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作成:森岡正博
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論文
『人間科学:大阪府立大学紀要』9 2014年3月 35−61頁
サステイナビリティ学において何がサステイナブルであるべきなのか
持続可能性概念の批判的考察序説
森岡正博
1 はじめに
本論文は、サステイナビリティ学においていったい何がサステイナブルであるべきなのかを考察することを通して、日本の現行のサステイナビリティ学の一部に対する批判的検討を行なうとともに、サステイナビリティ学に対して新たな提言を行なうことを目的とする。本論文での考察はあくまで序論にとどまるものであり、本格的な議論は将来の課題として残される。
サステイナビリティ学(sustainability science)は、地球環境の過剰開発によって人類の存続が危ぶまれるようになったという認識を元に、地球上での持続可能な人類の生存を達成するための学として提唱された。サステイナビリティの概念は、1987年のブルントラント委員会報告における「持続可能な開発・発展sustainable development」に源流をもつとされる。その後、サステイナビリティ達成のための学際学として世界の大学や研究機関で研究が開始され、日本では2006年に東京大学にサステイナビリティ学連携研究機構が設立され、連携大学も加わった研究ネットワークが形成された。そこでは、サステイナビリティ学は「地球社会を持続可能なものへと導くための学」であるとし、「持続可能な開発の概念に典型的に示される世代間公平性の問題とともに、地球システム、社会システム、人間システムという、地球と人類の存立に不可欠な3つの階層的なシステムを取り上げ、それぞれ、およびそれらの関係性において破綻がもたらされつつある状況を、サステイナビリティの危機ととらえる視点を重視したいと考えた」とされる[1]。
私の勤務する大阪府立大学に近年創設された新学域である現代システム科学域は、その教育研究理念のひとつをサステイナビリティに置いている。しかしながら、サステイナビリティが何を意味するのかについて詳細な議論を行なってはこなかった。地球環境危機の時代にサステイナビリティ学を構想するというのであるが、そもそも、「いったい何のサステイナビリティ」を目指せばいいのかよく分からないのである。サステイナビリティとは持続可能性のことである。その発想の原点は、地球環境危機の時代における人類の生存が危ぶまれたところにある。となると、素直に考えれば、何のサステイナビリティを目指せばいいかといえば、それは人類全体のサステイナビリティだということになる。ということは、もし仮に、米国および同盟国の圧倒的軍事的覇権のもと、全地球をテクノロジーによって完全に管理し、世界の格差構造を固定したまま未知のリスクを極小化することが人類全体のサステイナビリティの実現にもっとも寄与するということになれば、それがサステイナビリティ学の目指すところであることになる。しかしながら、サステイナビリティ学の日本語文献を読む限り、そのような道筋は否定されそうなのである。なぜなら、そこでは、多文化共生や、世代間公平性や、帝国主義的支配の否定が、サステイナビリティにとって非常に重要であるらしいことが言われているからである。これは、「何のサステイナビリティを目指すべきか」についての重要な論点であると考えられるが、そのことはサステイナビリティ学でどこまで議論されているのだろうか。
また他方で、国家や、ローカルな共同体や集団のサステイナビリティについての議論もサステイナビリティ学では行なわれるようである。ところで日本という国は持続可能であるべきなのだろうか。たとえば、日本は女性の社会進出率が先進国で異様に低いことで有名である。世界経済フォーラム(WEF)の「国際男女格差レポート2013」によれば、日本は136カ国中105位である[2]。このような男女格差を内包したままの日本という国が、このままの状態でサステイナブルであってはならないはずである。日本という国に焦点を当ててみれば、現在のような日本にサステイナビリティがあってはならないという結論になる。いやしかし男女格差はこれから是正していけばいいのであって、日本という国家の枠組みはサステイナブルでなくてはならない、という反論が出てくるだろう。しかし、日本という国家の枠組みが将来解体し、隣国と融合していっても別にかまわないかもしれない。日本という国家の枠組みがサステイナブルである必然性はどこにもない。このような論点は現行のサステイナビリティ学で議論されているのだろうか。
周知の通り、大阪府立大学は大阪府によって設置された大学である。大阪府立大学の改革をめぐり、大阪府に府立の大学は不要である、大阪府は資金を拠出しなくてもいいとの議論もあった。だとすると、大阪府の財政状況を健全化するためならば、大阪府立大学のサステイナビリティは否定されても仕方ないのかもしれない。すなわちこの場合、大阪府という上位の団体のサステイナビリティのためには、その下位の団体のサステイナビリティは犠牲にされてもかまわないということになる。しかしサステイナビリティというのは、そのような階層上位が階層下位を上書きできるような概念であってよいのだろうか。このようなこともサステイナビリティ学では議論されるのであろうか。
このような問題意識を持ちながら、私は日本語で書かれたサステイナビリティ学の代表的な市販テキストを4冊読んでみた。本論文の前半では、これらの文献について批判的な考察を行なう。後半では、サステイナビリティ学の基礎について若干の前向きの考察を行なう。
2 サステイナビリティ学文献についての批判的考察
本章で扱う文献は、小宮山宏編 (2007) 『サステイナビリティ学への挑戦』【文献A】、小宮山宏ほか編 (2011) 『サステイナビリティ学1 サステイナビリティ学の創生』【文献B】、三村信男ほか編 (2008) 『サステイナビリティ学をつくる』【文献C】、周?生編 (2013) 『サステイナビリティ学入門』【文献D】の4冊の本である。いずれも大学で使用されることを念頭に置かれた書物であり、複数の著者が分担執筆している。文献A・文献Bは、東京大学サステイナビリティ学連携研究機構を設置した小宮山宏らが編集したものである。文献Cは茨城大学グループ、文献Dは立命館大学グループが編集しており、それぞれ東京大学と連携関係にある。今回の考察はこの4冊の書物に限っており、専門誌の日本語・英語論文は対象としていない。それらの検討は将来の課題としたい。これらの本は、いずれも日本におけるサステイナビリティ学の全体を包括的に扱っており、この分野における専門的研究の一端を伺えるものとなっている。その意味で考察に値すると考えられる。
さて、結論から言うと、これらの文献では、上にあげたような論点はほとんど議論されていない。そればかりか、サステイナビリティ学において「何がサステイナブルであるべきか」ということがほとんど語られていないし、語られていたとしてもほとんど深められていないのである。「何がサステイナブルであるべきか」という根本問題が深められないまま、サステイナビリティ学が提唱されているのである。
さらに、サステイナビリティ学は学際的な統合学になるということで、各章はそれぞれの専門の研究者が分担執筆しているが、そのほとんどの章は専門学についての単発論文の羅列であって、それら専門学がいかなる意味でサステイナビリティ学へと有機的に統合されるのかがほとんど分からないままに終わっている。
私は1988年に文部科学省の大学共同利用機関である国際日本文化研究センターに赴任し、約10年間、文系と理系の学際研究の企画に携わってきた。そしてその後1997年に大阪府立大学総合科学部に転職し、総合科学という学際研究の部門で研究教育を行なった。この25年間の学際研究への関与を通して、真の学際研究というものがいかに難度の高いものであるかを痛感してきた。多くの学際研究なるものは真の学際的統合には至らず、単なる専門知の羅列に終わってしまうことを見てきた[3]。私の以下の考察は、このような視座と経験からなされる。
まず、東京大学グループの文献A・文献Bから見てみよう。文献Aは2007年のものであり、萌芽的な性質のものである。文献Bはその後4年間の蓄積による本格的なものである。文献Aの冒頭論文「サステイナビリティ学の提唱」において小宮山宏と武内和彦はサステイナビリティ学についてこのように書く。「IR3Sが提案するサステイナビリティ学では、地球システム、社会システム、人間システムという三つの異なるレベルのシステムを取りあげる。そして、それぞれのシステムとそれらの関係性においても破綻がもたらされつつある状況を、サステイナビリティの危機ととらえる」[4]。このように、三つのシステムにおける「破綻」を直視し、それらを解決するための学としてサステイナビリティ学が要請されるとする。そして地球システムの破綻について簡潔な説明がある。
それに引き続き説明されている、社会システムと人間システムの破綻について見てみよう。社会システムとは、政治・経済・産業などの仕組みであり、そこでは「公害問題の深刻化や所得格差の拡大といった社会問題も生まれた。そうした負の側面の影響は地球規模にまで拡大している」とする[5]。人間システムとは人間の生存を規定するものであり、「人間が健康で、安全に、安心して生活し、単に命を長らえるだけでなく、生きがいがもてるようなライフスタイルと価値規範が確立されていることが重要である。しかし、人間を取り巻く社会が複雑化し、環境が劣悪化するにつれて、人間システムはますます不健全なものとなりつつある」とする[6]。
まず注目すべきは、社会システムと人間システムにおいて「何がサステイナブルであるべきか」についての定義がないことである。社会システムにおいて公害問題の深刻化や所得格差の拡大が生まれたとされるが、なぜそれが「サステイナビリティ」に関連する話題であるのかが説明されていない。たとえ公害や所得格差を内包していたとしても、人類社会がそれを内包したまま全体としてサステイナブルなものになれば人類のサステイナビリティは達成されるのではないだろうか。もし、公害や所得格差がないことが人類全体のサステイナビリティに直結するのだということならば、なぜそう言えるのかを説明しなければならない。たとえば、社会の中に所得格差があったほうが社会全体のサステイナビリティに寄与するという考え方はあり得る。なぜならそのほうがみんながんばって働こうとするから、社会の維持に貢献するという理屈があり得るからである。もしそれが言えるのならば、社会格差の拡大が問題であるとはかならずしも言えなくなる。公害があったほうが、それを解決しようとする人類の活動が活性化され、ひいては科学技術と社会維持に貢献するかもしれない。もし人類全体のサステイナビリティ以外の「サステイナブルであるべきもの」があるというのなら、それは何なのか。他の箇所では、世代間公平性やローカルな文化的多様性が示唆されているが、なぜそれが「サステイナブルであるべきもの」なのかを説明しなくてはならない。そしてそれらのサステイナビリティのあいだの優先順位についても説明しなくてはならない。これらのことが問われないままに終わっている。
人間システムについても、人間が健康で、安全に、安心して生活することがなぜ「サステイナビリティ」に関連する話題であるのかが説明されていない。人間が健康で、安全に、安心して生活することができないとしても、人類全体のサステイナビリティが達成できるとしたら、それはそれでいいのではないか。もしそれではよくないというのなら、なぜ人間が健康で、安全に、安心して生活することがサステイナビリティの本質の一つであると言えるのかを説明しなくてはならない。この点に答えることこそが、「何がサステイナブルであるべきか」に答えることであるわけなのだが、この文献ではそれがなされていない。
環境が劣悪化するにつれて人間システムはますます不健全になりつつあると言うが、そこにどのような因果関係があるのか。そもそも「不健全」とは何なのか。人文社会系の研究者は、このような価値語には敏感である。ある価値が「不健全」であると評価する主体は誰なのか。この論文においては著者が評価者であるのだろうが、著者はいかなる権限と権威でもって、ある価値を「不健全」と判定するのか。たとえば同性婚は「不健全」であるとする声が社会には根強くある。同性婚によって人間システムは「不健全」になったのか。「同性婚」が社会に広まることによって、健康で、安全に、安心して生活できなくなったと感じている人たちが欧州や米国にはたくさんいる。これは人間システムの破綻の拡大へと寄与し、ひいては人類全体のサステイナビリティを脅かすことになると言えるのか、言えないのか。
以上で指摘したことは、文献A全体において正面から問われてはいない。サステイナブルであるべきものに関するキーワードは散りばめられているものの、直観的な言葉に終わっており、学問的に深められていない。
次いで、文献Bを見てみよう。第1章「サステイナビリティ学の創生―持続型社会をめざす」において、さきほどと同じ二名の著者による概説がなされている。ここではサステイナビリティ学を「地球社会を持続可能なものへと導くための学」と定義している。ここにおいて「何がサステイナブルであるべきか」という問いへの答えがはっきりと与えられる。サステイナブルであるべきなのは「地球社会」なのである。しかしながら、ではこの「地球社会」とはいったい何なのかについて明確な説明が与えられていない。「地球社会」は地球システム、社会システム、人間システムによって構成されているという説明はなされるが、そもそもサステイナブルであるべき「地球社会」とは具体的に何を指すのかが定義されていない。好意的に読めば、先に指摘したような世代間公平性や文化的多様性が確保された地球社会がイメージされていることは明らかであるが、なぜそのような地球社会がとくに守られなければならないのか、その理由が示されていない。さらにその先まで読んでいくと、「二酸化炭素半減を基調とする低酸素社会、天然資源の循環利用による循環型社会、生物多様性と生態系を保全する自然共生社会」[7]が将来のあるべき「地球社会」の姿として構想されているようであるが、その前にそもそも「地球社会」とは何であるのかが定義されていないので、将来像についても美辞麗句を超えるものがあるとは感じられない。
もちろん、サステイナブルな地球社会として世代間公平性と地域間公平性が前提とされていることは、ブルントラント報告の「持続可能な開発・発展」概念においてそれらが必須とされていることを受けているわけであり、その点は当然理解し得る。しかしながら、なぜサステイナビリティの根本にそれら二つがなくてはならないのか、そしてそれら二つの本質とは何かについて、サステイナビリティ学のテキストにおいては、著者の文責のもと再度定義し直され、語られ直されなくてはならないと私は思うのである。その点の議論が弱いために、なにか核心部分の論述がはぐらかされたままに進んでいくような感触を、私や、おそらくは少なくない読者は持ってしまうことになるだろう。言うまでもないが、私はサステイナビリティの中心的内容として世代間公平性、地域間公平性、文化的多様性が含まれると考えており、その点では著者たちと意見の相違はない。問われるべきはそう考える根拠なのである。私自身の根拠については次章で論じることにする。
もし本気で地域間公平性がサステイナビリティ学の最大の課題のひとつだと言うのなら、いまや格差社会の仲間入りをした日本社会における社会格差の是正に向けて学知を集結する試みがサステイナビリティ学の中心的課題のひとつに上がらなくてはならないが、手元のテキストにおいてはそのようなものは見られない。日本のサステイナビリティ学の中心には、まずは日本国内における富の再配分の政治学・行政学、格差社会において弱者をサポートする社会福祉学が置かれなくてはならないのは言うまでもない。政治学・社会福祉学を中心に置かずして、サステイナビリティ学と言えようか。この点への目配りが薄いと言うことは、やはり日本のサステイナビリティ学の視線は、地球規模の人類全体という極大のものの持続に第一義的には注がれているのではないかという疑念が生じる。
第2章では、吉川弘之が「サステイナビリティ学の概念」というタイトルで、工学から見たサステイナビリティ学のイメージを語っている。それは「地球上における人類の持続可能性を実現」しようとするものである。サステイナブルであるべきものは人類の生存だということで、これは伝統的なサステイナビリティ理解であると言えよう。しかしタイトルとは異なり、この論文ではサステイナビリティ学の「概念」が考察されているわけではない。サステイナビリティ学に対する著者のイメージが語られているのである。ひとつだけ引用すると「戦争が起こると持続可能性が完全になくなるから、これが重要な要素であることはいうまでもない」と書かれている[8]。これは学術的な文章とは言えない。まず、戦争によって「何の持続可能性がなくなるのか」についてまったく言及されていない。それは人類の持続可能性ではないだろう。これまで無数の大小の戦争があったが、人類は今日まで存続してきている。また、戦争によってある地域のコミュニティの結束が破壊されることはしばしばあった。しかしコミュニティの何かが「完全になくなる」こととしていったい何を想像したらいいのだろうか。さらには、人類の持続可能性を実現するためには、定期的な戦争があったほうがよいという考え方もあり得る。戦争による覇権国のゆるやかな交代によって人類社会は全体として活性化し、サステイナビリティを高めてきたのかもしれない。戦争をしつつも人類が今日まで生存し続けてきたことを考えると、戦争は人類のサステイナビリティに寄与しないと根拠なしに断言することはできない。これはサステイナビリティ学が正面から考察すべき大テーマであろう。
第6章は、ふたたび武内と小宮山による「サステイナビリティ学のネットワーク―グローバルに協同する」と題する論文である。ここで著者は、グローバルな「地球持続性」の実現に向けた取り組みと、ローカルな「地域のアイデンティティ」確立に向けた取り組みの両方を行なうべきだと提唱している[9]。グローバルとローカルの接続は、環境問題解決においてずっと言われてきたことであり、それがサステイナビリティ学においても課題となることはよく理解できる。ただし分からないのは、ここで何がサステイナブルであるべきとされているのかである。この問いに著者は直接的には答えていない。もし著者に質問すれば、著者はおそらく「グローバルとローカルが調和をもってつながりあっている状態がサステイナブルであるべきなのだ」と答えるであろう。もし仮にそうだとしたら、ではいったいなぜグローバルとローカルが調和をもってつながりあっている状態がサステイナブルであるべきなのかというその理由を著者は示さなければならないのである。
武内は終章「持続可能で豊かな社会を求めて」において、アメリカ合衆国の著名大学を頂点として学術の序列化が進んでいるが、サステイナビリティ学はそうであってはならないとしている。「なぜなら、サステイナビリティ学がめざす地球持続性という普遍的な課題と地域の自然的・文化的多様性の確保の共存をめざすという基本的な立場からは、ある国の学術界を頂点とした序列化はまったくなじまないからである」[10]。しかしこれにも疑問を呈し得る。米国はサステイナビリティ学というものを豊かに展開し、日本や他の国は別の学問を豊かに展開していけば、それはそれでローカルな多様性は確保されていると言える。そのうえでサステイナビリティ学を専門家としてやりたい人は米国に行き、日本的学問を専門家としてやりたい人は日本に来るというルートが設定されていればそこに問題はない。たとえば、サッカーの一流チームが欧州と南米に集中していること自体はサッカーの高度化にとって歓迎すべきことであり、この二地域を頂点とした序列化は問題ないと言える。もし問題があるというのなら、その理由を説明する必要がある。
このように、様々な著者たちは、自分の持っているサステイナビリティについての暗黙のイメージを根拠にして、サステイナビリティあるいはサステイナビリティ学について語っているように思われる。だとすれば、その暗黙のイメージを構成する要素群が、なぜサステイナビリティという概念のもとに集結しなくてはならないのかについて、明瞭に言語化する必要があると私は思うのである。そしてそれを明瞭に示すためには、「何がサステイナブルであるべきなのか」についての原理的な考察がどうしても必要なのである。たとえ一般市民や学生向けの概説書であるとしても、この点に関する考察がなければ、それは敏感な読者たちを路頭に迷わせる結果となるだろう。
次いで文献Cに移りたい。これは茨城大学グループによるテキストである。第1章で田村誠と三村信男が「21世紀の諸課題とサステイナビリティ学」と題して、全体の概説を書いている。内容としては文献A・文献Bと同様であるが、こちらの本のほうが分かりやすい。著者はサステイナビリティ学を定義したあとで、サステイナビリティの概念には、「(1)資源利用の持続可能性の維持、(2)世代間の公平性、(3)社会的公平性あるいは現在の世代内の公平性などの要素が含まれる」と指摘する[11]。これらは1970年代以降のエコロジー倫理学・環境倫理学において定式化されてきたものであり、サステイナビリティ概念が環境倫理学の系譜上にあることが見て取れる[12]。著者はこのあと、サステイナビリティ概念を、ハーマン・デイリーによる持続可能な資源利用の原則、予防原則、共通だが差異ある責任などの考え方へと結びつける。分かりやすい概説であるが、やはり「何がサステイナブルであるべきか」については明瞭ではない。
第15章では、蓮井誠一郎が「「開発」からの脱却と人間の安全保障」と題して、サステイナビリティについて考察している。この論文は、今回の4つのテキストを通じてもっとも優れた内容を持つものであった。このような論考の先にこそ、実りあるサステイナビリティ学が開けていくと私には思われた。蓮井は、資本主義社会が作り出した「開発」と「安全保障」というパラダイムが、先進国の「苦」を周辺国へと外部化する装置となって働き、その結果としてサステイナビリティへの脅威となっていることを指摘する。
まず開発についてであるが、「製品の生産・消費・廃棄のプロセスのうち、苦をともなう生産と廃棄を外部化し、不可視化することによって、私たちは際限のない快の追求、すなわち大量消費を心理的にも実行可能にし、それに基づく高度大衆社会を形成した」[13]。しかしそれらの苦を引き受けた周辺国はそれらの苦をさらに外部化する術を持たない。また、このようなダイナミズムを、資本主義社会では止めることができない。
次に安全保障であるが、先進国が自国の安全保障を進めることによって、多くの戦争や紛争は途上国へと外部化され、彼らが犠牲となっている。これは先進国の安全が途上国の安全よりも優先されていることを意味している。また、先進国内においても、国内の少数民族・辺境住民たちが軍によって迫害される。したがって、「国家にとっての安全は、必ずしも国民の安全を意味しない」[14]。
蓮井は言う。「平和のための開発と安全保障、というこの「開発・安全保障パラダイム」こそ、現代の私たちが直面するサステイナビリティへの脅威の源泉そのものなのである。これこそが、世界の周辺部から環境を破壊し、戦争を周辺部に押しつけ、そしてやがては自らも周辺からじわじわと滅んでいく愚かな世界を形成している」[15]。そのようなパラダイムから脱却するために、「人間の欲望をどこまで再編成できるか、権力格差が不可避な世界で、貧富の格差をどこまで抑えられるか。これらの困難な諸課題に立ち向かう必要が、そこにはある」としている[16]。
しかし、現在のサステイナビリティ学がまだそこに立ち向かえていないことを蓮井は冷静に見ている。「サステイナビリティ学は、既存の政治学、経済学などの目的を大転換する学問体系となるかもしれないが、それは容易ではない。というのは、誰のサステイナビリティを優先するかということや、まずはこちらのサステイナビリティを確保して、次にそちらを、という優先度や順番が競争になれば、それは単なる既存の学問の改良版にすぎなくなるからである」と指摘する[17]。蓮井は、「何がサステイナブルであるべきか」という問いが重要課題であることを自覚している。そのうえで、それがグループ間のサステイナビリティ闘争になることへの懸念を示している。この論点が言語化されているのは貴重なことである。私たちはここを踏み台として議論を進めるべきである。
蓮井の論文から示唆されるのは、社会科学における平和学・政治学がサステイナビリティ学の中核部分を担う必要があるのかもしれないという視点である。これは、これまでの日本のサステイナビリティ学を支えてきた自然科学・工学の視野に入りにくかった視座であると言える。
第19章では木村競が「サステイナブルに生きるということ」と題して、哲学の視点から考察している。木村は哲学者らしく、私が本論文冒頭からこだわっている問いをずばり指摘する。「それならばもう一度問われるべき重要な問いがある。それは、一体私たちは何をsustainしようとしているのかという問いである。あるいは、私たちは何のサステイナビリティをめざしているのかという問いである」。「さきほどの「生き方」―「文明論」的語りへの違和感のひとつは、この問いを通り過ぎてしまっているように思えることにある」[18]。現在の日本のサステイナビリティ学の大問題は、「何がサステイナブルであるべきか」についての考察をきちんと行なっていないところにあると木村は指摘するのである。私はこれに付け加えるべき言葉を持たない[19]。
次に文献Dを見てみよう。これはもっとも新しい書物である。基本的に先行文献と異なる内容はない。第2章において、モンテ・カセムが「サステイナビリティ学の概念」と題して概説しているが、その中で著者は次のように書いている。「ここでの超難問は、「私たちが永遠に継続したいものとは何なのか」ということである。それは地球上の生命である。つまりサステイナビリティ学は、地球上の生命をつないでいくことである」と述べている[20]。このように著者は、サステイナブルであるべきものは「地球上の生命」であるとする。これは非常に興味深い視点であるが、しかし「地球上の生命」とは具体的にいったい何のことかについては、その後の記述でも明らかにされていない。
以上、ターゲットとなったテキストに現われたサステイナビリティの概念およびサステイナビリティ学について批判的な考察を行なった。ここから見えてくるものをまとめると次のようになる。
【サステイナビリティ学とは何であるとされているか】
(1)サステイナビリティ学とは、地球上における人類全体の存続のために結集される学際学である。
(2)サステイナビリティ学とは、サステイナブルであるべきものが破綻しないようにそれを回避するための回避学であり、破綻したときにはそれを修復するための修復学である。
(3)サステイナビリティ学は、地球システム、社会システム、人間システムの3つに注目する。
(4)サステイナブルであるものとしては、人類全体の存続が第一候補としてあげられる。それに匹敵する候補として、ローカルなコミュニティやそこにおける文化・価値・伝統など、そして同時代・世代間における公平性などがあることが、直観的に示される。しかしそれらのファクター間の関係がどうあればよいのかについては明瞭にされない。
【サステイナビリティ学の問題点】
(1)「何がサステイナブルであるべきか」についての考察がきちんと行なわれていない。「何がサステイナブルであるべきか」についての候補はいくつか提出されているものの、それらは直観的に提出されているだけであり、なぜそれがサステイナブルであるべきかについてのきちんとした学問的検討が行なわれていない。
(2)サステイナブルであるべきもの同士が競合したときに、それをどうしたらいいのかについての考察がない。またサステイナブルであるべきものたちのあいだの階層構造についての考察、階層上位と階層下位の優先順位などについての考察がない。
(3)全体として、社会システム、人間システムにおけるサステイナビリティ問題への視点が相対的に希薄である。また、現状の社会や文化において、「何がサステイナブルであってはならないのか」についての議論が乏しい。
(4)全体として、ジェンダーへの視点が圧倒的に希薄である。これでは、男性エリート学者集団による地球社会管理学として見られかねない。同様に、マイノリティ当事者の視座から見えてくるサステイナビリティという視点が希薄である。
(5)全体として、サステイナビリティ学基礎論が深められていない。
冒頭にも書いたが、以上の考察は、対象とした4つの書物に限定されており、専門誌の日本語・英語論文は対象としていない。それらの検討は他の機会に譲ることにしたい。
ところで、日本におけるサステイナビリティ学が上記のテキストのような内容にとどまっているわけではないことを付記しておく。たとえば、2010年に国立国会図書館調査及び立法考査局が刊行した『持続可能な社会の構築・総合調査報告書』は、この分野の情報を洗いざらい調べ上げ、サステイナビリティ概念についてもしっかりとした検討を行なった記念碑的刊行物である。なかでも矢口克也による論文「「持続可能な発展」理念の実践過程と到達点」は必読文献であろう。矢口は、これまでのサステイナビリティ研究をふまえたうえで、サステイナビリティを「@自然及び環境をその負荷許容量の範囲内で利活用できる環境保全システム(資源利活用の持続)=環境的持続可能性、A公正かつ適正な運営を可能とする経済システム(効率・技術革新の確保)=経済的持続可能性、B人間の基本的権利・ニーズ及び文化的・社会的多様性を確保できる社会システム(生活質・厚生の確保)=社会的持続可能性、これら3つの側面の均衡した定常的状態のこと」として定義している[21]。これは社会科学的な側面からの視座を大きく取り入れてサステイナビリティ概念へとフィードバックした手堅い定義である。これは今後の議論の礎となるだろう。しかしながら、ここにおいても、なぜその3つの側面の持続可能性というものが追求されなければならないのかについての原理的考察は不足していると言わなければならないように私には思える。
3 何がサステイナブルであるべきなのか
この章では、「何がサステイナブルであるべきか」について、私がいま考えていることを紹介し、サステイナビリティの概念に一石を投じることとしたい。前節で私が批判したことに対して、私がすべて答えを持っているわけではない。以下の論述を手がかりにして、少しでも前進できたらと思う。
サステイナビリティ学において何がサステイナブルであるべきかという問いに対して、私は次のように考えている。「すべての人間の尊厳が守られ、すべての人間がそれぞれの幸福をめざして生きていくことのできるような地球社会のあり方が、サステイナブルであるべきである」。なぜそのように考えるのかと言えば、サステイナブルであるべきなのは個々の人間がそれぞれの生を全うできるということであり、けっして生物種としての人類がいつまでも存続を続けることではないと私は考えるからである。
たとえば、人類がいつまでも存続を続けるためには、あるグループの人間たちの尊厳が守られることと引き替えに、他のグループの人間たちの尊厳が否定され、彼らが奴隷となって奉仕しなければならない、というような極限状況を想定してみよう。そしてそれ以外に人類の長期の存続があり得ないということが分かったとしよう。そのとき、サステイナブルであるべきものとして「人類全体の存続」を設定したとすると、このような形で人類の存続をはかることをサステイナビリティ学は理論的に許容するということになってしまう。これに対して、私が設定した上記のような立場からすれば、そのような形で人類の存続をはかることをサステイナビリティ学は理論的に許容しないということになるのである。すなわち、何をサステイナブルであるべきものとするかによって、かくも結論は違ってくるのである。
では、このような極限状況において、人類の存続は放棄されることになるのだろうか。私の立場に立つかぎり、少なくともそのような極限状況が続くような形での人類の存続は放棄せざるを得ないという結論になるだろう[22]。もちろんこれは理論上の結論であり、実際問題としては、様々な回避の模索を続けることになるはずだ。
これに対して、人類の存続をサステイナブルであるべきものとする立場に立てば、そのような極限状況においては、人類全体が存続することが最大の目標となるわけであるから、奴隷になって奉仕しなければならない人間のグループには申し訳ないが、それは仕方ないものとしてあきらめてほしい、ということになるだろう。そして現在の先進国のマジョリティの人々の意識はこれに近いように私には思われる。
以上の両者の立場は、論理的にはいずれも成立し得る。私自身は、人類よりも個のほうが大事という考え方から、上記の立場を選択している。もちろん個が大事と言っても、個が生を全うするためには、個を支える集団がサステイナブルであることが必要であることは言うまでもない。それは上記の定義に組み込まれている。そのうえで、私は人類全体の持続というものを最優先にサステイナブルであるべきものとは考えないということなのである。
では、上記の定義に出てくる「尊厳」と「幸福」はいったい何を意味しているのだろうか。これについては哲学の分野での詳しい議論が必須であるのでここでは詳細を述べることはできないが、大まかに、次のような説明を与えておきたい。「尊厳」には二つの意味がある。ひとつは、人間の精神と身体が、他人や社会システムなどによって道具化されておらず、またそれらによって支配もされていないような状態のことである。簡単に言えば、人間の心と体が、他人や社会によって単なる踏み台としてもてあそばれるようなことにはなっていないことである。もうひとつの意味は、人間が、過去世代と将来世代のあいだのつながり、同時代における人と人とのつながり、人間と自然環境のつながりのなかに肯定的に埋め込まれて生を全うしていけることである。この二つの「尊厳」は、私たちが全力でもって守らなければならないものである。「幸福」とは、人間が、「このような生を生きてきて本当によかった」と心から思えるような生き方をしていることである。簡単に言えば、自分が生きていることに対して、「生きててよかった」と肯定できることである。「幸福」は、私たちが目指すことのできる目標である。「尊厳」は、人間が生きていくうえでかならず守られなくてはならない必要条件であるのに対し、「幸福」は、人間がそれを目指すことが可能な状態であればよいのであって、それを目指すことは義務ではない。これは十分条件である。ここに述べたことは、「尊厳」と「幸福」に関する私の理解であって、哲学の世界の共通了解ではない。この論点については別論文で詳述したので参照していただきたい[23]。
先に私は先行文献を批判し、先行文献ではサステイナブルであるべき地球社会では世代間公平性や文化的多様性が確保されている必要があると示唆されているがその根拠が示されていないと指摘した。私のサステイナビリティの定義では、その根拠を示すことができる。すなわち、世代間公平性が確保されなければならないのは、現在世代と将来世代をともに含めたすべての人間の尊厳が守られなくてはならないからであり、文化的多様性が確保されなければならないのは、すべての人々の多様な生におけるそれぞれの幸福の追求の可能性が確保されなければならないからである[24]。
ところで、さきほど述べたような、「すべての人間の尊厳が守られ、すべての人間がそれぞれの幸福をめざして生きていくことのできるような地球社会」はいまだ成立していない。地球社会には様々な深刻な差別や搾取や殺戮や暴力があり、戦争や飢えや貧困がある。科学文明、産業社会、資本主義システムは地球の限界を超える勢いで拡大を続けている。サステイナビリティ学とは、このような現状を踏まえたうえで、「すべての人間の尊厳が守られ、すべての人間がそれぞれの幸福をめざして生きていくことのできるような地球社会を作り出し、維持していくために要請される総合学である」というふうに私は定義したい。
現行の日本のサステイナビリティ学は、サステイナブルであるべきものが破綻しないようにそれを回避するための回避学という性格を持っている。そのことは間違いではないが、サステイナビリティ学の役目はそれだけにはとどまらないだろう。
まず、現在の地球社会において、すべての人間の尊厳が守られ、すべての人間がそれぞれの幸福を目指して生きていくことをサポートするような仕組みは、すでに部分的にはいくつか成立している。たとえば、すべての成人に開かれた普通選挙のシステムや、大災害に見舞われた地域の人々に物資や医薬品をすばやく届けるシステムがその一例である。これは地球社会のすべての地域で成立しているわけではないけれども、日本のような地域では曲がりなりにも成立しており、これらは人間の「尊厳」と「幸福」に役立っている。これらの仕組みが機能している地域については、その仕組みをサステイナブルなものにすることが必要である。そしてその仕組みがまだ成立していない地域に押し広げていくことが必要である[25]。もしその仕組みが何かの理由で破綻したとすれば、その破綻を修復してふたたびサステイナブルなものに戻すことが必要である。すなわち、すでに人間の「尊厳」と「幸福」のために役立っている仕組みについては、それをサステイナブルなものとして維持し、もしそれが破綻したときにはふたたび修復していくことが求められるのである。これがサステイナビリティ学のひとつの役割である。
もうひとつの役割は、サステイナブルであってはならないものを克服していくことである。現在の地球社会において、すべての人間の尊厳が守られ、すべての人間がそれぞれの幸福を目指して生きていくことを阻害するものがある。たとえば、国際的次元や国内的次元において見られる圧倒的な経済格差を利用した構造的搾取や、日本社会の公的領域における男女間のジェンダー格差などは、それらを阻害する要因であると考えられる。これらについては、それが社会の中にいつまでも存在し続けることを許してはならないはずである。すなわち、それらの阻害要因を内包したまま機能しているローカル社会や地球社会は、けっしてサステイナブルであってはならないのである。サステイナビリティ学のもうひとつの役割は、これらサステイナブルであってはならない要因を解体し、それらを克服していくことである。
すなわち、地球社会やローカル社会において、「サステイナブルであるべきもの」と「サステイナブルであってはならないもの」を慎重に識別し、「サステイナブルであるべきもの」についてはそれを固守し、「サステイナブルであってはならないもの」についてはそれを解体することが、サステイナビリティ学には求められるのである。これが非常に重要な使命である。そしてその識別線の妥当性については、つねに見直しを繰り返し、誤っていた識別線はたえず引き直しを続けなければならない。
サステイナビリティ学の議論は、ときおり、サステイナブルであるべきであり破綻から回避しなくてはならないような「サステイナブルな社会」がすでにどこかに存在するかのような前提でなされることがある。たとえば、現在の地球社会のサステイナビリティが危機に直面しているから、それを危機から救わなくてはならない、というような論調である。しかしながら、冷静になって考えてみれば、現在の地球社会においてサステイナビリティが解体されたほうがいいような部分システムもたくさん存在するわけであるから、そんな簡単なことにはなっていないのである。サステイナブルであるべき地球社会は全体としていまだ成立しておらず、それはこれから私たちが作っていくのだという姿勢のほうが望ましい。
このような内容を持つ総合学を、自然科学、社会科学、人間科学の基盤のうえに構想するのである。私は学際学という言葉の代わりに総合学という言葉を使う。その理由は、単に学際的に集合するだけではなく、それらを真の意味で総合化する営みがその中核になくてはならないと考えるからである。これについては次章で述べる。
以上が、サステイナビリティ学の全般についての私の考え方である。
ここ二点ほど補足をしておく。まず、私たちがサステイナブルな地球社会を作り上げていくためには、そのサブシステムに存在する様々な要素のサステイナビリティが互いにどのような関係でなければならないのかについて、ある程度の知を持っている必要がある。地球社会にはローカルな社会・文化・価値・伝統がある。それらの社会・文化・価値・伝統は、それぞれみずからのサステイナビリティを主張することであろう。たとえば、あるローカルな地域の伝統のサステイナビリティを追求することが、その地域に住むマイノリティの尊厳と幸福を抑圧する事例は多数報告されている。この場合には、サステイナビリティの定義に従って、マイノリティに対する抑圧的な伝統を解体することが必要であるように思われるが、しかしその伝統を解体することによって、その伝統を生の支えにしてきた人々の尊厳と幸福が損なわれることもあり得る。このような事例は、あらゆるシステム階層において見られるであろう。このような課題が、サステイナビリティ学には突きつけられるのである。すでに紹介した蓮井の論では、この問題を単なる優先順位づけの問題に解消してはならないとされていたし、それは正しいように思われる。ではどういうふうに取り組めばいいのだろうか。この問題を何と名付けてよいのか分からないが、サステイナビリティ学は、まずは全力を挙げてこの問題に取り組まなければならない。
もうひとつは、サステイナビリティ学に内在する管理学への傾向性についてである。本論文冒頭でも述べたが、サステイナビリティ学の目標を人類全体の存続に置いてしまうと、人類全体を存続させるために地球社会全体を高度先端技術によって完全に監視し、テクノロジーと軍事力によって地球社会の隅々までを制御すればいいという方向に進みがちなのである。これはサステイナビリティを志向する学問と実践が必然的にはらんでしまう宿命のようなものである。たとえ本論文のような人間個人の「尊厳」と「幸福」を目標とするような立場に立つとしても、それを可能にする地球社会のサステイナビリティを志向する以上、このような監視管理学化は避けられないように思われる。しかしながら、多くの論者が予想するように、見事に監視管理された地球社会というのは、そこに住む人間たちの精神に重くのしかかり、彼らをいわば窒息させていく危険性をはらんでいるようにも思われる。たとえその監視管理が独裁的存在によって一元的になされるのではなく、市民たちによって広く多元的になされるのだとしても、やはり相互監視的な窒息感は消えないであろう。このことを考慮すれば、基本的な問題として、「サステイナビリティ学は地球社会をどの範囲まで管理すべきか」という議論が必要であると私は考える。これは遠未来に登場するであろう課題ではあるが、当初から視野に入れておくほうがよいと私は思う。
4 総合学としてのサステイナビリティ学
最後に、サステイナビリティ学の学問としての構成がどのようなものであるべきかについて私見を述べておきたい。サステイナビリティ学は学際学であるというイメージがあるが、それだけでは不十分である。学際学とは、専門学を集めてきて、その学際領域をひとつの新学問分野として構築するものである。あるいは多数の専門学を集結させてその専門学の対話の中から問題の解決策を模索しようとするものである。しかしながら、学際学の試みは、単に複数の専門学を羅列してよしとする営みに陥りがちである。サステイナビリティ学のために必要なのは、専門学を集めてきてそこから真の意味での総合を達成することのできる学問的な枠組みである。これを私は総合学と呼ぶことにしたい。総合学を作り上げるのは本当に難しい。なぜならその学問を担う人間自体が総合的な知を所有していなければならないからである。専門家を集めてきてフォーラムを作っただけでは総合学は形成されない。これまでの多くの学際学が失敗したのは、専門家を集めてきて議論させていれば何かの総合が達成されるだろうという甘い見込みがあったからである。必要なのは、それらの専門学を真の意味で総合させるためのエキスパートを育てることである。総合学の専門家という言い方は語義矛盾を含むから、総合学のエキスパートという言い方をしておきたい。サステイナビリティ学が学問としてどのように構成されるべきかについては、たとえば梶川裕矢と小宮山宏の「サステイナビリティ学と構造化」という論文がある(文献B)[26]。非常に参考になるものの、そこでは専門学がサステイナビリティ学にどのように寄与するべきなのかについての考察が不足している。また、人文社会科学の専門学と自然科学の専門学の総合化がいかにしてなされるのかについても議論されていない。
サステイナビリティ学は、自然科学、社会科学、人間科学の3領域の専門学を集結させることによって成立する。この三分類は大阪府立大学現代システム科学域の構想プランにおいて使用されたものである。本論文の考察はこれに即するが、他の方式の学問分類も多数あり得るので、これにこだわるつもりはない。また以下の考察は森岡によるものであり、上記学域の見解を代弁するものではない。
サステイナビリティ学は、
(1)サステイナビリティ学基礎論
(2)サステイナビリティ専門学
(3)サステイナビリティ総合学
の三分野によって構成されるのが望ましいと私は考える。
まず「サステイナビリティ学基礎論」であるが、これはサステイナビリティ学とはいったい何をする学問なのかについて考察する分野である。サステイナビリティ学はまだ構想途上であり、その全貌は見えていないし、方法論も確定していない。いま必要なのは、この新分野に集結してくる専門家たちが手探りで模索しながらサステイナビリティ学の具体的な内容を作り上げていくことである。と同時に、そのような作業を行ないながら、その作業自体をメタ的に振り返って、自分たちはいったい何を構築しようとしているのか、何を構築していくべきなのかについて考察することが必要である。これをサステイナビリティ基礎論と呼びたい。これは荒海にこぎ出す船にとっての羅針盤のようなものである。羅針盤自体が船を動かすことはできないが、羅針盤なしに船は目的地には到達しない。本論文で私が行なってきたことが、サステイナビリティ学基礎論の具体的な作業のひとつの実例である。この作業には、哲学的な思索方法が適している。またサステイナビリティ学の内容から言って、政治学や平和学や科学論からの寄与があるのが望ましいように思われる。ただし、サステイナビリティ学基礎論は、サステイナビリティ学全体からすれば小さな部分を占めるにとどまるし、小さな部分にとどまるべきである。羅針盤だけが肥大化した船はどこにも進まないからである。
次に「サステイナビリティ専門学」であるが、これはサステイナビリティ学への寄与をつねに意識して行なわれる専門学のことである。すなわち、みずからの専門知の追求がサステイナビリティ学へとフィードバックされることをつねに意識してなされる専門学のことであり、また同時にサステイナビリティ学への寄与がなされることを主要な動機として営まれる専門学のことである。たとえば、有機化学という専門学がある。これまでの有機化学は、その学問分野自体の知をいかに前進させるかによって評価されてきた。サステイナビリティ専門学としての有機化学は、それとは少しだけ重心の置き方が変化している。すなわち、みずからの行なっている有機化学の研究がサステイナビリティ学へとフィードバックされることがつねに意識されており、たとえばその研究成果が有害排出物削減の実践へと具体的に寄与することが主要な動機となっており、そしてそのような寄与の可能性によって研究の成果が評価されていくようになっているのである。したがって、有機化学は、サステイナビリティ学としての有機化学と、サステイナビリティ学とは無関係の有機化学に分けられることになる。後者の例としては、有機化学自体の知を広げていくための基礎研究や、大量殺戮だけを目的とした新型化学兵器の開発を目標とする研究などがある。もちろん、研究現場において、基礎研究とサステイナビリティ学に寄与する研究を線引きすることは難しいし、そもそもその二つは渾然一体となっていて分離しがたい。しかしながら、その研究の全体がどこに向かって走っているのかを俯瞰的に眺めてみれば、それがサステイナビリティ専門学であるかどうかを判別することは可能になるだろう。また、一人の人間の同一の研究が、サステイナビリティ専門学とそうではないものとの両方にまたがっていることもある。このこと自体はとくに疑問視されるべきではない。
ただし気をつけておきたいのは、ほんとうはサステイナビリティ専門学には興味関心はないのに、サステイナビリティ専門学のようなふりをしていると研究資金を獲得しやすいから、形のうえだけでサステイナビリティ専門学に参加する、というようなことをやらないでほしいということである。これに類したことは、これまで様々な領域の学際学においてなされてきたし、私も現場でたくさん見てきた。世に出ている学際学の共同執筆の書籍を見ても、そのようなノルマを果たすためだけに書かれたと思われる章が数多く見られる。なぜこのような行為をしないほうがいいのかと言えば、そのような行為は、サステイナビリティ学を前進させようと本気で思っている人たちのやる気をスポイルし、結果としてその総合学の形成を頓挫させる方向に寄与してしまうからである。サステイナビリティ専門学に興味関心がない研究者は、自分たちの出身の専門領域にとどまって、そこできちんとした専門研究に邁進してほしいと私は切に願う。
サステイナビリティ専門学は、自然科学、社会科学、人間科学のそれぞれの領域で成立する。サステイナビリティ学を前進させる主要エンジンとなるのは、これらのサステイナビリティ専門学である。サステイナビリティ学というと、それに関与する人間は文理融合のジェネラリストでなければならないというようなイメージを持っている人もいるかもしれないが、そうではない。サステイナビリティ学が将来成立したとき、その学問を支えることになるマジョリティは、サステイナビリティへの寄与を動機として研究を行なう、サステイナビリティ専門学の研究者である。この点はしっかりと認識しておきたい。サステイナビリティ学を作り上げるには、サステイナビリティ学に興味関心のない専門研究者を集めてきてもダメだが、かといって文理融合を目指すジェネラリストばかりを集めてきてもダメなのである。これまでの縦割りの専門分野の研究者の中から、サステイナビリティ学への寄与に本気の興味関心を持つ者をピックアップしてまとめ上げることが可能であると思われる。その任務は、次に述べる第三分野が受け持つ。
第三は「サステイナビリティ総合学」である。この分野は、サステイナビリティ学の司令塔である。この分野は前例がないから、ゼロから作っていかなくてはならない。この分野が行なうことは3つある。まず最初は、様々なサステイナビリティ専門学の研究とその成果をひとつの土俵のうえで結び合わせることである。それらのサステイナビリティ専門学の研究内容と成果を正しく理解し、それらが互いに結びついてサステイナビリティに寄与していく可能性を探るのである。次に、そこで得られた総合的な知見を、サステイナビリティ学基礎論の羅針盤と照らし合わせ、その知見をどのように実践へと結びつけることが妥当なサステイナビリティの追求になるのかを吟味する。そのうえでそれを実践に移す道筋を具体的に探し、またその知見を広く社会に公開する。最後に、総合的にまとめ上げられた成果をふたたび様々なサステイナビリティ専門学へとフィードバックし、専門学での研究がどのようにサステイナビリティ学において結実したのかを報告する。またサステイナビリティ専門学の進むべき方向について共同の考察を行なう。これらがサステイナビリティ総合学の一般的な任務となるだろう。
サステイナビリティ総合学が具体的にどのようなものになるのかは、私もまだ想像で語っているだけであり、いまのところはっきり言ってよく分からない。しかしながら、サステイナビリティ総合学が成立しない限り、意味のあるサステイナビリティ学は起動しないであろう。もちろん走りながらそれを形成していくしかないわけであるが、この分野の形成がサステイナビリティ学全体のキーになると言っても過言ではない。
この分野を担う者こそが、文理融合を志向する総合学研究者である。総合学研究者は、自然科学、社会科学、人間科学の研究成果が何を意味しているのかを理解する能力を持っていなくてはならない。その専門の細部まで分からなくてもいいし、自分がその専門研究を担うことはできなくてもよいから、少なくとも上記3領域から出されてきた研究成果が意味するものを正しく理解することができなくてはならない。このような能力を、これまでの大学教育は育成してこなかった。であるから、このような能力を持った人材はきわめて少数である。現存するそれらの人材は、まずひとつの専門分野の基礎を習得したのち、その分野の外に出て、他の専門分野でふたたび学び直すという経験をしている。そのような苦労を経ることによって、自分の内部である程度の文理融合の基礎を作り上げているのである。私の学生時代の友人のひとりは文学部で倫理学を学んで卒業したあと、医学部に再入学して医師となった。他の友人は、理系に入学して基礎を修めたあと、文化人類学に転向した。私自身も理系に入学したあと哲学倫理学に転向した。このような人材は昔からたくさんいるが、その多くは既存専門学のメインストリームに乗ることができにくく不遇な時代を過ごす。どのような大学であれ、教員の何パーセントかは、このような人材で占められているはずである。サステイナビリティ総合学に適しているのは、このような人材である。
まずはそれらの人材の主体的な参加を呼びかけるのがよいのかもしれない。と同時に行なっていくべきは、総合学のエキスパートを自分の仕事とすることを目指す若者たちを学部生・院生の時代から育てることである。長期的にはここに大きなリソースを投下することが必要であると思われる。彼らは最初から総合学のエキスパートを目指すのである。専門学研究者になるという退路を断って、総合学一本で身を立てるというような研究者を育てる必要がある。もちろん少なくともひとつの専門学の研究を自立して行なうことが前提としてできなくてはならないが、しかしその専門学を極めることが彼らの本務なのではなく、専門学の研究の経験をも生かしながら、多分野のサステイナビリティ専門学をまとめあげることが自分の本職であるような研究者にならなくてはならないのである。
私はこのような総合学の営みのことを「ひとり学際」と呼んできた[27]。一人の人間の内部で学際が達成されない限り、真の意味での総合学は達成できないからである。そのような素質と動機を持った若者を選り分けて集中的に教育するシステムを大学内に作ることが必要である。それによって育てられた総合学研究者と、あちこちの専門のあいだを自力でさまよいながら結果的に総合学を身につけてしまった総合学研究者が、サステイナビリティ総合学を推進する人材になるのである。
もちろん、私たちは総合学研究者の集め方や育て方のノウハウを知らない。サステイナビリティ学を走りながら作り上げていくプロセスにおいて、そのノウハウもまた発見的に形成していくしかないであろう。
文理融合という言葉が安易に使われる傾向にあるが、それがいかに難しい試みであるのかは、実際にそれにタッチしたものならば誰でも知っているはずだ。一人の人間が、文系の学問と理系の学問にあまねく通じているということはあり得ない。文系の学問で博士号を取ると同時に理系の学問でも博士号を取るというのは至難の業である。私は、これまでの経験から、このような次元に文理融合の目標を置いてはならないと考えている。
そうではなくて、文理融合でめざすべきは次のことである。
(1)自分が専門分野で行なってきた研究成果の内容と意義を、文系および理系の他分野の誰にでも分かるように説明できること、そして、
(2)文系および理系の他分野における研究成果を聞いて、その内容と意義を理解できること。
これが文理融合の第一段階でめざすべき目標である。これならば多くの人間に達成可能な現実的目標となり得るし、実際にこのようなスキルが身につけば、総合学を推進するうえで大きな基礎力になるはずである。そして大学における文理融合の教育は、非常に基礎的なことから始めなければならないというのが私の実感である。たとえば、文系の学生に対しては、統計の正しい読み方と使い方、科学実験をすることにどのような意義があるのか、というあたりから入ることが必要である。理系の学生に対しては、日本語と漢字を正しく読み書きできること、人間の持つ喜びや苦しみに関心を持つこと、人類の歴史を知ることあたりから入ることが必要である。そこからスタートして、徐々に総合的な知へと高めていかなくてはならない。
また、ここで述べたサステイナビリティ総合学の営みに近いことは、大学の内部ではなく、むしろ大企業における開発部門などで先行して行なわれているのではないかと思われる。激しい競争にさらされている企業では、互いに遠く離れた専門的な知見をいかにして融合させて製品化するかということが大きな課題として認識されているのではないか。このあたりのことはさらに調べていきたい。
以上、サステイナビリティ概念とサステイナビリティ学についての考察を行なった。本論文で述べたことは、まだ非常に初歩的な試論にすぎない。本来検討すべき研究書・論文・レポート等の文献群をほとんど考察することができなかったのに加え、たとえばESDなどのテーマにも触れることができなかった。今後の研究によって、ここで書かれた内容をすべて根本からリニューアルしていくことにしたいと考えている。
文献
<サステイナビリティ学関連>
小宮山宏編 (2007) 『サステイナビリティ学への挑戦』岩波書店。【文献A】
小宮山宏ほか編 (2011) 『サステイナビリティ学1 サステイナビリティ学の創生』東京大学出版会。【文献B】
三村信男ほか編 (2008) 『サステイナビリティ学をつくる』新曜社。【文献C】
周?生編 (2013) 『サステイナビリティ学入門』法律文化社。【文献D】
<それ以外>
Benatar, David. (2006) Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence. Oxford University Press.
国立国会図書館調査及び立法考査局 (2010) 『持続可能な社会の構築・総合調査報告書』国立国会図書館。 http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2010/20090401.pdf http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2010/20090402.pdf
森岡正博 (1988) 『生命学への招待』勁草書房。
森岡正博 (1998) 「総合研究の理念―その構想と実践」『現代文明学研究』第1号、1-18頁。
森岡正博(2011)「誕生肯定とは何か:生命の哲学の構築に向けて(3)」『人間科学:大阪府立大学紀要』6、173-212頁。
森岡正博(2013)「「生まれてくること」は望ましいのか:デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』について」The Review of Life Studies Vol.3 (March):1-9。
森岡正博 (2014) 「「人間のいのちの尊厳」についての予備的考察」『Heidegger-Forum』第8号(印刷中)
What Ought to Be Considered Sustainable in Sustainability Science?
A Preface to a Criticism of the Concept of Sustainability
Masahiro Morioka
The aim of this paper is to critique current Japanese sustainability science and discuss some fundamental problems in sustainability science itself. The biggest problem with Japanese sustainability science is that it omits discussion of what ought to be considered sustainable within sustainability science. In this paper, I propose the idea that a global society where the dignity of all humans is protected and where all humans can live and seek their own happiness ought to be considered sustainable in sustainability science. And I argue that sustainability science should be composed of three subfields: foundations of sustainability science, specialized sustainability science, and synthetic sustainability science. Lastly, I propose a new way of thinking about the integration of natural sciences and the humanities.
註
[1] 文献2、21頁。
[2] The Global Gender Gap Report 2013 <http://www3.weforum.org/docs/WEF_GenderGap_Report_2013.pdf>
[3] 森岡正博(1998)。
[4] 4頁。
[5] 5頁。
[6] 5頁。
[7] 24〜25頁。
[8] 34頁。
[9] 148頁。
[10] 168頁。
[11] 25頁。
[12] 森岡正博(1988)。
[13] 189頁。
[14] 190〜191頁。
[15] 193頁。
[16] 193頁。
[17] 195頁。
[18] 247頁。
[19] ただし、木村の提言である「贅沢は素敵だ」(252頁)という命題は、そのまま肯定的に受け取ることはできない。論争喚起的な言挙げとして受け止めておきたい。
[20] 23頁。
[21] 41頁。
[22] 実際、哲学においては、人類がはたして存続すべきなのかを正面から考える議論が存在する。そして人類には存続する義務はない、あるいは存続しないほうがよいとする論も存在する。サステイナビリティ学が当然の前提としている人類全体の存続すら哲学では疑われる場合があるのである。サステイナビリティ学は、哲学からのこのような冷徹な問題提起をも受けて立たないといけないだろう。Benatar (2006)、森岡正博(2011)(2013)参照。
[23] 森岡正博(2014)参照。左の論文では、「尊厳」は、「人生の尊厳」「身体の尊厳」「生命のつながりの尊厳」の三つに分類されている。本論文では、「人生の尊厳」と「身体の尊厳」をひとつにまとめ、それに「生命のつながりの尊厳」を加えて、二つの尊厳とした。サステイナビリティ学においては、この二つの尊厳という分類で必要十分であると思われる。また「尊厳」が守られるための指標として、「基本的人権」などの諸権利があると考えることもできる。「尊厳」と「権利」の関係については詳細な検討が必要である。
[24] ではなぜ「尊厳」と「幸福」が基底的な根拠とされるのかという問いが生じる。これについても、哲学の領域でさらに追求していかなければならないのは当然である。
[25] その際には粘り強い説得と対話が必要であることは言うまでもない。
[26] 65〜96頁。
[27] 森岡正博(1998)。