現代文明学研究:第4号(2001):195-216
「死者の人格権」の可能性
臓器移植法改正に向けて
宮崎真由
第1章 はじめに
1997年、我が国でも「臓器の移植に関する法律」(以下臓器移植法)が施行されたが、我が国の臓器提供要件は諸外国に比べ厳しいため、附則2条1項において3年目に「法施行の状況を勘案し、・・・(中略)・・・必要な処置を講ぜられるべきものとする」との規定が置かれた。2000年はその3年目に当たり、「厚生科学研究 免疫・アレルギー等研究事業(臓器移植部門)」の「臓器移植の法的事項」を分担研究している町野朔氏が、公開シンポジウムにて、臓器移植法の臓器提供要件の緩和を主な内容とする改正案を発表した(注1)
。2000年8月、町野氏はこの改正案とほぼ同様の最終報告書を、厚生省に提出した(注2)。
町野氏は、次の2点について改正を提案している。第一に、脳死状態に陥った者が、臓器提供について明確な意思表示をしていない場合、遺族の意思のみで臓器提供を可能にすること、そして第二に、未成年者が臓器提供について拒否の意思表示をしていない場合、親権者が提供に承諾するならば、臓器摘出をできるようにすることである。
しかし、本人の意思が不明確な場合、遺族の意思のみで臓器提供を可能にすべきなのだろうか。未成年の臓器提供に関する改正案も重要な問題を抱えているが(注3)、この論文では、誰がどのような死体の処分権を持つべきなのかをもう一度考えてみたい。なお、本本論文では民法と刑法の両方の領域に及んで議論をすすめたことを、ここでお断りしておきたい。
この論文は以下のように構成されている。第2章では、まず改正案において町野氏が、「死者の自己決定権」と「臓器の法的性格」についてどのような主張をしているのか紹介し、その後これらのことについて町野氏が法的にどのように考えているのか考察してみたい。第3章では民法における「死体論」に基づき、臓器移植における「死体」の法的意味や「処分権の帰属」について考える。その後第4章で死者本人による死体の処分権と遺族の権利の関係について考え、第5章では総括と、臓器摘出要件について「提案」を述べる。
第2章 町野氏の主張とその法的位置付け
町野氏は改正案において、死者が臓器提供拒否の意思表示をしていない場合、遺族の意思のみで臓器提供を可能にすべきと主張する。では町野氏は、「死者の自己決定権」についてどのような見解をもっているのだろうか。ここでは、町野氏の「死者の自己決定権」に関する見解と、自己決定権の対象となる「臓器」の法的性格に関する見解に注目し、町野氏が臓器摘出要件に関して、法律的にどのように考えているのか検討していきたい。
1.「死者の自己決定権」に関する町野氏の主張とその法的位置付け
(1)町野氏の主張
最初に、町野氏の「死者の自己決定権」に関する発言に注目してみよう。森岡氏と町野氏との対談において、本人の臓器意思が不明である場合に遺族の臓器摘出意思のみで臓器摘出を可能にすべきと町野氏が提案していることについて議論がなされた。司会者の「家族の承諾で摘出された場合、脳死した人の意思、つまり『自己決定権』は尊重されていると言えるのでしょうか」との質問に対し、町野氏は以下のように述べている。「脳死者だけでなく心臓死者にも自己決定権はあるので、それは『死者の自己決定権』についてどう考えるか、というふうに問題を立てた方が性格だろうと思います。死者の自己決定権は、死後、自分の体あるいは自分の意思が尊重されてほしいという権利です。死後、自分の臓器を提供しない、提供すると言っていたのにもかかわらず、死後、臓器を摘出された、臓器の提供がかなわなかったというときに、自己決定権の侵害があったと言うわけですが、そもそも死者はこの世に存在しないから、権利の主体がないということになる。多くの人は死んだ人も権利主体であると考えていますが、それは実際は生きている人の期待の集合を死者の権利と呼んでいるということです。何も言っていないのに、死後、心臓を取られることは死者の自己決定権の侵害だと考えるのは、何も言っていないときはノーという自己決定していると見るからです。・・・(中略)・・・私が考えたのは、われわれは臓器提供を自己決定している存在と見るべきなのかどうかということです」(注4)
さらに町野氏は、改正私案の最終報告書の中で「G死者の自己決定権の意義」と題し、「死者の自己決定権」の意味について詳細に述べている。
人間は見も知らない他人に対しても善意を示す資質を持っている存在であることを前提にするなら、本人の臓器提供拒否の意思が表示されていない以上、臓器を摘出することは本人の自己決定に沿うものである。つまり、我々は死後の臓器提供を自己決定している存在なのである。多くの国が、本人の明示の意思がなくても摘出できるとしているのは、このような人間観に立っているからであろう。これらの国が自己決定権を軽視していて、日本の現在の臓器移植法だけがこれを重視している、というのではないと思われる。(引用者による要約)(注5)
そして町野氏は臓器摘出を、本人の明示の意思表示及びそれに遺族が反対しない場合(若しくは遺族がいない場合)、又は死者本人の臓器提供の意思が不明であって遺族が臓器摘出を拒まない場合に認めるべきであると提案している。(注6)
(2)「死者の自己決定権」に関する町野氏の法律的立場
以上の見解を参考に、「死者の自己決定権」や臓器摘出要件に関して、町野氏が法律的にどのような立場を取っているのか考えてみたい。だが最初に、これらについて考えるために重要となる刑法の「死体損壊罪」について、少し説明をしておきたい(注7)。刑法190条において「死体損壊罪」は、「死体・遺骨・遺髪・棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、または領得した者は、3年以下の懲役に処せられる」と定められている。本罪の客体は、条文に挙げられた物以外に、死体の一部を構成する臓器も含むと考えられている。「死体損壊罪」は「社会の法益を保護する罪」として体系上位置付けがなされていることから、これまで、その保護法益は「社会の風俗としての宗教感情」との理解が一般的であった。しかしこのような捉え方は、現代社会に即さないことや、概念として不明確であること等の批判が提起され、現代社会に即した死体損壊罪の保護法益の解釈が出てくるようになり、ハセマー説は、そうした従来の捉え方をより現代的な方向で解釈しようとする方向から主張されたと考えられている(注8)。
死体損壊罪に関するこのような背景をふまえ、町野氏の見解をみてみよう。上記のように町野氏は、死者は死亡と同時に権利主体でなくなるため、「死者の権利」とは、「実際生きている人の期待の集合をさす」と主張する。この見解から町野氏の死体損壊罪に関する考えを知ることができるが、以下では町野氏が死体損壊罪についてより詳しく述べた文章を紹介してみたい(注9)。
「我々はしばしば、死後にも自分の意思を尊重してもらえたら有り難いという気持ちでくらしている。その期待が裏切られることが分かれば楽しくない。例えば・・・(中略)・・・他人の遺体が理由なく破壊されたり、虐待されたりするのを目の当たりにするなら、自分達のためにもこのような行為を取り締まってほしいと思う。死体損壊罪などが社会的習俗に対する罪、社会的感情に体する罪とされるのも、その実体はこのようなものである。要するに生きている人の期待を侵害する犯罪なのである」
町野氏はこの主張の後に平野龍一博士の死者の名誉毀損に関する主張を取り上げ、その見解が死体損壊罪にも当てはまることを主張する。それに続けて町野氏は臓器移植について次のように述べている。
「人々の期待が向けられているものが促進すべき制度であるときには、その期待は法的に保護される。自分の死後、財産を指定した人に譲ることができるという遺言の制度はこのようなものである。死後自分の臓器を移植のために使ってもらいたい・・・(中略)・・・という死者の意思を尊重すべきだと言うのは、それによって生きているときの自己決定が死後でも尊重されることを生きている人々に保証し、自己決定に基づく臓器提供・・・(中略)・・・を促進することを可能にしようとすることからにほかならない」
このような町野氏の見解について考えるためには、町野氏と同様に「死体損壊罪」の保護法益を「実際生きている人の期待の集合をさす」と考える、山本輝之氏と川口浩一氏の見解が参考になると思われる。ハセマー(Hassemer)はドイツの刑法168条「死者の安息の妨害の罪」の保護法益を、「死んだあとでも侵害されることはないという生きている者の信頼」と考える。山本氏と川口氏はハセマーと同様の立場にたって、日本の刑法190条「死体損壊罪」の保護法益を解釈しようとしている。だが、この2つの説はこのようした共通点を持ちつつも、「死体損壊罪」で何が保護されるべきなのかについては、それぞれの独自の解釈が加わり、明確な違いが出ていると私は考える。
では、山本氏と川口氏がそれぞれどのような考え方をしているのか具体的に見てよう。
山本氏は、死体損壊罪の保護法益について次のように言う(注10)。
「刑法190条は、死者の自己決定権を保護しているのではなく、現在生きている人々の死体に対する尊重感情を保護していると考えるのが合理的であるように思われる。すなわち同条は、死者を法益の主体として認めているのではなく、自分の死んだ後、その死体などが不当に扱われることなく、安心して、死にたいというわれわれ生きている人々の感情を法益として保護しているのであり、それを『死者の人格権』として表現しているにすぎないのである。死体損壊罪が死体に対する社会的感情という法益に対する罪だとされる実体は、このような考えである」。そして山本氏は、以上のような死体損壊罪の保護法益の解釈に基づいて、臓器摘出要件を考える。
われわれ生きている人々の死体に関する尊重感情に適合する範囲での臓器摘出は、死体損壊罪を構成しないことになる。死者による明示の臓器提供拒否があるにもかかわらず、臓器摘出が行われるなら、「我々は安心して死ねない」と感じるため、その場合には死体損壊罪が構成される。これに対し、死者本人による臓器提供の意思が不明なときに臓器摘出が行われた場合、「われわれ生きている人々は死体が不当に扱われているとは感じないであろうから」、死体損壊罪は成立しない。(引用者による要約)
山本氏はこうした主張に基づいて、死者本人の臓器移植に関する意思が不明の場合に、臓器摘出が行われることを正当化している。
次に「死者の権利」を「実際生きている人の期待の集合をさす」と捉える、川口氏によって主張される考え方を見てみよう。川口氏は「死体からの臓器摘出に関する同意」について以下のように主張する。
ハセマーは、西ドイツ刑法第189条(死者への追憶の誹毀)の保護法益とされる「敬虔感情」や「死者の畏敬」という一般的概念は、「死後において刑法的に保護されたいという希望」への生者の期待がその実体であるとする。この一般的期待の内容を、自分の身体が自分の意思に反した取り扱いがなされないことへの期待と解釈すべきと考える。こう解することによって、期待の内容を合理的なものへ限定できかつ間接的に死後の身体に関する自己決定権を保護することができるようになるからである。この考えを、死体からの臓器移植の場合に適用してみると、「自分の死後、自己の意思に反して臓器が摘出されることはない」という生者の一般的期待が、死体損壊罪によって保護されると考えることができる(注11)。(引用者による要約)
また川口氏は臓器摘出要件に関して、「死体損壊罪の保護法益には、死後の身体についての処分についても自己の意思が尊重されることに関する社会的期待と遺族の葬儀・埋葬権の2つが含まれるが、後者はあくまでも埋葬に関する事項に限定されるものであって、臓器摘出に関しては前者の観点から本人の自己決定があれば正当化される」と述べている(注12)。また川口氏は本人の意思が不明である場合に、遺族による同意意思の推定も認めていないので、川口氏が本人の明示かつ現実の意思を最も重視し、これがあるならば臓器摘出は認められるべきと考えていることが伺える。
「死体損壊罪」の保護法益に関して山本氏と川口氏の見解をみてきたが、この2つの説は以下の点において違いがあると私は考えている。山本氏は、死体損壊罪の保護法益を「自分が死んだ後、・・・(中略)・・・安心して死にたいというわれわれ生きている人々の感情」と考えるが、「われわれ生きている人々の感情」という言葉は、個人それぞれの「意思」ではなく、より全体的な意味での「社会という集合体としての感情」と考えられていると思われる。すなわち山本氏が死体損壊罪で保護しようとしているのは、「生きている個人それぞれの意思」ではなく、「生きている人々の一般感情」を保護しようとしていると思われる。それに対し川口氏は、臓器摘出の場合には死体損壊罪によって「自分の死後、自己の意思に反して臓器が摘出されることはない」という生者の一般的な期待が保護されると考えている。そして川口氏はこの考え方をとることで、「間接的に死後の身体に関する自己決定権を保護できる」としてわけであり、「生きている個人それぞれの自己決定」を死体損壊罪によって保護しようとしていると考えられる。要するに、2つの見解は、個人としての「本人の自己決定」を死体損壊罪で保護すると考えるか否かという点で異なると思われる。
以上の見解を参考に、町野氏が死体損壊罪の保護法益で何を保護しようとし、またどのような法理論によって、最終報告書にある臓器提供要件を導いているのか、考えてみよう。町野氏は「死者の意思を尊重すべきだというのは、それによって生きているときの自己決定が死後でも尊重されることを生きている人々に保証し、自己決定に基づく臓器提供・・・(中略)・・・を促進することを可能にしようするからにほかならない」と述べる(注13)。このことから町野氏は基本的には生きている者の死後についての自己決定を保証しようとしていると言えよう。この点、町野氏の見解は生きている人の一般感情を保護しようとする山本氏の見解と異なり、川口氏と同じように、間接的に「本人の自己決定」を保護していると思われる。だが、川口氏の見解と一致しているわけではない。川口氏は臓器摘出に関して、本人の自己決定権を最重要に考え、明示かつ現実の本人の自己決定権があれば、臓器摘出を正当化できるとする。これに対し町野氏は、本人の生前の自己決定が絶対的に尊重されると考えることに否定的であり、また臓器摘出要件について、本人の事前の承諾意思がなくとも遺族が承諾すれば死体からの臓器摘出ができる、とすることに肯定的な主張をしている(注14)。町野氏と川口氏の見解は同じ法理論を使い、間接的に「本人の自己決定」を認める点において類似しているが、「本人の自己決定」を絶対的に尊重すべきかということについて、大きな相違があると思われる。
だが、町野氏は現行法2条1項の「本人の提供意思の尊重」を考慮してか、改正案においては、「本人の提供意思の尊重」に沿う形で、「本人の事前の提供意思がなくとも遺族が承諾すれば死体からの臓器摘出ができる」との臓器摘出要件を正当化しようとした。そのことが「我々は死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである」という人間観を主張させたのではないかと思うのである。つまり、本人による臓器提供意思が不明である場合に臓器提供が行われたとしても、それは本人の自己決定権に基づくものであるという主張をするために、上記のような人間観を出してきたのだと思われる。町野氏は、臓器摘出について死者本人の意思が不明である場合であっても、臓器摘出について「人間は臓器提供へと自己決定している存在である」という本人の暗黙の提供意思があるので、実際摘出するかどうかは固有の権利をもつ遺族の意思に任せられたとしても、現行法2条1項の規定と矛盾することはないと考えたのではないか。
かつて、脳死臨調の最終答申(「脳死及び臓器移植に関する重要事項について」)では、本人の意思が不明な場合は、遺族が本人の意思を推定して臓器提供を承諾するという「提供意思の推定」という考え方に基づいて、臓器摘出を認めようとした。だが町野氏は、もともとこうした推定意思を認めることに懐疑的であり(注15)、また「自然な意味での意思も存在しない幼児については、(意思の)推定をなしえない」と主張しているので、これらを理由に、最終報告書で「意思の推定」の考え方を使わなかったのだと思われる。
私は町野氏の最終報告書の「死者の自己決定権」に関する主張は、以上のような考え方によってなされたのではないかと考える。しかし、町野氏による「我々は死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである」という人間観に基づく見解は、たとえ現行法2条1項の「本人の提供意志の尊重」を考慮に入れたのだとしても、不適切なのではないだろうか。この考え方では「本人の提供意志の尊重」の意味そのものがなくなってしまう。価値を押し付けられてなされた決定は、自己決定とは呼べないはずだ。
だが、町野氏は「価値の押し付け」という問題について、森岡正博氏との対談
(注16)で次のように発言をしている。
「(宮崎注:『死後の臓器提供を自己決定している存在である』との価値について)言い切れないなら、僕は提供を認めるべきでないと思います。・・・(中略)・・・価値はやはり、押しつけるものだと私は思う。・・・(中略)・・・ある場合には(宮崎注:その価値観を)受け入れてもらうために、実際に規範をつくることをする必要がある」。
この主張を見ると、町野氏は死体損壊罪の保護法益によって生きている私達に死後への自己決定権を間接的に認めつつも、結局は「生きている私達」に正しい価値を「押し付け」て規範がつくられるべきと考えている、と捉えることもできる。
このような価値の押し付けは危険であろう(注17)。もしこのように立法者が考えるならば、死体損壊罪は立法者が「押し付けた価値」を保護することになる。そして、「押し付けた価値」から導き出される臓器提供要件も、結局立法者による恣意的なものとならざるを得ない。よって、このような価値の押し付けは、なされるべきではない。
以上の「死者の自己決定権」についてまとめると、次のようになる。町野氏は死体損壊罪の保護法益を「生きている人の期待」と主張し、生前になされた死後に対する臓器提供の自己決定が間接的に守られるべきと考えていると思われる。だが、その自己決定が絶対的に尊重されるという意見には否定的であり、本人が臓器提供について意思が不明な場合には、遺族の固有の権利によって臓器摘出が認められてもよいと、町野氏は考えていたようである。そこで現行法の2条1項の「本人の提供意思の尊重」という基本理念を考慮して、「我々は死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである」という人間観を主張し、本人の臓器提供についての意思が不明な場合には遺族の意思のみで臓器摘出が行えるように理論構成をしたのではないだろうか。
しかし、「我々は死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである」という考え方そのものが、現行法の2条1項の「本人の提供意思の尊重」と矛盾していると私は思う。また町野氏はそうした価値観を「押し付ける」べきと考える。だが立法者が、死体損壊罪の保護法益を「生きている人の期待」と解釈し、町野氏の主張するような「価値の押し付け」を「生きている私達」に行うならば、結局、臓器摘出要件とは立法者の恣意的なもので良いことになってしまう。町野氏の見解には問題があると言わざるを得ない。
2. 町野氏の「臓器の法的性格」に関する主張とそれに対する批判
(1)町野氏の主張
次に、町野氏は自己決定権の対象となる「臓器」の法的性格についてどのように考えているのか、見ていきたい。町野氏の最終報告書には「H
日本における脳死・臓器移植問題」と題する部分があり、その「2. 臓器移植に対する反感について」「a臓器の法的性格」では、次のように主張している。
臓器移植全体についてのネガティブな態度が、日本の臓器移植法の死者の自己決定権に関する規定の背後にあることもある。これは2つの問題に由来するが、第一にそれは、身体・臓器の法的性格に関する。例えば、次のような考え方がある。個人の身体、臓器は公共のものでなく、きわめて個人的な人格権の対象なのである。それは愛用した眼鏡等と同じで棺の中へもっていくのが通常なのである。そのことを認めること、人間の連体性、博愛主義とは何の関係もない。そしてこれは、本人の積極的な意思がないときにも一般的に臓器提供を認めることは、臓器を物と同じに見ることである、公用徴収を認めることである、という臓器移植に対する漠然とした反発に至る。確かに、個人の身体、臓器は単なる財産権の対象ではない。それは売買を禁止された倫理的意味を持った人格権の対象と考えなければいけない。しかし、だからといって、(積極的意思がないときに)臓器移植を認めることは、臓器を物としてしまうことだ、ということではない。また、自分の死後に同胞のためにそれを用いることは一般的に予定されていない、ということでもない。むしろ苦心して手にいれた「ゴッホのひまわり」であるからこそ、死後には子孫に残したいと思うのが通例で、棺桶に入れて自分の死体と一緒に焼いてもらいたいと思うのは異例なのではないか。(引用者による要約)(注18)
(2)「臓器の法的意味」に関する町野氏の法律的立場
上記した町野氏の「臓器の法的性格」に関する考え方は、以下のようなものと私は解釈する。まず町野氏は、身体・臓器は公共のものでなく、それは個人的な人格権の対象であるので、それを棺の中に持っていくことが当然であるという考えを例としてあげる。そしてこれは、本人の臓器提供意思が不明である場合に臓器提供を一般的に認めることは臓器を物と同じに見ることである、という漠然とした反発に至ると説明する。町野氏はこうした考えに対し、身体・臓器は単なる財産権の対象ではなく、売買を禁止され倫理的意味を持った人格権の対象と考えるべきだが、それだからといって、死者本人の意思が不明の場合に臓器移植を認めることは臓器を物にしてしまうわけでないと主張する。そして人格権の対象と考えるならば、むしろ臓器を棺の中にもっていかないとする方が通例なのではないかと、「ゴッホのひまわり」に例えて述べていると思われる。
町野氏は臓器の法的性格について以上のように考えていると思う。私はまず、最初に町野氏が挙げた考え方の例自体に疑問を持たざるを得ない。そもそも身体・臓器を「人格権の対象」と考える見解は、生体に対する考え方と同じであり、その考え方は自己の身体・臓器に対する処置について自らが決定を下すことができるということを意味する。つまり「人格権の対象」とするこの考えは、人格権に基づいて臓器提供をするか、しないかを決定できるという考え方であるはずである。しかし町野氏の例示では、この「人格権の対象」とする考え方は、当然に死体・臓器はお棺に持っていくという考えになるとしている。町野氏が前提として例示した考え自体に疑問を持ってしまう。
また、町野氏は、臓器が「単なる財産権の対象ではなく、人格権の対象と考えられなければならない」と主張する。他の町野氏の文献では、民法の通説が「身体」から分離された臓器を「物」と解釈することに対して疑問を呈し、「身体」から分離されていようといまいと、臓器は「人格権の対象」と考える方が自然なのではないか、と述べている(注19)。だがこれは「身体」という、生体とそれから分離された臓器についての話のはずである。にもかかわらず、町野氏による最終報告書の見解をみると、生体からだけでなく死体から摘出された「臓器」も含めて「人格権の対象」と考えるべきとしていると思われる。そのことは、町野氏の最終報告書の臓器の法的性格について述べた部分において、心臓と、生体からでも摘出可能な腎臓を並記して論が進められていることや、臓器を「棺までもっていく」という言葉が使われていることから推測できるだろう。だが、脳死一元説の立場から脳死は死であると考え、死者は死亡の段階で法益の主体ではなく、死者の権利とは「生きている人の期待の集合をさす」と捉えている町野氏の考え方からでは、死体について、まして死体から分離された臓器についても人格権の対象として導くことことは難しいと私は思う。
もし町野氏が本当に死体及びそれから分離された臓器をも人格権の対象として尊重されるべきと考えるなら、死体に人格権を認める他説を取るべきであろう。
だが実のところ、ここで町野氏は、臓器は単なる財産権の対象としてでなく、敬意や尊敬をもって扱われるべきものであり、そうした大切なものならば、棺の中にもっていかないと考えないのが通常である、と主張したかったのではないか。それならば、「人格権の対象」という言葉を使うべきでなかったのではないか。
以上では臓器摘出要件に関する町野氏の主張を取り上げ、その考え方について考察してきた。次章では、どのような臓器摘出要件が適切であるのか考えていきたいが、これを考えるためには、死体の法的意味や死体の処分権の帰属に関する議論が参考になるであろう。死体の法的意味や死体の処分権の帰属については、従来から民法の領域において「死体論」として議論されてきた。次章はこの議論から見ていきたい。
ただし、現行臓器移植法は、死者自らが臓器提供意思をもち脳死判定を選択した場合に、脳死した者の身体を死体として扱うことを認めたと解釈した上で(注20)、以下では話をすすめたい。
第3章 死体の法的意味と死体の処分権の帰属
臓器移植が行われる現在、死体は法的にどのように捉えられ、またそれの処分権はだれに与えられていると考えられるべきなのか。死者が死体に対して持つ権利と、遺族が死体に対して持つ権利に基づいて臓器摘出要件は考えられるので、最も適切な臓器摘出要件を考えるためには死体の法的性質について考えることが必要と思われる。
従来から民法の領域には、死体(遺骨を含む)の処分権の帰属や、死体の法的意味を考える「死体論」という議論がある。最初に、この「死体論」における諸学説を見ていきたい。
1.従来の「死体論」における死体の法的意味と処分権
生存中の人体は、それが属する人間の本性と一体となって一個の人格を形成しているため、排他的権利の対象にならないと考えるのが現在の通説である(注21)。つまり現在の通説では、自分自身の身体(生体)や臓器には人格権は成立するが、所有権は成立しないと考えられている。
それに加え、民法の領域では、従来から「死体論」として「死体(遺骨を含む)」の法的性格についての議論がなされ、死体がどのような法理によって、誰に帰属するのかという議論が行われてきた。
「死体の法的性格」に関する議論には、死体を物と考えることを否定し「人格権の対象」とみる説、死体には埋葬や祭祀供養のための管理権のみが成立すると解すれば足り、所有権の対象とすることを認めない説などあるが、死体を所有権の客体と考える見解が今日の多数説と言われている(注22)。しかし、死体を所有権の客体と考える説には、それが誰に属するかをめぐり、様々な見解が存在する
(注23)。以下ではそれらの見解の一部について見てみたい。
第一の見解は、死体は「物」であり、その上に所有権が成立するが、死体は、慣習法によって埋葬・祭祀等を行う「喪主」に、原始的に帰属するという説である(注24)。これが、現在の通説・判例
(注25)の支持する見解である。なお、この説を主張する我妻栄氏は、「死体の埋葬その他をいかにすべきかは、喪主たるべき者が関係者全員の意思と、慣行と公序良俗によって」決めるべきであるとしている。
第二の見解は、死体を相続の対象と考える見解である。この説は、死亡によって死体が「物」へと転化し所有権の客体になるのと同時に、相続財産の一部として相続人に継承されるという説(注26)である。昔の通説・判例
(注27)がこの立場を取っている。この説を取る船橋氏は以上の考えに基づき、「相続人は公序良俗に反しない限り、自由にこれを処分しうることになる。また、かように物として自由に処分しうることとなるのを予期して、あらかじめ生前に、現在自己の支配する肉体について、その死後の遺体の処置・処分などを定める法律行為も、公序良俗に反しない限り、有効である」と見解を述べる。
「死体論」における死体の法的意味とその帰属について見たが、以上の議論を臓器提供の場合に当てはめると、どのような問題が出てくるのだろうか。第一に、死者本人が生前臓器提供意思を表明していた場合、死後、死者本人の意思は認められるのかという問題がある(注28)。第二に、もし本人の意思表示がない場合には、死体についての処分を、死体の所有権者が決定することができるのかという問題が考えられる。
まず、第一の問題について考えてみよう。現在の通説・判例が支持する第一の見解は、死体の処分権を持つのは慣習法上の埋葬権を有するとされる「喪主」であり、死体は喪主の所有権の客体になるとする。
だが、第二の見解の船橋氏の主張のように、「死者本人が生前、死後の肉体について処分を定める法律行為をしている場合、公序良俗に反しない限りその意思は有効」との見解もある(注29)。この見解だと死者本人の意思が死後に反映される余地があると思われるが、上記したように船橋氏は相続人にも死体の処分を認めるので、本人と相続人のどちらの意思が優先されるのか定かではない。第一・第二のどちらの見解を取ったとしても、死亡によって人格が消滅している死者本人の意思が、死体の所有権者である喪主の意思との関係で、どの程度尊重されるのかは疑わしい。死体論の通説的見解に基づいて考えるなら、本人の意思の尊重は、あくまで「道義的問題にとどまる」との見解が、一般的に主張されるところである(注30)。
本人が意思表示をしてない第二の問題については、死体が喪主に原始的に帰属するとしても、また相続人に相続承継されると考えるにしても、以下のような答えになると思われる。「喪主又は相続人が死体の処分権を有するため、公序良俗に反しない限り、喪主又は相続人の考えに従って臓器提供等行うのは自由である」
従来の「死体論」を臓器移植の場合にあてはめると、喪主・相続人等死体の支配権を持つ者の意思が優先されるという結論になってしまう。
やはり、これらの議論が、死体を埋葬の対象として捉えればすんだ時代の理論であることに注意しなくてはならない(注31)。旧「角膜及び腎臓の移植に関する法律」(以下旧角腎法)では、このような「死体論」の通説的見解に基づき、本人の意思より遺族の意思を優先した規定になったと言える(注32)。
だが、臓器移植法2条1項に「死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する意思は、尊重されなくてはならない」とあるように、臓器提供という死体の処分については、第一に死者本人の意思が尊重されるべきであろう(注33)。この理念は、臓器移植法が改正される場合にも、社会一般が広く支持するところであろう。臓器移植法が施行された現在、死体の法的意味とその処分権については、従来の議論を踏まえつつも、臓器移植における「死体論」の捉え直しが新たに必要と思われる。
2.臓器移植における「死体論」
臓器移植における「死体」は、どのような法的意味を持ち、誰にその処分権があるとされるべきなのか。死者本人の臓器提供意思を法的根拠に基づいて尊重する学説の一つとして、死体を「人格権の残存」と見る説がある。
(1)「人格権の残存」説
「人格権の残存」説は、死体は「物」ではなく、死体には「人格権が残存」すると考えるものである。生前有していた人格権が死後も残存すると考えるため、死者は死後も権利能力の主体になることができ、死者本人に自らの死体の処分権が属することになる。
この説は旧西ドイツにおいて有力な見解 (注34)であるが、死後も死者の人格権が存続するということを根拠づけるために、権利能力が死によって消滅するということ自体を修正しようとする立場と言える(注35)。この説は、我が国における従来の「死体論」では例外的な学説(注36)であったが、近年有力
になってきた(注37)。金沢文雄氏は比較的古くからこの説に着目し、旧角腎法について「人格権の残存」説の立場から見解を述べている。金沢氏は、死体について「人格者の遺骸と性質を保っている限り、物(財物)ではなく、所有権の対象となりえないと解するのが妥当」(注38)とする。そして死者本人の自己決定について、「身体の自己決定権は、自分の死後の死体の処置に及ぶと考えられる。自分の死後に臓器を移植のために提供するかどうかは、法秩序において尊重されるべき『人格権』に属するのであって、本人の決定は死後においても、効力を保つのであり、むしろ決定の変更や取り消しのあり得なくった死後においてこそ完全な効力を認められなくてはならない」(注39)と主張する。
(2)川口氏による「期待権」説
死者本人の提供意思を法的根拠に基づいて尊重するその他の学説として、前章であげた川口氏が心臓死体に対し取った考え方(注40)がある。この説は刑法における死体損壊罪の保護法益についての説であるため、民法上の「死体」の法的意味や「死体」の処分権の帰属について述べているわけではない。しかし、川口氏が「死体」をどのように捉え、どのように死者自身の意思を尊重しようと考えているのかを、見ることはできると思われる。
川口氏は、死体に人格権を認める説を否定しているが、死体損壊罪の保護法益を「自分の身体が自分の意思に反した取り扱いがなされないことへの期待」と考えることによって、間接的に死者本人の自己決定権を保護しようとする。また川口氏は、「この見解を取れば、法益の主体の問題に関わらず本人の意思を尊重できる」としているので、川口氏によるこの見解は、従来の死体論とおなじように、死体を法的に「物」として捉えたものと思われる。
(3)私見
私は、死体を「人格権が残存したもの」と捉え、その処分権を死者本人に認める「人格権の残存」説が、死体の法的意味として最も適当と考える。特に脳死臓器移植において、この考え方がなされることが重要だと考える。
「人格権の残存」説は、生体に対して成立する人格権を、死体にも認めるものである。法的に見ると、生体は人格権の対象であり「物」ではないが、これの一部が切り離された場合には物権法上の「物」となり、切り離された人の所有権に属するというのが通説の考えである(注41)。そして分離されることによって、身体部分は譲渡等の処分が可能になると考えられている。
この考えに基づくと、死体を「人格権が残存したもの」と考える場合、死者本人による臓器提供意思には、法的に2つの意味があると思われる。ひとつは、自らの死体に対する侵襲への許可、そしてもうひとつは、死体から分離されて「物」となった臓器の贈与の意思である。死者本人は、臓器摘出によって「物」となった臓器についてレシピエントと贈与契約を結ぶ、と私は考えるのである。
以上を踏まえ、「人格権の残存」説を考えると、この説は以下の2つの利点を持っていると思われる。第一には、臓器提供等、死者本人の死体処分についての意思が、憲法13条によって保障された自己決定権(注42)によるものとして、絶対的に尊重されるという点であろう。人格権の残存説は、人格権を一定の範囲内に限り死者にも及ぶようにしようとするものであるから、これを最も厳格に解釈するなら、生体と同様、死体の処分については死者本人の意思が絶対的に優先し、本人の明示の提供意思がない限り、処分はできないという結論になる
。
第二の利点として、死体を人格権の残存と考えることで、臓器移植法8条において定められた、死体に対する「礼意の保持」(注43)
が保障されることになる。死体が生体と同じように捉えられるなら、この「礼意の保持」は2つの意味を持つと思われる。一つは、死体自体が人格権の対象として鄭重に扱われるという意味であり、もうひとつは分離された臓器が、死者の所有権の及ぶ「物」として鄭重に扱われるという意味である。私は脳死臓器移植において、この考え方がなされることが特に重要であると考える(注44)。このように「人格権の残存」説を取ることによって、上記2つの意味の「礼意の保持」が保障されると思われる。
死者自身の意見を尊重しようと試みる他の見解にも、納得できるところは多い。川口氏の見解は、法益の主体性の問題に関わることなく、自己決定権を尊重できるという点で優れており、死体損壊罪の保護法益の解釈として納得できる部分もある。しかし、この説では、法的に死体を「物」と捉えることになり、臓器移植法8条における「礼意の保持」を法的に根拠づけることができなくなってしまう。やはり臓器移植における「死体論」としては「人格権の残存」説をとるべきだと思われる。
死体に人格権が存在すると認めるこの学説には、以下のような反論が出てくる。まず第一の反論として、「人の人格権は死亡により消滅するのであり、死者に人格権が存在するというのは、フィクションにすぎない」という見解(注45)である。しかし、我が国の刑法230条2項においても「死者の名誉毀損罪」が認められていることや、私法上において規定はないものの、ドイツと同様、我が国でも死者の名誉保護を一般的に肯定する判例がでている(注46)ことを考えれば、死者に人格権が与えられていることはただちにフィクションとは言えないと思われる。
また、臓器移植等、遺体の無欠性の保護という意味での死者の人格権の保護は、死者の名誉等、死後の精神的人格権の法益の問題と別異に構成されるべきという主張もある(注47)。確かに、身体に対する保護と精神に対する保護という性質上の違いから、別異に考えられるべきところもあるだろう。しかし、この2つの死者の人格権は、どちらも同じように保護されなくてはならないと私は考える。斉藤誠二氏も以下のように主張にしている。「死んだ後で保護される個人の価値というのは、その人の名誉のようなものばかりでなくて、その『死体』も含むものである。『死体』というものは、人の価値がそれに作用し影響を与えたものだからである」(注48)。このような考えに基づいて私は、臓器提供における死者の人格権保護とは、以下のように解釈できると考える。「死者の精神的人格権として、臓器提供意思は保護され、死体は、生体における精神と体の関係と同様に、人格権の対象として保護される」。死者の人格権とは、精神的のみならず身体的にも保護を与えたものと考えるべきである。
第二の反論として、死体を人格権の残存と見るとしても、骨になってまでも人格権が残存していると考えるのかという批判がある。どの程度の範囲まで、死体に人格権が残存していると認めるのか。この点について、「人格権の残存」説の立場を取るドイツのガーライスは、「死体には法的に特別な地位が与えれるが、この延長された人格権は身体の形状が腐朽等によって完全になくなるまで存続する」(注49)
と述べている。金沢氏は上記したように「死体は人格者の遺骸という性質を保っているかぎり、所有権の対象となりえない」(注50)
としているため、遺骨になる直前まで人格権の対象になると考えていると思われる。人格権が残存していると考えられるのは、身体の形状がなくなるまでの死体であり、遺骨には人格権が残存していないと考えるべきであろう。
第4章 死者本人による死体の処分権と遺族の権利
前章において私は、臓器移植における死体論として「人格権の残存」説がとられるべきであり、また自己決定権を根拠にして死者本人の意思が尊重されなければならないと述べた。では、臓器移植において遺族にはどのような権利があると考えるべきなのだろうか。また、死者本人の臓器摘出に関する意思と遺族の意思には、法的にどのような関係があると考えるべきなのか。これらの問いについての考察が必要である。これは、臓器摘出要件に影響を与えるため、重要な意味があると思われる。
以下ではまず、死者本人の意思を尊重する見解が、遺族の権利についてどのように考えているのかを紹介し、その後に遺族の権利の意味や、死体の処分について死者本人の意思と遺族の意思が対立する場合にどのように考えれば良いのかを、考えていきたい。
1. 死者と遺族の権利に関する諸見解
はじめに、「人格権の残存」説を取る金沢氏の見解を見てみよう。金沢氏は、死者本人は、自分の死体の処分権として、人格権(自己決定権)を有するが、遺族は「葬祭等の権利を主な内容とする『死者保護権』
という人格権(注51)を有する」としている。従来の「死体論」の通説・判例のように、遺族は死体に対し所有権を持つと考えるのではなく、遺族は「死者保護権」という人格権を有している、と考えるのである。そして、死者本人が臓器提供意思を明示している場合に、遺族がそれを拒否できるかという問題について、以下のように答えている。
死者本人の自己決定権と、遺族の『死者保護権』という2つの人格権の利益衝突が起こる場合、どちらの人格権が優越する利益なのか、利益秤量しなくてはならない。臓器提供は他人を救うための愛他的行為として最も尊重されるべき行為であって、このような死者の自己決定権は最も尊重されるべき利益である。これに対し、遺族の固有の人格権は、埋葬を死者の尊厳にふさわしくとり行い、死者に対する哀惜の念と敬虔感情を害されないという利益であると言える。死者による明示の臓器提供意思を拒否することは、死者の敬虔感情を損なう。そうすると、臓器摘出を認めた死者の人格権は、遺族の人格権に優先することは明らかであり、この利益秤量から、本人の臓器提供意思が表示されているときは、遺族は臓器摘出を拒否する権利を有しない(注52)。(引用者による要約)
金沢氏の見解に基づいて考えるならば、死者本人が自ら臓器提供意思を表明している場合、遺族の持つ権利によって、本人の自己決定権が覆されることはない、ということになる。
これに対し平林勝政氏は(注53)、死者本人の意思が自己決定権として尊重されるべきと考えるが、臓器摘出に関する遺族の権利について、金沢氏と違う見方を試みている。まず平林氏は、遺族の権利を死者と遺族の「精神的なつながり」という側面から考えようと試みる。臓器摘出における遺族の権利は、遺族の「精神的共同性」に基づいて、実質的に根拠づけることができるのではないかと主張する。「死者と遺族とが『相互に個性ある個人としてかかわりあい、お互いの人生に参加しあってきたであろうという、精神の領域での相互浸透性
』といった精神的共同性があるからこそ、遺族は死体の一部の処分=摘出に対する承諾を与えることができると考えられる。そこには精神的共同性を有する遺族は、死者本人の臓器移植に関する意思に反するような行為はしないという暗黙の前提が横たわっていると思われる。もしそうであるならば、精神的共同性に基づく遺族の意思は死者本人の意思に限りなく近づき、結果として遺族は遺族として固有の権利を持っているとしても、死者本人の意思を変わって表明する=代行するという形でしかその権利を行使しえない」(引用者による要約)
しかし実際には、本人の明示の臓器提供意思があるにもかかわらず、遺族がそれを拒否する場合もあるので、このような場合には精神的共同性を根拠に、遺族の意思を説明することはできないと平林氏は言う。そして遺族の権利について新たに以下のような考え方を提起する。「遺族もまた生きている者として自らの生活の仕方を自由に決定する権利=自己決定権を有している。遺族は、・・・(中略)・・・遺族本人としての権利に基づいて自由に自らの生活の仕方を決定することができるのであって、この文脈においてこそ、家族の死体をどのように処置するかを自由に決定できるのはないか」。結局、平林氏は、遺族の臓器摘出に関する意思を、遺族の生活の仕方(ライフスタイル)についての自己決定権に根拠付け、これも尊重されるべきとしたのである。
このように本人・遺族の意思は双方共に自己決定権によって根拠づけられるため、どちらかが当然に優先するとはいえない。そのため平林氏は、どちらを優先させるべきかは最終的には立法の目的によるとする。
平林氏が最初に主張した、「精神的共同性」を根拠にした「遺族の権利」の考え方は、石原明氏にも深い影響を与えていると思われる。石原氏は死者本人の権利を「死後の身体の処分についても自己の意思が尊重されることを期待する死者本人の生前の人格権から派生する本人の自己決定権」と考え、また遺族の権利を「緊密な家族共同生活を通して作り上げてきた精神の相互浸透性から派生する、遺体に対する遺族自身の自己決定権」と考えている。そしてこの両者の法益はともに大切であり、どちらかが当然に他方に優先するという性質のものではないので、両者の意思が一致したときにのみ、臓器摘出はできる」(注54)と主張する。
2.死者本人の意思と遺族の意思の関係について
以上の見解を参考に、遺族の権利の意味や、死体の処分について死者本人の意思と遺族の意思が対立する場合にどちらの意思が優先されるべきなのかについて考えてみたい。
臓器移植について死者本人が意思を表示をしているときに、遺族にも意思表示を認めるとするならば、それはどのような理由からなのだろうか。まず遺族が死体に対し持つ権利には埋葬権等の権利がある。これらの埋葬権や葬儀を行う権利に、臓器摘出に関して意見を述べる権利は含まれていると考えるべきか。やはり、このように考えることはできない。「遺族」には「経済的側面」「死体世話的側面」「精神的側面」という3つの側面があると言われている(注55)。だが埋葬の権利は明らかに遺族の「死体世話的側面」に与えられた権利であるため、この権利によって遺族が死者の臓器提供について意見を言うことはできないと思われる。このことについて、平川氏も「埋葬権は限定的な権利であるため、それによって『積極的な権利』である『臓器摘出に対する遺族の権利』は説明できなく、また根拠づけもできない」と述べている。
遺族が死体の扱われ方に関して意見を言う事ができるとするなら、それは遺族に「精神的側面」があるためであろう。平川氏は「精神的側面」について、「死者と遺族に『相互に個性ある個人としてかかわりあい、お互いの人生に参加しあってきたであろうという、精神の領域での相互浸透性』」と説明している。遺族と死者の間にこのような「精神的共同性」があるからこそ遺族は、臓器摘出に対し意見をいうことが認められるのではないだろうか。
しかし、平林氏は、精神的共同性を有する遺族が死者本人の意思に反するような行為はしないという「暗黙の前提」が横たわっているので、その結果死者本人の意思の代行という意味でしか遺族は権利を行使できない、とする。つまり死者本人の意思に反するような遺族の行為は、「精神的共同性」を根拠にした「遺族の権利」から説明できないと平林氏は述べていると思われる。
だが、この「暗黙の前提」に対して、私は「精神的共同性」をもつ遺族だからこそ死者本人の意思に反する行為をすることもあるであろうと一般的に思うのである。平林氏の見解も理解できるのだが、死者本人と意思が衝突する場合にも、遺族の意思は「精神的共同性」を根拠にを説明することができると考える。例えば、本人が臓器提供意思を明示をしている場合に、遺族はその意思を尊重したいと思いつつも、その精神的共同性から「遺体に対する離れがたさ」(注56)を感じ、臓器摘出を拒否してしまう場合もあるだろう。逆に、死者本人が臓器提供を拒否している場合にも、遺族は「何かを残したい」と臓器提供を望むことがあるかもしれない。
上記のような考え方から、遺族には「精神的共同性」を根拠として固有の権利が与えられるべきと私は思う。しかし死者本人と遺族の意思と衝突する場合に、「精神的共同性」から発せられた遺族の意思すべてが、「遺族の権利」として法的に尊重されるべきであるとは私は思わない。こうした場合に遺族の意思が「遺族の権利」として尊重されるのかどうかについては、少し考察が必要と思われる。死者本人と遺族の意思が衝突する場合には、2通り考えられる。第一は死者本人が臓器提供意思を表明しているにもかかわらず、遺族が拒否の意思を持つ場合であり、第二には死者本人が臓器提供を拒否しているにもかかわらず、遺族が提供の意思を持つ場合である。
まず第一の場合について考えてみよう。死者本人は臓器提供意思を持ち、遺族が臓器摘出を拒んでいる場合、「遺族の意思」は権利として尊重されるべきなのだろうか。この場合、私は遺族の意思は権利として尊重されるべきと考える。つまり、死者本人が臓器提供意思を表明していても、遺族が「拒否」の意思をもつならば、「死体に対する離れがたさ」から来ると思われるこの意思は権利として尊重され、臓器は摘出されないと考えるのである。このように考えるには以下のような理由がある。第一の理由は、死体損壊罪の保護法益には、こうした場合の遺族の意思も含まれると考えるためである。死者本人による「臓器提供意思」には、他者に臓器を提供する意思に加え、自らの死体に侵襲が加わり臓器が摘出されることを許可する意思が含まれると思われるが、これら死者本人の意思だけでは、死体損壊罪の違法性を阻却できないと考える。死体損壊罪とその保護法益については第2章でも少し述べたが、私は死体損壊罪の保護法益を「(人格権の残存の立場から)死者本人の自己決定権」、「死者に対する近親者の敬虔感情」、そしてこの罪が「社会的な法益に対する罪」であることから生じる「死んだ後でも死体の完全性が侵害されることはないという私達生きている者の一般的信頼」という3つの次元に分けて考える。斉藤氏も死体損壊罪の保護法益についてこのように考える(注57)。この考え方は、死体損壊罪によって3つの法益が守られているとするので、これら3つの法益がどれひとつとして害されない場合に限って違法性が阻却されるとみなすべきであろう。ただ、「生きている私達の『死体の完全性』についての信頼感」という「社会一般の信頼」という法益は、他の2つの保護法益が守られるのと同時に、保護される性質のものと考える。よって、他の2つの保護法益が守られた場合、つまり人格権の残存から生じる「死者本人の自己決定権」、そして死の周辺にいる遺族の「精神的共同性」から生じる敬虔感情が損なわれない場合に、臓器摘出は認められるべきだと私は考える。
第二の理由は、保護法益のひとつである「死者に対する近親者の敬虔感情」の意味を、私は「遺体に対する離れがたさ」と考えるが、この遺族感情は法的に汲み上げるに値すると思うためである。アメリカの死体提供法では、生前、死者本人が臓器提供の自己決定をしている場合には、遺族の意思にかかわらず、死者の意思が尊重されるという規定になっている(注58)。だが実際には、臓器摘出を遺族が拒めば、遺族の意思に反して無理矢理臓器移植するわけにもいかず、臓器移植はできないようである。アメリカでは遺族の臓器摘出拒否という意思が権利として認められているわけではないが、実際にはそうした感情に配慮がなされていると言える。このことから、このような遺族感情を権利として保護することは実社会に即していると思われる。
では第二の場合、つまり死者本人が臓器提供を拒否を表明しているにもかかわらず遺族が臓器提供を申し出るという場合、遺族の意思は権利として尊重されるべきなのだろうか。この場合、遺族の意思は権利として尊重されないと私は考える。私は死体損壊罪の保護法益では、遺族による積極的な臓器提供意思までは権利として認められていないと考えるためである。死者本人が臓器摘出について「拒否」をする場合には、遺族の「死者に対する敬虔感情」という保護法益は損なわれないため、この場合には遺族に特別な権利を与える必要はないと思われる。私は死体には人格権が残存するため、死者本人は自己決定権を持ち、死体損壊罪の保護法益の一つとしても、それが保護されると考える。だが遺族に与えられてるのは、臓器摘出について「敬虔感情が損なわれない」という権利であると私は考える。
3.遺族の権利は何の権利か
以上で述べた私見をここでまとめておきたい。遺族は死者に対して「精神的共同性」をもつからこそ臓器摘出について発言できると言える。だが、その意思が権利として尊重されるかどうかは、臓器提供死体損壊罪の保護法益の考え方による。私は死体損壊罪の保護法益には遺族の敬虔感情、つまり「死体に対する離れがたさ」という感情も含まれると考える
(注59)。死者本人が臓器提供意思を持つ場合、「死体に対する離れがたさ」から遺族には権利が与えられる。そのため、死者本人が臓器摘出の意思をしていたとしても、遺族が臓器摘出「拒否」の意思をもつならば臓器摘出はできないと考えている。
このように遺族の権利を考えるならば、具体的に遺族の権利を法律的には何の権利と考えるべきか。
平林氏や石原氏の主張するように、遺族には、臓器摘出に関して「遺族の生活の仕方(ライフスタイル)についての自己決定権」が与えられていると考えるべきであろうか。死者本人及び遺族の権利を自己決定権と考え、これら2つの自己決定権の法益は優劣が付けがたいので「両者の意思が一致したときにのみ」臓器摘出ができるとする石原氏の考えは共感できる。だが上記の通り、私見では臓器摘出の場合に限って、遺族に「敬虔感情が損なわれない」という権利が与えられていると考えている。この権利は、死者本人に与えられた自己決定権と同等の発言権ではなく、自己決定権よりも副次的な権利であると考えるので、「敬虔感情が損なわれない」という権利を「自己決定権」と考えることはできない。
次に遺族の権利を「死者保護権」と考える見解を見てみよう。旧西ドイツの「人格権の残存」説における「死者保護権」(注60)は、近親者に与えられた慣習上の埋葬権的意味だけでなく、臓器摘出に対する承諾等を含む死体の処分全体にも及ぶと解されている。だが、近親者には死者の意思を越えた独自の決定権が認められているわけではない。近親者は死者の生前をよく知るものとして、判断を求められるのであり、死者の利益と社会習俗の範囲内で、自己の願望を達する事ができると考えられている。
以上のように、遺族の権利を「死者保護権」と考えるならば、遺族の権利によって死者本人の自己決定権を覆すことはできなくなる。「死者保護権」は、本人の死後にも、その意思が尊重されるように遺族に与えられた権利であり、この権利に基づいて遺族が死者の利益に反するような意思を表明することはできない。この場合には、死者の利益とは、死者の意思を尊重するということであるから、遺族は死者の意思に反する意見を述べるような権利は与えられていないと考えるべきであろう。
事実、上記1.にあるように、金沢氏は遺族の権利を「死者保護権」と考えるが、死者の自己決定権と遺族の死者保護権が衝突した場合には、利益秤量の結果、死者本人の意思が優先されるとする。しかし、すでに述べたように、私見では死者本人の意思に反する遺族の意思も、権利として部分的に尊重されることがあるのだと考えている。よって遺族の権利を「死者保護権」と考えることはできない。
では、臓器移植における遺族の権利は何の権利と考えるべきであろうか。遺族には臓器摘出の場合に「同意権」と「拒否権」が与えられていると考えてはどうであろうか。
遺族は臓器摘出において、「死者に対する近親者の敬虔感情」が害されないという権利を持つ。そしてこの権利は死体損壊罪の法益として保護されるべきなので、臓器が摘出される場合に限って、遺族には「拒否権」と「同意権」が与えられる、と考えるのが妥当ではないだろうか。
4.本人の意思が表示されていない場合
次に、死者本人の意思が不明である場合における遺体の処分について考えてみたい。本人の意思が不明である場合、「精神的共同性」をもつ遺族の発言権が前面に出てきて、遺体の処分を決定してもいいと考えるべきか。死体の法的意味について「人格権の残存」説を主張する金沢氏は、「遺族は最も身近な者として故人の意向に最もかなう決定をなしうる」(注61)ため、「死者保護権」によって、遺族は臓器提供するか否かを決定できるとする。
また石原氏は、心臓死体の場合には、死者本人が生前に特に意思表示をしていない場合、「精神的共同性」を実質的根拠に遺族の意思で臓器摘出が認められてもよいとしている。しかし、脳死体からの臓器摘出については、石原氏が支持する脳死選択説の立場では、脳死選択意思と臓器提供意思とが連動して必要であるので、遺族の意思のみで臓器摘出できないと主張する(注62)。
しかし私は、心臓死体であれ、脳死体であれ、遺族の意思のみでは臓器摘出は不可能と考える。遺族は臓器摘出の場合に限って「同意権」と「拒否権」が与えられているだけであり、臓器提供をするかどうか決定する権利は与えられていないと考える。これらの副次的な権利のみでは臓器摘出できない。よって、死者本人の意思が不明である場合、遺族の権利によって、臓器を摘出することはできないと考える。
この結論は、死者本人の「沈黙」を保護するためにも必要である。1970年代、旧西ドイツで臓器移植立法が議論された際、「反対意思を表示する機会が与えられた上でならば、明示の意思表示をしないことは、少なくとも臓器摘出に反対しないことを意味し、黙示の承諾のあるものとみてよい」との解釈が主流となり、この解釈が連邦政府草案も採用された。しかしマウアー(Mauer)は、この草案に反対したその理由を次のように述べている。「反対の意思を表示されないことについては(1)当事者が臓器提供の問題と当面することがなかった、(2)無関心だった、(3)その問題を意識的に回避した、(4)最終的結論に達していなかった、(5)拒絶の意思をもちながらもそれを公にすることを好まなかった等、多種の理由が考えられ、反対していないことイコール同意と考えるべきではない」「『基本法2条1項(人格発展の自由)』は、沈思すること、衡量すること、沈黙することも保護している」(注63)。
日本国憲法では、「人格発展の自由」という権利は、人格権として明示されてはいない。しかし、マウアーが挙げた「反対の意思を表示されない理由」は、現代社会において当然に納得できる理由であり、こうした理由に基づいて死者本人が「意思を表示しないこと」も十分考えられる。こうした理由によって表示されなかった意思も尊重されるべきではないだろうか。私は死者本人の「沈黙」も保護されるべきであり、沈黙を同意と同視することは避けるべきだと考える。
臓器摘出について本人の意思が不明の場合には、死者の本人による「沈黙」も尊重され、臓器摘出はできないとすべきである。
第5章 おわりに-総轄と「提案」
1.総轄
町野氏は死体損壊罪の保護法益を「生きている人の期待」と主張し、生前になされた死後に対する臓器提供の自己決定が間接的に守られるべきと考えている。だが、その自己決定が絶対的に尊重されるという意見には否定的であり、本人が臓器提供について意思が不明な場合には、遺族の固有の権利によって臓器摘出が認められてもよいと、町野氏は考えていたと思われる。そこで現行法の2条1項の「本人の提供意思の尊重」という基本理念を考慮し、「我々は死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである」という人間観を主張して、改正案にあるような、本人の臓器提供についての意思が不明な場合には遺族の意思のみでも臓器摘出が行うことを正当化したのではないか。
また町野氏は、身体・臓器は「人格権の対象」と主張しているが、町野氏の見解をみると、死体から分離された臓器についても「人格権の対象」と見ていると思われる。だが、町野氏の立場からこれを主張するのは難しいと考える。
次に、臓器摘出要件について考えるために、「死体の法的意味」について考えてみよう。結論として私は、臓器移植における「死体」は「人格権が残存」したものと捉えられるべきであると考える。このように考えることによって、死者本人の自己決定権と、現行法8条の「礼意の保持」が保障されることになる。死者本人の意思は自己決定権によって根拠づけられるため、死者本人の意思がない限り、処分はできない。
遺族の権利はどのように考えられるべきなのだろうか。死体損壊罪の保護法益のひとつとして、臓器摘出に対し遺族は「同意権」と「拒否権」が与えられると考えるべきである。遺族と死者本人の「精神的共同性」を実質的根拠にして、遺族はこれらの権利を持つ。
臓器提供において、遺族の意思が本人の意思と衝突した場合、どのように考えればよいか。原則として死者本人の意思は尊重されるべきである。しかし死者が臓器提供を表明している場合であっても、遺族が臓器摘出を承諾しないときには、臓器摘出はなされるべきでないと考える。それは、臓器摘出が行われる場合に限って遺族に「同意権」と「拒否権」が与えられ、遺族の意思が尊重されると考えるためである。死者本人と遺族の双方が同意しなければ、臓器摘出はできない。
また、本人が臓器摘出について、明示の意思を表明していない場合には、臓器摘出はできないものとするべきである。遺族の持つ臓器摘出に対する「同意権」と「拒否権」という副次的な権利だけでは、臓器摘出は不可能なためである。また、この結論は死者本人の「沈黙」の保護という観点からも重要と思われる。マウアーが主張するように、「反対していないことイコール同意と考えるべきでない」。臓器移植において死者本人の意思が不明の場合、その本人による「意思不明」の状態は「沈黙」として尊重されるべきである。
2.提案
以上がこの論文の総轄であるが、最後にひとつ、臓器摘出要件として提案したいことがある。
私見による臓器摘出要件では多くの臓器移植を待つ患者を救うことができない。しかし、それを理由に死者本人の権利が軽んじて考られるべきではない。そこで以下の臓器摘出要件を提案したい。死者本人が臓器提供をするか否かの決定を遺族に委ねることを認めてはどうだろうか。オランダの臓器移植法(注64)
では、本人には臓器提供について4つの選択肢が認められている。すなわち(1)臓器提供の承諾、(2)拒否、(3)遺族へ決定を委ねること、(4)法定代理人による委ねることの4つが選択肢として与えられている。日本では、本人が臓器移植をしてもよいと考えていても、それによってかかる遺族の心的負担を考えて、臓器提供意思の表明をしない場合があると言われている。それなら、本人の自己決定権に基づいて、遺族に臓器提供するかどうかの決定を委ねるというのは、ドナーカードによる意思表示を積極的に促すためにも、有効な選択肢と言うことができる。
よって、私は臓器摘出が可能なのは、死者本人が臓器提供意思を明示に表明しており、遺族も臓器提供について同意する場合、そして死者本人が臓器提供について遺族に決定を委ね、遺族が臓器提供を認めた場合に、臓器摘出を可能とすれば良いと考える。
注釈
(1)町野朔 2000.「『小児臓器移植』向けての法改正-2つの方向」
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/machino01.htm
(2)町野朔 2000.「臓器移植の法的事項に関する研究-特に『小児臓器移植』に向けての法改正のあり方-」 http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/machino02.htm
(3)本文でも少しふれたが、町野氏は、未成年本人が臓器提供について「拒否」の意思表示をしていない場合であって、遺族が固有の権利によって未成年の臓器摘出に承諾をするならば、臓器摘出できるようにすべきと改正案において提案している。つまりこの改正案では、未成年に臓器提供の「拒否権」は与えるが、「提供意思」を表明する権利を与えることを認めていないことになる。それは以下の考え方に由来する。通常の医療行為に対する「同意」は、「拒否」に比べて判断能力が少なくても認められるという考え方がなされている。だが臓器提供の場合には、臓器提供の「拒否」は「提供意思」に比べ、判断能力が少なくてもよいとされるのである。臓器提供の場合が通常の医療行為に対する「同意」「拒否」の考え方と反対になるという背後には、臓器提供の「拒否」をした者は、それによって「保護」されるという思想がある。つまり十分な意思表示能力がないとされる未成年の「保護」のために、「拒否権」は与えても「提供意思」を表示する権利は与えるべきではないと考えているのである。
しかし、未成年「保護」のために「拒否権」のみを与えるとするよりも、未成年に「提供意思」の表示を認め、親が承諾することで未成年の意思を「保護」する方が、未成年の「保護」として意味があるのではないかと思われる。臓器移植法改正における議論では、森岡正博氏が15歳未満の未成年にもドナーカードによる臓器提供の意思表示を認めるべきと改正私案を出している。未成年自身に意見表明の機会を与えようとするこの考え方には共感できる。
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/moriokasugimoto-an.htm
(4)町野朔・森岡正博対談 2000.「臓器移植法の改正、イエスかノーか」p.177上段 町野発言
(5)町野朔 2000.「『小児臓器移植』向けての法改正-2つの方向」
(6)最終報告書において提案された臓器摘出要件の一部は次のようなものである。
「第6条(1) 医師は、死亡したものが生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき、若しくは遺族がいないとき、又は死亡した者が当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が移植術に使用されるための臓器の摘出を書面により承諾したときには、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死体を含む。以下同じ。)から摘出することができる」町野朔
2000.「臓器移植の法的事項に関する研究-特に『小児臓器移植』に向けての法改正のあり方-」p.5
(7)死体損壊罪の説明については、以下の文献を参考にした。
団藤重光編1965.『注釈刑法(4)』P.358、斉藤誠二1997.『医事刑法の基礎理論』p.194-p.209、
(8)山本輝之1999.「臓器提供権者と提供意思
-意思表示方式と承諾意思-」p.91、川口浩一1990.「臓器移植法における提供者の同意要件について」p.433。なお、ドイツ刑法168条「死者の安息の妨害の罪」の保護法益に関する諸学説については、斉藤誠二1997.『医事刑法の基礎理論』p.201を参照
(9)町野朔1996.『犯罪各論の現在』有斐閣 p.90
(10)山本輝之1999.「臓器提供権者と提供意思
-意思表示方式と承諾意思-」p.92-p.93
(11)川口浩一1990.「臓器移植法における提供者の同意要件について」p.433-p.434
なお、川口氏は臓器移植における提供者の同意要件を、(1)生体からの臓器摘出、(2)脳死体からの臓器摘出、(3)死体からの臓器摘出と、3つの類型にわけて主張されている。私は死者が自らの自己決定によって脳死判定を認め臓器提供意思を持つ場合に限り、脳死体は死体として扱われるという立場をとるため、川口氏の見解の?死体からの臓器摘出について本文で参考にさせていただいた。だが、川口氏は脳死体を個体死とする見解に疑問を持つ立場から、提供者の同意による違法性阻却の理論によって脳死体からの臓器摘出を認めるべきと考えている。それをここで明記しておきたい。
(12)川口浩一1990.「臓器移植法における提供者の同意要件について」p.434-p.435
(13)町野朔1996.『犯罪各論の現在』有斐閣
p.90
(14)町野朔1996.『犯罪各論の現在』有斐閣
p.93
(15)町野朔1996.『犯罪各論の現在』有斐閣
p.29、p.45
(16)町野朔・森岡正博対談 2000.8「臓器移植法の改正、イエスかノーか」P.191
(17)町野氏の「価値はやはり押し付けるもの」との見解に対し、森岡氏は「この社 会でそれ(町野氏の価値)が受けいられていけば、それが一つの支配的な価値になっていくが、受け入れられるか否かは分からないのだから『私個人はそう思う』とすべきである」と主張する。森岡氏の意見に同感である。町野朔・森岡正博対談 2000.8「臓器移植法の改正、イエスかノーか」P.191
(18)町野朔 2000.「臓器移植の法的事項に関する研究-特に『小児臓器移植』に向けての法改正のあり方-」
(19)町野朔1996.『犯罪各論の現在』有斐閣p.111-p.113
(20)本論文では、脳死判定意思と臓器提供意思という提供者本人の自己決定がある限りで、脳死が死であることが一部認められたと現行法を解釈し、その考えをもとに本論文では臓器摘出要件を考えてみたい。だが私は、脳死を当然に死とする脳死説には否定的である。脳死体すべてが死体であるとの考えはとっていないことをここに明記しておきたい。
(21)本文で述べたように、生体については我妻氏が「自分自身の身体にも人格権は成立するが、所有権は成立しない」と明言してしており、これが現在の通説である。だが、生きた身体に所有権を認める船橋氏の以下のような見解も存在する。「自己の生きた肉体といえども、自己が排他的に支配しうる点から見て、それにつき一種の支配権が成立するものと認めるべきであり、その点において民法の所有権に関する規定が類推適用されるべきである」
我妻栄1965.『新訂民法総則』p.202 、船橋諄一1956. 弘文堂、四宮和夫・能美善久2000.『法律学講座双書 民法総則 第五版増補版』
(22)「死体論」の概要は以下の文献で知ることができる。岩志和一朗1985.「臓器移植と民法」『ジュリスト』No.828
p.46-p.56、星野茂1992.「遺体・遺骨をめぐる法的諸問題(上)」p.191-p.197、島津一朗・久貴忠彦編『新・判例コンメンタール 民法14
相続(1)』p.91
(23)死体の所有権が誰に帰属するかという問題については、多様な見解が存在するため、本文では臓器摘出に対して重要と思われる見解のみを取り上げてみた。この問題に関し、詳細は「遺体・遺骨をめぐる法的諸問題(上)」p.191-p.197を参照。
(24)我妻栄1965.『新訂民法総則』 p.203
(25)判例について言えば、最高裁判決平成元年7月8日家庭裁判所月報41-10-18もこの立場を採用している。
(26)船橋諄一1956.『民法総則』p.87
(27)大審院判例昭和2年5月27日 民事判例集6-307
(28)もちろん、現行臓器移植法がある場合には、このような本人の臓器提供意思は法規定に基づき尊重される。だがここでは、そもそも臓器の処分権とは民法上どのように捉えられてきたのかを見るために、このような問題を提起してみた。
(29)船橋諄一1956.『民法総則』p.87
(30)穂積重遠『新訂民法総則』p.253
(31)岩志和一郎1984.「臓器移植の比較法的研究 民事法的視点-」p.106
(32)旧角腎法制定の時期においては、死体に対する法的意味という背景に加え、「本人の意思を遺族の意思をより尊重するのは時期尚早と考えらていたため」遺族の意思が優先する規定になったと考えられる。小田泰宏1980.「腎不全の根治療法・死体腎移植の普及と促進」
(33)四宮和夫・能美善久2000.『法律学講座双書 民法総則 第五版増補版』p.133
、 岩志和一郎1984.「臓器移植の比較法的研究 民事法的視点(1)」p.106
(34)死体を人格権の残存として見る立場には、ドイシュ、ハイニッツ、ラオフス、ザムゾン、シュライバーなどがいる。(斉藤誠二1997.『医事刑法の基礎理論』p.201)
旧西ドイツにおいて「人格権の残存」説は学説としても有力であるが、ドイツ連邦通常裁判所は、民事判例においても、死者の名誉保護に肯定している。死後の一般的人格権を認めたドイツ判例として有名なのが、コジマ・ヴァーグナー事件やメフィスト事件がある。事件の詳細は安次富哲雄1980.「ドイツ私法における死者の人格権」p.43-p.46 を参照。
(35)安次富哲雄1980.「ドイツ私法における死者の人格権」p.51
(36)人格権の残存説は古くは近藤英吉氏によって主張されている。近藤氏は、死体を死者自身の人格権の目的と見て、遺言の効力が認められるのも、法にこのような前提があるためではないかと示唆している。近藤英吉1932.「第三 死体に就いて」「第四 死者の権利に就いて」
(37)斉藤誠二1997.『医事刑法の基礎理論』
p.202 、平川宗信1995.「刑法各論」p.259-260.
金沢文雄1984「臓器移植と承諾」p.1-p.21
(38)金沢文雄1984「臓器移植と承諾」p.11
(39)金沢文雄1984「臓器移植と承諾」p.14
(40)川口浩一1990.「臓器移植法における提供者の同意用件について」p.433
なお、川口氏は脳死を死と考えないことから、脳死体からの臓器提供と死体からの臓器提供要件を分けて考えている。詳しくは(11)を参照。
(41)我妻栄1965.『新訂民法総則』岩波書店 p.202
(42)自己決定権は、日本国憲法の条文には明文化されていないが、憲法13
条の幸福追求権を根拠に認められている権利である。「成熟した判断能力」を持つ者が、自身の身体に対して一定の処置をすることを決定したのならば、それが「他者に危害を与えない限り」、絶対的に尊重されることになる。
(43)『臓器移植法ハンドブック』によれば、「ここで言う礼意とは死体を単なる物としてではなく、人格を有した人のなきがらとして鄭重に扱うこと」との解釈されている。
中山研一・福間誠一編1998.『臓器移植法ハンドブック』p.77
(44)脳死状態の人は、顔の血色も良く、体も暖かで汗もかき、まるで眠っているかのようだと言われている。死者本人が脳死状態を死と認め臓器提供を行う場合であっても、このような状態の「死体」には「礼意の保持」が法的根拠をもって保証されるべきと考える。
(45)町野朔1996.『犯罪各論の現在』有斐閣
p.90、山本輝之1999.「臓器提供権者と提供意思 -意思表示方式と承諾意思-」p.90
(46)日本における死者の人格権の私法上の保護は、臼井吉見著の「事故のてんまつ」が故川端康成氏とその家族の名誉をプライバシーを侵害したかどうか争われた「事故のてんまつ」事件や、城山三郎著の故広田宏毅もと首相の伝記小説「落日燃ゆ」をめぐる事件等がある。これらの事件を発端に、死者の名誉と人格権について裁判で議論がなされ、判例で死者の人格権が肯定された。詳細は安次富哲雄1980.「ドイツ私法における死者の人格権」p.35、p.36
(47)安次富哲雄1980.「ドイツ私法における死者の人格権」
p.40
(48)斉藤誠二1997.『医事刑法の基礎理論』p.202なお、この主張はドイツの学説でもなされている。
(49)安次富哲雄1980.「ドイツ私法における死者の人格権」p.51人格権は埋葬の場合には比較的長く存続するが、火葬の場合にはきわめて短時間しか存続しないとされている。
(50)金沢文雄1984「臓器移植と承諾」p.11
(51)金沢文雄1984.「臓器移植と承諾」p.15
(52)金沢文雄1984.「臓器移植と承諾」p.15-p.16
(53)平林勝政1984.「各国立法の小活と『承諾権』の一考察」p.131-p.137
本文で述べたように平林氏は死者本人の意思を「自己決定権」と考えているが、死者本人の自己決定権の保護については、「死体に人格権が残存していると言わなくとも、生存中の人間の尊厳は、自らの決定が死後にも尊重されるということを信頼し、これを期待しつつ生活する場合にのみ、十分に保護される」と述べており、金沢氏の人格権の残存説とは少し違った立場を取っていると言える。
(54)石原明1997.『医療と法と生命倫理』p.198
(55)星野澄子1984.「臓器移植の比較法的研究 民事法的視点(2)」p.114
星野氏は遺族のもつ3つの側面について次のように述べる。「経済的側面」は生計の担い手が死亡することによって遺族が扶養を受ける権利を喪失することや、所得が減少するなど痛手をうけることであり、「死体世話的側面」とは、礼意を持って死体の世話をしたり、葬式埋葬を行うという側面を表す。そして「精神的側面」とは、人の死亡によってその人と親密な人間関係を立たれる遺族が直面する精神的な面を表す。
(56)唄孝一氏が、遺族の処分権の実質的な根拠として遺族の「死体に対する離れがたさ」という感情を挙げており、この感情は法的に汲み上げるべきと主張している。唄孝一1971.「死亡と死体についての覚え書(二)」p.126
(57)斉藤誠二1997.『医事刑法の基礎理論』 p.202
(58)なお、アメリカの「統一死体提供法」の詳細については、丸山英二1984.「臓器移植の比較法的研究 1アメリカ」p.17-p.27を参照。
(59)遺族の権利を「死者保護権」と考える金沢氏は、この権利による遺族の利益を「埋葬を死者の尊厳にふさわしくとり行い、死者に対する哀惜の念と敬虔感情を害されないという利益」と考える。ここに言われる「遺族の敬虔感情」は「死体保護権」的に考えられており、「死体に対する離れがたさ」のといった遺族自身の「精神的側面」は考えられていない。しかし、私は死体損壊罪の保護法益として保護される遺族の敬虔感情とは、「死体に対する離れがたさ」という精神的側面も含まれていると考える。
(60)「人格権の残存」説における「死者保護権」は、生前、遺族と死者との間に存在した家族法上の保護関係が継続から生じると考えるのが一般的である。だが、死者に対する追憶や敬慕の念を組み入れ、近親者自身の人格権的側面からこの権利を意味付ける説も有力である。旧西ドイツにおける死者保護権の内容については、岩志和一朗1985.「臓器移植と民法」p.48と
安次富哲雄1980.「ドイツ私法における死者の人格権」 p.57を参照した。
(61)金沢文雄1984.「臓器移植と承諾」p.15
(62)石原明1997.『医療と法と生命倫理』心臓死体からの摘出についてはp.198、脳死体からの摘出については、p.292-p.296
(63)岩志和一朗1985.「臓器移植と民法」p.52-p.53
(64)オランダの臓器移植法では提供意思について登録制度を採用している。18歳以上の成人は全国民を対象にはドナー書式が送られ、自分の選択を記入したあと送り返して登録するが、登録をしなかった場合には自動的に遺族に決定が委ねられるという規定になっている。詳細は、山下邦也1999.「オランダにおける臓器提供法の現状」p155
参考文献
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・岩志和一朗1984.「臓器移植の比較法的研究 民事法的視点-」『比較法研究』46号
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・岩志和一朗1985.「臓器移植と民法」『ジュリスト』No.828
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・川口浩一1990.「臓器移植法における提供者の同意用件について」『大阪市立大学法学雑誌』36巻3・4
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・近藤英吉1932.『相続法の研究』弘文堂p.132-p.202
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・四宮和夫・能美善久2000.『法律学講座双書 民法総則 第五版増補版』弘文堂p.132-p.134
・島津一朗・久貴忠彦編1992.『新・判例コンメンタール 民法14
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・団藤重光編1965.『注釈刑法(4)』 有斐閣p.495-p.498
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・中山研一・福間誠一編1998.『臓器移植法ハンドブック』有斐閣
・ぬで島次郎2000.「臓器移植法見直し 真の論点」『世界』p.130-p.139
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・唄孝一1996.「再び『家族と医療について』」生命倫理学会ニューズレターNo.11
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・町野朔・森岡正博対談2000.「臓器移植法の改正、イエスかノーか」『論座』8月号.
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・町野朔 2000.「臓器移植の法的事項に関する研究-特に『小児臓器移植』に向けての法改正のあり方-」
・丸山英二1984.「臓器移植の比較法的研究 1アメリカ」『比較法研究』46号p.17-p.27
・森岡正博2000.「子供にもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」『論座』3・4合併号 p.200-p.209
・森岡正博2000.「臓器移植法『本人意思表示』原則は堅持せよ」『世界』10月号p.129-p.137
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-意思表示方式と承諾意思-」『刑法雑誌』38巻2号
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・我妻栄1965.『新訂民法総則』岩波書店p.200-p.203
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