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現代文明学研究:第6号(2004):388-397
臓器移植におけるドナー家族とレシピエントの直接対面をどう考えるか
物語の倫理の視点から
金城隆展


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はじめに

 1997年に日本で臓器移植法が制定され、1999年に臓器移植法施行下での第1例目の臓器移植が行われた。その後、現在(2004年9月)までに31の脳死判定下の臓器提供と30の臓器移植が行われてきた。日本で移植医療の是非が問われる時、その論点は常に「脳死は人の死か?」という問いに置かれてきた。しかし移植医療が実現した今、「移植医療とは一体どのような医療なのか?」「みしらぬ人に臓器をあげるということは一体どのようなことを意味するのか?」といった重要な問いを再び真剣に考える時期が来ていると思われる。脳死移植が解禁されるまでは、「見知らぬ人に臓器をあげる」という行為がどの様な意味と経験をもたらすのかについて、我々はきちんと知るすべがなかった。それをほとんど知らないままに、「脳死は人の死か?」という議論を展開してきたのである。しかし臓器移植法が施行され実際に移植が実施された今、私たちは臓器移植医療を体験した人々、つまりドナー家族やレシピエントとその家族の語る物語にふたたび注目する必要がある。なぜなら彼らの物語の中にこそ臓器移植の現実があると考えられるからである。
 北アメリカでは現在、ドナー家族とレシピエントの直接対面の物語が注目を集めている。直接対面の物語は、「見知らぬ人々が関わり合う医療」としての移植を鮮明に描写し、社会が移植医療というものを受け入れていくべきか否かという倫理的問いに何らかの重要な示唆を与えるものだと私は考えている。現在、日本ではドナー家族とレシピエントの間の直接対面は事実上不可能であるが故に、「直接対面の是非」はこれまで真剣に議論されてこなかった。本稿はこのような状況に一石を投じる試みである。本稿ではまず北アメリカでの直接対面に関するガイドラインや文献、そして電子メールによるアンケートの結果を通して、徐々にではあるが北アメリカでドナー家族とレシピエントの間の直接対面が始まっていることを見ていく。そして次に物語論の視点から見たドナー家族にとっての「直接対面」の意義を示唆した上で、社会がドナー家族とレシピエントの間の直接対面の物語を注意深く聴き取ることが移植医療の倫理を再考する第一歩になるということを提案していきたいと思う。

北米における直接対面の要求

 ドナー家族とレシピエントの間の直接対面に関する文献やガイドラインを概観するとき、最も顕著な見解は「ドナー家族とレシピエントは互いにもっと相手を知り、そして交流したがっている」という見解である。1999年にNDFC (National Kidney Foundation Donor Family Council)は「全米コミュニケーションガイドライン」(National Communication Guideline) を発表して、ドナー家族とレシピエントの間の交流に関する指針を提案しているが[1]、その冒頭は次の声明で始められている。

過去数年間の間に渡って、ドナー家族と移植レシピエントは相手のことをもっとよく知りたい、そして互いに交流したいという願いを主張してきた。多くのドナー家族は、臓器提供が行われたレシピエントが元気でいることを知りたいと思っていたし、自分たちの愛する人(提供者)のことをもっと語りたいと願っていた。移植レシピエントはしばしばドナー家族へ感謝の気持ちを表したいと思っていた。ほとんどのケースに於いてドナー家族とレシピエント双方は互いに匿名のままでありたいと願っていたが、しかしそれでも尚、交流したいと思っていたのである。

この「情報交換と交流の願い」は北米の直接対面に関する論文では必ずと言っていいほど指摘されるが、その反面多くは実現していないようである[2]。現在、北アメリカに於ける直接対面の現状を示す統計資料は存在しないので、どれほどのドナー家族とレシピエントが直接対面を果たしているのかを知ることは出来ない。故に、私は北米のOrgan Procurement Organization (以下OPO)に対して直接対面の現状に関する簡単なアンケートを電子メールで行った。それをもとに、北米の直接対面の現状の輪郭を報告していきたい。
 各OPOへの質問は以下の3つであり、12のOPOが電子メールで返答してくれた:1)過去に斡旋したドナー家族・レシピエントの直接対面の数、2)ドナー家族・レシピエントの直接対面の利点・問題点は何か?、3)ドナー家族・レシピエント間の直接対面は70〜90年代に比べて増加傾向にあると思うか?ドナー家族・レシピエント間の直接対面は将来、一般的に行われるようになると思うか?
 以下それぞれの質問に対する回答を示していきたい。
 1)過去に斡旋したドナー家族・レシピエントの直接対面の数:過去に斡旋した直接対面の数であるが、今回返答してくれた12のOPO全てが過去の正確な直接対面の斡旋実績を記録していなかった。唯一ルイジアナOPOのみが過去数年間の正確な直接対面斡旋の数を報告してくれた。正確な数の代わりに、おおよその年平均の斡旋数を報告してくれたOPOが7つあり、その内訳は以下の通りである。

年間約1〜3例だと答えたOPO:2
年間約4〜5例だと答えたOPO:2
年間約6〜10例だと答えたOPO:3
年間20例以上というOPO:1

*残りのOPOは、直接対面の斡旋数を全く把握していないと答えていた。

 2)直接対面の利点・問題点:各OPOによって示唆されたドナー家族にとっての直接対面の利点は以下の通りである。第一に、ドナー家族のレシピエントに対する関心、つまり臓器提供が役に立ったのかという関心とレシピエント当人への関心が直接対面によって満たされるということ、第二に、直接対面を通して愛する人(ドナー)の一部(parts)を間近に感じられることやつながり感を持つことが出来ること、そして第三に、自分たちの提供の決断が正しかったということを確認する機会を直接対面が与えてくれることなどであった。年間20例以上の直接対面を実現させているルイジアナのOPOは、直接対面を果たしたドナー家族のほとんどが自分たちの決断が正しかったことを再認識していると報告していた。そしてこれらの利点は、直接対面がドナー家族に肯定的影響を与えたという点において、いくつかの調査報告と一致している[3][4]。レシピエントにとっての直接対面の利点は以下の2点であった:1)感謝の気持ちを表せること 2)罪悪感などの気持ちの整理がつくこと。Lewinoが実施した調査は、直接対面がドナー・レシピエント双方にとって特別な出来事であることを示唆している。感謝の気持ちを表すのならば、手紙や電話などのより直接的ではない交流のオプションがあるにもかかわらず、多くのドナー家族・レシピエントが直接対面をより望んでいるということをLewinoらは報告している[5]。
 ドナー家族・レシピエント双方にとって、直接対面の問題点は比較的共通しているようである。知り合うという局面のあと、関係性を続けていかなければいけないと感じる義務感の重さ、相手方への過度な依存、時にコントロールすることが出来ないこともある感情的な反応、宗教的・社会的背景の相違から来る失望と後悔(特にドナー家族にとって)が挙げられた。文献でも直接対面から生じる問題点が指摘されている。例えばAlbertが調査したドナー家族・レシピエントのうち、約16パーセントが何らかの予期しなかったマイナスの影響を経験したと報告している[6]。
 3)直接対面に対する各OPOの見解:1990年代中頃まで、ドナー家族・レシピエント間の直接対面はほとんど見られず、臓器移植関連の医療従事者や各OPOの間でも全く支持されていなかったというのが、各OPOの一致した意見のようであり、ここ十年の間にようやく直接対面が実施され始めたというのが現状のようである。彼らによると、直接対面は過去に比べて確かに増加の傾向にあり、彼らの間でも直接対面は受容されてきていると感じているようである。しかしながら直接対面の将来的展望に関しては意見にばらつきが見られた。将来的にはドナー家族とレシピエントの間の直接対面は普通の出来事になるだろうという楽観的な予測もあったが、かなりの時間が必要だと推測するOPOもいた。

考察

 このアンケートを通して私は直接対面に対する各OPOの対応は様々であるという印象を強く持った。各OPOによるドナー家族、レシピエント双方への情報公開と交流実施のプロセスは、その内容と方法において常に(現在でも)一貫性を欠いてきたという指摘[7]は正しいという印象を少なくも私はこのアンケートを通して持った。つまり直接対面の実現は、1)どのOPOが関わるか、2)誰がその直接対面を担当するのか、そして3)どのようにしてメディアが関わるか[8][9]に大きく依存しているのである。今後、北米での直接対面に関する統一的ガイドラインや法の整備が進められることを待ちたい。
 しかし各OPOの間で直接対面に関する統一的な指針がないにもかかわらず、幾つかのOPOは直接対面に関してある程度共通した見解を持っているということがアンケートの結果から伺えた:

1)タイミングの問題:ドナー家族とレシピエントの直接対面は一定の期間を置いてから許可されるというのが彼らの共通の見解のようである。最も多いのが最低六ヶ月から一年間は会うことを控えさせるという意見だった。但し直接対面が許されるまでの期間に関して一致した見解があるわけではない。例えばLewinoらの調査によると、調査に参加したドナー家族とレシピエントの約3分の1が直接対面は移植後1年以内、約3分の1が1年以後に許可されるのが適当であると答えたのに対し、残りの約3分の1は移植後の期間は、直接対面の決断に於いて重要な要素ではないと答えている[10]。

2)ドナー家族・レシピエントの間で最低限度の事前応答の必要性[11]: ドナー家族とレシピエントの間で、事前の手紙のやりとりや、相手の家族構成や趣味、関心などを知り合うことの必要性がアンケートで指摘されていた。しかし事前応答の基準は各OPOによって異なるようである。例えばあるOPOでは最低2回以上の手紙のやり取りが条件であるのに対して、他のOPOでは具体的な回数は定められていないなどの違いがあった。

3)同意書へのサインが義務づけられていた。

 興味深いことにOPOの職員からは「直接対面の始めから終わりまで立ち会う必要はない」というコメントが多かったのでここに紹介しておく[12]。その理由は以下の通りである:1)職員不在のほうが心を開いた対面が実現できる(とOPO職員は考えている)から、2)直接対面というのは非常にプライベートで繊細なものなので、出来る限りドナー家族、レシピエントのプライバシーを尊重するため、3)OPOの職員の役割は、対面前の事前審査であり、その審議が終わったらドナー家族、レシピエントの自主性に任せるのが適当であるから。実際、OPOが最も注意を払っているのはこの対面前の審議だという印象を私は今回のアンケートの結果から強く受けた。彼らは注意深くドナー家族、レシピエントそれぞれと話あったうえで、手紙や電話などの事前交流を適切に重ねることを指導し、そして適切な時期を慎重に検討したうえで直接対面を斡旋するようにしているようである。例えばニューヨークのOPOのコーディネーターは、以下のようなことを慎重に検討した上で、直接対面が行われるか否かを決定するとコメントしていた:1)ドナー家族によるレシピエントに対する過度の愛着が見られないか?、2)ドナー家族がレシピエントに亡くなったドナーの姿を過度に重ねる傾向がないか?、3)相手を所有したいという気持ちがないか?、4)ドナー家族が、レシピエントの人種、宗教、社会的素姓や経歴に失望し、(提供を)後悔するような可能性はないか?
 これらの報告から明らかなように、彼らが重要な役割を果たすのは、直接対面が実現されるまでの過程であり[13]、直接対面が一旦始まると、ドナー家族とレシピエントがその主役であると彼らは認識している。コーディネーターとは、ドナー家族・レシピエントの間に立つ客観的仲介者 (Facilitator)であると同時に直接対面のゲートキーパーとして捉えることが出来るだろう。
 直接対面が実現するまでの過程は、仲介者、ドナー家族、そしてレシピエントによる事前の慎重な熟考とコミュニケーションを経て成り立つ漸次的なプロセスであること、故に直接対面を許可するまでのプロセスをいかに慎重に進めるかが直接対面の問題を未然に防ぐ鍵であることが今回のアンケートから浮かび上がってきた重要なポイントだろうと思われる。
 北アメリカに於けるドナー家族・レシピエントの直接対面は確かに増加の傾向があるということは、今回のアンケート調査で明瞭になった。しかしそれと同時に私たちが認識しなければいけない現実とは、ドナー家族とレシピエントの直接対面は依然として希な出来事であり続けているということであり、そしてどんなに匿名性緩和の傾向が進んだとしても、そのような交流を好まない人々がいるということである。完全に匿名性が撤廃されるという可能性は、少なくともこのアンケート調査からは見られなかったことを強調しておきたい。

直接対面の是非に関する議論

 北米に於いてドナー家族とレシピエントの間の直接対面が始まっているということを踏まえた上で、ここからは直接対面の是非について考察する。第一に北米に於けるこれまでの直接対面に関する議論を概観し、次に物語論の視点から直接対面の意義を再考する。そしてフランクの「語りの譲り渡し」の概念を通して、移植医療従事者がどのように直接対面に対処していけばよいかを示唆し、最後に臓器移植の倫理への道程を示したいと思う。
 直接対面の倫理の最も基本的な第一の問いは「ドナー家族とレシピエントの間に交流はあるべきか[14]」である。直接対面に反対する議論は大きく三つに分けることが出来る。第一の議論は、臓器移植に関する取り決めは倫理ではなく、提供したい人が提供し、臓器を欲しい人が受け取るというエチケットの問題だという主張である。ドナー側とレシピエントの間には何らかの倫理的義務や契約は存在しないし、故に直接対面は不必要であるというのがこの議論の主張である[15]。
 第二の議論はさらに根強い。それは「直接対面はドナー家族とレシピエント双方にとって害があるゆえによくない」という議論である。殆どの移植医療従事者は直接対面に対して良い評価を与えないと言われている。なぜなら、ドナー家族と移植レシピエントはそれぞれ傷つきやすく保護されるべき存在であり、(多大な精神的ストレスを与えるだろうと思われる)直接対面は一方または双方に害を与えると考えられているからだ[16][17]。本稿ではこの「直接対面有害論」の真実性の検証は行わないが、この「直接対面有害論」は事実に基づいて展開された議論ではないという指摘が多くなされている。
 第三の議論のグループは「滑りやすい坂論」に基づく議論で、どこまでが安全な直接対面なのかという線引きが困難であるのだから、リスクが大きい直接対面を許すことによってドナー家族とレシピエントに害を与える可能性を増大させるよりは、その様なリスクを与える交流(直接対面も含む)を一切禁止にすべきだという主張である[18]。第二の議論と第三の議論は非常に似通っているが、第二の議論は積極的善の促進を目指すのに対して、第三の議論は消極的禁止にとどまっているという点で、二つの議論は問題に向かう態度が本質的に異なっていると言えるだろう。ビーチャムとチルドレスはその著書『生命医学倫理』の中で無危害原理と仁恵原理を次のように区別している[19]。

<無危害>
1.害悪や危害を加えてはならない

<仁恵>
2.害悪や危害を予防しなければならない。
3.害悪や危害を除去しなければならない。
4.善を実行するか、あるいは促進しなければならない。

つまり仁恵の三つの形態には、危害の予防・危害の除去・善の促進という「積極的行為」が含まれていることに対して、無危害の原理は「害悪や危害を加え」ない為に「何もしない」という意味で「消極的」であるのが両原理の間の大きな違いである。これを直接対面反対の議論に当てはめるならば、第二の議論は害を与える可能性が高い直接対面のみを禁止するという「直接対面の積極的部分禁止」につながりやすいのに対し、第三の議論は害を与える全ての可能性を排除するという「全ての交流の消極的全面禁止」につながりやすいということになるだろう。
 ドナー家族とレシピエントの間の交流禁止に反対する議論の中心はドナー家族の「知りたい」という気持ちとレシピエントの「感謝したい」という気持ちを尊重すべきだというものである。ドナー家族にとって、提供後の状況やレシピエントのことを「知りたい」と思う好奇心や、自分たちの提供の決断が正しかったことを確かめたいと思う気持ちを持つことはごく自然であり、ゆえに直接対面を禁止することは理に反しているというのがこの立場の主張である[20]。また多くのレシピエントはドナーとその家族に対して感謝したいと思っている、という報告がいくつもなされており[21]、「直接会って感謝したい」という彼らの自然な気持ちを抑えるのは理不尽であるというのがこの立場の人々の見解である[22]。

物語論の視点から見る直接対面の意義

 ここまではドナー家族とレシピエントの間の直接対面に関する一般的議論を概観したが、ここからは物語論の視点から見た直接対面の意義を考えていく。ドナー家族にとっての直接対面がレシピエントのそれよりも物語論特有の視点をより鮮明に写し出すという理由から、ここではドナー家族にとっての直接対面の意義を中心に考察していく。
 「人は物語る動物である」と言われる。これは私たちが物語ることによって、私たちの周りの世界を理解し、私たちの周りで起こった出来事を整理し、順序付けてその意味を理解するからである。時として私たちには、病気や事故といった日常性や期待を打ち破るような「出来事」が起こる。その様なとき私たちはなぜそのようなことが起こったのかと問う。恐らくドナー家族が持つ問題は、「なぜ愛するドナーが脳死にならなければいけなかったのか」という、けっして解決することの出来ない疑問なのではないだろうか。無論、物語はこの疑問を解決する助けを与えることは出来ないが、しかし物語はもう一つの手段をドナー家族に提供することが出来る。それは疑問を解決するのではなく、彼ら自身がドナーの死や臓器提供の経験を異なる仕方で解釈・理解し、それを積極的に語ることによって問題を「解消」するという手段である。
 私はドナー家族にとっての直接対面の意義の本質は物語的だと考えている。なぜならドナー家族はレシピエントに対してドナーのことを語りたいと切実に思っているからである。この家族の「ドナーについて語る必要性」をAlbertは次のように報告している:「ドナー家族(95%)はドナーがどれだけ家族によって愛されていたか、ドナーがどれほど寛大で愛らしかったか、そしてドナーがどれほど残された人々によって偲ばれているかをレシピエントと共有したいという必要性を圧倒的に感じていた[23]」。物語は語られなければならない。それも誰でも良いわけではなく適切な人に対して語られなければならないのである。そしてドナーの物語を語ることは、ドナーの人生の意味をドナー家族が再認識することでもある。詰まるところ、ここで言うドナーの人生の意味とはドナー家族が理解する何かであり、その意味とはドナー家族にとって重要な何かを示しているのである。そしてその意味はドナーの人生や死、そしてレシピエントの生という出来事が一つの物語の中で有意味的に連鎖されて語られることによって認識されるのである。
 出来事は物語の筋書き(プロット)によって連鎖・関連付けられる。そしてフォスターはこの出来事の連鎖・関連に深い意味を付加することが物語(Narrative)の特徴であり、その特徴を次のように解りやすく説明している:「『王様が亡くなりました。そして王妃様も亡くなりました』はストーリーである。しかし、『王様が亡くなりました、そして悲しみのあまり、王妃様も亡くなりました』はプロットである。なぜならば、後者の語り方は、出来事の連鎖の中により深い意味を提示し、物事がなぜその様に起こったのかということの理解を助けるからである[24]」。
 物語が出来事の間に深い連鎖性・関連性を描く様に、ドナー家族も直接対面を通して、ドナーの死、ドナーの臓器の提供、そしてレシピエントの健康の回復という出来事の間に深い連鎖性・関連性を見いだしていると私は考えている。例えばAlbertが自身の論文の中で引用していたドナーの家族のコメントを見てみよう:「健康な彼女(レシピエント)とそのご主人、そして3人の子供たちを見たとき、私はこの選択が正しい選択だったのだと解ったのです。そして私の息子も彼が為し得たことをきっと誇りに思うことでしょう[25]」。何らかの言説やストーリーを物語の視点から分析する上で最も重要なことは、その言説・ストーリーの語り手によって(最低二つの)出来事が深く連鎖・関連付けられているかどうかを、注意深く見ていくことだと私は思う。そしてこの「出来事の間の深い連鎖や関連」は必ずしも物語的な筋によって達成されるわけではない。実際、上記されたドナー家族のコメントは物語の筋らしきものは含んでいないが、しかし注意深くそのコメントを読み直すと、このドナー家族が「出来事の間の深い連鎖や関連」を見いだしていること、あるいは「ある出来事と出来事を深く関連づけている」ことを、私たちは推測することが出来るのである。直接対面を通して、このドナー家族は、彼らが決断したドナーの臓器提供の結果(健康を回復した幸福そうなレシピエントの姿)を実感を伴って見る。そしてドナーの死、臓器提供、そしてレシピエントの命が救われたというこの三つの出来事がこのドナー家族によって深く連鎖・関連づけられ、そしてこのコメントを通して語られていると私は解釈したいのである。
 「人生の出来事の連鎖・関連」という見地から見た、ドナー家族にとっての直接対面のもう一つの意義は恐らく「終わりの感覚の獲得」であろう。物語の中で出来事は深く連鎖・関連づけられていくのだが、より正確に言うならば、出来事はある一定の構造に従って深く連鎖・関連づけられているとするべきである。その一定の構造とは「始め」、「中間」、そして「結末」という時間的構造である。そして「終わりの感覚」によって物語は一貫性を獲得し、そして「こういう終わり方もあり得る・これでよかったのだ」という物語的な理解が語り手や聴き手の中で引き出されるのである。私は直接対面がドナー家族にとって「ドナーの人生の物語」の「終わりの感覚」を得る機会となっているのではないだろうかと考えている。突然の愛する人の脳死によって暴力的に中断されてしまったドナーや彼ら自身の物語は決してそこから再開されることはないし、故に解決されることは決してない。なぜならドナーの死は彼らにとって理不尽で在り続けるし、ドナーの死にはどのような理由も解決もあり得ないからである。残された道は、中断された物語を修復しようと試みることではなく、ドナーの死を含む物語を語りなおすことだと私は思う。レシピエントと対面し、ドナーのことを語り直し、そして臓器提供の結果であるレシピエントの生に触れるとき、「これでよいのだ」という「終わりの感覚」が得られ、再び前に進む力、つまり自分たちの中断されていた人生の物語を再び続ける力をドナー家族は直接対面を通して得ることが出来るのだと思う。Clayvilleはそのような直接対面を次のように簡潔にまとめている。

これらの会合はドナー家族自身の生を理解することを助けるのかもしれない。というのは生きている者にとってその課題を成し遂げるために自分自身の生に目を向けるのは自然のことだからである。直接対面によって、ドナー家族は今未来を見るようになり、友情を培い、そして自分自身の人生を生きることにエネルギーを注いでいるのである[26]。

物語論の視点から見た場合、ドナー家族にとっての直接対面とは、ドナー家族がドナーの物語を再解釈し、語り直し、そして「完結」させるのを助ける契機となるのみならず、一時中断されていた彼ら自身の人生の物語を継続していくための第一歩を踏み出せる大事な契機となるのだと私は解釈したい。

「語りの譲り渡し」と「脱近代の物語」

 フランクは著書『傷ついた物語の語り手』の中で、患者固有の声と物語は、「医学的語り」によって取って代わられてきたと指摘している(「語りの譲り渡し」)。人々は医学の恩恵を受ける代わりに「患者」となり、医学的な語りであるカルテが患者の病の「公的物語(Official Story)」になることに暗黙の同意をしてきたのである。しかし「病いは次第に違った感じ方をされるようになった」とフランクは指摘する:病む人たちが「『医学的な語り』以上に語りうることが自らの経験に含まれている[27]」と次第に認識するようになったのである。
 ドナー家族とレシピエントの直接対面は「脱近代の物語」の一つの例だと私は捉えている。アーサーフランクは次のように「脱近代の物語」を特徴付けている。

これらの物語の持つ新しい感覚は、医療や医師がどれだけ物語の中に入ってこないか、というところに現れている。脱近代の病の物語は、人々が自分を「統一的で一般的な視点」の外部に位置づけうるように語られる[28]。

北米でドナー家族とレシピエントが直接対面を達成してきた過程は、フランクが示唆する脱近代的物語を語る行為の象徴だったと私は解釈している。北アメリカでもほんの10年前まで直接対面はほぼ全面禁止であったのにもかかわらず、ドナー家族・レシピエントはそれぞれ独自に自主的に声をあげて互いを見つけあってきた[29]。この独自性と自主性こそフランクの言う「脱近代の物語」の特徴であり、それは「自らの個人的な責任をより深いところで引き受ける[30]」という責任の倫理に発展していくのである。つまり直接対面の倫理は、移植医療関係者や倫理学者ではなく、「彼ら」(ドナー家族やレシピエント)によって創られていくものだということが、フランクの「脱近代の責任」の考え方から示唆されていると私は考えている。ドナー家族とレシピエントは自ら声を上げて「会いたい」と言うことによって、「会う」ということに対する責任を「より深いところで」負うことを引き受ける。そしてその責任は、直接対面を経て生まれてくる出来事をみずから臓器移植の証人として物語ることによって果たされるのである。
 「物語が語られる時代[31]」が到来している。北米でのドナー家族とレシピエントとの間の直接対面の要請は今後も増加し続けると言われており[32]、近い将来、日本に於いてもドナー家族とレシピエントそれぞれが「直接会いたい」と声を発する時が来ると私は推測している。なぜなら私たちは「物語る動物」であり、「出来事の意義の理解」と物語の「完結」を目指ざすのは人間にとって必然だからである。その様な時に備えて、臓器移植のコミュニティーはどのようにその要請に応えるべきかを今から真剣に考えることが求められているのだと思う。その時、もし医療従事者が「直接対面はドナー家族とレシピエントにとって有益ではない」と主張し続け、そして彼らが直接対面を望んでいるにもかかわらず直接対面を禁止し続けるならば、ドナー家族・レシピエントの物語は依然として医療従事者に譲り渡されていると見るべきだろう。直接対面がドナー家族とレシピエントにとって有益ではないと判断し、そして直接対面を制限出来たのは移植医療従事者であったことはほぼ間違いない事実だと思う[33]。無論、私の意図はそのことで移植医療従事者を非難することではないし、決して直接対面を無条件に推奨しているわけでもない。前述したように直接対面には予期されぬ問題もあるし、必ずしも全ての直接対面が上手くいくわけではない。ましてや移植医療従事者のゲートキーパー的役割は非常に重要であり、彼らが直接対面に全く関与しなくなるというのは考えられないことであり、また倫理上許されるべきではないことだと思う。ただ主張されるべきことは、私たちは常に自分が立っている場所や主張を吟味する必要があるということであり、特に医療従事者はその態度が必要だということである。なぜなら医療従事者は臨床の場では常に「強者」であり、患者らの「語り」を知らず知らずのうちに奪い取っている可能性が常にあるからである。

さいごに

 ドナー家族とレシピエントの直接対面の物語を社会が制限するのではなく、それを注意深く聴くとき、私たちは真の意味で臓器移植の是非を問うことが出来ると思う。まったく他人だったドナーとレシピエントが一つの「死」を介して運命的に関係づけられていくのが臓器移植である。しかし臓器移植は依然として非常に稀な医療であり、社会のほんの一握りの人々しかこの医療に関わることがない医療でもある。だからこそ実際に臓器移植に関わった人々の声と物語を真摯に傾聴し、臓器移植とはどのような医療なのかを深く理解して初めて移植医療の是非と倫理を考えることが出来るのだと私は考えている。
 臓器移植の倫理が私たちに投げかけている本質的な問いとは「社会の一員であるがしかし互いに他人である私たち1人1人が互いにどの様に関係していくべきか」であると思う。移植医療とはそのような「関係の倫理」の究極の例だと私は確信している。互いに全く見ず知らずの社会のメンバーであったドナー家族とレシピエントが、直接対面を経てどのように関係していくのか、そしてどのような物語を生み出していくのか、そしてどのような結末を迎えるのかを、私たちは注意深く見守る必要があると思う。そこから生まれてきた物語を社会が見届けたとき、初めて私たちは「誰かの死によって成り立つ医療」の本質的意味の理解と臓器移植の倫理の構築への第一歩を踏み出したと言えるのではないだろうか。

[1] http://www.kidney.org/recips/donor/infoPolicyGuidelines.cfm(2004年10月現在)
[2] Lewinoが実施した調査では、95組のドナー家族のうちの70パーセント、そして248人のレシピエントのうちの75パーセントが直接対面を希望していたにもかかわらず、5パーセントのドナー家族、そして3パーセントのレシピエントのみが直接対面の機会を与えられたと報告している。(Lewino, 192-193)
[3] Lewinoの調査に参加した91人のドナー家族のうち、61パーセントが、直接対面の第一の理由として「提供が役に立ったのかということを確認したい」を挙げ、29パーセントが「レシピエントを通して愛するドナーとのつながりを保ちたい」を挙げていた。(Lewino, 192)
[4] 例えばClayvilleは、直接対面を果たした8つの全てのドナー家族について、直接対面は彼らのその後の生き方に肯定的影響を与えたとドナー家族が感じていることを報告している。Clayvilleが報告している肯定的影響は次の通りである。1)直接対面によって「愛する人を失った悲しみ」は感じたが、しかしその悲嘆のプロセスを乗り越える助けになった。2)自分たちの痛みや悲しみを分かち合ってくれる人たちがいるということを知る経験が、人々の関与とそれに伴うサポートを与えてくれた。3)提供をして良かったという認識が出来た。(Clayville, 83-85)
[5] Lewino, 193.
[6] Albertはマイナスの影響として、ドナーの死のフラッシュバック、ドナー家族の必要以上の関与、健康なレシピエントに会ったことで憤りを感じてしまったことに対する罪悪感、ドナー家族とレシピエントの間の宗教的・社会的相違などを挙げている。(Albert(1998), 143)
[7] Albert(1999), 221.
[8] Clayville, 83.
[9] Corr, 625.
[10] Lewino, 192.
[11] 事前のコミュニケーションの必要性はいくつかの文献でも指摘されている。例えばClayvilleが行った調査に参加した5つのドナー家族全てが、事前の手紙によるコミュニケーションは直接対面への有益な段階であると考えていることを報告している。(Clayville, 14) またLewinoらの調査によると、調査に参加したドナー家族とレシピエントの多くが直接対面への過程は漸次的であるべきであり、また事前のコミュニケーションは必要であると考えていた。(Lewino, 193)
[12] 「もし直接対面が実現したならば、仲介者の同席を希望しますか?」という質問に対して、44パーセントのドナー家族と51パーセントのレシピエントが同席を希望し、ドナー家族の44パーセントとレシピエントの35パーセントはどちらでもよいとし、そしてドナー家族の12パーセントと14パーセントのレシピエントが仲介者の同席に反対した。(Lewino, 192-193.)
[13] Clayville,23.
[14] Corr, 625.
[15] Albert(1998), 139-140.
[16] 同上,139.
[17] Corr,626.
[18] 同上
[19] ビーチャム・チルドレス、p. 145
[20] Corr,627.
[21] Corr, 627 & Albert,143.
[22] Corr, 627.
[23] Albert(1998), 143.
[24] グリーンハル・ハーウィッツ、p. 5
[25] Albert(1998), 143.
[26] Clayville, 85.
[27] フランク、p. 22
[28] フランク、p. 32
[29] Corr, 625.
[30] フランク、p. 32
[31] フランク、p. 20
[32] Albert(1998),144.
[33] 直接対面の抑圧は主に次の二点に於いてなされてきたと考えられる:1)ドナー家族とレシピエントに提供される情報が、医療従事者によって決定されてきた。(Albert(1999), 220) 2)直接対面が上手くいくか否かという見通しは、大抵、実際に交流するドナー家族やレシピエントの意見を聞かずに、専門家らによって決定されてきた。(Politoski, 78)

文献一覧

アーサー・W・フランク 2002「傷ついた物語の語り手:身体・病い・倫理」ゆみる出版
グリーンハル・ハーウィッツ 2001「ナラティブ・ベイスド・メディスン:臨床における物語 りと対話」金剛出版
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