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作成:森岡正博
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論文
『生命倫理』Vol.18, No.1 2008年9月 83〜89頁
生命人文学の提唱
:情報学的に展開する研究領域として
森岡正博
KEY WORDS 人文学(humanities) 情報学(informatics) 生命倫理学(bioethics) 医療倫理学(medical ethics)
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要旨
この論文で私は、人文系の研究者たちが現代的な生命の問題を議論するための「生命人文学」という新しい研究領域の必要性を提唱する。日本の学術的な生命倫理学は、医学領域に「医療倫理学」の専門分野を確立したが、それに対して、現代的な生命の問題への包括的な人文学のアプローチはいまだ成立していない。私が提唱する「生命人文学」は、次のような問い、たとえば「生命科学の発展によって人間は幸福になれるのか」「科学技術が発展する中で人間はいかにして尊厳を保つことができるのか」「人間が自然環境と調和的な関係を取り結ぶことは可能なのか」「すべての人が充実した生と死を全うすることのできる社会とはどのような社会か」などを議論する。米国やヨーロッパにおいては、この種の研究はどうしてもキリスト教からの大きな影響下に置かれることになるが、宗教教団が生命倫理の問題に対して大きな力を持たない日本においては、宗教的な影響をさほど受けずにこれらの問題を人文学的に議論することができる可能性がある。この研究プロジェクトはインターネットを介して情報や意見をリアルタイムで交換し共有するという高度なスキルを要求するものであるから、情報学と密接に連携した研究開発が必要となるであろう。Proposal for a Humanities Approach to Life: As a New Discipline Associated with Informatics
Masahiro MoriokaSummary
In this paper, the author proposes the necessity of a new research field of “humanities approach to life,” in which researchers in arts and humanities discuss contemporary issues of life and death from a variety of angles. Japanese academic bioethics has succeeded in creating the discipline of “medical ethics” in the field of medicine, however, up until the present it has failed to create a comprehensive humanities approach to contemporary issues of life and death. The humanities approach that we are going to propose discusses the topics such as, “Will the development of biotechnologies provide us with true happiness?” “How can we protect our dignity in the age of advancing technology?” “How is it possible to attain a harmonious relationship between humans and the natural environment?” and “In what kind of society can we live a truly fulfilled life?” In the United States of America and European countries, this kind of research would surely be heavily influenced by Christian doctrines. In countries like Japan, where religious circles do not have much political power in the field of bioethics, it is highly probable that researchers can discuss 【83】 these topics, being freed from a heavy religious bias and influence. This will be a great advantage to the humanities approach conducted in Japan. This project requires advanced skills in informatics because we will have to provide researchers in various disciplines with internet tools for real-time communication and data sharing related to research subjects. Hence, this project should be developed as a joint venture with informatics.
1 はじめに
本稿は、2007年の第19回日本生命倫理学会年次大会シンポジウムにて発表した内容を原稿化したものである。発表後の諸氏とのディスカッションによって多くのことを教えられたので、その成果をもとに新たに書き下ろすことにしたい。
本稿で私は、「生命人文学」という名の、ネットワーキング型研究領域の必要性を提唱する。「生命人文学」という名称はあくまで仮のものである(1)。生命人文学は、生命倫理学bioethicsのひとつの発展形態である。その点を明らかにするために、生命倫理学の成立と日本における受容について簡単な整理を行ない、なぜいま「生命人文学」なのかについて考察していくことにする。本稿は、生命倫理領域における「学問論」として書かれることになる。
2 米国の生命倫理学の成立と変容
バイオエシックスという言葉は1970年にV・R・ポッターによって提唱された。ポッターはガン研究者であったが、当時の地球環境危機の状況を受けて、人類のサバイバルのための科学をバイオエシックスと呼んだのである。ポッターの頭の中にあったのは、現在の環境倫理学に近いものであった。バイオエシックスがその初発において、人間と環境の関係を焦点としていたことは留意すべきである。
その後、1970年代から80年代の米国において、バイオエシックスは、新しい意味での医療倫理学を指す言葉として広く使われるようになった。その背景としては、臓器移植や、末期患者の治療停止や、人工妊娠中絶などの医療倫理の諸問題が、米国社会において大きな課題となったことがある。この時期に、医師、法学者、神学者、分析哲学者などがこれらの問題について活発な議論を行ない、研究の場を形成した。ヘイスティングス・センターや、ジョージタウン大学ケネディ研究所などが、中核的な役割を果たした。その結果として、大学にバイオエシックス関連の授業やコースが置かれるようになり、病院の施設内倫理委員会などに人材を補給するようになった。このようなプロセスを経て、米国のバイオエシックスは、しだいに医療問題を中心とする学際研究領域として編成されていった。いわゆる「4原則」の生命倫理学が一世を風靡し、バイオエシシストと呼ばれる専門家が誕生した(2)。
1980年代半ばから90年代にかけて、バイオエシックスの国際化という現象が本格的に起きる。バイオエシックスは、ヨーロッパや東アジアやラテンアメリカへと広がっていく。日本では1980年代後半にバイオエシックスが輸入され、1988年に日本生命倫理学会が設立され、90年代以降にその学術的活動が拡大する。この時期に、国際的なバイオエシックスの会合やネットワークが次々と誕生する。国際生命倫理学会が設立されたのは1992年である。バイオエシックスの国際化にともなって、各国の文化的差違と倫理の普遍性をどのようにして調停すればよいかという問題が浮上した。比較文化的な国際生命倫理という問題である。
またこの時期に米国では、「4原則」の生命倫理学を相対化するためのいくつかの試みが出現した。まず、医療現場で現実に起きている倫理的な諸問題を、実際に解決できるような倫理学が必要であるという声が強くなってきた。臨床の現場から立ちあがるという意味で「臨床倫理学」と呼ばれる(3)。また、フェミニズムからのインパクトを受けて、医療現場で不可視化されている女性の声や体験からバイオエシックスを見ていこうとする「フェミニスト生命倫理学」が本格的に誕生した(4)。さらに、米国内におけるコミュニティの背景文化の差から生じる倫【84】理規範の差異に注目する「比較文化的生命倫理学」も登場する(5)。さらに、患者や家族や医師の語るナラティブの重要性に注目した「ナラティブ生命倫理学」も登場する(6)。このようにして、医療現場をフィールドとする生命倫理学に対して、様々な方法論が提唱されたのであった。
2000年代に入ると、この枠組みに変動が起きる。まず、1996年に成功した羊の体細胞クローニングは、人間のクローニング研究の可能性を一気に開いた。1998年には、ヒト胚からES細胞が作成された。これらの技術を臨床応用してよいのかどうかをめぐって大議論が起きた。これに加えて、人間の受精卵の遺伝子操作を通して人間を改造してもよいのかどうか(新優生学、エンハンスメント、ポストヒューマニズム)の議論が活発になった(7)。バイオエシックスのテーマは、病院内の医療倫理や生と死の法整備をターゲットとするものから、我々は人間の細胞や遺伝子や受精卵にどこまで介入して人間を改造してもよいのかという、人間をめぐる広範な科学技術倫理へと拡大したのである。その後、脳神経への介入の是非を考察する脳神経倫理学も提唱され、さらに幅は拡大した(8)。
2000年代のバイオエシックスに衝撃的なインパクトを与えたのは、レオン・キャスと大統領生命倫理評議会によって2003年に刊行されたレポート『治療を超えて:バイオテクノロジーと幸福の追求』である(9)。このレポートは、論じるべきテーマを、「医療現場の問題をどうしていけばいいのか」という問いから、「バイオテクノロジーの発達によって、人間は果たして幸福になるのか」という問いへと変更しようとしたものであると見ることができる。このレポートは、出生前診断や遺伝子操作によって「より良い子ども」を持つこと、エンハンスメントによって増強された身体を持つこと、老化遅延技術によって老いない身体と非常に長い寿命を持つこと、薬物によって人工的な幸福感を手に入れること、などをテーマとして取り上げ、それらの技術に対して消極的あるいは否定的な見解を示唆したものである。その理由は、人間はみずからの貪欲を拡大することによって幸福に至るのではなく、与えられた有限の生命を謙虚に使い切ることによって幸福に至るからだ、というものである。
キャスは米国の保守派生命倫理学者の筆頭と目されており、このレポート刊行後、米国の生命倫理学は、キャスの主張を支持する保守派と、バイオテクノロジー研究の大幅な自由を求めるリベラル派とに二分された感がある。以前より中絶をめぐって国論は二分されていたが、それがヒトクローニング・ES細胞など先端技術の倫理にまでも拡大したのである。筆者は、2006年夏に米国のオルバニー市で開催された米国生命倫理人文科学会に出席して発表したが、その大会の統一テーマは「生命倫理と政治:分断された民主主義における生命倫理学の未来」というものであり、この「分断された」というのは、バイオテクノロジーへの対応をめぐって、バイオエシックスがまさに保守派とリベラル派に分断されたということを意味している。
このレポートやキャスの著書を読むと分かることであるが、そこでは、「人間にとって幸福とは何か」とか、「人間の自由とは何か」と言った、人類古来より問われてきた「哲学」の問いに焦点が当てられている。彼らが提起した問いは、現実解を求めるプラグマティズムの伝統のうえで形成されてきた米国のバイオエシックスとは、また異なった次元の問いである。すなわち、強大な技術を手にして立ちすくむ人類にとって生きる意味とは何なのか、死によって人は何を獲得できるのか、という種類の問題が正面から問われようとしているのである。私の見るところ、彼らの問題提起の中心にあるのは、バイオエシックスの問いのパラダイムそれ自体を組み替えることではないかと思われるのである。それを組み替えることで、バイオエシックスを、新たな「人間学」として再編成しようとしているように思われるのである。この点は大いに注目する必要がある。この論点が米国のバイオエシックス界に理解されているかどうかは、上記の会議に筆者が出席してみたかぎりにおいては、いささか疑問に感じられたことを付け加えておきたい(10)。
3 日本の生命倫理学の成立と展開
日本の学術的な生命倫理学は、1980年代の後半から始まったと考えられるが、生命倫理の営みはそれ以前から草の根レベルで活発に行なわれていた。1970年代初頭のウーマン・リブと障害者による優生【85】保護法改悪反対運動は、今日で言うフェミニスト生命倫理と障害者生命倫理そのものである。女性と障害者が欧米の生命倫理の世界に本格的に登場したのは1990年代になってからであるから、この分野での日本の議論は世界に先駆けていたと言える。また、日本の現代的な意味での生命倫理が、女性と障害者というマイノリティから発せられたという点は、しっかりと記憶しておくべきである(11)。
1980年代から男女産み分けや脳死臓器移植が、大きな社会問題となり、それに並行するかたちで米国からバイオエシックスが輸入された。筆者も当時その輸入の先端にいたひとりである。1985年には医学哲学倫理学会が設立された。また、脳死臓器移植問題のインパクトを受けるかたちで、医学界とそれ以外の人文社会学界が合流して、1988年に日本生命倫理学会が設立された。この時点では、それまでの草の根の生命倫理との接続はほとんどなされなかった。
1990年代には、施設内倫理委員会が大学や病院で次々と設立されるようになり、大学医学部でも医療倫理の授業が開講されるようになっていった。それにともなって、日本においても、生命倫理学という言葉は、現代的な意味での医療倫理学という意味で使われることが多くなっていった。教科書や概説書や翻訳書も多数出版されるようになり、この時期に日本の生命倫理学はディシプリンとして制度化されたと言うことができる。
2000年代になると、旧帝国大学医学部を中心に、医療倫理講座が開設されて人材育成を始めるようになる。京都大学(2000年)、大阪大学(2001年)、東京大学(2003年)の各医学部にそれらの講座が置かれている。また、各大学の医学部では、医療倫理の授業がかならず併設されるようになった。米国のバイオエシックス研究者たちとの共同作業も開始されており、日本の生命倫理学は、ひとまず医学部を中核とする医療倫理学として確立したと見ることができる。そこで追求されている医療倫理学は、どちらかと言えば、医療現場に密着した臨床倫理学であると言えるだろう。米国型の生命倫理学の日本への導入後、約20年を経て、日本の生命倫理学は医学部主導の臨床倫理学として着実な軌道に乗ったのである。
4 生命人文学という研究領域
これに比して、医学部以外の人文社会系の分野の研究者は何をしていたかと言えば、生命倫理、医療倫理、医療社会学、環境倫理などのテーマについて各所で論文を発表したり、著書を刊行したりしてきたのだが、それらの活動はきわめて散発的であって、生命倫理学への人文系のアプローチというものを集大成させるような試みは、いまだなされていないと言ってよい。その原因のひとつは、大学内に、生命倫理学への人文系のアプローチをバックアップする組織が見出しにくいという点にある。大学再編の流れの中で、文学部という枠組みは崩壊の危機に直面している。本来ならば文学部が音頭を取って、これらのアプローチをまとめあげる役割を担うべきであるのだが、それはまだ大きな成功には至っていない。長期の取り組みをしてきた例として、早稲田大学人間科学部があり、最近では熊本大学文学部があるが、まだ教員個人依存的な研究体制にとどまっているようである。大学外では、旧・三菱化成生命科学研究所における生命倫理研究が群を抜いた高度な研究を行なってきたが、その研究所も最近閉鎖された。
人文系において、生命倫理学を包括するような共同研究体制を作り出しているのは、文部科学省のCOEプロジェクトである。東京大学を拠点とする「死生学プロジェクト」や、立命館大学を拠点とする「生存学プロジェクト」が、その好例であろう。ただし、これらのプロジェクトは期限付きの資金で運営されているため、今後継続的に研究が発展して人材を育成することができるかどうかは予断を許さない。人文系には、大学医学部のような強力な後ろ盾がない以上、このような公的プロジェクトの力を借りながら、生命倫理学への人文系のアプローチを模索していくしかないのかもしれない。
ところで、第2節で述べた、米国における大統領レポートの衝撃を思い出していただきたい。そこでは、「生命科学の発展によって人間は幸福になれるのか」というきわめて人間学的な問題が正面から問われていたのであった。このような種類の問いこそが、まさに生命倫理学への人文的アプローチによって問われるべき根本問題なのではないだろうか。そ【86】してまさにこのような問題の立て方をすることによって、生命倫理学は、広く一般市民の心に届くようなメッセージを発信することができ、また草の根の生命倫理の活動と交流することができるのではないだろうか。
私の主張したいのは次のことである。日本の生命倫理学は、医学部における臨床倫理学としてひとつの形をなすことに成功した。人文系の研究者たちは、彼らの臨床倫理学に匹敵するような、もうひとつの研究領域へと、生命倫理学を再編成しなくてはならない。人文系の研究者たちが目指すべき研究領域として、私は「生命人文学」を提唱する。「生命人文学」とは、「生命科学の発展によって人間は幸福になれるのか」という問いや、「科学技術が発展する中で人間はいかにして尊厳を保つことができるのか」という問いや、「人間が自然環境と調和的な関係を取り結ぶことは可能なのか」という問いや、「すべての人が充実した生と死を全うすることのできる社会とはどのような社会か」という問いなどに対して、人文系の様々な分野からアプローチしてその答えを模索していくような研究領域である。これらの問いを旗印にすることによって、人文系の研究を学際的に集結させようというのである。
「生命人文学」という名称から、「倫理学」が抜け落ちているのには理由がある。従来より、「生命倫理学」という名称に対する違和感を持つ人文社会系の研究者は多くいた。たとえば、宗教学や社会学や文化人類学の領域から、生命倫理の諸問題にアプローチする研究者たちの中には、みずからの研究が「倫理学」という枠で括られることに大きな抵抗感を感じる者たちがいた。たとえ扱う問題は倫理的な問題であっても、それを研究する手法やディシプリンまでもが強引に「倫理学」の名前で呼ばれるのは耐えがたいという意識があったのであろう。私も、彼らのそのような意識はよく理解できる。であるから、人文系のアプローチの名称としては、広範な「生命人文学」という言葉を暫定的に使用したいと考えている。もちろん、社会学や社会科学の分野からは、「人文学」という名称への不満が出てくることだろう。それを考慮すれば、「生命人文社会学」「生命人間社会学」という名称も充分にあり得ると私は思う。
このようにして、バイオエシックスから「医療」の枠を外し、さらに「倫理学」の枠を外すことによって、現代における生命の問題を様々な人文系の分野から学際的に探求する「生命人文学」の領域が開かれてくると思われるのである。
「生命人文学」を構想するときに、念頭に置いておくべきは、宗教との関連性である。古来より生と死の問題は、もっぱら宗教の世界において深められてきた。今日でも、世界を見渡してみれば、生と死の問題は圧倒的に宗教の領域で語られている。すでに述べたように、「生命人文学」的なレポートを米国で刊行したキャスと彼らのグループは、保守的なユダヤ=キリスト教の圏域下にある。生命倫理の諸問題がつねにユダヤ=キリスト教の教義との兼ね合いで議論される米国においては、彼らの言説はまずなによりもユダヤ=キリスト教保守派からのバックラッシュとして理解されてしまうのである。実際、彼らのレポートに、一神教的な宗教言説の影響が色濃く見られるのは事実である。だがそれをもって、彼らの主張に宗教保守派というレッテルを貼って、それにリベラルな生命倫理を対置するという現在の米国の思想状況はいかにも貧しいと言わざるを得ない(12)。
そもそも、キリスト教徒が人口の大多数を占める米国においては、「生命人文学」的な言説が宗教的な色眼鏡で見られてしまうことは避けがたい。米国ほどではないにせよ、ヨーロッパでも同様の事情がある。ヨーロッパにはキリスト教の伝統が深く根付いており、生命倫理の諸問題に関しても、バチカンがどのような態度を取るのか、キリスト教神学者がどのような判断を示すのかということが、つねに議論の参照項になるのである。イスラム諸国においても、宗教的指導者や宗教的会議がどのような倫理的判断を示すかということが、これらの問題に対する規範を決定する。
それらの諸国と比べたとき、日本では生命倫理の諸問題を議論するに際して、宗教教団からの影響力が圧倒的に少ないのである。脳死臓器移植の議論においても、あるいはヒトクローニングの議論においても、キリスト教教団や仏教教団からの影響力はほとんどなかった。もちろん、それらの宗教教団は独自の研究を行なったり、意見発表を行なったり、活【87】発に広報をしたりしてきたのだが、しかしながらそれらは生命倫理の社会的な議論に対して、明示的な影響力は持ち得なかったのである。日本の生命倫理の社会的な議論における「宗教の希薄」は、実に興味深い現象である(13)。
この現象を憂慮する声もあるが、私はむしろこの現象を前向きにとらえたい。もし「生命人文学」を欧米やイスラム諸国で実施すれば、それはどうしてもその地域における主流派宗教からの圧倒的な影響下で遂行されることになってしまうだろう。これに対して、もし現在の日本でこれを実施するならば、ひとつの宗教からの圧倒的影響下に置かれることのないパラダイムが形成される可能性がある。これまで、宗教教団の圧倒的な影響下に置かれることがなかったという日本の生命倫理の特徴を活かしつつ、様々な宗教に対してバランスのよい距離を取りながら「生命人文学」を遂行できる可能性が開かれている。また、日本人のマジョリティと思われる「とくに信仰を持たない」人々の生命観に対しても、ていねいに寄り添えるような研究が可能になるであろう。もちろん、ここに述べたことは、近過去を振り返ったうえでの、筆者による予測にすぎない。生命倫理に対する宗教的影響とはそもそも何かについての学術研究がこれまで以上に必要であることは言うまでもない。(また「生命人文学」は国際的に開かれた研究領域であるから、日本という地域にそれを縛りつけることはするべきではない)。
5 情報学に向けての展開
「生命人文学」は、現代の生命をめぐる諸問題への人文系からのアプローチを幅広く交流させるためのプラットフォームである。したがって、「生命人文学」を牽引する特定の方法論や、宗教や、政治思想は、存在しないことが望ましい。「生命人文学」は、様々な人々や情報をネットワーキングするためのフォーラムになるのがよいであろう。具体的には、学会の形式を取るのではなく、ウェブを最大限に利用した情報の集約および公開と、ウェブを介した人々のネットワーキングに活動の焦点を絞るのがよいと私は考えている。
米国やヨーロッパには、生命倫理に関する情報の膨大なデータベース、新着情報や会合のリスト、テーマごとの重要文献やリンクなどを備えて、定期的に更新されているウェブサイトが多数存在する。それに引き替え、日本にはそのようなウェブサイトはほとんどない。この分野の先端では、生命倫理研究と情報学の実践が車の両輪となって進められているが、日本ではまだそのような分野の必要性が認識されていない。
まずは、現代の生命をめぐる諸問題への人文系からのアプローチに関する多種多様な情報をウェブサイト上に構築して、つねに更新していく営みから開始するのがよいと思われる。そのための情報収集、整理、意見交換、情報発信に関しては、情報学の専門家との共同開発が試みられるべきであろう。また、広く世界から閲覧され、情報交換できるようにするために、使用言語については、英語をはじめとする複数言語で運営されるのが理想である。
「生命人文学」は、この研究領域に関して同時代に生成している情報、活動、意見などをリアルタイムで収集し、整理し、発信することによって、この領域の議論の相互交流と活性化を図ることを唯一の目的とする。それゆえに、学問分類で言えば、これは情報学の実践の一種ということになるであろう。これはきわめて新しい分野であるがゆえに、その運営手法それ自体を、研究開発していく必要がある。
「生命人文学」の領域の研究活動として行なわれている個人研究や共同研究は、日本国内、国外にきわめてたくさんある。それらの活動に関する様々な情報は、ウェブ上に無数にアップロードされている。それらの多くは定期的に更新されている。それらを半自動的に収集して、まとめあげるウェブサイトがあれば、この領域の研究者や実践家たちは、このウェブサイトを経由して多様なインターアクションをすることが可能になる。そこから、「生命人文学」の領域の最先端の研究情報を共有したり、お互いのやりとりから触発されて革新的な研究が生まれたりすることもあり得る。このような研究の促進を目指すのが「生命人文学」の存在意義である。
たとえば、私は大阪府立大学大学院において、「生命の哲学」研究会を運営しており、世界思想史と現代の生命問題を相互につなぐ研究を進めている。と同時に、生命を考える際に自分を棚上げにしないという方法論を持つ「生命学」の開発を在野の【88】人々とともに進めている。これらの研究は、ともに、「生命人文学」の領域における研究である。これらの成果を、他の研究者や実践家と共有していく場として、「生命人文学」は非常に有益なプラットフォームになるだろう。立岩真也は、立命館大学のCOEにおいて、病、老い、障害などの、ままならない身体とともに生きることを考える「生存学」の研究を進めているが、これもまた「生命人文学」の領域に属するものと考えられるだろう。現時点で、「生命人文学」のウェブ上での展開にもっとも近いことを実現しているのは、立岩らのグループのサイト「arsvi.com」である。「生命人文学」というプラットフォームあるいは容れ物を作ることは、大きなインパクトをこの領域にもたらすはずである。またそれ自体が、情報学のひとつの研究開発プロジェクトになり得る。
以上、様々なことを述べてきたが、21世紀の人文系の研究分野として、「生命人文学」の開発には大きな意味があると私は考えている。私自身は「生命人文学」という名称にこだわるつもりはない。それは別の名前で呼ばれてもかまわないし、現存する他の名称が、今後その役割を担っていってもよい。本稿における私の主張の核心部分は、「医療倫理学」に匹敵するような人文系からのアプローチが、もうひとつの研究領域として成立すべきであるということ、そしてそれはウェブを利用したネットワーキングを中核とした情報学的な展開をするのが望ましいということ、この2点である。
引用文献
1) 「生命人文学」という日本語は、本稿における私の造語であり、インターネットで検索しても前例はないようである。英語では"humanities approach to life"や"life-humanities"と翻訳できるのかもしれないが、これも前例はなさそうである。なお"bio-humanities"という英語は、生物学の人文学という意味で使われている(Paul E. Griffiths)。
2) Tom L. Beauchamp and James F. Childress, Principles of Biomedical ethics. Oxford University Press, 1979.
3) Albert R. Jonsen et al., Clinical Ethics: A Practical Approach to Ethical Decisions in Clinical Medicine, 3rd. ed. McGraw-Hill, 1992 など。
4) Helen Bequaert Holmes and Laura M. Purdy, Feminist Perspectives in Medical Ethics. Indiana University press, 1992 など。
5) Robert M. Veatch (ed.), Cross Cultural Perspectives in Medical Ethics: Readings. Jones & Bartlett Pub., 1989 など。
6) Arthur W. Frank, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics. University Of Chicago Press, 1997 など。
7) Francis Fukuyama, Our Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution. Picador, 2003. Nicholas Agar, Liberal Eugenics: In Defence of Human Enhancement. Wiley-Blackwell, 2004 など。
8) Neil Levy, Neuroethics: Challenges for the 21st Century. Cambridge University Press, 2007.
9) Leon R. Kass and the President's Council on Bioethics, Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness. Regan Books, 2003.
10) 森岡正博「米国の生命倫理における保守派とリベラル派との対立」『疑似法的な倫理からプロセスの倫理へ―「生命倫理」の臨床哲学的変換の試み』大阪大学文学部、2007年、75−84頁。 <http://www.lifestudies.org/jp/handai02.htm>
11) 森岡正博『生命学になにができるか』勁草書房、2001年。
12) この点に関しては、Ruth Machlin, "The New Conservatives in Bioethics: Who are they and What do they Seek?", Hastings Center Report, vol.36, no.1, (2006), pp.34-43.が有益である。
13) Masahiro Morioka, "The Ethics of Human Cloning and the Sprout of Human Life," in Heiner Roetz (ed.), Cross-Cultural Issues in Bioethics: The Example of Human Cloning. Rodopi, Amsterdam, The Netherlands, (2006), pp.1-16.