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作成:森岡正博
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論文
『現代生命哲学研究』第9号 (2020年3月):80-88
リヴカ・ワインバーグの出産許容性原理について
生命の哲学の構築に向けて(11)
森岡正博
1 はじめに
「生まれてきたこと」をよかったとして肯定する「誕生肯定」の概念について、私はこれまで何度か考察してきた。最初の論文は2011年に『現代生命哲学研究』に掲載された「誕生肯定とは何か―生命の哲学の構築に向けて(3)」である。その後、研究を続けていくうちに、デイヴィッド・ベネターの著書『生まれてこなければ良かった』(2006年)に出会い、そこでは、生まれてきたことを良くなかったとする「反出生主義anti-natalism」が説かれていることを知った。
その後、反出生主義を研究しているうちに、世界で反出生主義が流行し始めていることに気づいた。たとえば『New Yorker』誌は「The Case for Not Being Born」(2017年11月27日)という記事で、ベネターへのロングインタビューを掲載している。『BBC』サイトの記事「Anti-natalists: The people who want you to stop having babies」(2019年8月13日)によれば、フェイスブックなどで反出生主義のグループが増加している。環境問題への危惧やメンタルヘルスと関連があると紹介されている。『Guardian』誌は「I wish I'd never been born: the rise of the anti-natalists」(2019年11月14日)という記事で、ベネターの哲学からヴィーガン運動まで、現在の反出生主義運動を手際よくまとめている。『Refinary29』サイトの記事「Antinatalism: The Popular Reddit Movement To Stop Procreation」(2019年8月15日)も若者のあいだに浸透し始めている反出生主義を取り上げている。日本では雑誌『現代思想』(2019年11月号)が反出生主義の特集を行なった。ベネターの哲学をめぐる議論が中心となっている。私は雑誌冒頭で戸谷洋志と対談を行なった。もちろん、これらの流行はすぐに終わりを迎えるであろう。しかしながら反出生主義がすぐさま人々の意識から消え去るとは思えない。なぜなら、反出生主義とは、紀元前の昔から地中海やインド大陸において熱心に説かれてきた思想だからである。その潮流はヨーロッパを経て、現在、世界中に拡散中である。ベネターの著書もその流れの中にある1。
反出生主義とは、人はそもそも生まれてこないほうがよかったと主張するものであり、これから人を産まないほうがよいと主張するものである。私は前者を「誕生否定」と呼び、後者を「出産否定」と呼ぶことにしている。この二つはかならずしもセットにはなっておらず、前者のみを主張するものもいるし、後者のみを主張するものもいる。ベネターはこの両者をともに主張し、前者に関しては「人が生まれてくるよりも人が生まれてこないほうがかならずベターである」とし、後者に関してはすべての胎児の中絶を強く推奨する「胎児死亡主義the ‘pro-death’ view of abortion」と、出産数を控えることによる人類の段階的絶滅を主張している2。
日本のネットを中心とした反出生主義の受容を見るに、それを出産否定と同一視する見解が多くみられる。反出生主義とは、子どもを産まないことを正当化する理論だという受け取り方である。私はこれまでの自身の考察においては、主に前者の誕生否定としての反出生主義を批判的に検討してきた。後者の出産否定については吉本陵と共著論文を一本書いたのみである3。
ところで、研究のプロセスでリヴカ・ワインバーグの著書『人生のリスク』(2016年)に出会った。これは、反出生主義における出産否定を念頭に置きながら、いかにして人は出産を肯定できるのかについて哲学的に考察したものである。ワインバーグはロールズの正義論を用いてこの問題を考えようとしており、たいへん興味深い議論を行なっている。そこで本論文では、ワインバーグの議論を簡単に紹介し、それを批判的に検討することとしたい。出産は肯定されるべきではないという出産否定の思想に彼女はどう立ち向かおうとしたのだろうか。
2 出産許容性原理
反出生主義者が子どもの出産を否定するときによく持ち出すのは、生まれる子ども本人から出産の同意を得ていないという点である。たしかに私たちは気がついたら生まれていたのであり、誰からも「産んでいいか」と聞かれたことはない。だから、生まれてきたことを後悔する人たちは、とくにこの点に大きな不条理感を抱くのであろう。
生まれてくる子どもから、あらかじめ同意を得ておくのはそもそも不可能であるが、生まれてきた赤ちゃんにミルクをあげたり、風呂に入れたりすることについても、私たちはまったく本人からの同意は得ていない。自発的な同意を与えることのできる年齢に至るまでは、大人たちは明確な同意なしに子育てをすることを強いられる。同意なしに他者に存在を与えたり、生育させたりするのは、その他者が大人になったときに「自分はそういうことをされたくなかった」と後悔するリスクを負わせることであるから、私たちはそもそも子どもを産まないほうがよい、という考え方は成立する。この点は認めておきたい。しかし問題は、これがすべての人間たちに出産を思いとどまらせたり、禁止したりする理由となり得るかという点である。
ある人が自分のことを振り返って、「自分は親に愛されて育ったし、家族との生活は基本的にとても楽しかった、この家族に生まれてきてよかった」と思い、だから自分も大人になったら家族を形成して、子どもたちを育て、彼らに自分と同じような幸せを感じてほしいと願ったとしよう。このような思いで子どもを産もうとする人に対して、「子どもは自分が生まれてきたことを後悔するリスクがある」と主張して子産みを思いとどまらせたり、禁止したりしようとするのは正当なことなのだろうか。これに対して、子産みの自由は憲法の幸福追求権で保障されているのだから、子産みを禁止することはできないとする意見や、私たちには世代を受け継いでいく義務があるから子産みを禁止することはできないという意見があり得る。だがこれらの理由にしても、なぜそれが正しいのかを明確に言えるほどしっかりとした根拠があるわけでもないだろう。これはまだ誰もきちんと解くことのできていない難問である。
この問題について、リヴカ・ワインバーグは、生まれてくる子どもは出産に同意を与えることはできないが、それにもかかわらず私たちは一方的に子どもを産むことを許されると主張する4。しかしそのように強制的にいのちを生み出すのは、この社会の「自律の価値」と相性が悪い。出産においては、親と子どものあいだに利益相反がある。たとえば親たちは、いつ子どもを産むかという出産のタイミングに関心がある一方で、子どもは優れた条件で出産がなされることに関心がある5。
このような利益相反関係下において、どのような原理で出産を考えるかであるが、ワインバーグはジョン・ロールズ流の配分的正義の構想を採用する。すなわち、もし私たちが、これから子産みをする大人であるか、それとも生まれてくる子どもであるか分からないように無知のヴェールをかぶせられたとしたら、どのような原理を合理的に採用するかを考えてみようというのである6。
その結果、導き出されたのが「出産許容性原理the principles of procreative permissibility」である。これは「モチベーション制限」と「出産バランス」の二つの原理から成っている。(ロールズの正義の二原理へのオマージュである)。この二つの原理を満たすときにのみ出産は許容される。
(1)「モチベーション制限」Motivation Restriction
子どもが生まれたらその子どもを育て、愛し、伸ばしていきたい、という願望と意志によって、出産は動機づけられていなければならない7。
(2)「出産バランス」Procreative Balance
何かのリスクがある環境下で出産を許容してほしいのならば、あなたが親として子どもに課するそのリスクが、もしあなたが生まれてくる子ども自身だと仮定したときに自分の出生の条件として受け入れたとしても非合理的ではない程度のものであるときにのみ、その出産は許容される。(ただし子どもとしてのあなたは生き続けるだろう、と前提する)8。
このうち「出産バランス」のほうは分かりにくいが、ワインバーグは高齢出産で子どもにダウン症のリスクがある場合などを念頭に置いている。要するに、もし自分が生まれてくる子ども本人だと仮定した場合に、親から自分に押し付けられるリスクが受忍可能な範囲のものであるならば、出産は許可されるということである。この二つの原理では、「モチベーション制限」で親に養育意志の義務が課せられ、「出産バランス」で子どもの立場に立ったリスク管理が親に課せられる。
このような考え方によってワインバーグは、私たちが子産みをすることは許されるけれども、そのときには二つの条件をきちんとクリアーしてからでないといけないという道筋を示したのである。出産許容性条件が定められれば、子どもがほしいという親の願望と、生まれてくる子どもの福祉が、ともに背反することなく両立するとワインバーグは考えたのである。生まれてくる子どもの立場と、子どもを産むのは親の自由であり権利であるとする出産者本位の考え方を、配分的正義の考え方で調停しようとしたところにワインバーグの独創がある。
一見すれば分かるように、「出産バランス」の原理には問題が含まれている。もし仮に、生まれる子どもに成り代わって私が出産の適否を判断したとしても、その判断結果が、実際に生まれてくる子どもが将来になすであろう判断と一致することは、まったく保証されていないからである。これだけでは、子どもが「なぜ親は自分を産んだのか?」と真剣に悩むケースを防止することはできない。もちろんワインバーグの意図は、そのようなケースを潔癖に予防することにあるのではなく、親が子どもの立場に立ってきちんとリスク管理をすることと、親が養育のモチベーションを維持することによって、子どもを持ちたいという親の願望が社会のなかに公正に位置付けられ得ると提言するところにある。ジェンダー学および正義論からの反論はあり得るだろうが、出産許容性原理は、今後この問題を考えていく際の重要な手掛かりになるはずである。
3 ワインバーグの議論を検討する
ワインバーグの議論を念頭に置きながら、子どもを産むことの是非についてもう一度考えてみる。私は子どもを産まないとか、私たちカップルは子どもを産まないというのは「出産否定」の考え方である。これは個人の自由の範囲内である9。問題となるのは、それが社会の次元へと拡張され、「すべての人は子どもを産まないほうがよい」として子産みを思いとどまらせたり、禁止したりしようとするときである。このような思想を「反出産主義」と呼ぶことにする。反出産主義は、反出生主義の部分集合である。
反出産主義の根拠としてもっとも強力なのは、生まれてくる子ども本人の同意を得ていないという「同意不在論」である。すなわち、生まれてくる本人の同意なく子どもをこの世に存在させるのは、その子どもに対して暴力的であり、けっして許されないとする考え方である。これは、子どもが生まれてくるであろうこの世界が苦しみと悪に満ちているから存在させてはいけないという論ではない。そうではなくて、たとえこの世が天国のように素晴らしい世界であり、生まれてきたら全員がかならず幸せになると保証されていたとしても、生まれてくる子ども本人の同意がない以上、子どもを産むことはけっして許されないとする論なのである。
同意不在論によれば、これまで地球上に存在した人間たちは、すべて同意のない暴力によって産み落とされてきた。出産とは、いわば原初的暴力である。もちろん、産み落とされたあとに、多くの人間たちは幸せになり、生まれたことを後悔しなかったかもしれない。だが一般的に言って、結果は行為をかならずしも正当化しない。たとえば巧妙な詐欺師の違法行為によって騙された人たちが嘘の説明をずっと信じ続け、その後に幸せな人生を送って一生を終えるということがあったとしても、それはけっして詐欺行為それ自体の違法性を正当化するものではない。詐欺行為の違法性は、それがもたらした結果とは別次元できびしく裁かれなければならないのである。これと同じように、たとえ生まれてきた人間たちの多くが幸せになり、生まれたことを後悔しなかったとしても、それは本人の同意なく子どもを産むことをただちに正当化するわけではない。それどころか、人間たちは、本人の同意なく子どもを産み続けるという暴力の連鎖をこれまで行ない続けてきたし、これからも継続しようとしている。このような暴力の連鎖はなんとしてでも食い止めなくてはならない、と反出産主義者たちは考えるのである。
すでに述べたように、日常生活で私たちは相手の同意のない行為をたくさん行なっている。そしてそれらの多くは許容可能なものとされており、もし紛争が起きたとしても双方の対話によって解決される可能性がある。しかしながら、子どもを産むのは、その対話する相手そのものをこの世に存在させる行為なのである。すでに存在している人間に対して本人の同意のない行為をすることと、いまだ存在していない人間を本人の同意なくこの世に存在させる行為をすることは、厳格に分離して考えなくてはならない。
ふたたびワインバーグの出産許容性原理に戻ってみると、それは、「生まれてくる本人の同意なく子どもを産むことは許される、ただしそれには条件が課せられる」とする理論であることが分かる。すなわちワインバーグは、「二つの原理を満たしていれば、同意なき出産の暴力性の悪は免責される」と主張しようとしているのであり、「生まれた子どもが将来大人になったときに自分の誕生を振り返って、親が自分を出産したことにまったく同意できないと主張する可能性がたとえあるとしても、二つの原理を満たしてさえいれば、同意なき出産の暴力性の悪は免責される」と主張しようとしているのである。
ただしそのためには、この二つの原理だけでは足りないと私は考える。なぜなら、生まれた子どもが実際に「生まれてこないほうが良かった」と親に問うたときに、親はそれに対応しなければならないからである。これはワインバーグの「モチベーション制限」に潜在的に含まれているとも考えられるが、私は明示的に第三の原理として独立させるほうがよいと判断する。これを暫定的に「応答責任原理」と呼んでおきたい。
(3)「応答責任原理」Principle of Responsibility
親になろうとする者は、生まれた子どもが誕生否定の考えを抱いて親に「なぜ自分を産んだのか」と問うたときにその問いに真摯に応答していく、という決意を持たなくてはならない。
これはまた、子どもを暴力的に存在させた親に課せられる責任でもある。親が具体的にどのように子どもに応答すべきかについては、一般論としては何も決められない。親の実存的な態度にすべては委ねられる。また、子どもが誕生否定の考えを抱いたとしても、それを親に向かっては表明しないことも多いだろう。その場合、親には応答責任はない。子どもは誕生否定の考えを持つ自由がある。そして子どもは、自分が産まないという出産否定の考えを持つ自由がある。親はその自由を侵害してはならない。この考え方をベースとしながら、もし子どもが親に問うてくるときには、親はそれに応答する責任があるということである。
このように拡張されたワインバーグの出産許容性原理によって、同意なき出産の暴力性の悪はほんとうに免責されるのだろうか。これはたいへん難しい問題であるが、根本的には免責されないのではないか。というのも、ワインバーグの原理は、親が子どもに課すリスクの許容限度をどう見積もるかという問題設定の上で動いており、けっして同意なき出産の免責範囲を調べるものではないからである。もし生まれてくる子どもが抱えるリスクがゼロだと仮定したとしても、やはり同意のなさの問題は存在しているのであり、ワインバーグの議論では後者はカバーできないからである。ただし私もまだ厳密に問題を詰め切れておらず、この考え方で正しいかどうかは分からない。もし同意なき出産の悪が免責されないとすれば、反出産主義が間違っているとは言えなくなる。
しかし他方で、本人の同意なく子どもを存在させてはならないとする説得的な根拠を示すのもまた難しいのである。子どもが将来、自分が生まれたことを後悔するリスクはたしかにあるのだが、それがただちに、本人の同意なく子どもを存在させることを禁止する根拠になり得るのかどうかについては、クリアーな答えが見つからないからである。いまのところは、反出産主義の是非について確定的な答えは用意されていないというのが、本論文の暫定的な結論である。
ここで、連関する問題を考えておく。子どもが親に、「自分は生まれたくなかったのになぜ産んだのか」と問うたとき、親はこのように答えるかもしれない、「あなたを愛するためにあなたを産んだのだ」と。もしこう言われた子どもの立場に立ってみるならば、次のような問いが湧いてくるだろう。
その子どもは、この私でなくてもよかったのではないか? この私ではなく、他の姉妹兄弟でもよかったはずだ。血のつながらない養子であってもよかったはずだ。もし自分の身体で妊娠して産みたかったというのならば、それは自分の身体を使って産みたいという欲望をかなえるためにすぎなかったと言えるのではないか。もし、愛するために産んだというのなら、それは「無条件に誰かを愛したい」という親の欲望をかなえるために産んだのではないか。さらには、産んだあとに子どもを愛することができなかった場合のリスクをきちんと考えて、あらかじめ対処法を想定していたのだろうか。子どもが実際に以上のようなことを考えるかどうかは分からないけれども、その可能性がないとは言えない。
ここに見られるように、本人の同意なく子どもを生み出すことと、生まれてきたその子どもを愛することのあいだには、鋭い緊張関係がはらまれている。後で愛するからという理由で人間を同意なくこの世に存在させていいのか、という問いは成り立つ。しかし自分が生み出される側だと考えた場合、もし自分が十分に愛されることが確実ならば、暴力的に存在させられた後で愛されてもかまわないと考える人もいるだろう。これは、反出産主義者にとって愛とは何を意味するのかという問いにつながっていく。彼らにとっての愛とは、すでに存在してしまっている人間たちが、互いに思いやりをもって関わり、慈しみ合っていくことに尽きるのだろうか。
ワインバーグの本は、「産みの哲学」を扱ったユニークな書物である。「産みの倫理学」については、これまで生命倫理学やジェンダー学で盛んに論じられてきたが、「産みの哲学」については本格的な研究は行なわれないままに残されている10。日本では居永正宏と私による論文がいくつか発表されているにとどまり11、きちんとした調査は行なえていないが、海外においても大きな展開は起きていない模様である。居永や私の「産みの哲学」の議論に関しては、男性ジェンダーからのバイアスがかかっているとともに、「産みの現象学」の側面が欠落していることは明らかである。「産みの現象学」については、森崎和江の先駆的な書物があり、近年では宮原優による論考がある12。今後、この側面からの哲学的考察が深まっていくことを期待する。「産みの哲学」は「生命の哲学」の大きな柱となる領域であるから、将来の展開に注目していきたい13。
* 科学研究費・森岡正博代表「「尊厳」と「意味」を二本柱とした生命の哲学・倫理学の基盤的研究」研究課題番号:17K02185、蔵田伸雄代表「「人生の意味」に関する分析実存主義的研究と応用倫理学への実装」研究課題番号:16H03337、丸山康司代表「エネルギー技術の多元性と多義性を踏まえたガバナンス方法の研究」研究課題番号:17H00828の成果である。
文献一覧
Benatar, David. (2006). Better Never To Have Been: The Harm of Coming into Existence. Oxford University press.
居永正宏 (2014)「「産み」の哲学に向けて(1):先行研究レビューと基本的な論点の素描」『現代生命哲学研究』第3号、88-108頁。
森岡正博 (2001)『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』勁草書房。
森岡正博 (2005, 2013) 『完全版 感じない男』ちくま文庫。
森岡正博 (2014)「「産み」の概念についての哲学的考察 ― 生命の哲学の構築に向けて(6)」『現代生命哲学研究』第3号、109-130頁。
森岡正博・吉本陵 (2009)「将来世代を産出する義務はあるか?―生命の哲学の構築に向けて(2)」『人間科学:大阪府立大学紀要』4、57-106頁。
森崎和江 (1994)『いのちを産む』弘文堂。
Weinberg, Rivka. (2016). The Risk of a Lifetime: How, When, and Why Procreation May Be Permissible. Oxford University Press.
2 Benatar (2006), pp.160-162.
3 森岡正博・吉本陵 (2009)。
4 ワインバーグは、子どもを出産するのは女性であることを前提としたうえで、以下の親(parents)と子どもの関係性を議論するときには、あえて親をジェンダー化していない。つまり女親も男親も同等に出産の道徳性に関与するという視座で議論していると考えられる。
5 Weinberg (2016), pp.6-7.
6 Weinberg (2016), pp.158-167.
7 Weinberg (2016), p.176.「育て、愛し、伸ばしていき」は “raise, love, and nurture”。
8 Weinberg (2016), p.179.翻訳しにくい英語なので意訳した。正確には原文を参照のこと。
9 厳密には、現代社会ではこれは女性の自由である。妊娠を引き受けるのは女性だからである。子産みについての女性あるいはカップルの決定に対して、周りの人がうるさく口を出してくるという状況がまだ残っている。私はこの状況は変わらなければならないと考える。
10 「産みの倫理学」は再生産の倫理、たとえば産む産まないの自由・権利、中絶とパーソン概念、養育とケアなどの実践的な倫理的問題について論じる。「産みの哲学」は、そもそも「産み」とは何をすることなのかを論じる。
11 居永正宏 (2014)に始まる一連の「産み」についての論文、および森岡正博(2014)。私自身は森岡正博(2001)において、産む産まないの権利・自由に関する日本の女性運動の思想について研究を行なった。なお『現代生命哲学研究』本号54-79頁に、中川優一「産むことと生まれてきたこと―反出生主義における「出生」概念の考察」が掲載されている。「男性」が、「男性」的視野の限界を自覚しながら、このテーマの研究を深めていくこと自体は行なわれてよいというが私の考え方である。問題は、それが学界の「男権」的支配のもと思考空間・言説空間を支配して基準となり、さらにその基準が自然化されて普遍性を装うことである。それに対する即効的解決はないが、未来が闇であるわけでもないのではないか。なお「男性」という立場からの男性セクシュアリティ分析については森岡正博(2005, 2013)で行なった。
12 森崎和江(1994)など。宮原優「妊娠とは、お腹が大きくなることなのだろうか?―妊娠のフェミニスト現象学」稲原美苗ほか編『フェミニスト現象学入門―経験から「普通」を問い直す』(ナカニシヤ出版、2020年刊行予定)。
13 なお、この点に関するワインバーグと私の対話がYouTubeで公開されているので、関心のある方は視聴できる。Rivka Weinberg, “Philosophy of Procreation” (YouTube: Tokyo Philosophy Project 03), 2019.