを追究するという今の科学の方法論では、解明できない部分も【113】あるということがはっきりしてくるのではないかと予想しているのですが。
石浦 たぶん私の方が楽観的なのだと思いますが、基本的にはいずれ全部わかっていくんじゃないかと思います。これまで脳が最後のブラックボックスといわれてきたのは、脳を知る方法を見つけられなかったというだけで、科学技術が進めば解決するのではないでしょうか。確かに現状では、問題はたくさんあります。切開手術などを伴わずに、リアルタイムで脳の機能を見ることができるfMRIという画像解析機器があって、たとえば人間が思考するときにある部分の血流が上がることがわかるのですが、だからといってその血流が多くなっている所で、人間が本当にものを考えているのかどうかまではわからない。あることを記憶する前と後では神経細胞がどう変わるのかといった、非常に単純なことがまだわかっていないんです。そこを少しずつ埋めていって、思考がどういう分子メカニズムで起こっているかをつきつめていけば、見えてくるのではないかと思っています。
森岡 その辺に関しては、私たちも脳の解析が分子的な方法でもっと進んでくれるのを期待しています。たとえばラットを使った実験による「不安遺伝子」というのがあるということですが、そこでまず不安というのはどういう行動を指すのかという疑問があるし、仮にある行動に関与している遺伝子や脳のある特定の化学反応が見つかったとして、それを精神の問題と結びつけるときに、それが本当に一対一で対応すべきデータがあまりにも少なすぎて、検証も反証もできません。
脳科学の進歩の果てに広がる自己言及という哲学的な問題
森岡 一つの予測として、脳科学が進歩していくと、いずれ自己言及という問題にぶつからざるをえないのではないかと思うんです。たとえば、ある脳内物質がある感情と関係していると仮定して、その感情とはどんな感情なのかということは、被験者に話してもらうしかない。外側から脳を見ても、どんな感情なのかはわからないわけですから。
石浦 感情を言葉で表すときに、的確に表現されているかどうかという問題もあるし、たとえば森岡先生がうれしいと感じたときと、私がうれしいと感じたことが、本当に同じことなのかということも問題になりますね。
森岡 もう一つは睡眠状態とか、死ぬ場合とか、被験者が言葉で話せない状況ですね。仮に、死ぬときの脳のプロセスはトレースできたとしても、その人がそのときに何をどう感じていたかは、死んだ人からはデータが得られないわけですから、永遠のブラックボックスになる。眠っている場合も、何か感じていたとしても話せる状況ではないし、夢を見ていても記憶に残っていなかったり、忘れたりしますよね。
石浦 少し話がとぶかもしれませんが、回復するかどうかわからない植物状態の人のMRIを撮ってみて、誰かがその人の名前を呼びかけたりしたときに、回復する人は脳の中で何かが動くという話があるんです。手も足もまったく動かせないけれど、少なくとも脳の中で呼びかけに対する反応【114】が起こる。そういう人は、治療によって回復する可能性が高いという例も実際にある。ですから、直接表現できなくても、実際に脳を見ることによって、無意識に考えていることがわかる時代が訪れるのではないかと思います。
森岡 その場合も、外から脳を見ているのであって、その人の内的なものを見ていることにはならないと思います。脳の研究というのは、実験者は被験者の脳を実験しているわけですが、あるところまで行きつくと、もどかしい大きな壁にぶつかるのではないでしょうか。そこから先は、実験者自身が自分の脳に何かして感じながらやるというふうにならないと、追究できないような壁が立ち塞がると思うんですね。言葉というのは、ある意味ですごく性能の悪い伝達方法ですから。
石浦 実験者が自分の脳を自分で調べるのは可能ですし、おもしろい話だと思いますが、先生がおっしゃっている問題は、本人だけにしかわからないことがあって、それがすべての人にあてはまることではないかもしれないという話ですよね。しかし、「私のことは他人には絶対にわからない」という話になると、科学とは別の領域になってしまうのではないでしょうか。
森岡 「すべての人にわかるのが科学である」というパラダイムは、まさにその時点で限界にぶつかるのだと思うんです。脳科学が進んでいくと、今度は自分を被験者にするしかない。被験者にしたら、確かにわかったのだけれど、今度はわかっているのは自分だけであって、人には伝えられないというジレンマに陥る。そういう時点にきたときに、科学は再現不可能な領域に初めて足を踏み込むのではないかと予想しています。
石浦 そういう可能性はあるかもしれませんね。
森岡 心の問題でいえば、哲学というのは一言でいうと「自分とは何か」をずっと考えてきたものですが、まさに脳科学が自己言及の問題にぶつかったときの「自分の脳とは何か」ということに通じるわけです。哲学は言葉という概念の分析を武器に、脳科学は別の武器でやってきているわけですが、それが二一世紀のいつか正面からクロスしたとき、どんな論争が待ち受けているのか、知的な問題としてもとても興味深いですね。
環境に左右されない素因とは何か 脳科学と文系科学がクロスする時代
森岡 先生にぜひお聞きしたかったのが、脳と遺伝子の関係をどうお考えになっているのかということです。たとえば、アリやミツバチといった社会性昆虫のような生物の場合は、行動全体が遺伝的に支配されているように見えるわけですね。
石浦 種を永らえるためにとか、そうした目的論的な議論がたくさんありますが、私は違うのではないかと考えています。
森岡 私もそう思いますが、つまり中枢神経がそれほど発達していない生物に関しては、遺伝子はとても重要なものだと思いますが、人間のように脳が独自に発達してしまった場合は、遺伝子と脳はそれほどいつも調和しているものではないと思うんです。たとえば避妊というのは、遺伝子から考えると子孫を減らすことになりますよね。生活環境が豊かになってきたのに、我々は避妊をしている。これは遺伝子の戦略から出てきたものでは【115】なく、脳の戦略ではないかと思うのですが。
石浦 まず、その遺伝子の戦略という考え自体を私は信じていないんです。「遺伝子が種の生存を規定している」という考えがよくありますね。つまり、アリのように種を残す目的のために、社会性のあるコロニーをつくって、アリがさまざまな自己犠牲を払っているのも、すべて遺伝子が決めているのだという考え方ですが、私は遺伝子自体に目的があるわけではなく、そういうものがそこにあるというだけであって、間違いだと思います。
われわれは、遣伝子が何かの目的に応じて働いているかどうかということより、遺伝子がどのように発現して個体をつくるのかということに興味があるわけです。
森岡 まず、形態形成ですね。
石浦 形態形成や人がどう考えるようになるかといった点には興味がありますが、では「何のために生きるのか」ということに関しては、研究対象には入ってないわけです。
森岡 しかし、たとえば先生の書かれた本の中にラットが探索をする話がありますね。この探索というのは、目的行動だと思うのですが。つまり、行動に着目した瞬間に、何のためにという目的に入らないと、失敗したり学習したりして覚える探索というような行動はないわけです。学習というのは明らかに目的行動ですから。
石浦 そういう食べ物を探すために何かするとか、生きるか死ぬかという話と、さっきの避妊の話のように、子孫を残すか残さないか、うちでは子どもは三人もいらないから二人にしておこうという話とでは、目的そのものの意味が違うのではないでしょうか。
森岡 一般的に避妊や中絶の大きな目的は、これ以上増えると経済的に苦しいとか、昔だと食糧がないといった、目の前の食べ物のことと結びついているわけです。だから行動というものと子孫を残すということはつながっていると思いますが。
石浦 それはその人の経済的な状況によって変わるもので、僕が対象にしている行動は、環境によって左右されるものではなく、一生変わらないようなものをターゲットにしていかなければならないわけです。
森岡 そうした場合に、遺伝子で解明できる人間の行動はかなり範囲がせばめられますね。経済的な理由から避妊したいというような行動は遺伝子レベルで解明できないというか、研究対象外におかれるということになれば、人間の文化的行動というのは、ほとんど遺伝子では解明できないということになりますね。
石浦 そういう意味ではできないと思います。私は「心とはどういうものなのか」を研究しようとしているわけですが、その心というのは社会状況や生まれた国によって変わるものだと思う。避妊しなければいけないというのは、時代やその国の政策や文化、宗教によっても変わる。そうした社会状況によって変わるものは、遺伝子が決めているのではなくて、教育とか二次的な環境が決めるのであって、本当に遺伝子で決められるものは少ない。私が考えている素因というのは、ある意味で環境と遺伝子の閾値(いきち;限界値)を決めているもので、研究対象になるのは、この部分ではないかと思います。
森岡 一生変わらないような素因には、具体的にどんなものがあるのですか。
石浦 たとえば、何か悲しいことが起きたというようなストレスがかかったときに、すぐに忘れてしまえる人とずっと思い悩む人がいるわけですが、そういうものが素因ではないかと。
森岡 それも人生の中で克服する人もいる。学習で克服した場合は、一生変わらないものから外れるのではないでしょうか。そうした遺伝子と環境がミックスされたものを排除していくと、何が残っていくのかが問題ですね。
石浦 確かにおっしやるとおりなんですが、そういうことを逆に文科系の人が見つけることができないかなと思うんです。理系の人間にとって性格の中で変わらないものを探すのは、かなり難しいのですが、たとえば心理学をやっている方は素因【116】みたいなものを見つけることができないかと、期待しているわけです。
森岡 それは難しいかもしれませんね。特に心理を扱う学問では、学説ごとに話がまったく違いますから、客観性をもったものとなると。
石浦 心の遺伝子の探究の目的は、心の病気の診断と治療がまず第一にあるわけです。精神に異常をきたす疾患の遺伝的発生メカニズムが明らかになるにつれ、単一の遺伝子異常が知能や行動に大きな影響を与えることがわかってきた。病気の場合は、だいたいみんな同じ症状が出て、それが薬で直るとか客観的に見えてくる。
森岡 見えるものもあるということですね。
石浦 病気のように性格にも遺伝子が関与しているものがあるのではないかというので、最初にわかったのは薬の研究なんです。ある症状に対してある薬を投与するとすっと治る例が見つかって、非常に基本的な一種類の薬が何人かの症状を共通に治した。そういう研究から分子のターゲットが決まってきて、ではそのターゲットはその症状を動かしているのかというのが、今度は逆に新たな課題になって、それをまた調べているわけです。そのときに、たとえば強迫神経症という症状はどんな症状なのかと我々が考えたとき、森岡先生がおっしやったように、共通の言葉で表せる症状がなかなか見つからない。ある薬で見つかった実験事実から説明できる性格や行動があるのかを探し始めたところで、何とか文系の人たちと一緒に協力体制を組めないかと思っています。
森岡 私も強迫神経症の症状に共通のものがあるかどうかといった、文系のアプローチでもはっきしない点を、文系と理系の両方から悩まなければならない時代を迎えていると思いますね。これからの一○○年は、文系と脳科学がお互いを理解しながら共同で研究していく時代になっていくと思います。ただ私は、それでも未知の領域である暗黒大陸は、どこかに残るだろうと予測しているのですが。
精神の遺伝子研究がもたらす未来の社会的影讐と課題とは何か
森岡 強迫神経症でどういう症状を範疇(はんちゅう)に入れるかという話が出ましたが、
私にも精神分裂症に似た症状がいくつかあるんです。分裂病ではないけれど、似た症状がある。その時に、病気とは何なのかという問題が立ち上がってきますね
石浦 それが一番大きな問題ですね。病気と正常の境目の人はたくさんいるわけで、そのラインを誰が判断するのか。また治せばいいという裏には、病気は悪いものであるという考えがあって、単純に治せばいいということも言い切れない。それも社会によって決まるものだと思います。精神の遺伝子に関しては、いいとか悪いという問題が必ず【117】出てきます。しかし、脳の研究は性格にしろ、精神疾患にしろ、何がよくて何が悪いかを決めるものではなく、どの遺伝子が何に関係し、どうして精神機能が生ずるのかに焦点がおかれているものであるということを、はっきり発言していかなければならないと思いますね。たとえば、暴力遺伝子と呼ばれる遺伝子が見つかったからといって、それがその人の人格に直結するものではないということも含めて。
森岡 技術の面でも大きな問題があると思うんです。たとえば痴呆薬で記憶力が減退するのを防ぐ薬が開発されたとき、ドーピングのように通常時に使用するとどうなるかという問題がある。普通の人が飲むとすごい記憶力を維持できるということになると、親が子どもに与えて東大を目指すことも想定可能な話なわけですね。
石浦 そうです。そうなると薬を飲んでいるときがその人の人格なのか、飲まないときがその人なのかということすらわからなくなってくる。
森岡 脳の解明が進めば進むほど、技術に結びついていって、その先に商業主義が待ち構えている。そういう意味でも、何を研究すべきかを研究者だけでは決められない時代になってきたと思います。
石浦 それに関しては、いろいろ異論もありますが、科学者だけで決める問題ではないということは確かですね。
森岡 いずれ自分の望む子どもを生める時代もくると思いますが、人が生命の質を決められるようになったときに、はたしてそれが幸せな社会なのか。人間は自分がコントロールできる領域を増やしてきたけれど、拡大してきたことでかえって生きる意味を失い、大きな不安にとりつかれていく社会になっていくと思うんです。生命までもコントロールできる自由を拡大することが、未来の選択として本当にいいのかという問題に直面することになるでしようね。
石浦 これだけ科学が進むと、そういう時代がくるのは当然だと思います。そのときに自分が何を選択するのか、判断基準になる知識や情報を手に入れられるシステムと、その情報をすべての人が理解できるような成熟した社会をつくらなければならないのではないかと思います。ブラックボックスがあれば、判断することはできませんから、どのくらいのレベルまで、一般の人たちと科学の知識を共有することができるかにかかってくるのではないでしょうか。
森岡 楽観論で考えるとそうですが、一方で自由からの逃走という悲観論がある。自由を与えられた人々か、自由が怖くなって結局は誰かの権力に従うという人間観があるのですが、人間は本当の自由を与えられた場合、どう処理していいかわからなくなる。ポップカルチャー論でいわれてますが、いろんな音楽を選べる時代になって、どれを聴いていいか分からないからメガヒットばかりが生まれる。それまでの情報社会論では、選択肢が多様になるとそれだけ好きなものを選べるから、大ヒットは生まれないという予想だったんです。これは、ある意味で多様な選択肢を与えられたとき、人間は自律的に選べない側面をもっていることを露呈しているわけです。
石浦 脳科学に限らず、遺伝子の研究というのは生命のしくみを知りたいということが、まずベースになっていると思います。その中に大きな目的として病気のメカニズムを解明して、治療法を見つけていくとか、社会的に貢献していきたいという思いがあるわけですが、科学が進んでいくと先ほど話したように、自己言及という問題にもかかわってくる可能性が高いし、まさに「人間とは何か」という問題を分子生物学者が答えなければならない時代になっているのかもしれません。この対談のテーマである心の問題は、ヒトという個体だけの問題だけでなく、社会的な環境や自然環境、文化的環境が決めるのであり、それを全体的に包括していく学問が必要になるでしょうね。
森岡 先生がおっしやるように、自然科学や医学、心埋や哲学、宗教といった学問の知恵も必要になるし、遺伝子学を超えた全システム学とでもいうべきものが、まさに二一世紀に新たに要請される学問領域ではないかと思うのです。【118】
森岡正博(もりおかまさひろ)
1958年高知県生まれ。束京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得。東京大学、国際日本文化研究センター助手などを経て、現在大阪府立大学総合科学部人間科学科教授を務める。生命学、環境論、科学論、ジェンダー論、現代思想を研究テーマに、生命と科学と文明を総合的、学際的にとらえる「生命学」を提唱している。著書に『宗教なき時代を生きるために』『脳死の人』『生命観を問いなおす』『現代文明は生命をどう変えるか』などがある。
石浦章一(いしうらしょういち)
1950年石川県生まれ。理学博士。東京大学教養学部基礎科学科卒業、東京大学理学系大学院修了。国立精神・神経センター神経研究所、束京大学分子細胞学研究所助教授を経て、現在東京大学大学院総合文化研究科生命環境科学系教授を務める。専門は神経生化学。難病の解明をライフワークに、遺伝性神経疾患の分子細胞生物学研究を行っている。著書に『タンパク質の反乱』『生命のしくみ』『脳内物質が心をつくる』『心の遺伝子を探る』などがある。