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作成:森岡正博 
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脳死の人

 

森岡正博『脳死の人』法藏館、初版1989年、決定版2000年

253〜268頁 (傍点・文字飾りは省略 後ほど公開される縦書きのPDF版では完全なレイアウトが見られます)

 

子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を
−三年目を迎えた臓器移植法−

 脳死の人からの臓器移植が、昨年(一九九九年)再開され、四例の脳死移植が行なわれた。関係者のあいだでは、現行の臓器移植法を改正し、条件をゆるめて、移植用の臓器がもっとたくさん出るようにするべきだという意見が語られるようになった。
 背景には、「臓器不足」と呼ばれる状況がある。移植を待っている患者の数にくらべて、ドナーカードをもって脳死になる人の数がとても少ないから、移植を待っている患者に臓器が行き渡らない。これは世界的な現象である。日本の臓器移植法は、世界的に見てもかなりきびしい条件を課しているから、さらに移植用臓器の数は少なくなる。

 それに加えて、現行の臓器移植法の運用指針(ガイドライン)には、十五歳未満の子どもが脳死になったとしても、その子どもから臓器を取り出すことができないという規定がある。肝臓などは大人のものを分割して子どもに移植することができるが、心臓については、そうはいかない。なぜなら、大人の心臓は大きすぎて、身体の小さな子どもには移植できないからである。子どもへの心臓移植には、脳死の子どもの心臓を使うしかない。

 だから、現行の臓器移植法を改正して、

(1)脳死になった本人がドナーカードをもっていなくても、家族の同意があれば移植できるようにする

(2)親の同意があれば、十五歳未満の脳死の子どもからも移植ができるようにする

という改正案が浮上しようとしている。臓器移植法の付則第二条には、「施行後、三年を目途として必要な措置が講ぜられるべきものとする」と明記されている。臓器移植法の施行が一九九七年であるから、三年後とは、ちょうど今年、二〇〇〇年のことである。

 昨年四月、厚生省研究班「臓器移植の法的事項に関する研究」グループ(分担研究者、町野朔・上智大教授)は、研究報告書概要をまとめ、脳死した本人が意思表示をしていない場合、家族が書面で同意すれば移植できるという条項を追加することを提言した。

 この条項を追加すれば、自動的に、十五歳未満の子どもからの移植についても、親の承諾だけで可能となる道が開ける。この案が、具体的な改正案として正式に姿を現すのは、時間の問題であると思われる。

 私は、この改正案に反対する(この改正案はまだ然るべき場所で正式に表明されているわけではないが、右の二点を主張する見解のことを、以下暫定的に、「改正案」と呼ぶことにしたい)。

 (1)については現行法の条件を堅持するべきであり、(2)については子どもの意見表明を条件とすることが必要である。これは、さらに「児童の権利条約」とも密接に関連することとなるだろう。

 本稿では、私の反対理由を述べ、これからの「国民的議論」に一石を投じたい。この社会を運営していくための「ものの考え方」について、われわれは徹底した議論をここで重ねておくべきであると思うからである。

臓器は「みすみす捨てられる」という考え方

 臓器移植法は、一九九七年六月に成立した。その精神は、一九九二年に提出された脳死臨調の最終答申を受け継いでいる。脳死臨調は、脳死になった本人の意思が最大限に尊重されなければならないという基本的な考え方を示した。なぜなら、脳死の人の善意を活かす医療こそが移植だからである。
 この点をめぐって、その後、紆余曲折があったが、結果的に、臓器移植法は、本人の意思を前提条件とするかたちで制定されたのであった。

 現行の臓器移植法は、脳死移植の条件として、次の三つを課している。

(1)脳死になった本人が、事前に、自分の死を脳死で判定してよいという意思表示を書面(ドナーカード)でしていること。

(2)脳死になった本人が、事前に、脳死状態で臓器提供をしてよいという意思表示を書面(ドナーカード)でしていること。

(3)家族(遺族)がそれらを拒まないこと[家族(遺族)がいないときは(1)(2)のみでよい]。

 これら三つの条件を、すべてクリアしないかぎり、脳死の人からの臓器移植はできない。つまり、交通事故などで誰かが脳死状態になったとしても、まずその人がドナーカードをもっていて、(1)脳死判定について同意しており、(2)脳死状態からの移植にも同意しており、かつ、(3)家族が脳死判定と移植とを拒まないときにはじめて、移植が可能になるわけである。これは、たしかに、かなりきびしい条件を課したものだと言えるだろう。

 しかし、私は、もし脳死移植を実施するのならば、この三つの条件は不動の前提としなければならないと考える。なぜなら、脳死移植は、そこに関与するすべての人々が納得するかたちで行なわれなければならないからである。「そんなはずではなかった」と言う人がぜったいに出ないようにしなければならないのだ。そのためには、この三つの条件が必須だからである。

 ところが、改正案は、脳死になった人がドナーカードをもっていない場合には、家族の承諾さえあれば移植できるようにしたいと主張する。なぜなら、改正案の論者が言うように、現実には、脳死になる人のほとんどは、ドナーカードをもっていない。だから、脳死になった人の臓器は、ほとんどの場合、「みすみす捨てられる」のである。もし、残された家族の承諾で移植ができるように法改正されたとするならば、脳死になった人からの臓器提供の数が、劇的に増加するはずだ。そして「臓器不足」の解消にも役立つだろうというわけである。

 しかし、このような形で脳死移植の制限を緩めることは、臓器移植の精神に反すると私は考える。思い起こしてみよう。脳死の人からの臓器移植は、そもそもどういう考え方から始まったのであったか。

 自分が脳死になったときに、自分のまだ生きている臓器を、病気に苦しむ他の患者さんに役立ててほしいという、脳死の人の「暖かい善意」を活かすために、はじまったことではなかったのか。血の通っている身体から生きた心臓を取り出すという手術が正当化されるのも、そのような本人の貴重な意思があるからこそ、ではなかったのか。これこそが、脳死の人からの臓器移植が正当化され得る唯一の原則であったはずだ。

 脳死の人からの臓器移植が許されるのは、本人が移植の意思表示をしていた場合に限られるべきである。いくら臓器不足であれ、たくさんの臓器がみすみす捨てられるのであれ、そういった理由でこの原則を崩してはならない。移植に役立てたいという本人の明確な意思を、まわりの人間たちが活かすことのみを、脳死移植と呼ぶべきである。従って、私は、本人の意思が不明の場合には家族の承諾で移植ができるようにするという改正案には断固反対する。

 本人の意思が不明の場合は、脳死の人の身体の中にある臓器は、そのまま、そっと、脳死の人とともに大地に返すべきである。その臓器は、誰にも利用されずに大地に帰る権利をもっているとすら私は思う。

 もちろん、移植を待ち望んでいる患者さんの生きる権利はどうなるのかという反論もあるだろうが、その権利が行使され得るのは、ドナーの意思が確認された場合に限定されるべきだ。臓器提供の意思が確認されていないドナーの臓器を使って、自分が生きのびる権利というものを、人はもっていないはずである。

 ドナーカードをもっていない人の中には、脳死判定や臓器提供をしたくない人も多数含まれているだろう。もし、この改正案が通れば、臓器提供をほんとうは望んでいないのに、自分の意見を書いたドナーカードを所持していなかったというそれだけの理由で、臓器を摘出されてしまう人も出てくることになる。このようななし崩しの条件緩和は、人間の尊厳に対する冒涜である。そのような危険性をはらむ改正を行なってはならない。

? では、十五歳未満の子どもが脳死になったときに、親が承諾すれば臓器提供できるようにするという点についてはどうだろうか。すでに述べたように、心臓移植を待つ子どもへの移植は、日本では不可能に近い。

 海外では、親の承諾があれば移植できる国も多い。この点が、おそらく今年の臓器移植法改正論議の最大のポイントになるであろう。

「十五歳の壁」と親の承諾

 なぜ日本で十五歳未満の子どもからの移植が認められなかったかと言えば、民法において遺言が可能な年齢が十五歳以上と定められており、法律的観点からすれば、臓器提供の意思表示は、民法の遺言と類比的にとらえられ得るからである。
 改正案は、この「十五歳の壁」をクリアするために、親の承諾があれば移植できるという文言を臓器移植法に追加せよと主張する。そうすれば、十五歳未満の子どもが脳死になったときでも、その親が承諾すれば、脳死の子どもの心臓を摘出して、同じくらいの年齢の患者に移植することができるからである。

 私は、親の承諾によって脳死の子どもの移植を可能にしようというこの改正案に、反対する。なぜなら、まず第一に子どもの生命は子ども自身のものであって、親のものではないからであり、第二に、十五歳未満の子どもであっても、自分の死に方と死体の処理のされ方について意思表示する能力は備わっていると思うからである。

 だから、ある年齢を超えて十五歳未満までの子どもには、ドナーカードをもつことを許可するべきだと私は提言したい。ドナーカードでは、イエスの意思表示だけではなく、ノーの意思表示もできる。そして、ドナーカードで脳死判定と臓器摘出の意思表示をしている子どもが脳死になって、家族もそれを拒まないときにかぎって、移植ができるようにすればよいのである。

 この考え方が、少数意見であるだろうことは、私もよく承知している。この国では、ただでさえ、親が自分の子どものことを所有物扱いする。子どもを道連れにする親子心中が絶えない国なのだ。「子どもを思う親の気持ち」というものが出てくれば、すべての道理が引っ込む社会である。

 子どもが脳死になったとき、親が臓器提供に同意するいちばん大きな理由は、この子が死んでも、この子の臓器が誰か別の人の身体の中で生き続けていってほしいという、藁をもつかむような願いである。親が承諾すれば子どもからの移植ができるようにするという改正案は、このような親の気持ちに強く訴えかけることであろう。

 しかしながら、私はあえて、これらの考え方に反対する。自分の生命をどうしたいのかを決めることができるのは、子ども本人のみであり、けっして親ではないし、親の気持ちでもない。自分の生命に関する子ども本人の意思表示というものを、われわれがどこまで尊重できるのかが問われているのである。これは、大人がどこまで本気で、子ども自身の声を聴くことができるのか、という挑戦でもあるのだ。

自己決定でもない中間の方法

 子どもにドナーカードをもたせると言っても、五歳の子どもにもたせるのはおかしい。しかし、たとえば十二歳の子どもにもたせることは、それほど不合理なことであろうか。民法で十五歳以上としているのは、遺言等に関する規定だからである。
 そこでは、遺産相続や財産分与などの事項を合理的に理解し判断できることが前提となる。そのうえで、子どもに財産の処分権を与えているのである。

 しかしながら、臓器移植の場面で問われているのは、「自分の死をどのようにしてほしいのか」ということと、「脳死になった自分の身体をどのように扱ってほしいのか」ということのみである。そこでは、金銭をめぐる複雑な係争が生じるわけでもない。そして、これらは、子ども本人の生と死にかかわる根本問題である。

 自分の脳死と臓器摘出という二点にしぼってしまえば、十二歳の子どもに、合理的な判断能力がないとはけっして言えない。したがって、民法との整合性をつけながらも、臓器移植法で十五歳よりも低い年齢設定を試みることは可能なはずである。

 ここで私が主張しているのは、十五歳未満の子どもであってもこの二点に関しては判断能力と意思表示能力があり得るはずだということ、そしてドナーカードによって彼らの声を聴いてそれを大人は尊重すべきだということ、そしてこのことを大人の場合と同じように移植の前提条件にすべきだということである。

 私の主張のポイントは、生と死について意見表明能力のある子どもの意見はきちんと聴くべきだということである。遺言の場合と同じ意味での「処分権」を、脳死移植の場面で子どもに与えよと主張しているわけではけっしてない。ましてや、子どもに「死に関する自己決定権」を与えよというものではない。

 すなわち、子どもの場合は、親による上からの決定でもなく、かと言って子どもによる自己決定でもなく、その中間の方法、すなわち「子どもの意思表示を脳死移植の条件とするが、同時に、親は脳死移植の実施に対する拒否権をもつ」という形にしてはどうかということなのである。

 もし子どもからの臓器摘出という道を開くのならば、それは親の承諾という方法ではなく、十五歳未満の子どもにドナーカードをもたせることができるという方法によるべきであると私は提言する。

 考えてみれば、移植を待ち望む子どもの場合、「臓器移植を受けたい」というその子の意思表示を、親や移植医が聴き取り、たとえその子が十五歳未満であったとしても、その子の生と死に関する判断能力と意思表示能力を信頼し、「生きたい」というその子の願いをかなえてあげようと努力しているわけである。

 だとすれば、同じ基準を脳死の子どもにも適用すべきではないのか。たとえ十五歳未満であったとしても、大人は子どもの意思表示能力を信頼し、ドナーカードで意思表示をする可能性を開くべきではないのか。そしてその子が意思表示をしていない場合は、いさぎよく臓器提供をあきらめるべきではないのか。

「児童の権利条約」の精神を適用する

? 子どもからの臓器摘出という問題は、実は、いわゆる「子どもの権利」と直接に関連する。子どもは、「自分はこういうふうにしたい」とか、「自分はこういうふうに扱われたい」ということを、大人に向かって要求する権利をもっているはずだ、という考え方を「子どもの権利」と呼ぶ。
 「児童の権利条約」が一九八九年に国連総会で採択され、日本もそれを批准した。日本では、とくに教育の分野において、子どもの権利をどのように考えていけばいいかという模索がなされている。これは、しかし教育だけの問題ではなく、生と死をめぐる医療の領域にまで拡大して議論されるべきものなのである。

 児童の権利条約の精神を、脳死の子どもからの移植という問題に適用して考えれば、私が提言するところの、子どもにもドナーカードをもたせてよいことにせよという立場を支持するものとなると思われる。その理由を述べてみたい。

 児童の権利条約は、親は子どもをきちんと保護する義務を負うという発想と、子どもは自分の意見を大人に聴いてもらい、いやなことはされない権利をもっているという発想のあいだの、せめぎあいのなかで成立している。そして、子どもは、発達段階に応じて制限された権利をもつのである。このような枠組みの中で、どうすれば子どもの意見をもっとも尊重し、彼らの生存と自由を守ることができるのかというのが児童の権利条約の精神なのだ。

 具体的な条文を見てみよう。

 まず第六条に「生命に対する権利」がある。すべての児童は生命に対する固有の権利を有する、とされている。ここでの「生命」はlifeの翻訳である。世界人権宣言で謳われた「生命に対する権利」を子どもにも認めるわけである。医療で生と死が問題となる場面での、生命に対する権利を、子どもにも保障しているわけである。

 第一二条は「意見表明権」である。自己の意見を形成する能力のある児童は、その児童に影響を及ぼすすべての事項について、自由に自己の意見を表明する権利がある。その場合、児童の意見は、その児童の「年齢及び成熟度に従って相応に考慮される」。そして児童は、自分の意見を聴取される機会を与えられる。

 すなわち、この条文を素直に読めば、子どもはドナーカードによって、脳死判定および臓器摘出に関する自分の意見を自由に表明する権利をもっており、それを大人によって聴取される機会を与えられる、ということになる。

 ここでの問題は、「自己の意見を形成する能力」がいつから芽生えるかということだが、すでに述べたように、民法では十五歳以上ということになっている。しかしながら、これは遺言等についての基準であり、自分の生と死をどうするかという点にしぼれば、それについて自己の意見を形成する能力が芽生える年齢はもっと下がるはずである。

 たとえば、家庭裁判所においては、一般に十五歳未満の子どもからも職権で意見を聴取することができるとされている。校則に関しては、中学においても子どもの意見をできるだけ聴取し、かつそれを校則その他に反映することが望ましいというふうに児童の権利条約を解釈する論者もいる(波多野里望『逐条解説・児童の権利条約』有斐閣 八六頁)。

 すなわち、事柄によっては、たとえ十五歳未満であっても、自己の意見を形成する能力があると推定されているケースがすでにあるわけである。自分の生と死をどうするかという事柄についても、十五歳未満でその能力が形成され得るとする余地は充分にある。

 もちろん、子どもの意見を聴取したとしても、それを受け入れるかどうかは大人の側が最終決定するわけである。しかしながら、子どもの意見表明を真摯に聴き、最後までその線に沿って子どもの意見の実現の可能性を探る倫理的責務を、大人の側は負っているはずである。

 子どもにドナーカードをもたせることは、大人がその責務を果たすための重要なステップになるのではないだろうか(当然、子どもの意見と親の意見・感情が最終的に対立することはあり得る。その場合は、移植を強行してはならない)。

 第一四条は「思想・良心・宗教の自由」である。子どもは、親からの指示を受け、かつ公共の秩序に反しないかぎり、思想、良心、宗教の自由、信念を表明する自由をもつ。自分の死を脳死で判定してほしいか、ほしくないかというのは、まさに思想・宗教の自由である。ドナーカードでそれを表明するのは、生と死に関する信念を表明する自由である。子どもはこれらを保障されるわけだから、ドナーカードをもつことをこの条項は支持すると言える。ただし、子どもがドナーカードをもつときには、親とよく話し合う必要があるということであろう。

同意のない臓器摘出は児童虐待である

 第一九条は「虐待・放置・搾取からの保護」である。児童は、親などから、暴力、傷害、虐待、放置、搾取、性的虐待などを受けないように保護されねばならない。
 具体的には、人身売買、強制労働、強制売春、児童虐待などを受けないようにしなければならない。北側諸国においては、とくに家庭内での児童虐待・性的虐待が焦点となる。

 子どもへの虐待の事実は、最近になって、ようやく深刻なな社会問題として浮上してきた。親からの性的虐待のことを考えてみれば分かるが、子どもは、自分が望んでいないことを無理やり親に強制されるわけで、それがどのくらい子どもの尊厳を踏みにじっているか、計り知れないものがある。

 この条項は、親の欲望や都合によって子どもの生命・身体を左右することの不正を、あばいたものと言える。親の願望と子どもの希望は断じて別物である。そこに一線を画すべきである。

 子ども本人の同意のない脳死判定と、臓器摘出は、この意味での児童虐待に当たると私は考える。子どもが、脳死になった自分の身体にメスを入れて臓器を摘出してもよいという意思表明をしていないのに、脳死の子どもの血の通った身体を刻んで臓器を摘出するのは、その身体侵害の暴力性において、性的虐待にも似た児童虐待ではないだろうか。

 その子は、ほんとうは、自分の身体に傷をつけずに天国に飛んでいきたかったのかもしれないのだ。それをただ表明していなかっただけかもしれないのだ。そういう可能性が僅少ではあれ残っているにもかかわらず、この子の臓器が誰かの身体の中で生き続けてほしいという親の願いでもって、臓器摘出することは、虐待以外のなにものでもないと私は思う。

 法的には、脳死後は「死体」なのだから「虐待」は成立しないという論理があるかもしれない。しかし、脳死になった子どもの身体に対して当然はらうべき「敬虔の念」に抵触すると考えるべきである。

 それが虐待であるとみなされないのは、子どもがあらかじめ、ドナーカードによって、脳死判定と移植についての意思表示をしていたときだけなのである。子ども本人が意思表示していない場合は、大人の場合と同じように、臓器摘出を控えるべしというのが、児童の権利条約から導かれる結論のように思われる。

 私も人間であるから、脳死になった子どもの臓器が誰かの身体の中で生きていてほしいと願う親の気持ちは、本当にこころから理解できる。その親の気持ちを重々分かったうえで、私はあえてこの提言をしているのである。

直面する「死の教育」

 臓器移植法改正についての私の意見をもう一度まとめておこう。まず、「本人の意思表示がない場合には、家族の承諾があれば移植できる」という改正案には反対する。本人の意思表示がない場合は、現行法どおり、移植を行なってはならない。
 次に、「十五歳未満の子どもからの移植については、親の承諾があれば移植できる」という改正案にも反対する。もし脳死の子どもからの移植を行なうのならば、子どもにもドナーカードをもつことを許可し、子ども本人の意思表示がある場合にのみ移植できるようにするべきである。その場合の意思表示可能下限年齢は、別途定めなければならないであろう。意思表示能力に関しては、知的障害者(児)をどう扱うのかという問題が残るが、現行の指針(ガイドライン)に明記されているように、「当面、法による脳死判定は見合わせる」べきであろう。

 子どもの脳死についての私の意見は、極端すぎると言われるかもしれない。子どもに、自分の死に方についての意見表明を求めるのは酷であるという反応が多いのではないかと思う。

 しかし、酷だから、子ども本人には意見を聴かず、そのかわりに親が決めるというのは、それが子ども本人の生死にかかわっているかぎり、越権行為だと思う。他の事柄であれば、許容できるパターナリズムなのかもしれないが、本人の生と死については話は別ではないだろうか。

 では、具体的に、どうやって子どもにドナーカードをもたせるのか。ここでわれわれは、「死の教育」についての難問に直面することになる。

 子どもにドナーカードをもたせるには、家庭で、あるいは学校で、子どもに「死」のことを正面から話さなくてはならなくなる。「ペットの死」や「おじいちゃんの死」についてではなく、目の前にいる「子ども自身の死」について話をして、子どもに、自分が死ぬときは脳死でいいのか、脳死状態から臓器を移植したいかについて聴かねばならない。

 そして、子どもと対話して、子どもに意思表示をうながさねばならない。そういうことをできるほど、われわれ大人は、死についてオープンであろうか。ここでもまた、われわれは試されることになる。

 臓器移植法が成立し、脳死移植が再開されたからと言って、脳死臓器移植の問題はけっして終わってはいない。それは、われわれの生きている現代文明のアキレス腱を、遠くから狙いすましている。諸外国でも、日本の脳死の議論に注目する人々が現われはじめている。

 この問題は、これからもしぶとく議論し続けていかねばならない。

 *富士短期大学の後藤弘子氏から貴重な助言をいただいた。

 

入力:だむす