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作成:森岡正博 
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脳死の人

 

森岡正博『脳死の人』法藏館、初版1989年、決定版2000年

196〜220頁 (傍点・文字飾りは省略 後ほど公開される縦書きのPDF版では完全なレイアウトが見られます)

 

おわりに

 脳死をめぐって、いろいろなことを述べてきました。そのうちのいくつかは、実際的な提案でした。いくつかは、脳死や臓器移植という医療の本質を探る作業でした。そしていくつかは、広く医療と科学と社会の将来を考えるときのたたき台でした。
  いま本書を書き終えてみて、説得力のないところや議論が不充分なところはたくさん思い浮かびます。その多くは私の力量不足によるものでしょう。ただ、他に例のない脳死の入門書ができたという満足感だけは、実感としてもっています。
  私は本書で、脳死と臓器移植の問題を、生命学の視点から議論しようと試みてきました。生命学とは、拙著『生命学への招待』(勁草書房)の中で出したアイデアです。それは、「現代文明と現代科学のもとで、私たちは生命とどのような関係に置かれているか、そして、私たちは生命とどのようにかかわりあって生きてゆけばよいか」を総合的に問う学問です。生命学の視点から脳死と臓器移植を考えるとき、私たちはまず、私たちと生命との「関わり合い」に注目し、さらに現代文明と現代科学への関係を常に念頭に置いて議論することになります。
  この試みが成功したかどうかは、読者の判断にゆだねるしかありませんが、生命学という、実質的な内容がまだほとんどない学問を考えてゆくうえでの、何かの手ごたえを本書の執筆で得たような気がします。そして本書は、一九八九年の時点での、世界の生命倫理研究の最先端に位置するものであるという自信を私はもっています。
  長いスケールで見れば、脳死と臓器移植の問題それ自体は、すぐに過去のものとなって消滅するでしょう。しかし、本書で示されたいくつかの問題点は、脳死問題が消えたあとでも、依然なんらかのかたちで問題として残り続けるでしょう。そしてその問題こそが、私たちがいまこの大騒ぎの中から学び取らなければならない本当の問題なのだと思います。
  振り返って考えてみれば、生命倫理学とはいろいろな意味で、きわめて「東京的」な学問でした。それは情報が時間単位で次々と入れ替わっている情報都市東京でこそ、真に開花するべき学問なのでしょう。生命倫理に数年かかわって、いちばん感じたのは、やはり東京という場所のもつ「都市情報」のようなものの皮膚感覚でした。東京を拠点とする生命倫理研究会(B.I.O)という若手中心の研究会の事務を引き受けて、一年半がたちました。その間に多くの優秀な研究者の芽に出会い、私も多くのことを教えられました。
  東京を離れるにあたって、私も生命倫理の最前線からは身を引こうと思います。そのかわり、新しい場所で、今度は生命学の基礎をじっくり時間をかけて練り込もうと考えています。今度の場所は、夢のような学問とたわむれるのにぴったりのようです。
  本書の原稿の段階で、貴重なご指摘と示唆をしていただいた以下の方々に深く御礼を申し上げます。おかげでつまらないミスや誤りを、事前に訂正することができ、浅い議論を再考するチャンスに恵まれました。
  赤林朗(神経生化学)、飯田亘之(倫理学)、小野谷可奈恵(看護学)、辛島恵美子・司朗(安全学)、金澤文雄(刑法学)、倉辻忠俊(小児科)、斎藤有紀子(法哲学)、田島桂子(看護学)、谷田信一(倫理学)、土屋貴志(倫理学)、中島みち(ジャーナリスト)、唄孝一(医事法学)、福間誠之(脳神経外科)、三輪和雄(脳神経外科)、村岡潔(医療思想史)。敬称略、五十音順。
  杉本健郎氏(小児科)には、対談のために貴重な時間を割いていただきました。
  また、ICUの見学を許可していただいた千葉大学医学部付属病院の関係者の方々に感謝いたします。
  最後になりましたが、本書の出版の労をとっていただいた東京書籍の小山康栄氏、本書の企画編集を担当してくださった寺嶋誠氏、そして配偶者の雅恵、息子の創一くん、ご協力ありがとうございました。
   一九八八年一二月二五日  京都にて
                                    森岡正博

*本書は昭和六三年度科学研究費総合研究A(東京大学)課題番号63301006による研究成果の一部です。

 

文献一覧

赤林朗・森岡正博「脳死身体≠フ医学的応用と倫理的問題」『医学のあゆみ』vol. 145, no.3(一九八八・四)
朝日新聞取材班『どうする移植医療』朝日ブックレット五三、朝日新聞社(一九八五・五)
雨宮浩『臓器移植48時間』岩波書店(一九八八・四)
飯尾正宏・河野博臣『がん死ケアマニュアル』医学書院(一九八七・四)
石原昭・小林健一・早川弘一・美濃部嶢『ICU・CCU看護<医学編>』第二版、日本看護協会出版会(一九八五・一二)
井上達夫『共生の作法』創文社(一九八六・六)
岩月賢一監修『ICUハンドブック』第二版、克誠堂出版(一九七九・三)
太田和夫『これが腎移植です』改訂第三版、南江堂(一九八七・七)
加藤一郎・竹内一夫・太田和夫・新美育文『脳死・臓器移植と人権』有斐閣(一九八六・七)
川田治子ほか「脳死患者の家族が死を受容するまでのプロセスとその看護」EXPERT NURSE, vol. 3, no. 4, april(一九八七・四)
神戸市立中央市民病院集中治療部編『ICU・CCUプラクティス』金原出版(一九八六・一〇)
佐藤順編『ICU・CCU看護マニュアル』医学教育出版社(一九八八・五)
佐藤禮子編『意識障害と看護』金原出版(一九八八.五)
死と脳死を考えるシンポジウム実行委員会編『講座:死と脳死を考える』メディカ出版(一九八七・一一)
『週刊医学界新聞』一六六五号(一九八五)
杉本健郎『着たかもしれない制服』波書房(一九八六・三)
杉本健郎・杉本裕好編著『剛亮の残したもの』朝日カルチャーセンター自費出版(一九八八・八)
生命倫理研究議員連盟編『政治と生命倫理』エフエー出版(一九八五・一一)
大日本製薬株式会社ラボラトリープロダクツ部『総合カタログ第一一版』(一九八八)
竹内一夫『脳死とはなにか』講談社ブルーバックス(一九八七・五)
田島桂子『ICU看護入門』医学書院(一九八七・三)
立花隆『脳死』中央公論社(一九八六・一〇、雑誌連載は一九八五・一一〜一九八六・八)
立花隆『脳死再論』中央公論社(一九八八・一二)
椿忠雄・関正勝『脳死』日本基督教団出版局(一九八八・四)
東大PRC企画委員会編『脳死』技術と人間(一九八五・三、初版)
中島みち『見えない死』文藝春秋(一九八五・九)
中島みち「あなたは脳死に直面できるか」『文藝春秋』(一九八七・六)
波平恵美子『脳死・臓器移植・がん告知』福武書店(一九八八・五)
『日本医師会雑誌:死の判定―脳死』別冊・特別版vol. 94, no. 11(一九八五・一二)
日本移植学会編『脳死と心臓死の間で』メヂカルフレンド社(一九八三・六)
日本移植学会編『続:脳死と心臓死の間で』メヂカルフレンド社(一九八五・七)
日本移植学会編『続々:脳死と心臓死の間で』メヂカルフレンド社(一九八六・九)
日本人工臓器学会編『臓器置換と意識変革』朝日ブックレット九四、朝日新聞社(一九八八・九)
福間誠之『脳死を考える』日本評論社(一九八七・四)
藤枝知子・田島米子・山崎慶子『ICU・CCU看護<看護編>』日本看護協会出版会(一九七九・五)
水谷弘『脳死論』草思社(一九八六・一二)
水谷弘『脳死と生命』草思社(一九八八・八)
三輪和雄編『脳死』東京書籍(一九八七・九)
森岡正博『生命学への招待』勁草書房(一九八八・四)
森岡正博・赤林朗「脳死$g体の各種利用はどこまで許されるか」『中央公論』(一九八八・五)
米本昌平『先端医療革命』中公新書(一九八八・四)
鷲田小彌太『脳死論』三一書房(一九八八・七)
H・ブロディ『医の倫理』東京大学出版会(舘野之男・榎本勝之訳、一九八五・四)
ネイサン・M・サイモン『ICU看護のヒューマンアプローチ』日本看護協会出版会(稲岡文昭ほか訳、一九八七・二)
J.M.Rippe and M.E.Csete『ICUマニュアル』メディカル・サイエンス・インターナショナル(豊岡秀訓ほか訳、一九八四・一二)
Willard Gaylin, “Harvesting The Dead”,1974, in Thomas A. Shannon, (ed), Bioethics, rev. ed., 1981.

本書中の図・写真は次のものによる
二二ページ(図2)・二三ページ(写真1)
神戸市立中央市民病院集中治療部編『ICU・CCUプラクティス』金原出版(一九八六・一〇)
二四ページ(写真2)・三〇ページ(図3)
田島桂子『ICU看護入門』医学書院(一九八七・三)
*上記の文献一覧は一九八九年刊行の旧版に付したものである。 

 

臓器のリサイクルと障害者問題 一つの問題提起として

 臓器移植について、まだ語られていないテーマがある。
  それは、脳死の人からの臓器移植に直接に関わるのは、具体的には誰かという問題だ。
  心臓や肝臓などの臓器をもらう人は、移植によってしか助からない重い心臓病や肝臓病の人である。そのような人は病院に入院していたり、ベッドに寝たきりになっていることも多い。障害者の定義にもよるが、ここではそのような病気の人を、心臓や肝臓などの内臓に障害を持つ「障害者」とみなすことにしよう。
  では、それらの臓器を与える脳死状態の人とは、どのような人のことだろうか。
  人は大病院の集中治療室という場所でしか、脳死状態にならない。集中治療室の中で、脳死の人は、人工呼吸器や栄養液・昇圧剤などのチューブにつながれ、医師や看護婦たちのきびしい監視とケアによって維持されている。脳死状態の人とは、脳に大きな損傷を受けた結果、全身の働きが崩壊してしまうはずのところを、集中治療室の様々な設備やケアの力によって、脳以外の身体の働きはなんとか維持されている状態のことである。
  私は、脳死状態になった人も、あくまでひとりの「人」として見るべきだと考えている。すると、その「人」は、脳に治療不可能な障害をおいながらも、集中治療室の設備とケアのおかげでなんとか(脳以外の)全身の循環状態を保っているひとりの「障害者」と解釈できる。脳死が確実に判定された後であっても、その人の循環状態が保たれている限り、その人を重篤な(意識)障害者とみなすことは依然として可能である(村岡潔氏のご教示による)。
  こうやって考えてみると、脳死の人からの臓器移植とは、実は、脳に障害をおった障害者から、心臓や肝臓に障害をおった障害者への、臓器の移し替えであることが分かる。脳死の人からの臓器移植の本質は、障害者の身体の一部を、別の障害者の身体の中へと移し替えることである。
  臓器移植先進国アメリカなどでは、「リサイクル・ユアセルフ(あなた自身の臓器をリサイクルしよう)」という標語まで使われている。しかし、以上に述べたような視点から眺めればこの標語はもっと深い意味をおびてくる。脳死の人からの臓器移植が、臓器の「リサイクル」であるとするならば、それはどういう種類のリサイクルなのか。その答えはひとつ。臓器移植とは、障害者から障害者への、すなわち、障害者内部での臓器リサイクルなのである。
  移植を推進する人たちは、「臓器提供は、人類愛にもとづく無償の善意である」という表現をよく使う。しかし、この表現もまた、すこし異なった角度から読み取ることもできる。その「善意」は、誰から誰への善意か。その答えもひとつ。それは脳死の人という「障害者」から、たとえば心臓病の人という「障害者」への善意なのである。それは決して、健常者から障害者への善意ではない。
  本人が健康な時点で、事前に臓器移植の意思表示をしていた場合、それは健常者の善意ではないか、という反論があるかもしれない。しかし、臓器が具体的に摘出されるのは、言い換えれば、健常者の発する善意が生かされるのは、彼が脳死状態の人という障害者になったときでしかない。
  こうやって考えてみると、脳死の人からの臓器移植とは、実は徹底して障害者の内部の問題なのである。臓器を提供するのも、臓器をもらうのも障害者。健常者は、それを仲介する医師あるいは障害者の家族としてしかあらわれてこない。あるいは、こういうイメージが適当かもしれない。人を健常者のグループと障害者のグループに分けるとする。このとき、障害者のグループの内部で、臓器がリサイクルされてゆく。そして集中治療室の中で身動きひとつできない最大の弱者から、いのちが今にも危ないもうひとりの弱者へと、臓器をリサイクルしてゆくのが、脳死の人からの臓器移植の原理である。
  確かに、従来から行なわれてきた近親者からの生体臓器移植は、健常者から障害者への臓器提供であると言える。しかし、脳死の人からの臓器移植は、これとはまた異なった「原理」と「構造」をもつものとして考えるべきだ。
  健常者のグループの人々の、脳死と臓器移植への関わり方は、障害者の関わり方とは根本的に異なっている。脳死の人からの臓器移植に限って言えば、健常者は自らが臓器の提供者になることもないし、臓器の受け手になることもない。健常者は、障害者のグループの外部から、それを支援し、仲介し、議論するのみである。
  脳死と臓器移植の場面での、このような障害者と健常者の断絶について、いままで議論されたことはなかった。その理由のひとつは、脳死論議が、主に健常者主導で行なわれてきたことにある。健常者は、脳死と臓器移植にひそむ障害者問題に、気付くことが少ない。
  私がここで述べたのは、結論ではなく、ひとつの問題提起である。そして、このテーマについては皆でゆっくり問い直した方がよいと思う。
(「毎日新聞」一九八九・四・二一夕刊)

 

「聖域」の落とし穴 生体肝移植への一視点

 生体肝移植についてコメントを求められることが多いが、原則として断ることにしている。なぜかと言えば、新聞社のもくろんだ構図にそのまま乗って、賛成派あるいは反対派のどちらかの陣営に色分けされて紙面を飾るのがいやだからだ。
  先端技術の生み出す倫理社会問題は、きわめて複雑な様相を示していて、賛成/反対の二分法で簡単に割り切れるものではない。また、割り切ったところで、事態の本質がよりよく見えてくるわけでもない。
  生体肝移植への賛成意見としては、これはすでに実験段階を終えた確実な医療技術であり、これによってひとりのいのちが救われる、という論調が多い。もちろん若干の危険はあっても、情報が充分に提供され、親(と子)がそのことを充分承知の上で手術を決断したとすれば、それはそれで人生のひとつの決断であり、他人がとやかく言う筋合いのものではないだろう。もちろん、島根医科大学の永末医師のように、患者家族と医師の合意さえあれば倫理委員会を開く必要はないなどという時代錯誤的な発言は論外ではあるが。
  これに対して、新聞で報道される反対意見・慎重意見には、説得力のないものが多い。たとえば、移植は脳死の人から行なうのが本筋であるという意見があるが、どうして心臓も脳も生きている人からの臓器提供が「本筋」ではないのかさっぱり分からない。また、「健康な身体にメスを入れるという点で倫理面の問題も残る」という意見もあるが、それは血縁者からの肝臓移植や、輸血、骨髄移植などを社会が許容したときにすでに基本的にはクリアーされている問題のはずである。
  私個人は、倫理委員会の議事録が公開される制度が存在していれば、生体肝移植は実施されてもやむをえないと思っている。言い換えれば、残された最大の倫理問題は、倫理委員会の公開性の問題である。
  しかしここでは、あえて別の点に触れておきたい。それは、今回の生体肝移植事件の持つ、文化的な意味についてである。
  そもそも生体肝移植に対する最も本質的な批判点は、「親の自己犠牲と愛情と決断があれば医師は何をやっても許されるのか」という点なのだと私は思う。しかし、この問いが新聞紙上で議論され、深められることはなかった。というのも、「この子のいのちを救おうと親が自分の身体を犠牲にしてまで頑張っている」美しき事態に、いったい誰が正面切って議論をいどめようか。
  親が子供を思って自己犠牲を行ない、一生懸命頑張っている。この事態そのものを批判の俎上に載せることを人々がしないのはなぜか。それは、このような人間関係こそ我々の倫理的な理想であるという規範(つまり道徳)が、非常に強力に現代日本社会に根付いているからである。私の調査によれば、「親が子を思う気持ち」「自己犠牲によって子供のいのちを守る」「一生懸命頑張っている」という人間の姿は、現在の学校の道徳教育において、不可侵の道徳的理想として教えられている。
  要するにこういうことだ。今回の生体肝移植事件は、我々の文化の中に、誰もが批判できないような、ある「聖なる道徳空間」があることを、我々にはっきりと知らしめたのである。そしてこの聖なる道徳空間が、今日では先端医療技術というもうひとつの聖なる技術体系と結合し得るということなのだ。そして、生体肝移植は、この最強の結合の、最初の明確な事例となったのである。
  いつも思い出す光景がある。ある学会で臓器移植への反対意見が出された後で、ある医師が、壇上のスクリーンに、臓器障害で身体が無残に変形した赤ちゃんの写真を大きく映し、「これでも反対できますか」と重々しく聴衆に問いかけたのだ。私は強い衝撃を受けた。そのような映像を見せられて、いったい誰が正面切って反論できようか。そして私は、彼を卑怯だと思った。
  反対論や慎重論を唱えている人間とて、親も子もある普通の人間である。そのような映像を見せられれば何もものが言えなくなるし、自分の子供がもしそのような病気になれば、移植を願うであろう。しかし、それが分かったうえで、なおかつ、あえて反対論や慎重論を唱えているのである。彼らは冷静な議論をしたいのだ。ただでさえ感情の嵐に流されてしまうこの国の文化の中で、議論を詰めて最も良い進路を見極めたいのだ。この子のいのちが一番大切なのは分かっている。そんなことは誰だって分かっている。だから、お願いだから、「この子のいのち、この子のいのち」とこれ以上繰り返さないでください。
  数年前の脳死論議の際には、感情に訴える反対派を非難して冷静な科学的議論をせよと主張していた技術推進派が、いったいいつから、我々の感情に訴える戦略を覚え始めたのだろうか。そしてもしこの傾向が前面に躍り出てきたとき、一般市民は、道徳と美談のオブラートに包まれた不可侵の先端技術の前で、一歩も身動きが取れなくなってしまうのではないだろうか。そしてそのオブラートの中で、批判の試みが圧殺されてしまう危険性がある。私が恐れ、あえて指摘したいのは、まさにこの点なのである。
(「毎日新聞」一九九〇・七・一四夕刊)

 

移植医療を考える  倫理と現代文明の間で

 島根医大で生体肝移植を受けた患者が死んだ。テレビは、遺族の実家から生中継をするという、お祭り騒ぎを繰り広げた。今回の出来事で一番批判されるべきは、マスコミの報道の姿勢である。しかし、マスコミ批判はまた他の機会に回すとして、ここでは、ひとまず今回の出来事を通じて見えてきた移植医療の一つの姿について考えてみたい。
  移植医療の特徴は、他人の臓器を「資源」として必要とする点にある。脳死の人や、健康な家族の臓器を、資源として「利用」することで移植医療は成り立つ。「資源」という言葉遣いをすると、良識派の方々はまゆをひそめるが、これは厳然たる事実である。
  例えば、移植医の人たちがよく言う「脳死の人の新鮮な臓器をそのまま捨ててしまうのはもったいないから、他の人に移植して生かそう」という発想の裏には、臓器を資源としてみなす考え方が潜んでいる。あるいは、「臓器移植を必要とする患者の数に対してドナー(臓器提供者)の数が足りない」という発言の裏にあるのも、この「資源」の発想である。
  移植医療は二十一世紀の医療であるといわれる。しかし、移植医療が発展するということは、より多くの人間の臓器が資源として確保され、効率的にリサイクルされてゆくことを意味している。
  つまり移植医療とは、より多くの臓器資源を求めて自己拡大してゆく本性をもった技術体系なのだ。そしていま移植医たちは、豚などの家畜の臓器を、人間への移植のための資源として使う研究に着手している。
  要するに、移植医療の哲学は、人間が地球の化石燃料を「資源」として採掘して利用し、動物や木々を産業のための「資源」として利用し尽くしてきたわれわれの文明の根本原理に深く根差しているのである。
  移植医たちは、臓器は、脳死の人や健康な家族からの「善意」の贈り物であると言う。これは臓器移植というものを説明するときの一つのレトリックである。しかし臓器移植にはもう一つの面がある。それは資源となる人を「犠牲」にして成り立つ医療であるというものだ。
  例えば脳死の人からの臓器移植の場合、たとえその人の事前の提供の意思があったとしても、その人は自分が身体の全体性を保ったまま死んでゆくという死に方を放棄し、それを犠牲にしなければならない。生体肝移植の場合は、さらに明確である。移植のドナーとなる親は、自分の残りの人生の健康を犠牲にして、子供を救おうとするのだ。
  脳死の人も、健康な親も、自らすすんで自己犠牲をすることで、移植医療が成り立っている。つまり、臓器提供とは、ある面から見れば「善意」に基づく贈与なのであるが、それと同時に、他の面から見れば、「犠牲」によって初めて成立する医療だと言えるのである。
  では、そこに「犠牲」が含まれるから、移植医療はその点では倫理的に「よくない」医療だと言えるのだろうか。ことはそんなに単純ではない。われわれは現代社会で、実に多くのものを犠牲にして生きている。われわれは地球環境を犠牲にしてきた。家畜動物を犠牲にしてきた。南の国々の人々を犠牲にしてきた。もし「犠牲」がよくないのであれば、その上に成り立っているわれわれの生活は、すべて倫理的に否定すべきものであることになる。
  いったいどう考えればよいのか。
  移植医療とは、一部の移植医たちが啓蒙するように、全く「素晴らしい」医療なのだろうか。しかしここでもわれわれの多くは即答できない。生体の場合にはドナー(臓器提供者)の健康を脅かし、脳死の人の場合には、そのほとんどの臓器を資源として利用し尽くすことを狙うこの医療技術に、なにか「自然」ではないもの、割り切れないものを感じる人は多い。
  重病の人たちが、臓器移植によって助かりたいと意思表示するとき、彼らの希望そのものを一方的に否定する権利はだれにもない。なぜなら、われわれすべてが、実は、臓器移植と同じ原理で動く現代文明のなかでその原理を肯定して生きており、そこから多くの快適さと身体の健康と長い寿命を引き出しているからである。
  重い肝臓病などで死期の近い患者の命は、本人にとっても家族にとっても、「かけがえのないもの」である。そのかけがえのない命のためならば、何でも試してみたいし、あらゆる可能性にかけてみたい。この気持ちが分からない人間はいない。
  しかし、移植によってこの命を救うためには、他の「かけがえのないもの」、すなわち親の健康や脳死の人の臓器などを犠牲にしなければならない。移植医療とは、「かけがえのない」命を救うために、他の命が持っている「かけがえのないもの」を犠牲にする医療である。しかし、他の命ある生物や自然を犠牲にして生きているわれわれは、この移植医療の「犠牲」の構造だけを取り出してきて、それを批判するわけにはいかない。命が持っている「かけがえのなさ」を犠牲にすることがもし罪なのならば、先進国に住むわれわれは全員が同罪なのだ。
  島根医大の生体肝移植について、活字となって表面に出ない意見に、次のようなものがある。「どうせ健康に長生きするわけでもないから、やめとけばよかったのに」「あそこまでして延命に執着しなくてもよいのに」「楽に死なせてあげればよいのに」これらの声は、事態を傍観者として眺めるときに出てくる、冷静な判断であろう。そしてこの考え方は、子供に執着するのではなく、子供を楽に死なせてあげることこそが親の愛ではないのかという所まで行き着くだろう。
  しかし、これらの声は、移植医療の倫理の問題に向けられているのではなく、移植医療を生み出したわれわれの文明の問題に向けられているのである。そしてそれは、現代文明の持つもう一つの面を明らかにする。すなわち、それらの声は、この世での欲望充足と生の快適さの持続を全面肯定することで発展してきた現代文明の生への執着の構造そのものに向けられているのだ。そして、現代文明を撃つその批判の矢は、現代文明の恩恵にあずかってぬくぬくと生きているわれわれ自身の脚をもまた貫くことになる。
  移植医療を考えることで、われわれは「命」にかかわる「倫理」の問題と「文明」の問題に、同時に直面する。「よい」とか「悪い」という倫理の問題とはまた異なった次元で流れる大きな文明の問題に、われわれは気づき始めている。倫理の問題と文明の問題は、異なった次元での解決を要求する。一方の解決は他方の解決を導かない。
  移植医療について、特定の立場を離れてある程度突っ込んで考えるときに、われわれを襲う苦汁に満ちたやりきれなさの感情は、恐らくこの点に深くかかわっている。そしてこの問題は、移植騒動が消滅したあとまで、われわれの心の中に長く尾を引いて残りそうである。
(「山形新聞」一九九〇・九・一一夕刊。共同通信社配信)

 

文庫のためのあとがき

 『脳死の人』が出版されてから、はや二年が経過しました。
  思い起こせば、一九八八年、東京大学文学部の研究室で、東京書籍の小山康栄氏と寺嶋誠氏に「脳死の入門書のパンフレットを書きましょうか」となにげなく言ったのが、本書誕生のきっかけでした。題名がなかなか決まらず、試行錯誤のすえに、編集部発案の「脳死の人」で行こうと決まったときには、正直言って若干の不安が頭をよぎりました。小説と間違われるかもしれないと思ったからです(『恍惚の人』というのがありましたから)。しかし、そんな不安もどこへやら、本書は脳死に関心をもつ多くの人々に受け入れられ、「脳死の人」ということばを紙面で使用する新聞社も現われるようになりました。
  しかし、本書で私が提言したことが、一九九一年の現在、日本の多くの大病院で本格的に実施されているとは思えません。その意味でも、本書が福武文庫の形でさらに多くの読者に提供されることには、大きな意味があると思います。
  文庫化にあたって、東京書籍版のものに手を加えることはしませんでした。そのかわり、本書刊行以後に私が新聞紙上に発表した論文三編を付録(増補)として採録することにしました。これらは、本書に書き切れなかったテーマについて問題提起を行なったもので、見知らぬ読者から種々の反響をいただきました。
  ここで、本書第4章で述べた「脳死身体の各種利用」についてのその後の情報を簡単に紹介しておきます。本書執筆後に入手した資料によると、一九八一年から一九八二年にかけて、アメリカのテンプル大学において、埋め込み型人工心臓の実験のために、五人の脳死の人(五四歳女性・二六歳男性・二〇歳女性・二三歳男性・一九歳男性)が実験台として利用されています。そのうちの三人は、左の腎臓を移植したあとで、開発中の人工心臓を身体に埋め込む実験の被害者となっています。まさに脳死身体の「多重利用」がなされたわけです。実験を行なったのは、J・コルフという人工心臓研究の権威で、実験結果を報告した論文は一九八四年に発表されています。(Jack kolff et al., The journal of Thoracic and Cardiovascular Surgery 87 : 825-831, 1984)。その人体実験のあとで、埋め込み型人工心臓は、B・クラークさん(この名前を覚えておられる方も多いでしょう)に、世界ではじめて臨床応用されたのでした。
  また、フランスでは、例のミヨー博士の事件を受けて、国家倫理委員会が、一九八八年一一月に「脳死状態の被験者に対する医学的・科学的実験についての見解およびレポート」(Avis & Rapport surL' experimentation Medical et Scientifique sur des Sujet en Etat de Mort Cerebrale, 7 Novembre 1988)を発表しました。その中で、(1)実験利用に対する本人の文書に事前の同意、あるいは(2)家族の同意と地域の倫理委員会の承認がある場合は、脳死身体を実験利用に使用してもさしつかえないことを示唆しています。そして、アミアン予審裁判所は、一九八九年一月一四日、ミヨー博士に免訴判決を下しています。フランスでは、脳死身体の実験利用に、法的な根拠が与えられたと言えそうです。
  では、日本は今後どうするのでしょうか。大阪大学の杉本侃教授らの実験に対する法的・倫理的な評価をも含めて、早急に議論を詰めなければなりません。

  京都に移り住んで、生命倫理学の最前線からは身を引きました。そして、『生命学への招待』で提唱した「生命学」の構想を少しずつ現実化しようと試み始めています。いま、私の関心は、文化人類学や看護学、サイコセラピーなどにも広がりつつあります。その中間報告として、日本の「いのち」観を文化人類学的かつ哲学的に調査した論文The Concept of Inochi : a Philosophical Perspective on the Study of Life (Japan Review No. 2, 1991)を発表しましたので、興味のある方は参照してください。
  最後に、本書を福武文庫の一員に加える提案をされた、編集部の矢熊晃氏にこころから感謝いたします。
   一九九一年二月七日  京都にて
森岡正博

 

入力:だむす