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作成:森岡正博 
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論文

 

『哲学の探究』哲学若手研究者フォーラム 2003年5月 31−40頁
私にとって哲学とは何か
森岡正博

 



 二〇〇二年に八王子で開かれた、哲学若手研究者フォーラムに招かれて話をした。集まっていたのは、哲学を専攻する全国の大学院生たちだ。そこで私がしゃべったことを、文章にしておきたい。
 日本の哲学界の不毛さについては、すでに日本哲学会などで問題提起をして、論文も書いた(拙論「現代において哲学するとはどのようなことなのか」日本哲学会『哲学』五〇号 一九九九年四月 一〜一二頁)。しかしながら、最近の学会誌を眺めてみても、やはり変化の兆しは見られないようだ。哲学者研究や、哲学史研究のことを、「哲学」と言いくるめているアカデミズムがあるかぎり、その中からオリジナルな哲学の営みが現われてくるのは、ほとんど不可能だろう。将来の日本の哲学アカデミズムを背負うであろう若手研究者たちと、限られた時間でディスカッションをしてみたが、彼らは結局、現在の哲学アカデミズムを単に再生産しようとしているようにしか私には見えなかった。私が接触した大学院生たちの頭の中にあったのは、依然として、哲学を西洋言語別に分類する思考法(「きみはドイツですか、僕はフランスなんですよ・・・」)であり、哲学=西洋哲学とする当然の前提であった。私が二〇年前に戦ってきた教授たちと同じような思考回路を、私よりも若い人たちに発見するのは、それほど愉快なものではなかった。
 昨今の生命倫理や応用倫理についての議論は、哲学的に見てあまり面白くないのではないかという問いかけを企画者から受けていた。そのことについての、私の意見から語ることにする。実は、それに関しては、私も同感なのである。一九八〇年代終わりに米国から輸入された哲学的生命倫理学は、自由主義、功利主義、権利論などを公理系とする単なる「応用問題」解答ゲームのようにしか見えない。分析的な手法をもちいて、相手の立論の論理的不整合を指摘し、自説の優位を強調する彼らの論法は、最初は刺激的で面白いかもしれないけれど、それだけでは哲学的な深みに欠ける。
 私が米国の生命倫理学を研究したあと、それを捨て去って「生命学」という学問を一九八八年に提唱せざるを得なかった理由のひとつも、そこにある。私が期待していたのは、たとえば医療現場での生と死のジレンマを深く考えることによって、「人間の死とは何か」「限りある人生を生きることの意味は何か」「生に終わりがあるのなら、時間とはいったい何なのか」などの哲学の根本問題を、新たな角度から掘り下げていくことであった。しかし、米国の哲学的生命倫理学は、そのような掘り下げをほとんど行なわない。このことは、私をいらだたせた。九〇年代に入ってから、米国の生命倫理学も変容しはじめているが、まだこのような方向性には進んでいない。生命倫理は、米国の哲学を蘇らせたと言われるが、生命倫理学が制度化された現在でも、それが言えるのかどうかはなはだ疑問である。
 私が大学生のときに生命倫理に惹かれたのは、哲学者研究でもなく、哲学史研究でもなく、哲学的な問題研究がそこにあると思ったからであった。胎児に障害があった場合にそれを理由にして中絶するという選択的中絶の問題には、「生きるに値する人間とは誰のことか」という哲学的な問いや、「自分のエゴイズムによって他者の存在を抹消してもよいのか」という倫理学的な問いが、鮮烈な形で内在している。それらの問いを、単なる机上の空論としてではなく、現実に人々が直面する事態に即して、自分の頭で考えられる限り掘り下げ、これらの問題を捉えるための枠組みを提唱し、さらには自分がこれらの問題をどうやって引き受けていくのかを考えるという作業こそが哲学の営みなのだと、当時の私は考えたのであった。だが、米国を中心とする当時の生命倫理学の文献で、そのような営みを遂行したものは数少なかった。九〇年代に入って、それらの生命倫理学文献が次々と翻訳紹介されていったが、日本のアカデミックな生命倫理学の世界では、そのような営みは望むべくもなかった。なぜなら、生命倫理学に対するアカデミズムの対処法は、彼らがヘーゲルやハイデガーに対するときとまったく同じであり、まず生命倫理学の文献を正確に原文で読むこと、そこで何が言われているのかを整理し解釈すること、そして最新の文献をなるべくたくさん読んで論点を整理することだったからである。



 私にとっての哲学とは、「現場の謎」から問題を立ち上げてくることだ。
 たとえば私は一九八〇年代の終わりに、脳死と臓器移植についての本を書くために、情報を集めたり、いろんな人たちから話を聞いたりしていた。ある方に頼んで、大学病院の集中治療室に入らせてもらった。白い滅菌服と滅菌帽をかぶって、空気清浄機をくぐり、集中治療室の部屋の中に入って、意識状態がきわめて低下した患者さんの治療を見せてもらった。最新式の機械に囲まれて、まったく身動きせずにベッドに寝ているだけの人間の姿。最先端医療が集結した場の内部で、人間が生の終わりを迎えようとしている。その状況を取り巻く人々の姿。私は集中治療室の中で、ある「謎」に出会ったと言える。ここには、何か、「言葉」を与えて解かなければならない根源的な「謎」があると私は直観したのだと、いまから振り返ってみて私は思う。
 その謎に言葉を与えるべく、私は『脳死の人』という本を出版した。この本では、脳死は「人と人との関わり方である」というテーゼが述べられた。これは、脳死論に新展開をもたらすものであった。そして脳死の人を生み出すところの「集中治療室」という空間の分析が行なわれた。私がこの本でオリジナルな主張をすることができたのは、脳死の人という「謎」から哲学を開始したからである。脳死についての哲学的な議論の紹介と整理と解釈から議論をはじめるのではなく、私が必然的に出会った現場の謎から議論をはじめること。それが私にとっての哲学なのである。
 脳死については、さらにいくつかの謎に出会っている。実際に脳死を経て子どもを亡くされた親に、私は直接お会いして、いろんな話をお聞きした。他の場所でも触れたが、その中には、私と面識のある人が脳死になったケースも含まれている。脳死を経て子どもを亡くされた方の語りの中には、頭では脳死と分かっていても、目の前にあたたかい脳死の子どもの身体があれば、どうしてもまだ生きているとしか思えないという心情の吐露が多く見られた。彼らの一見矛盾した語りに内在する「謎」に、私は吸い寄せられていった。その「謎」に、言葉を与えることができたのは、それから一〇年以上経過して出版された拙著『生命学に何ができるか』(二〇〇一年)においてである。私は、「すでにいないはずの人が、目の前に現われている」という事態を「現前」と呼んで、脳死の人と家族のあいだで成立するリアリティを説明した。この視角を獲得することができたのは、親たちが教えてくれた「謎」について考え続けたこと、そしてブーバー、ハイデガー、現象学、他者論などの考え方から多くを学んだからである。私は文献学批判を続けてきているから、哲学古典はほとんど読まずに好き放題書いているのだろうと思われているらしいが、そんなことはない。過去のすぐれた哲学者たちからは、いつも切り口の鋭さや、勇気などを分けてもらっている。大事なのは、まず自分なりの「問題意識」が先にあるということだ。それを自分の頭で考えていくときのステップとして、過去の哲学者たちの思索のあとを探査し、それと対決するという営みがある。それによって、われわれはさらに前に進むことができるのである。
 私が集中治療室で出会った現場の「謎」は、私の内部でさらに展開することになる。数年後のある研究会で、集中治療室の看護婦さんが、ベッドでケアを受けてすやすやと眠っているように見える意識障害の患者さんのことに言及し、「結局、現代文明が作り出そうとしているのは、こういう人間の姿なのではないでしょうか」と言ったのだった。それを聞いたとき、私は、集中治療室で出会った謎が、別の方角に向かって解けたと思った。集中治療室という空間は、現代文明の姿を、もっとも極端な形で現わしていたのである。温度、湿度、細菌数などを適切にコントロールされた空間の内部で、ただすやすやと快適に眠っているだけの患者こそ、現代文明のなかでわれわれが置かれている状況そのものではないのか。われわれは文明の恩恵を受けて快適な暮らしをしているように見えながら、実は、集中治療室の患者のような大いなる眠りの状態にいるのではないか。このような発想から、「無痛文明」という概念が生まれた。苦痛の除去と、快適さの追求と、人生のコントロールへ突き進むことと引き替えに、生命のよろこびをシステマティックに奪われる人間たち。現代文明とそこに生きる人間の姿を哲学的に掘り下げる『無痛文明論』(二〇〇三年刊行予定)もまた、私が現場で出会った「謎」にこだわり続け、同じような「謎」に出会ったであろう人々の声を注意深く聴くことから、成立したのである。
 電子メディアが人間の心と社会にどのような影響を及ぼすのかを考察した拙著『意識通信』(一九九三年)もまた、私が出会った現場の「謎」から立ち上がったものである。その「謎」とは、私が学生のときに友人としていた「長電話」の経験である。われわれは、情報の受け渡しをするために長電話をするわけではない。誰かとつながっていたいという思いを満たすために、長電話をするのである。私はそのようなメディアの使い方を「意識通信」と呼んだ。それが、当時のパソコン通信においても色濃く見られることを主張した。さらには、「意識通信」がわれわれの意識の深層にまで降りてゆく可能性をも示唆した。この本を書くときには、当時のメディア学文献を徹底的に読破したが、ここでもやはり自分自身の問題意識が先にあったのだ。自分の出会った「謎」を解くために、文献を読むことが必要だったわけである。
 実例をこれ以上挙げることは控えるが、私にとっての哲学とは、現場の謎から問題を立ち上げてくることであるということが、お分かりいただけたと思う。フォーラムでこの話をしたときに、現場の謎から問題を立ち上げてくるのは、「社会学」でも同じではないかという質問があった。たしかに、それは正しい。ただ、おそらく哲学と社会学では、問題を掘り下げる方向が異なっているのだと考えられる。社会学の場合は、目に見える世界の中で、実際に人間がどのように動いているのか、システムがどのように機能しているのか、どのような組織が形成されるのかという方向に考察が向かうように思われる。これに対して哲学では、目の前に現われた事象をどのような枠組みで解釈すればよいのか、それをある仕方で判断してよい根拠はいったい何か、それはわれわれの世界や人生の中でどのような意味を持つのか、といった方向に考察が向かうように思われる。



 では、私にとっての現場はどこにあるのだろうか。私はとりあえず、「人生」「世界」「諸科学」の三つを、私の哲学の現場としてとらえている。
 まず私自身の「人生」が、私の哲学の現場である。私の、一度限りの人生。私はいま生きているが、やがて死んで、この世から去ってしまう。気がついたら、すでに存在しているという謎。私が存在していないという選択肢がいま生成していないという謎。私が死んだらどうなるのかという謎。これら最大最強の謎こそ、私の哲学の現場である。そればかりではない。私が自分自身の人生を生きる中で、私は様々な謎や問いに出会う。この限りある人生を、私はどのように生き切ればよいのかという問いは、私にとっての哲学の最重要課題のひとつである。私は「生命学」という学問を提唱しているが、生命学の課題のひとつは、この限りある人生をどうすれば悔いなく生き切ることができるかを考えることであり、かつ実際にそのような人生を私自身が生き切ろうとすることである。そのような悔いのない人生を生き切るためには、私は自分自身のいままでの人生を振り返って、自分が隠蔽したいことや、思い出したくないことなどを、勇気を振りしぼって再検討しなければならない。その作業を経るプロセスにおいて、私は、自分自身にとっての「生と死の意味」を哲学的に掘り下げなければならなくなるのである。私にとって、「生と死の意味」の探求は、いまここに生きているこの私にとっての「生と死の意味」の探求以外ではありえない。それが、私にとっての哲学である。過去の哲学者や思想家が行なった「生と死の意味」の探求の痕跡を文献学的に跡づけることに終始する作業は、私にとっての「生と死の意味」の探求ではない。
 人生という現場において、私は、親密な他者と具体的な人間関係を取り結ぶ。私に食い込んでくるこの実際の親密な人間関係こそが、私にとっての哲学の現場である。大学や社会では理想的な人間関係について演説しながらも、家に帰ってみれば、それとはまったく無関係な人間関係を作り上げている人がいる。この矛盾を正面から捉えて、その深淵に鋭い眼差しを振り向けることこそが哲学の作業だ。この矛盾状況において、自分自身がどのような罠に落ちているのか、その根源がどこにあるのかを解明することが、私にとっての哲学の営みである。文献に向かうことは、往々にして、実際の自分の人生の問題から目をそむけることにつながる。この私が組み込まれている実人生において、哲学をすることが必要なのである。
 いま私は「生命学」と「哲学」という二つの言葉を使った。「生命学」は私にとって「哲学」の一種である。しかし、「哲学」という言葉はすでに手垢にまみれているので、「生命学」という新たな概念を作って注意を喚起しているのだ。「哲学」とくらべたとき、「生命学」には独特の意味合いがある。「生命学」は、「人生の経験の裏付けがあってはじめてその内容が豊かになる」という側面をもっているのである。人生を噛みしめて歩んでいくことによって、掘り下げが進み、味わいが深くなっていく「知」としての「生命学」というものを私は構想する。もちろん「哲学」にもそのような面がある。しかし、分析哲学や論理学のように、人生の経験が直接的にほとんど無関係の哲学もあるわけだから、そのように言うことにも一理はあるだろう。
 第二の現場は、「世界」である。私を取り巻いて存在する世界を、常に新たに見て取るための枠組みや概念を開発し、提唱するのが、私にとっての哲学である。世界とは、私に向かって開けてくるすべてのものごとであり、私が経験を行なうことを可能にしている場所であり、私を取り巻いて私を制約するハードウェア・制度・システム・人間関係・時空などのことである。それらが全体としてどのような仕組みになっているのか、あるいはそれらが全体としてどのようなメカニズムで現出しているのかなどについて、私自身にとっていちばんしっくりくる説明枠組みを案出することが、哲学の営みのひとつである。
 そのためには、私が世界において出会った「謎」を大切にして、そのような「謎」を内在する世界をクリアーに見て取るための概念や枠組みを立ち上げることが必要となる。私の「無痛文明論」は、この社会全体が「無痛文明」という形に向かって編成されようとしているのではないかという仮説であるが、その発想の背後には、先述した集中治療室での体験がある。『無痛文明論』で、私はこのほかにも様々な概念を提出している。「予防的無痛化」「二重管理構造」「自縄自縛」などの概念を、私は、この社会とこの世界を見て取るための枠組みとして掘り下げた。これは、まぎれもない哲学の営みであろう。世界という現場で哲学をするためには、私が痛切に体験した「謎」を突破口として、その地点から世界を一気に見通すことのできる枠組みを案出し、その可能性を徹底的に掘り下げることが要請される。哲学の世界把握の特徴は、世界全体あるいは社会全体の意味づけを行なう点にある。これは、みずからの対象を厳密に限定しようとする他の諸学とは異なる点であると言えるのかもしれない。
 第三の現場は、「諸科学」である。現代において哲学がもっとも力を発揮する場所は、専門分化した諸科学を「総合」することが要請される場面であろう。単なる「学際」であれば、専門家をあちこちから呼んできて議論させればよいのだが、諸科学の「総合」となるとそうはいかない。それらを総合するためには、単に寄せ集めてきただけではダメである。ひとつのパースペクティヴから、諸科学の成果や情報やアプローチなどを一元的に整理する荒技が必要となる。それにもっとも適しているのは哲学である。
 私は、国際日本文化研究センターで勤務したのち、大阪府立大学総合科学部に移ったのだが、そのどちらにおいても「総合」を目指した研究と教育に携わってきた。この一五年弱の経験から言えば、専門諸科学の総合を達成できるのは、みずからは専門をもたないところの学問だけなのである。すなわち、あるテーマをめぐって様々な専門諸科学が意見を述べているとき、それらを一望のもとに見渡すためには、まずそれぞれのディシプリン内部に飛び込んでその知の方法を追体験し、彼らの言い分を我がことのようにして把握し、そうやって関連するすべての諸科学の声をひとしく聴いてから、そのテーマについての全体像を自分の内部で組み立てることが必要となる。これが可能なのは、多面的な総合力のみをディシプリンとする哲学のみである。多面的な総合力とは、どのような不可思議な方法論を提示されても、それを本質において理解し、他の方法論との関係性において適切に位置づけることのできる力である。本来、哲学とは、そのような能力をもった学問であったと私は思う。しかし、繰り返し言うようだが、文献解釈学として制度化された現在の「哲学」には、そのような能力はきわめて乏しいし、大学の哲学科でそのような総合力を教育できるとは思われない。私自身、総合のための能力は大学で学んだのではなく、一〇年以上に渡る現場でのオン・ザ・ジョブ・トレーニングによって、泣く泣く身につけてきたのである。諸科学の「あいだ」が私の現場であり、その「あいだ」をどのように接合してゆけばよいのかが、私の絶えざる問題意識だ。
 私は、拙論「総合研究の理念―その構想と実践」(『現代文明学研究』第一号  一九九八年 一〜一八頁)において、総合研究とその教育の可能性について考えた。そのなかで、私は「ひとり学際」という概念を提唱したが、本来哲学とは「ひとり学際」を公然と行なうことではなかったのか。「ひとり学際」は、ともすると、うわべだけを追う三流ジャーナリズムとなる危険性をはらんでいる。それが哲学的な営みとなるためには、諸科学の方法論の差異と限界を把握したうえで、テーマを統合された視点から掘り下げなければならない。
 考えてみれば、論理実証主義や現象学をはじめとする二〇世紀の哲学もまた、諸科学の一元的な把握とそれらの基礎付けの作業をみずからの任務としてきた。自然科学のメインストリームが人間の生命を扱う生命科学へと大きくシフトしてきた現在、人間を探求する学問としての哲学が、二〇世紀前半とはまた異なった意味で諸科学の基礎付けを行なわなくてはならないのだ。



 以上、私自身の個人史を振り返りながら、私にとっての哲学の現場について語ってきた。なぜ個人史を語るかであるが、それは、私にとっての哲学は、「この私の生」にとっての哲学でしかあり得ないからである。個人史というのは、「この私の生」を構築する必要不可欠の要素であり、それを排除した哲学の営みというのは、私にとっては存在しない。そのような徹底した個人的地点からの知的営みが、いかにして、私以外の広い人々の共感と応答を引き出してゆけるのかが、私の哲学にとっての挑戦となるのである。そのための手法として必要なのが、対話であり、公開の議論であり、過去の文献の学習であり、彼らから力をもらって前進することであろう。
 フォーラムの質疑応答で、「応用倫理学」に対応するような「応用哲学」というものがあるのかという質問が出された。一般社会の目から見たときには、「応用倫理学」こそが倫理学の存在意義だと考えられているのだが、哲学の場合は何が社会から見た場合の存在意義になるのかという趣旨のようでもあった。これは非常に面白い質問である。もし「応用哲学」というものが、「応用倫理学」とは別の意味で成立するとすれば、それは、「自分自身の問題意識を、自分の頭で考えて掘り下げ、自分の言葉で表現する」ことではないかと私は思う。まさにこのことが、現代社会で生きる多くの人々から見た場合の、哲学のイメージではないだろうか。私は「応用」という修飾語を使うことには反対であるが、この質問に限っては興味深いと感じた。
 フォーラムの懇親会場で、私は、次のようなことをしゃべった。私が大学院生だったときに、生命倫理をやっているかぎり就職にはありつけないという忠告を受けた。カント、ヘーゲルをきちんと読んで、珠玉の論文を書くのがいちばんいいのだと。私はそれを無視して、当時自分がやりたかった生命倫理と生命学の研究を続けた。それから一〇年も経たないうちに、事情はまったく逆転した。いまや、応用倫理や工学倫理の授業のできない倫理学研究者は、大学への就職がきわめてむずかしくなった。大学業界では、応用倫理や工学倫理の「まともな」研究者を必死で探している。しかしながら、さらに一〇年したらどうなっているだろうか。時代はまた変わってしまって、応用倫理や工学倫理の研究者など、もう御用済みかもしれない。そのときには、何か別のものがもてはやされていることだろう。そういうふうに考えてみれば、結局、いまの自分がいちばん好きなこと、生き生きすることを、地道に研究しているのが一番ではないのか。時代の要請に流されて右往左往しないほうがいいのではないか。文献を読むのが好きな人は、徹底して文献を読めばいいのではないか。
 私は、別に皮肉を言ったわけではない。私が文献学をやらなかったのは、文献学をしてもまったく「わくわく」しなかったからである。私は、現場の「謎」から哲学を立ち上げてくることによってのみ生き生きとすることができたから、その感覚に忠実に従っただけのことなのだ。哲学界は、それを哲学とは認めなかったが、それは別にどうでもいいことなのだ。ただ、腹立たしかったのは、日本の哲学界が、単なる「哲学者研究」や「哲学史研究」のことを、「哲学」だと詐称してきたことだ。そして、さらには、「哲学者研究」や「哲学史研究」でなければ「哲学」でないとまで言う者が少なからずいたということだ。だから、哲学界では、「あなたは誰をやっていますか?」「私はカントです」という会話が、日常茶飯に行なわれてきたのだ。彼らがこのような欺瞞に乗り続けているかぎり、私は日本の哲学界をバカにし続けるであろう。そして、このような発言によって、彼らを不快にし続けるであろう。
 私が若手フォーラムに参加して、一抹の危惧を感じたのは、若手の研究者たちが、まだこのような砂上の楼閣のうえに安住し続けているのではないかと思ったからだ。哲学とは何かについて、正面から考えることなしに、哲学の営みはできるのだろうか。しかしそれは、彼らが自分で考えればそれでよいことだ。そのための材料として、この文章が役に立てば私は本望である。