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現代文明学研究:第2号(1999):88-106
容貌の自己受容―口唇・口蓋裂の場合
松本学



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T 序論

 1 問題提起

 疾患固有の容貌を持つ人がいる。例えば口唇・口蓋裂、例えば血管腫。人生に大きな影響を与えるように思えるのに、今まで取り上げられることはなかった。本当に機能的な問題がなければいいのだろうか。容貌/顔は「美しさ」に大きく関わるところである。この審美性という点で、容貌の疾患は特異な意味を持つ。容貌以外の疾患において、美しさということはほとんど問題にならないが、容貌の疾患の場合、機能的な問題が生じなくても何らかの心理的問題が生じる可能性があるのだ。
 ただし、この心理的問題の原因は直ちに疾患の程度に求められるわけではない(1)。つまり、容貌の疾患を気にするかしないかは、各人の心のあり方にもとめられそうなのである。容貌にほんのわずかの傷があったとしても、とても気になって、外出する気もおきなくなる人もおれば、その反対に、周囲の人が困惑してしまうほどの重度の容貌の疾患を持った人でも、社会的に適応している場合もあるということである。では、この違いをもたらすものは一体なにものであろうか。容貌にこだわってしまう人とそうでない人と何が違うのであろう。
 本論では固有の容貌を持つ疾患例として口唇・口蓋裂を取り上げる。口唇・口蓋裂は先天的奇形である。現在その発現頻度は母集団の人種・地域等で多少の幅があるが、日本人ではおよそ500−600人に一人の割合といわれる。口唇・口蓋裂を持つ人における固有の容貌の心理的問題は、現在まであまり取り上げられていない(2)。口唇・口蓋裂固有の容貌は、生まれたときに口唇や口蓋が開いたままであることから生じる。口唇や口蓋が開いていれば結果的に口や鼻などの容貌が固有になるのである。生後2〜3ヶ月から開いた部位を閉じる手術を行なうことになるが、手術の傷痕は残り、「容貌」は口唇・口蓋裂に固有のものになる。つまり、傷痕と、容貌の変形という2側面で、「普通」との差異が生じる(3)。
 近い将来、彼ら自身の容貌に対する心のあり方の考察は、口唇・口蓋裂に限らず固有の容貌を持つ人一般に起こりうる心理的問題にも敷衍されるものだろう。

 2 用語の検討

 ここで再度本論の主題について確認しておきたい。「疾患固有の容貌」とは何らかの先天的または後天的疾患(奇形、外傷を含む)が原因で引き起こされる特徴的な容貌のことである。
 今までに「疾患固有の容貌」という言葉の代わりにどのようなものが用いられて来たのかを概観したい。幾つかの観点に整理すると、まず、医学用語には、奇形、欠損、facial anomalies, malformation等がある。しかし医学用語は難解で、当人を傷つける言葉ともなりうるので用いない。(例えば、本人が「奇形」と呼ばれたら、どう思うだろうか。)第二に障害であるということに視点を置いた用語には、容貌のハンディfacial handicapがある。しかし、固有の容貌を持つ人すべてが、必ずしも容貌にハンディ(社会的不利)があるとは限らない。第三は、新造語である。facial difference,visible difference,異形(4)などは新たに考えられた言葉である。「異形」は、「イケイ」という読みで「単なる形の違い、違ったすがた」を表わすとともに、「イギョウ」という読みでは「異様なすがた、普通でないあやしいすがた」を意味する。facial differenceは「イケイ」に近い意味であろう。visible differenceの意味は、可視性――つまり人の視線――を介して容貌の差異が増幅されるということを捉えていて(5)興味深いが、日本語に訳した時に可視性の相違、言い換えれば見た目の違い、見掛けの違いとなってしまう。この日本語訳は「見かけ倒し」とか「見た目が悪い」といった言い回しと通底し、誤解を招く恐れがある。
 そこで本論では1)善悪・良否などの評価の視点が入らない言葉であること、2)分かりやすく、誤解されないこと。3)容貌だけでなく身体の疾患にも表現が応用できること、という三点を前提として、疾患が原因で特徴的な容貌であることを、「疾患固有の容貌」と表現することにした。以下にこれまで「疾患固有の容貌」を表わすために用いられてきた言葉を表にして挙げた。
 
             表1 容貌に関する用語の一覧
        用語                            説明
異形

 

  「イケイ」 異なる形、違ったすがた
  「イギョウ」 異様な形、普通でないあやしい
   すがた(『新字源』)
奇形(畸形)
 
  「奇」は「人並みでない」の意がある。
  「畸」も同様の意味あり。(角川『新字源』)
損なわれた容貌    損なわれたものと断言することは不可能である。
見掛け

 

   外から見た様子、外観、うわべ(『岩波国語
   辞典)
   外観から受ける印象「見かけ倒し」
醜い人    評価の視点が入る。
見た目
 
   目にうつる姿、様子(『岩波国語辞典』)
  「見た目が悪い」
目に見える形のハンディキャップ    必ずしもハンディとは限らない。
ルックス    Looks (略式)容貌、風采、美貌(GENIUS)
abnormal (appearance)   (しばしばけなして)異常な、例外的な(GENIUS)
anomary    例外、変則、変わり種、不合理(GENIUS)
craniofacial deformities
 
   頭骨と容貌の奇形(不具)、欠陥
   deformity:make ugly or misshapen (POD)
defect    欠点、欠陥(GENIUS)
difference    相違、違い、相違点(GENIUS)
disfigurement

 

   外観(形状、美観)を損なうこと、傷、欠点
  (GENIUS)
   disfigure:spoil the appearance of (POD)
disorder   (心身機能の)不調、異常、障害、(軽い)病気
alformation   faulty formation (POD)
stigma   差別的刻印、恥辱、不名誉
visible difference   目に見える相違

 *なお、表中の『岩波国語辞典』は『岩波国語辞典』第4版(1989、岩波書店)、『新字源』は『角川新字源』(1983、角川書店)、(GENIUS)は『ジーニアス英和辞典』改訂版(1994、大修館)であり、PODは“The Pocket Oxford Dictionary”(1996)である。
 

U 本論の目的と方法

 本論の目的は、疾患固有の容貌によって心理的問題を抱える人々(6)が自己の容貌をどのように受容するかという点を明らかにすることである。
 調査の具体的な方法は、以下の通りである。@口唇・口蓋裂を持つ人数名に聞き取りを行い、全体像を把握しようと試みた。情報の偏りを少しでも少なくするために、A既存の資料(親の会の会報記事、口唇口蓋裂を持つ人が発言している書籍等)を調査した。@については、近畿圏在住の口唇・口蓋裂を持つ人(5名)、及びその母親(4名)と配偶者(1名)に対して、インタビューを行った。インタビューの内容はインタビューの1〜2週間前に対象者に送付した。インタビューにはMD(Mini Disc)による録音を採用した。インタビューおよびその録音については予め本人の許可を得た。インタビューの項目は、思い付くことを出来るだけ構えずに述べてもらうために包括的な質問が用意された。各インタビューのあと、筆者がテープ起こしをし、インタビュー時の発言を整理した。インタビューの場所は人気の少ない場所が使われた。

V 結果と考察

 1 容貌の自己受容過程の仮説的モデル

 疾患固有の容貌はどのように受容されるか。換言すれば、どうして固有の容貌を気にする人と気にしない人が出てくるのか。その違いは何か。聞き取りからは幾つかのあり方の違いが見受けられた。そこで、単に心のあり方の分類として整理するよりも、仮説的ではあるが、ひとつの受容過程の中でおのおののあり方を提示する方が心の動きがより明らかになると考えられた(7)。そこで、今回の調査の資料に基づいて、仮説的に容貌の自己受容の過程を構築する試みを行なった。よって、以下に提示する受容過程のモデルはあくまで仮説モデルである(8)。
  以下は例示しながら順に詳しく見ていくことにする。なお、筆者の質問は括弧( )に括ってある。また、インタビューと区別するために、会報等の資料には出典を明記した。

(1)容貌に無自覚な時期

 口唇・口蓋裂の人の場合、疾患固有の容貌は先天的なものであった。しかし、今回の調査で口唇・口蓋裂の人が疾患固有の容貌に無自覚な期間が存在することがわかった。なお、無自覚の期間には個人差があるとおもわれる。

幼稚園年長女子の母親 十周年記念文集(1986)pp.29−30
 子供は近所の友達に「Nちゃんのお口どうしてそうしているの」と聞かれて「Nちゃんどうしてこうしているのかわからへんもん」と返答していましたが、最近も外で遊んでいてお兄ちゃんに「お前の口きたないなあ」といわれたよと言っていましたがあまりたいして気にはしていないようです。
T.H (25歳 男性会社員)
口歪んでるとか、何や?とか、気色悪いとか。小学校のころからですかね。低学年のころ。幼稚園はあまり記憶にない。
 最初の例では疾患固有の容貌について他人から尋ねられて返答に困っている。この時点ではまだはっきりとした容貌の自覚がないと思われる。この状態がいつまで続くかは個人差があるが、今回の調査では、後者の例のようにおおよそはじめての社会参加である幼稚園から小学校入学くらいまでに疾患固有の容貌を自覚する例が見られた。これは、疾患固有の容貌の自覚は、他者による疾患固有の容貌の指摘がきっかけであることを示唆している。自覚以前はおおよそ家庭内で他者からの容貌についての指摘なしに過ごしていると予想される。万一指摘されても、たいていの場合は両親が本人のかわりに質問に対応してくれる。更に、以下のように母親が口唇・口蓋裂の子どもを家の外に出さない傾向も影響しているだろう。
T.Hの母親(主婦)
 一年保育の幼稚園出すまでは、ほんとにあんまり外に出ませんでしたものね、もう幼稚園行くようになって仕方がないから出たって言う感じ。

H.Nの母親(教員)
 3歳くらいまではもうひたかくしに隠して、外にはほとんど出してはいません。

  では次に、このように家族によって守られている本人が、疾患固有の容貌を自覚する様子を見ていきたい。

(2)疾患固有の容貌を自覚する時期

  口唇・口蓋裂の持ち主は幼稚園や保育園への入園、小学校入学などによって集団生活に入ると友だち等から疾患固有の容貌について一方的に指摘されるようになる。他者に指摘されることで、口唇・口蓋裂の人は初めて自分の容貌についての説明をする必要に迫られる。また、説明をするために自分の容貌/顔を鏡等でよく観察し、他者の容貌/顔と比較する。ここに疾患固有容貌に対する自覚が形成される。

H,Nの母
 4歳の時くらいからね、やっぱりなんか「僕変な顔っていわれる、僕変な顔っていわれる」って、家でいうようになりましたね。
 4歳はH.Nが幼稚園に入園した歳であるが、その時からさっそく他者から容貌のことを指摘されるようになる。以下の例もH.Nの場合と同様に小学校と社会に参加した時から「鼻ペチャ」と指摘されるようになっている。
小学2年生の母親 会報No.56号(1996.8.30)p.11
 去年入学して“はなペチャ”と人によく言われ、おまけに学童保育(他校へ行っている)でも言われ、
 ここで注意すべき点は、容貌の自覚の契機が他者からの一方的指摘であるということである。自分が容貌の差異に気付くより先に他者に差異を指摘される。このことは自己概念形成上重大な影響を及ぼす可能性が危惧される。つまり本人の容貌のイメージは混乱し、混乱をもたらした他者との関わりに不安を感じ、自己イメージを健全に形成することが不可能になる可能性がある。先行研究でいわれている対人関係能力の低さ――対人間やり取りの苦手感、異性との関係構築の困難、初対面の苦手感など――の原因の一つがここにある可能性がある。

(3)苦悩の時期

 疾患固有の容貌を自覚することで苦悩が生じる。調査では幼年期から青年期にかけて幅広く苦悩が見られた。苦悩は大きく分けて否認と失望・怒りの形で表現されている。さて発言のなかから、否認の項にまとめたのは、まず疾患固有の容貌を一見気にしていないように見える態度――つまり苦悩が潜在化している場合である。さらに「疾患固有の容貌=個性」であるとして、容貌について何も思わないとした例である。失望・怒りは感情が内向するか、外向するかの違いだけで、表裏一体のものであると考えられ、同一の項とした。否認、失望・怒りともに容貌についての苦悩が原因となっていることは共通である。
 ここで注意すべき点は、容貌についての悩みは一生続く可能性があるということである。しかし後述するように、疾患固有の容貌を容認してしまっている人の場合、苦悩の占める位置は少ないように思われた。よってここ取り上げる発言は疾患固有の容貌であることをいまだ容認していないと思われる人の苦悩である。
 さて、他者からの一方的指摘によってどのように苦悩が生じてくるか、苦悩の萌芽期の例を以下に2例あげる。

小学生男子 会報No.14(1982.11.28)p.3 
 「鼻ペチャ」て言われても「うるさいなあ」と思いながら聞いている。でも心のおくではすごくはらがたつ。でも気にしたってどうにもならないから、ぼくは気にしない。言う人は自分が反対に言われたらどう思うのかな考えたことあるのかな。

Y.Y (小学男子、インタビューのY.Y) 15周年記念文集(1991)p.41
 Aの中のB君が、「あのタラコくちびる、この家に住んどる。」と言いました。僕のくちびるは、みんなのくちびると同じです。なのに、タラコくちびると言われてすごくいやでした。

 この二例では、他者からの指摘によって本人が怒りを覚えるようになっている。以下にあげる苦悩の例は、この二例のような状況から派生して生じたものと考えられる。

    1)否認

 否認には二つのパターンが見られた。まず、疾患固有の容貌であることの苦悩を抑圧してしまっている場合をあげる。

中学2年女子の母親 会報No.47(1994.5.29)p.11
 娘は今矯正の時期です。ヘッドキャップをかぶって学校に行っていますが、何も言いません。小学校の頃はよくからかわれて、いつも学校から帰ると、私に「今日はこんなに言われた」とかいって泣いた事もありました。今は強くなりました。娘は今年、中二になります。
 この例で母親は娘が「強くなった」と書いているが、特にヘッドキャップは目立つものであるから何も言わないと言うのは不自然に思われる。この辺りから、感情を押し殺している様子が見えてこないだろうか。つまり、母親に援助を求めてもどうしようもないと考えている場合。また、本当は容貌のことが気になるのだが、努めて容貌のことを考えようとしていない場合。更に、将来手術によって劇的に容貌が「普通」になると期待する場合などが考えられる。H.Nの中学時代の例が参考になるので以下に示す。
 H.Nの母親
 中学校のときに手術をして、で、もう、あの、手術して、ま、ほんとにきれいになるかと思ってたら、あの、「こんなんやったんか。」って。手術したらきれいになる、手術したらきれいになるっていって育ててきたのに、中学校で手術したときにこんだけしかきれいにならないんだったらね、あの、「きれいっていっても違うじゃない」って、だから、「もう僕はもう絶対手術しない、これからは。」っていったんですね。でね、何でおまえはこうやってこの顔で生きていくんやっていってくれなかったのかって、あの子は怒ったんですよ。
 このように、子どもの容貌についての心配を考えて、母親などが手術に過剰な期待を抱かせるような発言をするのは、のちに子どもがより大きな失望をうけることからも注意を要する。中田(1998b)は「持って生まれたこの顔がこの子の顔だ。私は大好きだ。」というこころ構えが必要であると述べている。以下も苦悩を抑圧している例である。
会報No.52(1995)p.8
 六年生の女児ですが、口に出しては何もいわないのですが、鏡をじっと見ているときには少しつらいです。(まだ子供に本当のことを言っていないので)本人は明るく友達も多い方です。
 なお、口唇・口蓋裂であるという事実を本人に告げていない例も散見された。事実を本人に告げていないとしても、現実には容貌が疾患固有なのだから、本人は様々な疾患についての憶測をする。例えば18歳の女性は自身が口唇・口蓋裂であると言う事実を知らされていない時の心境を以下のように綴っている。
18歳女性 口唇口蓋裂 会報No.56 p.6
 子どもは世界で自分ひとりなのでは…と思い、誰にもわかってもらえず一人で悩んでしまいます。そして周りの人達から、鼻曲がりとか鼻の下の傷はどうしたの?などと言われたとき、自分でもなぜなのかわからないので言いかえすことができず、ただ我慢するしかないのです。
 疾患固有の容貌は、事実を知っていてもありのままに受け入れることが困難なものである。本人が事実を知らなければ、容貌に対する本人の苦悩は更に困難な道を辿るものと予想される。
 もう一つ、否認で見られたのは、「疾患固有の容貌は個性である」といって特に疾患固有の容貌であることを認めなかった例である。
Y.Y(高校3年男子)
(自分の顔について)特に何も思わない。
(異形であることは?)個性でしょう。
 疾患固有の容貌が取りたてて論じるものではなく、一人一人の容貌が異なるのと同じように、自分の容貌もそういった容貌のひとつであるということである。もちろん疾患固有の容貌が個性――単なる特質、性質と見なされるようになれば、これこそ望むべきことである。ところが疾患固有の容貌を持つ人の現状は、容貌の自覚の項で述べてきたように、他者から一方的に決定的差異を指摘されてしまうのである。この現状を踏まえたとき、「容貌=個性」と闇雲に唱えることは疾患固有の容貌であるという事実を隠蔽する惧れがあると思われる。もっとも「疾患固有の容貌=個性的な容貌」という主張のメッセージ性は重要であろう。容貌の差異はどんな差異であっても(一般の差異も疾患固有の差異も)単なる差異であって、それ以上のものではないとなれば、これは疾患固有の容貌の持ち主が望むことであろうから。
 以下は男子の母親の話である。
Y.Y(高校3年男性)の母親
 [本人の「特に何も思わない」について]うん、これはかなり強がって言ってますね。まったく何も思ってないわけじゃないんだけども、だけどこうやって聞かれたら、強い気持ちを出していこうということだと思いますよ。だから、自分がそれをずっと気にして、生きてるんじゃないっていうことをね、(中略)もう、まったく何も思わないわけじゃないっていう。やっぱり、鏡は見たりとか、してますし、、、、
 本人の答えと母親の答えを総合すると、自分の容貌について自分の気持ちとは別に、他人に自分の弱さ(容貌について悩んでいること)を見せないための「公式見解」(タテマエ)があるように思われる。このタテマエは、前述したように疾患固有の容貌を抱えている本人と他者がともに固有の容貌を「気にしない」こと、つまり容貌の差異は単なる個性であるということを訴えるメッセージである。しかしタテマエを前面にだしたために、本人が容貌のことをどう悩んでいるかということは隠されてしまっているのである。ここでは疾患固有の容貌を持って生きることの苦悩をありのままに表現することが出来ないのである。

    2)悲哀・怒り

 悲哀・怒りは本人が疾患固有の容貌であることをしぶしぶ認めているが、納得はしていない状態であると思われる。特徴としては、疾患固有の容貌であることを哀しみ、失望し、疾患固有の容貌が将来治癒する可能性を期待する、固有の容貌を持つ自分の将来を悲観する、疾患固有の容貌に生まれるように宿命づけられた自分の存在の不条理性(「生まれてきたくて生まれてきたのではない」)を訴える等がみられた。

小学6年生女子の母 十周年記念文集「大空」(1986)p.32
 この頃は鏡を見る機会もふえ、男の子に傷の事を言われたりすると、とても辛いらしく「私の傷はもう治らないの」と泣きながら私に聞きます。私は絶対にきれいに直るし、お嫁にもちゃんといけるから、心配しないでいいと、はっきり答えます。
 この女子は鏡を見ることで、自分の容貌が疾患固有のものであることを確認している。また、他者によって指摘されてもいる。母に「私の傷はもう治らないの」と迫る本人の悲哀は切実なものがある。自分の容貌に失望する人は、容貌の、特に傷の部分の治癒を期待する。この人の場合、その尋ね方から判断して、一生傷が消えないことにも気がついているようである。医学的に治ることは確かに望ましいことだが、現在の口唇口蓋裂の医学的治療で跡形もなく傷がなくなることは不可能である。以下も中学生の女性の例である。
中学女子 『平成2年〜4年の活動記録』(1997) p.75
先日、何かの拍子に「私は結婚しないでずっと家にいるからよろしく。」と言うのです。「どうして?」と聞くと「出来ないもの。」と答えます。「じゃあ、しっかり働いて下宿代いれてもらわなきゃ。」と笑い飛ばしましたが、胸の奥がキリキリ痛みました。
 こちらの例は失望の度合がより強く、疾患固有の容貌であるために本人は結婚ができないと考えている。確かに口唇・口蓋裂者の婚姻率は同胞の婚姻率よりも低いという報告もいくつかなされている(Bull&Rumsey,1988)。しかし、婚姻率という数字を以って個々人の結婚について論じても何の解決ももたらされない。また、中田(1998a)も、やはり長年の口唇・口蓋裂児童を持つ親の会との関わりから「わずかな異形が結婚という時期を迎えて一変する。たちまち口唇口蓋裂による異形を理由にその選択の機会は狭められる。このことを恐れて親たちは子どもに真実を告げず、口唇口蓋裂であることを隠そうとする場合もいまだに多い。このことがじわじわと本人や親たちの気持ちをむしばんでいく。」と指摘する。結婚の問題は、疾患固有の容貌であることの苦悩の端的な表現のひとつとすれば、この解決は疾患固有の要望であることの苦悩が薄らいでいくと共にもたらされるのではないだろうか。
 疾患固有の容貌の持ち主が「美しい」といわれることはおそらくまれであろう。「美しい」といわれたとしても、本人はその言葉を素直に受け取れない可能性があろう。ところが、中高生時代には、美しくなりたいという気持ちが強くおこる。しかし、「内面の美こそが本当に美しい」のだから、疾患固有の容貌であっても(「美しい」といわれなくても)気にする必要はないともおもう。こうした苦悩を苦悩でなくするためには自分なりに疾患固有の容貌と自分との関係を見つめなければなるまい。こうして容貌について苦悩するうちに疾患固有の容貌を持って生まれて来たことを恨むことにもなる。
 小学男子  十周年記念文集「大空」(1986)p8
「ぼく、生まれて来たくて、生まれたんとちがうのに」と、ある日、ポッと、子供が言った。
 生まれてきたくて生まれてくる人間は一人としていない。これは、人間存在の不条理であるが、しかしこの厳然たる事実に気づかされてしまうほど、口唇・口蓋裂は本人に自己覚知を迫るのである。そしてこの深い失望は怒りにも転じうる。
H.Nの母(H.Nの中学時代について)
 本人の責任でないのにね、いろいろいわれるわけでしょ、だから、何でこんな顔に産んだんやって私に突っかかってきますから、だから、私も、そんな顔に産みたくなかったわよって、言い返して。
 本人はやり場のない怒りを自分を産んだ母親にぶつけざるを得ない。しかし、母親もわざわざ口唇・口蓋裂を持つ子どもを産んだわけではないのである。そして自分の存在理由にまで苦悩の対象を広げた本人はようやく誰を責めても仕方がないことに気がついていくようである。

 (4)容認の時期

 失望や怒り、絶望を感じても、責任はどこにも、誰にもない。また、この苦悩を克服するためには物理的な―医学的な手段では解決できないことにも気付く。ここにおいて本人は疾患固有の容貌で生きるほかはないと認めるのである。こうした思いは、苦悩の中から徐々に獲得されていくようだ。この状態を疾患固有の容貌の容認と呼ぶことにする。容認の時期の特徴として、自分の容貌をありのままに見つめるまなざしの獲得、治療不可能性の容認や、疾患固有の容貌を持つ自己の体験の再統合(容貌の自己受容)があげられる。

成人女性、口唇裂
 会報No.39(1991.12.8)p.3
  美に対するコンプレックス・…そして、アッ!!私もそうだったんだ。やっぱり心の奥深くに口唇裂のことあったのだ。意識しないようにしてきたことに気付いた。そうか、心の底から仲良しになれなかったのは人のせいではなくて、私のせい、無意識に閉じてしまう心のクセだった。
 この例では、自分の疾患固有の容貌を考えないようにしてきたことを再認識している。これは疾患固有の容貌であることを否認していた自分に気がつくことである。このように苦悩する/していた自分に気付くメタ認知はありのままの自分を見据える視線から生まれている。以下も同様の視点で自分の容貌についての意識を語っている。
T.H
 どっかでやせ我慢じゃないけどね、意識をせんとこうという意識が働いているかもわからないですけどね。だから、意識がまるでないというわけではないんですが、でもやっぱり意識はないんですよね。だから多分障害を持っているという意識を否定していると思いますね。顔が歪んでいるとかの意識を。
 T.Hの場合も、日常生活で、口唇・口蓋裂であることについてこだわらないようにしたことと、容貌のことから単に目をそむける傾向があることを認めている。こうした疾患固有の容貌に対するメタ認知は単に障害に目を背けているだけでは生まれない。これも容貌の自己受容の例であろう。このメタ認知を獲得した人には答えにも余裕が感じられる。こうした認知―ありのままの自分を見る客観的視線―は以下のような容貌に対する考えから生じると考えられる。
 青年男性の母親 十周年記念文集「大空」(1986)P8〜9
 「気にしたって、どうにもできへん。」ケロッと言ってのける強さも、いつの間にか出来た。
 この発言もおそらくは苦悩の時期を経過したのちに、この心境に辿り着いたと思われる。気にせざるを得ないことは外から絶え間なく、本人の心のあり方とは関係なくやってくるが、気にすることは解決にはならない。このことを苦悩を通して体感したのだ。「どうにもできへん。」と思う気持ちは母親がいうような強さだけではなく、一種の諦めでもあるのだ。T.Hが自分の容貌についていった以下の言葉も、同じように一種の諦めの思いが込められている。
T.H
 (自分の顔を一語であらわすと、どうですか?)奇形。それはそれでとらまえてますよ。それでよく見せようと努力することはしない。よく見せようとはしない。そういう努力は一切考えてない。
 自分の容貌を「奇形」と表現する悲しさはいかなるものだろう。自分は疾患固有の容貌であり、この容貌で生きていくほかない。このように諦めることで、ありのままの自分を見る視線が獲得されていく。そしてその獲得した視線が疾患固有の容貌を持つ自分を再統合していく。
 さて、ここでの容貌の自己受容とは、疾患固有の容貌が交換不可能なかけがえのない自分の容貌であることを理解し、医学的に容貌を変えることなしにひとりの人間としてできる限りのことをしていこうとする過程とも言えよう。容貌についての自己概念が形成されたあとで疾患固有の容貌になった人の場合、容貌の自己受容は特に劇的になされると予想される。以下、どのように容貌の自己受容がなされるか見ていく。
H.N 会報No.37(1991.6.9)p.3
 あきらめるものはあきらめ、自分で治せる事は治そう。笑い方も、右から笑ったら口唇があがる。鏡を見て、注意し、口を閉じて、気をつけて歩いている。しかし、気をつけている事が苦にならない。今ある顔を少しでも良く見せたい。
 H.Nは、容貌の造作自体を変えることは困難であると考え、かわりに表情に注意することで自分の魅力をつくろうと考えている。「今ある容貌」で出来るだけのことをするという考え方であるだろう。
 H.Nの主張は、容貌について気になるのなら、今できる範囲で容貌の見せ方を工夫しようという積極的なものである。この主張は疾患固有の容貌に悩んでいる人としてはいささか逆説的ではあるが、容貌の自己受容の試みとして捉えることが出来よう。「今ある自分の容貌」を認めなくては持ち得ないものであろう。このようにして、疾患固有の容貌の持ち主は初めてよく生きることが出来るのではないだろうか。
 

             表2 容貌の自己受容過程の仮説モデル

        過程               特徴              容貌と自己との関係
 
1 容貌に無自覚な時期  疾患固有の容貌の自覚なし 明確ではない。
2 容貌自覚の時期
 
他者からの一方的断定的指摘による疾患固有の容貌自覚 自己の容貌を自分のものとしてうまく位置づけられない。
3 苦悩の時期
 
 

 

疾患固有の容貌であることの否認による意識の抑圧
疾患固有の容貌であることの悲哀・怒り・絶望など
 
ありのままの容貌を自己のものとして認められない。ありのままの容貌と自己を有機的に結び付けるための葛藤が見られる。
 
4容認の時期
 

 

ありのままの容貌を見つめるまなざし
ありのままの容貌で生きていく他ないという諦め
疾患固有の容貌に対する自己受容がおこる。
苦悩は完全には消えず、「間遠」になる。

 

 2 各段階ごとの援助のあり方の提言

  前節で疾患固有の容貌の自己受容の過程を仮説としてあげた。そこで本節では先にあげた仮説モデルに基づき、疾患固有の容貌を持つ人がありのままの容貌で生きるために、どのような援助のあり方があるべきか、各段階ごとの援助の方法を提言してみたい。

(1)容貌に無自覚である時期の援助

 疾患固有の容貌を本人が自覚していない時期に援助者はどのように本人と関わるべきであろうか。この時期は幼稚園や小学校等の子ども社会への加入以前の期間が当てはまると思われる。この時期の援助側の特徴として、母親など保護者の混乱が見られる。だから、本人に接する母親の態度も、不安定なものになっている可能性がある。実際、容貌に無自覚な時期(T.HやH.Nの母親の例)で例示したように、母親は子どもを外に出さない。「ひたかくしに隠して」、「仕方なく」外に出す。このような母親の混乱の中で、それでも疾患固有の容貌を本人に理解させる努力としては、T.Hの母親の例が参考になる。彼女はT.Hの生後3ヶ月のはじめての手術を終えてから、本人の容貌を鏡に映して話し掛けている。

T.Hの母親
鏡はねえ、赤ちゃんで抱っこしている時から見せてたんですよ、意識的に、「ほら、ほら」、いうて「ここいたかったでしょ」
 赤ん坊をあやす技術として、鏡を見せる方法は一般的である。幼児がいつ頃から鏡に映った自分の容貌の傷を自分のものと認知するかという発達心理学的問題は残るが、本人にありのままの容貌を理解させる手だてとしては、また母親自身の不安を和らげるためには有効であると思われる。
 また、親の会活動に本人も参加することで、自分と同じ口唇・口蓋裂の人と交流することもありのままの容貌を本人が知る大切な機会であろう。

(2)容貌を自覚する時期の援助

 この時期は小集団加入の時期でもある。この時期に重要なことは、他者からの一方的指摘によってはじめて疾患固有容貌を自覚するというような事態を避けることである。この他者からの一方的指摘によって本人が非常に傷つく可能性については先に述べた。この点から、子どもが、口唇・口蓋裂であるという事実を教えられる場合、この時期に親から教えられることが多いと思われる(9)。ところで、疾患固有の容貌であることの苦悩がすぐ間近に予想されるということを考えると、親から子に伝えるべき事実の内容が問題とされる。本人に事実として伝えられる内容は、往々にして疾患自体のみであり、疾患が原因で(この場合は口唇・口蓋裂が原因で)疾患固有の容貌になっているという事実を本人に明確に伝えるということには力点が置かれていないように思われる。先に、疾患固有の容貌であるということが将来本人に重大な苦悩をもたらすことを述べたが、これは以下のような構造に支えられていると思われる(10)。まず、容貌と人の価値を考えるとき、思い当たるのは「人の価値は外見ではなく中身によって決定される」という価値観である。容貌の見た目の美しさではなく、性格や性質、能力によって人は判断されるべきものであるという価値観である。口唇・口蓋裂の持ち主も、幼い頃からこの価値観を教えられている。ところが、口唇・口蓋裂の持ち主は幼い頃から他者に疾患固有の容貌を指摘される。この指摘は教えられた価値観を裏切る出来事である。
 一方、私たちは「美しければ美しい程よい」という視覚的美至上主義とも言える価値観をも持っている。例えばテレビや雑誌などには「かっこいい」「美しい」あるいは「個性的」なひとが多く現れる。そして疾患固有の容貌の持ち主はまず出て来ないといっていい。(かつてソビエト連邦の指導者ゴルバチョフ氏の額のあざがしばしば風刺の対象になって新聞紙上などに描かれたのは、例外であろう。)美容整形の隆盛もこれを裏付けるだろう。また、社会心理学の領域では、松井・山本(1985)が、男性が女性を交際の対象として選択する場合、「美しさ」がもっとも大きな判断基準であることを示している。
 結局、人の価値はその中身で決まるという倫理とは別に、私たちには外見の美しさをもっとも望ましいものと見る習慣的思考があると考えられる。口唇・口蓋裂の持ち主も決して例外ではない。現に形成手術に過剰な期待をして、いつか「美しい白鳥」になることを夢見る。つまり、タテマエとしては前者の価値観を信じているのだが、自分の容貌に対しては価値観にも影響を受けているということになる。ここにひとつのジレンマが生じる。本当は美しくなりたいのに、美しくなれない、しかも、美しさは本当は人間の価値と関係のものであるはずだ。いったいどうしたらいいのか、というようなジレンマが。
 このジレンマは疾患固有の容貌を持つ人に限らず誰でも持ちうるものであろうが、疾患固有の容貌を持つ人はこのジレンマをより強く意識させられる。というのは幼時から自身の容貌を説明される時に前者の価値観を用いて説明を受けるからである。具体的に例を挙げてみよう。

 T.Hの母
小さい時からね、人は見てくれだけとちがうよって、顔だけでその人を判断したらあかんって、姿かたちだけで判断したらあかん、やっぱり内面的なことが大事だからっていうてずっと言うてたんですよ、小さい時から。
 こうした助言は、親が疾患固有の容貌を持つ子どもが容貌についての苦悩をいくらかでも減らそうという配慮から出たものであり、母親自身を慰める意味合いも含んでいると思われる。しかし、こうした助言によって口唇・口蓋裂を持つ人は苦悩を潜在化させてしまったり、先に述べたジレンマに陥る可能性がある。苦悩が潜在化すると、援助する側は(疾患固有の容貌の人に対するカウンセリングがおそらく存在していない現在の日本では、援助する役割をになうのは主に母親であろうが)どのように援助したらよいか困惑することになる。また、本人も苦悩を潜在化させてしまうのだから、容貌についてしっかり見据えることは出来ない。そして他者から疾患固有の容貌について指摘を受け、混乱し、母親からの助言に矛盾を感じるばかりである。つまり、このような形の助言では、疾患固有の容貌を持つ人がよりよく生きることにはつながらないのではないだろうか。
 では、疾患固有の容貌を自覚する時期以降、本人が苦悩の潜在化を起こさず、美しさに対しても目を背けずにいられるためにどういった助言が考えられるのであろうか。参考になるのは、容認の時期の項であげた記録である。例えばH.Nは自分の容貌について「あきらめるものはあきらめ、自分で治せる事は自分で治そう」と述べている。このような割切りがないと、疾患固有の容貌でありながら美しさを求めることは難しい。また、H.Nは母親との葛藤の中で疾患固有のこの容貌で自分が生きていかなくてはならないと言って欲しかったと言っている。
 自分の容貌の自覚の時期に、自分のありのままの容貌を認めることは困難なことであろう。しかし、ありのままの容貌を本人と関係づける努力を促すことが援助側には必要なのではないだろうか。 少なくとも、疾患固有容貌が手術によって治癒すると期待させたりすることは、本人にありのままの容貌を受け入れる気持ちを起こさせないという点で望ましくない。

(3)苦悩の時期の援助

 苦悩の時期の特徴は、特に否認の時期において、ありのままの自分の容貌を自分のものとして素直に認められないということであった。ここで手がかりとなるのは、今回のインタビュー対象の5名のうち3名が、何らかの形で口唇・口蓋裂とは異なる障害を抱える人と交流があったということである。こうした交流の中で、障害に対する意識が明確になり、自身のありのままの容貌の受容にすすむということは十分考えられる。

H,N
 予備校時代、障害(目立たない。)の子と、いっしょに勉強したことがあった。その子は障害を気にしていた。 やっぱり自分も不細工やからと思うこともありますやん。正真正銘五体満足な人なんていないと思った。気にしなければ障害にはならない。見据えているうちにとことん付き合うことで、障害を越えられる。
 H.Nの場合、他の障害を抱える人との出会いが結果的に自分の疾患固有の容貌に対する態度を見直す契機になった。他の2人は、障害を抱える人との交流によって何か自分の認識に変化が起きたとは語らなかったが、自分の疾患固有の容貌、あるいは口唇・口蓋裂という障害の認知に何らかの影響を与えているということは想像に難くない。
 もう一つは疾患固有の容貌そのものを詳しく知る手だてを援助するということである。容貌に苦悩している本人が、疾患についてよく知ることは、ありのままの容貌を受け入れるための重要な作業であろう。なお、ここで重要なことは、援助する側の価値観を押し付けないということである。むしろ本人自らが知ろうとする態度を育てることが重要であろう。
 悲哀・怒りについては、上記のことも併せて、共に哀しむことや、親としての悲哀がどのようなものであるか、発言することが重要であろう。
 以上、調査の結果から疾患固有の容貌を正面からありのままに理解することが出来るようなあり方について述べてきた。今後、どのようにして疾患固有の容貌を持つ人がありのままに容貌を理解すればよいのか、さらに検討すべき課題であろう。
 
 

 3 疾患固有の容貌を持ちながらよりよく生きること――容認期の援助にかえて

 さきに述べたように、自分の疾患固有の容貌をありのままに理解する体験は、容貌の自己受容につながることであった。この項では容貌の自己受容後、どのように容貌と関わっていくのか見ていく。H.Nは、27歳の現時点(インタビュー時)では固有の容貌についてまったく考えていないと述べている。

H.N
 だからね、正味、考えてないんですわ、顔については。そやからね、逆に、その、まあ、口唇・口蓋裂としてインタビューをしたいと、言われるとなると、逆に私が口唇・口蓋裂であったことを思い出すわけですわ。だ、それで、ま、いうたら、そんな必要ないん違うのっていう憤りがある、わけですわ。

H.N
 顔については、今となってはまったく考えていないですよ。たとえば営業いったときに口唇・口蓋裂だからどうとかね、人に対してどう見られてるとかね、そういった部分は今はもう全く、、、全くないですね。そういうハンディっていうのを感じる部分は、、、

 ここで今まで幼い頃からのH.Nの疾患固有の容貌に対する態度をもう一度整理してみる。幼稚園に入園する頃から他者に容貌のことを指摘されるようになり、中学までは手術によって容貌が劇的に改善すると期待する。しかし、手術の結果は本人の期待とは程遠いものであり、自分の疾患固有の容貌や、そういう容貌を持って生まれてきてしまった自分に失望する。と同時に疾患固有の容貌を持って生きていくように運命付けられた自分に目をむけるようになる。そして自分を見据える方向性は予備校のときに出会った目立たない障害をもつ友人との出会いで決定的になる。「気にするから障害になるんだ」と。彼の容貌についての積極的努力が始まる。最後の手術が中学卒業のときであるから、手術の後を容貌認知の転換点とすれば、それ以来12年が経過している。12年間、おおよそ自分の容貌をありのままに見据える努力を続けて、容貌のことを「まったく考え」ないところに辿り着いたことになる。
 さて、彼が疾患固有の容貌をまったく顧慮しないというのはどういうことなのだろうか。否認とはどう違うのだろうか。筆者はH.Nが正確には容貌のことを「考えていない」のではなく、本人が気にせざるを得ない機会が少なくなったといった方が適切であるように考える。27年間の生活の中で、口唇・口蓋裂を持つ人として考えられうる体験をおおよそしてしまった、そして経験した出来事への対処は可能である。だから、改めて容貌について考える必要はない。つまり、自分の固有な容貌についての苦悩が間遠になったと考えるわけである。そうしてはじめて口唇・口蓋裂を持つ人は「普通」に生活できるわけだ。興味深いことにこの男性の妻の話を聞いてみると、彼が決して容貌のことを全く考えていないわけではないことが明らかにされる。
H.Nの妻(26歳 主婦)
 向こう(H.Nのこと)は冗談ぽく、なんて言うのかな、テレビとか見て言うじゃないですか、「ほんまやったらこんなに男前やったのに。」、とか(H.Nが)言うんですよ。「今でも男前や、なにいっとん!」とか(H.Nに対して妻が)言うんですよ。「普通の感じやったらこんなんやろなあ。」とか(H.Nが)言うから、やっぱ、ぽろっといったりするんですよ、本人はそんな積もりないのかもしれないけど、私が、だから、もう「どこが違うん?普通やんか?なにいっとん!」とか言って、それで話終わるんですけど。
 このような夫婦間の会話表現は、本人(H.N)の(固有容貌についての)不安の解消手段である様だ。ここでこのやり取り(妻が夫の容貌を「普通」だという対話形式)が、夫自身の容貌に関する不安を和らげるものになっている。H.N自身がまったく容貌について不安がないわけではないのである。
 ここから、ありのままの容貌を容認した本人が、それでも容貌についてのいくらかの不安を抱えながら生きていく姿が見えてくる。ただし、不安に対する接し方は歳を経るにしたがって熟練してくるし、配偶者等の家族や、友人などに支えられることで自信も出てくる。
 疾患固有の容貌を持つ人が活き活きとその人生を生きるためにまず必要なことは、ありのままに容貌を容認することであった。また、容認した自分の容貌に自分の生の感情をぶつけることであった。こうして曲がりなりにも自分のかけがえのない容貌を持った本人には、次第にかつての苦悩が間遠になっていく。しかし、間遠ななかにも容貌の問題が消え失せてしまったわけではない。容貌の問題は常に自分の顔に存在している。つねにそばに在る。そして本人が油断しているところにふっと「顔を」出す。
 青年期以降、よりよく生きるために疾患固有の容貌を持つ人がどのように自分の容貌と関わっていくかということは、今後の課題として留保しておきたい。
 

W 総括

・従来、容貌の疾患による差異が一般的に用語として定着していなかったので、これまでの用語を検討した上で新しい用語――疾患固有の容貌――を提唱した。その上で、疾患固有の容貌を持つ人を対象を口唇・口蓋裂に限定して考察してきた。

・考察の結果、口唇・口蓋裂を持つ人本人の、疾患固有の容貌の受容過程をひとつの仮説として提唱した。

・まず出生からはじめての社会参加である幼稚園・小学校入学までの疾患固有の容貌の無自覚の時期がある。

・次に、疾患固有の容貌の自覚が起こる。これは自分から自発的に自覚するのではなく、他者からの一方的断定的指摘によって自覚がなされるという点が特色であった。

・そして疾患固有の容貌を自覚すると同時に疾患固有の容貌を持つことの苦悩が始まる。これは幼年期から青年期まで広く見られた。

・苦悩は否認と失望・怒りとに大きく分けられた。

・否認は苦悩が潜在化する場合と、「疾患固有の容貌=個性」として疾患固有の容貌を持つ自分の苦悩を素直に表現できない場合の二通りが見られた。

・失望・怒りは特徴として、疾患固有の容貌が将来手術によって完全に治癒する可能性を期待する、疾患固有の容貌を持つ自分の将来を悲観する、自分の存在の不条理性を訴えるなどが見られた。この時期は自己と疾患固有の容貌を有機的に結び付けるための葛藤の時期と考えられた。

・更にこの苦悩体験を経て、本人は疾患固有の容貌を持つ自分を容認するようになる。ここでの特徴は、疾患固有の容貌で生きていくほかないというあきらめ、ありのままの自己を見据える客観的視線、などを獲得して疾患固有の容貌を自己受容するということである。この容貌の自己受容によって、自分の疾患固有の容貌=交換不可能なかけがえのない容貌であることを理解し、疾患固有の容貌を持つ人として、できる限りのことをしようとするようになる。こうして獲得された姿勢こそが疾患固有の容貌を持ってよく生きることにつながるのではないかと結論した。

・以上の点を踏まえて、この容貌の自己受容過程の各段階ごとの本人への援助の在り方を提言した。

・特に疾患固有の容貌の持ち主は「人の価値は中身で決まる」という価値観と「美しければ美しい程よい」という価値観の間でジレンマに陥りがちであるから、いたずらに疾患固有の容貌の治癒を期待させてしまうような助言や、苦悩を潜在化させてしまうような正論を助言として与えることの危うさを指摘した。

・そしてここから疾患固有の容貌を持つ人がよく生きるためにということを念頭において、ありのままの容貌を持つ自分を認められるような助言や援助をする必要性について言及した。

・最後に容貌の自己受容後、どのように疾患固有の容貌を持つ人が生きていくのか、中井(1998)がPTSDの回復について説明した言葉、「間遠になる」を使って考察した。

・今後の課題として縦断的調査による容貌の受容過程の研究や各段階ごとの援助のあり方の研究が必要であろう。また、疾患固有の容貌になった時期によって受容過程も異なると思われる。更に様々な疾患ごとの研究も必要になると思われる。

 

(1) 実際、容貌の疾患の程度と心理的な問題の程度との間には直接の関係はないと報告されている。(Baker,1992;Macgregor,1990;Love et al.,1987;Malt&Ugland,1989)

(2) 筆者の知る限り、日本では三浦(1995)が思春期の口唇裂口蓋裂患者に治療の指針を得る目的でアンケート調査を行なったものだけである。

(3) 容貌の違いのほかに、口唇・口蓋裂の場合、機能的な障害もある。身体障害者福祉法により、口唇口蓋裂者は音声・言語・咀嚼機能障害に当てはまり、4級の身体障害者ということになっている。つまり、具体的には、風船を膨らますことが出来なかったり、ハーモニカやリコーダーが吹けなかったりする。また、言葉が聞き取りにくいこともよくある。

(4) 例えば、中田(1997)は、「容貌の異形」と言う書き方をしている。

(5) Partridge,J.(1997)はvisible differenceを1)文化的に規定された基準に照らしてはっきりと特異なために周囲の人から凝視されるという意味と、2)自身の容貌がとりわけ客観的には問題がなくとも、個人的に特異に「感じられる」という意味とに分けている。2)の文脈では醜形恐怖もその範疇に入る。この言葉は、容貌の問題が決して本人次第ではないということを指摘している。逆にいえば、この「本人次第」という視点が、この問題が今まで大きく取り上げられなかった原因の一つだろう。

(6)疾患固有の容貌であることで、どのような問題がおこるのであろうか。現在までに、やけどや口唇・口蓋裂、血管腫など、顔の疾患をめぐってその心理的影響を研究した文献のなかで、ここでは、現在までに指摘されてきた心理的問題を口唇・口蓋裂を中心に取り上げる。
 まず、口唇・口蓋裂者は、対人間のやり取りが苦手である(Kapp,1979)。Noar(1991)は質問紙による調査で、口唇・口蓋裂者が異性との関係構築に困難を感じるとした。Lansdown(1981)によれば、口唇・口蓋裂児の青年期には家族以外の人から凝視されたり、誤解を受けたりという経験がある。さらに、他者との初対面が不得手であるということがいわれている(Kapp,1979)。
 Leonard(1991)によれば調査対象となった105人の口唇・口蓋裂児童の98%が、平均もしくは平均以上の自己イメージを持っていたが、青年女子(12~18歳)は少年女子(8~11歳)よりも自己イメージの評価が低く、青年男子は少年男子より肯定的な自己イメージを経験しているという。Broder&Strauss(1989)は7歳の口唇・口蓋裂児58名に自己概念の調査をした。すると統制群に比べて低い自己イメージ評価が得られた。固有の容貌のために彼らの自己概念(self-concept)は否定的である。Kapp(1979)も11~13歳の口唇・口蓋裂児34名に自己イメージ検査を行ない、口唇・口蓋裂の子どもは性別に関わらず、容姿に大きな失望をあらわすという結果を得た。また、口唇・口蓋裂の女子の方が不満や学校での不成功感、不安を報告した。Haper&Richman(1978)は、MMPIを用いて、口唇・口蓋裂と肢体不自由の子どもを調べ、口唇・口蓋裂児が行動上の深い抑制と対人関係における強い自意識と自己不信の感情をもつとした。Richman(1983)は口唇・口蓋裂群が社会的に適応しているが、固有の容貌との関連で社会的適応に問題があると認識しているとしている。また、青年期には社会的内向が言葉の心配よりも顔の心配と関係しておこるとしている。

(7) 受容過程の調査は縦断調査によって行なうのが通例である。

(8) 障害の受容モデルとして代表的なものとしてCohn(1961),Fink(1967),Droter et al.(1975)等がある。

(9)関西地区口唇口蓋裂児と共に歩む会では、子どもに口唇・口蓋裂である事実を告げる適切な時期を、学童期としている。

(10) なお、この議論は手術などによって治癒不可能な容貌にたいしての一方的指摘が、他者の倫理の未熟さにあり、他者の指摘自体が真っ先に非難されなくてはならないということは前提においてのものである。

 
文献

 
Baker,C.(1992)Factors associated with rehabillitation in head and neck cancer Cancer Nursing,15 pp.395-400
Broder,H.&Strauss,R.(1989)Self-concept of early primary school age children with visible
 or invisible defects. Cleft Palate Journal,vol26,no2 pp.114-117
Harper,D.C.&Richman,L.(1978)Personality profiles of physically impaired adolescents 
 Journal of clinical psychology 34,1978.pp.636-642
Kapp,K(1979)Self concept of the child with cleft lip and/or palate. Cleft Palate Journal,16 pp.171-176
Leonard,B.&Brust,J.&Abrahams,G.&Sielaff,B.(1991)Self concept of children and
 adolescents with cleft lip and/or palate. Cleft Palate Journal,vol28,no4 pp.347-353
Lansdown,R.(1981)Cleft lip and palate:A prediction of psychological disfigurement?
 British Journal of Orthodontics,8,pp.83-88
Love,B.et al.(1987)Adult Psychosocial Adjustment Following Childhood Injury:The Effect
 of Disfigurement Journal of burncare&rehabillitation,8,pp.280-285
Macgregor,F.(1990)Facial Disfigurement:Problems and Management of Social Interaction
 and Implications for Mental Health Aesthetic Plastic Surgery,14,pp.249-257
Malt,U.&Ugland,O.(1989)A long-term psychosocial follow-up study of burned adults.
 Acta Psychiatrica Scandinavia Supplementum,355,pp.94-102
Noar,J.(1991)Questionaire Survey of Attitudes and Concerns of Patients with Cleft Lip
 and Palate and Their Parents Cleft Palate-Craniofacial Journal,vol28,no3.pp.279-284
Partridge,J.(1997) Introduction to Section One, in Lansdown, R. & Rumsey, N. & Bradbury,
 E. & Carr, T. & Partridge, J. Visibly Different:Coping with disfigurement p.4 Butterworth Heinemann
Peter,J.et.al.(1975)Sociological aspects of cleft palate adults:W
 Social integration. Cleft Palate Journal 12,pp.304-310
Richman,L.(1983)Self-reported social,speech,and facial concerns and personality
 adjustment of adolescents with cleft lip and palate. Cleft Palate Journal,vol20,no2 pp.108-112
Richman,L.&Holmes,C.&Eliason,M.(1985)Adolescents with cleft lip and palate:Self-perceptions of
 appearance and behavior related to personality adjustment.Cleft Palate Journal,vol22,no2 pp.93-96
AboutFace編、中田智恵海訳(1997)『We all have different faces.―私たちは皆、違った 顔をしています―』
  セルフヘルプ研究所
Bull,R.&Rumsey,N.仁平義明監訳(1995)『人間にとって顔とは何か―心理学から見た容貌の影響』講談社ブルーバックス
 (The Social Psychology of Facial Appearance,1988,Springer-Verlag)
関西地区口唇口蓋裂児を守る親の会(1982)『会報No.14号』p.3
関西地区口唇口蓋裂児を守る親の会(1986)『十周年記念文集 大空』pp.8-9,pp.29-30,p.32
関西地区口唇口蓋裂児を守る親の会(1991)『会報No.37号』p.3
関西地区口唇口蓋裂児を守る親の会(1991)『会報No.39号』p.3
関西地区口唇口蓋裂児を守る親の会(1991)『十五周年記念文集』p.41,pp.42-43
関西地区口唇口蓋裂児を守る親の会(1994)『会報No.46号』p.7
関西地区口唇口蓋裂児を守る親の会(1994)『会報No.47号』p.11
関西地区口唇口蓋裂児を守る親の会(1995)『会報No.49号』p.5
関西地区口唇口蓋裂児を守る親の会(1995)『会報No.52号』p.8
関西地区口唇口蓋裂児と共に歩む会(1996)『会報No.56号』p.6,p.7,p.11
関西地区口唇口蓋裂児と共に歩む会(1997)『平成2年〜4年の活動記録』p.75
中井久夫(1998)『最終講義』p.28 みすず書房
中田智恵海(1998a)「各国のセルフヘルプグループ ドイツ・イギリス事情」『ノーマライゼー ション』1998年5月号p.54
中田智恵海(1998b)「医療者に伝えたい――口唇口蓋裂の子どもを持つ親から――」『いのちジャーナル』8月号 さいろ社 p.68
フィードラー、L.(1978)伊藤俊治訳『フリークス』青土社p.8
藤原百合編(1998)『口唇口蓋裂の治療――家族のためのハンドブック――』関西地区口唇口蓋裂児と共に歩む会
三浦真弓(1995)「アンケートによる思春期口唇裂口蓋裂患者の心理」 日本口蓋裂学会雑誌20,pp.159-171
 

資料

 以下の質問項目は今回の調査で使用したものである。「異形」という用語が使われているのは、調査の時点では、適切な用語が見当たらなかったためである。なお、調査時には、「異形」の意味するところを本論で述べたような疾患固有の容貌の定義のように補った。
 
 

ご本人に伺いたいこと

1 病名、障害をもった時期、年齢

2 自分の顔についてどう思われますか?

3 他人から顔についてどう言われてきましたか?

4 (3)で、他人から言われたことをどう感じましたか?

5 あなたにとって一般に「障害」とはどういうものですか?

6 異形であることは障害であると思ますか?

7 (6)でこたえられたことをどうしてそう思ますか?

8 周囲の視線を感じますか?

9 感じるとすれば、それはどうしてですか、また、どう思いますか?

10どんなときに自分らしく生きていると思いますか

11身近に顔にハンディをもつものがいますか?

12 このインタビューを受ける感想をお聞かせ下さい。

 

お母さんにうかがいたいこと

1 何歳の時の子どもさんでしょうか?

2 子どもの容貌の異形についてどう思われますか?

3 他人から子どもの異形についてどう接してこられましたか?

4 大人数の前で子どもと一緒にいる時、不安を感じたり、視線を感じたりしますか?

5 子どもが容貌について悩んでいる、あるいは気を遣っていると感じたことがありますか?

6異形であることをどう思うか?子どもの容貌のことで子ども自身と話したことはありますか?あるとすれば、それはどんな内容でしたか?

7容貌のことで親戚、知己、見知らぬ人からなにかいわれたことはありませんか、いわれたとすればどういう内容でしたか?

8 容貌のせいで学業成績、友人関係、異性関係等で影響を受けたと思われますか?

9 子どもは容貌のせいでいじめられたことがありますか?

10 子どもとの間で異形のことをなんといいますか?

11 子どもの容貌のことで相談相手は主にどなたでしたか?
 
 
 



謝辞
  まず、私の論文のため貴重な時間を割いて下さり、たくさんの貴重な御教示を賜わりました大阪教育大の藤田裕司先生に厚く御礼申し上げます。また、本論を書くにあたって、インタビューの機会と会報の記事を提供して頂いた関西地区口唇口蓋裂児と共に歩む会に深謝いたします。唐突で、気分を害するかもしれないような不躾な質問をぶつけても、真摯にインタビューに応じて下さった方々がいなければ、本論は完成することがなかったと思われます。また、現代文明学研究に掲載することを勧めて頂いた森岡正博先生にお礼申し上げます。


 

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