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現代文明学研究:第1号(1998):1-18
総合研究の理念―その構想と実践
森岡正博
1 本論文のねらい
大阪府立大学総合科学部は、その名のとおり総合的研究と教育をめざしている。カリキュラムには総合研究序論・総合研究・総合研究ゼミナールという一連の総合研究コースがもうけられており、学部の大きな特色となっている。研究と教育に、学際性・国際性・総合性を取り入れるのは最近の学問界の流れであり、そのうえに立った先進的な試みであると言える。
私は1997年4月に総合科学部に就職するまでは、京都にある国際日本文化研究センターという研究所に助手として勤めていた。この研究所も、日本文化を「学際的・国際的・総合的」に研究することを理念として謳っており、それを実現するために15本の共同研究を走らせ、毎年、国際集会を開催していた。私もスタッフの一員として、8年間に3本の共同研究、ひとつの国際集会に幹事・企画者として参加し、報告書を刊行した(1)。
このように、私はいままでの学者生活のほとんどすべてにおいて、学際的・国際的・総合的な共同研究というものにかかわってきたのである。
しかしながら、そのなかで、私はひとつの大きな疑問を抱き続けてきた。それは、「学際的・国際的・総合的」というが、そのなかの「総合的」とはいったい何を指すのかということである。「学際研究」や「国際研究」というものはすでにその内容について一定のコンセンサスがある。すなわち、専門の異なる研究者が集まって共同作業をするのが学際研究であり、国籍や出身国の異なった研究者が共同研究するのが国際研究であるというのは、多くの人が認めることであろう。だとすれば、「総合研究」とは何なのか。上記の学際研究や国際研究とは異なったものとしての総合研究とは、いったい何なのか。
総合研究と呼ばれるものが、学際研究と実質的に同じなのだったら、なにもわざわざ「総合研究」という名前を用いる必然性はない。単に「学際研究」でよいのである。もし「総合研究」という名前を用いたいのなら、そこには「学際研究」には見られないところの本質的な差異がなければならない。
この問題は、とても大きなものをはらんでいる。「学際研究」と「総合研究」は、どう違うのか。本論文は、この点についての現時点での私の考え方を述べるものである。
国際日本文化研究センターにいて8年間共同研究を運営してきて感じるのは、そこで行なわれていた共同研究というものの実態は、たしかに「学際的・国際的」研究ではあったが、けっして「総合研究」ではなかったということである。すなわち、そこでの共同研究というのは、3〜4年間の期限を切って、ある学際的テーマを決め、そのテーマにかかわっている全国の研究者を幅広い学問領域から選出し、年に4回ほど京都に集まってもらって、共同研究会を開催する。研究会では、メンバーが持ち回りで発表をして討論を行なう。それを3〜4年間続けたあと、メンバー全員がそれぞれ論文を書いて報告書を作成し、センターから刊行する。こういうプロセスであった。
これを3クールやってみてしみじみと実感したのは、このプロセスのいったいどこで「総合性」が創出されたのか、まったく分からないということである。メンバーたちは、それぞれ刺激を受けたかもしれないが、そこにあったのは「学際的」刺激であって、それ以上ではない。報告書というのも、醒めた目で見れば単なる「論文集」にすぎない。もちろん、そのような共同研究の成果を私は認めるのだが、しかしそれが総合研究であったとは思えない。既存の学問研究の枠を打ち破る研究所として注目を集めてきた国際日本文化研究センターであってもそういう状態なのである。
ただし、かつての若手の同僚たちの名誉のために言っておけば、そのなかにも、後に述べるような「総合性」への芽生えははっきりとあった。そして、単なる学際的研究をどう超えればいいのかという問題意識から出発した議論の流れが初期にはあり、それは「文化位相学」という名前を仮に取りながら、その後様々な方向に影響を及ぼしてきた(2)。本論文は、その議論の流れをさらに発展させるものでもある。また、拙著『自分と向き合う「知」の方法」』(3)において私が述べた学問論を展開させたものでもあるので、あわせご覧いただければ幸いである。
2 専門・学際型共同・ひとり学際の3角形
総合研究・教育とは何かを議論する前に、ひとつだけ留意しておきたいことがある。それは、総合の範囲としてどのくらいのものを考えればいいのかということである。具体的には、人文社会科学と自然科学を網羅した全学問分野の総合を目指すべきなのか、それともその手前でとどまっておくべきなのかということだ。C・P・スノーを引き合いに出すまでもなく、人文社会系の学問と、自然科学系の学問のあいだには、暗くて深い溝がある。総合研究というのは、その溝を超えることまで目指すべきなのか。
私は、暫定的に、以下のように考えることにする。
まず第一段階として、いわゆる人文社会科学系の学問を対象とした「総合研究」の可能性をさぐり、実践に移していく。それが軌道に乗りはじめたあとで、第二段階として人文社会科学と自然科学を含みこんだ本来の総合研究の可能性を探っていく。私は、総合研究というのは、究極的には全学問分野を射程に入れたものでなければならないと思っている。ただし、実際問題としては、まず第一段階として人文社会系の学問の総合というところからスタートするべきだと思うのである。その意味で、本論文は、総合研究というものを、人文社会科学の扉のほうから開こうとする試みであることになる。したがって、本論文を補完する意味においても、別の著者によって、自然科学の扉のほうから総合研究を開こうとする論文が書かれるべきであると私は思う。
私が人文社会科学と自然科学のあいだの断絶を重く見るのは、私の現在の研究テーマとふかく関連している。私は、現代生命科学が人間と社会にどのような影響を及ぼすのか、そして現代生命科学を制御することは可能なのかという研究を行なってきた。具体的には、脳死・臓器移植の問題や、地球環境問題などを素材として扱っている。その研究過程で様々な分野の自然科学者たちと意見交換する機会があるのだが、その経験から言えば、まず「科学と社会」という問題設定それ自体を人文社会系の学者と自然科学系の第一線の科学者が共有することそれ自体が、異様にむずかしいのである。それは身に染みている。だから、いきなり人文社会系と自然科学系の総合などと言われても、やすやすと乗る気にはなれない。しかしながら、私は、それを絶望的だとは見ていない。むしろそこから希望が開けてくると思うのである。なぜなら、私自身が、大学の3年間は自然科学系に所属しており、素粒子物理学の研究者になりたいと思っていた時期もあったからである。その後、いわゆる文転をして、私は思想系の学者となった。私は、専門の自然科学者にはなれなかったが、しかし私は自然科学というものがなににこだわり、なにを目指そうとしているのか、なににわくわくするのか、ということを身体で知っている。そして同時に、人文社会科学というものが、自然科学によっては分からない世界の「機微」と「構造」をとらえようと必死になっていることもまた知っている。ひとりの人間が、この両方を理解できる以上、人文社会系と自然科学系とのあいだに橋が架けられないはずはない。そこに私は一筋の希望を見る。
ということで、ここではまず人文社会科学における「総合」とは何かという点に絞って考えていくことにする。結論から言えば、次の3つの要素、すなわち(1)「専門型研究」(2)「学際型共同研究」(3)「ひとり学際研究」の3つが有機的に組み合わさったとき、真の「総合研究」が成立する。この3つのなかで要となるのは、第三の「ひとり学際研究」である。これをサポートし、より深めるための二本柱として、「専門型研究」と「学際型共同研究」がある。この意味で、この三者の関係は、「ひとり学際研究」を頂点とする三角形として表わされることになろう。すなわち、研究者ひとりのなかで達成されるであろう「ひとり学際研究」というものを、「専門型研究」と、「学際型共同研究」が両側からささえるときに、その営みの総体が「総合研究」となるのである。
この考え方の最大の特徴は、学問的総合というものが、研究者ひとりの個人のなかで達成されるとする点である。というのも、従来は、学問的総合というものはなにかの形の多人数による共同研究によってはじめて達成されると考えられてきた。しかしながら、私はそう考えない。多人数の共同作業で達成されるものは、せいぜい学際的報告書のみである。多人数による学際研究のあとに、もし「総合」というプロセスが起きるとすれば、それはその研究に主体的に立ち向かった人間ひとりひとりの内側においてである。
<学問的総合は、研究者がひとりで行なうのだ>という、この発想の大転換を行なうことで、単なる学際研究とは異なった「総合研究」というものの内実と、それを達成する方法とが明らかになってゆくのである。
以上のことを念頭に置きながら、総合研究を構成するこの3つの要素について順番に検討してゆきたい。
3 専門型研究とは
まず、「専門型研究」とは、従来の専門研究で培われた方法のことである。すなわち、ある特定のテーマを、既存の専門学の方法によって深く厳密に掘り下げてゆくことである。そのためには、そのテーマについて詳しく調査して研究しなければならないし、それを取り扱うのにもっとも適した専門領域の基礎的知識と方法を学習して、身につけていなければならない。すなわち、あるひとつの専門教育の基礎はきちんとマスターして、それを自分自身で使えるようにしていなければならない。
しかしながら、ここで注意しなければならないのは、総合研究をサポートするものとしての「専門型研究」というのは、けっして、専門家をめざすための専門教育ではないということである。だから、その専門性の要求水準も、専門家になるための要求水準とはおのずから異なってこざるを得ない。ここは重要な点であるから、立ち止まって考えてみよう。
ひとりの人間がある専門領域の「専門家」としてひとり立ちするまでにどのくらいの年月がかかるであろうか。領域によっても異なるが、人文社会系の場合、40歳代でもまだ若造と呼ばれたりする(この意味で、自然科学とは事情が異なるかもしれない)。もし順調にいったとしても、あるひとつの専門領域をマスターして自他ともにその専門家として一人前になるためには、少なくとも40歳代までその領域の研究に没頭して、きちんとした専門的な業績を蓄積しないといけない。すなわち、「総合」などという「脇道」にいっさい目を向けることなく、専門まっしぐらでそのくらいかかるわけだ。
これはなにを意味するかというと、専門家養成のためのコースをまじめに進んで、専門家としてひとり立ちして、それからようやく学際と総合をめざそうと思っても、もう遅いのである。なぜかというと、研究とはなにかということを身体全体で覚えていく20代後半から30代にかけての時間を、専門ひとすじに捧げてきたわけだから、もうその人の身体は、「専門家」の身体になりきっている。そうやって専門家の身体を作り上げてきた人の、身体全体の構造をまるごと構造転換するのは、不可能ではないが、とても難しい。(それはちょうど、漢籍の研究に中年期まで没頭してきた人が、突然、実験科学者のプロになろうとしてもとても難しいということと似ているかもしれない。)
総合研究ができるためには、その人の研究者としての身体が形成される20代後半から30代にかけての時期に、実際に「総合」という作業をやってみて、その味を身体全体で味わって知っていなければならない。実際に「総合」の味を知らないで大成した人が唱道する「総合研究」というかけ声を信用するほど、私は世間知らずではない。ひとつの専門分野で、専門家として功成り名遂げた人が、「総合研究」という名前を提唱したとしても、その人が提案できるのは、せいぜい分野の違った研究者が一堂に会して意見を交換するという学際型共同研究くらいである。総合とはそういうものではない。
だから、私は、「まずひとつの学問分野の専門家となってから、そのあとで総合研究をめざせばいい」という考え方に反対である。なぜなら、まず専門家となってからでは「遅い」からであり、かつそのような順序で総合をめざすのはかえって「非効率」だからである。
「非効率」というのはどういうことかというと、総合研究をしたい人がいたときに、まず早い時期に総合的なことを味わっておいて、そのあとで、その総合が本当の意味で実りあるものになるための手助けとして、専門研究というプロセスをいちど通ってみるというのがもっとも効率的であるからだ。すなわち、総合研究というものを深める<限りにおいて>、ある専門研究の経験を経ておくというのが、総合研究の側からみればいちばんロスが少ないからである。すなわち、総合研究における専門研究の意味というのは、「総合」に役立つ限りにおいての専門研究であって、それ以上でも以下でもない。
では、総合に役立つ限りにおいての専門研究とは何かというと、それはまず、あるひとつのテーマをある専門領域の方法で深く掘り下げるという実際の経験を積むことである。そういう経験を自分自身で積むことによって、はじめて人は、あるテーマを厳密に深く掘り下げて研究するとはどういうことかを知ることができる。そのプロセスにおいて、厳密で多方面からの検討に耐える理論とはどういうものかを身体で知ることになる。ものごとを究明していくとはいかに緻密でしんどい作業かということを知ることになる。小さな点をゆるがせにしないで客観性を獲得することがどんなに大変かということを知ることになる。これらの経験を積むことは、総合研究をめざすものにとって決定的に重要である。なぜなら、このような専門研究の試練というものを知らずにいきなり総合に走ってしまうと、往々にして、単に多方面の知識を羅列して「総合だ」と勘違いしている悪しきジャーナリストのような人材しか輩出しないことになる危険性があるからだ(もちろん本物のジャーナリストはそういう人間ではない)。総合研究とは、単に「いろんなことをたくさん知っている」ということではない。
だから私は、総合研究をめざすためには、専門型研究を一回は深く経験しておくことが必須だと思う。ここは重ねて強調したい。しかしながら、総合をめざすのであれば、専門家として大成するための専門領域への没入へと移行するべきではないと私は主張したい。専門家養成のための修行に入るその前の段階で、その道からふたたび総合へと引き返してくるべきなのだ。(もちろん、専門家になるつもりであれば、専門への道へと没入するべきである)。そこで引き返してくることができれば、まだ若いうちに、総合への道を歩み始めることができる。
総合研究においては、専門研究は総合に役に立つ限りにおいて意味がある。そして、その限りにおいて、総合研究をめざすものは、専門研究を必ず一度は実際に経験しておくことが必要なのである。これが、総合研究における「専門型研究」の位置づけである。
4 学際型共同研究とは
総合研究をささえるもうひとつの研究は、「学際型共同研究」である。これは、異なる専門分野を背景に持った複数の研究者がひとつのテーブルに集まってきて、あるテーマについて共同の研究を行なうものである。学際型共同研究にも様々なスタイルがある。リーダーがそれぞれのメンバーに課題を与えて、皆がみずからの持ち分を分担して研究し、最後にまとめあげる方法。とにかく様々な分野の研究者に集まってきてもらって、発表してもらい、ディスカッションをして、最終的にはレポートをまとめあげるもの。あるいは、調査団を構成してフィールドワークを行ない、多方面から調査研究するもの。ほかにもいくつかのやり方がある。
学際型共同研究のポイントは、異なった学問的背景を持った研究者に集まってきてもらって、あるテーマを多方面から調査し、議論し、解明するというところにある。学際型共同研究が成功すれば、ひとりの研究者ではとても無理だったような、多面的な研究が可能になる。たとえば、京大人文研で行なわれたフランス革命についての共同研究などが、その先駆的成功例であったと言われている。私が勤務していた国際日本文化研究センターの主たる業務は、このような学際型共同研究を遂行することであった。
学際型共同研究は、有効な研究スタイルとして認知され、広く行なわれている。大学のなかでの共同研究や、科学研究費を用いての共同研究などは、このスタイルをとるものが多い。そして、それが成功すれば、大きな成果を生むこともまた立証されていると言っていいだろう。
しかしながら、前述したように、学際型共同研究にもまた独特の難点があるのである。そのひとつは、学際型共同研究が、往々にして、単に様々な領域の研究者が集まってきてお互いの意見を拝聴するだけという結果になることである。そうなってしまえば、そこからは、見るべきものはほとんど何も生まれない。学際的な会合でよく見かける光景だが、あるテーマについて議論を行なっているときに、話が歴史学的なことになると歴史学の研究者に「先生、どうですか」と意見を求めるのだが、議論が思想方面に傾いてくるとその歴史学の研究者は「思想はぼくは素人だから、xx先生いかがですか」というふうに、思想の研究者に水を向けて、みずからは議論から引いてしまう。そうやって、結局は、すべての人が、自分の専門に話が関わってきたときだけ議論に参加し、そうでないときにはひたすら聞き役に回って身を引いてしまう。いったんそうなってしまえば、もうそこからは、学問の壁を越えた知的創造は起こらない。ただ単に、知識のキャッチボールを行なっているだけである。私の経験から言うと、こういう事態に陥っている共同研究というのは実に多い。
もうひとつの難点は、共同研究の報告書として、ただ単に参加者たちの論文が、なんの相互連関もなく並んでいるだけのものが成果として出版されることがあるということだ。ちょうど、大手出版社からでている講座ものの書物のように、その研究企画からいったい何が新たに発見されたのか、そしてそれはどのような意味で「学際的」「領域横断的」な新知見なのかが、判然としないのである。学際型共同研究の報告書というもののほとんどは、この種のものではないだろうか。
あとで詳しく述べるのだが、これは教育に学際を取り入れたときにも生じる難点である。すなわち、大学の総合コースなどで、あるテーマについて学内・学外から講師を呼んできて、オムニバスの連続講義をするケースがある。しかしながら、その実態は、ただ単に毎回違った教師が、一回限りの別個の講義を羅列していくだけのことであり、全体としてどういう学際的教育が達成されたのか、どういう総合教育が達成されたのかが全く不明だったりする。
このように、学際型共同研究の負の面というのは、「単にいろんなものを寄せ集めてきて並べれば学際になる」という安易な発想を醸成するところにある。
学際型共同研究、とくに学際的な議論の場が有意義に成立するためには、そこに参加している個々の研究者たちが、みずからの専門領域をはみ出して発言し、他人の専門のなかに土足で入っていき、あるいは他人をその専門領域から引っぱり出してきて意見を戦わせ、そうやってお互いがいままで知らなかったことを学びあってゆくことが絶対に必要である。その意味で、学際型共同研究が成功するためには、参加者たちが「専門家」であることを半分やめることが重要になってくるのである。そのためには、その場に、「専門外のことを知らなくても恥ずかしくはないし、同等に発言する権利があるのだ」という雰囲気が醸成されていなければならない。これは、きわめて大事なことだ。そしてそれと同時に、その場の雰囲気作りをして、ディスカッションのなかから重要な意見を引き出すことのできる「リーダー」の存在が重要となる。リーダーは、そのテーマについての様々な方面からの議論をよく理解し、議論の進み方を調整し、そして最終的には学際的な新知見をまとめあげる、そういう力量がなければならない。いままで成功してきた学際型共同研究には、このようなリーダーが存在した。フランス革命研究の桑原武夫、「文明としてのイエ制度」の村上泰亮などがその好例であろう。
総合研究を達成するためには、このような良い意味での学際型共同研究を実際に経験して、みずからの血肉とすることが求められる。学際的な調査や議論を行なうことによって、研究者は、みずからの知識や発想の限界を知ることができ、同時に、自分一人で考えていたのでは突破できなかったような新たな突破口を発見することもできる。そして、ものごとにはほんとうに様々な面があるということを知る。さらには、自分が信頼を置いている自分の専門領域というものが、実は、たくさんの学問領域のなかの、たかだかひとつの方法にしかすぎないことを、身を持って学ぶことができるのである。
それと同時に、現代の諸問題を研究するには、どうしても学際的な視点が必要だということも実感できるだろう。というのも、現代の諸問題というのは、環境問題にせよ、精神病理の問題にせよ、実に複雑な要因が絡まりあって生じているのであり、その問題の本質をつかまえるためには、必然的に学際的にならざるを得ないからである。
学際型共同研究というときの、学際の広さについてなのだが、もっとも広い場合には、人文科学・社会科学・自然科学すべてを含み込む学際ということになる。そのような学際は不可能ではない。実際に私が企画して運営したことがある。ただし、完全に満足のいく報告書をつくるまでにはいたらなかった。もう少し狭い学際としては、人文科学と社会科学を股に掛けたような学際や、自然科学の内部での学際がある。この規模のものが、いちばん多く行なわれているのではないだろうか。
さて、今まで述べてきたような「トピックス・専門研究」と「学際型共同研究」が、車の両輪となって「ひとり学際研究」をささえるときに、総合研究がはじめて成立する。では、ひとり学際研究とはいったい何なのだろうか。
5 ひとり学際研究とは
私が「ひとり学際」という考え方を提唱し始めたのは、国際日本文化研究センターでの共同研究を実質的に主催して、その報告書を作成したときである(4)。自分で実際に学際型共同研究を行なってみて、いくつかの成果とともに、その問題点もまたよく見えるようになってきた。学際型共同研究を運営した人であれば誰もが気づくことであるが、それが単なる専門分野の羅列ではなくなるためには、どうすればいいのかという疑問が起きてくる。そのためには、異なる専門分野のあいだの「融合」とか「総合」のようなものがどこかで生じればよいのだが、それはいったいどこでどうやって生じるのか。学際型共同研究の議論の場や、その報告書においてそれが生じるというのは、甘い考えである。議論の場というのはあくまで個々人の意見が飛び交ってお互いが刺激を受け合う場所であり、そこでおのずから総合が生成するわけはない。報告書というのも、それぞれの視点からの学問的貢献が並ぶ場所であり、総合がひとりでに生まれたりはしない。
ただ、いまの形の学際的共同研究から「総合」が生まれる可能性はひとつだけ残されている。すなわち、学際型共同研究を企画し運営した「リーダー」のなかにおいて、「総合」がなされることはあるのである。学際的共同研究の問題設定をして、そこに参加した各分野の研究者の専門内容に努力して分け入り、彼ら専門家たちの土俵の上で議論をし、彼らをそこから引っぱり出してきて、そうやってそこに専門を超えた議論の場を作り上げ、それらすべてに積極的に入り込み、共同研究が終わる頃にはそこに参加した研究者たちが何を考え、何を主張したいのかを身体全体で把握した、そういうリーダーが、最後に自分自身の言葉でテーマについて考え、語り、セオリーを構築していくとき、そのリーダーの営みのなかにおいて、学際を超えた真の意味での「総合」が生まれる可能性がある。
では、その場合の「総合」とは何であるのか。
それは、問題設定をしてそのテーマの本質を多方面から真に理解したいと願うリーダーが、関連する学問分野のなかに土足で踏み込んでいき、そこからその分野の知識や方法やノウハウを学んできて、そのテーマの解明に関する限りにおいて、みずからの内部で「学際」を達成することである。そして、そのテーマについての多方面からの理解に裏付けられた新たな知見を、自分自身のことばで学問として語りだしてゆくことである。そして、そのことによって、その人自身が世界を見るときの見方が大きく変容し、学問的な柔軟さが身に付き、その人自身が豊かになり、その人の生き方へとその豊かなものがフィードバックされてゆく。
これが、個人ひとりのなかで達成される「総合」である。
私は、それを、ひとりの人間が学際を行なうという意味で、「ひとり学際」と呼んできた。
ひとり学際に基づいた総合の経験を積み重ねることによって、その人は、ある問題状況に直面したときに、その全体像と全体の構造を的確に把握する能力が身に付くようになると考えられる。そして、その問題状況を解決していくための企画力と問題設定能力が開発されると予想される。これは、これからの研究者に求められる能力であるにとどまらず、複雑で多様な社会のなかで生き延びなければならない企業や官庁にとっても遠からず求められてくる能力であろう。
しかしそれだけにとどまらず、自分のなかで様々な分野の知識や方法やノウハウを積み重ねて問題にアタックしていく経験は、ほかならぬ自分自身の人生をより豊かにする可能性をも秘めている。私は「自分のことを棚上げにしない思想」というものを提唱しているが、そのためには、自分のことを、その見たくない面をも含めて多方面から見ていくことが必要であり、そのためには総合的な知のはたらきがどうしても必要になってくるのである。
このように、ひとり学際に基づいた総合というものは、学際型共同研究のリーダーのなかで生じてくる可能性がある。しかしながら、これは、学際型共同研究のリーダーをしなければ総合には至れないということを意味しているわけではない。そうではなくて、学際型共同研究に参加するひとりひとりが、自分がリーダーだという意識を持って、みずからが他の専門領域に土足で入り込み、学問の壁を超えたやりとりを行ない、その経験をもとにして自分のなかで学際を作り上げようとすれば、それは可能になるはずである。
ひとり学際というのは、なにも特殊なリーダーにのみ可能なものではない。それは、自分のなかで、自分の問題意識に対応した学際を試みようとするすべての人々に開かれているのである。
いま、リーダーを例にとってひとり学際というものを説明した。だから、ひとり学際は、なにか特別の才能を持ったリーダーじゃないと不可能だという印象を与えてしまったかもしれない。しかし、そういうことではないと私は考えている。人が、自分自身の問題意識に正面から立ち向かったとき、その人はすでに自分自身にとってリーダーなのである。自分自身の問題意識を、何とかしたい、それに何かの見取り図を与えたいと痛切に思っているとき、その人はひとり学際へと開かれているのである。
どんな人でも、自分にとっていちばん大事な問題意識をかかえてしまったとき、その問題に真正面から向かおうとすれば、必然的に「学際的」にならざるを得ない。たとえば、自分の経験から、「いじめはなぜ起きるのか」という問題意識をもったとしよう。そのときに、この問題意識に忠実になればなるほど、その人は学際的になっていかざるを得ない。なぜかといえば、「いじめ」という事象は、いじめをしてしまう人間の心理を抜きにしては語れないと同時に、人にいじめを煽ってしまう社会システムというものを抜きにしては考えられないからだ。さらにいえば、いじめということが人間存在になにをもたらすのかについての思想的考察も不可避である。かくして、「いじめはなぜ起きるのか」という問題意識に忠実になればなるほど、その問題意識をかかえた人は「ひとり学際的」にならざるを得ないのである。自分がかかえてしまった問題意識が、既存の学問領域のひとつの分野に<ぴったりと過不足なく>収まったというケースは、きわめて稀なのではないだろうか。それ以外の場合、ひとり学際的になるほうがむしろ普通なのだと私は思う。
ところが、実際の学問研究は、ひとり学際的には進んでいない。そこでは、なによりもまず既存のひとつの専門分野の内部でその問題を解明することが要請される。いわば、最初はひとり学際的だった問題意識を、既存の狭い専門分野の枠にあわせて切り取って、その一面だけを掘り下げるという手法が学問界のメインストリームを形成しているのである。
これに対して、ひとり学際に基づいた総合研究というのは、自分自身のなかにある問題意識を切り刻まないで、それを最後まで大切にするところに特徴がある。総合研究においていちばん大切なのは、「問題意識」である。私はなにが気になるのか、何を把握したいのか、何を分かりたいのか。それは自分にとってどのくらい切実な問いなのか。ここがはっきりしないうちは、総合研究へとすすむべきではない。そして、問題意識というのは、そもそも「多面的」なものだ。問題意識を、専門別に切り刻むのではなく、多面的な問題意識に合わせて、専門分野の方を様々に切り取ってくるのだ。ちょうど私の身体に合わせていろんな服や装身具を、いろんなところからもってくるときのように、私の問題意識に合わせて、たとえば社会学からはこの知識、心理学からはこの手法、生理学からはこのデータというふうに、自分の方に引きつけてくるのである。そして、自分の知性と構想力によってそれらを組み合わせて問題解明のツールとする。このことによってわれわれは「総合研究」へと向かってゆくのだ。
問題意識をひとつの専門分野の枠にはめ込むのではなく、問題意識に合わせて多様な専門分野を利用していくこと。この発想の転換がポイントとなる。
このように言うと、ただちに反論が返ってくる。つまり、専門をきちんとやらないでどうして学問といえるのか、専門あってこその学際・総合ではないのかという筋からの反論である。その背景には、「専門こそが学問である」という思想がある。そして、ひとり学際をやろうとする人間に対して、「そんなにいろんなことに首を突っ込んでいるとろくな研究者にならない」とか「あちこち食い散らかしていても学会では評価されない」とか、最後には「いつまでたっても就職はないよ」という殺し文句まで登場する。そういうことばをいろんな場面で浴びせかけて、ひとり学際をしようとする者をディスカレッジしていく構造が存在している。
ここまで断言できるのは、この私自身がそういう圧力をいままで受け続けてきたからだ。私は大学院修士課程のときからいままで一貫してひとり学際的な研究を行なってきた。その10数年間のあいだに、いったい何度このようなことばを教師から・先輩から・同級生から浴びせられ、奈落の底に沈んでいったことか。総合研究が大切だと口では言っているが、実際に学生が総合研究をはじめると、とたんに「やっぱり専門」などと言って態度を変える教師が実在する。これは、そういう教師個人の問題ではなく、実は、学問世界の構造上の問題なのである。それについては、また他の機会に述べることにするが、いずれにせよ私はひとり学際に乗り出そうとする学生や研究者を力の及ぶ限り徹底的にサポートする。いくら少数派であってもそうする。
もちろん、私は専門研究をまったく否定していない。専門研究は専門研究としてきっちりと進めていく必要がある。私が言いたいのは、それと並行して、「総合研究」という道筋も開発しないといけないということだ。
総合研究は、「ひとり学際研究」を頂点として、それを「トピックス・専門研究」と「学際型共同研究」が両側からささえるときに、はじめて成立する。そして、学問的総合というものは、鮮烈な問題意識をかかえた研究者個人のなかで成立する。ここがポイントである。
6 総合研究の理念
総合研究の核心は「ひとり学際研究」である。
そのイメージをもう少しクリアーにしてみたい。
まず、総合研究というのは、単にたくさんの知識を羅列することではない。世の中にはいわゆる「博覧強記」の人間がいる。彼らは、専門分野の壁をやすやすと乗り越え、あらゆる分野の知識を身につけていて、何かのテーマが話題になると、それに関連する果てしもないほどの多方面の知識を開陳する。論文や著書を書くときにも、そのテーマに関連する多様な知識量で勝負しようとする。ひとつの専門しか学んだことのない研究者は、そういう人間の技量に度肝を抜かれ、その知識量を羨望し、彼らをあがめたてまつることさえある。
しかしながら、このような博覧強記型研究は、かならずしも総合研究ではない。総合研究が成立するためには、まず、鮮烈な問題意識が必要である。その人が、いったい<何を明らかにしたいのか>がクリアーに伝わってこなければならない。そして、その研究によってその問題意識が<どのように解明されたのか>が明確に示されなければならない。さらにいえば、その問題を解明することが<その研究者自身にとってどのくらい切実なことなのか>がにじみ出てくるとさらに良いものになる。これらのことがはっきりと伝わってこない研究は、いくら学際的で領域横断的な手法を採用していたとしても、総合研究とは呼べない。それは、たんなる知識の見取り図的羅列あるいは系統的羅列にすぎない。
これは、非常に大事な点である。総合研究とは、いろんなことを知っている「生き字引型研究」のことではない。「ひとり学際」とか「個人の中での総合」などと言うと、何でも知っている生き字引みたいな研究者を育てることだと誤解されがちであるが、それは間違いである。学際研究・総合研究をやってきたと自称する人の論文を読んでみると、要するに多方面の知識をふんだんに使って、ある事象の見取り図を作っているだけ、ということがけっこうある。その見取り図を作ることが、いったいいかなる問題意識にささえられたものなのか、そしてその見取り図を作ることで一体何がクリアーに解明されたのか、そしてその見取り図を作ることがその人自身にとってどのくらい切実で意味のあることなのか、ということが見えてこない。
前にも述べたが、総合研究の負の面というのは、失敗したときに「3流のジャーナリスト」を生み出すということだ。単に情報のみをあちこちから集めてきて、それを羅列することで何かを達成した気分になるという、悪しきジャーナリストを続々と生み出す危険性がある、ということは肝に銘じておいたほうがよい。あるいは、ひとりよがりで自意識過剰の学者を生み出すことにもつながりかねない。そうならないためにも、総合研究をはじめるときの問題意識の重要さは強調してもしすぎることはない。「専門研究の失敗は専門バカ、総合研究の失敗は3流ジャーナリスト」。これを忘れてはならない。
第二に、総合研究が「ひとり学際研究」を中核とするのならば、総合研究の成果とはいったいどのようなものになるのだろうか。専門研究においては、その成果は「論文」の形で専門誌に発表され、その専門分野の知見を確実に一歩前進させることになる。だとすると、総合研究の研究成果はどういう形で発表され、何を生み出すのだろうか。
総合研究の研究成果は、二つの方面に展開されていくと私は思う。ひとつは、既存の専門研究によってはその全体像がとらえきれなかった諸問題について、ある統一的な視点から、その問題を把握するための「枠組み」を提示することである。たとえば、<現代社会における「いじめ」の問題は、かくかくしかじかの枠組みでとらえたときに、もっともその本質が見えてくるのだ>という把握枠組みを、ある統一した視点から提示するのである。その把握枠組みが統一的な視点をもっているためには、それがひとりの人間のなかから整合的に語り出されたものでなければならない。その意味で、それは「ひとり学際研究」の成果である必要がある。また、複雑な要因がからまった現象をとらえることが必要であるから、その把握の仕方も当然「領域横断的」「学際的」でなければならない。たんなる専門研究ではダメである。
したがって、総合研究の研究成果というのは、多かれ少なかれ「枠組み提示型」になると私は予想している。別のことばを使えば、それは「パラダイム創出型」になるということだ。すでに存在する枠組みの中でポイントを重ねていくような研究ではなくて、すでに存在する枠組みではもはやとらえきれない問題をとらえるための新たなパラダイムを創出していくのである。そして、総合研究の最良の成果は、それらの諸問題を解決してゆくための具体的な処方箋を提示するところまで進むであろう。すなわち、総合研究の最終的な理想型とは、従来の専門学ではとらえきれなかった諸問題を、研究者個人の視点から総合的に把握できるようにするための「研究プログラム」を提示し、その問題を解決に導くための具体的な「実践プログラム」を提示することである。
総合研究の研究成果が向かうもうひとつの方向は、それが研究者本人の総合的な判断力や把握力を豊かにし、その人の具体的な生を豊かにしてゆくことである。すなわち、総合研究をすることによって、その人自身の人生により大きな意味が与えられ、その人の人生がより豊かになってゆくこと。そういうことをもって総合研究の研究成果だとはっきり認めるのである。
これは、科学としての学問という考え方に浸っている人にとっては受け入れがたい見解かもしれない。というのも、科学というのは、それを研究している人がたとえどんな人であれ、極端なことを言えばどんな極悪非道な人物であれ、その人の生み出した業績がその専門分野の進歩に貢献すれば、それは立派な研究成果だと認められる−−という暗黙の前提によって運営されてきたからである。たとえ、その研究者が自分の競争欲のために他人をふかく傷つけ、人々を騙し、果てには無残に自滅していったとしても、その人がその途中で生み出した論文という研究成果は、その人の人生とはまったく無関係に評価され、その学問分野の進歩のなかにきちんと位置付けられていくのである。これが、科学としての学問のパラダイムである。ノーベル賞さえとれば、その人がどんなに権威主義的で貪欲で多くの人を抑圧し踏みつけにしていたとしても、その研究成果はまったく無傷のまま評価されるのである。科学とは、そういうルールでもって知識生産をしてよい、という了解によって運営されている知的ゲームである。
しかしながら、総合研究の可能性というのは、そのようなパラダイムとは異なった知の探究の方法をひらくところにあると私は考えている。というのも、総合研究の基本が自分自身の鮮烈な問題意識にとことんこだわっていくということならば、それにこだわる「私」というものを棚上げにしては研究が深く進展しないはずだからだ。専門研究でいいのならば、自分を棚上げにして専門の重箱の隅をつついていればいいのかもしれないが、自分自身の問題意識に忠実に研究を進めるのならば、それを研究している自分自身が、その研究対象の一部分として繰り込まれてこざるをえないからだ。研究者は自分自身の生と存在をつねに参照しながら研究を続けなければならないわけであり、その研究成果もまた自分自身の実際の生へと何かの形でフィードバックするものでなければならないはずだからである。
たとえば、人はなぜ暴力をふるうのかという問題意識を深めていくときに、それは必然的に総合研究となる。専門研究ではとてもその全体像はつかめない。そして研究が進展して、暴力というものの本質が多方面から見えはじめてきたとき、その研究者は、その人自身のことを、自分の研究の中に繰り込んで考えなければならくなる。たとえば、自分がすべての時間を費やして研究に没頭していることが、実は家族に対する有形無形の暴力になっているのではないか、ということを真正面から考えなければならなくなるはずだ。この時点において、その人の総合研究は、自分の実人生にまで入り込んでくる。ある人が、真の意味で総合的になろうとするならば、その人は、自分の実人生をも総合の対象に含まなくてはならないはずである。自分の人生と、自分の研究対象とを分離する、ということが総合研究では本来不可能なはずなのだ。この点こそ、「総合研究」というパラダイムが内包するもっとも過激な主張なのである。したがって、その人の総合研究の成果というものは、その人の実人生へと反映していかなければならない。その人の人生をより有意義なものにしたり、より豊かなものにしたり、生の意味を与えるものにすることそれ自体が、総合研究の研究成果なのだ。その人が総合研究を行なうことによって、その人が生を変容させてゆき、そのことがその人のまわりにいる親密な人々の生に対しても影響を与えてゆく。それが、実は、大きな研究成果なのである。
そういうことを、「副次的な」研究成果としてではなく、逆にもっとも大切な研究成果のひとつだと正面から言えるようなパラダイムを作り上げていかなければならない。総合研究の可能性は、そのような方面に向かっても開かれているのである。たとえば倫理学という学問を例にとれば、ある倫理学教授は、「倫理学者であることは、かならずしもその人が倫理的であることを意味しない」と口癖のように言っていたし、大学院生たちも「倫理学者が倫理的であるというのは、よくある誤解ですよね」と答えていた。倫理学が専門的科学であるというのなら、その考え方は正しいかもしれない。しかしながら、もし倫理学が総合研究をめざすのならば、その考え方は根本から間違っている。倫理学が総合研究であるためには、それは、「その研究者自身が倫理的にふるまえないということ自体を総合的に問いなおして、それが意味するものを徹底的に追いつめ、そしてそこで解明されたものを自分自身の実人生にたえずフィードバックしていく」ような知的探究でなければならないと私は思う。(これは、倫理学者はモラルに沿って生きなければならないということとは、まったくちがったことを言っている。拙著『宗教なき時代を生きるために』参照(4))
総合研究の理念について、かなり極端な意見を述べてしまった。私の考え方はあまりにも研究主体の変容ということにこだわりすぎていると思われるだろう。たしかに、そういう傾向はある。私は生命学との関連で総合研究を考えているから、そのような傾向が強くなるのかもしれない。もちろん、主体の変容をさほど強調しないような形の総合研究というものも成立する可能性はある。というよりも、おそらく、総合研究にも様々なスタイルと方法があり得るというのが正しい認識なのだろう。したがって、私がこの論文で述べたような総合研究の理念とはまた異なった総合研究の可能性を、誰かが書かなくてはいけない。
7 総合研究の教育
では、最後に、教育について述べておくことにしたい。大学は研究とともに教育の場であるから、総合研究をめざす学部は、それを行なう学生を教育しなければならない。それは、どのようにして達成されるのだろうか。
総合研究を行なう学生を育てることを仮に「総合研究教育」と呼んでおくことにしよう。総合研究教育を行なうためには、なによりもまず、大学教員自身が総合研究を実行していなければならない。これが根本である。ここがクリアーされなければ、次には進めない。ところが、現状の各地の総合科学系の学部や大学院の最大の欠点は、総合的なカリキュラムを組んでいたとしても、総合研究を実践している教員がほとんどいないことである。そのことは、学生自身がいちばん不満に思うところでもある。総合を謳っている大学院に所属する大学院生たちから聞き取りをしたことがあるが、彼らは教員がまったく総合を実践していないし、それどころか総合研究を評価しない教員が多数いることを知って、裏切られた気持ちになると語っていた。私は大阪府立大学総合科学部の学生委員をしているので、面接の際に学部生に同じ質問をしているのだが、やはり教員が総合研究を実践していないので、総合研究と言われても何をしていいのか分からないという声をよく聞く。
はっきり言うが、大学で総合研究教育を進めるためにいちばん必要なのは、まず教員自身が総合研究に着手することである。「ひとり学際」を中核とする総合研究をみずから開始して、その姿を学生たちに見せることである。学生たちは、教員が実際に総合研究をしている姿を見て、そこから学びたいと言っている。その声を無視してしまっていいのか。しかし、総合研究なんてめんどくさいことには手をつけずに、いままでやってきた専門の枠の中に閉じこもっていたいという教員のいかに多いことか。でも、それでは総合研究教育はできない。
もし、大学のなかで総合研究教育を本気で行なうのなら、まず教員の改革をしなければならない。そのためには、既存の教員がいまからでも遅くないから、総合研究を実際にはじめるような仕組みを作ること。それと同時に、新たな人事案件があるときには、総合研究を行なってきた研究者を外部から優先的に採用していくこと。このふたつがどうしても必要である。人事のときに、総合研究をしてきたものを外部から優先的に採用するというのは、ことのほか大事である。というのも、それによって、全国の大学院に対して「総合研究でも就職が可能なのだ」という認識を与えることになり、大学院における総合研究にインセンティヴを与えることになるからである。
では、大学で専門研究に従事してきた教員は、どうすればいいのだろうか。その答えは簡単だ。学生の論文指導を利用して、自分自身が総合的になっていけばいいのである。学生の問題意識は、最初はばくぜんとしている。ばくぜんとして、同時に総合的である。最初から専門に絞った問題意識をもっている学生は少ない。従来は、そういう漠然とした問題意識を、狭い専門的な問題意識に誘導することを「指導」と言っていた。しかしながら、総合研究教育ではそのようには考えない。学生のもっているばくぜんとした問題意識を、痩せ細らせることなく自問自答してさらに深めていってもらう。自分が何にこだわっているのか。自分はどういうことが分かればハッピーなのか。何を考えているときにわくわくするのか。そのあたりを、学生と一緒になって、学生の側のペースで考えていくのだ。すると、学生の問題意識の姿が、しだいにクリアーになってくる。もちろん、ここにいたるまでにずいぶん時間と根気が必要である。臨床心理で言うところの「非指示的」手法が必要である。
学生の問題意識が、学生自身のことばでクリアーになってきたとき、それは総合的な形をとっている。たとえば、「社会はどうしてある時期に急激に変化するのかを知りたい」とか、「人間はどうすれば苦しみから立ち直れるのか知りたい」とか、そういう形をとることが多い。これらは、総合的な問題意識である。総合研究教育では、このような総合的な形をとる問題意識を大切にする。
たとえば、これが専門教育であればどうなるだろうか。歴史学講座で学生が「社会はどうしてある時期に急激に変化するのかを知りたい」という問題意識をもったとする。すると教員は、「ここは歴史学なのだから、明治維新とかの具体的な時期を取り上げて、史料を読んで、その一部分を詳しく解明しなさい」という指導をするだろう。このときに、総合的な問題意識の豊かさが、一気に狭いものへと縮減される。その学生は、おそらく、歴史学の視点だけではなく、社会構造の自発的変容とでもいうような社会学的な興味関心をも同時にもっていたことであろう。あるいは、歴史の急激な変化が、人間のこころにどのようなトラウマを残すのかという社会心理学的な興味関心も含まれていたかもしれない。しかし、そういった複合的で総合的な問題意識を、専門教育は削り落としていく。
総合研究教育では、それとは逆の方向に学生を誘導しようとする。すなわち、学生のその問題意識のなかに、どのような多様な学問的問いが隠されているのかを、学生とともに解明していく。そして、その問題意識に取り組むときに、様々な手法や知識体系が学問の世界にはあることを認識してもらう。そして、自分の解明したい問題を扱うときにもっとも役立つような、ひとつあるいは複数の研究手法を自分で選びとってもらう。まず自分の問題意識があり、次に、既存の学問分野から複数の手法と知識とを学んでくるという順序で、研究を進めるのである。既存の学問分野の枠に自分を合わせるのではなくて、自分の問題意識のほうに、既存の複数の学問分野を引き寄せてくるのである。学生のそういう試みをサポートするのが、教員の役目である。
そしてまさにこのときに、教員は、みずからが総合的に開いていくチャンスを獲得するのだ。というのも、学生がいくつかの学問分野から手法や知識を借りようとしても、指導教員は、自分の専門ではない部分についてはなにも教授できないわけである。自分の専門以外では、教員と学生の差は、ほとんどなかったりする。ふつうは、教員は自分の専門外のことは他の教員にゆだねてしまうか、あるいは学生にその方面のことはあきらめさせるかする。しかし、総合研究教育ではそうしてはならない。そうではなくて、教員は、学生と一緒に、専門外の学問領域を勉強すればいいのだ。学生と一緒にその分野の基本文献を読み、学生とディスカッションをすることによって、教員自身が、自分の専門以外の領域に横断していけばいいのだ。そうすることによって、教員は少しずつ総合的になっていくだろう。
総合研究教育においては、教員は常に自分の専門以外のことを学び続けないといけない。これが基本である。これができない教員は、総合研究教育をする資格はない。これを聞くと、そんなめんどうなことは嫌だと思われるかもしれないが、そんなことはない。学生と一緒に勉強するのだから、ゆっくりとした同じペースでやっていける。その道の専門家と渡り合うわけではないのだ。それに、知らない分野のことを勉強するというのは、歳をとってからも実は刺激的で楽しいことなのだ。学者なのだから、新しいことを知るのは興奮する。
ただ、多くの専門研究者は、学生と一緒に専門外のことを学んだりはしない。その理由は簡単だ。プライドが許さないのである。専門分野だったら、ぜったいに自分のほうが上である。上下関係は崩れない。その権力に乗ったうえで、上から下への「指導」ができる。専門研究者の多くは、そういう世界に安住してきた。しかしながら、他の分野のことを学生と一緒に勉強しなければならないとすれば、そこでは、自分は一挙に学生と同じ地平へと突き落とされる。自分が、学生と同等になってしまうのである。これは、教師としてのプライドが許さない。同時に、それは教員にとっても恐怖である。自分が誰かの上に立っているのではない、という状況に置かれることは、恐ろしい。自分の研究を真に生き生きと肯定しているのではない学者の場合は、とくにそうだ。
総合研究教育を行なうときは、そんな小さなプライドは捨てること。自分が学生と同じだって、かまわないではないか。上から指導できなくてもいいではないか。それで、自分の専門的な優位が崩れるわけでもない。学生と同じ地平で学んでいくことの楽しさというものを味わってみてもいいのではないだろうか。それに、実際のところ、教員の優位は残る。いくら専門外の知識では学生と同じだったとしても、「研究」ということをやってきた年月では比較にならない。どうやって知識を吸収するのか、考えをまとめるとはどういうことか。それらについてはやはり教員は先生なのである。
専門外のことを一緒に学ぶことに対する躊躇のもうひとつは、自分が学生に嘘を教えてしまうのではないかという良心的な困惑である。しかし、それは教員の意識しだいでいくらでも防げる。総合学科には多様な専門の教員がいるのだから、あやふやなことは彼らに聞けばいいわけだ。それに、事典や、学生向けの概説書を教員が読むと、たいがいのことは大筋は間違わないで理解できるように書かれている。だから、それほど恐れることはない。
こうやって学生の論文指導をするプロセスのなかから、教員ひとりひとりが自分の専門から他の専門へと領域横断し、他の分野の方法や知識を吸収して味わい、いままで知らなかった考え方を学んでいき、そうやって徐々に総合的な感性と経験を身につけていけばいいのである。
ここで学生の側に立ってみよう。事象を総合的に把握するとはどういうことか、様々な領域の知識を自分のなかで融合するとはどういうことか。それらを学ぶには、実際にそれらのことを実践している教員と接触して、彼らの発想パターンや思考を直接に感じとり、そこから学んでいくのがもっとも効果的である。教科書学習や、カリキュラムの力によっては、総合研究教育は効果的には進められない。少人数の、生身の人間のあいだのやりとりがもっともよい。総合研究というのは、職人が師匠から技を直接盗みとるという、むかしながらのシステムがもっとも適しているのかもしれない。もちろん、徒弟制度を復活してよいわけはなく、その閉鎖性や、師弟関係という名の奴隷制を、今日の大学で再生産してはならない。しかし、個人的かかわりの薄い一方向的講義や指導は、総合研究教育からはもっとも遠いということだけは押さえておく必要がある。
8 学部と大学院の役割分担
最後に、大学の学部と大学院の役割分担について述べておきたい。
総合研究の中核となるのは、「ひとり学際研究」である。研究者個人の内部で総合が達成されるときに、はじめて総合研究が成立する。しかしながら、最初から全くのひとりで課題に取り組んだとしても、それが総合研究にすぐに結びつくわけではない。まず自分の問題意識を鮮明に把握することがスタート地点なのだが、それを総合的に解明するためには、どうしても「トピックス・専門研究」と「学際型共同研究」の実践を経験しておかなければならない。それら二つの研究を一度経験してみて、その本質と意義とをしっかりと体得してから、ふたたび自分の問題意識へと戻って、「ひとり学際研究」へと進んで行くべきである。
すなわち、順序としては、
自分の問題意識の把握(問題意識の総合性の自覚)
↓ ↓
トピックス・専門研究 学際型共同研究
↓
↓
ひとり学際研究
という流れになるのがいちばん効果的である。たとえば教師がある学生と対話して、その学生が「なぜ人は暴力をふるうのか」という問題意識をもっていることを発見したとしよう。その問題意識は、きわめて総合的なものである。それは、現代社会のあらゆる側面に関連する複合問題である。まさに、総合研究に値する大きなテーマだ。
次に教師は、この問題がどのくらいの幅広さと深さをもっているのかを学生とともに考えなければならない。それは、人間のこころの深層にまで食い込む問題でもあるが、同時に、政治や国家という装置を支えているものもまた暴力であるという意味で、社会システムの根幹にかかわる問題でもある。したがって、このテーマを深く考えていくためには、人間の心理機構の側面からだけではなく、人間が作り出した社会システムと人間個体との相互関係という側面からも考察されなければならないわけである。さらに言えば、人間に攻撃性を付与する化学物質の働きも考慮に入れておかなくてはならない。問題意識の総合性を、こういう形で学生に自覚してもらうことが必要である。
しかしながら、ここで学生に、「このテーマをあらゆる側面から解明してみよう」と言ったとしても、それは無理だ。いきなりそこに飛ぶのではなく、そのような総合性を認識した上で、まず何かの個別のトピックスを取り上げて、それを素材として問題意識を一度深く掘り下げてみることをするべきである。総合研究へと至る道筋の一ステップとして、専門研究を少しだけ経験してみるのである。たとえば、「人はなぜ暴力をふるうのか」についての文化人類学の先行研究を調べてみて、文化人類学における暴力の研究という専門研究を少しだけ本気でやってみるのである。そのことによって、学生は、学問において厳密にものを考えるとはどういうことか、客観的に議論を進めるとはどういうことかを身をもって体得するのである。
それと同時に、暴力や攻撃性ということが、他の分野ではどのように考えられているのかを知るために、様々な専門分野の研究者が集まる場所に出向いていって議論に参加したり、あるいは専門学会などに顔を出してその分野の思考方法や知識などを吸収したりすることも必要である。いちばん効果的なのは、自分から進んで「暴力現象」にかんする学際的なディスカッションの場を企画してみることである。専門の異なる学生や、大学院生や、研究者に声をかけて、学際型共同研究をとにかく試みてみる。そうすることによって、自分がいままで全く知らなかったようなものの考え方や、価値観や、方法論や、知識体系などに直面し、人間の知の世界の多面性を身をもって知ることになるのである。その経験を経ておくことは、「ひとり学際研究」へと進むときに大きな力となる。ひとつの学問分野から見える風景が、他の学問分野から見ればまったく異なった姿をもって立ちあらわれるということを、「ひとり学際研究」をする者はどうしても知っていなければならない。もちろん、このような学際型共同研究は大学のなかの学生同士でも充分立ちあげることができるし、総合学科のなかではさらに容易になるはずである。教員からのサポートがあれば、さらによいであろう。
このようにして、総合的な問題意識をもった学生が、「トピックス・専門研究」と「学際型共同研究」を実際に経験し、その体験を活かして、「ひとり学際研究」へと進んでゆくことがもっとも望ましいのではないかと私は考えている。人がなぜ暴力をふるうのかについて、多様な側面からの検討をふまえたうえで、ある統一的な解答を与えることができれば、総合研究の立派な研究成果となる。さらに、暴力現象についての総合的な研究枠組みを提唱し、それが研究する個人の実人生へとフィードバックされていけば理想的である。専門的な研究も経験し、学際的な共同研究も経験し、そしてその研究者個人の内部である統一した考え方を醸成して、研究成果として発表する。そういう道筋の全体が、総合研究である。
ところで、学生がこれらの道筋をひととおり経験するのに、どのくらいの時間がかかるのであろうか。私の経験から言えば、問題意識をもってから最低数年から一〇年はかかると思われる。ひょっとしたら、人の一生分の長さが必要かもしれない。人文社会系分野での、最近の総合研究の成果としては、立岩真也の生命と社会研究がある。立岩の研究成果である『私的所有論』は一九九七年に出版されたが(5)、それは二〇代前半から三〇代後半までの一〇年以上にわたる多方面の専門研究と具体的な実践に裏付けられた、彼自身の「ひとり学際的」思索によってできあがったものである。そのくらいの時間はかかるというわけだ。
したがって、大学で総合研究教育を行なうためには、とてつもなく長いタイムスパンが必要である。冷静に考えれば、大学という制度の枠内で、総合研究教育をきっちりと行なうのははじめから不可能だということになるかもしれない。だが、そうも言ってられないので、ひとつの見取り図を提示することにしたい。
まず、大学一・二年生のときの目標は、学生に自分自身の問題意識をもってもらうことである。総合研究という学問の仕方があることを知ってもらい、みずからの問題意識がけっこう総合的であることを自覚してもらう。この時点から、教員と学生が対話をはじめるというのが理想である。総合研究というものを紹介するイントロダクション的な授業は、一年生のときに開講すべきであろう。
大学三・四年生のときには、その問題意識を深めるために、ひとまず何かのトピックスを選んで、トピックス・専門型研究を経験してもらう。そしてそのトピックスを素材として卒業論文を書いてもらう。ここで気をつけなければならないのは、このトピックス・専門型研究は「専門家養成」のための研究ではないということを、学生も教員もともに自覚しておくことである。それは、総合研究に役立つ限りにおいての専門型研究である。この点を間違わないようにしなければならない。
それと同時に、大学三・四年生あたりから、なにかのチャンスを見つけて、学際型共同研究の場に積極的に触れていくことが必要だ。学生の勉強会や、学内・学外の研究会などに参加するように教員は勧めるべきである。
これらのプロセスを経て、学生がふたたび自分の総合的な問題意識に戻ってくるのは、大学院修士課程の時期が適当なのではないかと私は思う。学生が「ひとり学際研究」へ向かうべきなのは、専門研究の深さと限界を身をもって知り、学際的な刺激を受けて知的好奇心が多方面に広がりはじめるこの時期なのではないだろうか。この意味では、総合研究は大学院修士課程において本格的に開始されるべきである。総合研究のプログラムは、大学院修士課程を中核にして、組み立てられるべきである。大学院の授業も、その中心は、分野の異なる大学院生や教員たちのあいだのディスカッションや共同研究に当てられるべきである。専門的教育がその基本になってはならない。したがって、大学院の構成も、大講座であるべきだし、研究室や部門制にもとづいた構成になっていてはならない。
大学院博士課程になれば、個々人の「ひとり学際研究」の実践が中心となる。自分の問題意識に自分自身で総合的な解答を与えるべく研究を深めるのが博士課程の役割であろう。それと同時に、博士課程になれば、みずから進んで学際型共同研究のリーダーとなって、学内・学外で研究会や研究ネットワークを企画運営するべきである。博士課程ともなれば、もう自立した総合研究の研究者に向かって自分の力で進んでいくことが求められる。博士課程は、総合研究の本格的な実践が開始されるときである。
こういうふうに考えると、やはり総合研究教育の中心部分は、大学院修士課程であると言わざるを得ない。大学院修士課程での教育を中心として、そのイントロダクション部分を学部へと前倒しし、その洗練部分を博士課程へと延長するというのが現実的なプログラムだと私は考える。いずれにせよ、学部と大学院が連携して教育プログラムを組めることが、総合研究教育の必須条件だということになる。
ただし、これは、大学の学部から同じ大学の大学院に進学するコースしか認めないということではない。むしろ、その大学の学部とは関係のないところで学んで、その背景をもとに総合研究に進みたいと希望している学生を、大学院は積極的に受け入れなければならないであろう。具体的には、まず大学内の他学部卒業の学生を積極的に受け入れることが重要だと思われる。なぜなら、他学部から越境して入ってくる学生は、学問の垣根を横断してくるわけだから、「ひとり学際研究」にもっとも近い位置にいると言えるからである。「ひとり学際研究」を行なうためには、他の分野から越境してきた学生のほうが有利になる。これはおもしろい逆説である。ふつうの専門研究では、他の分野から来た学生は圧倒的に不利になると考えられている。しかしながら、総合研究においては、その逆が成立するわけだ。ここを逆手にとって、大学院に入学する学生の枠として「領域越境学生」というカテゴリーを作って、優先的に入学させてみるのもおもしろい。たとえば、学部で二つ以上の専門を渡り歩いた経験を、入試のポイントとして加算するなどである。ひとつの実験として行なってみる価値はある。また、同じ理由で、社会にいったん出て多様な経験を積んだ人も積極的に入れていくべきであろう。もちろん社会人入学の枠はいま広がっているが、単に勉強をもう一度したいとか、あるいは修士号・博士号をとりたいという理由だけで希望する社会人を入学させるのではなくて、むしろ社会での多様な経験を素材にして「ひとり学際研究」へと進みたいという社会人をこそ、優先的に入学させるべきではないのだろうか。
ところで、そういう大学院生を養成したとして、いったいどうやって大学教員に就職させればいいのかという疑問が起きてくるかもしれない。しかし、これについては、私ははっきりした考え方をもっている。これからの大学院教育は、大学教員の再生産という目標から、はっきりと脚を洗うべきである。大学院教育の目標は、自分のために深い学問をしてみたいと思う人間をサポートすることであり、大学教員を再生産することではない。大学院を修了した大学院生が身の振り方をどうするかというのは、その人自身が決めるべきことであって、大学教員が背負うべきことではない。大学教員は、このことを肝に銘じて、頭を切り替えるべきである。将来の就職を世話できないから大学院入学を勧めないということがいままでよくあったが、これは完全な本末転倒だ。ある大学教授は、「男の学生は就職がたいへんだから大学院には取らないが、女の学生は結婚するから安心して大学院に取れる」と言っていたが、これなどはこの意味での本末転倒の見本であると同時に、あからさまなセクハラである。
大学院の修士課程定員増と、大学教員ポストの削減傾向を冷静に考え合わせてみても、大学院修了者が大学教員になる確率はこれから低くなることはあっても、高くなることはないということが予測できるはずである。だとすれば、大学院修了者は、その後、どうなっていくのだろうか。
ここが大事なところであるが、ひとつの狭い専門領域だけを掘り進めていった大学院生は、大学教員あるいは研究所研究員の道が閉ざされてしまえば、ほかの道を探すのはかなりきびしいと言わなければならない。しかしながら、総合研究を行なってきた大学院生は、それにくらべれば、これからの社会ではより多くの可能性が開けていると思われるのである。というのも、総合研究を行なうことによって、その学生には「ものごとを多面的に把握する能力」や「複雑な事象を一望の下に見渡す力」や「新しいアイデアを出したり、企画をする力」などが身に付いてくると予測されるからである。これらは、これからの混沌とした複雑な社会を運営していくときに、どうしても求められてくる能力である。ひとつの専門を突き進んだ人間にはできないこと、そしてたんに知識だけを手当たり次第取り入れた人間にもできないこと、それは、混沌とした状況のなかで起きてくる問題の本質を多方面の知識をもとに的確に把握し、「こういうふうに考えていけば道筋が開けるのではないか」「こういうふうに企画を立てれば事態は展開していくのではないか」という問題提起と実践を身をもって行なっていくことである。そして、それこそが、総合研究教育が重点的に伸ばそうとしている資質でなのである。そのような把握力・企画力・突破力のある人材を育てるのに、総合研究教育ほど適しているものはない。そしてこれらの人材は、とくに企業や、マスコミ・ジャーナリズム、様々な業種や官庁のプランニングを担当する部門において、切実に求められるようになっていくであろう。そして、そういう部署で、企画を担当したり、コーディネイトを担当したりすることが求められるだろう。
つまり、総合研究の大学院の修了者は、社会人として就職できる道が実は開かれているということである。少なくとも、人文社会系の専門研究の大学院の修了者よりは開かれている。上にあげたものに加えて、フリーの職業、たとえばフリージャーナリストやライターなども充分あり得る選択肢であろう。あるいはNGO的な職業に就くケースも多くなっていくであろう。
したがって、総合研究の大学院が養成する人材の目標は、はっきりと大学外社会人に設定するべきである。大学院教育もまた、大学外社会人を育てるという目標に向かって組み立てられなければならない。もちろん、大学教員になる者もいるであろうが、それは例外的な道である。大学教員になりたい大学院生は、みずからの力で公募を渡り歩いて勝負していけばよいのだ。いまいる大学教員自身が、そういうふうに頭を切り替えられるかどうかが、いま問われているように私は思う。
9 結語
総合研究の理念についての私見を述べてきた。まだ未熟な点も多いと思うが、単なる理論としてだけではなく、このような総合研究を具体的に作り上げていく青写真として私はこの論文を書いている。読者も、そのような地平でこれを受け止めてくださればさいわいである。
補足的に二点ほど追加しておきたい。
まず、私は専門研究を否定しているのではないということだ。専門研究は、専門研究として着実に進展して行くべきである。そこに疑いはない。私が言いたいのは、専門研究とは別のパラダイムとして、総合研究というものが成立しなければならないということである。総合研究を試みようとする者を潰す権限は、専門研究者にはない。
というよりも、もし「ひとり学際研究」としての総合研究が成立すれば、専門研究もまたそこから大きな刺激を受け取ることができるはずである。総合研究は、「トピックス・専門型研究」と「学際型共同研究」によって両側から支えられる。それと同じように、専門研究もまた、「学際型共同研究」と「ひとり学際研究」によって両側からエネルギーを与えられることが可能になるだろう。専門研究者も、学際型共同研究に参加することによって新たな問題の切り取り方を学んでみずからの専門に持ち帰ることができるし、ひとり学際研究を試みることによってみずからの発想をリフレッシュしたり、視野を拡大して思わぬ視点を専門に持ち込むことができるかもしれない。だから、専門研究と総合研究はお互いに手を携えることができるはずなのである。専門研究者は、総合研究のことを「あんなものいくらやっても学問になるはずはない」と言うべきではないし、総合研究者もまた専門研究のことを「時代遅れの専門バカ」と言うべきではない。
補足の第2点は、総合研究を押し進めていけば、それは必然的に大学という枠を超え出ていくということである。総合研究が、本当の意味での総合になっていくためには、大学という小さな世界を超え出て、広い社会と相互流通しなければならない。大学の内部だけで意味を持つ総合研究というのは、語義矛盾である。その意味でも、大学・大学院修了者が社会に出て活躍するというのは、総合研究にとってどうしても必要なことである。大学教員を再生産するだけの総合研究というのは、総合研究の退廃した形である。総合研究を教育する側の大学教員もまた、定年前に大学の世界から脚を洗って、大学の外で総合研究を続けていくべきである。
総合研究は、それを行なう人の実人生にフィードバックされていくのであった。その意味でもまた、総合研究は大学や学界などの枠を超えなければならない。人生は、大学や学界よりもずっと長く、幅広く、奥深い。その広大な世界をフィールドとして果てしなく続いていくのがほんとうの総合研究なのだ。この論文では、大学における総合研究の可能性について議論した。しかし、総合研究というものは、必然的に大学の枠を超える。大学は、みずからを超え出ていくものを生み出し続ける、ひとつの小さな知の広場であればいいのである。
註
(1) 早川聞多・森岡正博編『現代生命論研究』国際日本文化研究センター・日文研叢書9、1996年
(2) 森岡正博「文化位相とは何か−文化位相学基礎論(1)」『日本研究』第3集、79−104頁、1990年
(3) 森岡正博『自分と向き合う「知」の方法』PHP研究所、1997年
(4) 森岡正博『宗教なき時代を生きるために』法藏館、1996年、第2章、第4章
(5) 立岩真也『私的所有論』勁草書房、1997年