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現代文明学研究:第1号(1998):30-35
研究ノート
レイプ神話と「性」
田村光啓



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 「レイプくらいで女はへこたれない」。男である僕がひるんでしまうような言である。これは1992年にある雑誌に掲載された作家松浦理英子のレイプに関する論文中での言葉である(1)。だが気をつけよう。誤解されてはならない。松浦は「レイプくらいで女はへこたれない」からといって、レイプを無害な行為として取り扱おうとしているのでもないし、強姦者を免罪しようというのでもないのだ。松浦が論文中で言うように、「女には強姦願望がある」といった男に都合のよい俗説はさすがにすたれてきたが、女にとってレイプは最大の侮辱といった言説は長年の間、私たちの中で支配的な考えであり、現に今もそうである。しかし松浦は問う。果たして本当にそう言い続けることが有効であるのか。そうした言説に女自身も乗ることによって強姦者たちの思惑と共犯関係をとりむすんできたのではないか。松浦はその炯眼でもってレイプ問題にあらたな戦略を投じるのである。「レイプくらいで女はへこたれない」、つまりレイプは女にとって最大の侮辱たりえないのだ、と。

 それでは、脱レイプ神話ともいうべき松浦の戦略を詳しく見ていこう。まず松浦は、「強姦が悪質な犯罪であり、ポルノぼけした者を除けば、強姦の被害者になってもかまわないという者は一人もいないであろうことは、今さら確認するまでもないわかりきった事柄である」(2)とした上で、以下の理由により、「レイプは女性に対する最大の侮辱」とは言えないことを示している。

   1 物の本にあるように、強姦が性欲ではなく、強姦によって女を侮辱したいとい
    う、女性憎悪者の感情的欲望から起こる行為であるとすれば、「最大の侮辱」云
    々といった女の怨嗟の声こそ、強姦者及び潜在的強姦者の期待するものであるか
    ら。(略)

   2 <レイプによって女は目茶苦茶に傷つく>といった紋切り型の固定観念ばかり
    が流布する状況では、たとえば強姦裁判において、被害者が事件の後比較的冷静
    な行動をとった点を取り上げて、<強姦などされたら被害者は我を失ってしまう
    はずなのに、彼女は冷静さを失わなかったので、行為は和姦であったと見做され
    る>などといった馬鹿な判決が下りかねないし、現実に下っているから。

   3 不運にして強姦の被害者になったと仮定した場合、人から<あなたは女として
    最大の侮辱を受けたのよ>と言われたりすれば、相手の無神経さによけいに気分
    が悪くなるだろうから。(略)

   4 実際、客観的に見れば強姦という行為は、目的がどうあれ女に対する性行為を
    求めたという一点で、強姦者が性的に女に支配されている情けない男であること
    を示すものにほかならず、そうした強姦者の情けなさを自尊心をもって軽蔑する
    ことで、女は少なくとも「最大の侮辱」は免れ得るから。(略)(3)

 松浦の戦略、つまり「レイプくらいで女はへこたれない」ということの意味は、男の女に対する、レイプという行為を通しての侮辱を成り立たせなくすることにある。女性憎悪あるいは女性を辱め地位を低めることによって相対的に自分の地位を高めようとする男の自己保存のためのレイプを無効化するのである。レイプという行為が、女への侮辱を通して男の自己保存のために機能しないとすれば、男にとって女を強姦する意味はなくなってしまうということになる。松浦の鋭い点は、「レイプは女性に対する最大の侮辱」という言説がふりまかれ、それが浸透し、そして女自身がそう感じることによって一番満足を覚えるのはほかでもない強姦者である、ということを見抜いた点にある。レイプの被害性を強く訴えることは、すなわち被害者を最大に侮辱しようとした強姦者を満足させることであり、ますますレイプが強姦者にとって意味のある「女性に対する最大の侮辱」となりうる神話を相互に補完しあう循環へと陥ってしまうのである(4)。レイプによる被害の甚大さを嘆くことは、強姦者を喜ばしこそすれ、被害者にとっては何の処方箋にもなりはしないのである。

 「レイプ神話」は徐々に解体されていっているという事実は松浦の指摘する通りであるが、「強姦をめぐる女の側の言説だけが十年一日の如く変わらないのは、一種異常な光景と言え」(5)るだろう。「レイプ神話」には様々なものがあげられる。たとえば、「性的欲求不満が強姦の原因である」、「強姦は衝動的な行為である」、「強姦は加害者が被害者に悩殺されたせいで起こる」、「強姦するのは見知らぬ男である」といったものがある。そういった「レイプ神話」がいかに多くの欺瞞で固められてきていたということは、すでにたくさんの研究によって示されている(6)。そしてそれらが、レイプをレイプとして成立せしめないように働いてきたということが「レイプ神話」による弊害であり、ただちに見直されるべき点である(7)。しかしここで考えたいのは、やはりそういった「レイプ神話」がいかに虚為的なものだとわかったとしても、その根底には「レイプとは女にとって最大の侮辱である」という言説が重く横たわっているという点である。つまり虚構としての「レイプ神話」を説くものたちでさえ、この点に関しては異論がないというわけである。そこでは「人格」あるいはそれに類似するような自己にとっての何か揺るがしがたいものと「性」とが結びついていると信じられている、とも指摘できよう。だがここでは、「レイプは女にとって最大の侮辱である」という言説が、何によって現実のものとして受けとめられる事態に陥ってきたのかを外在的な要因から問いなおしてみたい。
 本当に「レイプとは女にとって最大の侮辱である」のか?そういえばすぐさま反論が寄せられてくることは容易に想像できる。「男のオマエに何がわかるのか」、「レイプにあった本人がどういった気持ちで過ごさなければいけないのか、当事者でないアナタに何がわかるの」といったように。では仮に今、「レイプは女にとって最大の侮辱である」としよう。ではレイプの何が女に最大の侮辱をもたらしているのであろうか。被害者の意に反して行われるわけであるから、被害者が反抗した場合、それをおさえつけるために強姦者は暴力的にふるまい、身体的損傷を与えるかもしれない。また望まない相手から権力関係を背景に性行為を強要されることは、私たちが本来思い描くような「性」のあり方からはるかに隔たったものであり、深く傷つけられるに違いない、と想像できるだろう。あるいは自分の身体のコントロール権を強姦者に握られてしまった、つまり「私」の生命は強姦者の手中にある、ということも被害者を深く傷つけることになりうる(8)。しかし以上のようなレイプの場合に起きうることが、果たして、「女にとって最大の侮辱である」ということにつながるのだろうか。そういった事態がいくつ集められても「最大の侮辱」までには結晶しないのではないだろうか。「女にとって」といった場合、それは「男にとって」という側面では成立し得ない侮辱として考えられねばならない。生命権や身体のコントロール云々は「女にとって」特有に発生する問題ではない。「男にとって」も同様に起こりうる問題である。そうすると「女にとって」といった場合に最大の侮辱として働きうる要因はレイプには見いだせないことになる(9)。とはいっても上記のような「性」というものが何らかの尊いものだと感じる人たち(少なくとも僕自身がこういった性パラダイムにのっかている)にしてみれば、望まない相手による性行為の強要はそのまま「最大の侮辱に」に直結すると感じられるだろう。そうであるならば「レイプ」という行為が「女にとって最大の侮辱である」ということは一定の正当性をもちえているのではないかということになる。しかし(僕自身がのっかっている「性」というものが何かしら尊厳と結びついていると考えたくなるようなパラダイムが、良い/悪い、あるいは手放す/固持すべきかどうかはさておき)多くの人が大事にしようとしている「性」、汚されたときにそれは「最大の侮辱」と感じてしまうような「性」は、望み、望まれた場合においてはじめて私たちが大切なものとして救いだしたくなるような「性」として立ち現れてくるのだ。気をつけねばならない。「性」はつくりごとなのではなかったか。そうであるならば私たちが望ましいと考えるような「性」は望まないレイプという行為によっては汚されることはないはずだ。望まれない性はけっして性的な行為ではなく、単なる暴力にすぎない。
 別の面から迫ってみよう。強姦は犯罪として成立しにくいと言われる。それはなぜか。被害者が強姦者を告発しないからである。いや、告発できないからである。なぜ告発できないのか。それは「レイプされた」という事実よりも、犯人による仕返しが恐いからというよりも、社会からのレイベリングが被害者を容赦なく望まない形で切り取ってしまうことによる。スティグマへのおそれだ。「あの子レイプされたんだって」、「えー、そうなの、派手だったもんね」。こういった被害者をもう一度辱めるような言葉が簡単に吐かれるような状況が今の社会といえるだろう。そういった状況に誰が「勇気を出して」立ち向かえと無責任に言える資格があるのか。もはや「レイプは女にとって最大の侮辱である」という状況はなるべくして成立している、といいたくもなる。被害者にとっては、身体的損傷より、性的辱めより、何よりもこの社会からのスティグマに耐えられないのではないか(10)。レイプが被害者にとって通常の暴力事件と違って重くのしかかるのは、「ある時点での強姦がそれだけでは終わらないということを意味している」(11)という点である。両者は性が関係している暴行かそうでないかで決定的に分かたれる。そしてこの両者の間に深い溝を生じさせているものが、性から生まれた「穢れ」である。「穢れ」とは確固たる根拠、衛生学的な理由などなしに私たちが汚らわしい、逸脱していると想像する存在に付着していると信じている実体のないものである。加藤秀一は、僕がここでいう「穢れ」を「言語行為としての、名づけとしての強姦」という視点から捉え直している(12)。
 被害者は強姦者によって性的に辱められる。しかし被害者と強姦者との関係を、外部社会関係にもちだせば(たとえば、告発する、友人に相談する、など)、「性的に辱められる」ことは「穢れ」を発生させる。レイプされた女は私たちとは違うのである。愛という名のもとに交わされた性行為については何のレッテルも貼られることなく見過ごされ、しかしひとたび望まれない性行為を強要された者に対しては何の非があるわけでもないのに、あたかも被害者が悪かったかのようにスティグマを付与される。「性的に辱められる」という行為に起因するというだけであり、もちろんそれは実体のないものであるにもかかわらず、レイプだけがほかの犯罪と比べてより「穢れ」を生み出しやすいのである(13)。男も女も「性」というものを特殊なものとして囲ってきたところへ、レイプという出来事は大きな断層をもちこむ。神聖なものとして語られるべき「性」が外部から侵犯されるのだ。ある実存を担っていた主体が、レイプによって「汚れた女」とあらたに「名づけ」られ、主体の意味を塗りかえられてゆく。そこで発生するまったく何ら実体のない「穢れ(=あらたな名)」は、実体がないからこそ、なお被害者の精神を蝕み続ける(14)。
 したがって、「レイプくらいで女はへこたれない」ということは、その「穢れ」を被害者から取り除くための強力な布石と理解されるべきなのである。レイプが他の暴力事件と違いはないということによって被害者への「穢れ」の発生を防ぐことができる(15)。そうすることによって、被害者は恥じる必要が軽減されるのではないか。レイプとはなんでもないのだ。あなたはなにも悪くはない。被害を嘆くのではなくレイプの無効性を指摘すべきではないか。そこからはさらなる可能性がひきだされよう。つまり、レイプされたことで卑屈になる必要はなく、堂々と強姦者を告発してゆくことができる。強姦者を悪質な犯罪者として公正に裁かれる土壌を用意してゆくことができるのではないだろうか(16)。

 さてレイプが最大の侮辱として捉えられてしまう外在的な要因をみてきた。「穢れ」をもつ女という外在的な規範の視線によって被害者が認知されるのがもっとも深刻な屈辱ではないかということを僕は考えている。それでは強姦は、自己内において独自に内面的な崩壊を招くような行為として機能してはいないのだろうか。結論を先取りしていえば、社会からのレイベリングとは無関係に独自で被害者の自己を破壊することは出来ないのではないか。これは先ほどふれた社会からの意味づけ、つまり「名づけ」に私たちがいかに強く縛りつけられているかを見れば明らかである。そしてより重要な点は、私たちが様々な文脈に応じて「性」というものについて語るトーンを使い分けているということではないのか。お互い望んだ性行為なら「愛」という形容をかぶせるだろう。では望まれない性行為、つまりレイプの場合にはどう語るべきなのか。被害の甚大さを嘆くべきなのか。それは松浦がもっともおそれた強姦者への支援と等しい。強姦者が踏みにじるような性は私たちの求めるような「性」ではない。つまり彼らは私たちの大切にしたいものを汚したことにはならないはずだ。強姦者は被害者に自分の要求をのませるために、あるいは自我を存立させるために暴力を振るったにすぎない。被害者はなにも汚されてはいないのだ。それが松浦の戦略のエッセンスである。

 レイプの威力とその無効化を考えてきたわけだが、最後に自ずと課題として浮き上がってくるのは、男のセクシュアリティという問題であろう。また私たちが暗黙のうちに拠って立っている「性」の規範についても、いかに揺らぎのある代物であるかということが照射される(17)。フェミニズムは男が女を支配服従させるためにさまざまな制度や装置をつくってきたと告発してきた。だとするならば、なぜ男が女を支配したがったのだろう。なぜそうする必要があったのだろう。もっとも先鋭な形としてあらわれたものがレイプと考えられるのだろうが、一部の男たちがなぜレイプという行為をするにいたったのか。レイプについて考えるとき、そのような視点が用意されるはずである。男としての僕がレイプについて考えるということは、すなわちこの視点を鍛えることにある。
(敬称略)

(1)松浦理英子「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」『朝日ジャーナル』朝日新聞社1992所収。なお、本稿では井上輝子・上野千鶴子・江原由美子編『セクシュアリティ』日本のフェミニズム6岩波書店1995の中に収録されたものを使用する。したがって項数は井上他編1995に従っている。以下、文献の表記は編著者名[発行年:項数]。
(2)前掲書、井上他編[1995:141]。
(3)前掲書、井上他編[1995:141-143]。1の理由の中での、「強姦が性欲ではなく、強姦によって女を侮辱したいという」という点については、心理学などの分野で研究が進められている。たとえば、森武夫は主として二つのケースを検討して「男らしさすなわち性的同一視(sexual identity, gender identity)の欠陥」、「性的興奮サドマゾキスティックな傾向とともに男らしさや強さへの自信、すなわちこういうかたちでもっとも強く感じることのできる自己回復、自己実現があった」、また「女性観は複雑で、現実の悪い、不信の女性と、理想のかわいい女性が対立している」という分析を行っている。森武夫「性的非行犯罪の深層心理」現代のエスプリ別冊『現代人の異常性』第3号1976を参照。
(4)ただ、松浦の戦略では、強姦なんか女にとって侮辱になりやしないのよとすることで、強姦を無意味化しようというものだが、それではその戦略が効を奏したとして、強姦が女性憎悪者のはけ口として機能してきた役割が、強姦とはまた別の行為にぬりかえられる、または何らかの行為を生み出すかもしれないという点については考察されていない。その限りでは強姦の被害者の救済という対症療法的なものに終わっている。男の強姦に向かうセクシュアリティへの視線がうすい。
(5)前掲書、井上他編[1995:141]。
(6)たとえば、ジーン・マックウェラー『レイプ《強姦》異常社会の研究』現代史出版会1976の第一章で詳しく論じられている。他にとりあげられているレイプ神話には、「強姦において、被害者がおとなしくなるのは残虐行為のせいである」、「強姦は、性急に、暗黙のうちになされる事件である」、「強姦は暗い小径で発生する、戸外での犯罪である」、「女性は強姦されたいという欲望を胸に秘めている」などがある。いずれも神話と実態を比べていかにレイプ神話が歪められたものであるかを暴いている。
(7)被害者がほんとうに強姦を望んでいないのであったならば死にものぐるいで反抗すべきなのに、それをしていないのは和姦ではないか、あるいは被害者と強姦者は知人同士であったのだから、その場合強姦ではなくて和姦である、といったような信じられない思いこみが法廷という場ではまかり通っているのである。そのため強姦者が有罪とされない場合が起こりうる。前掲書、ジーン・マックウェラー[1976:52-65]を参照。
(8)ジュディス・J・ハーマン『心的外傷と回復』みすず書房1996, pp.83-84を参照。(Judith Herman Trauma and Recovery. Basic Books, 1992,1997, p.56)
(9)たとえば男が女にレイプされた場合を考えてみると、女に比べて侮辱を受けにくいと想像されるかもしれない。この点については従来フェミニズムが唱えてきたテーゼで解明できるであろう。つまり女にだけ処女神話や貞操観念の押しつけがなされてきた結果である、と。それゆえにそうした女性像から逸脱した=レイプされた女性は「穢れ」の対象になるのである。男が性的に逸脱することについては「穢れ」の対象になり得るどころか、むしろ積極的にそういった男性性の取得を奨励されているのではないか。加藤秀一「<女>という迷路」『フェミニズム・コレクションU』勁草書房1993所収を参照。
(10)ハーマンがいうように、「レイプの本質は個人を身体的、心理的、社会的に犯すことである。「犯す」とはまさにレイプを指すことばではないか。レイピストの目的は被害者を奇襲し、支配し、屈従させること、彼女を全く孤立無援状態にしてしまうことである。このようにレイプは本質的に心的外傷をつくるように意図的にしくまれた行為である」ということともあわせて、レイプとは女性を最大に傷つけるためにもっともよく仕組まれたプログラムであるといいたくなるのもわかる。前掲書、ジュディス・L・ハーマン[原著1992:57-58 邦訳1996:85]を参照。心的外傷後ストレス障害(Post-traumatic Stress Disorder)に陥った被害者の救済ということは何にもまして優先されるべき課題であろう。だが、松浦はこのような言説にもっとも危惧を抱いていたのではなかったか。レイプの被害の恐ろしさを訴えることは、そのじつ、しかしレイピストを結局は喜ばせることになってしまうというパラドックスを。
(11)加藤秀一「フェミニズムから半分だけ離れて」『思想』第4号1998,p.212。
(12)加藤は名づけの両義的な力、すなわち他者に実存を与えるとともにそれを簒奪するすることができる力、がレイプにおいてはいちじるしく発揮されるとする。前掲書、加藤[1998:214]を参照。
(13)もちろんこういった女側にだけスティグマが貼り付けられるというジェンダー差の背景には、男の身勝手な「処女神話」や家父長制的なイデオロギーの影がちらついていることを男たちはフェミニズムによって知るべきであろう。
(14)小倉千加子が女性と穢れの関係についてきわめて明快に論じている。小倉は、葬儀における女性の扱われ方、トンネル工事における女性の扱われ方などを手がかりに、「ウチ」と「ソト」、そして「上」と「下」という空間表象の二項対立概念を導入し、いかに女性が巧妙に排除されてきたかを鋭く論破する。小倉千加子『セックス神話解体新書』筑摩文庫1995の第三章を参照。
(15)もちろん現実問題として、実際にレイプにあった被害者の心の傷は、僕がこんなに簡単に想像できるレベルを遙かに超えたところでうごめいているのかもしれない。精神科診断基準であるDSM−VRにおける心的外傷後ストレス障害(Post-traumatic Stress Disorder)として診断される場合も多いからである。しかしだからこそ、その「傷」にとらわれた被害者がその「傷」から解放されなければならない。あなたは何も辱められてはいない、何も悪くはないんだ、と。松浦が指摘するように、「レイプが女にとって最大の侮辱だ」と被害者自身が考えることによって、まさにレイピストが思い描いたような「レイプが女にとって最大の侮辱」たりえるというパラダイムの補完をする役割になるのだから。心的外傷後ストレス障害については、中村としのり「レイプ事例に見る暴力の真相」『現代のエスプリ』第320号1994や前掲書、ジュディス・L・ハーマン[1996]を参照。
(16)ここには、実はまだ深い問題が残されている。(8)で触れたように、告発したとしてもその裁き手である法の執行機関が、強姦パラダイムに毒されている可能性がじゅうぶんにあるということである。宮淑子「強姦文化を超えて」『思想の科学』61号1985所収を参照。
(17)最近出版されたもので、永田えり子『道徳派フェミニスト宣言』勁草書房1997が「性」規範について非常に興味深い考察を行っている。永田は、「性」の解放とうたうことがあたかも時代精神のように受けとめられるけれど、私たちの間では依然として「性の非公然性の原則(性そのものを嫌うのではなく、あからさまな性行為、性表現を嫌う)」が根強く残っているとする。従来の性道徳観を捨てよというのは、あまりにも私たちが「性の非公然性の原則」にとらわれていて、現実的ではないとする。永田は捨てるということよりもいまだ私たちの社会に有効でありえる道徳を基盤にあらたな道徳を建設してゆくべきだとする。

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