人の作り出したすべてのものたちへ (未発表2001年10月)
森岡正博
最近、クラシック音楽のCDをまとめて聴きなおしている。一〇代のときにもっていたレコードコレクションは、二〇年前にぜんぶ捨ててしまったから、あらためてCDで買って聴いたりする。三〇年前に繰り返し聴いたものを、この歳になって鑑賞すると、なんとも言えない感慨に襲われる。ひとつには、一〇代のときのみずみずしい感受性に引き戻されてしまう。この音楽を聴いていたあのときの、青臭い、切ない感受性が、身体全体によみがえってくる。田舎町で、ひとりでこんなものを孤独に聴きながら、夢ばかりみていたことを思い出す。もうひとつには、当時には感じることのできなかったような味わいを、この歳になって体験できるということがある。人生のいろんなことを経験してからでないと、味わえない色合いや響きというものが、たしかにある。
このごろ感じるのは、また別のことだ。いまきちんと聴いておかないと、もう二度と聴けないかもしれないという気がするのだ。この世で私に残された時間、というものをひりひりと感じることが多くなった。一期一会の気持ちで、音楽を聴くというのが、いまの私の偽らざる姿勢である。あのときに聴いたあの音楽を、もういちどこの耳でしっかりと聴いておきたい。あるいは、まだ聴いていないあの音楽を、せめて一度でもいいからしっかりと聴いておきたい。人間たちが生み出した音楽の宝箱の宝石たち一粒一粒に、この指を這わせて、時間の許すかぎり触れていたい。クラシック音楽だけではない。ジャズで聴き逃したもの、未聴のものをいま味わっておきたい。そしてロックのレコードを、ブルースを、ラテンを、民族音楽を。
人が生み出した、音楽という生きる意味。私は、人が生み出したものすべてを味わいたいと思う。苦難と喜びと退廃と絶望と悦楽とともに産み落とされた、微少音波の収束体。そのひとつひとつを身体全体に染み込ませながら、私はこの世に生きてきた意味を探り続けたい。
一〇代終わりから二〇代はじめにかけて、映画を数百本まとめて見た。それらをいま再びビデオで見直している。いまだからはっきりと分かる構成の妙、映像の仕掛け、制作者の隠された意図。それらをあらためて浴びながら、私は思う、ああ、この世で作られたすべての映画を見尽くしたいと。そして、映画を作りたいと願い、そこに感性と知性と打算をそそぎ込んだ、その全過程を味わいたい。人が作り出した、映画という微少宇宙の発光体よ。
私は哲学や思想の古典を、いままであまり読んでこなかった。それらを読むよりも、自分の頭で考えるほうが先決だと思ったから、読む時間よりも考える時間のほうを優先してきた。それは間違っていなかった。そして、私はいま思う。もっと本を読みたいと。ひとつのことを突き詰めて考えつくした人たちが、いったいどのようなことを表現してきたのか。彼らは、どういう壁にぶつかり、それをどのように突破してきたのか。単に知識としてのみ知っている学説の、その誕生の現場を味わってみたい。そこに溢れているはずの、矛盾と、とまどいと、ゆらぎと、自己愛と、自閉に、この指で直接触れてみたい。
私に残された時間で、私は、私自身のために、これらの人々に触れようと思う。私は、どんな映画でも最後まで集中して見ることができる。どんな駄作であっても、その駄作の失敗点のひとつひとつを味わうことができる。それらが、限りなく愛おしい。人が作り出した、数々の失敗作たちを、私はその隅々まで味わい尽くしたい。私に残された時間とは、いったい何なのだろう。私はようやく創作のスタート地点に立っている。みずからの過去の遺物をくぐり抜け、いまはじめて未知の真空世界に対面している。その中へと足を踏み入れる時間。それが私の時間。
人の作り出したものが、愛おしい。すべての建築を眺め取りたい。すべてのハイテクをそっと頬に当てたい。やわらかなもの、そして冷たいもの。空に向かって突出するもの、地面の下へと広く浸食するもの。私は風となって、人の生み出したもののあいだを、蛇行しながら繊毛のようにすり抜けてゆきたい。私は岩場をくぐり抜ける清冽な水流となり、知の毛細血管の隅々にまで分け入って、細胞のひとつひとつをそっと触れあわせたい。そうやって、私は、私でないものたちのなかへと、消え入ってゆくことができるのだろうから。