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作成:森岡正博 
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2000年9月4日 『毎日新聞』日刊掲載文化欄 <21世紀>への視点
大切な「本人の意思」原則
―臓器移植法改正への懸念
  
森岡正博

入力ボランティア:yukikoさん

 

 さる八月二十二日に、厚生省の研究班の班員である町野朔・上智大教授が、現行の臓器移植法を改正する案を作成して、厚生省に提出した。臓器移植法は、今年の秋から見直しの論議にはいることが予定されており、それに向けてのステップだと考えられる。
 私は、今年の二月から、町野改正案に対する反対を表明しており、『論座』八月号では町野氏と激論を行った。私の立場は、現行の臓器移植法の大原則である「本人の意思」原則は変更するべきではないというものである。これに対して町野案は、この大原則を崩して、脳死の人からできるだけ多くの臓器を取ろうというものだ。
 ところで、身近な人々に聞いてみても、臓器移植法が改正されるかもしれないということを、知っているのはごくわずかである。なるべく多くの人々に今回の見直しについて知っていただき、それぞれ自分自身の問題として考えて欲しい。そのうえで、もう一度、脳死と臓器移植法について、国民的議論を行うべきであると思う。
 そもそも、なぜ臓器移植法の改正の動きが出てきたのだろうか。それを理解するためには現行の臓器移植法の仕組みを知っておかなければならない。
 臓器移植法では、@脳死になった本人が、あらかじめドナーカード等によって、脳死で死を判定してよいという意思表示をしていること、A脳死になった本人が、移植のために臓器摘出をしてよいという意思表示をしていること、B家族(遺族)がそれを拒まないこと、の三つの条件が満たされたときにのみ、脳死の人からの臓器摘出ができると定められている。
 ここで注目すべきは、脳死になった人の「本人の意思」を前提条件としている点である。これは「本人の意思」原則と呼ばれるもので、脳死臨調において確認された日本の臓器移植の大原則なのだ。私の生と死に最終的な責任を持つのは、ほかならぬ私自身だという思想がここにはある。
 「私は脳死を人の死だと思うし、移植によって病気の人を助けてあげたい」という明確な意思を持った人から臓器を摘出し、移植に役立てる。そのかわりに、そのような意思があったのかどうか分からない者からの臓器摘出はけっして行わない。このように明記している点において、日本の臓器移植法は、脳死を経て死んでいく者の「人間の尊厳」を世界で最も尊重する法律なのである(他国では、家族の承諾があれば移植できる)。
 ところが、「本人の意思」原則を前提条件にしているわけだから、ドナーカードを書かずに脳死になった人からは、臓器摘出ができないことになる。臓器を待っている人はたくさんいるわけだから、これは都合悪い、という意見が出てきた。それらの声を受けて、「本人の意思」原則をはずして、もっと臓器が出やすくなるように法律を改正してはどうかという動きが出てきたのである。これが冒頭に紹介した町野案なのだ。
 町野案が、もし国会で通ってしまうとどうなるのだろうか。まず、「脳死=人の死」ということが、法律で一義的に決められることになる。現行法では、脳死を人の死と思わない人は、けっして自分の死を脳死で判定されることはない。脳死を死と考えない権利が守られている。ところが、町野案になれば、脳死が人の死として強制される。
 第二に、脳死になったときに臓器を取られたくない人は、あらかじめドナーカード等によって「私はいやだ」と意思表示しておくことが義務づけられる。もし、いやだという意思表示をせずに脳死になった場合は、法律によって「あらかじめ臓器提供に自己決定して死んだ」ものと見なされてしまう。あとは、家族さえ承諾を与えれば、臓器は本人の意思とは無関係に摘出されてしまうのである。
 このように、厚生省に提出された町野改正案は、脳死を人の死と考えない人(日本人全体の約三割)の権利を踏みにじるものであると同時に、本人の意に反した臓器摘出を一定の確率で生じさせる危険性をはらんだ、拙速きわまりないものである。
 世界中で「臓器不足」と呼ばれる現象がある。臓器不足を解消したいのなら、このような法律改正によってではなく、正しい知識をともなったドナーカードの地道な普及によって解決していくべきである。
 もう一つの論点としては、十五歳未満の脳死の子どもからの心臓摘出が、日本の臓器移植法ではできないということがある。これに関しては、子どもにもドナーカードで意思表示することを許容してはどうかと私は考えている。子どもの場合でも、「本人の意思」原則は貫くべきであろう。年齢設定等については、今後、議論を続けていきたい。
 十年以上の議論を経て獲得した「本人の意思」原則を、われわれはもっと大切にするべきだ。そのうえで地道に臓器移植の可能性を考えていくのが、われわれの義務なのではないだろうか。