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現代文明学研究:第1号(1998):36-59
「新しい」メディア空間は公共空間か?
佐藤文香



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1:はじめに

 1995年が「インターネット元年」と呼ばれるようになってから3年が経過した。96年6月時点での国内のインターネット利用者数は、541万人に急増(前年度の3倍以上)したという[日本経済新聞 96/10/20]。国内にあるパソコン台数は96年で1,900万台なので、今のところ4人に1人はインターネットを利用しているという計算になる(1)[朝日新聞97/6/17]。
 しかし、利用者の年齢やジェンダーを考えると甚だしい不均衡がある。PCISレポートによると、年齢は30代を筆頭に20代、40代の3者で80%を占めており、性別では男性が97.2%と圧倒的に多く女性は約2%(2)にすぎない[林,1991:147, 松村,1995:225, パソコンネットワーク研究会編,1989:124]。

 ブームの当初にみられた「インターネットが世界を変える」的な楽観論はさすがに下火となりつつあり、C・ストールの『インターネットは空っぽの洞窟』流の「時間の浪費」論者も増え、電子上での人権侵害などのトラブルも顕在化しつつある。
 はじめに、インターネットで行われるコミュニケーションがどのように「新しい」と言われているのかを見てみよう。

2:「新しい」コミュニケーション

 江下は、パソコン通信のコミュニケーションを分析し、機能としてはマス・コミュニケーションに近いが、交流の感覚としてはパーソナル・コミュニケーションに近い、というようにマス・パーソナルコミュニケーションの交錯(3)の中に位置づけている[江下,1994:131]。
 公文は、さらにこの交錯より一歩先にふみこんで「新しい」コミュニケーションを次のように予測する。20世紀のコミュニケーションは「個人中心の手段志向型」であるマスコミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションに担われていた。しかし、21世紀には「コミュニティ中心の目標指向型」としてのコミュニケーション=「コミュニティ・コミュニケーション」(4)が主たるものとなるであろう[公文,1996:33-35]。
 川浦もまた、従来はパーソナルコミュニケーションとその対極に位置するマスコミュニケーションが互いに独立した世界をもっており、パーソナルの延長上にマスをおくことは出来なかった、と言う[川崎他,1994:66]。それが、コンピュータを窓口とするコミュニケーション=「コンピュータコミュニケーション」[前掲書:40]の登場によりコミュニケーションの位相は次のように変化した―顔が見えている、相手が特定できるという「パーソナルコミュニケーション」の延長上に、「グループコミュニケーション」があり、さらに領域の広い「パブリックコミュニケーション」、「マスコミュニケーション」がある。さらに、これらの境界は、コンピュータコミュニケーションのおかげで流動的で、自由に行き来できるようになっていると言う[前掲書:66]。

 マスとパーソナルの交錯の中に位置するコミュニケーション、「コミュニティ中心の目標指向型」としてのコミュニケーション=「コミュニティ・コミュニケーション」、コミュニケーションの境界を曖昧にする「コンピュータコミュニケーション」(5)、と微妙なニュアンスの違いはあるがともかくインターネットでのコミュニケーションは従来型のコミュニケーションの枠組みから外れた「新しい」ものであると論じられている。ではこの「新しさ」から何がもたらされているのか?

3:「新しい」コミュニケーションがもたらしているもの

 この点に踏み込んで論じているのが森岡である。まず、彼は、データや用件や知識などの情報をAからBへと(あるいは双方向に)正確に受け渡すことを目的とするようなメディアの使い方のことを「情報通信」と呼び、メディアの中で誰かと会話することそれ自体を目的とするようなメディアの使い方のことを「意識通信」と分けて考える[森岡,1993:9]。「新しい」コミュニケーションはこの「意識通信」の側面を強くもつものである[森岡,1996:197]。
 そして、彼によれば、五感の一部を排除して伝えるメディア「制限メディア」で「意識通信」が開花するとき、そこには独特のコミュニケーションと人間関係が作り上げられる。それを作り上げるものこそ、「制限メディア」(6)の特徴である匿名性、断片人格、自己演出である[森岡,1993:10-11]。
 まず、伝えられる情報が制限されることで、社会的属性が証されない、という匿名性により人々の間には安心感が生ずる。
 制限メディアで切り出された情報から、メッセージの受け手は相手のイメージをつくりあげるが、この「断片人格」の形成は受け手の想像力によるものとなる。
 そして送り手はこの断片人格を自分のおもうがままに自己演出することができ、その結果、日頃のコミュニケーション生活に抑圧を覚えていた人々や劣等意識を抱えていた人々には大きな開放感が得られる[江下,1994:124,森岡,1993:10-28,森岡, 1996:203-206]。

4:「新しい」コミュニケーションの功と罪

 これら3つの特性から導き出される「新しい」コミュニケーションの功罪について考えてみよう。
 森岡は、匿名の断片人格同士の自己演出により「一体感」や「連帯感」が醸成されると述べる[森岡,1993:29]。また、池田も「新しい」コミュニケーションでは地位や立場にとらわれない「幻想の共同体」を作りだしており、相手のデモグラフィー(7)にとらわれず自由に発言できることこそが、その神髄だと述べている[川上他,1993:93]。
 一方、匿名性の保証される空間とは、「無責任」が蔓延する空間でもある。森岡は電子の架空世界とは、仮面を付けた人間の「暴力性」や「犯罪性」が活性化される空間でもあると述べている[森岡,1993:30]。同様に、池田も「デモグラフィが見えないことはパソコン通信の一つの欠点であり、いらぬ喧嘩を招く危険性がある」と語る[江下,1994:139]。  このように、論者たちは例外なく「新しい」コミュニケーションの特性がもたらす「功罪」どちらをも認識している。匿名性・断片人格・自己演出により、功罪を伴った「新しい」コミュニケーションが行われている場、果たしてこれを公共空間と名付けることはできるだろうか?

5:「新しい」メディア空間は公共空間か?(8)

 インターネットは新たなコミュニティの可能性をもっていると言われている。ネットを通じたコミュニケーションの場を指して「バーチャルコミュニティ」という呼び方もある[遠藤, 1998, p.53]。金子らが、人脈ネットワークがつくりあげる、電子ネットワーク上のバーチャル・コミュニティが想定した情報時空を<自発する公共圏>(volunDary commons)(9)と名づけた[金子他,1998:138-139]ように、この「新しい」メディア空間に公共空間としての期待をよせる論者は多い。
 成田は「仮想的自己」により形成される討議空間は、「公共圏」(10)=公共的言説空間の要件を満たしているのかという問いを立て[成田,1997:217]、それは「仮想的な公共空間」、「無責任な公共空間」であると結論づけている[前掲書:238-239]。
 ここで成田に沿って「新しい」メディア空間は公共空間か、という問いについて考えてみたい。
 成田は、公共空間たる要件について何を設定しているのか。

ここから読みとれる公共空間の要件とは、

  1. 単に情報を交換するだけではない討議の場であること。
  2. その討議の場は参加可能な討議空間であること。
  3. その討議が、問題共有、共通結論を想定し、自己を提示しあう相互的プロセスとして行われること。
  4. その討議の参加者に<討議しうる人間>としての自己理解があること。
という4点にになるだろう。

 第一に、「新しい」メディア空間は社会的なメディアにおける討議の場の再生と考えることが出来る。インターネットやパソコン通信で繰り広げられている多種多様な論議、談義は、量的なすさまじさから言っても、マスコミュニケーションによって失われた、市民の討議空間の再生を期待させる[前掲書:216]。機能的関心を等しくするメンバーが、「新しい」メディア空間を「地図のないコミュニティ」「機能的共同性に基づく社会的単位」にしているのだ[林,1991:53-54]。さらにこのメディアは国家すら超えて(11)、民主主義の発展に寄与する(12)と期待されてもいる[成田,1997:216]。ここからは(1)の条件を満たしうる可能性が示唆される。
 第二に、「新しい」メディアのもつ、誰からでもアクセス可能であるという“公開性”は成員の参加上の平等性を保証している[前掲書:214]。これは原理的に(2)の条件を満たしている。
 第三に「新しい」メディアのもつ、“双方向性”は従来の送り手―受け手関係を変質し、相互受容と相互評価を可能にすることで、参加者は社会的な意識の状態におかれている[前掲書:214]。ここからは(3)の条件を満たしうることが示唆されている。
このように、「新しい」メディア空間とは「想像の共同体」のような仮想的共同空間[前掲書:214]として、討議の場をつくりあげている。そして、成田の議論からは、どうやら問題となるのは(4)の参加者の<討議しうる人間>としての自己理解に伴うものであることがわかる。

 成田は、自己の唯一性の欠如によって「新しい」メディア空間の討議の場では、公共的論議の有効性は損なわれている、と言う[前掲書:224]。
 ネットワーク上の仮想的な自己に、現実の自己から相対的に独立した人格を認めるとすれば、親密性や共同性は仮想性という基盤の上に立たざるをえない。そうした意味での親密性は相互作用の中での信頼関係の形成には向かわず、自己回帰的な満足、一種の「癒やし」の関係しか取り結べない、というのが成田の見解である。
 彼は、<討議しうる人間>(4)と自己理解している個人主体によって交わされる公論が近代デモクラシーの基礎であるとすれば、情報的自己がメディアにより身体的自己から切り離され、仮想性に近づくほど、ネットワーク上の議論の公共圏は民主的な決定システムであることをやめ、単に社会的秩序の再生産を追認するだけのものになっていってしまう可能性があると述べる[前掲書:226-227]。
 このように、結論として、成田は「新しい」メディア空間を「仮想的な公共空間」と名付ける。そこでは、自由な討議の可能性は開かれているが、主体としての<討議しうる人間>が仮想化した、「無責任な公共空間」が広がっているというわけである[前掲書:238-239]。

 「新しい」メディア空間は、果たして「仮想的な公共空間」、「無責任な公共空間」であるだろうか?(13)
 仮想的な自己同士の討議は、信頼関係の形成には向かわず、自己回帰的な満足、「癒やし」の関係しか取り結べていないだろうか?
 本稿ではこの点について一つの事例分析を行ってみたい。

6:事例分析の素材について

 パソコン通信のユーザー調査ではユーザーの利用するサービス次の6つに類型化している。1一般情報利用(ニュースや天気予報など一般情報)、2特定情報利用(電子会議)、3不特定コミュニケーション利用チャット型(チャット)、4不特定コミュニケーション一般型(電子掲示板)、5特定コミュニケーション利用発信型(電子メール)、6特定コミュニケーション利便型(外部データベース、オンラインショッピング)[林,1991:147,川浦他,1989:116-124]。
 本稿では、「新しい」メディア空間が、「公共空間」として機能しているかを調べることが目的であり、なおかつ議題そのものが参加者の自主的選択によって登場していく過程に注目することのできる4の「電子掲示板」でのコミュニケーションを取りあげることにする。
 電子掲示板は企業などの組織が開くのみならず、個人のホームページとして開設されてもいる。インターネット上には、一体、国内でどのくらいの数の掲示板があるのだろうか。調べてみたのだが、下表のように検索システムによってあまりにも開きが大きく、数を確定することは断念せざるを得なかった(14)


           goo    infoseek    ODIN     NDD       NDD      CSJ        あちゃら   Yahoo  Hole  
検索語                              DirecDory   PLAZA   インデックス                   in One

BBS(15)   88,558   57,165    4,668    1,509    1,277    1,232       1,020      949    614

電子掲示板  8,1133  114,293     1,103      240        96       54          50       62    444

(98年5月3日現在)

 全てを網羅することはとてもできないのが、私見により電子掲示板の性格を分類するとおおむね以下の3種類(16)に分けることが出来るだろう。  

  1. 主としてイベントなどの情報公開を目的とした電子掲示板
  2. 主として自由な会話を目的とした電子掲示板
  3. 主として討議を目的とした電子掲示板
 ここでの関心は、仮想的な自己同士の討議が、信頼関係の形成に達成しているのかどうかということにあるので、3に属する掲示板を選ぶことにした。素材にするのは、N氏という学生が個人で開設している電子掲示板である。この掲示板を選択した理由としては次の四点があげられる。
 第一に、筆者が97年8月から98年1月に同掲示板が閉鎖されるまでのおよそ半年の間、自らも投稿者となって討議内容を参与観察してきたきたこと。
 第二に、この掲示板は、必ずしも特定の関心の「共有」を強制するページではない(つまり、この掲示板にたどり着く過程で思想的スクリーニングをかけ、異論者を排除する、というような仕組みはとっていない)ため、比較的討論が起こりやすい仕組みになっていること。
 第三に、主催者自身が掲示板の主旨を、「真の民主主義社会実現」のために「『考え、行動する市民』を生み出す場として位置づけたい」と唱っていることから、「公共空間」という本研究の素材としてとりあげるのに適切であると考えられること。
 第四に、この種の掲示板の中では、議論が活発に行われていること。参与観察の期間中、大きなテーマ系としては「胎児遺伝子診断」(56発言)、「夫婦別姓問題」(163発言)、「戦後責任問題」(816発言)の3つが存在していたが、一日あたりの発言数が8発言教とかなり活発に議論が続けられていた。
 なお、今回中心的な素材として用いるのは「夫婦別姓問題」をめぐる討議の163発言である。

7:定量的分析

 この「夫婦別姓問題」をめぐる討議での発言者数は34人(HN(17)を変えて発言したことが判明している者を除けば29人である)、性差については、判明している女性が2(18)、不明の者7(19)を除いて、残る20人(20)が(本人の言及を信ずれば)男性である。
 「新しい」メディアでの発言の機会は一見平等に与えられているようだが、メンバー間の発言量は不均衡である(21)との指摘がされている[川崎他,1994:59]。ここでのケースだと全発言数は163であるので平均一人当たり5発言弱という計算になる。
 しかし、10発言以上の発言数上位者をあげると、 

 この6名(参加者のおよそ20%)で発言数の60%を占めていることがわかる。
 開始から終了までに要した期間は18日であり、一日平均約9発言であった。また、全文字数はおよそ12万字であり、平均投稿文字数は736字であった。

8:定性的分析

 今回の討議を12のステージに分けて内容分析をした。


ステージ 討議内容                     発言数  発言者数 フレーミング(22)
     1   選択的夫婦別姓論争              11       4
     2   問題提起者の意図                 8       5
     3   文化としての夫婦同姓論争        17       6
     4   諸外国の例をめぐる論争          12       3         ○
     5   フレーミングに関する意見表明     5       3  
     6   ガセネタをめぐる論争            19       7         ○
     7   夫婦別「性」をめぐる論争        19      10
     8   常連メンバーによる中傷           9       5
     9   チャットの告発をめぐる意見表明  13       9         ○
    10   誹謗中傷合戦                    37      10         ○
    11   保守をめぐる論争                12       3
    12   管理者の責任論争                 2       2

(1)多発するフレーミングとその傾向

 成田は「新しい」メディアの中では、自己の複数的で演技的な表出を楽しむ傾向があると同時に、フレーミングと呼ばれる度を超した表現が見られると言う[成田,1997:178]が、今回の素材においても11ステージ中4ステージ(第四、六、九、十ステージ)、発言数にすれば163発言中52発言にフレーミングが見られた。これがもし1時間の会議だとすれば22分間(約3分の1)怒鳴りあっていたという計算になる。一方、討議が信頼関係を形成する方向に比較的うまく進んだステージも4ステージ(第一、五、六、十ステージ)に過ぎない。

 まず、フレーミングが起きた場合には当事者以外がなかなか入り込めないことが観察された。そして、いずれのフレーミングでも必ず誰かが議論の場所を去らなければならないという結果になっている。フレーミングに対する感想は、この当事者の退去の後で他のメンバーからなされることが多い。
 第四ステージのフレーミングを見てみよう。

 ここで一方の当事者Dが退出することとなり、続く第五ステージでは、この論戦について、Aに対する参加者の支持が表明された。

相手を挑発するだけして「無視するだの答えないなどといいながら結局は出てきてしまう」などというのはあまりにも卑劣ではありませんか。[no.49, E]

 ここでは、第四ステージで失われた信頼関係が他のメンバーによって回復されようとしていると考えることができる。ここでのステージに入れていないものも含めて、no.46のDの発言に対する反感が5つも見られ、一つの秩序形成がなされた、別の言い方をすればルールが自生した結果、当事者の一方が二度と出てこられなくなったとも考えられるだろう。

(2)無責任発言とその評価

 第六ステージではCによるガセネタ(新姓は現時点でも認められている)をめぐって二度目のフレーミングが起きている。このフレーミングは長期にわたり第七、第八ステージと並行する形で討議の内容とは無関係に継続した。

 このフレーミングへの感想として、他の参加者からガセネタ提供者Cを擁護する発言があった。(このガセネタ発言が本名で行われていることは注目に値する)。秩序形成はガセネタ擁護の方へ(インターネットに限らず情報は自分で検証すべき、ガセネタであっても発言者に責任はない)と向かい、その結果ここでも当事者の一方(I)はこの場を去らなければならなくなった。  フレーミングの結果、討議の場を去らざるを得なかった者は4名(13%)いる。また、失われた信頼関係の組は、15組(23)にものぼっている。言うまでもなく、討議の中ですべての参加者に関係が生じているわけではない。発言の中で直接呼びかけをしたり、相手の発言を引用することなどによって成立している二者関係は全部で46組であった。とすると、これは約3分の1の関係の破綻を示すことになる。
 このように、電子掲示板上ではフレーミングや無責任発言による信頼関係の破綻や中途退出者が非常に多いことが特徴である。

(3)仲良しこよし症候群

  早川は、パソコン通信に起こってくる「症候群」を以下の2種類に分けている。

  1. ノメリ込み症候群…パソコン通信の経験が比較的浅い者がかかりやすい症候群

  2. ・単純反射コメント症(頭に浮かんだ言葉を何の考えもなく書き連ねてしまう)
    ・身辺雑事報告症(みたこと聞いたことを、愚痴、出来事なんでもみさかいなく書き続ける)
    ・発表衝動依存症(掛け合いの楽しさを知らずに、長文のメッセージを書き込んで、孤立していることに気づかない)
  3. パソコン通信小児病…パソコン通信の経験が比較的長い者がかかりやすい症候群

  4. ・平然罵倒症(ふつうの社会では許されないような悪口雑言を使って平然としている)
    ・仲良しこよし症(明るく楽しいメッセージを交わすことに熱中して、仲間意識を確認することで満足してしまう)
    ・ケチつけ症(独善的に自己を絶対化して、重箱の隅をつつくように注意したり注文を付けてまわる)[成田,1997:179,江下,1994:141,早川,1993]
     
 今回の素材からは、「仲良しこよし症」及び「平然罵倒症」が観察された。まず前者から述べよう。

 第八ステージでは、以前からの常連メンバーLと新規参加者Eとの間に信頼関係が形成されているように見受けられる。

 しかし、この後、この掲示板の裏番組にあったチャットのログがEに送られてきたことで、第八ステージと並行して常連メンバーによるEへの中傷が語られていたことが発覚した。

 チャットでの会話からは、常連メンバーによる、異論を受け付けたがらない自己回帰的な満足、思想的に気のあったもの同士で行われる「癒やし」の関係がはっきり読みとれる。また、管理者であるN氏自身の口から議論の「交通整理」の必要性がほのめかされているように、管理者の介入によって「主催者にとって望ましいような議論」へと方向性を変えうることが示唆されている。その後、このチャットでの会話がAによって暴露され、当事者であるLは責任をとって掲示板からの退出宣言をするのだが、その後も常連メンバーはチャットで再びなぐさめ合いをはじめた。

 ここで、メンバー自らがネット上での「閉じた」関係の効用(現実社会での疎外状況の克服)を語っていることは注目に値する。また、「現実の利害関係」と無縁であること、「現実のコミュニティ」もまた「閉じた」関係であるということが、ほとんど言い訳のように、語られてしまっている。

(4)平然罵倒症候群

 第十ステージでは、「新しい」メディアにおける特性である匿名性をいかんなく発揮した中傷合戦が繰り広げられた。HNをいくつも変える、相手のIPアドレスを暴き出す(24)など、いずれも「新しい」メディアならではの泥仕合が続いてしまった。

 両者とも感情的になっている間は、意味をなさない単発の罵倒投稿を大量にしあってしまう。結局は常連メンバーであった二人の信頼関係は完全に崩れ去って、ここでも当事者の一方であるBは二度と再び(同じHNでは)投稿できないような状態になってしまった。

(5)管理者の責任

 これら一連の討議が進行する中、管理者は一度も調停をしていない。ようやく、この掲示板の主催者が登場したのは、参加者から第九・十ステージ及び裏ステージをめぐる一連の問題点への責任追及がなされてからである。

 結局、ここでは問題提起者は管理者への信頼を修復することもできず、物別れのまま討議は終了した。これを言い換えれば、「管理者」という「自発的に割り振られた役割性」がうまく機能しなかったと言うこともできよう。

9:結論と今後の展望

 さて、「新しい」メディア空間は「仮想的な公共空間」「無責任な公共空間」であるだろうか?
 今回の素材からは、討議参加者たちの関係性は、信頼関係の形成には向かい難く、自己回帰的な満足、「癒やし」の関係を取り結んでしまう、という傾向が観察された。しかし、これらの結果がどの程度「仮想的な自己」という要因に帰因するものであるかということには考察の余地があるだろう。

 ここで、この「新しい」メディアと従来型のメディアのどこがどの程度違うのかを再度おさえておく必要がある。
 栗田はパソコンコミュニケーションの政治メディアとしての可能性を論じている。彼は対話、ビラ、テレビ/ラジオといった従来から政治に用いられてきたメディアとパソコンメディアとを下表のように比較検討した[川浦他,1996:96-111]。


 メディア         対話   ビラ   テレビ/ラジオ   パソコン
1伝達コード         音声    文字      画像/音声       文字
2方向性(開放性)          双方向  一方向      一方向         双方向
3送り手(開放性)         制限無し 制限無し     制限         制限無し
4受け手(能率)           少       多          多             多
5情報量(能率)            少       多          少             多
6広域性(能率)           狭       狭          広             広
7即時性(能率)           速       遅          速             遅
8送信コスト(開放性)     低       低          高             低
9受信アクセス(開放性)   易       易          易             難
開放性(%)            開放的 100 開放的 75 開放的 25   開放的 75
能率(%)              非能率 25  中間的 50 能率的 75   能率的 75 
モード               プレモダン   モダン   レイトモダン  ポストモダン






 栗田は「新しい」メディアは、従来のメディアと比較しても、政治メディアとしてはすぐれて能率的かつ開放的であると言う。そして、彼の批判は主として送信コストや受信アクセスの利便に向けられる(28)。“原理的には”この見解は正しいものであろう。したがって、開放性や能率の面から、「新しい」メディア空間が公共空間としての大きな可能性を秘めたものであると結論づけることに関しては、筆者も賛成である。とするならばやはり、このメディアを政治メディアとして使いこなせていないということの問題の根幹はこのメディア空間に存在する行為者の側にあると考えられるだろうか。

 行為者の「仮想性」(29)という問題に進む前に、ここで注目してみたいのは「1伝達コード」と「2方向性」そして「7即時性」という項目である。これらは、「仮想的自己」に関する問題群というよりは、メディア特性やコミュニケーション形態そのものにまつわる問題群である。

 栗田の表にも挙げたように、「新しい」メディア空間で行われる伝達コードは基本的には文字であり、微妙な感情の襞や無意識の仕草などは表現不可能である(30)[遠藤, 1998: 55]。例えば討議の最中に「もういいですよ」という文字が発せられたとき、その読み手には、「それでもういいですよ」という了解と、「もう議論はいいですよ」という拒否という相反する二つの解釈が可能となる。こうした文字コミュニケーションという特性がフレーミングの多発につながっている可能性もある(31)
 川浦らは、文字メディアとしてのコンピュータコミュニケーションに対するユーザの評価を調査しており興味深い結果を示している。ユーザの半数近くが「自分の気持ちや考えがまとまるのでよい」と、文字による自己表現のメリットを意外に多く認識している[川上他, 1993 :88-89]一方で、「直接会って話すよりも自分の気持ちや考えを上手く表現できる」という回答は2割を下回っていたのである。
 文字で書かれた文章は、規格化されているだけに、読み手の注意は文章そのものに向かうことになる。そして、できあがった文章は一定の「推敲」を経た、統制された産物であると見なされ、受け手にとって、メッセージのインパクトはきつくなる[前掲書 :43]。対面コミュニケーションと「新しい」メディアにおける文字コミュニケーションとの心理的相違点は、後者が聴覚や視角などの非言語情報を欠き、コミュニケーションチャネルが大幅に狭まっている点であるとヒルツらは指摘する[川崎他, 1994:53]。これらはなにも行為者の仮想性に関する類のデモグラフィーに関する情報だけではなく、外見に関する情報や表情情報、しぐさや身振りと言ったボディランゲージ、視線交錯による意志確認情報、感情情報といった、コミュニケーションにとって重要な要素(32)である情報の欠損にもつながっている(33)
 同様に、この非対面的コミュニケーションという特性によって、討議者は物理的/生物的身体を相手にさらすことがない[遠藤,1998:55]。そのため、対面的コミュニケーションではありえない失礼な罵倒も平気で行うことができてしまう。このことは従来、行為者の「仮想性」のみと関連づけられてきたが、参与観察の際には、本名をHNに用いた者の無責任発言も罵倒も見られた。このことを考えると、行為者の「仮想性」だけでなく、「文字コミュニケーションが討議に向くのか」という根本的な疑問がわいてくるはずである。したがって、ここからは「新しい」メディアそれ自体が「制限メディア」であることそのものにも、その空間を公共空間として成立させ難い要素があることが考えられる。  これに関して、筆者はマルチメディアという技術的支援によってこれらの問題群はある程度解決可能なのではないか、と考えている。感情判断の場面などで、声と表情の両方が与えられたからといって、正確さが上昇するとは限らないという見解もあるが[川崎他, 1994:55]、徃住は、マルチメディア化によって人間の心のメカニズムが変化していくとしてその意義を語っている。彼によれば、文字メディアから映像・音のメディアへとメディアが拡張していくことで、行為者の心的メカニズムが「形式的な推論や論理的メカニズム」から「感情や評価といった感性的メカニズム」へと拡張していく可能性がある[前掲書:26]。

 次に、「新しい」メディアの方向性について考えてみよう。栗田がパソコンメディアの方向性を「双方向」としたように、コミュニケーション・メディアとして「新しい」メディアでは、原理的・技術的に双方向性が実現されている。しかし、文化的・心理的に、あるいは実践的な意味で「真の」双方向性が実現されていないという可能性もあるはずである[川上他,1993: 94]。基本的に、討議の参加者には、会話のモードの選択(対人的配慮の選択、非言語的情報の「盛り込み」の選択)と自己関与の選択が任されている[前掲書: 95]が、この対人的配慮ができていない参加者の場合、発言内容は自らの主張を一方的に投稿するものに終わっている。先の川浦らの調査結果では、「相手の表情や反応を創造しながら書いている」という人が3割近くいたが、これがユーザの利用頻度と相関を示している[前掲書:89-91]という点は注目に値するだろう。

 さらに即時性の問題がある。この即時性を相手の発言に対してアクションを起こすという行為に限定するならば、これは対面的コミュニケーションに比べて確かに遅い。会議などの対面的な討議では、発言の最中に異論があってもそれをすぐに表明する(発言はしなくても不快感を示す)ことが可能であるが、電子掲示板では、反応は相手のスレッドを読んだ後にしか行えない。この「即時性」の遅さによって、感情を沈める間が生じるというメリット同時に、口を挟めないことに対するフラストレーションというデメリットも生じるはずである。

 さて、これらのメディア特性をわりびいてもなお残るのが行為者の「仮想的な自己」にまつわる問題群である。「新しい」メディア空間ではその帰属の性質は「アドホック」であり、共同体に全人格的にコミットすることはない。その分、責任感も曖昧化する[遠藤, 1998 :54]。無責任な発言をしても現実世界での利害関係とは無縁なところで、その関係性を持続する必要もなければ、参加者は自ずと「無責任な主体」になってしまう。そのような無責任な参加者が「共通結論」の想定などせずに、自らの主義主張をただがなり立てているだけだとしたら、その討議がうまくいかないのは当然のことである。  そして、観察の結果しばしば見られたのが「仮想的な他者」に対する不信感である。相手が男か女か、何を職業としているものか、何人か、すらわからないような状況でコミュニケーションをすることに、参加者はしばしば不安を抱き、疑心暗鬼になりがちであった。そのような「仮想性」という基盤のもとに成り立つ信頼関係や親密性はたしかに脆弱なものである。
 しかしながら、その中でも彼らが「現実世界での疎外感」を忘れるくらいの仲間意識を醸成しているという現象も見られた(34)。したがって、これらの現象が「過渡期的」なものである可能性もあるだろう。ハーバーマスが『公共性の構造転換』で述べたように、近代社会がマスメディアの発達に伴って、公権力に対する「批判的公共圏」を失ってから久しい[ハーバーマス, 1994]。ひるがえって、「新しい」メディア空間で政治的な討議が行われるようになり始めてからまだほんの数年なのである。こうした討議が日常的な出来事として定着し、行為者が仮想的自己同士の討議になれていくことで、事態が変わっていく可能性も十分にあるはずである(35)

 最後に、池田の議論にならって、「新しい」メディアを「公共空間」として成立させうる可能性を考えてみよう。彼はコンピュータ・コミュニケーションの「コミュニケーション文化」発展の3つの可能性として以下のように言う。
 第一の可能性はコンピュータという電子メディア自体の中に語り手の特長を本来のままの形で確保する道である。これは、ビジュアルな条件の確保によって、対面コミュニケーション[川上他,1993:188]になるべく近づけていくという方向性である。この可能性を「公共空間」の成立という本稿のテーマに即して語るなら、筆者の考えるマルチメディア化による対面コミュニケーションへの接近という解として考えられる。ただし、ここではデモグラフィを明かすことなく討議が可能であるという「新しい」メディアのメリットを半分以上損なうことにもなるであろう。
 第二の可能性はコミュニケーション行動自体を変えることである。視覚的・聴覚的であった語り手の特長や語り口にかかわる情報を「メディア変換」して(例えば「表情文字」の使用)電子メディアにのせうる情報に変える[前掲書:189]というもっとも現実的な道である。この効果は、「公共空間」というテーマでは「無用な」フレーミングを抑制するという程度のものにとどまるであろう。(現に事例研究では、参加者の多くが「表情文字」を多用していたし、本名を用いてもなお、無責任発言をする参加者もいたのだから)。
 第三の道は、非言語情報や相手の社会的役割・地位に関する手がかりをすべて捨て去ったところでコミュニケーションを成り立たせようとする道である[前掲書:191]。これは、もっとも困難な道ではあるが、「新しい」メディアの「新しさ」を損なわない解はこれ以外にはないと筆者も考える。この道を目指すならば、必要とされるのは参加者の倫理である。それは、単純に、オーディエンスを常に意識し、自分の「顔」をつくりあげる努力をし、自己陶酔的なオナニスムを戒めることである[江下,1994:144-156]だろう。第一の道をとらないのであれば、結局のところ、「新しい」メディア空間を公共空間とできるかどうか、という問題は、行為者の間にこのような倫理をどうやってつくりあげていくことができるのか、ということにかかっているように思われる。

 本稿の結論を再度くり返そう。「新しい」メディア空間は「原理的には」公共空間足り得るものである。しかし、「制限メディア」というメディア特性は、一部その成立を阻む要因となっており、その内情はいまだ発展途上の段階にとどまっている。今後は、さらにケース・スタディを続け、メディア特性及び行為者の「仮想性」にまつわる問題への解決法を探ってゆく必要があるだろう。

 【参考文献】

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・川崎賢一他,1994,『メディアコミュニケーション』,富士通ブックス.
・公文俊平編著,1996,『ネティズンの時代』,NDD出版.
・高木晴夫他,1995,『マルチメディア時代の人間と社会』,日科技連.
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・成田康昭,1997,『メディア空間文化論』,有信堂高文社.
・パソコンネットワーク研究会編,1989,『パソコンネットワーク新時代』,日本経済新聞社.
・花田達郎,1996,『公共圏という名の社会空間』,木鐸社.
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・森岡正博,1993,『意識通信』,筑摩書房.
・森岡正博,1996,「意識通信の社会学」,井上俊他編,『岩波講座現代社会学22メディアと情報化の社会学』,岩波書店.
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・吉見俊哉,1994,『メディア時代の文化社会学』,新曜社.

(1) ハイテク産業のジャパネットによる調査では、一人当たりの平均利用時間は一日十数分[朝日新聞97/6/17]だそうであるが、これにはかなりのばらつきがあると考えられる。

(2) 他の調査では6%という数字も出ている[松村,1995:225, 電気通信政策総合研究所,1989:4]。

(3) 守弘もまた、ニューメディアをマスとパーソナルの間にある中間的コミュニケーションと位置づけている[林,1991:53]。

(4) 公文によれば、この「コミュニティ・コミュニケーション」とは、一対多のコミュニケーションの新形態である「パブリック・コミュニケーション」と、同じ目標や志を共有する人々の協働行動を支援する「グループコミュニケーション」からなるコミュニケーションのことである[公文,1996:33-35]。

(5) 以下、用語の統一を図るためこれらのコミュニケーションを「新しい」コミュニケーション、と呼ぶ。

(6) 森岡は「制限メディア」の例として、パソコン通信の他に電話をあげている[森岡,1996:208]。

(7) デモグラフィー(demography)とは本来人口統計学のことであるが、ここでは、年齢、性、職業、社会的地位、居住地、収入などの社会的属性の意味で使われている。

(8) 江下は、「『新しい』メディア空間で行われている交流の世界は『社会』か」、という似たような問いを立てており、そこは社会と呼べる明確な構造を持っておらず、むしろ「たまり場」と呼ぶ方が適切であるという興味深い指摘を行っている[江下,1994:159]。しかし、彼の「たまり場」と「社会」の定義は不明確である。「たまり場」は要約すると、1交流が個人の資格のもとで交わされ、2相互依存関係が自発的に形成される、3ひとの集まる場、ということらしい[前掲書:170- 171]。そして、彼はこのたまり場が「社会」となるための条件は「個人の尊重」と「参加資格の提示」にあるとする[前掲書:176-177]のだが、「社会」の定義も記述されていないため、ここでは彼の問いを用いることは断念した。

(9) 金子らは、1自発的参加、2情報供出、3関係変化、4編集共有、5意味創初という5段階を経て、<自発する公共圏>が発生すると主張する。[金子他,1998:136-137]。彼らの分析では<自発的公共圏>は、コモンズのゲームを何らかのルール(自生した規則性)とロール(自発的にわりふられた役割性)とツール(交流のための道具性)によって自発的に活性化する新しい運営システム、ということになっているが[前掲書:140]、まず第一にそれを「公共圏」と名付けることが妥当なのかということについてはもっと議論が必要であろうし、第二にそのシステムとしての原理が本当にうまく働いているのかについては個別の観察が必要とされるであろう。なお、彼らの<自発する公共圏>のイメージは「インターネット+伝統的共同体」[前掲書:138-139]であり、この二つを近代国家共同体と並べて対比させている遠藤[遠藤, 1998.:55]とは若干視点が異なるようである。

(10) 「公共圏」とは近代社会が成立し、社会秩序を再生産するための政治的空間であり、討議により公衆が統合された結論に至るという社会的決定方法を意味している[成田,1997:216]。なお、公衆とは、1共通利益を共有し、2特定の争点に直面した人々が、3争点について対立しながら、4集合的意思決定のために争点をめぐり討議している未組織の集合体、のことである[森岡他,1993:423-424]。

(11) 同様の議論は遠藤によってもなされている。彼によれば、世界の仮想化が進むと、「国家」「企業」「個人間のコミュニケーション空間」などは必ずしも相互に垂直的な包含関係をもたない別次元の空間に、多重的に存在することが可能になる。そして、それぞれの次元空間をそれぞれに異なる多様なネットワークの緩やかな共生体として構成することも可能だろうと予測する[川崎他,1994:141]。

(12) 一方、すがやのように、匿名によるコミュニケーションを「情報民主主義」と呼ぶような論調に対して批判的であり、そのような民主主義は「仮装民主主義」だと述べる者もいる[江下,1994: 138]。

(13) そもそも「情熱的に自己自身を主題化する公衆」が公共的議論を行う世界という概念自体が幻想である可能性もある。そして、このような立場に立てば、「新しい」メディア空間を「公共空間」と期待することはアナクロであり幻想である[林,1991:126]と批判されるかもしれない。この点については機会を改めて考えてみたい。

(14) 参考までに、日本全国のパソコン通信でのBBSは93年6月時点で1877局、会員数は196万であるという。そのうち会員数が1万人を超えるネットワークは全体の1.5%のみであり、300人未満の会員で運営される小規模な「草の根BBS」が半数以上を占めているそうだ[江下,1994:21]。

(15) BBSとはBulleDin Board Serviceの略である。

(16) これらの区分は排他的にできるものではなく、一つの掲示板が複数の性格を持ち合わせていることが多い。

(17) 以下、プライバシーを考慮して、すべてのHNは仮名に変えてある。また、本論文執筆に当たって、発言者の了解を得ることが不可能だったため、発言内容はその一部のみを引用し、表現にも修正を施した。なお、本論文のもとになった資料はすべて筆者の手元にあること、及び本論文によって生ずる問題に対するすべての責任は筆者に帰せられること、を付け加えておく。

(18) このうち、女性には筆者(E)が含まれているが、HNは男性名を使用している。

(19) F、G、I、K他、の計7名。ただし、Iは性別不明だが発言中に「あたし」という言葉が現れている。

(20) 発言中に「俺」「僕」などの言葉が含まれる、HNが明らかに男性名である、発言中に「妻」など本人が男性であることを暗示させるような文章が書かれているなどより判断した。が、筆者のように性を偽って書き込みをしている者が他にいるかもしれず、確固たる判断は不可能である。

(21) 川浦他の調査では情報の受信対発信の比率は、電子掲示板では79%対17%、フォーラムでは62%対30%、チャットでは16%対11%である[川上他,1993:81]。また、参加者の中には読むだけの人、ROM(Read Only Member、潜伏者lurkerともいう)もおり、「RAM(Radical Access Member)1人にROM10人」とすら言われている。

(22) フレーミング(flaming)とは、暴言や中傷のことを指す。

(23) B―F、D―A/E/G/H、C―A/I、I―J/K、E―J/L/P、A―L、A―B、A―N。

(24) IPアドレスとは、インターネット・プロトコルにおける計算機の識別番号のことである。スキルさえあれば、このアドレスから、投稿者がログインしているホスト名を割り出し、その身元を暴くことも可能である。実際、「戦後責任問題」の討議中に、ある人物の投稿内容に対して「反日日本人が韓国人を装っているのでは」と疑いを持ったメンバーがそのホスト名及び契約プロバイダの名称や住所を暴いて投稿するというような事態が起こった。このように、「新しい」メディア空間では完全なる匿名性が必ずしも保証されているわけではない。

(25) この文章の前に、AはHNを変えて罵倒投稿を続けていたBのIPアドレスを提示し、それらが同一人物による投稿であることを明らかにした。

(26) なお、この事態を受けて後に管理者は新たなチャットの場を確保することになったが、そこでは参加の際にメンバーの身元がチェックできるような仕組みが完備されており、完全会員制になっているようだ。

(27) 実はno.154の前にAは、第九、第十ステージをめぐる問題を追求するために、過去の発言no.99(E)、no.103(L)、no.109(A)を再投稿していた。しかし、管理者Nはこれらの再投稿を削除してしまっている。

(28) 成田もまた、「新しい」メディア空間が「自律的市民の公共圏」への期待に答えるためには、「より広く徹底した情報へのアクセス」、「より大勢の人々の議論への参加」が不可欠ではあると言うが、それらが得られてもなお「新しい」メディアは決して魔法のメディアではないと述べる。なぜなら、「新しい」メディアの構造は全員が等しく情報を受け取るという意味での公開性に向いているわけではないし、討議には適当な規模があるからだ[成田,1997:240]。彼は、最大限に成功したとしても「新しい」メディア空間は「市民による公共的な関係のシミュレーション」にすぎないであろうと言う。

(29) また筆者は、参加者が<討議しうる人間>足り得ないのは、「仮想的な自己」ではなく「自己」そのものの問題なのではないか、という疑いも抱いている。今回とりあげなかった「戦後責任問題」の討議においては、いわゆる「自由主義」史観対「自虐」史観の論争が延々と繰り広げられたが、そこでは特に「問題解決」に向けての「討議」への自覚が希薄であった。メンバーの大半を占める「自由主義」史観には相手を「サヨク」と規定すること「のみ」に終始する者も多かったし、逆に「自虐」史観の中には一方的に自らの主張のみを投稿し続ける「対話」への意志の見られない者も存在した。このような事態の一部は「断片人格」という「仮想的な自己」に帰因されるであろうが、それ以外に、結局のところ現実社会における個々人の「性格」そのものの問題もあるのではないか、というのが筆者の疑いである。ただし、これは調査のしようがないので、今後さらに他の掲示板での討議の様子を観察し続けていく必要があるだろう。

(30) この点を補うものとして、「新しい」メディア空間では「表情文字」が使われることが多い。文の間や末尾におかれる、文字や記号を組み合わせた簡易表情でエモティコン、スマイリーフェイス(^_^)などと呼ばれるそれらは、文字コミュニケーションで表現できない感情を伝達する重要な役割を果たしていると考えられる。

(31) 一般的に、非言語情報が使えないメディアを介したコミュニケーションは、対面事態に比べ、私的な側面が後退して、形式的になり、課題志向が強まることが知られている[川上他, 1993: 42]。しかし、事例分析にも見られたように、新しい「メディア」空間の中のコミュニケーションには、連帯、敵意、緊張、緊張緩和、同意といった対人感情的な表現がかなり見られ、こうした報告は数多くなされている。

(32) 対面場面で交わされる意味の93%はこうした非言語コミュニケーションが担っているという報告も紹介されている[川上他, 1993:41]。

(33) こうした情報欠損による影響は必ずしも一様ではなく、利用者の習熟度に応じて異なる。初心者はもっぱら文面から欠損部分の情報を推測しようとするが、なれるにつれて、準言語情報を文章に盛り込んだり、ときには文字で図柄を構成して(註30参照)欠損情報を再現する試みもなされるようになる[川崎他, 1994:53]。

(34) なお、川浦らの調査では、メディアの利用形態の違いによって「新しい」メディアを「連帯」のメディアと捉えるか、「孤独」のメディアと捉えるかということに差異が見られるという興味深い結果が出ている[川上他,1994:186]。

(35) フィールド・ワークの最中に、参加者達が自分たちのコミュニケーションを次のように語っていたのは印象的であった。

 これらの発言にもかかわらず、残念ながら、この掲示板は、「戦後責任問題」論争が激しているさなか、98年1月に主催者によって閉鎖されてしまった。この閉鎖が彼らの名づけた「サヨク」達との討論を嫌ってのことかどうか、事情は定かではない。異論を持った相手との討議というわずらわしさに耐えうるかどうか、というのはこのメディア空間の「新しさ」とはまた別の問題であろう。