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現代文明学研究:第5号(2002):348-359
「性的身体」の現象学
「ミニスカ」からみる消費社会のセクシュアリティ構造
村瀬ひろみ
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はじめに
あなたが、男でも女でも、聞きたい。あなたはミニスカートをまとったことがあるだろうか。太腿があらわになり、両足の間にあるモノはかろうじて包み隠されるような、ミニスカートを。
ミニスカートをまとう存在としての「私」は、男を誘惑するだけの人形だろうか。
長いスカートの鬱屈した不自由さ、まとわりつく布の抑圧から逃れ、より行動的になるためのミニスカートだってあるはず。男がどう見ようと、動きやすい開放的なミニスカートが好きという女はいないだろうか。膝小僧が見えるよりはるかに短い丈のスカートこそ、足がキレイに見えると鏡の前でひそかにほほ笑むことはないだろうか。
そんなミニスカートに、一部の男性たちは欲情するという。そのこと自体は、率直な言説であって、フェミニズムが批判すべきことではないかもしれない。しかし、そこに「ミニスカートをまとう私」という主体の視点が欠落していると気づくとき、私は、新たな地点から「ミニスカート」にまつわる言説を検証していく必要性を感じるのである。
本論は、ミニスカートへの自己の嗜好を論じた森岡正博のエッセイ(1)、そのエッセイを批判的に検討しさらに発展させた沼崎論文(2)への応答を、「ミニスカートをまとう私」から試みるものである。
1.男はミニスカ(3)がお好き?・・・問題提起
まず、はじめに問題となるエッセイと論文について、概略を見ていこうと思う。
隠蔽と開示のダイナミズム・・・森岡エッセイ
「なぜ私はミニスカに欲情するのか」と、森岡は自問する。一人称で問われるそれは、「なぜ男はミニスカに欲情するのか」という一般論への道を禁欲しつつ、「私」の個人的な趣味の問題へと惑溺することも避けていく。「私」を語ること、「私」を問うことが、男一般のセクシュアリティの問題へとつながる場所をさぐりながら、「ミニスカ」を論じていくのである。
女装の男のミニスカにも欲情し、ミニスカと同様に脚がむき出しのキュロットにはたとえそれがミニ丈であろうと欲情しないという森岡は、単純に露出した脚部に欲情するわけではないことに気づく。テニスウェアを「スカートの中身を公然と「見せる」装置」であると看破する彼は、当然テニスウェアに欲情することはない。また、スカートの中がもろに見える盗撮された写真にはまったく興味がないという。男性には「スカートの中身がもろに見えると欲情しない男」と「もろに見えたほうが欲情する男」の少なくとも二種類が存在しており、その前者についての考察をするのである。
さて、ここまで来ると森岡の欲情するポイントは明らかであろう。「見えそうで見えない」のが彼のセクシュアリティの装置として都合が良いということである。そのことを、森岡は次のように言う。
すなわち、大事なのは、スカートの中身を隠そうとする意志があるにもかかわらず、スカートの中身が見えそうになっていることである、と。(森岡2001:373)
見えないように裾を下げようとするにもかかわらず、自然に上がってきてスカートの中身が見えそうになる。何物かを隠そうとする意志と、それに逆らって真理を暴こうとする運動。その緊張感溢れるダイナミズムに知覚弓となって参与する第三者としての私。この三者関係のただ中にこそ、ミニスカへと欲情を固着させるオートポイエーシス装置が構造化されているのである。(森岡2001:373)
私の欲情装置は、私がそこから決定的に遠ざけられていることろの何物かを包むものの姿を、一方において露出させ、他方において無理やり隠すというダイナミズムを見せつけられたときに、自動的に発動する。(森岡2001:375)
この欲情装置を、男性の支配や優位の幻想によって説明することへの疑問を森岡は付け加える。従来のフェミニズムが用いてきた男性の優位感覚・支配感覚と融合して男性のセクシュアリティが作られているという説明では、このミニスカという装置は理解できないのではないかと懸念する。そして、「女性学と男性学の共同作業がなければ、これから先は解明できない」と説明を断念した後で、最後に次のように付け加える。
女性のミニスカは・・・(中略)・・・男の快楽刺激を発動させるための単なるトリガーとして利用されたにすぎないのかもしれない。だとすれば、ミニスカへの欲情とは、それを履いている女性自身とはまったく無関係な、男の頭の中の自閉回路であることになる。この意味においては、男は女を道具として利用していると言える。いや、生身の女は実は必要ですらない。(森岡2001:375)
このエッセイは、ミニスカのイメージさえあれば、男は(森岡は)欲情するのだと公言して終わる。「なぜミニスカに欲情するのか」の答えは、まだない。
ミニスカが指し示すもの・・・沼崎論文
沼崎は、前述の森岡のエッセイに対し、大枠で同意しながらも、いくつかの問題点を指摘する。一つは、ミニスカをまとう女性の「隠そうとする意志」の主体である「生身の女」が見えてこないということである。それは、隠したいという思いや恥ずかしさや痛みという感覚を持つ「生身の女」である。
さらに沼崎は続ける。
森岡は、女性/女体の記号化を通して、己が欲情装置としての「自閉回路」を、まさに「自閉」的に構築する<力>を持っている。(沼崎2001:301)
そして、対象となる「生身の女」は森岡の視線による記号化を逃れることはできない。(森岡の記号化は「自閉的」であり、「生身の女」は自分が記号化されていることすら気づくことはできない)。つまり、その女性/女体の記号化こそが、権力作用であると指摘している。また、沼崎は「無理やりミニスカを身につけさせられる女性」の存在にも言及する。
沼崎は、ミニスカをまとう「生身の女」と<この私>の社会的な関係性から、ミニスカという記号と男性のセクシュアリティについて論じていく。
まず、彼はミニスカという記号が換喩するものについて述べる。ミニスカは、「挑発している」身体であり「性的に応えよう」としている身体であるという。「ミニスカが換喩する女性は<可能態>としての性的身体である」という沼崎は、さらにそのような外見による性的身体の表出には男女において互酬性が働いていないことにより「若い女性は、その社会性を超えて、常に性的存在としてのみ「知覚」されるという不平等がここに如実に現れている」と指摘している。
しかし、沼崎のミニスカの記号分析はそこにとどまらない。
ミニスカは、<性的身体を開く>ようにしむける男性の力をも隠喩しているというのだ。それを彼は「男力」という。言い換えれば、「男力のある男」というのは<モテル男>のことであり、ミニスカは<モテル男>の換喩だというのである。そして、ミニスカは、<モテナイ男>を逆照射する。沼崎は、<この私>はミニスカによって、<男らしい男>が私を差別し排除していると「知覚」するのだという。
しかし、現実の社会関係に目を転じ、「生身の女」と<この私>との関係を直視するならば、ミニスカが、男性を差別化する記号として、<この私>の男性性(の欠如?)を逆照射することに気づかざるを得ないのである。(沼崎2001:304)
そこから、沼崎は<男らしい男>、女性の性的な従順を引き出せる男をこそが、<真の男>とだとするイデオロギーを<男力主義>と呼び、それこそが「性的支配力をめぐる男同士の競争」を引き起こすかなめであるとするのである。「性的弱者論」や「男権主義」とは一線を画す<男力主義>は、男性集団のなかに<真の男>とそうでない男という分裂を引き起こす。
その分裂を食い止めるのが「男権主義」であり、<男力に欠ける男>たちに、「女を支配するオプション」を提供しているわけだ。(モテナイ男でも、買春やポルノによって女を支配できるのが「男権主義」なのである)。そして、次のように結ぶのである。
ミニスカートは、女性差別であるばかりでなく、男性差別でもあるのだ。(沼崎2001:309)
「ミニスカをまとう私」は、こう聞き返す。
差別でないミニスカの可能性は、ないのかと。
2.「ミニスカ論」の提起するもの
1で、足早ではあるが、森岡エッセイと沼崎論文について概略を見てきた。自らのセクシュアリティについて、深く考察しようとしそれを発表している二人に敬意を表しつつ、いくつかの問題点を指摘していきたい。
「ミニスカ論」の権力性
森岡のエッセイは、「自分はミニスカが好きだ」という表明とそれに対する自己分析であるといえる。分析の内容はひとまず置くとして、「ミニスカが好き」という表明に権力性はないだろうか。
「ミニスカをまとう私」の視点から二人の「ミニスカ論」を見る前に、それらの差別性について言及しておく。もちろん以下の差別性については両論者とも十分にわかっていることと思うが、敢えて述べようと思う。
一口に「ミニスカが好き」という言明は、単なる服装としての丈の短いスカートが好きだということを意味していないことは明らかである。ミニスカといえば、どんな女性を想像するであろうか。端的に言うと「若い」「スタイルの良い」女性である。逆に、「歳をとった」「非常に太った」(もしくは「非常に痩せた」)女性のミニスカを想像できるだろうか。
この点を鑑みると、ミニスカという服装は女性自身にとって、単なる服装という意味以上のものを持つ。
浅野千恵は摂食障害の女性たちやダイエットに励む女性たちにインタビューした本の中で、次のような声を拾ってきている。(4)
ふとっているときはあれだけ元気だったけれど、服を買うときは消極的になっちゃうんですよ。でどんなに性格的に元気でも服は合わないものは合わないし、着れないものは着れない。服を買うときだけは内向的になっていた。どうしてもだぼっとした服になっちゃうからもっとかっこいい服が着たいなと思っていた。やっぱりふつうの女の子みたいにミニスカートとかジーパンとかも着てみたかった。(浅野1996:97 太字は傍点)
ミニスカは着る人を選ぶのである。少なくとも上記のダイエットに励む太めの女性は、そう思っている。太った身体にあったミニスカを探したり作ったりするのではなくて、ミニスカのほうに身体を合わせようとして、ダイエットを始めるのである。
ミニスカが、「若い」「スタイルの良い」身体という内実とセットになっているのは明白である。ミニスカは「若くてきれいな女性」の換喩でもある。そのような現実があるときに、公の場で男性が「ミニスカが好きだ」と言明することは、「若くてきれいな女性が好きだ」という意味の発言として受けとられても仕方がない側面を含んでいる。そして、それらの「若くてきれいな女性が好き」という無邪気な発言が、それを受け止めた女性の行動を抑圧するならば、その発言は差別的であるといわれるだろう。
「ミニスカがいい」という言説は「若くてきれいなミニスカが似合う女性にしか価値がない」という価値観の表明にすり変わることがあるのである。発言者がそれを意図していなくてもそのことは容易に起こり得る。前後の文脈や、他の文章、よって立つスタンスから森岡や沼崎にそれらの意図はないのだと思われるが、やはり、このことは指摘しておかなくてはならない。
たとえば、「背が高い男が好き」や「デブはいや」などの女性の発言に胸を刺される男性もいるに違いない(5)。その発言の動機が「なぜ私は背の高い男が好きなのか」「なぜ私はデブは嫌いなのか」といった内向的かつ自閉的な自己探求であるとしても、その発言がある人にとって抑圧と響くとき、やはり発言者は差別の片棒を担いでいるといわざるをえない。上野千鶴子は次のようにいう。
性的な身体を女性は見られることによって獲得していきます。女性にとって自己身体意識、あるいは自己身体イメージの獲得は、思春期以降、男性からかくあるべき身体として自分に付与される視線によって、その視線を内面化することによって獲得されます。(上野千鶴子1991:78-79 太字は傍点)(6)
しかし、「かくあるべき身体」として付与される視線の多様性が失われるとき、「女」の身体像は男性の視線にあわせた「若いスタイルの良い」身体像へとやせ細っていく。文字どおり身を削るわけである。
男性は性的な身体像を、「見られること」によって獲得する程度は、女性より低いように思われる。その非対称性(互酬性の欠落)がフェミニズム的な問題をはらむことは、すでに沼崎が指摘するとおりである。(7)
「ミニスカ論」に潜むこれらの差別性をにらみつつ、別の視点(「ミニスカをまとう私」の視点)からいま一度それらを検討していこう。
男は何に欲情するのか・・・性的文化装置のコード
森岡の「ミニスカが好き」という率直な言説は、彼特有のものではない。すでに指摘されているように、多くの男がミニスカを愛好する。しかし、そのときの「男」は現代の日本文化における「男」でなくてはならない。ミニスカがない社会で、男たちはいったい何に欲情するのか。ミニスカに欲情することは、現代日本文化に特有の現象であるのだろうか。他の文化ではどうなのだろう。(8)
文化人類学に、興味深い一つ事例を見ることができる。
菅原和孝は、カラハリに住む狩猟採集民グウィの人々の調査研究を一般向けにまとめた『身体の人類学』(9)のなかで、女性の座りかたについて、日本の女性の姿態とグウィの女性とを引き比べている。菅原は、『朝日新聞』の「フジ三太郎」の中で、向いに座った女性のミニスカの奥を覗こうといじましい努力をする主人公が描かれていることに触れ、日本の女性の姿態の規範は「閉じる=隠す」のうえになりたっていると指摘する。一方のグウィの女性たちがよくとる姿勢は<うたひざ>(片膝を立てて、もう片方の脚は折り曲げられ横に大きく開かれる)であり、それは日常の労働に都合のよい姿勢である。が、その姿勢は別の文脈で解釈されるのである。
私だけでなく、サンの男たちもまた、けっこう女の<うたひざ>にどぎまぎしているのではないだろうか。だが、この姿勢は単に陰部周辺を露出させるところに「みそ」があるわけでない。もし彼女が右膝をたてているならば、太腿を横に広げ膝を組んだ彼女の左足の先はちょうどぴったりと陰部周辺の上にかぶせられるのである。(菅原1993:66-67)
菅原は、グウィの女性のこの姿勢を、「日常作業に都合のよい」と見るだけではなく、グウィ女性の「誇示しつつ隠す」というエロティシズムの戦略として捉えるのだ。もっとも次のような箇所は「人間=女性」という断り書きが必要であろうが。
おそらく、人間が自己の身体をエロティシズムの対象として他者の前に呈示しようとするならば、もっとも基本的な戦術はおのれの性を誇示しつつ、同時に隠すということであろう。(菅原1993:67)
そして、グウィにおいて、女性の「誇示しつつ隠す」という戦略は腰を下ろすという所作においてもっともダイナミズム溢れるものとなる。森岡が、ミニスカのダイナミズムを解釈するとき、これに通底するものがないだろうか。
この「誇示しつつ隠す」という戦術は、女がある場に登場し、そこによっこらしょと腰を下ろすさいにもっともあらわになる。彼女は股を大きく広げ、なおかつ片手で股のあいだにぐいとスカートをたくしこむのである。(菅原1993:67)
この一連の動作によって彼女の正面にいる者たちの目はいやでも彼女の股間部に引きつけられる。(菅原1993:67)
まさに、見えそうで見えないというダイナミズムの極意であろう。このあと、菅原は、日本女性の性的な構え「閉じる=隠す」という戦略に比べ、グウィの女性たちには、性に対してより積極的な構えがあるのではないかと述べる。
ここで注意しなくてはならないのは、日本女性の性的な構え「閉じる=隠す」がどのような性的な自己主張をしているのかいうことである。「膝をつけて座りなさい」というマナーは、もはや死語となってしまっているかもしれないが、それらの「閉じる=隠す」という性的な構えは、自分の意志に反して裾がずり上がるようなミニスカとは、一見相いれないようであるが、そこにミニスカを愛好する男性のポイントがあることには留意するべきであろう。「閉じる=隠す」という性的な構えを前提にしているからこそ、ミニスカ好きな男性にとっては、「隠そうという意志があるにもかかわらず(10)」ミニスカは「自然に」上がってこなくてはいけないわけである。
グウィの女性のそれと比べると、森岡が想定する「ミニスカ女性」は、あまりに消極的で、受け身的である。「閉じる=隠す」は性的な身体を忌避するときにもきっと起こりうる身体の構えであろう。だから、日本女性の「閉じる=隠す」の身体の構えでは、性への積極性をことさら表現することはできないのではないか。
性的な関係を持つためには、お互いの距離を詰めていかなくてはならない。そのためには(恋愛と関係があるにせよ、ないにせよ)所属する文化の作法にそって、相手の反応を見てコミニュケーションしながら距離を詰めていくことが必要になってくる。
そのとき、自分の性的な構えを積極的にアピールするために「誇示しつつ隠す」グウィの女性には、菅原の言葉を借りれば「男たちと互角にわたりあう彼女たちの堂々たる自己主張の片鱗が見てとれる」(11)のである。
森岡は、自分の「ミニスカ」エッセイがフェミニズムによって批判されることを予測している。フェミニズムから、「ミニスカを履いて無防備になっている女性を目の前にした、男性の優位感覚・支配感覚が、男性のセクシュアリティと結合されて構造化した」(12)という批判があるだろうというのだ。しかし、その「ミニスカを履いて無防備になっている女性」という部分に、私は引っかかってしまう。
グウィの女性たちの「見えそうで見えない」「誇示しつつ隠す」身体の構えは、「無防備」でもなんでもない。と同時に、「見えそうで見えない」「誇示しつつ隠す」ミニスカのダイナミズムは、男性たちに「無防備である」と意味付けされることで、その主体的な性的身体の可能性を剥奪されてしまうように思えるのだ。
フェティッシュな欲望と女性との距離
「ブルセラショップ」(着用ずみのブルマー、セーラー服を売る店)の隆盛は一時ほどではないようであるが、実質はマスコミが取り上げないだけであって、ネット上では盛んに売買が行われている。一つのジャンルと呼んでもよいだろう。
ブルセラ的な欲情のあり方は、「生身の女性」を必要としていない。「彼女」が身につけていた「服(セーラー服、パンツ、ブルマー、ルーズソックスなど)」に固着する。これはいわゆる「フェティシズム」というありようである。
フェティシズムは、好みであり趣味であるならば、その是非を問うことはやめるべきだとする意見もある。が、そうだろうか。
森岡の「新世紀の男たちは、これらのアニメによってみずからのセクシュアリティを構築する」(13)という指摘を待つまでもなく、「旧世紀」(一九七〇年代?一九九〇年代)にも「アニメ・マンガ・ゲーム(他にフィギアや特撮など)」という「オタク系文化」(14)によってセクシュアリティを確立した男たちはいたのである。
フェティシズムと男性のセクシャリティについての分析は、ここでは深く立ち入らないことにしたいが、それらの問題については一点だけ指摘しておきたい。
それは、男性のフェティシズムが消費行動と堅く結びついていることである。オタクのセクシュアリティにおいては顕著であるが、彼らのセクシュアリティはキャラクターを消費することにもっとも重きがある。生身の女性へのコミュニケーションが断念された地点で、彼らはセクシュアリティをぬくぬくと育てていく。それらは巨大な産業として形成されているのだが、「生身の女性へのコミュニケーションがない」にもかかわらず、「女性という身体イメージ」を利用するという一点において、生身の女性存在を疎外するものである。
「男たちはミニスカのイメージを無限に反芻しながら、果てしのない麻薬物質の海の中へと窒息死させられていくほかはない」(15)という森岡であるが、果たして「窒息死」していくことが望ましい姿なのだろうか。みずからは金銭によってあがなったイメージに「窒息死」し、「必要ですらない」と生身の女性を拒否していく。そのことは、生身の女性存在を意識のかなたに遠ざけることでもある。そのセクシャリティのありようと、現実の世界で「人間として対等な生身の女性」を実感することはどのように交差するのだろうか。まったく交差しないのであろうか。フェティシズムの契機として生身の女性を利用することは、女性差別ではないのか。
そしてフェティシズムの契機としての女性は、消費されるイメージとしてメディアにいくらでも溢れているのである。
3. 女はなぜミニスカを着るのか
本章では、沼崎のミニスカへの憧れと「痛み」の感覚について検討する。彼が原体験のなかで問題にするのは着用を「強制される」ミニスカであって「自発的に」まとうミニスカではない。生身の女がミニスカをまとうとき、「能動的なセクシュアリティの表出」としてのミニスカの着用もあれば、「受動的なセクシュアリティの演出」としてのミニスカの着用もあるという沼崎であるが、彼の「痛み」の感覚は、セクシュアリティの演出や表出の背景となる世界の権力構造に根差している。
そのことを検証しながら、「セクシュアリティの演出」としてのミニスカについて考えていきたい。
強制されるミニスカ
沼崎論文において、フェミニズム的問題意識の源には、「着たくもないのに、ミニスカを着せられている女性」への痛みの感覚の共有がある。
彼のミニスカへの原体験は、幼い頃に見たテレビのクイズ番組の思い出である。回答を間違うと隣に立っている女性アシスタントのミニスカの裾を男性回答者が切り取るというものを見たときに---わざと正解しない老年回答者の隣の女性アシスタントが、どんどん短くなっていくスカートの裾を気にして困惑している姿を見たときに---彼は、女性アシスタントの痛みの感覚を共有したという。そして、その痛みの感覚こそが、彼のフェミニズム共感の源なのだという。(16)
この感覚は、フェミニズム的観点から見ると正しいように思える。しかし、別の視点から見ることもできる。
沼崎のこの、ミニスカへの「女性の羞恥や当惑を思い知らせる記号」と「女性/女体へと引きつける記号」といった両義的な思い入れを、以下の二つの点から再検討してみよう。
一つは、問題は「ミニスカ」にとどまらないということである。ミニスカであろうとなかろうと、水着であろうとバニーであろうと、ここで問題にすべきは<着せられている>という<主体性の侵害>である(17)。女性が、男性の好みや嗜好に合わせて、ある種の性的な服装を強制されるということが問題なのである。それが、「この服装を着なければ、番組には出さない」という露骨な強制であるとしても、「この服装ならば、番組に出してもらえるかもしれない」という女性の打算や主体的な選択であるとしても、男性と女性の権力関係を背景にしたものであることは間違いない。
だから、「仕事の一環として」ミニスカを強制される女性たちの存在は、「仕事の一環として」肌をさらす女性たちの問題ともリンクしているのである。男性が「仕事の一環として」ある種の「性的身体」を強調するような服装(外見)を強制されることがあるだろうか。(制服は基本的に男女共に存在する場合が多いので、ここではひとまず置いておく)。
「<本当に好きでやっているのかなあ>という疑問とともに、シクシクとした痛みを感じる」(18)という沼崎は「本当に好きでやってる」という了解があれば、フェティッシュな女性イメージの氾濫を、肯定するのだろうか。
クイズ番組の女性アシスタントの話に戻ろう。
私が沼崎の痛みの感覚の解釈をある意味でナイーブだと思うもう一つの理由。それは、スカートの裾を切りとられていく女性アシスタントの反応――困惑と羞恥――こそが、日本文化において、女性の性的身体として価値が高く置かれていることを思い起こすからである。「閉じる=隠す」という身体の構えを侵害されていることが、日本女性の困惑と羞恥を引き起こすのは当り前のことである。
ここで、女性アシスタントが、平然とにこやかに彼女の本来の職務であるアシスタントを続けていたらどうだろう。もしそんなことになれば、彼女は「まれに見る個性の持ち主」として個性派のタレントとして見いだされるか、「鈍感な魅力のない女」として明日からお払い箱かのどちらかである。前者の確率は非常に低い。私がその女性アシスタントであれば、前者の賭けをするよりも安全パイを選ぶに決まっている。
もちろん、私は当の女性アシスタントが、自分がメディア上で生き延びるための戦略としてワザと困惑したり恥ずかしがったりしたのだと主張するつもりは毛頭ない。しかし、日本文化において、女性が「閉じる=隠す」以上の性的な構えを主体的に表出することは期待されていないことは明らかであるということ、性的な女性の表現は羞恥をセットにした上でパッケージ化されて、メディアで消費されているということを指摘したいのである。
ミニスカをまとう女
沼崎は、前述のように「能動的なセクシュアリティの表出としてのミニスカの着用もあれば、受動的なセクシュアリティの演出としてのミニスカの着用もある」としながら、ミニスカが換喩する女性を「<この私>の働きかけ次第では開かれる可能性を秘め、開かれそうになりながら必死に抵抗している性的身体」だという。(19)
「開かれそうになりながら必死に抵抗している」とはどういう状態なのか。
「開かれる」というのは、もちろん「性的に」ということである。「開く」主体は、男性であり、「抵抗する」主体は女性である。このとき、ミニスカは受動的なセクシュアリティを表出しているとしか思えない。もちろん、ミニスカ女性が自らを「開く」可能性については後に詳しく述べている。「「隠そうとする意志」を捨てさせ、己が身を開こう意志させる男性主体の<力>」(20)(これを沼崎は「男力」と命名する)によって、ミニスカ女性は自らを「開く」という。
ミニスカをまとう女の両義性(能動性と受動性)は、男性によってコントロールされていると沼崎はみるわけだ。しかし、そうだろうか。強制でないミニスカをまとうとき、女性の性的な身体の構えはどうなっているのだろうか。
「自然に」ずり上がるミニスカを選んでまとうのは、主体としてのまとう女性である。それをわかっているという一点において、ミニスカは「自然に」ずり上がるということはありえない。ずり上がることもあるということを織り込み済みで、女性はミニスカをまとっている。ずり上がりそうになることを許容しているからこそ、ミニスカを選ぶのである。ずり上がりそうになる、それを手で押さえる。その身体の構えは、何かに似ていないだろうか。そうである。前述のグウィの女性の身体の構えにそっくりなのである。
見えそうだが見せない身体の構えは、まさに「誇示しつつ隠す」というグウィの女性の戦略に通じるものがある。そう読みかえると、「閉じる=隠す」という日本女性の受動的な構えとは違う「性的身体」の構えが見えてこないだろうか。
「閉じる=隠す」に押し込められていた日本女性の「性的身体」が、まさに能動的に「誇示しつつ隠す」という身体の構えにとって変わっていく。それが、ミニスカではないだろうか。私はそこに、女性の性的な主体性の奪還を見るのである。
ただし、そこには危険性もある。主体的に選んだミニスカであっても「無防備」と評される危険性であり、強制的にまとわされているのではないかという誤解される危険性である。特に前者のミニスカを「無防備」という言い方は、「レイプにあうのは、男性を挑発する服装をしていたあなたにも責任の一端がある」とする言い方とクロスする。ミニスカを「無防備」とするのは、女性を保守的な「閉じる=隠す」身体の構えにもどそうとすることと同じであるし、それでも実際に現実社会で危険な目に遭うというのならば、それは現実社会のほうが(もっと言えば、危険な目に遭わせる男たちや、男性中心社会のほうが)問題にされるべきである。
もちろん、ミニスカをまとう女性すべてが能動的な性の身体の構えを選択しているということを強弁するつもりはない。ただ、そのようなありかたもあるということである。なぜミニスカをまとうのかという問いに、女性自身は「脚がキレイに見えるから」「可愛いから」などとなんとなく答えることが多いとは思う。
もう一度問おう。なぜミニスカをまとうのか。
私は、「長いスカートの鬱屈した不自由さ、まとわりつく布の抑圧から逃れ、より行動的になるためのミニスカート」と最初に書いた。男のオタクたちが、ミニスカの女性キャラクターに惚れ込んで自分たちの嗜好を育てたように、オタク系文化にどっぷりつかって子ども時代を過ごした女性にとって、ミニスカとは、男と対等なキャラクターの象徴でもある。「戦う女の子」たちは、ミニスカをまとっていることが多いからである(21)。森岡が例に挙げる『新世紀エヴァンゲリオン』(22)のミニスカの「葛城ミサト」は、エリートであり知的で主体的な、男性と対等に活躍するキャラクターであり、父との葛藤を生き延びる女性である。(23)
同じオタク系文化にどっぷりと浸かりながら、男たちの視線は女性キャラクターに向かい、女たちの視線は女性キャラクターを通じて自分へと回帰していく。オタク系文化に生きる女性にとっては、ミニスカは「性的身体」以前に、パワーを持つ女性の象徴であり、軽やかで身近な(男との)対等性の象徴なのである。
ミニスカ女性と「性的身体」
森岡や沼崎が、ミニスカ女性を語るときに切り放すことが出来ないのが「性的身体」としてのミニスカである。しかし、「ミニスカをまとう私」から見れば、ミニスカが常に「性的身体」と結びついているという言説は笑止でもある。このような相違はどうして起きるのか。また、どのような事情を意味しているのであろうか。
「性的身体」を日本で一番目にするのは、メディアにおいてである。それも「ポルノ」という文脈で目にすることが多い。つまり、一人の個人に「性的身体」とそうでない「身体」が混ざりあい存在するのではなくて、集団の中に「性的身体を持つ女」(=ポルノグラフィーに登場する女)と「性的身体を持たない(ことになっている)女」(=普通の女)とが分けられて存在させられている。
たとえば、グウィの女性には、等しく「性的身体」の構えがあるが、日本の女性は「閉じる=隠す」ことで「性的身体」の積極的な表出は避けるように仕込まれている。「性的身体」の積極的な表出は、前述のようにリスクを伴うし、「性的身体を持つ女」(=ポルノグラフィーに登場する女)の側に入ることを表明することになる。「性的身体」を持つことは、日常性からの逸脱を意味していたのである。ポルノグラフィーや性風俗などの「セックスワーク」という労働は、普通の労働から「性的身体」を疎外してきた結果、発明された労働なのではないか。つまり、「セックスワーク」の女性労働者は「性的身体」へと疎外され、日常を生きる女性は「性的身体」から疎外されている。
そして、女性を労働者として「男並み一人前」に扱う近代においては、日常の労働の場での女性の「性的身体」の表出は、邪魔なものであったに違いない。つまり、近代は女性にのみ「性的身体」を表出する/しないという二重性を生きることを強要したわけである。
「女を捨てて○○する」とはいうが、「男を捨てて○○する」とはいわない。(○○には、仕事、勉学などの社会活動が含まれる)。女性は「性的身体」を表出する/しないという選択を常に迫られる。「性的身体」を表出するその限りにおいては、「男」としては二流であるという認識が、「女を捨てる」という言動には現れているのではないか。
なぜ、女だけが「女」を捨てなくてはならないのだろう。男は「男」を捨てなくて良いのだろうか。その理由は、「人」のスタンダードが「男」だったということだけではない。男は、「性的身体」を持たないからだ。誰かの視線に対して、語りかける「性的身体」はない。男のセクシュアリティは、常に視線の主体であって、視線に対して応じるようなあり方ではなかった。少なくとも、互酬性の観点から見れば、女性ばかりが「性的身体」を持っていたということは、明らかであろう。(24)
おわりに
私はミニスカが好きだ。自分がまとうのも、見るのも好きである。
アニメ『彼氏彼女の事情』(25)の中で、主人公の優等生宮沢雪野をはじめとする女性の登場人物は最近の、女子高校生のトレンドを反映してか、皆ミニスカである。彼女たちが意識的かつ自覚的に「誇示しつつ隠す」という「性的身体」の構えを実践しているとはいわないが、彼女たちは魅力的であり自由闊達に物語の中を飛び回る。
私が学生時代は、制服の丈を短くすること自体思い付きもしなかった。スカートの丈の逸脱は、必ず長くするという方向に向かっていたのである。それは意識するとせざるとにかかわらず、当時の女子高校生の「性的身体」の構えを表していたに違いない。いま町でミニスカ制服の女の子たちを見る度に、彼女たちの堂々たる「性的身体」の構えに私は圧倒される。私は憧れのまなざしで眺める。
ミニスカをまとうことが好きな私は、しかし、一部のイスラム教徒の女性が着用する頭からすっぽり全身を覆う服「ブルカ」も好きだ。男性のまなざしから逃れた身体であることは、どんなに自由だろうかと羨ましく思う。「ブルカ」がイスラム文化の女性差別の象徴のようにいわれることもあるけれど、その問題点は3のはじめに取り上げたように、「強制されること」にあるのであって、服装自体に問題があるのではない。日本でも、公の場では成人女性は化粧しなくてはならないし、「女らしく」装うことが要求される。それらは、やはり「強制されている」。
ミニスカと「ブルカ」の間を自由に行き来できないだろうか、と私は夢想する。
そして、男性たちが「性的身体」を否応なく引き受けることになる日、女性のまなざしから逃走したいと願うときが来るのだろうか。
註
(1)森岡正博(2001)
(2)沼崎一郎(2001)
(3)ここからは森岡正博にならい、ミニスカートを「ミニスカ」と表記する。沼崎は、沼崎(2001)の中で「性的な記号としてのミニスカート姿をミニスカと表記し、単なる服装としてのミニスカートと区別する」と断わっているが、「ミニスカートをまとう私」の視点からは両者は区別することは不可能である(もしくは、多様な意味の「ミニスカート」がありえる)ため、本稿ではそれらを区別しない。
(4)浅野千恵(1996)
(5)あえて注釈をつけるが、私は「背が高い男が好き」でもなければ、「デブが嫌い」でもない。このたとえで傷つく男性(女性)の存在を無視しているわけではないことを了解してほしい。
(6)木村敏との対談にて、上野の発言。
(7)沼崎一郎2001:302
(8)もちろん、ここで「人間普遍の性的文化装置」を考えることは厳に戒めたい。件のミニスカでさえ、現代日本人すべてが欲情できるわけではないのだから。
(9)菅原和孝(1993)
(10)森岡正博2000:373
(11)菅原和孝1993:68
(12)森岡正博2000:376
(13)森岡正博2000:375
(14)オタク系文化については、東浩紀(2001)
(15)森岡正博2000:375
(16)沼崎一郎2001:309
(17)イスラム世界の一部で問題になる、女性に対して強制される服装(ブルカなど)も、この意味では<着せられている>という<主体性の侵害>として同じように問題になる。が、この章では、「性的な」服装の効果について現代日本における問題を中心に論じる。
(18)沼崎一郎2001:300
(19)沼崎一郎2001:302
(20)沼崎一郎2001:302
(21)「戦う女の子」については、村瀬ひろみ(2000)
(22)『新世紀エヴァンゲリオン』企画・原作GAINAX/監督 庵野秀明/1995-1996年テレビ放映。のちに映画化される。
(23)オタク文化における「ミニスカ」の系統的な位置づけについては、別に稿を改めたい。
(24)ここでは、ヘテロセクシュアルの場合のみについて考察する。ホモセクシュアルな人々の流儀については、ここでは置いておく。
(25)『彼氏彼女の事情』原作 津田雅美/制作 GAINAX/監督 庵野秀明/1998-1999年テレビ放映
引用文献
浅野千恵1996『女はなぜやせようとするのか―摂食障害とジェンダー』勁草書房
東浩紀2001『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』講談社現代新書
森岡正博2000「なぜ私はミニスカに欲情するのか」『アディクションと家族』17巻4号:371-376
村瀬ひろみ2000『フェミニズム・サブカルチャー批評宣言』春秋社
沼崎一郎2001「ミニスカートの文化記号学―<男力主義>による男性の差別化と抑圧―」
『現代文明学研究』第4号:297-310
菅原和孝1993『身体の人類学』河出書房新社
上野千鶴子1991『性愛論』河出書房新社
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