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作成:森岡正博
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論文
『現代生命哲学研究』第2号 (2013年3月):1-22
「他我はこの私である」ということの意味
テレイグジスタンスを手がかりにして
森岡正博
第1章 他我問題
本論文では、他我問題に対して、ひとつの新しいアプローチを提唱する。その結論として「他我はこの私である」という考え方の可能性が導かれる。その考察の際に、ヴァーチャル・リアリティ技術のひとつである「テレイグジスタンスtelexistence」の概念を用いる[1]。「私の心と他人の心はまったく同じである」という発想を最初に提唱したのは平山朝治であるが(後述)、私はまったく異なった視点からこの論点に切り込んでいく。
本論文が書かれるに至った背景のひとつは、私が最近研究を続けている「ペルソナ」概念[2]について考察していた際に、この思考実験を思いついたからである。もうひとつの背景としては、私が以前より思索を続けている他我問題についての哲学的議論がある。これは20世紀にヴィトゲンシュタインとフッサールがそれぞれ独自に切り開いた領域である。他我問題はいまだに解決が与えられておらず、現代哲学における最難問のひとつとみなされている[3]。
他我問題は、デカルトが「我思う故に我あり」という第一原理を発見したときに潜在的に登場した。しかし、デカルト自身はこの問題を取り上げていない。「我思う故に我あり」とは、私が疑うということをしているそのつど、その疑うということをしている私は確実に存在しているという命題である。これを認めるとして、では、目の前にいる他人の身体の中にも、私と同じような存在があると言えるのか、というのが他我問題の基本的な設定である。私たちの生きている日常世界では、他人の身体の内部にも、私と同じような形で他我(もうひとりの我)が存在しているということは自明の前提となっている。しかしながら、ほんとうにそのような存在があることをどうすれば証明できるのかと考えてみると、それはなかなか難しいのである。他人の脳を解剖したとしても、どこにも「他我」なるものは発見できないからである。日常生活において、私は他人の内部の感情や思考を、自己投入して理解しようとしたり、類推しようとすることがある。自己投入や類推によってそこに見いだされたものは、しかしけっして「他我」ではなく、単に装いを変えた「もうひとりの私」にすぎないのではないか、という疑いが出されるのである。
この問題に対するヴィトゲンシュタインやフッサールの死闘を本論文で再確認することはしない。本論文では私自身の思索を展開していく。彼らの思索はその際の前提として利用する。以下、私の言葉で、もういちど問題設定を確認しておきたい。
日常世界/生活世界で、私は、私のほかにも「他我」が存在すると確信して生きている。すなわち、目の前に他人の身体があるのだが、その身体の内部の場所から、この私の経験世界と同じようなもうひとつの経験世界が外側に向かって開けており、それをその身体の内部の場所から経験している主体は、この私と同じ存在論的身分を有しているというふうな理解を私は持っている。そのような主体を他我と呼ぶのであるが、他我はこの私と等根源的な存在であるとされるのである。
そのような確信を生きる私にとっては、目の前の他人の身体は、「他我」がその内側に存在するものとして、現に立ち現われていることになる。これを他我についての経験の基本的事実と呼ぶことにしよう。このとき、次の二つの哲学的な問いが成立する。
(1)目の前の他人の身体の内部に存在するとされる「他我」の存在を証明できるか?
(2)目の前の他人の身体の内部に「他我」が存在すると言うときに、私は「他我」という言葉でいったい何を理解しているのか?
まず(1)の問いであるが、これについては現在に至るまで哲学的論争が続いており、その決着は付いていないのは周知の通りである。なぜ決着が付かないのかという理由のひとつは、次の(2)の問いに確たる答えが与えられていないからであると私は考える。つまり、「他我」という言葉の意味についての共通理解が得られていないのである。そこで本論文では、まずは(2)の問いの次元に焦点を絞ることにする。
では「他我」という言葉はどのように理解されてきたのだろうか。字義的にはalter Ego /other mindであるから「他の我」「他の心」である。この私とは違うのだけれども、この私と同じ存在の仕方をして世界を経験している、もうひとりの私、というような理解がもっとも普通であろう。問題は、そのような理解をするときに、私は具体的に何を理解したことになっているのか、という点である。
また、目の前の身体の内部で他我が経験している内的経験のことは、「他我の内的経験」と呼ばれる。これについて、もっとも有力なのは、他我の内的経験とは、私の反事実的な内的経験であるという理解である。たとえば、目の前に歯痛で苦しんでいる様子の人がいるとする。それを見ている私は、「もし私がその他人の身体の内部にいたとすれば、私は歯痛をじかに経験しているであろう」と思うに違いない。この場合、他我の内的経験とは、「もし私が他人の身体の内部にいたとすれば、私がじかに経験しているであろう内的経験」であるというふうに、私は理解することができる。これは、非常にわかりやすい説明である。
しかしこのときに、二つの問題が生じる。ひとつは、他我の内的経験を、私の反事実的な内的経験として理解した場合、そこで理解されているのは徹底して「この私」の仮想的な内的経験にすぎず、けっして「他の私」の内的経験ではないはずだ、という問題である。この道筋で考えると、他我の内的経験というのは、徹頭徹尾「私の変様態」にすぎず、私はどこまで行っても、反事実的な経験を持った私自身を見いだすだけに終わってしまうというわけである。したがって、この理解ではどこにも「真なる他」というものは見いだせず、世界は独我論的に閉じてしまうとされるのである。したがって、私たちが「他我の内的経験」と言うときに、真に意味していたものは、「私の反事実的な内的経験」のことではないというのである。
もうひとつの問題は、「他我の内的経験」と「他我」とは別なのではないかという問題である。すなわち、目の前の身体の内部に「私の反事実的な内的経験」があるとして、私たちが「他我」という言葉で理解しているものは、そのような「私の反事実的な内的経験」そのものではないはずだというのである。そうではなくて、その「私の反事実的な内的経験」を「実際に経験している私以外の主体」こそが「他我」であるというふうに私たちは理解しているはずだというのである。すなわち、目の前の身体の内部にあるはずの「私の反事実的な内的経験」を、私が反事実的に経験可能な世界からは隔絶した次元から、いまじかに経験している主体というものを指して、私は「他我」と呼んでいるに違いないというわけなのである。「他我」をそのようなものとして考えないかぎり、他我と私は存在論的に等根源的であるという理解が出てこないのだ。
この二つの点は、他我の内的経験を私の反事実的な内的経験として理解するやり方の決定的な問題点として残るように私には思われる。私の内的経験をいくら反事実的に拡張していったとしても、私が他我としてすでに理解しているはずのものには届かないのである。
このような思索を通じて、もうひとつの他我の理解が出てくる。それは他我とは「他者」であるという理解である。他我とは他者であり、この私をいくら拡張しても理解することはできないなにものかである、というふうに私は他我を理解しているとするのである。これはレヴィナスによって明確に打ち出された考え方であると言ってよいだろう。他者とは他人の顔の向こう側へと無限に退いていくものであり、私はそれをこの手で確保することはできない。そのようなものとして、私は他我をすでに理解しているというわけである。
だとすれば、定義上、私はこの「他者としての他我」というものを直接に理解することはできないことになる。「他我」とは、その内実を直接に理解しようとする私の運動をつねにすり抜けて向こう側へと退いていってしまうものである、というふうに私がすでに他我を理解しているわけだから、私はそのような他我の内実を直接に理解することは不可能であることにならざるを得ない。私がいくら他人の内部に他我らしきものを見つけたとしても、それは私によって見つけられたがゆえに真正な他我ではないということになってしまうのである。
以上をまとめれば、次のようになる。
(1)私が「他我」という言葉で理解しているのは、「私の反事実的な内的経験」である可能性はある。しかしそのとき、「他我」は「私の変様態」以上でも以下でもないことになる。
(2)私が「他我」という言葉で理解しているのは、「私の反事実的な内的経験」を「実際に経験している私以外の存在」である可能性はある。しかしそのとき、この「私以外の存在」とは何を意味しているのかが謎となって残る。
(3)私が「他我」という言葉で理解しているのは、「他者」すなわち「その内実を理解しようとする私の運動をつねにすり抜けて向こう側へと退いていってしまうもの」である可能性はある。だとすると、やはりその「他我」の内実を私が理解することは不可能だということになる。
第2章 「他者の内的経験」と「他我」
前章の最後で考察したことをさらに進めて考えてみよう。
目の前に他人Aがいるとする。Aの脳と私の脳を線でつないで、Aが感じたり考えたり欲したりしたことすべてを、私がリアルタイムで追体験できるようにする。そのときに、タイマーをたとえば10分間セットしておいて、その10分のあいだは、私の内的経験はAの脳から流れてきた経験ですべて置き換えられるとする。またこの流れはAから私へ一方向に流れるだけであり、私からAへの流れはないとする。この10分のあいだ、私はAが経験する内的経験のすべてを自分のこととしてリアルにそのまま経験する。Aが食事をしていたとすると、食べたものの味をそのまま私も味わい、食べながら頭に浮かんだイメージをそのまま私も頭に浮かべ、次にはデザートが欲しいという欲求もまた私の中から湧いてくる。そして10分が経過したときに、接続が切れ、私は我にかえるのである。つながれていたときの記憶は私に残る。
ではこのとき、私はいったい何を経験したことになるのだろうか。私が経験したことは、Aの脳を内側から生きることであると言うことはできるだろう。しかしそのときに私が経験したものは、いったい何なのだろうか。それははたしてAの内的経験なのだろうか。結論から言えば、私が経験したものは、Aの脳を内側から生きたときの「私の内的経験」以外の何ものでもないはずである。だとすると、ここからが問題なのであるが、Aの脳が私につながれているときに、Aという存在は、いったいどこに行ったのだろうか。Aの脳にあるところの内的経験はすでに私によって経験されてしまっている。それは私の内的経験である。とすれば、私の内的経験から区別されるところの、Aの内的経験はどこに行ったのだろうか。
ひとつの答えは、つながれたときに、Aという存在は消えたというものである。Aは、いわば私によって上書きされたのである。私の内的経験はAの内的経験によって上書きされるが、Aは私によって上書きされたのである。そして接続が切れたときに、Aという存在がふたたび登場したはずだというわけである。(このとき、もし私がAの立場だったらどうなるか、というふうに考えてはならない。その場合は当然私の存在にはなんの断絶もないはずである。この立場変換は、ここで問われるべき問いをなんら反映していない)。このような考え方は、成立する。この場合、Aという他我は接続切断のたびごとに消滅したり登場したりする不思議な存在であることになる。その不思議さを受け入れるならば、この立場はあり得る。別の角度から見れば、これは、接続されているあいだ、私の内的経験が、私の身体の場所にある脳とAの身体の場所にある脳の両方を基盤として成立するようになったということである。なぜ両方かというと、この10分のあいだに、もしAの脳が外力によって破壊されたら私はもうAの内的経験を経験することはできなくなるし、もし私の脳が外力によって破壊されても私はAの内的経験を経験することはできなくなるからである。
もうひとつの答えは、Aの脳の場所にあるところの内的経験をリアルに経験している存在が、私のほかにもうひとりいるという考え方である。これは前節の(2)の考え方だ。ちょうど、ひとつの箱庭を上から覗き込んでいる人間が二人いるときのように、Aの脳の場所で起きていることを内的経験として経験している存在が私の他にもうひとりいるということである。もちろん私はそのもうひとりの存在を見ることも感じることもできない。このように考えれば、他人の身体の内側を生きているはずの他我とは、たとえその他人の身体の脳の中で起きていることを私がすべてリアルタイムに経験できたとしても、けっして私によってはつかまえることのできない「他の」存在であるということになる。
このように考えてみれば、前節の(3)のような他我のとらえ方は、実は(2)とほぼ同じであることが分かる。私はいくら他人の内的経験を自分のこととしてリアルに経験したとしても、私はけっして他我の存在をつかまえることはできないのであり、他我はそれに迫ろうとする私をすり抜けて、どこまでも向こう側へと逃げていくのである。
以上から分かるのは次のことである。
(1)もし私が「他我」という言葉で理解しているものが、「私の反事実的な内的経験」であるとすれば、私が他人の脳で起きている経験を自分の内的経験として経験したとき、「他我」は消滅することになる。この理解の難点は、接続と切断にともなう「他我」の消滅と登場という不思議さを受け入れなければならないところにある。
(2)もし私が「他我」という言葉で理解しているものが、「私の反事実的な内的経験」を「実際に経験している私以外の存在」であるとすれば、私が他人の脳で起きている経験を自分の内的経験として経験したとしても、「他我」は私の知らないどこかで同じ内的経験を経験している存在として、無傷で残り続けることになる。これは「他我」を「他者」として理解していることでもある。この理解の難点は、この意味での「他我」という言葉で私が理解しているものが、具体的にいったいどういうものなのかを説明することが非常に難しいところにある。
私の直観では、私たちの日常的な理解は(1)のほうではないように思われる。なぜなら、目の前の身体と私を線でつないで、たとえ目の前の身体の内的経験をちょうど映画を見るように私がリアルタイムで見ていたとしても、その私の内的経験はあくまで目の前の身体の内部で起きていることの複写でしかなく、その複写元のオリジナルな経験は、目の前の身体の内部に、私とは独立して存在しているはずだろうと思うのが一般常識ではないかと私は考えるからである。もしほんとうに(1)のように他我を理解して生きている人がいたとしたら、その人は、脳を一方向的につなぐことによって、ちょうど二つの魂がつながってひとつの融合した魂ができるかのようなものとして、「他我」と「自我」を見ていることになる。しかしそのような理解をしている人は少ないのではないだろうか。しかしながら、だからと言って、もし私たちの日常的な理解が(2)のほうだとすると、やはり、その場合に私たちが何を理解しているのかが謎となって残るのである。
また、これら二つの他我理解が、「目の前に他人がいるとはどういうことなのか」をどう解釈するのかと言えば、それは次のようなものになると思われる。
(1)目の前に他人がいるとは、目の前の身体の内部に私の反事実的な内的経験が存在しているに違いないという疑い得ない迫力でもって目の前の身体が見えてくること。
(2)目の前に他人がいるとは、目の前の身体の内部に私の反事実的な内的経験が存在しており、それを経験している私以外の存在がどこかにある、という疑い得ない迫力でもって目の前の身体が見えてくること。
これについては、(1)のような見方も、(2)のような見方も、日常的な理解としてあり得るように思われる。しかしやはり(2)のような見方では、その存在がどこにあるのかという点について、はっきりしない点が残ることになる。
では、(2)の「他我」の内実に迫る方法はないのかというと、そうではないかもしれない。以下の章で、「テレイグジスタンス」概念を用いた思考実験を行ない、日常世界においてすでに成立している私の「他我」理解とはいったい何であるかについて、(1)(2)とは異なった視点から、できるだけ肉薄していくことにしたい。
第3章 「テレイグジスタンス」概念を用いた思考実験
まず私が他人の身体を見ている場合を考えてみよう。私は、その他人の身体の内部に他我があるというふうに思うだろう。私の目から数十センチ離れた地点の周辺に他我という存在がいると思うだろう。
次に、私が鏡を覗き込んでいる場合を考えてみよう。鏡の向こうには私自身が映っているが、その向こう側に映っている身体の場所、すなわち私の目の前数十センチの地点、すなわち鏡の裏側の場所に私という存在がいる、と私は思わないはずだ。私という存在は、私の目の前数十センチの地点ではなく、鏡のこっち側の地点にいると私は思うはずである。実は、すでにここに非常に深い問題が隠されているのであるが、それはまた後の課題にしておくとして、さらに先に進んでいきたい。
テレイグジスタンスという技術がある。これは、私の顔面にゴーグルを付け、腕をロボットアームにつないで、それらを人型をしたロボットに接続させるのである。すなわち、そのロボットの目が見た風景を私はあたかも自分が見た風景として経験することができ、私は自分の腕を動かすようにしてそのロボットの腕を動かすことができるのである。理論上は、私の五感をすべてロボットに接続することができる。そのとき、そのロボットは私の身体の外部に存在する操り人形となる[4]。
私が椅子に座り、顔面にゴーグルを付け、腕をロボットアームにつないで、そのロボットの目を通して世界を見て、ロボットアームを通して世界と触れあう。脚をつなげば、ロボットを歩かせることもできる。私はいまロボットの目を通して、部屋の壁を見ている。私はロボットを動かして、私の座っている椅子の裏側まで回り込む。そして、ロボットの身体を回転させて、私の座っている椅子を後ろから眺める。そのとき、私の目には、私の座った椅子の背もたれと、そこから上に飛び出している私自身の頭部が、見えてくるようになる。これは非常に不思議な光景である。私の目の前には、私自身の身体の後ろ姿が見えるのである。このリアリティは、日常生活で私がけっして体験することのできないものである。いちばん似通ったものをあげるとすれば、いわゆる幽体離脱によって私の意識が体外に出て、部屋の上から自分の身体を見おろしているというものであろう。
では、このとき、私は、目の前に見えている身体を、どのようなものとして見るかということである。私は目の前に見えている身体の内部に私が存在しているというふうに見るのか、それとも、私は「こちら側」に存在しているのであって、目の前の身体の内部には誰も存在していないというふうに見るのか、それとも、私は目の前の身体の内部にも存在していると同時に「こちら側」にも存在しているというふうに見るのかである。
おそらく最初は、混乱するであろう。しかし、いろいろなことを試していくうちに、だんだんと分かってくることがある。私が目の前に見える身体に近づいて、その後頭部をロボットアームで叩いてみると、私は自分の後頭部に痛みを感じる。頬や顎を叩いてみても、私自身が痛みを感じる。ということは、目の前に見える身体の内部に、たしかに私が存在しているようなのである。それが決定的になるのは、次のような場面においてであろう。
突如として大地震が起き、天井のガラスが割れて、上から破片が落ちてきたとする。そのとき私は、何を守ろうとするであろうか。自分の置かれた状況を十分に理解したあとであれば、私は自分の意識の座の真上あたりにある場所をロボットアームで覆って防御するのではなく、私の目の前に見える身体の後頭部に駆け寄ってそれをロボットアームで防御しようとするだろう。なぜなら、私がいる場所は「ここ」なのではなくて、目の前に見える身体の内部の場所だからである。目の前に見える身体の内部の場所を守ることが、ひいては、私という存在を守ることに直結するからである。
鏡のケースでは、そういうことにはならない。ガラスの破片が天井から降ってきたときに、私はけっして鏡に映った身体に駆け寄ってそれを守ろうとはしない。私はすぐさま私の意識の座の真上あたりにある頭を手で覆って、それを守ろうとするであろう。なぜなら、私がいる場所は目の前に見える身体の場所ではなくて、私の意識の座がある「ここ」なのだからである。鏡のケースと、テレイグジスタンスのケースは、決定的に異なるのである。
テレイグジスタンスにおいては、私のいる場所は目の前に見える身体の内部の場所である。しかし同時に、私はその目の前に見える身体からは物理的に離れた「ここ」にいるということもまた真実なのである。しかもそれは物理的に離れているだけではなくて、その身体の後ろ側数十センチに定位している「ここ」なのである。すなわち「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」ということが成立しているのである。これは一見すると矛盾であるように見えるが、しかしそれが成立していることは確かである。ここで私は、「私がどこにいるのか」ということと、「私がいる場所はどこなのか」ということを、区別して語っている。そして、「私がどこにいるのか」とは、私の内的経験が存在する空間的な定位を問うているのであり、「私がいる場所はどこなのか」とは、私という現象が生起しているであろう物理的な場所を問うているのである。そしてその物理的場所とは何かと言えば、その物理的場所を破壊すれば、私の内的経験が消滅するであろうような場所のことを指しているのである。
これと同じことは、私の脳を頭蓋骨から生きたまま取り出して、神経をすべてつなげたまま目の前の机の上に置いたとしても言えることではある。しかしながら、この場合、私が見ているのはむき出しの脳であり、日常生活で出会うような人間の身体ではない。これに対してテレイグジスタンスでは、私は目の前に日常生活で出会うような人間の身体を見ることができる。後者のほうが、他我の問題を考える際のより良い素材となるはずである。
ところで、サルトルはハイデッガーの「脱自Ekstase」概念を流用して、意識の構造を「対自pour soi」すなわち「それがあらぬところのものであり、それがあるところのものであらぬ」ものとして定式化した[5]。このサルトル的「対自」を、テレイグジスタンスのケースは見事に示しているように思われる。サルトルは、「意識はつねになにものかについての意識である」という現象学的な意識構造を下敷きにして、「対自」の概念を作り上げた。すなわち、意識というものは、つねに意識の根である自分自身から外へと飛び出しており、意識の内容は自分ではないところの外部の対象によって埋め尽くされているということを、サルトルは上記のように表現したのである。テレイグジスタンスの、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」という状況は、サルトル的「対自」の構造を、再帰的に展開させたものであるとも言える。すなわちここでは、自分の根である身体から外へと飛び出した私の意識が、自分ではないところの外部の対象によって埋め尽くされているのだが、その対象の一部として自分がそこから飛び出してきたところの自分自身の身体がふたたび現われているという状況なのである。これを、自分の根である身体を飛び出した私が、ふたたび私の身体へと向かい合うという意味で、「再帰的テレイグジスタンスreflexive telexistence」と呼ぶことにしたい。
ここで私は次のように考えてみたくなる。私の目の前に他人がいて、その他人の身体の内部に他我が存在すると私が思ってしまうとき、私がいったい何を理解しているのかということであるが、それは以下のようなことである。目の前に他人がいるというリアリティとは、ちょうど私が再帰的テレイグジスタンスによって私自身の身体を外から眺めているときと同じような構えでもって、ある人間の身体をテレイグジスタンス装置なしに目の前に眺めているときのリアリティである。このとき、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」という疑い得ない迫力でもって目の前の身体が見えてくるはずである。私がAの身体を目の前に見たときに、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見えるAの身体の内部の〈そこ〉である」というありありとしたリアリティでもってAの身体を見るということが、私がAの身体を他人の身体として見るということなのであり、その身体の内部に他我が存在しているものとして私がAの身体を見るということなのである。
では、この場合の「他我」とはいったい何を意味しているかであるが、それは次のようになる。他我とは、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」という構えでもって目の前の身体に向き合うとき、言い換えれば、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」という疑い得ない迫力でもって目の前の身体が見えてくるときに、目の前の身体の内部の場所に存在するであろう存在者のことである。そしてそれは誰かと言えば、それは目の前に見える身体の内部の場所に存在する存在者すなわち「私」が、「他我」であるということになる。「他我」は「私」なのである。これが、再帰的テレイグジスタンスによる他人の理解における「他我」の意味である。すなわち、「他我」が目の前の〈そこ〉に存在するとは、〈ここ〉にいるこの私が目の前の〈そこ〉の身体の内部の場所に存在するというリアリティを私が生きることである。
この再帰的テレイグジスタンスによる他人の理解は、これまでに述べた他人の理解の考え方とは決定的に異なっている。まず、「他我」を「私の反事実的な内的経験」として理解する考え方であるが、これによれば「他我」はあくまで私の「反事実的な」内的経験のことを意味するのである。そしてそれが私によって実際に経験されたときには、「他我」はその存在をやめることになる。これに対して、再帰的テレイグジスタンスでは、「他我」という言葉で理解されているのは「私」そのものなのであり、けっして私の「反事実的な」内的経験ではない。目の前の他人の身体の内部の場所には「私」がいる、というふうに私は理解するのであり、これが「他我」の理解となるのである。次に、「他我」を「私の反事実的な内的経験」を「実際に経験している私以外の存在」として理解する考え方であるが、これによれば「他我」は定義上「私」とはまったく異なった存在であることになる。したがって再帰的テレイグジスタンスとは水と油のような考え方であるように思われる。これは「他者」としての「他我」の理解についても同様である。すなわち、それは「他我」を、「その内実を理解しようとする私の運動をつねにすり抜けて向こう側へと退いていってしまうもの」として理解するのであるが、再帰的テレイグジスタンスによる理解では、「他我」の意味は「私」にゆるぎなく同定されて解釈される。
では、再帰的テレイグジスタンスによる「他我」の意味の理解とは、具体的にはいったいどういうことなのかを考えてみよう。目の前に身体があり、その身体が他人の身体として現われているとする。このときにその身体は、その内側の場所に「他我」が存在しているような身体として、ありありと現われているのである。そのときに、まずその「身体」がいったいどういうものとして現われているかということであるが、それは、私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である、というような身体として、私の前に現われているのである。それを逆から見れば、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉であるのに、それにもかかわらず私は〈そこ〉ではなくて〈ここ〉にいる、というふうな構えでもって目の前の身体に私が向き合うことである、ということになる。
その意味は、たとえばもし上空でガラスが壊れてその破片が落ちてきたとしたときに、私は、〈ここ〉の座標に定位されている身体を捨て置いてでも、目の前の〈そこ〉の身体を守ろうとして、目の前の身体の頭部に手を伸ばして防御しようとするということである。その行為は、本気であり、必死なのであり、けっして、〈そこ〉にひとつの内的経験が存在しているから守るとか、〈そこ〉に内的経験を経験しているもうひとつの存在があるから守るというような甘っちょろいものではない。そうではなくて、〈そこ〉の場所が破壊されれば〈ここ〉の私が消滅するから〈そこ〉を必死で守るという、存在の最底部から発する衝動によって〈そこ〉を守るのである。そして私は、日常生活において私が目の前の身体を真に「他我」の存在を含み込んだものとして受け止めているとき、私の全人格的な他我理解の核心部分には、いま説明したような衝動が組み込まれていると思うのである。そして私たちはそれを「愛」と呼んできたのではないだろうか。カントは愛を求心力として、尊敬を遠心力としてとらえたが、そこで洞察されていたことはこれなのではないだろうか[6]。
では、「他我」は「私」であるとは、具体的にはいったいどういうことであろうか。この場合の「私」は、主体が自己自身を指すときに使われる一般的な私ではなく、「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在する」者としての私のことである。永井均はそれを「〈私〉」と呼んできた[7]。森岡は永井との応接においてそれを「独在的存在者」と呼んできた[8]。この存在者は、それが具体的には誰であるのかを固有名詞を用いては指示することができず、「この私」という指示形式による同定の試みをそのつどすり抜けていくものとしてのみ指し示されるような存在者である[9]。このような意味での「独在的存在者」としての「私」が、ここで意味されているところの「私」である。「他我」とは、その意味での「私」であるというのが、ここでの主張となる。「独在的存在者」の「独在性」を際だたせるために、それを「この私」と呼ぶことがもし許されるとすれば、私の主張は、再帰的テレイグジスタンスにおいては「他我とはこの私である」というふうに「他我」が理解されている、ということになる。この文章は直観的に強調点がつかみ取りやすいので、以下、これを使用することにする。
それはすなわち、私が目の前の他人を見るたびごとに、「この私は〈そこ〉の場所にいる。他我とは〈そこ〉の場所にいるところの〈ここ〉のこの私である」とありありと理解するということである。すなわち、「他我」はもはや「他」の「我」ではない。「他我」は「我」にほかならないのであり、「この我とは異なった存在論的身分を持つもうひとつの我」という意味での「他我」は世界から消失するのである。これは独我論そのものではないかと思われるかもしれないが、ここは慎重な吟味が必要である。たしかに、「他我」は存在せず、「我」のみが存在するという点においては、我々のイメージする独我論に等しいと言える。しかしながら、再帰的テレイグジスタンスにおける「我」が存在する場所はけっして〈ここ〉ではなく、目の前の他人の身体の内部の場所である〈そこ〉なのである。これは、ふつうの意味での独我論とは異なっている。「我」の根元は目の前の他人の身体の内部の場所に存在しているのであり、私の意識の座標軸が定位している〈ここ〉には存在していないのである。これはいままで構想されたことのない存在様式である。それを独我論と呼ぶのは慎重であらねばならない。そしてさきほども述べたように、日常生活において私が他我を理解するときに、いま述べたような他我の理解が、その核心部分にあるというのが私の主張なのである[10]。
再帰的テレイグジスタンスとして他人を理解するとは、けっして、この私の身体の内部の場所からこの私という存在が開け、そして目の前の他人の身体の内部の場所からもこの私という存在が開けているというふうに理解することではない。そうではなくて、この私という存在は、目の前の他人の身体の内部の場所からのみ開けているのであり、この私の身体の内部の場所はこの私とはなんら特権的関係性を持たないというふうに理解することである。これはある意味では「錯覚」を生きることである。
また、これまでの他我論は、私と他我はその存在論的身分において等根源的であるはずなのに、私の経験世界から出発したのではどうしても私と他我の等根源性が証明できない、という問題構成をとっていた。しかしながら、再帰的テレイグジスタンスの視点からすれば、この等根源性の問題構成それ自体が解体されなければならないことが分かる。すなわち、再帰的テレイグジスタンスによる解釈では、この私と並び立つような等根源的なもうひとつの我は設定される必要がないのである。なぜなら他我はこの私であるのだから、それに加えてもうひとつの存在者を設定しなくてもかまわないのである。それと同時に次のことも言える。再帰的テレイグジスタンスにおいては、他我はこの私である。ということは、この二つは同一なのであるから、その意味において他我と私は等根源的である。すなわち、他我=この私というただひとつの根源的存在があり、それがある文脈ではこの私と見え、他の文脈では他我と見えるというわけである。根源的存在者は複数者ではなく、一者であるということを、この分析は示唆している。永井均はこの一者のことを〈私〉と呼んだが、さらにそれが「他我」でもあるというところまでは踏み込まなかった。
第4章 「他我はこの私である」ということの意味
さらに考察を進めてみよう。
ここまでの議論は、「目の前の他人の身体の内側に「他我」が存在すると言うときに、私は「他我」という言葉でいったい何を理解しているのか?」という水準で行なってきた。ここで、それを若干踏み越えて、再帰的テレイグジスタンスの視点からすれば、「他我」は存在すると言えるのかどうかという問いについて考えてみたい。振り返っておくと、他我とは、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」という構えでもって目の前の身体に向き合うとき、言い換えれば、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」という疑い得ない迫力でもって目の前の身体が見えてくるときに、目の前の身体の内部の場所に存在するであろうもののことであった。そして、その意味で「他我とはこの私のこと」であった。では、そのような意味に解釈された「他我」は実際に存在するのであろうか。それに対しては、次のように答えることになるだろう。すなわち、そのような構えで私が実際に目の前に身体に向き合うとき、すなわち、そのような迫力でもって目の前の身体が見えてくるとき、「他我」は「この私」としていまここに実際に存在するとしか言いようがないのである。存在論的には、これ以外は考えにくい。では、そのような構えで目の前の身体に向き合わないときはどうなるのかというと、その場合は、この意味での「他我」は世界から消失することにならざるを得ない。もちろんこの意味とは異なった意味を与えられた「他我」については、別の検討を要する。
では、「他我の内的経験」(ここでは「他人の内的経験」と言っても同じことである)とは、いったい何であろうか。「他我の内的経験」とは、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」という構えでもって目の前の身体に向き合うとき、言い換えれば、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」という疑い得ない迫力でもって目の前の身体が見えてくるときに、目の前の身体の内部の場所に存在する存在者が経験しているであろうはずの内的経験である。ここで「はず」という言葉が追加されている。なぜかと言えば、再帰的テレイグジスタンスの定義は、存在者の場所について規定しているが、存在者の経験している内的経験の内容については規定していない。目の前の身体の内部の場所に存在する存在者は一義的に「この私」であるのだが、その存在者が具体的にどのような内的経験を経験しているかについては、規定されていないのである。であるから、「他我の内的経験」とは、目の前の身体の内部の場所に存在する存在者が経験しているであろう「はず」の内的経験ということになるのである。
たとえば、目の前の身体がお茶を飲みながら幸せそうな表情をしているとする。そしてこのとき私もまた、自分がお茶を飲んでいるときのような幸せな気持ちに満たされているとする。このとき、「この私」がいまここで経験している幸せな気持ちが、目の前の身体の内部の場所に存在する存在者(すなわち「この私」)が経験しているであろうはずの内的経験であると判断してもかまわないのであれば、「この私」が経験しているその内的経験が「他我の内的経験」と同一であるとみなされることになる。
ところが、目の前の身体があごを押さえて歯痛にうめいているとする。しかしこのとき私には何の痛みもないとする。このときは、「この私」がいまここで経験している平穏な気持ちは、目の前の身体の内部の場所に存在する存在者(すなわち「この私」)が経験しているであろうはずの内的経験ではないと判断される。このように、「この私」が実際に経験しているものと、「この私」が経験しているはずのもののあいだにズレが生じる場合は、「「この私」がいまここで経験しているであろうはずの〈反事実的な〉内的経験」が、「他我の内的経験」となるのである。歯痛の場合では、目の前の身体があごを押さえて歯痛にうめいているときに、「「この私」がいまここで経験しているであろうはずの〈反事実的な〉歯痛の内的経験」が、「他我の内的経験」であるということになるのである。そしてそのズレが判別不能になったとき、この私の内的経験が他我の内的経験と同一のものとされるのである。
これは、一見すると、「他我の内的経験とは、私の反事実的な内的経験である」とするシンプルな反事実条件法による他我理解と同じであるように見える。しかしながら、この二つのあいだには重要な違いがあるので、それを指摘しておきたい。このシンプルな反事実条件法による他我理解を、より精密に書いてみると、このようになる。「他我の内的経験とは、もし私が目の前の身体の場所にいて、目の前の身体が置かれている状況にいたとしたら、私が経験していたであろ反事実的な内的経験である」。歯痛の場合では、もし私が目の前の身体の場所にいて、目の前の身体が置かれているような虫歯に蝕まれていたとしたら、私が経験していたであろう反事実的な歯痛の内的経験が、他我の内的経験だということになる。このシンプルな反事実条件法による他我理解を、再帰的テレイグジスタンスによる他我理解と比較してみよう。
第一に、この私が歯痛を経験しているであろう場所が異なる。シンプルな場合では、この私は「目の前の身体の場所」において歯痛を反事実的に経験する。これに対して再帰的テレイグジスタンスの場合は、目の前の身体の場所においてではなく、〈ここ〉において歯痛を反事実的に経験する。
第二に、シンプルな場合では、「もし私が目の前の身体の場所にいて、目の前の身体が置かれている状況にいたとしたら」という私の視点移動について「反事実性」が生じており、それに付け加えて、私がいまここで経験している内的経験の内容についても「反事実性」が生じている。これに対して再帰的テレイグジスタンスの場合は、そのような視点の移動は起きておらず、そこにおいては「反事実性」は生じていない。そのかわりに、私がいまここで経験している内的経験の内容についてのみ「反事実性」が生じているのである。(この第二点は第一点を論理化したものである)。
このように考えることで、「感情移入」とは何であるのかを、新たな視点から理解することができるようになる。すなわち、「感情移入」とは、目の前の身体がある種のふるまいをしたり、ある種の状況に置かれているならば、「この私」はそれに対応した内容の内的経験を経験しているはずであるが、実際にはそのような内的経験を経験していないときに、そのギャップを埋めようとして、「私が経験しているはずの内的経験」を実際にいまここで経験しようと私が自然に反応してしまうことなのである。歯痛の場合で言うと、目の前の身体が歯痛にうめくふるまいをしているときに、ほんとうならば「この私」は歯痛の内的経験を経験しているはずであるが、実際にはそれを経験していないわけである。そのギャップを埋めようとして、「私が経験しているはずの歯痛の内的経験」を実際にいまここで経験しようと私が自然に反応してしまうことが、「感情移入」というものの本質なのである。すなわち、「感情移入」とは、〈そこ〉にあるはずの感情を私が〈ここ〉で追体験しようとすることではなくて、〈ここ〉にあるはずの感情を私が〈ここ〉で実際に体験するべくその感情を自分から自分自身へと供給することなのである。
なぜ人は感情移入するのかという問いがある。再帰的テレイグジスタンスによれば、それは、「私はいまここでそのような感情を持っているはずだから、そのような感情を実際に持てるようにしなくてはならない」という私の自然な反応によって、感情移入が起きると答えることになるだろう[11]。
感情移入の場合に顕著であるが、一般に「他我の内的経験」を理解するためには、「こういう状況では私はこういう内的経験を持つことが多い」という一般常識を持っている必要がある。そうでなければ、目の前の身体があるふるまいをしたときや、ある状況に置かれたときに、「この私」がどういう内的経験を経験しているはずであるのかについての知識を、私は持つことができないからである。その知識を持つことが、「他我の内的経験」を理解するための条件となる。その意味で、他我理解すなわち「この私」の理解は、社会的な一般常識的知識によって条件付けられているということができる。
再帰的テレイグジスタンスの視点によれば、目の前の身体が指を針で刺して痛みにうめいているとき、「この私」はそのとき感じるはずの痛みを感じていない。そのときに、感じるはずの痛みを感じようして、「この私」が自分自身の指を同じように針で刺して実際の痛みを感じたとする。このとき、「この私」が実際に感じている痛みは、他我が感じているはずの痛み「そのもの」であると言ってよいのだろうか。それは限りなくそれに近いと言ってよいのである。その誤差はどこにあるのかというと、それは「この私」が実際に感じている痛みと、「この私」が感じているはずの痛みとのあいだにあるであろう誤差であって、その誤差はけっして「この私が」実際に感じている痛みと、目の前の身体の内部にあるであろう痛みとのあいだの誤差ではない、という点が重要なのである。比べるべきは〈ここ〉と〈ここ〉のあいだであり、〈ここ〉と〈そこ〉のあいだではないのだ。これは決定的な点である。
さて、次のような状況を考えてみよう。
覆面の男が突如部屋に侵入してきて、目の前の身体の頭部に銃を突きつける。このとき、私はとっさに目の前の身体を守ろうとして、その銃を腕で振り払う。銃は部屋の隅へと飛んでいき、私は両腕で目の前の身体の頭部を守ろうと抱きしめる。このような場面で、私はどういう言葉を発するであろうか。
まず、もし私が「他我」という言葉で理解しているものが、「私の反事実的な内的経験」であるとすれば(シンプルな反事実条件法による他我理解)、「やめろ! その身体の内部に開けているはずの内的経験が消滅してしまう!」というふうに叫ぶであろう。もし私が「他我」という言葉で理解しているものが、「私の反事実的な内的経験」を「実際に経験している私以外の存在」であるとすれば、「やめろ! その身体の内部に開けているはずの内的経験を経験しているところの、私以外のもうひとりの存在が消滅してしまう!」というふうに叫ぶであろう。
これに対して、もし私が「他我」という言葉で理解しているものが、再帰的テレイグジスタンスによる「他我」であるとすれば、「やめろ、他我であるこの私が消滅してしまう!」というふうに叫ぶであろう。前の二つと比べてみて、この叫びがもっとも力強いものであるように私には思われる。なぜなら、「この私が消滅してしまう!」という叫びの強さに匹敵するような防護力でもって、目の前の身体が守られるからである。それに比べれば、前二者の防御力はどこかしら他人事のような弱さを含んでいる。私が他人を守りたいと思うときの、もっとも強い防御力は、目の前の身体を再帰的テレイグジスタンスの視点からとらえたときに出てくるのではないか。そして、私が実際に目の前の身体を他我としてとらえているとき、とくに愛する身体を全力で守ろうとしてしまうとき、私は再帰的テレイグジスタンスからとらえられるような他我をそこに見て取っているのではないだろうか。
もちろん、再帰的テレイグジスタンスにもとづいた愛は、目の前の愛する人は私と同一であるという「融合型」の愛としてはたらき、私と愛する人との境界線を融解して、どこまでも相手を飲み込んで窒息させていく抑圧型の愛、独我論的な愛になってしまう危険性をはらんでいる。この点については慎重な考察が必要であろう。それを認識したうえで言えば、人間のあいだの愛は、多かれ少なかれ自分と対象の融合への希求をその核心部分に含んでいるのであり、その融合への希求がどういう機序で生成するかを解明するためのヒントとして、再帰的テレイグジスタンスの視点が使えると私は思うのである。
ところで、さきほどの例で、私の行動が一瞬遅くなってしまい、男が銃を発砲して、目の前の身体が死んでしまったとする。このときに、私には何が起きるのだろうか。まずシンプルな反事実条件法による理解をしていた場合は、「目の前の身体の内部に開けているはずの内的経験が消滅してしまった!」と嘆くことになるだろう。私以外の存在がいるとする反事実条件法による理解をしていた場合は、「目の前の身体の内部に開けているはずの内的経験を経験しているところの、私以外のもうひとりの存在が消滅してしまった!」と嘆くことになるだろう。
では、再帰的テレイグジスタンスによる他我理解をしていた場合はどうなるであろうか。目の前の身体が銃によって崩れ落ち、心停止して身体がまったく動かなくなり、「私がいるのは〈ここ〉であるが、私がいる場所は目の前に見える身体の内部の〈そこ〉である」という構えでもって私が目の前の身体に向き合うことができなくなったとする。このとき、二つのことが同時に起きる。まず、「他我はこの私である」という形式で〈ここ〉に存在していた「他我=この私」、すなわち「他我」であり「この私」であったところの存在者は、この世から消滅してしまう。そしてそれと同時に、それまでは存在するのをやめていた裸の「この私」という存在者が、ふたたびこの世界に登場してくるのである。そしてそこに再登場した「この私」は、自分自身を眺めて愕然とする。「他我」であり「この私」であると思われていた「この私」は、単なる裸の「この私」へと変貌することによって、ある意味、無傷のまま生き残り続けているからである。
これを言葉にすると次のようになるだろう。「他我であるこの私は、真っ二つに引き裂かれた。そして「他我」は消滅し、「この私」は生き残ってしまった!」。そして「この私」は茫然と取り残される。銃撃によって「他我であるこの私」が消滅してしまうと思って、必死で目の前の身体を守ろうとしたのに、銃撃の結果、消滅したのは他我のみであって、この私はこの私として意外にも生き残ってしまった。そのような巨大な謎に、この私は襲われるのである。「他我はこの私である」という他我理解は大きな錯覚であり、そのような同一はそもそもどこにもなかったという裏切りにも似た結末に「この私」は打ちのめされる。「他我はこの私である」というリアリティが圧倒的な迫力でもって迫ってきていたのは事実なのであり、そのリアリティを「この私」はありありと生きていたのである。それがこのような結末によって裏切られるとは、なんという痛手であろうか。私だけが生き残ってしまったという、いわゆる「サバイバーズ・ギルトsurvivor’s guilt」の機序も、これによって説明可能な部分があるのではないかと私は考える[12]。
このように、再帰的テレイグジスタンスの視点から他我理解をして生きることは、この世界において他我に出会うたびごとに「他我はこの私である」という、結果的には裏切りに終わるであろうところの関係性をリアリティとして生き生きと生きることに他ならない。このことを浅く理解すれば、「他人をあまり自分に引きつけて同一視すると、他人と自分が別存在であることが分かったときに受けるショックが大きい」という心理学的な教訓にすぎないことになるだろう。このことを深く理解すれば、私が他人とほんの少しでもまともに関わろうとするたびごとに、私の中に再帰的テレイグジスタンスの視点による他我理解が否応なしに生まれてきて、他人と共に生きる私の生の基盤をかなり深いところから規定してしまうことになるという仮説として理解されることになるだろう。
再帰的テレイグジスタンスが開くことになる対他関係とは、目の前の身体へと再帰的テレイグジスタンスの視点から関わるとき、その身体の内部の場所にある「他我」は「この私」であるから、その身体は「この私」とまったく等しく価値があり、尊厳を持ち、守られなくてはならないとする関係性である。そして、それは単にひとりの人間に対してのみ開かれるのではない。「この私」はどの他人の再帰的テレイグジスタンスでもあり得るのであり、そのような構えで人々に向かうとき、どの他人がひどく扱われてもそれは「この私」がひどく扱われることと同一なのであり、どの他人が殺されようとしてもそれは「この私」が殺されようとすることと同一なのであり、危機に陥った他人を守ろうとすることは「この私」を守ろうとすることと同一なのであるという関係性の可能性が開けてくるはずである。そして、たとえ現実によってそれが裏切られたとしても、私が別の誰かと対他関係に入るたびごとに、そのような関係性が何度でも浮かび上がってくるという可能性があるのである。
このような世界観を私が実際に生きることによって、「他我」と「この私」の等根源性がたえず創出され続けていくことになるように私には思われる。この等根源性は、先に述べたように、この私と並び立つような等根源的なもうひとつの我というものを設定するような等根源性ではなく、「他我」と「この私」の二つは同一なのであるから、その意味において「他我」と「この私」は等根源的であるとするような等根源性なのである。そしてこの等根源性はつねに幻想として解体消滅する危険性の上に成立しているのであるから、私が「他我はこの私である」という関係性をたえず創出しながら生きていくことではじめて、その等根源性は維持可能なものになるのである。人間の尊厳もまた、この地点に位置づけることが可能かもしれない。
第5章 おわりに
以上に考察した再帰的テレイグジスタンスは、私が他人に向かうときの私の他我理解を100%説明したものではない。そうではなくて、私が他人に向かうときの他我理解の根底には、多かれ少なかれこのような他我理解が基盤のひとつとして存在するはずだということを示すセオリーなのである。
このような考察を行なうことで、もうひとつ分かってくることがある。それは、先に述べた、「他者」としての「他我」理解とはいったい何かということである。「他者」としての「他我」とは、「他者」すなわち「その内実を理解しようとする私の運動をつねにすり抜けて向こう側へと退いていってしまうもの」こそが「他我」なのだという考え方である。そしてその「他者」としての「他我」は、単にその内実を理解しようとする私の運動をつねにすり抜けて向こう側へと退いていくだけではなく、私の手のひらをすり抜けた無限の彼方から、この私へと声を届けようとしていまここへと現われてくる何ものかである。私が他我を理解するときに、私はそのような意味での他者を他我のうちに読み取っているというわけなのである。
再帰的テレイグジスタンスの視点による他我理解には、この意味での「他者」としての「他我」の理解は含まれていない。「他我」は「この私」と同一なのであり、「他者」の入り込む余地はない。そのかわりに、私がこれまで何本かの論文で考察してきた「ペルソナ」こそが、「他者」としての「他我」のはたらきを行なうのである。「ペルソナ」とは、「我と対話せよ」という抗い得ない迫力をもって私に迫ってくる何ものかのことである。それは、みずからは言葉を用いることなく、私に対話せよと迫ってくる。「ペルソナ」は脳死の人の身体に現われることもあるし、人形に現われることもあるし、自然物に現われることもある。「ペルソナ」は、それが現われる場所が人間の形態をしていることをかならずしも要求しないし、そこに機能する脳があることも要求しない。「ペルソナ」は、どこからかは分からないけれども、何ものかの上に、あるいは場所を定めずにありありと現われ、私に向かって「我と対話せよ」と迫ってくる。それはこんなにもありありと現われるにもかかわらず、私はそれを見ることも触ることもできず、私はそれをけっして捕まえることができない[13]。
私が他人を経験するとき、他人の身体には、再帰的テレイグジスタンスの視点による他我が存在し得ると同時に、いま述べた意味でのペルソナもまた存在し得るのである。そして、この「ペルソナ」こそが、「他者」としての「他我」の別名だったのである。ここにおいて、この論文で考察した他我問題と、私がこれまで考察してきたペルソナ論が出会うのである。
また、この論点は、永井均が提起し、森岡もそれに応接して議論してきた「独在性」(永井的には〈私〉)の論点とも合体することになるが、それについては今後の論文で正面から検討することとしたい。
冒頭で述べたように、「私の心と他人の心はまったく同じである」という発想を最初に提唱したのは平山朝治(1984)である[14]。華厳経にヒントを得て提唱されたその命題は刺激的なものであったが、平山は「他我は実際にこの私である」という主張を行なっており、この点において私の主張と決定的に異なっている。また平山が同書で試みた論証には誤りがある。平山は同書の増補版(2009)において森岡の考察(1994)を取り上げて自説との異同を検討している。問題含みであるものの、平山の議論は詳細な考察に値するものであり、私は他の論文にてそれを検討することを予定している。
本論文は、「他我」とは何かについての大胆な仮説を展開したものであり、その主張は常識的な理解を逸脱している。したがって読者からは、多大なる反発を受けるかもしれない。私は本論文で述べたことに真理が宿っていると考えている。しかし間違ったことも書かれていると思うので、読者とやりとりを行ない、この考察をより良いものにしていきたいと考えている。また私は本論文を、将来的には、森岡正博(2011)、森岡正博(2013)と融合させて、新しい生命の哲学の基礎論とすることを予定している。
文献一覧
永井均 (1996) 『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書。
平山朝治 (1984) 『社会科学を超えて』啓明社。
平山朝治 (2009) 『増補 社会科学を超えて』中央経済社。
森岡正博 (1994) 「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味―「独在性」哲学批判序説」池上哲司・永井均ほか編『自己と他者』昭和堂、pp.110-132。
森岡正博 (2010) 「パーソンとペルソナ―パーソン論再考」『人間科学:大阪府立大学紀要』5号、pp.91-121。
森岡正博 (2011) 「誕生肯定とは何か―生命の哲学の構築に向けて(3)」『人間科学:大阪府立大学紀要』6号、pp.173-212。
森岡正博(2012)「ペルソナと和辻哲郎―生者と死者が交わるところ」『現代生命哲学研究』第1号、pp.1-10。
森岡正博 (2013) 「「生まれてこなければよかった」の意味―生命の哲学の構築に向けて(5)」『人間科学:大阪府立大学紀要』8号、印刷中。
Heidegger, Martin (1927, 2006) Sein und Zeit. Max Niemeyer Verlag. (マルティン・ハイデッガー『存在と時間』(上・下)ちくま学芸文庫、1994年)。
Sartre, Jean-Paul (1943) L'Etre et le Neant. (ジャン=ポール・サルトル『存在と無』III ちくま学芸文庫、2008年)。
註
[1] 註4参照。
[2] 「ペルソナ」概念については、森岡正博(2010)、森岡正博(2012)参照。
[3] ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』、フッサール『デカルト的省察』等。
[4] テレイグジスタンスは20世紀末にヴァーチャル・リアリティの一種として提唱され、その後、遠隔手術や宇宙探査などに応用されたテクノロジーである。現在開発中のロボットイメージは次のページで見ることができる。http://www.robonable.jp/news/2012/07/tachi-0714.html (2013年3月27日確認)。
[5] Heidegger (1927), S.329, 邦訳219頁。Sartre (1943), p.666, 邦訳III:465-466頁。.
[6] カント『人倫の形而上学』『実践理性批判』等。
[7] 永井均『子どものための哲学』等。
[8] 森岡正博 (1994)。
[9] ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』参照。
[10] この主張は、フッサールの他我構成理論と照らし合わせて検討してみる必要がある。これについては別の論文において行なう予定である。
[11] 感情移入については、リップスやシェーラーの感情移入論との比較検討を、今後の論文において検討する予定である。
[12] サバイバーズ・ギルトとの比較検討も今後の論文で行なう予定である。
[13] 森岡正博 (2010)、森岡正博 (2012)。
[14] 126頁。平山朝治(1984)は、平山朝治(2009)に採録されているので、頁数は後者によることとする。平山とは1984年から一年ほどのあいだ、私信にて議論を行なっていたが、30年の時を経てふたたびこのテーマが舞い戻ってきたことは感慨深い。