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作成:森岡正博
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論文
『人間科学:大阪府立大学紀要』5 2010年3月 91〜121頁
パーソンとペルソナ
パーソン論再考
森岡正博
1 はじめに
その後、この「他者論的リアリティ」の議論がきわめて不充分であることがはっきりしてきたので、本稿では「ペルソナ」という新たな概念を用いつつ、議論をさらに展開させる試みをしたいと考えている。ところで、「パーソン論」については、江口聡が「国内の生命倫理学における「パーソン論」の受容」という論文を2007年に刊行し、日本の議論では英語圏の「パーソン論」の多様性に注意が払われておらず、異なった議論をいっしょくたにして検討していると指摘した。たとえば、純粋な概念分析に徹しようとしているトゥーリーと、経験的な記述的意味を含む概念として「パーソン」を用いているエンゲルハートを、同じ「パーソン論」のもとにひとくくりにするのは混乱の元であると江口は述べる。江口のこの指摘は、たしかに的を得ている部分があると思われる [2] 。もちろん、彼らの議論に「パーソン論的」としか言いようのない類似点があるのは間違いないのだが、彼らの議論やその議論が生じる背景文脈の相違点に目を向けないのは誉められたことではない。そこで本稿ではまずトゥーリーとシンガーとビーチャムの「パーソン論」を簡単に再吟味したあとで [3] 、パーソン論を批判的に考察し、そのうえでパーソン論から取りこぼれる次元として「ペルソナ」の次元があることを示したいと思う。
2 トゥーリー、シンガー、ビーチャムの「パーソン論」
トゥーリーの72年論文は、ある存在者が「生存する厳粛な権利a serious right to life」 [5] を持つためには、どのような条件を満たしていなければならないかを考察したものである。これはある存在者が生存権を持つための必要条件についての考察である。ポイントがどこにあるかと言えば、この必要条件がひとたび明確になれば、ひるがえってその必要条件を満たしていないと思われる存在者は生存権を有していないことになり、従って、殺してしまってもよいことになるのである。この議論の終着点は、タイトル通り、中絶と新生児殺しを正当化するところにある。
トゥーリーの議論は、以下の3点にまとめることができる。
まず第一に、トゥーリーは「人間human being」という概念と「パーソンperson」という概念を峻別する [6] 。ホモ・サピエンスという種のメンバーに属している個体は、すべて人間である。成人も、赤ちゃんも、胎児も、受精卵もすべて人間であると言える。しかしながら、すべての人間がパーソンであるとは言えない。人間の中には、パーソンに値する人間と、パーソンに値しない人間がいる。人間の中に、価値の上下を付けるのである。
第二に、ではパーソンとはそもそも何かということであるが、トゥーリーはパーソンを「生存する厳粛な権利」を持った存在者として定義する。パーソンとは生存権を持つ存在者のことである。トゥーリーは中絶と新生児殺しの問いを、以下のように再定義する。「あるものがパーソンである、つまり生存する厳粛な権利を持つためには、どのような諸性質を持たねばならないか? ホモ・サピエンスという種のひとりの成員の生長のどの時点で、その有機体はパーソンたるべき諸性質を手に入れるのか?」。 [7]
第三に、ある存在者がパーソンであるための諸性質、すなわち必要条件として、トゥーリーは「自己意識要件the self-consciousness requirement」 [8] を挙げる。自己意識要件とは、「ある有機体は、諸経験と他の心的状態を持って存在しつづける主体という意味での自己の概念を持ち、自分自身がそのような持続的存在者であると信じているときに限り、生存する厳粛な権利を持つ」 [9] というものである。すなわち、ある存在者が生存権を持つためには、その存在者は「自己意識主体」の概念を持ち、かつ自分がそのような主体であると信じていることが必要だというのである。
以上の三つの主張から導かれる具体的帰結は、胎児と新生児はそのような条件を満たしていないのは明らかであるから、中絶と新生児殺しは道徳的に許されるというものである。また、それらの条件を満たしていると思われるある種の動物を殺すことは擁護不可能のように思えるというものである [10] 。
トゥーリーはみずからの議論を「パーソン論」とは呼んでいない。しかしながら、その後の中絶をめぐる議論のなかで、パーソンの概念を用いたトゥーリーの主張は様々な波紋を呼んだ。それらを経たのちにトゥーリーは1984年にこの論文の改訂版「中絶と新生児殺しの擁護」を発表する(文中で用いられる印象的な事例や記述がそのまま温存されていることから、これを改訂版と考えて差し支えないであろう)。改訂版論文において、トゥーリーは中絶と新生児殺しの正当化という結論を維持しながらも、いくつかの点において論旨に変更を加えている。
注目すべきは、72年論文において自己意識要件と呼ばれていたものについて精緻化が図られている点である。トゥーリーの記述を引用すれば、以下のようである。
(1)ある存在者entityは、自分自身が存在し続けることへの利害関心(利益)interestを持つことができないかぎり、生存権を持ち得ない。
(2)ある存在者は、「諸経験と他の心的状態を持って存在しつづける自己あるいは主体」という概念を、その生のどこかの時点で持つことがないかぎり、自分自身が存在し続けることへの利害関心を持ち得ない。
(3)「ある存在者は、もし破壊されなければ、生存権を付与されて当然の諸性質をやがて獲得するだろう」ということがいくら言えたとしても、それはその存在者を破壊するのが決定的に間違っているということを意味しない。 [11]
すなわち、(1)生存権を持つためには、自分自身が将来も存在し続けるということへの利害関心、言い換えれば執着を持っていないといけない。(2)そういう執着を持つためには、そもそも持続し続ける自己・主体という概念を、少なくとも一度は持ったことがなければならない。以上が、自己意識要件と言われていたものの精緻化である。それに加えて、(3)将来生存権を持つだろうということは、いま生存権を持っているということを意味しない。これは潜在性に基づく議論の否定である。
またトゥーリーは、著書『中絶と新生児殺し』において、再度、パーソンの概念を緻密に分析している。トゥーリーは72年論文と同様に、パーソンの概念を、「その存在者を殺してもいいのかどうか」という文脈で考察する。トゥーリーのパーソンは、「殺すこと」との強い相関関係によって規定される概念である [12] 。トゥーリーはパーソンの概念を以下のようにまとめている。
あるものをパーソンたらしめるものは何かと言えば、それはそのあるものが持続的なnon-momentary諸利益の主体であるということである、というのがもっとも妥当な考え方であると我々は議論してきた。もしこの考え方が正しければ、あるものがパーソンであるために満たさなければならない多くの必要条件があることになる。その必要条件としては、現在あるいは過去のどこかの時点で、時間の感覚を持ち、心的状態を経験し続ける主体という概念を持ち、脈絡をもった思考を行なう能力を持つことが含まれる。 [13]
このように、ある存在者がパーソンであるための必要条件は、ある存在者が生存権を持つための必要条件と、ほとんど重なるものであることが分かる。トゥーリーのパーソン論の基本構想は、当初からまったくぶれていない。
すなわち、トゥーリーのパーソン論の特徴は、
・パーソンと人間を峻別して、価値の上下を付けたこと。
・パーソンを、生存権を有する存在者として定義したこと。
・どのような存在者を殺してよいのか、という一貫した関心によってパーソン論が語られていること。
・「存在しつづける自己」という概念を所有することが、生存権を持つための必要条件であるとしたこと。
・その概念を持たない胎児や新生児は生存権を持たないし、またその概念を持つ生物は生存権を持つかもしれない、としたこと。
であると言えるだろう。
トゥーリーは、ある存在者が「存在しつづける自己」の概念を持っているかどうかを具体的に確かめるのは非常に難しいとしている。言語能力をもっていることがその基準になるかどうかも、はっきりとは言えない。だが、生後一週間ほどの新生児がその概念を持っていないことは明らかだから、新生児殺しは許される。そのかわりに、ある種の動物がその概念を持っている疑いは残されると言うのである [14] 。
さて、シンガーは、トゥーリーの議論から大きな影響を受けて独自のパーソン論を構築した。その議論は1993年に刊行された『実践の倫理・第2版』にまとめられている [15] 。シンガーの議論は多岐にわたるが、そのなかからパーソン論に関わる部分をまとめてみたい。シンガーの立場は、利益に対する平等主義である。彼はそれを「様々な利益に対する平等な配慮の原理the principle of equal consideration of interests」と呼んでいる [16] 。もしそこに同じ利益があるのならば、たとえ一方が人間の利益であり、他方が動物の利益であろうとも、その両者には同じ配慮がなされなくてはならないというのである。
シンガーは、存在者を、(1)感覚をそなえていない存在者、(2)感覚のみをそなえている存在者、(3)感覚に加えて自己意識と理性を備えている存在者に区分する。
感覚をそなえていない存在者とは、石ころのような存在物であり、それはどのような利益をも持っていない。「石は苦しみを感じることはないのだから、石は利益を持っていない」 [17] 。すなわち、「もしある存在者が、苦しんだり、喜びや幸せを経験することができないのだとしたら、その存在者を扱うときに考慮すべきことは何ひとつないのである」 [18] 。
感覚のみをそなえている存在者のことを、シンガーは「意識を持つ存在者conscious being」と呼ぶ。すなわち、それは「感覚をそなえており、喜びや痛みを経験することができるのだが、理性や自己意識を持っておらず、したがってパーソンではない」ような存在者である。すなわち、刺激をすれば喜んだり、傷つければ痛みを感じるのだが、自分が将来にむけて存在し続ける主体であることを意識できるような自己意識を持っておらず、理性も持ち合わせていないのである。たとえば、多くの動物たちや人間の胎児や知的障害者などがそれに当たるとシンガーは言う。
感覚に加えて自己意識と理性を備えている存在者のことを、シンガーは「パーソン」と呼ぶ。パーソンとは、「自分自身のことを、過去と将来を持ち、他とははっきり区別される存在として自覚できるような、理性的で自己意識を持った存在者rational and self-conscious beings, aware of themselves as distinct entities with a past and future」のことである [19] 。充分に成長した人間はパーソンであることが多いが、新生児や胎児や知的障害者はパーソンではない。一方、大型の類人猿、とくにチンパンジー、ゴリラ、オランウータンは、パーソンである [20] 。そのほかにもパーソンである動物は存在すると考えられる。
さて、これらの3種類の存在者を「殺すこと」についてシンガーは考察を進める。まず、感覚をそなえていない存在者を殺すことには何の問題もない。
次に、感覚のみをそなえている存在者を殺すことについては、それを殺すときに痛みを与えないように配慮すれば、問題は生じないとする。そして感覚のみをそなえている動物については、功利主義的な配慮をすればよい。すなわち、ある動物が殺されたとしても、同じ種の動物がそのあとで生み出されるとしたら、功利主義的に考えれば利益(幸福)は全体として増えても減ってもいないのだから、我々はなにも悪いことをしたことにはならない。これは人間の胎児にも当てはまる。人間の胎児の場合、痛みに配慮するならば、「少なくとも妊娠18週以前になされる中絶は、それ自体善くも悪くもないmorally neutral」 [21] 。たとえ胎児を殺したとしても、「この(宇宙全体から幸福の総量を減らすという)不正は、同じくらい幸福な生を送るであろう別の胎児を生み出すことによって、相殺することができるcan be counter-balanced」とシンガーは述べる [22] 。
では自己意識と理性をそなえたパーソンについてはどうかと言えば、パーソンは自己意識を持ったそれ固有の生を生きているのであるから、パーソンを殺すことは他のパーソンを生み出すことによっては埋め合わされない。この意味で、パーソンには特別の価値があるとシンガーは言う [23] 。
シンガーは以上の帰結として、トゥーリーと同様に、新生児はパーソンではないから、もっとも近い親族が生を望んでいない場合は、それを殺すことも許され得るとする [24] 。また、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンは、パーソンであるから、それを殺してはならないとする [25] 。以上がシンガーのパーソン論の概観である。シンガーの『実践の倫理・第2版』では、全12章のうち、4章までもが生命を奪うことの議論に費やされている。シンガーのパーソン論も、生命を殺すことがどのようにして正当化されるかという点に焦点を当てた議論だと言ってよいだろう。
さて、「パーソン論」という言葉は日本で作られたのではないかという声を聞くことがあるが、それは事実ではない。英語ではpersonhood argumentあるいはtheory of personhoodという言葉で、トゥーリー以降の議論が参照されることが多い。パーソン論は胎児や新生児の道徳的地位を議論する際の参照概念として大きな影響力を与えたが、同時に様々な批判も受け続けてきた。パーソン論批判の代表的な議論として、トム・L・ビーチャムの1999年の論文「パーソン論の蹉跌」を検討してみたい。
ビーチャムはトゥーリー以降のパーソン論の議論を総覧したうえで、「パーソン」 に関連する概念を3つに区分する。すなわち、(1)形而上学的パーソン、(2)道徳的パーソン、(3)道徳的地位、の3つである。
まず形而上学的パーソンmetaphysical personhoodであるが、これまでの論者たちの意見を総合すれば、(1)自己意識、(2)合理的に行動する能力、(3)言語によるコミュニケーション能力、(4)自由に行動する能力、(5)理性、を持っている存在者が形而上学的パーソンであるとビーチャムはまとめている [26] 。ただし、これらの属性のどれとどれを持っていれば形而上学的パーソンになるかについては、論者によって意見が分かれる。形而上学的パーソンは、人間的属性によって規定されていないので、コンピュータやロボットや遺伝子組み換え種などが形而上学的パーソンになることもあり得る。
次に道徳的パーソンmoral personhoodであるが、ビーチャムは、(1)行為の正邪について道徳的判断を行なう能力を持つ、(2)行為に道徳的な次元の動機がある、の二つの条件を満たす存在者であればそれは道徳的パーソンであろうと述べている [27] 。不道徳な人間であっても道徳的パーソンであり得る。
道徳的地位moral standingとは、道徳的コミュニティのメンバーとして道徳的な配慮を受けられるべき存在者のことである [28] 。たとえば殺されないとか、痛みを与えられないなど配慮をビーチャムは想定している。
ビーチャムはこれら3つの概念を分けたうえで、それらを互いに同一視してはならないと述べる。まず、形而上学的パーソンであっても、道徳的パーソンではない場合がある。たとえばコンピュータや危険な捕食動物や悪魔は、形而上学的パーソンになり得るかもしれないが、けっして道徳的パーソンではない。またそれらの存在者は、いかなる道徳的地位も有していない。であるから、形而上学的パーソンであるからと言って、道徳的地位が保障されるわけではないのである。
次に、道徳的パーソンについては、道徳的パーソンならば道徳的地位を有しているとビーチャムは言う。道徳的パーソンであることは、道徳的地位を有していることの十分条件なのである [29] 。
では、形而上学的パーソンでも、道徳的パーソンでもないような存在者(非パーソン)は道徳的地位を持たないのかと言えば、そうではないとビーチャムは言う。胎児や、重篤な脳損傷患者や、動物たちは、「パーソン」とはまったく別の根拠によって、いくつかの権利を持ち、道徳的地位が保障されるのである。すなわち、それらの非パーソンは、痛みや苦しみを感じる能力を持ち、様々な感情を経験することができる。彼らは、痛みや苦しみを避けること、感情を奪われないことに関する利益を持っているのである。いくらパーソンであっても、これらの権利を踏みにじることは許されない。ここに、痛みや苦しみや感情を持つ存在者に対して害を与えることなかれという指令が根拠づけられるのである。彼らは、このような意味での道徳的地位を有している。たとえパーソンでなくても、道徳的地位はあるのである [30] 。ビーチャムは言及していないが、ここにはシンガーの動物についての議論とほぼ同じ思考が見られる。
ビーチャムはこのように分析したあとで、パーソンの概念を用いずとも道徳性の議論はできるのだから、規範的分析の次元においてはパーソンの概念を用いるのはやめようと提案する。形而上学的パーソンについての概念分析それ自体には意味があるとしても、ある存在者を殺してよいかどうかというような規範的分析の次元においてパーソンの概念を用いるのは無駄だというのである [31] 。ビーチャムはこのようにパーソン論を批判するのであるが、しかしながら、パーソンと非パーソンのあいだに存在する道徳的地位の差異については、それを肯定している。すなわち、非パーソンに対して保障されるのは、いくつかの権利some rightsでしかない [32] 。それは、非パーソンが感じるであろうところの痛みや苦しみや感情に関して害を与えられない権利であり、パーソンが持つところの自己意識や理性に関わる権利は含まれない。この意味で、非パーソンが持つ権利の範囲は、パーソンが持つ権利の範囲よりも縮小されるとビーチャムは考えているように思われる。
3 パーソン論の批判的検討
第一に、パーソン論とは、パーソン論の問いを立てる者と同等の諸権利を持った同類のメンバーの範囲を確定しようとする議論として解釈できる。すなわち、「自分たちはパーソンであって、他のカテゴリの存在者にはないようなもっとも豊かな諸権利(生存権含む)を持っているのであるが、そのパーソンの範囲はどこからどこまでなのか」を追求する議論である。その範囲を確定するための条件として、自己意識や理性などが持ち出されてくる。
パーソン論の問いを立てる者は、次の二つの前提を持っている。すなわち、「いまこの議論をしようとしている自分とその同類はパーソンである」という前提、そして、「パーソンである自分とその同類は他のカテゴリの存在者よりも優越しているはずだ」という前提である。なぜなら、パーソン論で、みずからがパーソンではないという立論をする者は皆無であり、またパーソンは非パーソンよりも少ない権利をしか有していないという立論をする者も皆無だからである。パーソン論者は、論を立てる自分自身がパーソンであり、また自分自身が非パーソンよりも優越しているということをまったく疑っていない。生存権についていえば、パーソン論者自身に生存権がないという結論を出す者も皆無である。パーソン論とは、「優越したこの私たち」の同類を探す作業であると言ってよい。
そのうえで、パーソン論は「優越したこの私たち」とは誰のことであるのかについて考え始めるのだが、そのときに、「優越したこの私たち」とは「知の力を持つ者である」と自己規定するのである。優越の根拠として、「知の力」をもってくるのである。たとえばトゥーリーは、パーソンとは単に自己意識を持っているだけの存在者のことではなく、それに加えて「存在しつづける自己」という「概念」を所有することが必要だと考えた。概念を所有するためには、概念的把握をするための知の力が必要となる。シンガーもまた、パーソンとは理性的で自己意識を持った存在者であるとしている。単に自己意識を持っているだけではダメなのである。トゥーリーやシンガーにおけるパーソンは、私を「思惟する実体」として規定したデカルトの延長線上にあると言える。
したがって、パーソン論とは、「いまこの議論をしようとしている私とその同類はパーソンであり、他のカテゴリの存在者よりも優越しているはずだ」という信念から出発し、なぜ優越しているかと言えば私たちが「知の力」を持っているからだと考え、その「知の力を持った優越した私たち」の同類の範囲はどこからどこまでかを確定しようとする作業であることになる。その範囲を確定するためには、「知の力を持った優越した私たち」と、知的なコミュニケーションができる存在者の範囲を見定めればよい。トゥーリーやシンガーによれば、その範囲は生きている人間の範囲より狭くなり、ある種の動物はその範囲内に含まれることになる。そして「知の力を持った優越した私たち」に対しては(生存権を含んだ)特別の権利を付与すべきであり、それ以外の者の権利は低く見積もられても仕方がないということになる。そして権利を低く見積もられた存在者に対しては、「それを殺してもよいかどうか」という殺戮の吟味の視線が執拗に注がれ、それを殺すことが正当化される条件が緻密に探求されていくのである。以上がパーソン論の構造である。
ここからいくつかのことが分かる。まず、パーソン論の問いを立てる者には、「私が属するカテゴリは他のカテゴリよりも優越している」という信念があるということである。その信念がなければ、パーソン論の問いを立て、その議論を駆動していく動因が生まれない。その信念に哲学的な議論でもって正当化をほどこしていくことがパーソン論である。この点だけに注目して見れば、それは優生学や、人種差別主義者の議論と同型である。
次に、優越の根拠として「知の力」を持ち出す点であるが、これについては次の点に注意しておきたい。それは、パーソン論に議論でもって反対する者もまた、「知の力」を有しているがゆえに、「パーソン」のグループに取り込まれてしまうということである。すなわち、パーソン論に反対するためには、まずはみずからがパーソンの一員であることを認めなければならない、という構造になっているのである。すなわち、パーソン論に反対するためには、みずからをパーソンであると認めたうえで、パーソンは非パーソンより優越しているわけではないと立論するしかない。言い換えれば、「パーソンは非パーソンよりも優越していない」という立論をすることはできるけれども、「私はパーソンではない」という立論をすることは原理的に不可能であるということだ。(この点において、パーソン論は人種差別主義者の議論と異なっている。人種差別主義者の議論に反対するためには、人種差別主義者と同じ人種にみずからを同定しなくてもよいからである)。
パーソン論に対する賛否両論の議論や、パーソンと非パーソンの線引きについての議論ができるのは、パーソンしかいない。パーソン論に関する議論は、徹底して、パーソンによってのみなされる議論なのである。これはミッシェル・フーコーによって洞察された、正常と異常の線引きはつねに正常の側からなされるという命題と同型である。この意味で、パーソン論の議論の駆動そのものが権力の作動であると言える。この論点はさらに深められる必要があるが、それはまた他の機会に譲ることにしたい。
パーソン論の問題点はこれまで様々に議論されてきた。先に紹介したビーチャムの反論や、拙著『生命学への招待』『生命学に何ができるか』における反論などがある。ここでは二つの新たな論点を提出しておきたい。
第1は、パーソン論が「他我問題」を回避しているという点である。パーソン論は、ある存在者が「パーソン」であるための条件として自己意識や理性を持ち出すのだが、その存在者に内的な自己意識が存在するということをどのように確かめればいいのかという哲学的難問を避けて通っている。たとえばトゥーリーは、「諸経験と他の心的状態を持っていること」がパーソンの必要条件であるとするが、ある存在者がそれらの内的経験を持っているということを確証する手段はそもそもない、という有力な議論がある [33] 。もしある存在者の内部に存在する自己意識の実在を、パーソンの必要条件とするならば、我々はけっしてある存在者がパーソンであるか否かを確証することができなくなるというアポリアに陥るのである。この他我問題の罠をパーソン論は逃れられていない。具体的場面に即して言えば、ある存在者に自己意識があるかどうかを、我々はその存在者の外部から行なうテストによってしか測ることができないのであるが、そこで測られるものはその存在者の表面に現われるものでしかない(たとえ脳を直接測定したとしてもそれは脳という表象に現われる何ものかでしかない)。そこで測られたものはけっして自己意識そのものではない。脳外科においては、この難問を避けるために、外部から測定されるものイコール「意識」であると定義する。そのように定義された意識は、当然、ここで論じられているところの「自己意識」ではない。以上の論点は、些末な哲学的揚げ足取りのように見えるかもしれないが、しかしこの難問が存在していることは確かである。
第2は、パーソン論者ですら、首尾一貫したパーソン論を実際に採用するのは難しいという論点である。これはきわめて重要なので、詳しく考えてみたい。
まず、一般人 [34] が、「自分たちと同類」の存在者を確定するときに参照しているものは、けっしてパーソン論が重視するような自己意識や理性だけではない。すなわち、ある存在者が自分たちと同類の存在者であると判断するときに、一般人は、(1)その存在者が人間の細胞でできているかどうか、(2)その存在者が人間の形をしているかどうか、(3)その存在者と自分のあいだに長い時間をかけて培われた関係の歴史性があるかどうか、ということをも重視している。これら3点は、パーソン論者がパーソンの必要条件とはけっして考えないものである。それを確認したうえで、もう少しこの3点について考えてみたい。
まず一般人は、ある存在者が自分たちと同類の存在者であるためには、その存在者が人間の細胞でできていることが必要だと考えがちである。もしその存在者の身体が鉄の素材でできていたり、あるいは植物細胞でできたサボテンのような皮膚で覆われていたりしたら、その存在者を自分たちの同類とはみなさないことが多いであろう。我々は、人間の細胞でできた組織や臓器や皮膚を持った身体を、それ以外の生体とはっきりと区別しがちである。我々はあらゆる動物の肉を調理して食べているのに、人間の肉を食べることはタブーとなっていることからもそれは伺われる。肉体の組成が、人間の細胞からできているように見えることは、その肉体を持った存在者を自分たちの同類とみなすための大きな条件になっているのである。
その存在者の身体が人間の形をしていることも、大事な条件である。たとえば、人間の細胞でできた身体があったとして、もしそれがサッカーボールのような球形であり、手も足も顔もなく、ツルツルした肉塊がただ鼓動しているだけだとしたら、我々はその存在者を自分たちの同類とみなすであろうか。たとえその肉塊の中心部に脳神経系があり、何かの脳活動を行なっていたとしても、それを自分たちの同類の存在者だとは考えない人は多いだろう。あるいは、たしかに人間の細胞からできているのだが、吸盤のついた脚が百本もあるタコのような身体で動き回り、身振り言語で人間たちと原初的なやりとりをし、貝殻を用いた四則計算をする生物がいたとしても、我々の多くはそれを自分たちの同類とはみなさないであろう。重い身体障害や奇形を持った人々が、「健常者は自分たちのことを同類とはみなしてくれない」という嘆きや怒りを発することがあるが、健常者たちのそのような態度の根源にあるものが、この「人間の形」への彼らのこだわりなのである。
さらには、いくら人間の細胞でできて人間の形をしている存在者であったとしても、その人間と自分のあいだになんの関係の歴史性もないとしたら、我々の多くは口では「それは自分たちの同類だ」と言いながらも、その人間を実際に自分たちの同類として道徳的な扱いをしたり、保護したりすることをしないであろう。遠い国で苦しんでいる見も知らぬ人々や、同じ街に住むホームレスの人々に手をさしのべることをせず、今晩の自分の夕食を心からおいしく食べられる人間は非常に多い。ある存在者を自分たちの同類として迎え入れるかどうかを決定するときに大事な条件として働くのが、その存在者と自分のあいだに長い時間をかけて培われた関係の歴史性というものである。
以上の3つのポイントは、ある存在者が自分たちの同類であるかどうかを判断するときに、多くの一般人が参照するだろう要件である。しかしパーソン論者は、この3つをけっしてある存在者が「パーソン」であることの条件とは考えないはずだ。というのも、ある存在者が「パーソン」であるためには、その存在者の細胞が何でできているかとか、その存在者の身体の形がどんなふうであるかとか、その存在者と自分のあいだにどのような関係の歴史性があるかなどが、けっして影響を与えてはならないからである。パーソン論とは、そのような諸属性によって存在者の価値を判定すること自体を徹底して糾弾し、たとえどのような身体を持っていようとも、どのような見かけであろうとも、どのような関係性があろうとも、自己意識と理性がある存在者は平等に扱わなければならないとする論なのである。ここにこそパーソン論の強みがあり、パーソン論のパーソン論たるゆえんがあるのである。
しかしながら私は、上記の3要件によってまったく影響を受けないパーソン論者は実際のところほとんどいないのではないかと予想する。それを裏付けるために、ひとつの思考実験を行なってみたい。
パーソン論者の目前に、ふたつの存在者がいるとする。ひとつは、昨日、知らない住所から郵送されてきた段ボール箱に入っていたサイコロ型の鉄の塊で、スピーカーが一個付いている。パーソン論者が話しかけると、その鉄の塊は、音声で応答する。簡単なテストで確かめたところ、理性的な応答をするし、自己意識もありそうである。どこからかエネルギーを補給して、自律的な思考をしているようである。もうひとつは、パーソン論者の幼い娘(あるいは息子)で、数年間ベッドに横たわっている。自分で動くこともしゃべることもできず、脳に大きな損傷があり、理性的な思考や自己意識があるとは考えられない。今後も理性や自己意識を獲得する可能性はゼロに近い。だがパーソン論者が手を握ると、手を握り返すこともあるし、まばたきをしたり涙を流すこともある。少しずつではあるが成長し、身長も伸びている。福祉サービスの助けを借りながら、いままでケアをしてきた。
いまこの部屋で火事が起きるとする。パーソン論者はどちらか一方の存在者だけしか部屋から助け出すことができない。このとき、パーソン論者はどちらを助け出すべきだろうか。その答えは明瞭である。助けなかった存在者は死んでしまう。パーソンが死んでしまうことと、非パーソンが死んでしまうことを天秤にかければ、非パーソンが死んでしまうことを選択すべし、とするのがパーソン論である。すなわち、パーソン論者は鉄の塊を助け出すべきなのである。
しかしながら、実際にこのような状況になったときに、パーソン論者あるいはパーソン論賛同者のほとんどは、鉄の塊ではなくて、自分の娘(息子)のほうを助け出してしまうのではないか、というのが私の問題提起なのである。ごく少数のラディカリストのパーソン論者を除けば、ほとんどのパーソン論者およびそのシンパは、実際の場面においてみずからのパーソン論を貫徹することができないであろう。なぜなら、彼らのほとんどは実は凡庸な一般人なのであり、実際のところは、(1)人間の細胞でできていること、(2)人間の形をしていること、(3)長い時間をかけて培われてきた関係の歴史性があること、という縛りから抜け出すことができないだろうからである [35] 。
人間と鉄の塊を比較するのは度が過ぎていると言われるかもしれない。では、今度は人間同士の比較を考えてみよう。パーソン論者の目前に、二人の人間がいるとする。ひとりは、生まれたばかりの健康な新生児である。このまま育っていけば自己意識と理性を備えたパーソンになるという意味で、パーソンの潜在性を持っている。もうひとりは、末期癌が進行して全身に転移し、多臓器不全を起こして、もう数時間で心臓が停止することが確実と思われる90歳の高齢者である。まだ意識は明瞭で理性も備えている。尊厳死・安楽死についての意思表示はしていない。パーソン論者は、新生児とも、臨死患者とも、さきほどはじめて出会ったばかりである。ここで部屋に火事が起きたとする。パーソン論者は一人しか助け出すことができない。助けられなかったほうは、死んでしまう。このとき、どちらを助け出すべきだろうか。パーソン論によれば、その答えは明瞭である。非パーソンである新生児よりも、パーソンである余命数時間の臨死患者の高齢者を助け出すべきである。
しかしながら、実際にこのような状況になったときに、パーソン論者あるいはパーソン論賛同者のほとんどは、臨死患者の高齢者よりも、新生児のほうを助け出すのではないか、というのが私の問題提起なのである。なぜかと言えば、残り少ない臨死患者の生存期間の価値よりも、今後パーソンへと育っていろいろな人生の経験をするであろう新生児の潜在的な生存期間の価値のほうを、彼らは重く見るだろうからである。これはパーソン論に反する選択である。パーソン論は、将来パーソンになるであろう「潜在性」に大きな価値を見いだしてはならないとする論であるから、単に潜在性のみを持った新生児を、現にパーソンである臨死患者よりも価値の高い存在者として見ることは許されないのである。だが、それを実際の現場で貫徹できるパーソン論者あるいはパーソン論賛同者はさほど多くないだろう。
以上の思考実験をとおして私が言いたいのは次のことである。すなわちパーソン論者あるいはパーソン論賛同者のほとんどは、ある存在者が人間の細胞でできていること、人間の形をしていること、長い時間をかけて培われてきた関係の歴史性があること、将来パーソンになる潜在性があること、という本来ならば軽視すべき要因に実際の現場では呪縛されて、みずからのパーソン論を貫徹することができないだろうということである。それほどまでに、これらの要因は、人々の価値判断を強く縛り付けているのであると私は予想する。
いやしくもパーソン論者であれば、上記の二つの場面において、実際に、自分の娘(息子)よりも鉄の塊のほうを救い出し、新生児よりも臨死患者のほうを救い出さなくてはならないことは火を見るよりも明らかである。もしそのような選択を実際に行なうことができなければ、その人はパーソン論者とは呼ばれないはずである。その選択をする自信のない者は、パーソン論者の看板を下ろして、さっさと退散するべきであろう。
その選択を行なう自信のある者こそが、真のパーソン論者である。彼らは、みずからの言論と行動とを一致させることのできる見上げた人間である。しかしながら彼らの提唱するパーソン論は、単一原理の首尾一貫性をのみ追求する論理ゲームのようなものであって、多層的な感情やリアリティの狭間で揺れ動き悩んでいる多くの人間たちの指針となる思想を生み出すことができない。
すなわち我々は、ある存在者が自分たちと同類かどうかを判断するときに、自己意識と理性だけではなく、人間の細胞でできているかどうか、人間の形をしているかどうか、長い時間をかけて培われてきた関係の歴史性があるかどうか、将来パーソンになる潜在性があるかどうか [36] 、などの要因をそれぞれ重く見ている。それらの要因が複雑に絡み合うことによって、我々の「自分たちの同類」を見るリアリティは構成されている。パーソン論とは、それら多様な側面をもったリアリティから、自己意識と理性だけを特権的に取り出してきて、それをオールマイティの価値基準とみなして自分たちの同類の範囲の線引きをしようという試みである。それは一つの判断基準によって論を構成するときの首尾一貫性を確保することと引き替えに、我々の多くが実際に絡め取られているところの多層的なリアリティの呪縛の頑強さをとらえそこなった理論であると言える。それは、複雑な要因によって構成された頑強なリアリティに束縛されながら悩みつつ生きる我々の生に深いインパクトと指針を与えることの乏しい、ナルシスティックな論理ゲームとみなされても仕方ないであろう。ここにパーソン論の限界がある。哲学あるいは人間学に問われているのは、この呪縛の頑強さの根源を解明し、その本質を探っていくことではないだろうか。
4 ペルソナ
ここで再度パーソンについて振り返っておく。パーソン論者によれば、パーソンとは自己意識と理性を持った存在者のことであり、その存在者に対してはある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請されるのであった。ここで大事なのは、パーソン概念は普遍妥当性を要求するということである。すなわち、ある存在者が正しい手続きをもってパーソンと認められたとするならば、その存在者は、誰からもパーソンとして承認されなければならない。ある人はその存在者をパーソンと認めるけれども他の人はその存在者をパーソンとして認めない、ということはあってはならないのである。また、パーソンに対してはすべての人が同じ道徳的配慮を行なうことが要請される。ある人はパーソンの生命を保護するけれども、他の人は同じ条件下でパーソンの生命を奪う、ということはあってはならない。このような意味で、パーソンは普遍妥当性を要求する概念である。
これに対して、ペルソナ概念は、そのような意味での普遍妥当性を要求しない。ある存在者がペルソナであるとは、その存在者が「私」に対してペルソナとしてあらわれるということ以上でも以下でもない。私に対してペルソナとしてあらわれた存在者が、他の人に対してペルソナとしてあらわれることがなくても、そこには何の問題もないのである。これはペルソナのもっとも根本的な特徴である。(ペルソナへの道徳的配慮についても普遍妥当性は要求されないが、これに関しては若干込み入った点があるので、別項で論じることにしたい)。
さらにこのようなことも言える。パーソン論とは、トゥーリーやシンガーの議論を想起してみれば明らかなように、人間やそれに類似した存在者のうち、どの存在者を「殺してよい」のか、という点に力点が置かれ、そこに向かって考察が収斂していくような議論であった。パーソン論の主目的は、殺戮の正当化である。これに対して、ペルソナ論(これは以下に述べるような議論である)は、ある存在者が私にとってペルソナとしてあらわれる、という状況の尊厳をいかにして保護し、その尊厳の毀損から守ればいいのかという点に力点が置かれ、そこに向かって考察が収斂していくような議論である。ペルソナ論の主目的は、保護の正当化である。
さて、ペルソナとは何なのかを知るために、具体的なケースを紹介して考えていきたいと思う。私は『生命学に何ができるか』において、次の二つのケースを紹介して論じた。これらのケースから浮かび上がってくるものこそ、ペルソナである。
最初は、渡辺良子さんのケースである。
渡辺さんは新聞の投書欄で書く。自分が脳死状態になったときには、すぐに臓器を提供してほしい。脳死になったら生きている意味はないから、移植に役立てたほうが、家族にも負担をかけなくてすむ。ところが、同じことを言っていた父親が昏睡状態になった。渡辺さんたち家族は、「今、父が持っている生きる力を尊重すること」を選んだ。渡辺さんの文章から引用しよう。
意識のない父の身体にさわって、そのあたたかさを感じることが、現在、唯一の対話である。それは日常の、言葉や表情などを通じてのコミュニケーションとは異質だ。伝わってくるものに、私の感受性は限りなく広く深まっていく。心を平らかにして、避けられない父との別れを受け入れる準備をしていく。
つまり、父のあたたかさのおかげで、私がいやされているといってもいい。今、父が生命を維持している状態は、本人にとっては不本意かもしれないが、手を握り続ける側にとっては有意義なことなのだ。
私自身はドナーになる選択をしたい。だが今回の経験から、もしその時、私の家族が望むなら、私のあたたかさを一日でも一時間でも長く分かち合うことを許そうと思うようになった。今の父のように [38] 。
もうひとつは柳田邦男の文章である。彼は脳死になった息子の温かい手を握り、「洋二郎」と声をかける。水泳のこと、映画のことなどを、思い出すままに語りかける。脳死状態になったあとでも、柳田の目の前にいるのは、「洋二郎」という存在である。「言葉はしゃべらなくても、体が会話してくれる。不思議な気持ちだね」と柳田は語る。実際、柳田が部屋に入ると、脳死状態の息子の血圧が上がる。柳田は次のように書いている。
私と賢一郎がそれぞれに洋二郎にあれこれ言葉をかけると、洋二郎は脳死状態に入っているのに、いままでと同じように体で答えてくれる。それは、まったく不思議な経験だった。おそらく喜びや悲しみを共有してきた家族でなければわからない感覚だろう。科学的に脳死の人はもはや感覚も意識もない死者なのだと説明されても、精神的な命を共有し合ってきた家族にとっては、脳死に陥った愛する者の肉体は、そんな単純なものではないのだということを、私は強烈に感じたのだった [39] 。
この二つのケースにおいて、昏睡状態あるいは脳死状態になった者の身体を前にして、家族は目の前の身体に何ものかのあらわれを感じ、その何ものかとのあいだで言語を用いない「対話」(渡辺)「会話」(柳田)をしている。ここにおいて家族の目の前にあらわれている何ものかのことを、私は「ペルソナ」と呼びたいのである。自己意識もないし、理性ももちろんないような人間の身体のうえにあらわれている何ものかがある。家族はその何ものかと言葉を用いない対話をすることができるように感じる。その何ものかは、長い時間を共有してきた家族以外の人間に対してはあらわれることがないかもしれない。長い時間をかけて培われた関係の歴史性があってはじめて、その何ものかは、その身体を見る者の前にあらわれてくる。そのような関係の歴史性を基盤として、言葉を用いない対話の次元を切り開いてくるような何ものか、それがペルソナである。
英語圏のバイオエシックスにおいては、このペルソナの次元が考察の焦点となることはほとんどなかった。ましてやパーソン論において、ペルソナの次元の重要性が論じられることはない。これに対して、日本の脳死論議においては、ここでいうペルソナの次元の重要性が何度も繰り返し語られてきた。ここに日本の生命倫理の特徴のひとつがあるし、日本の脳死論議が海外の研究者から着目されてきた理由のひとつもここにある。ペルソナの概念とその重要性について本稿で論じ尽くすことはできないが、以下に、ペルソナについていくつかの考察をしておくことにしたい。
ペルソナとは、他人の身体のうえにあらわれたところの、言語を用いない対話をすることのできる何ものかのことである。そのような対話をすることができるのは、ペルソナのあらわれる身体をもった人間と、そのペルソナを感じ取る人間のあいだに、長い時間をかけて培われた関係の歴史性があるからである。その歴史性のなかに堆積した記憶の積み重なりが、ペルソナとなって二つの身体のあいだに立ち上がり、「私とペルソナの対話」として私に感受されるものを、私に経験させるのである。したがって、ある身体にペルソナが立ち上がるかどうかは、その身体と私とのあいだの関係の歴史性に依存する。ある身体が、どんな人に対してもペルソナとして立ち現われるわけではない。ペルソナの立ち上がりは徹底的に個別であり、普遍妥当性は持たない。この意味で、ペルソナは私との個別的な「対関係」のうえに生成してくる何ものかである。したがって、関係性の薄い第三者から見たとき、ある人が目の前の身体にペルソナを感受しているかどうかを直接に確認することはできにくい。その人が目の前の身体にペルソナを感受していると報告したとしても、第三者の目から見れば、その同じ身体になんのペルソナもあらわれていない、ということがあり得るからである。しかしながら、それを理由にして、「その身体が報告者に対してペルソナとしてあらわれている」ということを否定し去ることはできない。ペルソナは普遍妥当性を持たないとは、このことを意味する。これはペルソナの第一原理である。
もちろん、個別的にしかあらわれないペルソナは、共同的な地平でその存在を確認することはできないわけだから、それは単なる個人的な「幻想」にすぎない、という批判があるかもしれない。しかしその批判を認めてしまえば、たとえば共同的な地平はおろか、対面的な場面においてもその存在を確認することが原理的にできない「他我」は実在ではなく、個人的な「幻想」にすぎないということになるが、それでもよいのだろうか。すなわち、ここでのポイントは、「たったひとりにしか開かれてこないリアリティ」というものの実在性を認めるかどうか、というところにある。ペルソナの「たったひとりにしか開かれてこないリアリティ」というものを、LSD(ドラッグ)によるトリップ体験に似たものとして理解する人がいるかもしれない。もちろん、個人的にしか開けてこない経験であるという点においては、この二つは似ているかもしれない。だが、LSDの場合は薬を利用したきわめて操作的な経験であるのに対し、ペルソナの場合は薬なしで達成され、日常の隅々に我々が感受し得るものである。それは非日常的な変性意識状態において経験されるものではなく、たとえば愛児の死後の淡々とした日常の風景のなかに置かれたその子の形見の衣服のうえに静かに浮かび上がるものなのである。
では、ペルソナは場所的にはどこに存在しているのだろうか。ペルソナが立ち現われる人間の身体の内部にあるのか、外部にあるのか。ペルソナが存在する場所を強いて言うならば、それはペルソナが立ち現われる身体の外面から、それを感受する私の脳までのあいだのどこかの地点あるいはその二者を結ぶ線分のすべての点だということになるだろう。ペルソナは、目の前の身体と私のあいだに立ち現われる。二者のあいだで長い時間をかけて培われた関係の歴史性を素材としながら、ペルソナはちょうど回転する粘土から壺が生成してくるように、二者のあいだに自分の力によっておのずから生成してくるのである。ペルソナとは関係性のうえに自力で生成してくる何ものかである。ペルソナは関係性と無縁に実在する実体ではない。
私はペルソナが立ち現われるところの身体を見ることができるし、その身体に触ることができる。身体は物質としてそこに存在しているからである。しかしながら、私はその身体のうえに立ち現われるところのペルソナそれ自体を、視覚像として見ることもできないし、それに触ることもできないし、対話を音波として聞くこともできない。ペルソナそれ自体を、私は見ることもできず、触れることもできず、聞くこともできないにもかかわらず、私は目の前の身体に立ち現われたペルソナを全身で感受し、ペルソナと言葉を用いない対話をすることができる。ここにペルソナの存在の謎がある。(先走って言えば、ペルソナは、意識あるあなたと私が言葉でしゃべっているときにも、私とあなたのあいだに立ち現われてきていると言えるのである。ここにおいて再びこの問題は哲学的他我問題・他者問題に接続する)。
さきほどの渡辺と柳田のケースを思い起こしてほしいのだが、彼らはペルソナとの対話を無理やり自分から作り出しているわけではない。目の前にペルソナがあらわれ、そのペルソナと自分のあいだで、自然と対話がはじまっているのである。そもそも我々は、なんの愛着もない物体と対話しようという気にはならない。彼らがペルソナと対話をはじめてしまっているのは、ペルソナの側に、彼らとの対話をうながしてくるような迫力が備わっているということになる。ペルソナは、それに向かう者に対して、対話をうながすような迫力をもって迫ってくる何ものかである。それに向かい合うことによって、対話への衝動が思わずかき立てられてしまうような何ものか、それがペルソナである。この迫力を準備するものこそが「長い時間をかけて培われた関係の歴史性」である。(向こうから迫ってくる迫力、あるいは対話(応答)を迫ってくる何ものかの到来、という面に焦点を当てれば、ペルソナは哲学的な意味での「他者」であると言うことができる。これは拙著『生命学に何ができるか』で論じた「他者論的リアリティ」と接続するものである。)
ペルソナは対話をうながすような迫力をもっているだけではない。もしペルソナが立ち現われているところの身体が毀損されたり侵襲を受ければ、そのペルソナを感受している人もまた自分自身が毀損されたり侵襲を受けるような経験をすることだろう。脳死状態になった子どもがまだ生きていると語る家族は、その子どもの身体にメスが入ることを、あたかも自分自身が切り刻まれる出来事であるかのように語ることがある。ペルソナとペルソナを感受する者のあいだには、このような共振状態が成立していると考えられる。ペルソナは、ペルソナを感受する者の心身の内部へと深く食い込んでいる。このような「食い込み」がペルソナの大きな特徴である [40] 。この意味での食い込みは、すべての人間を対象に起きるわけではない。戦場で撃たれて倒れる敵兵を見てガッツポーズしている人に対して、敵兵は「食い込み」を起こしておらず、したがって敵兵はその人に対してペルソナとしてあらわれていない。これに対して、自分の愛する人のかけがえのない肖像画を目の前でナイフで切り刻まれたときに、自分自身が切り刻まれたような経験をしたとしたら、そのときこの肖像画は私に対して「食い込み」を起こしており、ペルソナとして私にあらわれていたと言える。ここから分かることは、ちょうどパーソンの外延が人間からずれているように、ペルソナの外延もまた人間からずれているということである。ペルソナがあらわれる対象の範囲は、生きている人間の身体にとどまらず、死んだ人間の身体や、人間以外の生物や無生物にまで広がることができる。また、記憶や思い出のなかにペルソナが出現することもあるが、その場合はペルソナが立ち現われるところの身体は存在していない。目の前の身体にあらわれたペルソナと、記憶や思い出のなかにあらわれたペルソナは、ともにペルソナであるが、その質において違いがあると言える [41] 。
ペルソナが、それを感受する者に「食い込み」を起こしているということは、言い換えれば、ペルソナはそれを感受する者の一部になってしまっているということである。ペルソナが私に対してありありとあらわれているとき、ペルソナは私の一部になってしまっており、それなしでは私は私として成立しないというところまで食い込んでいるのである。ペルソナが開く次元とは、結局のところ、ここまで私に食い込んでくるところのペルソナに対する愛憎をどうしていくのかという次元である。愛する者についてはそれを大切にし、保護し、毀損から守ろうとするのが人間の心理であろうし、憎む者についてはそれを捨てようとし、逃れようとし、それを消滅させよう、復讐しようとするのが人間の心理であろう。またその次元とは、私がペルソナと出会い、別れ、再会するという出来事が生じる次元でもある。たとえば妊娠、出産、子育てのプロセスにおいて私はペルソナに徐々に出会い、老いて死んで灰になっていくプロセスにおいて私はペルソナと徐々に別れ、その人が残していった形見や痕跡に触れるときにペルソナに再会する。そのような心理の次元において、ペルソナの本質とは何かを解明し、ペルソナに対する対応の仕方を考察し、そしてペルソナとペルソナを感受する者の「対」を社会の中でどう取り扱えばいいかを考えるのがペルソナ論の役目となるだろう。
生命倫理の場面に話を戻せば、ペルソナ論がまず集中して考察すべきは、昏睡状態の患者、新生児、胎児などにペルソナがあらわれているとはどういうことかを解明することと、ペルソナの尊厳をどうすれば守ることができるのかを考察することの2つである。
昏睡状態の患者や脳死患者にペルソナがあらわれている場合を考えてみよう。前述した渡辺と柳田のケースにも明らかなように、ペルソナを感受する者は、ペルソナと言葉を用いない対話をするという経験をしている。そしてそのような対話ができるのであるから、ペルソナを感受する者は、ペルソナのあらわれた身体はまだ「生きている」とみなすことが多いのである。このような報告は他の類似のケースでもよく見られる [42] 。このときの「生きている」という判断は、単に生物学的な見地から見て生きていると言っているのではない。この「生きている」という言葉の中には、「こうやってありありと対話することができるペルソナがそこに実在する」という意味が含まれている。近年の脳死の医学の進展によって、たとえ脳死状態になったとしても、生物としての全身の統合状態は維持され、手足が動き、心臓が長期にわたって鼓動を続けるケースがあり、脳死の子どもの場合は身長が伸びる、ということが分かってきている。これらを根拠にして、脳死状態は生物学的に見たとしても「死んだ」とは言えないとする議論も起きている。脳死患者の家族が、脳死患者は「生きている」と言うとき、このような生物学的な見地からのみ言っているわけではない。そういった生物学的な兆候によって活性化されて立ち現われたペルソナがそこに実在するとしか思えないから、家族は「脳死患者は生きている」と言っているのである。したがって、脳死は生か死かという論点を考えるときに、ここで提起したペルソナの問題は避けて通れないのである。と同時に、これは心臓死に至って冷たくなった身体に対しても当てはまることである。家族が、冷たくなった身体にペルソナを感受している場合があり得る。新宗教の信者が、ミイラ化した家族の身体をずっとそばに置いて、まだ生きていると主張することがあるが、その場合、家族はミイラに対してペルソナを感受していると言えるかもしれない(この論点はまた別稿で詳細に考えなければならない)。
脳死の現場において、ペルソナの尊厳を守るためは、まず脳死患者にペルソナを感受している家族のリアリティをまわりの者が尊重する必要がある。「科学的に見て脳死は死であり、それを生きていると思うのは非科学的であって、あなたの錯覚だ」というような決めつけをして、家族のリアリティを否定しないことである。ペルソナの尊厳を守るとは、ペルソナがあらわれている身体と、ペルソナを感受している人間の「対」の関係性のあり方をそのまま尊重し、その関係性を外部から暴力的に破壊しないように気を配るということである。ある人がペルソナを感受しているというその状況それ自体を守ることである。私は『脳死の人』において、「家族による脳死の人の看取りを援助すること」 [43] の重要性を強調したが、それはまさに、家族が脳死の人にペルソナを感受しているときに、その感受の状況それ自体を守りながら看取りをサポートするということなのである。
したがって、生命倫理においては、ペルソナ論の力点はペルソナの尊厳を守ること、すなわちペルソナとそれを感受する者の「対」を守り、それを暴力的に毀損してこようとする勢力から保護することに置かれることになるだろう。ペルソナ論は、こうして、ペルソナを生成させている関係性の保護に向かってまずは収斂していく。
ここで注目すべき点は、ペルソナの尊厳を守ることは、すなわちペルソナとそれを感受している人の「対関係の尊厳」を守ることに直結する、ということである。ペルソナは関係性を離れて実在する実体ではないのだから、ペルソナを守ることはすなわちペルソナを生成させている関係性それ自体を守ることなのである。ここに何かの興味深い論点が潜んでいる。
以前に引用した箇所で、シンガーは以下のように述べていた。「石は苦しみを感じることはないのだから、石は利益を持っていない」。「もしある存在者が、苦しんだり、喜びや幸せを経験することができないのだとしたら、その存在者を扱うときに考慮すべきことは何ひとつないのである」。ペルソナ論からすれば、シンガーのこの考え方は誤っていることになる。すなわち、石それ自体は苦しみや喜びを経験することはできないとしても、愛着のある石にペルソナを感受する者がいたとしたら、その者はその石の扱われ方に対して苦しみを感じたり、喜びを感じたりするはずである。であるから、たとえ石それ自体は苦しみや喜びを持たないとしても、その石とペルソナ的関係性を取り結んでいる人がいる場合は、我々は彼らの「対関係の尊厳」を守る配慮をすることが要請される。この意味において、「その存在者を扱うときに考慮すべきことは何ひとつないのである there is nothing to be taken into account」 [44] というシンガーの言葉は、間違っていると言えるだろう。
ペルソナについて気をつけておかなければならないことは、たとえばある人間が私にとってペルソナとしてあらわれないとき、私はその人間に対してきわめて冷淡になってしまうという点である。ペルソナを保護しなければならないという指向性が反転すれば、もしある人間がペルソナでなければ保護しなくてもいいという結論が導かれてしまう。このことをどう考えればいいのだろうか。これは難問であり、別稿で詳論しなければならないテーマであるが、ここで少しだけ触れておきたい。
私にペルソナとしてあらわれない人間を、私がペルソナであるかのように扱うべき義務はない。そのかわりに、もしその人間がパーソンであるのなら、その人間はパーソンが当然受けるべき道徳的配慮を人々から受ける権利(たとえば意見表明の機会を与えられる権利など)を持っているはずである。このようにして、ペルソナの網から漏れ落ちてしまう者については、パーソンの網ですくい取る必要がある。(パーソン論の力点は殺すことの正当化にあるのだから、このように存在者を保護するためにパーソン概念を使用するのは、いささか逸脱したパーソン論と言えるかもしれない)。またその人間がパーソンでないとしたら、そのときその人間は一種のヒューマニズムによってすくい取られなければならない。ここで言うヒューマニズムとは、ある存在者が人間であるというその理由だけで人々に要求できるものがあるという考え方である。これについては別稿で詳述したのでそれを参照してほしい [45] 。
さらに考察を進めるならば、ペルソナは他人の身体にあらわれるばかりでなく、私自身の心身感覚のうえにもまたペルソナがあらわれている、ということが分かるであろう。他人の身体のうえに「他者のペルソナ」があらわれて、それを私が感受するのだが、それと同じようなことが私に対しても生じる。すなわち、私の心身感覚のうえに「私のペルソナ」があらわれて、それを私が感受するということが起きるのである。では「私のペルソナ」とは、具体的にはいったいどういうものなのだろうか。
他者のペルソナとは、他者の身体のうえにあらわれたところの、言語を用いない対話をすることのできる何ものかのことであった。とすれば、私のペルソナとは、私の身体や内的経験のうえにあらわれたところの、私と言語を用いない対話をすることのできる何ものかのことだ、ということになる。すなわち、私の内側にあって、私と「自己との対話」を可能にするような何ものかのことを、私のペルソナと呼ぶのである。
たとえば、私が即興でピアノを弾いているときに、私は即興的に動く指の行き先を、予言的に予測することはできない。指の動きは私の予測のパースペクティヴを追い抜いていき、指によって先行的に弾かれていくその流れを、あとから私の意識が追いかけていくという状況が生成することがある。これは、自分の心身が私に向かって語りかけてくる経験として、私に感受される。その先行する流れを聴きながら、今度は私が意図的に音を作り出していく。このようなやりとりが絡まり合って、即興演奏は進んでいくのである。ここで起きていること、これが演奏における自己との対話なのであるが、このときに私が対話しているところの、ダイナミックに動いていく相手こそが、私のペルソナなのである。このとき私は、私のペルソナと、音声言語・書写言語を用いた対話を行なっていない。これもまた、他者の身体にあらわれるペルソナの場合と同じである。
似たようなことは、スポーツにおいても生じているはずである。野球のバッターが打席に立って、スタンスを確かめながらバットを回して自分の重心を探しているとき、バッターは、打撃へと形を整えていく私の心身感覚のうえに立ち現われた私のペルソナとダイナミックな対話をしていると言える。バッターである私は、私の心身感覚のうえにあらわれた私のペルソナとダイナミックな対話を行ないながら、投手へと立ち向かうのである。同じようなことは、我々の日常活動のあらゆるところに見出されるはずである [46] 。急いで注釈しておくと、私のペルソナとは、私の「自己像」のことではない。私の自己像とは、私が鏡で自分を見たときに見出されるような静的な自己イメージのことである。あるいは、私が他者の目で自分を振り返ったときに私に与えられるところの、静的な人格イメージのことである。私のペルソナは、対象化されたそのような静的なイメージのことではない。私のペルソナとは、私がじかに対話しているところの、つねに動いていくダイナミックな何ものかのことである。それはちょうどぬるぬると動いている生き物のような何ものかとして直接に心身感覚でつかまえることができるものである。
だとすると、今度は、その「他者のペルソナ」や「私のペルソナ」を感受しているところの「私」とは、いったい何なのかという問いが生起することになる。ここから先は、ペルソナの哲学という巨大な問題系が開かれていくのだが、その見通しだけを書いておくと、「他者のペルソナ」や「私のペルソナ」を感受しているところのものは、もはや人称的存在者ではないという考え方があり得る。人称的存在者ではない世界に、他者のペルソナと、私のペルソナが立ち上がる。この構図は、フッサールの発生的現象学に似た構図を持っておりながら、それに回収されない重要な側面をはらんでいるように見える。これは他我問題を経由して、広大な人称的世界の哲学へとつながっていく地平であろう。
5 おわりに
ペルソナ論は、実は生命をめぐるもうひとつの議論(私はそれを「まるごと論」と呼んでいる [48] )と接続しなければ完結しないようになっている。その議論もまた、次の課題として残しておくことにして、本稿をひとまず閉じることにしたい。
文献
Beauchamp, Tom L., 1999, “The Failure of Theories of Personhood,” Kennedy Institute of Ethics Journal, Vol.9, No.4:309-324.
江口聡 1994 「安楽死問題」『実践哲学研究』17:56-66.
--------, 2007, 「国内の生命倫理学における「パーソン論」の受容」『現代社会研究』京都女子大学、10:1-14.
藤原史和・藤原康子1993 『飛翔』自費出版
森岡正博 1988 『生命学への招待』勁草書房
--------, 1989, 『脳死の人』法藏館
--------, 2001, 『生命学に何ができるか』勁草書房
Morioka, Masahiro, 2010, “Natural Right to Grow and Die in the Form of Wholeness,” (Tentative title, in press), Diogenes.
Singer, Peter, 1993, Practical Ethics 2nd ed. Cambridge University Press.
杉本健郎・浩好・千尋 1986 『着たかもしれない制服』波書房
Tooley, Michael, 1972, “Abortion and Infanticide,” Philosophy and Public Affairs, 2:37-65. (マイケル・トゥーリー(森岡正博訳)「嬰児は人格を持つか」加藤尚武、飯田亘之(監訳)『バイオエシックスの基礎』東海大学出版、1998:94-110.)
--------, 1983, Abortion and Infanticide. Oxford: Clarendon Press.
--------, 1984, “In Defense of Abortion and Infanticide,” in Joel Feinberg (ed.), The Problem of Abortion 2nd ed. Wadsworth Publishing Company.
柳田邦男 1995 『犠牲』文藝春秋
[1] Tooley (1972)。翻訳は抄訳である。ちなみに江口 (2007) は、この「胎児は人格を持つか」という邦訳はミスリーディングであると正しく指摘している(4頁)。翻訳者であった私は直訳「中絶と新生児殺し」をタイトルとして出稿したが、最終タイトルの決定には関与しなかったことを証言しておきたい。
[2] ただし、江口が「私がこれまでに見た英語圏の生命倫理学の文献において、エンゲルハートが引用・参照されることは少ない」と書く点については、いささか疑問もある。本稿でも検討するパーソン論の論考のTooley (1983)、Beauchamp (1999) はともにエンゲルハートを文献一覧に挙げている。
[3] このほかエンゲルハートJR、プチェッティらのパーソン論にも触れる必要があるが、これらについては拙著『生命学への招待』『生命学に何ができるか』で簡単に検討したので、そちらを参照してほしい。
[4] 改稿論文と著書のいずれが先に書かれたものであるかは判然としない。改稿論文中に、著書への論及があるので改稿論文が後に書かれたと思われるが、改稿論文は多人数による論文集に収められているので、改稿論文が著書よりも先に書かれた可能性もある。
[5] Tooley(1972), p.37.
[6] Tooley (1972), p.40.
[7] Tooley (1972), p.43.
[8] Tooley (1972), p.44.
[9] Tooley (1972), p.44. “An organism possesses a serious right to life only if it possesses the concept of a self as a continuing subject of experiences and other mental states, and believes that it is itself such a continuing entity.” 意訳すれば、「ある生物が、いろんな経験や心の中のあれこれの思いを持続して持ち続ける主体という意味での自己という概念を持っていて、かつ自分がそういう主体であると信じているとしたら、そのときにかぎってその生物は生存する厳粛な権利を持っていると言える」ということであろう。
[10] Tooley (1972), pp.63-65.
[11] Tooley (1984), p.132.
[12] Tooley (1983), p.87.
[13] Tooley (1983), pp.419-420.
[14] Tooley (1983), p.133.
[15] この著書の初版は1979年に刊行されている。多方面からの反響や批判に応えるために第2版が刊行された。シンガーの立論については、江口(1994)も参考になる。
[16] Singer, p.21.
[17] Singer, p.57.
[18] Singer, pp.57-58.
[19] Singer, pp.110-111.
[20] Singer, p.118.
[21] Singer, p.166.
[22] Singer, p.125.
[23] Singer, p.117.
[24] Singer, p.173.
[25] Singer, p.132.
[26] Beauchamp, p.311.
[27] Beauchamp, p.315.
[28] Beauchamp, p.315.
[29] Beauchamp, p.315.
[30] Beauchamp, p.316-317.
[31] Beauchamp. P.319.
[32] Beauchamp, p.316.
[33] ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』において、その確証不可能性を「言語ゲーム」の概念で示した。フッサールは『デカルト的省察』において、モナド論による形而上学の構築によってしかその地点には至れないことを示した。
[34] ここで言う「一般人」とは、「パーソン論」に対して違和感を感じ、その理屈をみずからの行動の指針にはしないであろう人々のことを指す。
[35] エンゲルハートJRは「社会的パーソン」を提唱しているが、それに従えば、娘は社会的パーソンである。しかしパーソン論の見地からすれば、社会的パーソンと真正なパーソンを天秤にかければ、真正なパーソンを救うべきであることは明白であろう。森岡 (2001) 参照。
[36] 「潜在性」については、すでにこの分野で充分な議論な積み重ねられてきているので、本稿ではあえて論じなかった。
[37] 生命倫理の議論で「ペルソナ」を「パーソン」と区別して論じるのは、本稿がおそらく最初であると思われる。先行事例をご存じの方がおられたらぜひご教示いただきたい。
[38] 森岡正博 (2001)、67頁。
[39] 柳田邦男、129頁。
[40] この「食い込み」は、メルロ=ポンティの「間身体性」、小松美彦の「共鳴する死」の概念と深い関係にある。後二者については森岡正博 (2001) 参照。
[41] すなわち、それが立ち現われるところの身体や物体にリンクしているペルソナと、それらに一切リンクしていないペルソナの二種類があるように思われる。今後の研究課題にしたい。
[42] たとえば、杉本健郎・浩好・千尋 (1986)、藤原史和・藤原康子 (1993) など。
[43] 森岡正博 (1989)、42頁。
[44] Singer, pp.57-58.
[45] Morioka (2010).
[46] この考え方は、フッサールやメルロ=ポンティが片方の手でもう片方の手を触るというシチュエーションで発見したものや、アフォーダンスと言われる知見などと接続するものである。
[47] ブーバー、ハイデガー、メルロ=ポンティ、レヴィナスらを念頭に置いている。
[48] 「まるごと論」は、前註の拙論で展開した。日本語では、NHK「視点論点」(2009年)で放映された私の発言記録にその概要が見られる。<http://www.lifestudies.org/jp/marugoto.htm>