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作成:森岡正博 
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自己決定権と画一的医療

臓器移植法改正問題をめぐって

『世論時報』2000年11月号・61〜63頁

萩原優騎(国際基督教大学教養学部4年)

*【数字】の箇所で掲載頁は変更となる。

 生命倫理学の中心的な概念の一つに、自由主義の自己決定権がある。この権利によって自己決定を下すためには、その対象は、決定の主体が自由に扱える、「所有物」でなければならない。しかし、我々は病に苦しみ、死から逃れることもできないのである。この事実から考えても、身体は厳密には、自らの所有物とは言えない。それにもかかわらず、「尊厳死」に見られるように、自己の生を充実させることの意義を認めるからこそ、身体の所有という想定がこれまで了解されてきた。
 そうした了解が揺らいだ一例が、この度の臓器移植法改正問題である。本稿では自己決定権との関連で、改正派の見解の中から次の項目について、その問題点を考察したい。第一に、ドナー・カードによる患者の意思表明が確認できない場合、家族の同意だけで臓器摘出を行えるようにすること。第二に、15歳未満の子供が死亡した場合に、親権者の同意だけで臓器摘出が可能となるようにすること。第三に、脳死は人の死であると法的に定義し、その拒否権を認めないことである。

臓器提供と遺産相続とを、類比的に考えてよいのだろうか

 まず、第一の見解に従えば、たとえ患者が臓器提供を行わないと生前に自己決定していたとしても、それがドナー・カードに記載されていないというだけで、家族の決定によって覆される可能性がある。このことと類比的に考えられがちなのは、遺産相続の場面における、遺言状の効力であろう。遺言状が存在しない場合には、規定に従って遺産相続が行われるので、遺産は本人の死後に、家族の所有物となり得るということである。
 しかし、臓器の場合は事情が異なる。患者の死後に、その家族が遺体の処理を行う義務があるとしても、家族に患者の身体の所有権が移行するわけではないのである。改正派でさえ、臓器摘出の拒否をドナー・カードによって意思表明している患者からの摘出を正当と見なせないのは、そのためであろう。前述のように、身体の所有という観念さえ自明のものではなく、それが生の充実という点で承認され得るのは、本人だけなのである。人間は、死後の臓器提供を自己決定している存在であると改正派は主張するが、この主張には何の根拠もない。臓器摘出数を増やすために、「自己決定」という言葉を【61】濫用しているに過ぎないのである。

15歳未満の子供からの臓器摘出を、親権者の同意だけで正当化できるのか

 従来、自己決定権という概念は、未成年者には認められてこなかった。しかし、それに関して、幼児と成人直前の人間とを同じ未成年者として一括りにすることは、適切であるとは言えない。未成年者に成人と同等の責任主体としての資格がないとしても、自らの問題に関して決定を行える、判断能力を全く持っていないということではないからである。自らの死に関わる問題については、未成年者の喫煙や飲酒を禁じるといった、画一的な基準を適用すべきものとは異なる。なぜなら、後者はその原則を破ったとしても本人の死には至らないが、前者はやり直しが不可能なものだからである。
 この点を考慮して、15歳未満の子供が死亡した場合に、親権者の同意だけで臓器摘出を可能にするべきか、という第二の問題を考えてみたい。従来、15歳未満の子供から臓器摘出が認められなかったのは、民法において遺言の可能な年齢が15歳以上と定められていて、これと類比的に捉えられてきたからであるが、15歳未満の子供でも、自らの死や死後の処理方法について考え、意思表明する能力は備わっているはずである(詳細は、森岡正博『増補決定版 脳死の人』法蔵館、2000年、258−265頁を参照)。しかも、先述のように、臓器提供についての意思表明は、遺産相続などの遺言状とは異なる。
 それならば、15歳未満の子供の場合も、本人の意思決定は尊重されるべきであり、親権者の同意だけで、臓器摘出を正当化できるとは言えない。また、意思決定を可能と見なすことが妥当な年齢は、個人の成熟度に応じて異なるはずである。したがって、画一的なラインを引くのではなく、各々が子供のうちから自らの問題として考え、意思表明するという状況を作ることが望ましい。ただし、個人の価値観が確定していない年齢層の意思表明に、従来のドナー・カードのような、簡易な方式が適切であるとは思えない。

脳死とは何を意味するのか、それを法的に定義することの問題点とは

 次に、第三の問題について検討するが、その準備として、「脳死は人の死か」という問いについての問題点を考えたい。この問いでは、測定方法としての脳死と、患者が意識を回復して蘇ることがないという、概念としての死が比較されており、次元の異なるものを比べても意味がない(詳細は、加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』PHP新書、1999年、51−59頁を参照)。もし脳死を概念としての死と解しても、「死は人の死か」という無意味な問いとなってしまう。
 今回の改正問題では、従来は臓器移植が法的に許される時には脳死が人の死となり、法の手続きに従って脳死判定がなされた時だけ、脳死が存在するかのようであったという批判が、改正派から出された。確かに、脳死を測定方法として採用しない場合でも、心臓死によって測定された、精神を司る脳の機能が蘇らないという、概念としての脳死が存在する。ところが、前半部分に関しては、先程述べた、測定方法と概念の比較という誤りがある。脳死を法的に定義するには、測定方法としての脳死が、概念としての脳死に対応するという意味でなければならない。
 ただし、この条件を満足させても、脳死判定以降も心拍や各種の反応などが確認できるため、その時点で死を受容しにくいという問題が残る。そこで、測定方法については、患者の自己決定と家族の同意に委ねるべきだと考えられるだろう。しかし、脳死が法的に正当とされた状況では、患者が生前に臓器摘出を認めていた場合、家族に対してそれに同意するよう、無言の圧力がかかり得る(詳細は、村上陽一郎『科学の現在を問う』講談社現代新書、2000年、76−78頁を参照)。家族は、患者の自己決定を極力重視すべきだが、同意は自発的なものでなければならない。これは、脳死が【62】法的に定められた時点で発生する問題であり、臓器移植法そのものに対する批判へとつながる。

画一的な基準を強制しない、各々の個別性に配慮した医療を

 第二、第三の問題に見られる画一化された基準は、患者とその家族との関係や、各々の事例の個別性を無視し、医療行為を進めてしまうという暴力性を伴う。このことは、臓器移植を法的に禁止すべきだという見解にも当てはまる。特定の価値観や宗教観に従い、臓器の提供や受容を拒否するという自己決定の自由はあるが、それを他人に強制してはならない。自らの価値観を絶対化することで、他人が臓器移植を受けて生きようとする権利を奪うことは許されないはずである。
 しかし、法的禁止への反対は、法制化の肯定に等しくない。臓器移植のような高額医療を積極的に推進するならば、患者が金銭や権力の有無に関係なく、それを平等に受けられるべきであるという推進派の理念を、社会は資金面で支えていけるのだろうか。これが不可能であるならば、あくまでも例外的な医療行為として位置付け、そこにおいて平等の理念が生かされるべきであろう。それによって、先述した無言の圧力という問題も、改善されていくはずである。法制化しなければ臓器が不足するという声もあるが、臓器移植は、提供側の善意による医療行為であるということを忘れてはならない。受容側に生存の権利があることは確かであっても、臓器提供を積極的に要求する権利があるわけではない。技術が開発されれば、それを用いて何を行ってもよいわけではないという意味で、自己決定権は万能ではないのである。
 生命倫理学に関する学術的な議論を、医療の現場にそのまま持ち込み、それを絶対的な基準として立てるならば、そこでは画一化の暴力性が生じやすい。しかし、一方で医療技術は絶えず発達しており、それによって生じるであろう問題に関する議論は不可欠である。したがって、自己決定権の意義と限界を認識し、基準の絶対化や安易な法制化を図るのではなく、不断に検討を重ねていく必要がある。生命倫理学は、個々の意思決定の場面において、唯一の絶対的な基準を示さない、議論の参照枠として機能しなければならない。【63】