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作成:森岡正博
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書評
『週刊読書人』2002年6月28日 1頁 第2443号
私の身体は誰のものか?
鷲田清一『死なないでいる理由』『〈弱さ〉のちから』を読む
森岡正博
可能性の水先案内人
鷲田清一の仕事が、大きな注目を集めている。現象学研究から、ファッション論、そして生命倫理に至るまで、その幅は果てしなく広い。最近では、「臨床哲学」というジャンルを提唱し、海外の哲学カウンセリングや、ソクラテス・ダイアローグなどの新潮流と、同時代的な交流をはじめている。鷲田の所属する大阪大学を中心としたこれらの活動は、日本のアクチュアルな哲学界の将来を占うものと言ってよい。
現代の日本の哲学者のなかで、とりわけ注目を集めているのは、永井均、中島義道、鷲田清一の三人だ。永井は超然とした孤高の位置を保ち、中島は自分をギャグにしてまで知の運動に奉仕している。鷲田は、その洗練された文章をフルに活用して、現代における哲学の可能性の水先案内人の役割を果たしていると言えるのかもしれない。
ファッション論をレパートリーとする鷲田は、とてもおしゃれである。彼の文章がおしゃれであるだけではない。彼自身のファッションが、よいのである。ずいぶん昔のことだが、彼がとても形のよいジャケットを着ていたので、それはどこのものかと聞いたところあっさりと「コム・デ・ギャルソン」だと答えられてしまったのを思い出す。そのいくぶん古びたジャケットと、彼の眼鏡の繊細なフレームがとてもよく似合っていて、感嘆したものだ。
絶妙の取り合わせ
鷲田の文章は、柔らかい。しかし、その中に秘められている視線は、このうえなく硬派である。この絶妙の取り合わせが、多くのファンを生んでいる理由なのだろう。鷲田の近著『死なないでいる理由』は、彼が最近発表した論文とエッセイに手を加えて、再編成したものだ。鷲田の視線は、自己の存在、所有、アイデンティティなどを貫き、やがてやってくるみずからの老いと死へ向かっている。
鷲田は、「所有」の問題にこだわっている。ここに、現代の哲学の急務の課題があるのだと言う。私は、お金を持っているから、家族を持っているから、若さを持っているから、私がいるという「安心」と「落ち着き」を得ている。しかし、お金を失い、家族を失い、若さを失ってしまった私というのは、いったいどうなるのだろうか? それはそもそも私の知っている私なのだろうか?
あるいは、私の身体は誰のものなのだろうか? 生きているこの身体から腎臓を一個取り出して誰かに贈与することができるのだから、私の臓器は私のものだと言えそうに思う。しかし、売春をしている最中の女性の場合、その性的な身体は相手の手中にあるのであって、けっして私のものではないようにも思える。私という存在者がいて、その存在者が自分自身の身体を管理したり、その管理権を誰かに譲渡したりするというふうな捉え方は、はたして妥当なのだろうか?
身体の可処分権
鷲田は、これらの考え方を再検討する。彼は、二つの次元があることを指摘する。
ひとつは、「私が身体を持っているということは、私が身体を自由に処分できるということだ」とする次元である。鷲田は、これを「可処分権」という言葉で呼んでいる。一見、これは自明のように見えるけれども、はたしてそうなのか。鷲田は言う。われわれの人生をよく観察してみれば、自分の身体の処遇を決定する人間が、何度か変わることに気づくだろう。
「幼児は親ないしは別の成人の庇護のもとで育つ。病気やけがといった、その身体に起こることの処置はその庇護者が決める。やがて成長とともに、その身体はその身体がそれであるところの「だれ」かのものとなる。が、人生の終わりにふたたびその身体の処遇を決する者は、家族ないしは別の介護者になる」(二六頁)。このように、身体の所有と、身体の可処分権とは、一致していない。身体とは、それを所有しているかのように見える主体に内属しているのではなく、むしろ人間たちのあいだの「交通」という網の目の中に埋め込まれたなにものかである。
鷲田のこのような視点は、前著『〈弱さ〉のちから』などにおける、「聴くという試み」によって肉付けされたものに違いない。鷲田は、ケアに関わる仕事をしている人々から何かを聴き取るという作業をとおして、大切な声はけっして「強い」場所から発せられるのではなく、逆に、傷を負って挫けているような、「弱い」場所から届くのだと気づいていく。所有を拡大していく自我から発せられる声ではなく、所有を削られていくプロセスのなかから届けられるつぶやきのようなもの。このようなものへと注がれる視線が、鷲田の言う臨床哲学の基盤にはあるのだろう。
所有のもうひとつの次元は、「私が私であるということを、私が自己を所有していることへと還元する」ような次元である。これは人格の自己同一性と呼ばれる。私という存在が、過去、現在、未来を通じて同一であるという事態すらも、所有の形態によって根拠付けられるとする思考がそこにはある。現代においては、このような自己同一性すらも、危機に瀕しているのではないかと鷲田は考える。未来に賭けることもできず、自己の身体からも疎外され、内面の空虚もどんどん膨らんでいくわけだから、自己同一性の原感覚もまた底が破れてしまうのである。
鷲田は、自己同一性の根拠を、自己の所有としてではなく、「他者」の「他者」としての〈わたし〉というものによって考えようと提案する。この視点は、先に紹介したような、私の身体を人間のあいだの「交通」としてとらえようとする眼差しと一致する。所有の問題系を、交通の問題系へとシフトさせることによって、どのような世界観が開けてくるのか。しかし鷲田はまだその新次元を明確には描けていないように見える。
被所有の悲惨の中で
おそらく所有という問題に対しては、さらに多方面からの切り込みが必要なのだろう。たとえば、私が何かを所有するというできごとだけではなく、私が誰かに(何かに)所有されているというできごとについても、考察を深めていくべきなのかもしれない。売春をする女性は、その売春行為のあいだ、自分の身体が購買者によって所有されているという感覚をもつはずである。
工場労働や、官僚組織でのルーティーン・ワークにおいても、私の身体が何か大きなシステムによって管理され、制御され、いじられ、成果を吸い上げられ、その意味で所有されているとも言い得る。それは資本制だとか、近代社会システムだとか言われてきたわけだが、この被所有の地平はさらに先まで伸びているのではないか。たとえば、時間というもの。時間の容赦ない流れは、私の身体から若さを否応なく奪い、私を運命のなかでもてあそび、いじり、多くのものを奪ってゆく。私は時間によって所有され、被所有の悲惨のなかで、かすかな予定外のよろこびを得る。存在とは基本的には被所有のことではないかとも思えるのである。