作成:森岡正博 |
論文・エッセイ
Happy End of Pizzicato Five (未発表 2001年5月17日)
森岡正博
ピチカートファイブのラストアルバム『さ・え・らジャポン』を聴いた。小西君は、「自分の力以上の出来になった。だからこれをもってピチカートは解散」って言っていた。でもなあ、そりゃ、うそだべ。小西君のピチカートファイブは、行き詰まったから解散。これが正解だ。このアルバムでいちばんいいのは、ずばり、ジャケットその他の「写真」です。この写真を撮ったのは、どこのどいつだ? すごい写真だよ。これを見るだけでもアルバムを買う価値あり。とくに、表紙裏の鯉の写真なんか背筋が寒くなるほどの傑作。(もちろん、その隣の真貴さまのも、とってもいいけどさ・・・)。こりゃ、写真集として売ってもいいかもね。
というわけで、この「解散」アルバムは、きわめて両義的な代物になったなあって感じだよ。まず、いままでのピチカート世界を期待してたリスナーにとっては、「なにこれ?」だよね。だって、あの真貴さまの声がほとんど聴けないなんて、そんなことがあっていいのか症候群。ほとんど歌ってないんだぞー。ひどいや、金返せ、ぷんぷん。そのかわり、松崎しげるやら、デュークエイセスやら、雪村いずみやら、よーわからん歌い手たちが、前面に出てる。だから、真貴さまの声と(真貴さまって、日本でいちばん歌がうまいんじゃないのって思っているのは私だけ?)、小西君の曲がぴったりマッチしたあの世界は、もうどこにもないのよ。『ロマンティック』『Happy
End of the World』『Playboy & Playgirl』『Pizzicato Five TM』と続いてきた陶酔の世界は、もはやどこにもないわけよ。あのピチカートの世界はすでに死んでる。たぶん、真貴さまがソロアルバムを出したあたりで、終わってたんだろう。
だが、同時に、このアルバム、妙なおもしろさがある。なんと言えばいいのか、一種の遺書みたいなおもしろさだよね。まずこのアルバムを聴いて、思うのは、「知」に超偏向した作品が並んでるってこと。雪村いずみの音源を使った曲とか、六〇年代の高度成長期の日本をサンプリングしてくることで、そこに存在していたアメリカ信仰のようなものを、そのまま相対化して遊んでますっていう感じの、知の操作を楽しむための(あるいはそのためだけの)音楽になってる。君が代とかもそうだしね。このアルバムに横溢しているのは、「音楽的な知の楽しみ」であって、「音の楽しみとしての音楽」ではないのだ。要するに、徹底的に「ひねくれている」んだよ。こんなにひねくれてしまって、どうするのって感じ。ジャケットや歌詞に溢れている「逆オリエンタリズム」と言い、知の操作がここまで偏愛されちゃうと、音楽CDというより、ポストモダンの思想書みたいだ。だから、まずはこの意味でも、ピチカートは行き着くところまで行ったって感じなんだよね。煮詰まっちゃったっていうか。ここまでこねくりまわしたら、もう後は、この路線の延長線上では何もすることが残ってないじゃん。ピチカート解散は、だから、もう煮詰まっちゃって、やることがなくなったから、というのが真の原因でしょうと言いたくなる。その意味で、フィッシュマンズにも似ているかもしれない。ただ、小西君が「遊び」のほうに逃れて、自死を選ばなかったのは賢明だし、ファンとしてはうれしかったりするけど。
だけど、同時に、アルバム全体から匂ってくるのは、やはり「死」の匂い。「死」というよりも「葬式」の匂いかな。このアルバムに、真貴さまがほとんど出てこないのは、言ったよね。それだけじゃなくって、小西節もそれほど出てこない。この傾向は、アルバムがラストに近づくにつれて顕著になってくる。最後のほうは、なんだか知らないフランス人に鼻歌を歌わせたり、松本隆作詞・大瀧詠一作曲の「あいうえお」ソングをフランス人に歌わせたりして、そのままアルバムは終わっている。真貴さまがいないだけではなく、小西君すら最後にはいなくなっちゃうじゃん。なに、これ?
でもね、アルバムを通して聴いてみて思ったのは、これはピチカートの葬式アルバムなんだなってこと。もう行き詰まっちゃって、なんにもすることがなくなったピチカートの盛大なお葬式に、お世話になったあの人、この人をたくさん呼んできて、追悼ソングを歌わせてるってことなんだなって。そして、真貴さま、小西君のふたりも、アルバムが進むにつれて、だんだんと存在感を消してゆく。このアルバムというのは、ピチカートの本質そのものであった真貴さまと小西君の存在を、音世界から少しずつ静かに消していって、最後には真っ白な空白のみが残されるという趣向のアルバムなんだ。私の存在感をこの世から消してゆくことをその目的としたアルバム。こうやって、みずからの死をやさしく受容してゆくためのアルバム。そして、みずからの消去のあとに、その背景として現われてくるものこそが、「さ・え・ら・でゅ・じゃぽん」の品々であり、ピチカートに生命を与え続けた伝統歌謡群の甘い記憶なのだ。
だから、このアルバムの真のテーマは、「死の受容」なのであり、そこにあるのは、「みずからが生み出したもの」を、「みずからを生み出したもの」の手のひらへと静かに返してゆくための、超個人的な癒しの営みだ。これが、「ラストアルバム」というものが産みだし得る最高の結末のひとつであることには、やはりまちがいないと思う。表紙裏の鯉の写真が戦慄を誘うのは、そこに、ピチカートの「死」が、あざやかに刻印されて映し出されているからにちがいない。
Special thanks to
田中エリス