LIFESTUDIES.ORG/JP
ホーム > 論文・エッセイ > このページ |
作成:森岡正博
掲示板|プロフィール|著書|エッセイ・論文 English Pages | kinokopress.com |
論文
『現代生命哲学研究』第3号 (2014年3月):109-130
「産み」の概念についての哲学的考察
生命の哲学の構築に向けて(6)
森岡正博
1 はじめに
本論文は、『現代生命哲学研究』第3号(すなわち本号)に掲載された居永正宏の論文「「産み」の哲学に向けて(1):先行研究レビューと基本的な論点の素描」における「産み」の哲学についての考察に触発されて書かれるものである。居永は以前の論文「他者の産出と自己の誕生肯定:森岡正博の「誕生肯定」概念の批判的検討」において、森岡の誕生肯定の哲学を批判的に考察し、森岡の哲学に「「産み」への関心の欠如」があると指摘した[1]。そのうえで、居永は「産み」の哲学を構想すべく、前記論文を書き上げたのである。
居永が指摘するように、私はこれまで「産み」について正面からの考察を行なってこなかった。しかし、我々が構想しようとしている「生命の哲学」というジャンルにおいて、「産み」は避けては通れない概念であることは明白である。また伝統的に男性が(女性を排除しつつ)哲学のメインストリームを作り上げてきたことによって、女性固有の問題とみなされた「産み」についての哲学的考察が極端に不十分なものにとどまったことも、居永が指摘するとおりである。実際、「産み」の哲学についての先行研究はさほど存在しない。「産み」についての哲学的考察を本格的に行なうべき時期が到来していると考えられる。
そこで本論文では、居永の論文を参考にしつつ、私の考える「産み」の概念にいくつかの視点から迫っていくことにしたい。(なお本論文は、連載論文シリーズ「生命の哲学の構築に向けて」の第6巻として刊行される。同連載の第5巻までは『人間科学:大阪府立大学紀要』に掲載されたが、本巻に限っては諸事情により『現代生命哲学研究』に掲載される)。
2 妊娠と「産み」
以下の考察では、「産み」という概念に対して我々が明示的あるいは暗黙裡にいかなる意味内容を付与しているのかを、様々な思考実験をとおして明らかにしていく。その際、現に我々の多くが持っている「産み」の意味について考察するにとどまらず、将来に向けての「産み」の概念の再構築も同時に試みる。また以下の考察は、妊娠・出産について女性が経験するリアリティについての考察ではない。以下はあくまでも産みの「概念」についての考察であることに注意してほしい。ただし、以下の考察が、妊娠・出産についてのリアリティを再検討することにつながる可能性は存在する。しかし本論文ではそこまでの作業を行なうことは意図されていない。
また本論文では、人間が主体となって子どもを産むというケースが念頭に置かれている。生物一般の「産み」については、本論文のメーンテーマとはならない。ただし、人間の「産み」と生物一般の「産み」との関連性については、今後の重要な検討課題となるだろう。また、「作品を生む」というような非生物の産出や、「アイデアを産む」というような抽象物の産出についても本論文は扱わない。ただし、それらと、人間の「産み」との関連性についても今後の重要な検討課題となるだろう。
では、もっとも日常的で素朴な次元から考えてみよう。「産み」という概念によっていちばん最初に想像されるのは、人間の女性が妊娠を経て出産することである。これを「産み」であると考えない人はいないであろう。
そこでまず、産む者の「身体」に注目してみる。するとすぐに思い浮かぶ論点として、女性の出産に関与した男性は子どもを産んだと言えるかどうかという点がある。女性と性交をして精子を膣内に射精した男性は、子どもを産んだと言えるのか。この場合、一般的な「産み」の理解は、「この男性は「産み」のきっかけを与えたかもしれないが、けっして子どもを「産んで」はいない」というものであると思われる。というのも、女性は「妊娠」というプロセスを経験しているのに対し、男性はそのプロセスをまったく経験していないからである。ここから、「産み」の重要な条件として、女性が身体の内部に胎児を妊娠するということがあるように思われる。ここで、将来の人工生殖を想像してみよう。
将来、人工子宮による子産みが可能になったとする。そこでは、男女から採取した卵と精子を体外受精させ、それを孵化室の人工子宮に移植し、胎児をその中で人工的に生育させ、自立生育可能な段階まで育てて「出産」させる。このプロセスにおいては、女性も男性と同様に、自分の身体の内部で妊娠することがない。彼らは人工子宮の内部において生育する胎児を眺めつつ、期日が来たときに、大きく育った赤ちゃんを受け取るのである。
では、この場合、女性はこの子どもを「産んだ」と言えるであろうか。現在の時点でこう問われたとき、多くの人は、女性が産んだとは言わないであろう。そこにあるのは「子産み」というよりも、テクノロジーによる「子作り」であるというのがおおかたの理解になるはずだ。したがって、身体の内部に胎児をはらむという意味での妊娠のプロセスがないと「産み」とは言えない、というふうになりそうに思われる。しかしながら、そのような理解では、人工子宮のケースにおいて子どもを「産んだ」者は誰もいないということになってしまう。それは生まれた子どもにとってたいへんな心理的重荷になるにちがいない。したがって、社会的なレベルで、そのような理解を避けようとする力がはたらき、卵と精子の拠出者が一連のプロセスの完了とともに子どもを「産んだ」と言えるような形へと「産み」の概念が再構築されていくことになると予想される。そしてその場合、人工子宮は子どもを「産んだ」のではなく、人工子宮は提供された受精卵を「育てた」ということになるだろう。
次に、もう少し複雑なケースを考えてみたい。さきほどと同じプロセスによって、人工子宮で胎児を生育させる。そしてある程度大きくなったところで人工子宮から取り出し、それを女性の子宮に移植する。そして女性はこの移植された胎児を体内で育てて、出産するのである。この場合、これを「産み」と言うことができるだろうか。もし胎児まで生育させることをせずに、受精後すぐの胚の段階で子宮に移植するとすれば、それは現在行なわれている体外受精―胚移植による出産と同じである。体外受精―胚移植による出産については、多くの人がこれを「産み」であると考えるだろう。だとすれば、人工子宮で胎児まで育ててから子宮に移植した場合はどうであるのかというのが、この思考実験である。この場合、女性が妊娠する期間は、体外受精―胚移植の場合よりも短くなる。短い妊娠期間しかない場合、それを「産み」と言うのは難しくなると多くの人は思うのではないだろうか。さらに極端に妊娠期間を短くした場合はどうか。もう母体外で生育可能なくらい大きくなった胎児を、ほんの数日間の妊娠体験のためだけに(何かの方法で拡張された)女性の子宮に移植するという場合はどうか。妊娠期間が短くなればなるほど、それを「産み」と言いたくない人が増えてくるように思われる。
と同時に、しかしそれでもやはりそれは「産み」であるとする考え方は成立可能のように思われる。というのも、たとえ妊娠期間が1日間であったとしても、胎児を身体の内側に入れ、胎児とともに一体となって時を過ごし、そのあとで出産するという営為を自分の身体で行なうことによる心理的達成感・充足感などを経験できれば、それを「産み」と呼んでもいいとする考え方はあり得るからである。だが、このようなケースは出産だけを切り取って特注で経験するようなものであり、けっして「産み」とは言えないとする考え方もあり得る。
さらに別の角度から見てみよう。女性が妊娠するとき、それは胎児を単に身体の中に入れておくだけのことではない。それはお金を金庫の中に入れておいて、期日が来たら外に出すというようなことではない。胎児の血液の一部は胎盤を経て母体に流れ込み、母体中の物質も胎児の中に侵入する。妊娠することによって、女性の身体は大きな変化を起こす。ホルモンなどの物質の分泌によって心理面でも変化が起きることが多いとされている。妊娠によってつわりなども始まる。胎児が子宮内で大きく生育すると、妊娠した女性は胎児の動きをじかに感じることができるようになる。自分の身体の内部にもうひとり別のいのちが宿るという、これまでに経験したことのなかった感覚を抱くこともあると言われている。このように、胎児との相互作用によって、女性は心身両面において多大なる変容を経験するのである。それは女性を取り巻く人間関係にまで及ぶことがある。女性が妊娠女性というアイデンティティで生き始めるとき、周りの人間たちとの関係性は激変する。女性はそのような存在として家族や社会のなかで認知され、新たな関係性を生きることになる。女性とそのパートナーは、母親・父親というアイデンティティを身にまとい始めるかもしれないし、家族や親との関係性も変容するであろう。お腹が大きくなれば、外出時に人々から受ける視線も変化する。このような心・身体・関係性の変容を伴うような出産を行なうことこそが、「産み」の核心部分にあるという考え方もできるであろう。
ところで、出産のときまで女性が自分の妊娠に気づかなかったというケースが稀にあるようである。ここで、自分の妊娠に気づかず、ある朝起きてみたらベッドの上に赤ちゃんが生まれていたというケースを考えてみよう。この場合、女性は上に述べたような心・身体・関係性の変容をまったく自覚していない。これを「産み」と考えてもいいだろうか。女性の心・身体・関係性の変容を重視する立場から見れば、これは「産み」とは言えないということになるかもしれない。すなわち、変容がまったくないとしたら、それは子どもがただ身体内から機械的に出てきただけにすぎないことになるというのである。しかしながら、いったんその言い方を認めてしまえば、「女性は子どもを出産したにもかかわらず女性の心・身体・関係性に変容がなかったから女性は子どもを産まなかったのだ」という考え方を認めることになり、それは生まれてきた子どもにとって耐えがたい事態であろうし、子どもの何かの尊厳が侵されているようにも思われる。したがって、「変容」を「産み」の必要条件としてはならないと私は考える。
さらには次のようなケースではどうか。女性が妊娠して胎児を体内で生育させている。妊娠初期の心身の変化を体験したあとで、何かの理由によってその胎児が人工子宮に移される。そしてその胎児は人工子宮の中で生育し、自立生育可能になって取り出される。この場合、この女性はこの子どもを「産んだ」ことになるだろうか。
前の頁で、卵と精子を取り出して人工子宮で育てるケースを考察した。そしてその場合において、卵と精子を拠出した人間が「産んだ」と言えるような形へと「産み」の概念が再構築されるであろうことを示した。だとすれば、上のケースのように妊娠初期の胎児を人工子宮に移した場合であっても、子どもの取り出しプロセスが完了したときに、この胎児を拠出した女性が子どもを「産んだ」と言われるべきであるということになる。
ところで、産みの苦しみという言葉がある。実際に出産を経験した女性が出産時の苦痛を語ることも多い。では出産時に苦しみを伴うことは「産み」の必要条件なのだろうか。しかし考えてみれば、現在ですら無痛分娩が可能であり、将来はさらに無痛化が進むはずだ。出産時にまったく痛みや苦しみがない場合であっても、我々の多くはそれを「産み」と言うだろう。したがって、苦しみを伴うことは「産み」の必要条件にはならないように思われる。しかしながら同時に、苦しみを伴う「産み」こそが真の「産み」であり、苦しみのないようなものは偽の産みでしかないと主張する勢力は残存するかもしれない。これは、ひとつの価値観として理解可能ではあるが、多くの賛同を得るとは思われない。
以上を総合的に考えれば、現在の社会において理解されている「産み」には、産む者の身体に関して、以下の3つの特徴があると判断できる。
(1)少なくともある程度の妊娠期間が存在すること。
(2)心・身体・関係性に少なくともある程度の変容が生じること。
(3)少なくともある程度の大きさに生育した胎児を身体から出す行為が存在すること。
この3つの特徴を見て分かるのは、少なくとも、現在理解されている「産み」というものを、男性は行なうことはできないということである。しかし、生殖技術の進展にともなって、この3つの特徴を少しずつ満たさなくなるようなケースが出始めることが予想される。
たとえば、先に述べたように、将来人工子宮が実現すれば、妊娠を経験しない女性や男性もまた子どもを「産んだ」と言えるようになる可能性がある。そうなった場合には、妊娠の経験は「産み」の必要条件ではなくなり、女性だけではなく男性も「産み」の主体となることができるということになるだろう。その場合、(1)の妊娠および(3)の「胎児を身体から出す行為」は、「産み」の必要条件ではなくなる((2)の「変容」はすでに必要条件ではなかった)。むしろ大事なのは、女性と男性の双方あるいはいずれかの遺伝子を含んだ細胞が、生まれてくる子どもの身体の原材料として拠出されることである。このような「拠出性」が「産み」の中心概念になってくるのである。「拠出性」を中心にして「産み」が理解されるような社会が到来することは十分に考えられる。したがって、そのような可能性にまで視野を広げたとき、上記の3つの特徴が「産み」の必要条件とはならないことは明白である。
2 何者が生まれるのか
次に、人間が子どもを産む場合にいったい何者が生まれるのかという点に注目して、「産み」の概念について考察してみたい。本章における思考実験には、出産についてのグロテスクとみなされる可能性のある描写が含まれるため、そのような描写が苦手な読者は適宜読み飛ばすなどしていただければ幸いである。またそのような描写において出産というものあるいは出産を担う者を貶めることはまったく意図されていないことをあらかじめ記しておきたい。
通常の子産みにおいては、女性はみずからの卵とパートナー男性の精子を素材としてみずからの体内で受精卵を着床させ、子宮内で生育させて子どもを出産する。このとき、生まれてきた子どもは、生物学的には母とも父とも異なる遺伝子をもった人間となる。人間の子どもを産むというときに我々がイメージするのは、このケースであろう。
ここで、代理出産のケースを考えてみよう。代理出産を行なう女性は、自分のものではない人間の卵と、自分のパートナーではない人間の精子を使って作成された受精卵を、自分の子宮に移植される。そして胎児を子宮内で生育させて、出産する。出産後の子どもは、卵・精子の提供者へと引き渡される。このケースにおいては、出産した女性と、生まれてきた子どもの間に、まったく遺伝子的なつながりはない。この場合、ここに「産み」があったと言ってよいだろうか。
前節で考察したことを参照してみると、代理出産の場合であっても、妊娠期間は存在し、女性と胎児のあいだの物質交換は存在し、心・身体・関係性には変容が生じ、出産行為も存在する。したがって、これを「産み」であると言うための条件は整っているように思われる。(日本では、出産した女性が子どもの母親とされる方向で法改正がなされている。この場合、規定されるのは出産と母親の関係についてであり、本論文で問われている「産み」ではないことに注意してほしい。また本論文の議論は、代理出産の是非を論じているものではない)。
あるいは、将来のテクノロジーによって、女性の体細胞を素材としたクローン受精卵をその女性の子宮に移植して、子どもを産むことが可能になったとしよう。このとき、生まれてきた子どもは、女性と遺伝子がまったく同一の人間となる。女性は、いわば遺伝子的な分身としての子どもを出産するのである。これを「産み」と言ってよいだろうか。この場合においても、妊娠期間は存在し、心・身体・関係性には変容が生じ、出産行為も存在する。したがって「産み」と呼ぶための条件は整っているように思われる。
以上の二つのケースにおいて、もし、遺伝子的なつながりがない、あるいは通常ではないことを理由にそれを「産み」ではないとするならば、「出産によって子どもが生まれたにもかかわらず誰もその子どもを産まなかった」という事態を認めることになる。子どもの立場に立つならば、これは避けられなくてはならない事態であり、社会はこのようなケースであってもそれを「産み」と呼べるような「産み」の理解を創出していくべきであろう。
では、将来のテクノロジーによって、ちょうどアメーバが分裂するようにして、女性が自分の身体から子どもを分離することができるようになったとしよう。分離された子どもは、女性と遺伝子的に同一である。これは「産み」なのだろうか。もしそのときに、妊娠期間や心・身体・関係性の変容などがほとんど女性に見られないのだとすれば、この営為は「産み」ではなく「分裂」としてとらえたほうがいいように思われる。ヒドラは分裂することによって子どもを作成することができる。ちょうどそれに似たプロセスだと理解するべきだろう。もしその分裂のときに、妊娠期間や心・身体・関係性の変容などが女性に見られたとすれば、それはやはり「分裂」というよりも「産み」と言ったほうがよいのかもしれない。なお、このケースにおいては、男性であっても同様のことが可能になるかもしれない。これは男性が「産む」ことのできる数少ないパターンとなる可能性がある。
次に、女性が出産したくなかったにもかかわらず出産したというケースを考えてみよう。たとえば、レイプや近親姦の結果妊娠してしまい、出産するような場合である。あるいは、望まぬ妊娠であるから人工妊娠中絶を行なおうと思っていたが過って出産してしまったというような場合である。すなわち、女性が出産したくないという固い意志をもっていたにもかかわらず出産したようなケースで、それを「産み」と言ってよいのかということである。このとき、女性への心のケアの場面で、「あなたは出産はしたけれども、けっして産んだのではない」と言葉をかけて女性の自己否定をやわらげることはあり得るかもしれない。しかしながら、このような考え方を一般化することは難しいのではないかと私は思う。なぜなら、もしそのような言い方を一般的に許すとするならば、生まれてきてほしくなかったにもかかわらず生まれてきた子どもに対して、「私はあなたを出産したが、けっして私はあなたを産んだのではない」と言えることになり、これは「産み」の概念について我々が持っているはずの意味内容を否定することになると思われるからである。したがって、みずからの出産に対する出産女性の否定的想念は、それが一般的に「産み」であるかどうかを決定する決定的要因にはならないとするべきである。
以上のことを総合的に考慮すれば、たとえ遺伝子的なつながりがあろうとなかろうと、あるいはたとえ女性がどのような想念を子どもに対して抱いていようと、出産によって生まれてきた子どもに対しては、「出産した女性が子どもを産んだ」と社会が保障すべきである。
さらに、次のようなケースを考えてみよう。『ローズマリーの赤ちゃん』という映画がある(1968年 ロマン・ポランスキー監督)。この映画では、主人公の女性が、悪魔の子どもを孕んで出産する。このようなケース、すなわち、遺伝子がまったく異なるどころか、人間とはまったく別の生き物の子どもを出産した場合に、それを「産み」と言うことができるだろうか。この映画の設定は、女性は悪魔の精子とみずからの卵を素材にして悪魔の子を妊娠するというものであったと考えられる。そしてラストにおいて女性は悪魔の子を自分の子どもとして認識するのである。たとえ生まれたのが人間の子どもでないとしても、それを「産み」であると考えることのできるケースがあり得ることが示唆されている。
では、女性が何か未知の理由によってネズミの子どもを出産するというケースではどうだろうか。この場合、ネズミは真正のネズミであり、人間の遺伝子は入っていない。人間の女性が妊娠し、心・身体・関係性の変容を経験し、そして出産したのがネズミの子どもであったというわけである。生まれてくるのがネズミやトラやゾウなどのほ乳類の子どもであれば、女性はそれを「産んだ」と言えると考える人もいるかもしれない。ではそれが爬虫類や両生類や魚類や昆虫や節足動物であればどうだろうか。これらの場合、生まれたものが生物としての人間から離れていけばいくほど、それを「産み」として理解することは難しくなるように思われる。
このように、それが「産み」であるかどうかについては、生まれてくるものが生物としての人間に近い存在であるという点が大事である。たとえば、女性がフライパンや書籍を出産するようなケースでは、それを「産み」であるとみなすのは非常に難しいと考えられる。しかしながら、人形をとても好きな女性が、かわいらしい人形を出産して、その人形を子どものようにかわいがるような場合は、それを「産み」と呼んでもいいように私は思ってしまう。だが、いったんこれを認めると、出産されたものに対する出産女性の肯定的・否定的想念によってそれが「産み」であるか否かが決められることになる。するとそれは、ふたたび、生まれてきてほしくなかった子どもの出産は「産み」ではないというところまで行ってしまうであろう。
ここにはかなり難しい問題が伏在している。「産む産まないは女性が決める」というスローガンに比して言えば、「産みか産みではないかは女性が決める」という立場はあり得る。ただしその立場は、生まれてきた人間の子どもに対して、出産女性が「私はあなたを出産はしたがあなたを産んではいない」と言ってよいという帰結を内包する。だが、これは許されてはならない。したがって、出産した女性は、生まれた存在者に対して、それが人間であれば「産んでいない」と言ってはならない義務を負い、それが人間でなければ「産んだ」と言う権利を持つというふうにするべきである。そしてこの前者の義務は出産女性を超えて我々すべての義務へと拡張されねばならず、この後者の権利は、パートナーや家族の意見そして社会のコンセンサスによってけっして上書きされてはならないとするのである。女性が「産んだ」と言う権利は、男性や社会すべてに打ち勝つのであり、男性や社会はそれを追認しなければならない。このような考え方を暫定的に「半義務半権利論」と呼んでおくことにしたい。これは、生まれてくるのは何者かという議論のすべてに適用することができる。そして、女性がある存在者を産んだと主張するとき、社会は生まれてきた存在者が何であれそれを社会的に保護する義務を負うというところにまでこの論は拡張される可能性が論理的にはある。
以上の考察によって、遺伝子的なつながりに関しては、次のようなことになると思われる。すなわち、人間の子どもを出産した場合は、遺伝子的なつながりがあろうとなかろうと、我々はそれを「産み」と呼ぶ義務を負う。そして、人間ではない生物を出産した場合、女性はその人間ではない生物を「産んだ」と言う権利を有している。
3 外化と「産み」
出産において、女性は子どもを身体の外側に物理的に排出する。いわば「外化」が起きているのである。「外化」は、「産み」にとってどのくらい重要なことなのだろうか。
まず、それを考察するための準備として、妊娠22週から約40週までのあいだの胎児について考えてみる。この時期の胎児は、母体外生育可能性を獲得している。すなわち、強制的に女性の身体から取り出されたとしても、自力で生きていける可能性を持っているのである。しかしながら、いくら胎児が自力で生きていける可能性を持っているとは言っても、我々は胎内の胎児がこの時期に至った段階で女性が子どもを「産んだ」とは言わない。母体外生育可能性を獲得するだけではダメなのであって、その胎児が女性の体内から具体的に「外化」することが「産み」にとって必要なのである。
では、さらに次のような架空のケースを想像してみよう。女性は妊娠して、心・身体・関係性の変容を経験する。子どもは母体外生育可能な22週を超え、さらに出産時期の40週を迎えても何かの未知の理由によって女性の体内から外に出ようとしない。そして何年間も女性の子宮内に留まって成長を続けるのである。この胎児は女性の体内で脳神経系を発達させ、外部の人間と言語でコミュニケーションするに至る。このようなことが仮に起きた場合、これを「産み」と言ってよいだろうか。
この胎児は母体外生育可能性を獲得しているので、もし強制的に体外に出せば、母体外で育っていくことはできる。それにもかかわらず、母体内にとどまった状態なのである。生物学的に言えば、これは「寄生」の一種である。このように、女性の身体から離れて独立生存が可能であるにもかかわらず、胎児があえて寄生状態に留まり、外化が行なわれないような場合、いくらその胎児の脳神経系が子宮内で発育しようとも、これを「産み」と呼ぶのは難しいと私は考える。やはりこれが「産み」となるのは、胎児が女性の体内から排出され、完全に外化されたときである。それがない場合は「産み」ではなく「寄生」と呼ぶべきである。
では、次のようなケースではどうだろうか。子どもを体外に出産するのだが、その子どもはまだへその緒で女性とつながっていて、女性から栄養を吸収しなければ生きていけない。へその緒を切ってこの子どもを独立して生存させることは何かの理由で不可能である。強制的にへその緒を切ったら、子どもは死んでしまう。そして、もし女性が死ねば、子どもも死んでしまう。このような場合、これを「産み」と言えるだろうか。このケースでは、たしかに子どもを体外に出しているのだから「産んだ」と言いたいところだが、子どもは母親の身体に完全に依存しており、まだ母体と離れて生育する可能性を持っていないのである。母体外生育は可能かもしれないが、母体と切り離された生育は不可能なのである。すなわち、女性の身体が子どもの生殺与奪の権を直接的に握っているのである。子どもは女性の付属物であって、けっして独立存在ではない。このような状態では、これを「産み」と言うことはできない。ここで、胎児が母体から切り離されても生育可能性を持つことを「母体外分離生育可能性」と呼ぶことにしたい。
以上をまとめれば、女性が子どもを「産んだ」と言えるためには、(1)子どもが女性の身体から「外化」させられること、(2)子どもが「母体外分離生育可能性」を持つこと、の二つが必要条件となると考えられる。要するに、子どもが女性の身体の外側に出て、自分の力で独立存在できる可能性を持つことが「産み」の必要条件なのである。そして、この二つの条件が満たされない場合は、「産み」とは言えないことになる。
もちろん、通常の出産においても、母体の外に出た子どもがそのまま独立存在して生きていけるわけではない。まわりの大人たちのケアがなければ生きていけないし、医療的措置も必要であろう。この意味では、生まれたばかりの子どもは独立存在とは言えない。この点をクリアーにするために、「母体外分離生育可能性」の概念を厳密に定めておきたい。「母体外分離生育可能性」とは、子どもが女性の身体の外側に出され、物理的に切り離されたとしても生きていくことが可能であること、すなわち、子どもが母親の身体から外化されたのちにたとえ〈母親が死んだとしても〉、その子どもが様々なケアを受けながら生きていける可能性を持っていることである。
それでは、出産のプロセスが存在せずに「外化」が起きた場合はどうなるのか考えてみよう。たとえば、以前に述べたように、女性が妊娠していて、ある朝起きたらなぜか隣に子どもが寝ていたというような場合である。自然出産のプロセスもなく、帝王切開のプロセスもなく、したがって身体から子どもを外化するプロセスがないままで、結果的に子どもが身体の外側に出現したのである。これは、昏睡状態における出産と似ている面がある。女性の視点から見てみれば、自分が一時的に昏睡状態になり、そのあいだに出産が起き、昏睡状態から醒めたら隣に子どもが寝ていたというケースがこれに近いと言える。この場合、やはり女性は子どもを「産んだ」と言うのが通常の感覚であろう。しかし、昏睡状態とは違って、客観的に見ても出産のプロセスが確認できない場合はどうだろうか。たとえば、何かの未知の原因によって胎児が女性の体外へと瞬時にテレポートされたような場合である。このケースにおいても、女性の主観的感覚としては、みずからの体内を大きく占めていた胎児が突然なくなり、身体内部が軽くなり、そのかわりに隣に子どもが存在しているのだから、昏睡状態の出産と同じリアリティを持つことだろう。客観的に見れば、女性の内部にあったものがいまや外部にあるわけで、もし仮にそのような出産方法が通常のことになれば、それを「産み」と考えることに支障はないように思われる。したがって、子どもがどのような方法によって女性の体外に「外化」したかは、それを「産み」と呼んでよいかどうかに影響を与えないことになる。
ここで次のことが連想される。大地や海や地球は生命の母体と呼ばれることがある。そこから地球上のすべての生命が生み出されているからである。このように地球生命圏から生物種や生物個体が生み出されることを、「産み」と言ってよいのだろうか。地球生命圏をどのようなものとして定義するかにもよるが、もしそれを、すべての生物が織りなす網の目であると考え、そこには水分や空気や栄養物質なども含まれるとするならば、地球生命圏はすべての生物を包み込んでおり、その内部でそれらを生み出していることになる。だとすると、地球生命圏は生物をみずからの外部に「外化」していないし、生物は現時点では地球生命圏の外部で生育可能なものにはなっていないのであるから、地球生命圏は生物を「産んだ」とは言えないことになる。もちろん、将来、生物を宇宙空間の宇宙船で育てることは可能になるであろう。その宇宙船が地球生命圏から完全に切り離されて自立し、内部の生物が地球生命圏なしで生きる可能性をつかんだときに、はじめて地球生命圏は生物を「産んだ」と言えることになるはずだ。だとすると、現在の地球上の生物の状況は、ちょうど胎児が女性の子宮内で大きく成長し、脳神経系がかなり発達した段階に似ていると言える。人類は地球生命圏からみずからを「外化」させることを選択することもできるし、地球生命圏にいつまでも残ることを選択することもできる。人類の宇宙進出という出来事を「産み」の文脈で考えることは十分に可能である。
4 「産む者」と「生まれる者」のあいだの関係性
ここで、「産む者」と「生まれる者」のあいだの関係性について考察してみたい。それは「産み」の概念にどのようにかかわるのであろうか。
我々が想像する典型的な「産み」では、女性が子どもを産んだあと、生まれた子どもは親のケアを受けて成長し、大人になる。そして、さらに子産みへと参与する。こうやって、親から子、子から孫へといのちが継承されていく。ここにはいわゆる「いのちの受け渡し」「いのちの連鎖」がある。
しかしながら、そういうふうにならない場合もあるだろう。常軌を逸しているが、次のようなケースを考察してみたい。
女性が妊娠して出産をする。そのときに女性の身体から生まれてきた存在者が、女性と同年齢の大人の人間だったとしたらどうだろうか。女性の身体から出てきたその人間は、すでに言葉も流ちょうにしゃべり、しっかりとした思考を行なうことができ、年齢に見合った経験も積んでいて、周りの大人たちと対等に会話し、独立した人間としてすぐさま自律的に活動をし始めるのである。このような場合、女性はこの人間を「産んだ」と言えるであろうか。
この場合、女性がこの人間を「産んだ」というふうに考えるのはたいへん難しいように私には思われるのである。というのも、「産み」という概念には、「産む者」と「生まれてくる者」のあいだに、対等ではない関係性があることが条件になると考えられるからである。もし対等な人間が出てきたとしたら、それは「産み」ではなく、女性の身体からの何かの別人格の「分離」、あるいは女性の身体を素材としてなされた何か別人格の即時的「生成」としてとらえるべきだからである。
そのことをクリアーにするために、どのような関係性が「産む者」と「生まれる者」のあいだにあったときに、それが「産み」と呼ばれるのかを考えてみたい。
一言でいえば、人間がある存在者を外化して生み出したときに、それが「産み」と呼ばれるためには、その存在者が「子ども」であることが必要なのである。では「子ども」とは何かということだが、「子ども」とはそれを生み出した人間がこれまでたどってきた人生の成長段階を、そのあとから追いかける形で追体験していく可能性を持った存在者のことである。そしてこの追体験というのは、けっして子どもを生み出した人間の人生の具体的な内容をそのままリピートすることではない。追体験というのは、身体が成長し、精神が成長し、幼児期から小児期を経て青年期に至るというような、生物として一般的に通過する諸段階を順々に経験していくことである。すなわち、子どもとは、それを生み出した人間のあとを追うようにして、同じ人生の諸段階を、異なった人生の具体的内容をもって追体験していくような可能性を持った存在なのである。別の言い方をすれば、親の目から見て、自分が成長するプロセスで捨ててきたありとあらゆる可能性が、全部まとまってそこに存在するような可能性のかたまりが子どもなのである。そのような可能性のかたまりを身体の外へと外化することが、「産み」なのである。ハンナ・アーレントが言うところの、そのつど新たに開始される始まりとしての出生とは、このことを指しているのであろう。
これは、出産直後に子どもが女性から切り離され、まったく別の人間たちによって育てられる場合においても当てはまる。いわゆる育ての親は、引き取った子どもを上記のような存在として見るのであり、育ての親の人生の諸段階を、異なった人生の具体的内容をもって追体験していくような可能性を持った存在として見るのである。また、遺伝子的なつながりのない子どもを出産して育てる場合においても同じことになる。さらに言えば、人間ではない子どもを出産して育てる場合においても、もしそれを生み出した人間が、生まれてきた生物をそのような存在として受容する場合、それを「産み」と言ってよいようなケースがあるかもしれない。少なくとも論理的にはそのようなことになると思われる。
これに関連してもう一つ言えば、「産む者」と「生まれる者」とのこのようなかかわりは、いわゆる「教育」的なかかわりだということである。人生の諸段階をあとから追体験してくる可能性のかたまりとしての存在者に向き合っていくとは、その存在者に対して教育的にかかわっていくことでもある。年長者が、みずからの長い人生において学んできたことや失敗してきたことを、子どもに対話的に伝えること、そしてそれを受け取った子どもがみずからの人生を試行錯誤しながら自立して生きていけるようになること、これが教育の根幹的な姿である。
そして「産み」は、このような教育的なかかわりを内包していると考えられる。先に述べたような、自分とまったく対等な存在者が生まれたときに、それを「産み」と言いがたいひとつの大きな理由は、そこにこのような教育的関係が成立しがたいからである。
以上の2点、すなわち、生まれた存在者が人生の諸段階を追体験していく可能性を持っていること、そして教育的かかわりがあること、この二つをまとめて「子ども性」と呼ぶことにしたい。この二つの関係性は、子どもを出産した直後から形成される。したがってそれらは「産み」に必然的に内在するものであると考えてよい。人間が、ある存在者を生み出すときに、それが「産み」と言われるためには、その存在者にこのような「子ども性」があることが必要条件となるのである。
では、もし子どもが生まれたあとですぐに誰もいない場所に捨てられたとしたら、どうなるだろうか。捨てられた子どもは少しのあいだは生きているだろう。しかしこの場合、上で述べたような人生の諸段階の追体験は起きないし、教育的なかかわりも存在しない。これは「産み」とは言わないのだろうか。ここは難しい点であるが、たとえ生まれたあとですぐに捨てられたとしても、もし誰かがその子どもを拾って育てたならばその子どもは人生の諸段階を追体験していくことが可能であるし、教育的かかわりに入ることも可能である。捨てられた子どもは、捨てられた時点ですでにそのような可能性を有している以上、このケースもまた「産み」であると私は考えたい。
では、人類最後の妊娠女性が子どもを出産した直後に、女性が死亡したとしたらどうなるだろうか。生まれた子どもは女性が死亡したあと、少しのあいだは生きているだろう。しかしこのとき、人生の諸段階を追体験するような対象となる人間も、教育的にかかわってくれる人間も、地上にはいっさい存在しないのである。この子どもを拾って育ててくれる人間はもはやひとりもいないのである。これは極限的なケースであり、この場合にこれを「産み」と言えるかどうかについて確定的な答えはないと私は考える。
以上のことを別の観点から見れば、「産み」は「育て」の可能性を必要条件とするということになるように思われる。なぜなら、「子ども性」とは、生まれた子どもが何かの形の「育て」の可能性の文脈に置かれることを意味するからである。人生の諸段階の追体験にせよ、教育的かかわりにせよ、それらは、生まれてきた子どもに対して、年長者たちが「育て」のかかわりを持つということだからである。
しかし、だとすると、一部の魚類や爬虫類のように、親が子どもを出産してその後はいっさいかかわりを持たずに放置するような場合は「産み」とは言えないことになりそうである。たとえば、女性が出産すると同時に、生まれた子どもは自動的に育成工場へと隔離され、そこで自動機械によって成長させられ、その後自立できるようになった子どもは親とは無関係に社会に出て自立生活を始めるというような場合である。このような社会では、子どもは親にいっさい関心を示さず、親も子どもにいっさい関心を示さない。人生の諸段階を追体験していくというかかわりもなく、教育的なかかわりもない。自動機械を媒介として、ただ次世代が再生産されていくだけである。このような社会では、たとえ子どもが女性の身体からの出産によって生まれるとしても、そこには我々が呼びたいような「産み」は存在しないように私には思われる。そこに「出産」はあっても「産み」はないのである。そして現時点であっても、我々はこのような意味内容を持つものとして「産み」を理解しているのではないだろうか。以前に、私は、出産によって子どもが生まれた場合はそれを「産み」と呼ぶべきであると述べたが、ここでのケースはその例外となる。なぜなら、社会全体がそのようなものとして再構築されているからである。私はこのような社会自体を否定しようとしているのではない。このような社会は存立可能であるし、たいへん興味深い社会であると思う。しかしながら、それは「産み」のない社会だというわけなのである。
居永も引用しているように、加藤秀一は「生み[2]」の本質は「誰か」を生むことであるとしている[3]。加藤の見解を敷衍すれば、「産み」の本質は、「何かを産む」ことではなく「誰かを産む」ことだということになる。私が言うところの、生まれた存在者が「子ども性」を持つ必要があるという見解は、加藤の示唆するところの、生まれた存在者は〈誰か〉である必要があるとの見解と軌を一にすると考えられる。生まれた存在者を、人生の諸段階をあとから追体験してくる可能性のかたまりとしてとらえ、それに対して教育的にかかわるというのは、加藤の言うところの「誰か」へのかかわりでなくて何であろう。
さて、「産み」に関連して必ず出てくる考え方がある。それは、人間が人間を産み続けていくという「いのちの連鎖」に組み込まれることが、「産み」の本質だという考え方である。それをさらに強く表現すれば、「いのちの連鎖」に組み込まれないような出産は「産み」とは言えない、ということになる。「いのちの連鎖」に組み込まれることは、「産み」の必要条件なのだろうか。
「いのちの連鎖」とは、人間が子どもを産み、その子どもがさらに子どもを産み、そうやって人間の再生産がずっと続いていくことを意味している。このような「いのちの連鎖」が具体的に保証されることが「産み」の必要条件になるとすれば、誰も自分の子どもを出産したときにそれを「産み」と呼ぶことはできなくなる。その子どもはすぐに死んでしまうかもしれないし、さらに子どもを産まないかもしれない。だとすると、それは「いのちの連鎖」には組み込まれない。では、子どもを出産したときに、それが将来の「いのちの連鎖」に組み込まれる〈可能性〉を持っているということを、「産み」の必要条件とするのはどうだろうか。それによってほとんどの出産を「産み」と呼ぶことができるように思われるが、しかし例外もある。ある女性が妊娠してその胎児の遺伝子検査をしたら、その胎児は先天的に生殖機能を持っていないことが判明したとする。そしてその胎児の体細胞も何かの理由で人工生殖に利用できないとする。女性がこの子どもを出産したとき、この子どもはさらに自分の子どもを産む可能性を持っていない。しかしながら、我々はこの出産のことを「産み」と呼ぶであろう。なぜなら、もしこれを「産み」と呼ばないとすれば、先天的な不妊の子どもについて、「誰もその子どもを産まなかった」と言うのを許すことになるからである。したがって、〈可能性〉を持ち出してきてもダメであることになる。
結論として、我々は子どもを出産することによって「いのちの連鎖」に組み込まれるのを期待することはできるが、「いのちの連鎖」に組み込まれることをもって「産み」の必要条件としてはならないことになる。だが、「いのちの連鎖」に組み込まれる可能性を「産み」の重要な内容のひとつとして理解するような考え方はあり得る。というのも、現実の人間は母親である女性から生み出されたのであり、さらにその母親に至る無数の「いのちの連鎖」があってはじめていまここに存在している。であるから、それと同じくらいの無数の「いのちの連鎖」を出産という出来事の将来に予想してしまうのは不合理とは言えない。しかしさきほど検討したように、生まれた子どもがさらに子どもを産まないときや産めないときに、その子どもに対して否定的な態度で接したり、子産みを強制したりすることの危険性を考えれば、「いのちの連鎖」を重要な内容のひとつとして「産み」というものを理解することに私が危惧を覚えるのも事実である。
これに連関して、居永の検討している例を見てみよう。
居永は、永遠に生きることのできる人間の種族から、寿命のある人間の種族の子どもが生まれたとするとき、それを「産み」と呼べるかと問い、否定的な答えを出している。居永は言う。「自分が「産んだ」ものが必ず自分の生きている間に死に、私が必ずその生の終わりを見届けてしまうのだとすれば、それは「産み」の営みだとは言えないのではないか[4]」。
まず、後半の引用部分について考えてみる。これは、永遠に生きる人間を想定しなくてもあり得る話である。たとえば、この女性が出産する子どもには必ず遺伝子的な病気があり、生物学的なメカニズムによって必ず1年以内に死んでしまうというケースを想像してみよう。このときに、女性がこの子どもを妊娠し、心・身体・関係性の変容を経験し、出産を経て子どもが生まれたことを「産み」と言わないというのは、我々の「産み」の理解からはかけ離れているはずだ。もちろん、子どもは親の人生の諸段階を完遂することはできないのであるが、しかしそれでもその人生の諸段階の第一歩を踏み出すことには成功しているのである。この一点をもって「産み」と言ってよいように私は思う。したがって、後半の引用部分については、居永の見解に私は賛同することができない。
では前者はどうだろうか。これは、永遠に生きる女性が、次々と子どもを産み、彼らは成長するのだけれども、しかし彼らはすべて永遠のいのちを持つ女性よりも先に死んでしまうということである。これは何かしら感動を誘う悲劇的な物語である。これを「産み」とは言えないとする居永の気持ちは理解できる。しかしながら、やはりこれは、女性は次々と子どもを「産む」のだけれども、生まれた子どもは常に女性より先に死んでしまう、ということでよいのではないだろうか。ここで問題を生み出しているのは、女性が「死ねない」ことなのであり、けっして子どもが「先に死ぬ」ことではないからである。これを神話的な文脈で解釈すればどうだろうか。大地の神がいるとして、それは次々と地上に生命を生み出し続ける。しかしそれら生み出された生命たちはすべて不妊であり、また有限の生しか持つことができず、大地の神よりも先に死んでいってしまうのである。しかしそれにもめげずに大地はさらに次々と生命を生み出し続ける。そうやって地上の生命は豊かに繁栄していく。こうした神話的な世界において、大地はそれらの生命たちを「産んだ」と言ってよいように私には思われる。たとえ生まれてきた生命がすべて大地より先に死ぬとしてもである。しかし同時に、大地は大地を産めないわけである。自分の人生をけっして受け継いでくれない有限な生命ばかりを延々と産み続ける大地の寂寥感はいかばかりであろうか。以上の想定では、産む者は大地であり、けっして人間ではない。だがそれを人間に当てはめて考えても結論はほとんど同じになるように思われる[5]。
さて、「産む者」と「生まれる者」のあいだの関係を、「他者性」という視点から見ることも可能である。すでに述べたように、妊娠の経験において、女性は心・身体・関係性の変容を経験する。これは、女性の子宮内に着床した受精卵の生育によって、いわば否応なしにもたらされるものである。妊娠した女性の側に立ってみれば、自分自身の意図やコントロールを超えた次元で、それらの変容はもたらされてくる。これは哲学的な意味での「他者」の到来と考えることができる。また、出産後の親子の関係性において、子どもは親に対して圧倒的な「他者」として現われる。子どもの存在とその成長は、親が予想していた地平を突き崩すようなものとして親に対して立ち現われることであろう。このような、妊娠・出産・子育てにおける「生まれる者」の「他者性」をもって、「産み」の核心とみなす考え方があり得る。
もし仮に、これらの「他者性」がまったくないような妊娠・出産・子育てがあったとしよう。妊娠において、心にも、身体にも、関係性にも変容は訪れず、たとえ訪れたとしてもそれはあらかじめの予想の範囲内であり、子育てについてもすべて予想された通りの出来事の連続であって、子どもの存在によって親が突き崩されたり、変容を余儀なくされたりすることがまったく起きなかったとする。これは通常の妊娠・出産・子育てとは異なっているが、しかしだからと言ってこれを「産み」ではないとは言えないように私は思う。なぜなら、まず妊娠・出産については、将来の技術によって心にも身体にも変容が訪れないようにすることは可能であり、また関係性が変容しないような妊娠も可能であり、出産についてもあらかじめ予想した範囲内のことしか起きないようにコントロールすることも将来は可能であろう。だが、このようにして子どもを出産することを「産み」ではないと言うことはできない。なぜなら、親が子どもに向かって、「お前という存在者は私の予想の範囲内に収まっていて、けっして他者性を持たなかったから、私はお前を産んではいない」と言うのは、子どもにとってあまりにも理不尽だからである。子育てについては、そもそもそれは出産後の長いプロセスの話であり、出産後の長いプロセスがどうなるかに応じて、遡って出産が「産み」であったかどうかが決定されるというのは理不尽である[6]。このように「他者性」は「産み」の必要条件ではないが、しかしそれでもなお「他者性」を中核のひとつとして「産み」を理解することは可能である。これは、妊娠における心・身体・関係性の変容を中心として「産み」を理解する考え方の一部へと吸収されることになると思われる。
5 「産み」の概念の再構築
以上の考察によって、現在の我々が理解している「産み」の概念、そして暗黙の可能性として把握しているかもしれない「産み」の概念を明らかにすることができた。以上に述べたようなことを我々の多くは明瞭に言語化できてはいない。だがもし「産み」の概念を言語化しようとすると、上記のような考察を必然的に行なうことになるはずである。
そもそもこのような思索が現代において要請されるひとつの大きな要因は、テクノロジーの発展にともなって、卵・精子の拠出、妊娠、出産などが互いに分離され始めたからである。それによって、我々の「産み」の概念が揺さぶられているからである。テクノロジーの今後の展開を念頭におきながら、私は「産み」の概念を以下のように再構築してみてはどうかと考える。その再構築は、二つの必要条件と、五つの強調点によってなされる。
以下の二つの必要条件がともに満たされない場合は、それを「産み」と呼ぶことはできない。また、五つの強調点については、それらが欠如していたとしても、それを「産み」と呼ぶことは可能である。
<「産み」の必要条件>
(1)「外化」および「分離」
「生まれる者」の身体が、「産む者」の身体から、何かの形で「外化」されることが必要である。それは出産でもよいし、妊娠途中における取り出しでもよいし、卵や精子や受精卵の取り出しであってもよい。そして外化された者は、「母体外分離生育可能性」を持つことが必要である。この場合の「母体外」は、拠出者の身体外という意味に解することができる。
(2)「子ども性」
「生まれる者」は、「産む者」に対して、「子ども性」という関係性を持つことが必要である。「子ども性」とは、「生まれる者」が「産む者」の人生の諸段階を追体験していく可能性を持つこと、そして教育的かかわりがあることを意味する。
<「産み」の強調点>
(1)「拠出性」
「産む者」の身体から、卵・精子・受精卵などの細胞が拠出されて「生まれる者」の身体を作り上げるという点に重点を置いて「産み」をとらえる考え方である。代理出産であれ、人工子宮であれ、子どもの身体の元となる細胞を拠出することが「産み」の本質のひとつであるという点を強調するのである。現在の時点ではさほど力を持つ考え方ではないが、将来は大きな勢力になるであろうと思われる。
(2)「妊娠」
「産み」の本質のひとつは「妊娠」という出来事にあるという考え方である。これは現在の時点においてかなり強力な考え方であるが、将来の人工子宮の登場によって後退してしまうかもしれない。この考え方を極限まで推し進めれば、「妊娠」を経ることのないものは「産み」とは呼べないということになる。
(3)「変容」あるいは「他者性」
妊娠における心・身体・関係性の変容、あるいはそこにおける「他者性」の経験を、「産み」の本質のひとつとして捉える考え方である。妊娠の経験において否応なしに「産む者」が変容させられていくという点に、「産み」の核心的なものを見るのである。そして、「変容」あるいは「他者性」が明瞭にある場合を「産み」の基準とし、その濃度が薄まっていくにつれ「産み」とは言いがたくなるとする。
(4)「遺伝子的なつながり」
「生まれる者」と「産む者」のあいだの遺伝子的なつながりを重視する考え方である。親となる女性と男性の双方の遺伝子を引き継いでいる場合を基準として考え、そこからはずれていくにつれて「産み」とは言いがたくなるとする。この考え方を強調すれば、代理母・精子提供・卵提供・クローンの子どもなどの場合はかろうじて「産み」と考えられるが、代理出産をする女性は、出産した子どもを「産んだ」とは言いにくいことになる。人間と他の生物の混合体を出産する場合も、「産み」とは言いにくいだろう。
(5)「いのちの連鎖」
親が子どもを生み出し、その子どもがさらに子どもを生み出すという連鎖の中に組み込まれることあるいはその可能性を持っていることが「産み」にとって重要であるとする考え方である。そのような連鎖は、限りなく続いていくことが期待される。
*
このように、二つの必要条件を中核とし、互いに背反するものを含む五つの強調点のゆるい結合として成立するものとして、「産み」の概念を再構築してみてはどうかというのが、私からの提案である。「産み」と言われるものは、二つの必要条件は必ず満たしていなければならないが、残りの五つの強調点に関してはそうではない。それら五つの強調点のうち、どれを大事なものとして選択するかによって、「産み」の解釈は多様に分かれてくるのである。そしてそれらの多様な解釈のうち、どれかがより正しいということはない。それらは五つ(以上)の流派を形成するかもしれない。「産み」の概念は、いったん断片化されたのちに、このようなものとして再構築されるのである。
ここで、「産み」の二つの必要条件に関して、これまで考察されてこなかった例をひとつあげると、ある女性が自分の卵とパートナーの精子を拠出して外化し、代理出産あるいは人工子宮によって子どもを産出し、生まれてきた子どもを「子ども性」を持った存在者として認識してかかわるとき、これは「産み」の二つの必要条件を満たしているので、「産み」であると言ってよいことになる。あるいはもうひとつの例として、女性と男性のDNAの塩基配列を情報としてコンピュータに転写し、それをもとに人工細胞技術を用いて非人体物質から人工受精卵を作成し、それを人工子宮で育ててそこから子どもを産出した場合は、たとえその後に子どもを「子ども性」を持った存在者として認識してかかわったとしても、それは「二人のDNAから作り出された養子」にたとえられるようなものであって、けっして「産み」ではないことになる。この後者の例では、そもそもどの地点においても「産み」は行なわれていないと考えざるを得ず、誰が産んだのでもない子どもという存在がこの世に初めて登場することになる。人工細胞技術によって、人間が「産み」から完全に切り離される可能性がある。この視点から、本論文の考察を再点検することが必要である。
以上で本論文の考察は終わるのだが、最後にひとつだけ今後の大きな課題について触れておきたい。それは、「誕生」と「産み」との関係である。
私は拙論「誕生肯定とはなにか」において、「誕生」を私の誕生として内在的に定義し、「気がついたら存在していた」という事態として解釈した。そのときに注意をうながしたのは、私が誕生したということは、けっして、私が誰かの身体から生まれたことを意味しないという点であった。たしかに客観的な事象としては、私の身体がある時点で母親の身体から出産されるということが観察されたであろう。しかしながら、それはけっして私が母親から誕生したことにはならないというのが私の考え方なのである。この点については上記論文を参照していただきたい。ただし、この場合であっても、母親が私を「産んだ」ということは言えるように思われるのである。それは内在的な私の誕生とは無関係の次元で、客観的に言えることだからである。すなわち、ここで何か不可思議なことが起きている。「誕生」と「産み」は徹頭徹尾別次元の出来事であり、けっして交わらないようにも思われるのだが、しかし同時に、その二つは何かの形で互いに同定されている。この論点は、おそらくこれまでに正確な仕方で提出されたことはなく、今回の「産み」の考察によってはじめて明瞭に発見された哲学的な問題であると考えられる。我々が探究しようとしている「生命の哲学」の根本問題のひとつでもある。この論点は、今後の重要な検討課題とする予定である。また、本論文で行なった「産み」の概念についての考察が、「生命の哲学」の中へとどのように組み込まれていくのかに関しても、今後の研究によって明らかにされなければならない。私には、「産み」の本質にまだ迫れていない隔靴掻痒感がある[7]。「産み」の謎は、本論文の背後にまだ隠されたままである。そこに向けて迫っていかなくてはならない。
本論文の考察には、間違った分析や、不十分な議論や、矛盾点がたくさんあると思われる。それらに関しては読者からのご指摘を参考にしながら、根本から自説を再検討し、本論文を書き直すつもりである。これらのことを記して、本論文を終えることにする。
文献一覧
居永正宏(2012)「他者の産出と自己の誕生肯定:森岡正博の「誕生肯定」概念の批判的検討」『現代生命哲学研究』第1号、pp.46-68。
居永正宏(2014)「「産み」の哲学に向けて(1):先行研究レビューと基本的な論点の素描」『現代生命哲学研究』第3号、pp.88-108。
加藤秀一(2007)『〈個〉からはじめる生命論』日本放送出版協会。
森岡正博(2011)「誕生肯定とは何か」『人間科学』6号、pp.173-212。
森岡正博(2013)「「生まれてこなければよかった」の意味」『人間科学』8号、pp.87-105。
註
[1] 居永(2012)、63頁。
[2] 加藤は「生み」という漢字を使用している。
[3] 居永(2014), 98頁。
[4] 居永(2014), 103頁。
[5] もちろん大きな違いはあるのであって、大地は人間とは異なって多種多様な生命たちを生み出す。生み出された生命たちは互いに食べ合うなどのダイナミックな交流をするであろう。また大地が生み出し続ける生命たちの数量は限りなく大きい。このような点において、大地と人間は異なると考えられる。
[6] 子育てにおける「他者性」は、先に述べた「子ども性」とは異なる。「子ども性」は出産直後から成立するが、子育てにおける「他者性」は必ずしもそうではない。それは子育てという長い期間のプロセスの中で現われるものである。
[7] さらには、女性固有の問題である「産み」の「体験」に関する事象を、「男性」研究者が一方的に再定義するという事態そのものが批判されるべきであるとする立場もあり得るだろう。権力ある男性がふるう男根的定義力という暴力によって女性自身による女性のリアリティについての自己定義の可能性が封殺され、女性からふたたび声が奪われていくという立場である。そのような立場が意味するところのものについては理解できるが、本論文でも述べたように、「産み」の問題は必ずしも女性固有の問題とは言えない以上、上記のような危険性を認識したうえでの「男性」研究者による概念の再定義の試みそれ自体は許されてしかるべきだと私は考える。