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作成:森岡正博 
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脳死・臓器移植の論理と倫理

現代医療と自己決定権の裂け目を読む

萩原優騎(国際基督教大学教養学部4年) 2000年12月1日

 拙稿「自己決定権と画一的医療 臓器移植法改正問題をめぐって」(『世論時報』2000年11月号、61-63頁。以下、「拙稿」と記す)を読まれた方から、次のような質問を頂いた。第一に、臓器が所有権の対象でないならば、なぜその提供を自己決定できるのか。第二に、患者の「死」とは誰のものなのか。第三に、概念としての死を「意識を回復して蘇ることがない」ということであると定義すると、植物状態や無脳症の人々への差別を助長することにつながるのではないか。これらの問いに対して、現時点での私見を記しつつ、その考察の過程で見えてきた諸問題を論じたい。

臓器摘出が認められる条件とは

 上記の拙稿でも論じたように、自己決定権というのは、身体の所有という想定に基づいて成立するものである。その想定が、尊厳死のような自らの死という部分に限られず、対象とする範囲が拡張されていくと、臓器提供に関する自己決定へと至る。つまり、臓器が所有権の対象でないならば、なぜその提供を自己決定できるのかと問われたが、逆に、身体や臓器は自らの所有物であると、人々が漠然とではあるが考えているからこそ、それらに関しての自己決定が自明のものとなっているのではないだろうか。森岡正博が海外の事例として紹介しているように、欧米では患者の死後に、その身体の所有権が家族に移行すると見なされているのも、そういった文脈において捉えることができる(1)。しかし、所有権の移行という発想が正しくないことは、拙稿で既に指摘した通りである。
 死後の患者からの臓器移植は、それを了承するという意思表明を、本人が生前に行っていた場合にのみ許され得るという見解は、本人の死に方に対して選択の余地を与えるという、尊厳死の延長上に現れたものであると思われる。尊厳死においては、身体の所有という想定に基づいて、いかに身体を処分するかという自己決定の自由が認められているのであり、それならば、死に臨むに際して、臓器の処分方法について自己決定を行う自由も認めてよいのではないか、ということになったのであろう。すると、身体の所有という想定が成り立つのは本人だけであるから、患者本人の意思ができる限り尊重されるべきであり、生前の意思を確認できないならば、家族の同意だけで臓器摘出が許されるべきではないという、拙稿でも扱った、臓器移植法改正反対派の論点がここに現れる。
 この見解を逆用して、本当は臓器摘出を認めていたにもかかわらず、それがドナー・カードに記載されていなかったというだけで摘出を行わないならば、本人の善意が無駄にされるのでは、と改正派は主張するかもしれない。もちろん、改正派が善意というものを掲げるのは、臓器移植を積極的に推進し、少しでも多くの臓器を得るための口実に過ぎない。しかし、臓器移植の原則として善意を掲げる以上は、臓器摘出を認めるという患者の善意に基づく自己決定を、事前に確認しなければならないはずである。その確認を行わずに、家族の同意によってのみ臓器摘出を許すならば、もし患者が摘出を望まないことを生前に意思表明しなかった場合には、家族の同意が患者の自己決定を覆すことになる。患者の死後に臓器を摘出することは、遺体処理方法としては例外的な行為なのであり、それが許されるのは、本人の生前の了承を確認できた場合のみとするべきである。
 以上の議論は、「死」は誰のものなのかという第二の問いにつながる。死に方についての自己決定が認められるならば、死の問題の主体は本人にあると、単純に言えるのだろうか。そこで、臓器提供を行うかどうかということについて、家族の同意という条件があることを、併せて考えておく必要がある。人間は通常、家族や周囲の人々との関わりの中で生きている。脳や心臓などの停止という測定方法としての死は、患者の身体における状態変化であるが、概念としての死の到来は、測定方法によって得られた結果に基づいて、他者によって判断されるものである以上、死亡した患者自身だけのものではない。
 ある患者が死亡した時、その事実がもたらす影響は、それを知った周囲の人々に及ぶ。臓器移植において、家族の同意という条件が設定されているのも、そのような背景があるからではないだろうか。したがって、患者が生前に臓器提供を表明していた場合、家族はなるべくそれを尊重するべきであるといっても、否応なしに患者の自己決定を受け入れるということではなく、あくまでも同意の自発性というものが求められる。同意が強制的になされるならば、そこでは各々の事例の個別性が無視され、拙稿で論じた画一化の暴力が生じる。

自己決定権の危うさ

 通常、臓器移植は提供側の善意に基づく行為であると言われるが、その行為を正当化する論拠としては、自己決定について先程述べたようなものが挙げられる。実際には、善意よりも自己決定の有無が重視されているのであって、このような形で行為を正当化しようとする背景には、臓器移植を受けてでも助かろうとする現代人の欲望と、それを助長する医療技術の発達という現状が見られる。提供側も、他者のそうした欲望を暗黙のうちに承認しているからこそ、善意に基づいて自己決定を行い、自らの臓器の提供を行うのである。
 現代社会において、このような欲望がどこまで承認されてよいかという基準の一つは、その技術を用いることで起きるであろう事態が、どれほどの危険性と影響力を持ち得るか、ということである。これは、自由主義の他者危害の原則と呼ばれている。すなわち、判断能力のある成人の場合、他者に危害を及ぼさない限りにおいて、たとえ結果として本人に不利益をもたらす可能性があるとしても、自らの所有物に関しては自己決定の自由を認める、ということである(2)。ここでは、たとえ正当化しがたい行為であっても、他者危害の原則の条件を満たしている限りは、それを容認するという判断が働いている。しかし、それが他者危害の原則のみを理由に、本当に許されてよいのかということについては、常に議論を重ねていく必要があることは言うまでもない。
 生体間での移植の場合は、臓器摘出の自己決定に関して、善意や他者危害の原則といった論点に加えて、提供側の安全性という条件が付け加わる。つまり、子供や家族を助けたいという善意、この行為が他者危害の原則に抵触しないこと、提供側は死に直面しないこと、これらが生体間での移植の場面での、臓器摘出に関する自己決定を容認する理由として挙げられている。ここでは、尊厳死の場合と異なり、自己決定を行う主体が自らの死に直面していないにもかかわらず、善意と他者危害の原則という論点に支えられることで、身体の所有という想定が、より積極的な意味にまで拡張されて用いられているのである。
 他者に危害を及ぼすことがなく、自らが死に至ることはないという安全性も確認できている以上、自らの身体について常に自己決定が認められるべきであるという見解は、自分の臓器を摘出してブラック・マーケットに売ることの論拠を、身体に関する自己決定のみに求めるということと、限りなく近接してくる。事実、発展途上国などにおける臓器売買の場面では、濫用された自己決定権が、臓器を自由に収奪される権利としてのみ機能してしまっている(3)。これは、自己決定権がかなり危うい段階まで拡張されていることを意味するのであり、善意に基づく無償の提供という論点が、生体間の移植に関する提供側の自己決定権を、辛うじて支えているのである。

二層構造から三層構造へ

 次に、概念としての死を、「意識を回復して蘇ることがない」ということであると定義すると、植物状態や無脳症の人々への差別を助長することにつながるのではないか、という第三の問いについて考えたい。ここで考察の対象となるのは、自己決定権を行使できない人々である。そのような人々の生命については、自己決定権を基準に議論することはできないのであり、自己決定権を基盤とした近代社会の自明性が掘り崩されることになる。
 その考察に入る前に、測定方法と概念の対応関係について、拙稿の見解を一部修正することによって、対応関係についての一層厳密な問題設定を行うことから始めたい。拙稿における、測定方法と概念についての記述は次のようなものであった。測定方法としての心臓死及び脳死とは、心拍や脳波の測定など、諸徴候を指すのであって、それは身体の物質的状態変化であり、そこには「死」という概念が現れることはない。一方、概念としての死に関しては、「意識を回復して蘇ることがない」ということである、と述べた。しかし、小松美彦が指摘するように、「蘇らない」、「意識を回復しない」といったことは、厳密に言えば「死」そのものではなく、死の「到来」に関しての判定基準なのである(4)。
 そこで、測定方法と概念という拙稿での二層構造を変更して、心臓死や脳死という身体の物質的状態変化に関する「科学的判定基準としての死」、「意識を回復して蘇ることがない」という「哲学的判定基準としての死」、そして「概念としての死」という、三層構造を新たに採用する。科学的判定基準としての死が判定するのは、身体の機能停止という現象であり、それが哲学的判定基準としての死との対応関係において、概念としての死が訪れたと判定されるのである。ここで注意しなければならないのは、哲学的判定基準としての死において認識されるのは、あくまでも死の「到来」という、生から死への移行なのであって、概念としての「死」そのものを、我々は明確に規定することができない(5)。
 法的に定義されている死というのも、科学的判定基準と哲学的判定基準との対応関係に関してなのであり、概念としての死に触れているわけではない。したがって、拙稿における「概念としての死」という表現に関しては、「哲学的判定基準としての死」と読み替えて頂きたい。また、第三の問いについても、哲学的判定基準としての死を、「意識を回復して蘇ることがない」ということであると定義すると、植物状態や無脳症の人々への差別を助長することにつながるのではないか、と表現されることになる。

日常的な場面における死の判定

 加藤尚武によると、脳死という科学的判定基準が成立した背景には、次のような理由が挙げられる(6)。かつては、精神の座が心臓にあると考えられていたので、心臓が止まれば精神も戻るはずがないから、心臓の停止をもって死が到来すると見なされてきた。ところが、やがて医学が発達するに伴い、精神の座は脳にあるということが明らかになった。すると、概念としての死の到来を、脳の機能が停止した時点に設定してもよいのではないか、という見解が出てくる。それでも、心臓が停止すれば脳も停止するので、心臓死という科学的判定基準は、依然として有効であり続けてきたのである。
 科学的判定基準と哲学的判定基準の対応について考えた時に、脳死という科学的判定基準が、臓器移植と切り離しがたい関係にあるということは確かであろう。両者が独立した問題として捉えられるべきであるというのは、医療関係者の建前に過ぎない。患者から臓器を摘出する場合に、死の科学的判定基準として心臓死を用いるよりも脳死を採用した方が、新鮮な臓器を得られることは事実である。つまり、科学的判定基準において脳死に続いて心臓死が起きるという、この順番がもし逆であったならば、脳死推進論者が脳死という科学的判定基準に積極的になる理由はなくなるだろう(7)。
 科学的判定基準として、心臓死と脳死のどちらを採用しても、哲学的判定基準としての死とは、「意識を回復して蘇ることがない」ということである。日常的な場面を考えてみると、たとえ医学的な知識があまり豊富ではない人であっても、心臓の停止や呼吸の停止、身体が動かなくなり冷たくなること、そういった諸徴候を判定基準として用いることで、目の前の人が死を迎えたと理解するだろう。通常我々は、患者を目の前にして、その人に意識があって語りかけてくる時、もしくはそれが困難であっても何らかの反応を示して応答する時、この人は生きているのだ、という実感を持つ。ところが、そういった反応が失われてしまうと、たとえまだ心拍や呼吸を確認できたとしても、その人が死に近づいているのだという不安を漠然と抱くものである。それゆえ、日常的な場面で哲学的判定基準を定義するとなると、どうしても「意識を回復して蘇ることがない」ということになる。
 一方、植物状態や無脳症の人々は、たとえ何の応答もできないとしても、体は温かく、心拍や呼吸は確認できる状態にある。このような状況にある人を見た時、その人が既に死んでいるとは思わないというのが通常であろう。こういった点に、脳死を科学的判定基準として採用した段階では、周りの人々が患者の死を受け入れにくいという、拙稿で触れた状況と似た構造が見られる。つまり、脳が停止して意識が失われていても、心拍や呼吸といった諸徴候が確認できるうちは、完全に死んでしまったとは考えがたいということである。

生存権の定義変更とパーソン論批判

 ところが、西欧の伝統的な人格概念に基づくパーソン論では、意識の不在という状態では、その人は生存権を持ち得ないとされる。それに対し、加藤尚武は、生存権について次のように主張する。すなわち、生存権は、それを本人が主張して行使できるという能力があることを条件として与えられるものではなく、そういう行為が不可能であるにもかかわらず認められるからこそ、「生存の権利」と言えるというのである(8)。ここでは、生存権を保障する理由が、パーソン論が条件とする自己意識に求められていない。生存権という概念も、西欧に由来するものであるが、その中身が上述の定義では変容していることになる。
 このような意味で生存権という概念を用いるならば、植物状態や無脳症の人々にも生存権が保障されなければならない。そのことから明らかになるのは、脳死状態にある患者も、同様の権利を持ち得るということである。したがって、科学的判定基準として脳死を採用するには、それを用いて死の到来を判定してよいという、生前の意思表明が不可欠となる。では、パーソン論を掲げる立場に対して、生存権のこのような定義変更は有効なのだろうか。これを受け入れるならば、彼らの論理が破綻するので、おそらく拒絶されるだろう。しかし、パーソンではないから生存権を持ち得ないと主張したからといって、その人を殺してよいという結論が必然的に導かれるのではない(9)。権利の否定が、生命を奪う自由に等しいわけではないという点を、パーソン論は無視しているのである。
 以上のことを踏まえれば、植物状態や無脳症の人々の生命が守られるよう、それが可能となる条件が整えられている限りにおいて、そして、脳死という科学的判定基準の採用が生前の意思表示に基づいてなされる限りにおいて、哲学的判定基準としての死を、「意識を回復して蘇ることがない」ということであると定義してよいだろう。かつては生きられずに間もなく死を迎えたような人々が、医療技術の発達によって生きられる状況になった。その恩恵を享受している人々が不当な差別を受けるという事態を改善するには、技術が社会にもたらす様々な影響とそれへの対応を考察するための議論だけでは不十分であり、そこでの議論を社会の具体的な場面に生かすための試みが必要である。

生かすことを断念するという場合

 ただし、これらの人々が、このまま生き続けたとしても状況が改善されていく可能性が全くないという場合に、特にそれが生まれたばかりの幼児であった場合などに、その子の将来ということを考えて、生かすことをあえて断念するという選択もなされ得る。ここでその人を生かし続けるかどうかというのは、本人の意思を確認できない以上、家族が熟慮した上で決断するべきことなのであり、部外者である人間が一方的に命令できるものではない。この決定を特定の基準によって強制するならば、画一化の暴力が生じることになる。
 もちろん、介護が面倒である、金銭的負担が大きいといった理由のみから、生かすことを安易に断念するべきではない。また、特に植物状態の人に関しては、治療行為を続けることで、状況が改善されていく可能性があるので、より慎重に考えるべきである。しかし、以上のような見解が正当であるとしても、介護や金銭の負担のみを理由に生命を奪うということが、現実には起きているのであり、単に理想論を語るだけでなく、そういった現状を認識した上での議論が進められなければならない。この地点から出発しない限り、現状を無視した理想論を語り続けるという行為は、事態を改善するどころか、むしろ現状を見えにくくし、それに加担することとして機能してしまうだろう。
 植物状態や無脳症の人々を生かし続けることの断念は、その判断を下す人の自己決定権によるのではない。自己決定権は、自らの所有物に対してのみ行使し得るものであり、こうした人々は、その権利を行使する人の所有の対象ではないからである。前述のように、身体の所有という想定が認められるのは本人だけであるならば、そういった人々の生命を例外的に奪う根拠は、自己決定権ではない。自己決定権に基づいてそれを行うならば、このような人々に対する他者危害の原則に抵触することになる。他者危害の原則に基づく近代社会が成立した当時、医療技術が発達したことで生じた、こういった特殊な状況が想定されていたわけではない。そのような状況で作られた原則が、今日の社会において万能であるはずはないのであり、それが自明でなくなるのは当然のことである。

実践に根ざした倫理学へ

 こうして、現代医療と自己決定権の裂け目が様々な部分で露呈された。近代社会を支えてきた、自己決定権や他者危害の原則が自明のものでなくなるということは、近代の構造自体を、学問領域を越えて問い直し、その欠陥構造を補完するための作業を積み重ねていく必要があるということを意味する。自らの思索と、これまでの諸成果を突き合わせつつ、それらを批判的に吟味していくことが、議論を更に深めていくためにも重要であるが、このような過程において忘れてはならないのは、そこで得られたものをいかに実践の中に組み込んでいくか、ということであろう。そして、それらが具体的な場面で、画一化をもたらさない議論の参照枠として生かされると共に、各々の場面から見えてきたものを学びとっていくという姿勢も不可欠である。
 それにもかかわらず、従来は、研究者共同体内部での生命倫理学に関する議論が、そのまま医療の現場に持ち込まれ、そこにおいて示されるものが唯一の絶対的な基準であるかのように錯覚されてきた。拙稿でも述べたように、生命倫理学が目指すべきなのは、判断の画一化ではなく、議論の参照枠としての機能である。このような機能は、画一性に陥らない反面、普遍妥当性を持たないならば、本当に有効であるのか、と問われるかもしれない。しかし、あらかじめ普遍性を想定すること自体が間違いなのである。普遍性は、参照枠を手がかりとした個々の場面での議論の積み重ねを通じて生成され、絶えず吟味されていく暫定的なものなのであり、その過程で参照枠自体も常に変容していく。この作業を経ずに、唯一の普遍妥当な基準を掲げることは、知的怠慢にほかならない。
 画一的な基準が安易に法制化されるならば、その暴力性は肥大化する一方であろう。法学者は、各々の行為が法的に見て妥当であるかということや、それが不確実である場合には、前例や異なる法体系における類似例と比較して妥当であるかということは検討するが、その行為の是非を判定する基準として用いられる法そのものが、本当に妥当であるかという問いを回避しがちである。また、日本社会には、コンセンサスさえ得られれば、それを直ちに法制化してよいと見なす悪習がある。倫理学に携わる研究者は、現場の具体的な状況から隔離された、研究者共同体内部のみでの議論という「パズル解き」や、単に基準や規則を定めて法制化するという御用学者的役割にばかり専念するのではなく、法そのものの妥当性を吟味するという役割を引き受けなければならない。
 しかし、現状において、倫理学がそのような機能を果たしてきたとは言えない。上述のような視点を欠く、「パズル解き」だけで自己満足しているような研究姿勢や、理想論ばかりを掲げて現実を直視しない倫理学の議論は、無力に等しい。その無力さゆえに、現状を隠蔽し、事態を更に悪化させていることに、どれだけの倫理学者が自覚的であるだろうか。あるいは、それを自覚しているからこそ、開き直って「パズル解き」に専念できるのかもしれない。倫理学は今や、イデオロギーを支えるツールへと堕落してしまった。現代倫理学における最大の課題とは、このような現状を変革することである。そのこと無しには、脳死や臓器移植、自己決定権についてどんなに意義深い考察がなされても、それが具体的な場面での実践に生かされ、社会の状況が改善されていくことは少ないであろう。問題は、倫理学の現状をいかに変えていくかということである。
 

[参考文献]

(1) 森岡正博「臓器移植法・『本人の意思表示』原則は堅持せよ」、『世界』2000年10月号、132頁。
(2) 加藤尚武『現代倫理学入門』講談社学術文庫、1997年、167頁。
(3) 熊野純彦「生死・時間・身体―生命倫理のいくつかの論点によせて―」、川本隆史、高橋久一郎編『応用倫理学の転換 二正面作戦のためのガイドライン』ナカニシヤ出版、2000年、43頁。
(4) 小松美彦『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』勁草書房、1996年、73頁。
(5) 同上74-75頁。
(6) 加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療 バイオエシックスの練習問題』PHP新書、1999年、55頁。
(7) 村上陽一郎『生と死への眼差し』青土社、1993年、69頁。
(8) 参考文献(2)93頁。
(9) 森岡正博『生命学への招待 バイオエシックスを超えて』勁草書房、1988年、229頁。