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作成:森岡正博 
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脳死の人

 

森岡正博『脳死の人』法藏館、初版1989年、決定版2000年

第4章 脳死身体の各種利用とは何か (85〜116頁 傍点・文字飾りは省略 後ほど公開される縦書きのPDF版では完全なレイアウトが見られます)

 

 

脳死身体の「利用」の現実性

  脳死の人からの臓器移植とは、脳死の人を臓器移植のために「利用」することです。
  技術的には、臓器移植のほかにも、脳死の人をさまざまな用途に利用することができます。これを「脳死身体の各種利用」と呼びます。
  ここで言う「脳死身体」とは、脳死の人の身体のことです。臓器だけではなく、脳死の人の身体そのものが利用できるという点を強調するために、あえてこの章では「脳死身体」ということばを使いたいと思います。
  よくよく考えてみれば、脳死身体(脳死の人の身体)からの臓器移植が有効なのは、脳死身体の中では臓器がまだ「生きて」おり、移植に充分使えるほど「新鮮に」保たれているからです。ということは、その新鮮に保たれている脳死身体全体を使って、普通の人に対しては許されないいろいろなことを試みることも技術的にはできるわけです。
  この脳死身体の各種利用は、現在の脳死と臓器移植の議論が一段落したあとで、必ず生じてくる問題です。そして世界的に見ても、一九九〇年代の大きな生命倫理問題としてクローズアップされてくることが予想されます。
  脳死身体の利用について触れた論文は一九七〇年代の初頭からありました。その中でも最もまとまった論文は、一九七四年にアメリカの医師ウィラード・ゲイリンが発表した「死者の収穫」です(Willard Gaylin,“Harvesting The Dead”, 1974, in Thomas A. Shannon(ed.),Bioethics, rev. ed., 1981)。ゲイリンはその論文の中で、現在の技術あるいは将来の技術で可能になるであろう脳死身体の利用方法を、六種類あげています。簡単に紹介しますと、
  (1) 訓練……医学生や研修医が脳死身体を使って診察の実習をしたり、手術の練習を
   することができる。
  (2) 試験……薬の効能や毒性を、実際に脳死身体に試して調べることができる。
  (3) 実験……脳死身体にたとえば、がんなどの病気を作っておいて、それを治す実験
    ができる。
  (4) 貯蔵……血液成分や、移植のためのすべての臓器を、脳死身体の中で貯蔵してお
    くことができる。
  (5) 収穫……血液や皮膚などは身体の中でどんどん再生されるので、毎年、木からり
    んごを収穫するように、脳死身体から血液や皮膚などを収穫できる。
  (6) 製造……脳死身体を工場として利用し、ホルモンなどを製造できる。
  ゲイリンのこの論文は、当時のアメリカで大きな反響を呼びました。ただ、この論文は、脳死身体はあれにもこれにも利用できると、その技術的な可能性を列挙しただけのものにすぎず、たとえば倫理的な議論などは全然なされていません。また一九七四年の時点では、脳死身体そのものを長期間保存しておく技術がまだ確立しておらず、この話も夢物語の域を出ませんでした。
  ところが一九八〇年代に入ると、その状況は一変します。まず、大阪大学の杉本侃教授らのグループの研究によって、脳死身体にADH(抗利尿ホルモン)とエピネフリンという化学物質を与え、慎重にケアをすれば、平均二三日間も脳死身体の心臓が動き続けることが明らかになりました。五四日間、心臓が動き続けた脳死身体もありました。その後、同様の方法で、久留米では一〇一日間、筑波では一〇四日間、脳死身体を維持したケースが報道されています。
  脳死身体の長期保存が可能になると、脳死身体の各種利用もぐっと現実性を増してきます。たとえば、脳死身体を二か月間安定して保存することができるようになれば、血液や移植用臓器の貯蔵庫としての利用はもう手の届くところにあります。
  さらに一九八八年二月二三日、フランスで、脳死身体の人工呼吸器の酸素を笑気ガス(麻酔用)と取り替えてその様子を見るという、脳死身体への人体実験が明るみに出ました。フランスのマスコミはこれをいっせいに取り上げ、大きな社会問題を引き起こしました。この実験を行なったミヨー教授は、脳死身体への人体実験は正当であり、何ら問題はないという発言を公の場で繰り返し主張しています。
  このように、一九七〇年代にゲイリンらによって示唆された脳死身体の各種利用は、一九八〇年代に入ってから一気に現実の問題になってきたのです。そして一九九〇年代には、脳死身体の各種利用のためのガイドラインや法制化が、多くの先進諸国でさかんに議論されるようになるでしょう。

技術的な可能性

 先ほども述べたように、ゲイリンの論文は多くの点できわめて不備なものです。そこで、赤松朗と私は、現時点で予想されるすべての技術的可能性と倫理問題について共同研究を行ない、『中央公論』と『医学のあゆみ』にその成果を発表しました(「脳死$g体の各種利用はどこまで許されるか」『中央公論』一九八八年五月号、「脳死身体≠フ医学的応用と倫理的問題」『医学のあゆみ』一九八八年四月一六日号、第一四五巻第三号)。以下、この論文をもとにして、脳死身体の各種利用の技術的可能性について簡単に説明し、それがもたらすであろう倫理的・社会的な問題についてさらに深く突っ込んでいきたいと思います。医学的な側面をもっと正確にくわしく知りたい方は、ぜひ、『中央公論』の論文を参照してください。
  脳死身体の各種利用が、現在あるいは近い将来どこまで技術的に可能になるかを次のようにまとめることができます(「技術的に可能」とは、現在すぐにでも可能なものと、現在は無理だが近い将来は可能になると予想されるものの両方をふくみます。また、技術的に可能だからといって、それをすぐにも実行してよいことにはなりません。技術的には可能でも、してはならないことはこの世にたくさんあるからです)。

 医療資源としての利用

  A 臓器移植のドナーとして
  前章で述べた脳死の人からの臓器移植も、じつは、脳死身体の各種利用のひとつなのです。脳死身体から臓器移植をするときに、先に述べたADHとエピネフリンという化学物質で脳死身体を安定させておけば、あせらずにゆっくり移植ができ、移植の成績も上がると予想されます。

  B 貯蔵庫として
  脳死身体を二か月以上も安定して保存できるようになれば、当面移植するあてのない臓器であっても、レシピエントが現われるまで脳死身体の中で「新鮮なまま」保存しておくことができます。移植手術のときに必要な大量の血液も、いっしょに保存出来ます。希少な血液やホルモンも貯蔵できます。

  C 工場として
  ゲイリンの言うように、ホルモンや抗体を製造することもできます。

 医学応用のための利用

  A 人体実験系として
   <基礎医学>
  脳死身体を実験台として研究することによって、人間の身体の正常な働きをより正確に解明することができます。人間の身体の内部の働きのデータは、これまで動物実験からの推測によるものがほとんどでした。生きている健康な人を対象にして測定することはとてもできないデータであっても、脳死身体を使えば、血液が流れている状態で直接に測定することができます。これは、基礎医学の革命につながります。そして基礎医学の革命は、医学全体に、ひいては人類に大きな恩恵をもたらすことが予想されます。
  ただし、脳死身体を利用した実験には、四つほどの制約があります(『中央公論』論文参照)。
   <臨床医学>
  人体に害を与える人体実験を、普通の人間に対して行なうことは許されませんが、脳死身体に対してならば行なうことができるかもしれません。
  たとえば脳死身体に強い放射線を浴びせて、放射線障害の研究をすることができます。脳死身体にAIDS(エイズ)を感染させて、臓器の変化を調べたり、新しいAIDSの治療法を試すことができます。また、筋ジストロフィーなどのように、動物実験では満足には代用できないような難病の人が脳死状態になった場合、それは他では得られない貴重な人体実験のモデルになります。
  難しい臓器移植を初めて行なうときの練習を脳死身体であらかじめ行なっておくと、本番での危険性が少なくなります。人工心臓などの人工臓器の開発にも、脳死身体を利用できます。
  ゲイリンも述べているように、新薬を人間に試す前に、脳死身体で試しておくことができます。
  一般に、脳死身体を実験のために使うには、すでに動物実験が充分行なわれているものに限るべきです。

  B 教育のために
  ゲイリンは脳死身体を学生や研修医の実習に使うことができると述べていますが、これは何も脳死身体を使わなくても、手術現場に立ち会って経験を積むことで代用できます。よって、この利用方法はあまり意味があるとは思えません。

現行法のもとでの可能性

  では、これらの脳死身体の各種利用が、日本の現行法のもとでこまで許されるかについて考えてみましょう。
  ここでは、脳死身体を利用してもよいという本人の事前の意思が(書面により)はっきりしており、家族もそれに同意している場合について考えることにします。
  そのまえに、以前の見解の訂正をさせていただきます。『中央公論』の論文で、「そして日本医師会の見解が出された以上、現行法のもとでは、それらの多くは法的にも許容される可能性が強い」(二五九ページ)と書きました。その後、島次郎氏や波平恵美子氏の指摘によって、この箇所の記述が不適切であることが判明しました。
  また、法学者の意見によりますと、現行法のもとでどの利用が合法であり、どの利用が違法であるかを、ただちに明快に判断できるわけではなく、個々の利用に即して法学者の間で細かく議論する必要があるようです。
  そこで赤林朗と私は、以下に述べるようにこの箇所を訂正し、われわれ自身の意見を示したいと思います。
  まず、脳死身体の診察実習や解剖実習については、日本医師会の「脳の死をもって人間の個体死と認めてよい」という見解と、「死体解剖保存法」および「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」によって、すでに法的に許容されていると考えます。
  では、脳死身体に放射線を浴びせたり、毒を注入して抗体を製造したり、AIDSに感染させたり、人工臓器の開発のための実験台にしたりするような、脳死身体そのものに明らかに医学的な害を及ぼす利用についてはどうでしょうか。医学的に身体に害を及ぼすことを「侵襲」と呼びます。ところで刑法第一九〇条には死体損壊罪が規定されています。「死体、遺骨、遺髪又ハ棺内ニ蔵置シタル物ヲ損壊、遺棄又ハ領得シタル者ハ三年以下ノ懲役ニ処ス」。日本医師会の見解は、脳死身体を死体とみなす、というふうに解釈できますから、脳死身体に明らかに侵襲のある利用は、刑法で禁じられている死体の損壊にあたる可能性が強いと考えられます(ただし、侵襲と損壊とは完全に同一ではないと思われますので、「医学的な侵襲」と「法的な損壊」の関係についてくわしく考察することが必要でしょう)。
  移植のための臓器の貯蔵庫、血液やホルモンなどの貯蔵庫、それらの製造、身体にとくに侵襲のない基礎医学実験(たとえば血液成分の分析や心電図の測定、脳の断層撮影など)、動物実験をすませた新薬の臨床医学実験などについては、現行法のもとでも許容されるものが多いと予想されます。ただし、これについては、法律の専門家による厳密な討議が必要です。
  以上がわれわれの見解です。
  ひとつ不思議に思われることがあるかもしれません。移植のために脳死身体から臓器を取り出すことは、明らかに脳死身体に侵襲があるのに、どうして死体損壊罪に問われない(と予想される)のでしょうか。それは、角膜と腎臓に限っていえば、「角膜及び腎臓の移植に関する法律」が存在して、死体からの角膜と腎臓の取り出しを特別に許可しているからです。解剖にしても同じことです。脳死身体の解剖は明らかに身体への侵襲があるにもかかわらず、「死体解剖保存法」および「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」によって、特別に許可されていると解釈できるのです。どうして、これらが特別に許可されているのかといえば、本人の事前の意思、家族の同意がある場合、解剖や移植は、広く社会と医学と人類のために貢献するからだと思われます。では、現行法のもとでは死体損壊罪にあたる可能性のある人体実験なども、将来何かの立法、たとえば「脳死身体の実験利用に関する法律」のような立法がなされて、特別に許可されることがあるでしょうか。私は充分にあると思います。この立法を肯定するにせよ、否定するにせよ、この点はしっかりと心にとどめておく必要があります。

「利用」を考察する際のチェック・ポイント

 ここで、現行法のもとでの法的問題をひとまず離れ、脳死身体の各種利用という技術に対して、私たちがそもそもどのような態度を取ればよいか、もっと深く考えてゆきましょう。この種の議論をするときに、議論のかなめとなるいくつかのポイントがあります。それについて簡単に説明します。

 代用可能性について
  「代用可能性」とは聞き慣れないことばです。例をあげると分かりやすくなります。たとえば、医学生の初歩的な解剖実習に利用したいのならば、なにも脳死身体を使わなくとも、普通の心臓死の献体で充分間に合います。この場合、医学生の初歩的な解剖実習には、脳死身体の代わりに心臓死の献体を使うという、「代用可能性」があるわけです。
  また、近い将来、人工心臓が実用化されることも予想されます。ということは、脳死身体からの心臓移植には、人工心臓という「近い将来の代用可能性」があることになります(代用可能性は、脳死身体の利用目的の設定と、密接に結びついています。この点については、『中央公論』論文を参照してください)。
  脳死身体の各種利用について考えるとき、それに「代用可能性」があるかないかという点は、大事なポイントになります。

 侵襲について
  身体に放射線を浴びせたり、検査のために毒性のあるものを注入したりするような医療行為は、身体に侵襲のある医療です。これに対して、血液の成分を分析したり、断層撮影を行なったりするのは、身体にとくに侵襲のない医療です。
  脳死身体を、不当に傷つけてはならないもの(身体)とみなすならば、脳死身体に対して侵襲のあるものと侵襲のないものとを、はっきりと区別しておくことが必要です(法的には、脳死身体の人格権や、親近者の脳死身体に対する敬虔感情などを保護法益として認めるか否か、ということになるようです)。

 科学・人類への貢献について
  脳死身体の各種利用が社会からの支持を得るためには、その利用が科学や医学や人類のために大きな貢献をすることが必要となります、臓器移植などは短期的で直接的な貢献をし、基礎医学的な人体実験などは長期的で間接的な貢献をすると考えられます。社会への貢献度があいまいなものは各種利用に適さないと思われます。

 コストについて
  脳死身体を安定した状態で維持しておくためには、第2章で述べたように莫大な費用がかかります。単に血液を貯蔵しておくだけならば、コストの面でとても引き合わないかもしれません。逆に、化学物質などの製造の場合、人工的に作るよりも、脳死身体の中で作った方がコストが劇的に下がる可能性もあります。また純粋にコストのことだけを考えるなら、ゲイリンも言うように、一つの脳死身体をなるべく多くの目的に利用し尽くした方がよいことになります。

 倫理について
  「脳死身体の各種利用」とは、脳死の人の身体を取り巻くさまざまな人が、脳死の人の身体を利用するときの、人と人との関わり方のことです。それが人と人との関わり方である以上、そこには倫理問題が生じます。それは、脳死の人に対して、その身体を「利用」するという態度で接するときに、人と人とがどのように関わってゆけばよいか、という問題です。
  臓器移植の倫理問題も、本来はこの中に吸収されるはずです。また、脳死身体の各種利用の倫理問題を考える以前に、ICUにおける倫理問題と、臓器移植以前の倫理問題について深く検討し、何かの具体的な見通しを立てておく必要があります。そのあとで初めて、ここでの話に入るべきだと思います。

脳死身体の各種利用の社会性

  脳死身体の各種利用では、脳死の人を取り巻く人間関係は、臓器移植のときよりもはるかに広くなります。たとえば、ホルモンなどを生産する場合、その生産物を治療のために適用されることになる数多くの患者の人々が、直接の当事者になるわけです。また、脳死身体を人体実験に利用する場合、人体実験によって得られた知識は医学の中に組み込まれ、将来の医学を受けるすべての人々にそのメリットは及びます。この意味で、脳死身体の各種利用の倫理問題とは、広く社会全体がその当事者になるような倫理問題であることになります。
  まず、最初に考えなければならないのは、脳死の人があらかじめはっきりとした意思をもっていたときにどう対応すればよいかという点です。たとえば、脳死の人が、脳死になる以前のまだ判断能力のあるときに「もし私が脳死状態になって、私の身体が医学的に利用できるときには、私は人類のために私の身体のあらゆる利用をしていただくことをはっきりと希望します」という主旨の文書を作成し、主治医にもその考えを告げていたようなケースです。
  『中央公論』論文の発表後に、七一歳の婦人からお手紙をいただきました。彼女は普段から、脳死状態になった場合の臓器提供と死後の病理解剖の意思を記した文書を、尊厳死協会カードといっしょに携帯しているそうです。この論文を読んで、もし臓器や血液の貯蔵庫、希少資源の製造、人体実験などに自分の脳死身体が利用可能ならば、彼女の文書にそれらを書き加えたいと述べておられました。
  先に述べたフランスのミヨー教授も、次のような「遺言」を発表しています。

    以下に署名せる私は、
   (1) 事故によって私が「脳死」になった場合、治療を目的とした臓器摘出、あるい
     は医学の知識と発展にとって有益なすべての実験のために、私の身体を優先的に
     役立てることを承諾致します。
   (2) 私が遷延性植物状態になった場合、全体の利益となり、危険を伴わないと推定
     される診断上および治療上の実験を、臨床研究の専門家が私に実施することを承
     諾致します。

  (2)は脳死のことではないので、混乱を避けるためにここでは無視しますが(とはいっても、さらに大きな問題をふくんでいることに間違いはありません)、(1)でミヨーは、自分が脳死状態になった場合、それを実験のために利用してもよいという意思を、はっきりと文書の形で表明しています。
  このように、事前のはっきりとした意思があった人が脳死の人になった場合、私たちはその人の意思をどのように考え、対応してゆけばよいのでしょうか。脳死の人からの臓器移植と同じように考えれば、本人の事前の意思があり、家族もそれに反対していないときには、各種利用についても、なるべく本人の意思を尊重するような方向で対応してゆくべきだということになるかもしれません。
  しかし、臓器移植の場合は、身体の中のごく一部の摘出にとどまりますが、各種利用では、脳死の人の「身体全体」が貯蔵庫になったり、実験台になったりするので、かなり事情が異なるといわねばなりません。脳死の人の「身体全体」を利用するときでもやはり、本人の事前の意思と家族の同意があればそれで充分なのでしょうか。言い換えれば、本人の意思と家族の同意さえあれば、その身体は何の目的に利用してもよいし、どんな方法で利用してもよい、ということになるのでしょうか。
  たとえば、身体が冷たくなった死体に対してさえ、私たちの社会は昔から「遺体への尊敬」という礼儀作法を守り続けてきました。この「遺体への尊敬」は、単に倫理や習俗のレベルにとどまらず、先に述べた死体損壊罪のかたちで、刑法の中にも盛り込まれています。どうして私たちの社会は、遺体への尊敬ということを、こんなにも大切に守ってきたのでしょうか。それは、冷たくなった遺体は単なるモノではなく、まだ人の身体として社会的に機能しているからだと思います。たとえば遺体の身体を見たとき、私たちは故人を思い出して涙を流したり、思わず身がすくんだり、厳粛な気分になったり、鳥肌が立って気持ち悪くなったりします。これは、遺体の身体が、それを見る人に強い動揺を起こさせるほどの、ある種のエネルギーをもっているからです。このエネルギーは、遺体の身体と、それを見る人々との「間」で働きます。これは、人と人との間で働くような社会的な力を、遺体の身体がまだ保持していることを示しています。遺体は社会的な存在なのです。
  もし冷たい遺体になった人の遺言に、その遺体を公衆の面前で切り刻んで動物に食べさせてくれと記されており、家族もそれに同意したとしましょう。しかし、現在の日本では、これは決して倫理的にも法的にも許されないでしょう。それは、この行為が、多くの人に大きな不快と嫌悪と痛みの感情を与え、社会の秩序をいちじるしく乱すとみなされるからです。いくら本人と家族が納得しているとしても、遺体に対してそのような行為をすれば、それは社会に大きな被害と痛みと不快感を与えることになります(ただしこれが許容される文化圏がありうることに注意しておくべきです)。本人と家族の意向だけで、遺体の扱い方が社会的に決定されるわけではないのです。
  脳死の人の身体でも、まったく同じことだと思います。脳死の人の身体をどう扱うかについては、本人と家族の意思が尊重されるべきですが、本人と家族が希望したことがすべて許されるわけではありません。脳死の人の身体は、温かく血色もよい点で、冷たい遺体よりもはるかにいっそう社会的な影響力が大きい存在です。脳死の人の身体の利用は、社会の人々に、より大きくより深い影響を与えます。この影響は、冷たい遺体のときとは比べものにならないほど大きなものです。
  したがって、いくら本人と家族の意思があっても、脳死身体の各種利用がすべて許されるわけではないと私は考えます。

「利用」が許されるケースとは

 本人の事前の意思が不明の場合、あるいは本人の意思があるのに家族が反対の場合などは、さらに事態は込み入ってきます。しかし実際にはこのようなケースも数多く起きることでしょう。
  ここで、本人の意思と家族の同意がある場合に限って、脳死身体の各種利用がどこまで許されるかについての、私個人の意見を述べておくことにします(『中央公論』の論文ではあえて自分の意見を述べませんでした。それは問題提起の仕方として正しいと考えます。ここでは逆にその問題を突き付けられた一個人として、現時点での意見を述べます)。
  原則的にいえば、脳死身体の利用が許されるのは、(1)他に「代用可能性」がなく、(2)かつ身体にとくに「侵襲」がない、という二つの条件が満たされたときだけです。この二つが満たされているものについては、さらに個別に細かい点を議論することが必要です。また、安く上がるから脳死身体を使うべきだというような、コストの考慮が議論に入り込んではなりません。
  まず現行法で許容されていると解釈できる「解剖」利用と「臓器移植」について考えます。脳死身体の解剖実習は、すでに述べたように、実際の手術現場への立ち会いや心臓死の死体解剖によって充分代用できます。よって、認めることはできません。脳死身体からの臓器移植は、明らかに脳死身体に侵襲があり、原則的には認められません。ただし、特例として、それが他の死にそうな人間のいのちを救ったり、他の人間の生存期間や生の質を明らかに改善する場合にのみ、やむなく認める可能性が出てきます。というのも、ここでは、ひとり(あるいは数名)の、誰が見てもかけがえのないいのちの存続が問われているからです。これが次のケースとは異なる点です。
  脳死身体に放射線を浴びせたり、毒を注入して抗体を製造したり、人工臓器の開発のための実験台にしたりするような、脳死身体に明らかに侵襲のある利用は、認められません。この種の利用は、その恩恵を受けることのできる人が不特定多数です。また恩恵の実際の内容が現時点ではっきりしなかったり(この脳死身体から得られる放射線のデータが、具体的に誰の何に役立つのか)、恩恵の程度がはっきりしなかったり(そのデータで具体的に誰がどのくらい良くなるのか)します。これが臓器移植と異なる点です。このような多くの点で不確定な利用のために、脳死身体への侵襲が正当化されるとは思えません。ですが、やはり特例はありえます。AIDS研究やがん研究のように、得られる恩恵の内容がはっきりしていて、かつその研究の推進がきわめて重大である場合には、脳死身体での実験利用が研究を一気に進めることが確実な実験に限って、やむなく認めることになるかもしれません。特例については個々のケースごとに慎重に検討する必要があります。
  移植のための臓器の貯蔵庫、血液やホルモンなどの貯蔵庫、身体にとくに侵襲のない基礎医学実験(たとえば血液成分の分析や心電図の測定、脳の断層撮影など)、動物実験をすませた新薬の臨床医学実験などについてはどうでしょうか。移植のための臓器の貯蔵に関しては、一週間以内などの短期間であれば許されると思います。長期にわたる臓器や血液やホルモンの貯蔵、そしてそれらの製造は認められません。それらの多くはコストを度外視すれば他のもので代用可能です。
  基礎医学の人体実験は、すでに日本で行なわれています。先にあげた杉本侃教授らの実験がそれです。これは、脳死身体にさまざまなホルモンや化学物質を投与して、脳死状態での心臓をはじめとする諸臓器の働きを解明する実験です。その結果として、ADHとエピネフリンを与えたときに脳死身体は良好な状態を維持することが分かり、事実として最高五四日間も脳死身体の心臓を維持させました。この実験結果は英文の学会誌と邦文の医学誌に掲載されました。それが掲載されたところをみると、医学界は脳死身体のこのような実験を事実上認めていることになります。また杉本侃教授らの研究には文部省科学研究費が与えられており(第六一四八〇二六七号「脳死患者の循環動態・諸臓器機能および内分泌機能に関する研究」)、文部省もこの種の脳死身体の人体実験を事実上認めていることになります。誰も言わないのでつけ加えておきますと、杉本侃教授らはその実験を始めるときにどのような倫理的配慮を払ったのか、きわめて不明瞭です。明らかに、本人の事前の意思は確認されていません。家族にどのようなインフォームド・コンセントを行なったのか不明です。大阪大学の倫理委員会に審査を依頼したという話も聞きません。脳死身体への人体実験というまったく新しいカテゴリーの実験を試みるにあたっては、倫理的、社会的、法的な面での慎重な対応が要求されるはずです。これは科学研究費を与えた文部省も同じです。
  私は、脳死身体を単に基礎医学的な実験のためだけに維持しておくのは、たとえ脳死の人の事前の了解があったとしても、許されないのではないかと思います。いくら侵襲がないとはいっても、脳死の人を脳死の人として維持しつづけるには、それ相応の理由が必要です。たとえば第2章で述べたような、「家族の死の受容のため」というような理由です。しかし「将来の不特定多数の利益のための基礎医学的な実験をするため」というだけでは、その理由に値しないのではないかと感じるのです。私がこう考えるのは、第7章で述べる「かけがえのなさ」という価値基準があるからだと思います。ただし、やはり特例はありうるかもしれません。
  脳死になるかもしれない人を治療する際の副産物としてデータを得るとか、脳死の人を検査したりケアしたりする際にしっかりデータをとっておくことなどは、もちろん許されます。
  動物実験をすませた新薬の人体実験も、難しい問題です。現在、新薬は、動物実験を終えたあと、病院の少数の患者や製薬会社の社員などに人体実験をして、問題がないことを確認してから認可されます。なかには人体実験の途中で問題が発見される場合もあるわけです。脳死身体を使うことができれば、現在実験台になっている人の危険がなくなります。これは裏返しの臓器移植ともいえるようなケースです。実験台になっているひとりの人の身の危険を、脳死身体が代わりに引き受けてくれるのですから。ただし、臓器移植ほど緊急性があるとも思えませんし、脳死身体の数から見て、意味のあるデータがとれるほどの数が確保できるとも思えません。したがって、基本的には許されないと考えます。
  以上が大雑把な私の意見です。脳死身体の各種利用のケースは他にもたくさんあり、それぞれについてこれから個別的に議論を深めてゆかねばなりません。
  ここで、将来の予想を述べておきましょう。

将来の予想

 一般的に言えば、侵襲のない基礎医学実験や、臓器・血液の短期貯蔵などは、徐々になし崩し的に医療現場で実施されてゆくことでしょう。前者は現在すでに行なわれているものを拡大するかたちで(すなわち「脳死の病態解明」という名のもとに)、後者は臓器移植が軌道に乗ったときにいつのまにか実行されているでしょう。そしていずれマスコミに取り上げられて社会問題になる可能性があります。そのときは、医学界の圧力によって、国会で「脳死身体の(実験)利用に関する法律」のような特別立法がなされるかもしれません。立法は、「角膜及び腎臓の移植に関する法律」や「死体解剖保存法」や「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」の改正と同時になされることも考えられます。
  侵襲のある人体実験も実施される可能性があります。たとえば難しい複数臓器同時移植などの練習のために、病院や大学の倫理委員会が、特例として脳死身体の利用を認めるかもしれません。AIDS研究やがん研究のための実験も認められるかもしれません。これらは、前記の立法の成立と相前後する可能性が高いと思われます。
  また、外国の動向に左右されることも充分考えられます。フランスではミヨー教授の裁判が始まります。その結果を見て、フランスで、脳死身体の人体実験に関する法律が制定される可能性があります。また、医学研究最先端のアメリカで、脳死身体の各種利用が認められる可能性は充分にあります。たとえば脳死身体への侵襲を伴う人体実験がどこかの国(あるいは州)で認められたとします。その国の医学者は、脳死身体を使って次々と新しいデータを手に入れ、学会に発表します。その他の先進諸国の医学者は指をくわえてそれを見ていなければなりません。日本でも、医学者からの圧力が高まり、政治家が動き、マスコミを使ってキャンペーンを始めるでしょう。外国ではもうどんどん実験をやっているのに、どうして日本だけいつまでも禁止されているのか。このままでは日本の医学は世界に取り残されてしまう。臓器移植のときと同じかたちのキャンペーンです。
  まれな病気にかかった人が脳死になった場合、この脳死身体は本当に貴重な研究対象です。どこかの病院や大学でこの種の患者がでた場合、倫理委員会によって、今回だけの特例として、侵襲を伴う人体実験もすべて許すという決定がなされるかもしれません。
  このような将来の予想を冷静に視野に入れたうえで、私たちはそれらの利用を社会的にどこまで認めてゆけばよいかについて、いまここで真剣に議論するべきだと思います。
  脳死身体の各種利用は、脳死と臓器移植がいちおうの決着を見たあとで、本格的に問われることになるであろう大問題です。本書を読まれた読者が、これを自分の問題として引き受けて、社会的な関心と議論を蓄積されることを願っています。

先端科学技術の社会的受容について

 脳死身体の各種利用についてここ一年ほどいろいろ考え、文章を書いていくうちに、私の頭の中に、二つの問題がこびりついて離れなくなりました。
  一つは、先端科学技術の社会的受容ということです。ちょっと難しいことばですが、要するに、日進月歩のスピードで進んでいる先端の科学技術を、私たちの社会の中にどのようにしてうまく迎え入れてゆけばよいかという問題です。受容といっても、それはただ迎え入れることだけを指すのではなく、「ちょっと待ってくれ」と歯止めをかけることもふくんでいます。
  脳死と臓器移植、そして脳死身体の各種利用についての議論は、まさにこの先端科学技術の社会的受容の問題でもあります。人工呼吸器やICU設備の発達で、脳死状態の人がICUの中で生み出されるようになり、その脳死の人を対象にして、臓器移植やさまざまな「利用」が技術的には可能になってきました。ここで問われているのは、脳死とそのさまざまな利用を可能にする先端科学技術を、私たちの社会が今後どうやって迎え入れてゆけばよいのか、それらのうちのどれをどのような条件のもとで社会的に承認し、それらのうちのどれを社会的に禁止するのかという問題です。
  なにも脳死にかぎりません。たとえば、体外受精技術、受精卵の冷凍技術、男女産み分けの技術、人工臓器の技術なども同様です。医療の分野をはなれても、フロンガスの使用の問題、コンピュータのもたらすストレス、それに原子力発電所などの問題は、この点に深く関わっています。
  先端科学技術の社会的受容の問題は、これから自然科学や医学の多くの領域において、ますます重要なものになってゆくでしょう。私たちが暮らしている先進諸国は、例外なく科学技術によって支えられた社会です。しかし、科学技術の進歩が無条件に社会に幸福をもたらすという話が信じられた時代は終わりました。原子爆弾、公害、環境破壊など、いまから思えば科学技術の社会的受容に失敗した結果、科学技術が社会に大きな不幸をもたらした例は数限りなくあります。そのうちのいくつかは、社会的に受容する際に満たすべき条件についてほとんど考慮が払われなかった疑いがありますし、また原子爆弾などはそもそも社会がその技術の応用を禁止すべきであったと思われます。
  このように、これからは、社会の側が先端科学技術の応用を制御してゆくという発想が、必要となります。そしてそれを効果的に行なうための社会の仕組みの整備と、それを対象とする学問の構築が望まれます。このような発想をもった学問としては、すでにテクノロジー・アセスメントがあります。そしてそれは医療の分野にも浸透しつつあります。しかしテクノロジー・アセスメントは、数量化のこだわる点や、視野がまだ狭い点など、かなり改革の余地があります。
  先端科学技術の社会的受容を議論するためには、次の二つの点を避けて通ることはできません。
  ひとつには、この種の議論は、技術が実際に応用される以前に行なわなければならないということです。事前の議論がどうしても必要なのです。たとえば日本で男女産み分けの議論が持ち上がったのは、慶応大学の飯塚理八教授のグループがすでに臨床応用を始めた後のことでした。議論を始めるときに、すでに実際の応用がなされているのでは、不必要な社会的混乱を招くだけではなく、その技術によって恩恵や利益を得ている者の思惑がからんで、冷静な議論がきわめて行なわれにくくなります。フランスの脳死身体の人体実験もそうです。一九七〇年代からその可能性は示唆されているのに、事前の社会的な議論を行なわなかったばかりに、ミヨー教授が先走った実験を行なってしまい、フランスの社会を大きな混乱の陥れています。
  そうではなくて、先端科学技術が応用される以前に、その社会的受容の仕方について、徹底的に議論を詰めておくことが何よりも必要なのです。私が『中央公論』に脳死身体の各種利用についての問題提起を行なった第一の目的は、脳死身体の各種利用が日本で実施される前の段階で、その社会的受容についての事前の議論を呼び起こすことでした。そして、脳死身体の各種利用にかぎらず、これから次々と生じてくるであろう生命倫理問題に対して、私たちの社会が将来(肯定・否定の双方をふくめた)適切な対応のできるように、いまここで議論の経験を積んでおくことをも同時に目指したのでした。
  第二の点は、この種の議論を専門家だけにまかせておくのではなく、一般市民も専門家と対等な立場で議論に加わるべきであるということです。科学技術の応用について、専門家だけが決めればよいという時代は終わりました。先端科学技術の応用は、ただちに社会の普通の人々に影響を及ぼします。つまり先端科学技術の恩恵や危険の当事者となるのは、むしろ一般市民の側なのです。たとえば脳死身体の実験利用を医学界や倫理委員会が認めたとき、その実験台になるのは、交通事故などで倒れた、われわれ一般の市民の身体です。チェルノブイリで技術者が不用意な実験をしたときに、その被害が及ぶのは、その実験には何の関係もないわれわれ一般市民のいのちです。
  科学技術の恩恵や危険を受ける当事者である一般市民が、科学技術の社会的受容のための議論に加われないとすれば、それはおかしな話です。科学者は、「彼らは素人じゃないか」と言うかもしれません。しかし科学者自身も、科学技術の社会への影響やその倫理問題については、まったくの素人なわけです。この種の問題は、いろいろな意味での素人が、多方面から集まって議論すべきものだと思います。
  専門家と一般市民とが対等なかたちで議論するためには、そのための仕組みをどこかに作る必要があります。現在のところ、そのような対話は、新聞の投書欄や学会の公開説明会などを通して、間接的に行なわれているだけです。学会そのものや倫理委員会などは一般市民に対しては実質的に閉じていますし、一方、市民運動の人たちも政策担当者の人たちと有益な対話を行なっているとは思えません。専門を超えた対話を実現するための場所、そしてメディアが望まれるのです。

「利用」の倫理的意味

 もう一つの気になる問題は、「利用」ということです。脳死身体の各種利用の倫理問題とは、脳死の人に対して、その身体を「利用」するという態度で接するときに、人と人とがどのように関わってゆけばよいかというものでした。私は、この「ある人の身体を利用する」というところに、何か深い謎が隠されているように思うのです。
  最近の生命倫理でクローズアップされてきたもう一つの「利用」があります。それは「死亡胎児の資源利用」です。
  妊娠の途中でかなりの数の自然流産があります。また、人工妊娠中絶も数多く行なわれています。死体となって母親の身体の外に出た胎児は、そのまま生ゴミとして捨てられるか、処理業者の手に渡ります。ほとんどの死亡胎児はこのようにして捨てられたり、火葬にされたりするのですが(たとえば東京都の条例では、一六週以降の死亡胎児は火葬にすることが義務づけられています)、胎児をそのまま捨ててしまうのはもったいないから、どうせ捨てるのならせめて別の用途に利用しようという考え方が出てきます。
  たとえば自然流産児から脳細胞を取り出して、パーキンソン病という病気にかかった成人の脳に移植する手術が、ここ一〜二年の間にいくつかの国で試みられました。また、大脳がない状態で生まれた無脳児から、心臓などの臓器を取り出して他の新生児などに移植する手術がすでに行なわれており、これからも行なわれる可能性があります(アメリカの厚生省の諮問委員会は、死亡胎児の資源利用が道徳的には許容されると結論したようです。「朝日新聞」一九八八・一〇・三、夕刊)。
  胎児に対しても、脳死身体と同じようないくつかの実験を行なうことができます。たとえば、がん研究をしたり、放射線を浴びせて研究できます。胎児の細胞を培養してさまざまな医学実験の材料にすることができます。現にアメリカでは、胎児の細胞にコード番号がふられて、業者が国際的に販売をしています。これは日本でも手に入れることができます。大日本製薬が発行しているカタログによりますと、たとえば05-547 HEL-299という細胞(株細胞)は胎児の肺から取ったもので、価格は五万五千円です(大日本製薬株式会社ラボラトリープロダクツ部『総合カタログ第一一版』I-二二ページ。このカタログにはこの他に成人の人間の細胞や、動物の細胞なども多数記載されています)。
  死亡胎児の細胞が公然と販売されているという点は、深く心にとどめておく必要がありそうです。細胞を売買してよいのなら、どうして臓器はだめなのか、どうして脳死身体そのものを売買して悪いのか、という意見がいつかきっと出てくるだろうからです。
  これら現在進行形の「死亡胎児の資源利用」は、その構造が、脳死身体の各種利用ときわめてよく似ています。脳死身体の各種利用とは、脳死状態になってしまった人の身体を、私たちの共同体のために利用することです。胎児の資源利用とは、私たちの共同体に入る前に死んでしまった死体の身体を、私たちの共同体のために利用することです。
  ここで、次のように考えてみてください。精子と卵子が結合して受精卵になった瞬間から人間は始まり、心臓が停止して身体中の血液と体液の循環が止まり身体のすべての細胞が死滅した時点で、人間は終わると仮定します。これが「人間」の当面の定義です。ところがこの人間をさらに二種類に分けることができます。仮に名前をつけるなら、それは、「ひと」と「ひとでなし」の二種類です。「ひと」の中には、たとえばこの本を読んでいるあなたや私、社会生活ができてことばが通じる人間、普通の子供や赤ちゃんなどが入るでしょう。これに対して「ひとでなし」の中には、脳死の人や、死んで母体外に出た胎児などがふくまれるのだと思います。無脳症の新生児もこの中に入るのかもしれません(「ひとでなし」とは不穏当なことばですが、他に適当なことばを思いつかなかったので、ご容赦ください。私は本書で、「人間」「人」「ひと」などのことばを使ってきました。本書の性格上、それらのことばの厳密な定義をしませんでした。大雑把に区別を言えば、「人間」とは生物学的な線引きをしたとき、「人」とは物・モノに対置するとき、「ひと」とはこれから述べる利用の視点から見たとき、にそれぞれ用いたつもりです。本書では使いませんが、生物学的な定義としての「ヒト」、人称的な区別をするときの「私」「他者」などもあります)。

  このように、人間を「ひと」と「ひとでなし」の二種類に分けたとします。このときここで問題にしている「利用」とは、まさに「ひと」が「ひとでなし」の身体を利用することを意味しています。たとえば脳死身体の各種利用とは、私たち「ひと」が、脳死の人という「ひとでなし」の身体を、臓器移植のドナーや実験台として利用することにほかなりません。胎児の資源利用とは、私たち「ひと」が、流産胎児あるいは中絶胎児という「ひとでなし」の身体を、臓器移植のドナーや研究用の細胞の供給源として利用することにほかなりません。
  この「利用」の構造は、いったい何でしょうか。
  まずそれは、一方的な利用です。私たちが脳死の人の身体を利用することはあっても、逆に脳死の人が私たちの身体を利用することはありません。利益や恩恵を得るのは私たちの方に限られ、脳死の人の方は何の利益も得られません。別の見方をすれば、これは「ひと」の幸福という目的のために、「ひとでなし」を手段として使用することになります。
  ひとことで言えば、人間を、「ひと」と「ひとでなし」の二種類に分け、「ひとでなし」は「ひと」のために利用されてもよいという発想が私たちの中にあるからこそ、私たちは脳死身体や流産・中絶胎児をさまざまなかたちで利用しようとするのではないでしょうか。

現代文明、現代社会についての反省

 この二分法の発想は、ほかにもいろいろなところに姿を現わします。たとえば植物状態の人や痴呆性老人や重度心身障害者などは、「ひと」と「ひとでなし」のどちらに入るのでしょうか。私たちは老人や障害者の施設を、どうして私たちの普段の生活圏の外に隔離するようなかたちで作るのでしょうか。これは、私たちに少なくとも迷惑だけはかけるなという、裏返しのかたちの利用といえはしないでしょうか。
  人間以外にも視野を広げてみましょう。たとえば私たちが家畜を大規模に飼っているのはなぜでしょうか。家畜は当然「ひとでなし」です。「ひとでなし」は「ひと」を飢餓から救うために、あるいはまた「ひと」の食欲を満たすために利用してしかるべきだという発想に裏づけられて、今日の肉食文化があるのではないでしょうか。家畜の飼育においては、家畜は完全に「ひと」の食欲を満たすための手段にすぎません。家畜は殺されて「ひと」に食べられるためだけに、生存させられます。私たちの豊かな食生活は、家畜の存在と、それを可能にした前述の発想に裏づけられているのです。
  振り返ってみれば、現代文明の自然支配と呼ばれるものも、じつはこの発想に基づいているのではないかと思われます。自然世界全体を「ひとでなし」の世界とみなし、私たち「ひと」がそれを自分たちのために利用してよい、というのがその考え方だろうからです。この発想に基づいて、私たちは化石燃料を掘り尽くし、森林を開発し尽くし、幾種類もの生物を絶滅させ、多くの化学物質や廃棄物で自然環境を破壊しました。
  国と国との関係にも、その影を見出すことができます。たとえばヨーロッパの世界支配とは、非ヨーロッパ世界を「ひとでなし」とみなして利用した歴史とみなすことも不可能ではありません。現在の日本によるアジア地域の経済支配にも同じような影を見出せます。
  また、多くの文化圏で見られた奴隷制度などは、まさに人間のうちのある集団だけを「ひとでなし」とみなして、のこりの「ひと」がそれを利用するという発想そのものです(こうやって考えてみると、「ひとでなし」の中には、人間である「ひとでなし」や、自然物である「ひとでなし」など、さまざまな種類の「ひとでなし」がふくまれることになります。そこには、単に二分法だけでは完全にとらえきれない複雑な構造があることが、お分かりいただけるでしょう)。
  このように考えてくると、「ひと」と「ひとでなし」を区別する発想、あるいはその類似物が、いかに根深いものであるかに気づきます。これは、単に医療倫理の問題なのではなくて、じつは私たちのどっぷりと漬かっている文明の問題だと思います。脳死の問題を追及してゆくうちに、われわれはとうとう文明の問題にまで行き着いてしまったのです。私たちの文明は、ある意味でこのような発想に支えられて今日のような形に発展してきたのでしょう。そしていま、脳死身体や胎児をめぐって、この文明の深層が、再び表に姿を現わしたのではないでしょうか。
  現代の科学技術は、現代文明が産み出したものです。その科学技術は、脳死身体や母体外の死亡胎児を、利用しよう利用しようという方向へ流れてゆきます。利用できるものはすべて利用し、可能なものはすべて実際に実施してしまうのが、現代科学技術の本性です。それは、現代文明の深層である前述の発想のうえに、科学技術が成立しているからだと思います。ある種のものに対して、それを利用するという態度でまず第一に接してしまう私たちの傾向性こそ、現代の科学技術を深いところで支えてきた、深層の倫理だと思います。
  それゆえ、脳死身体の各種利用は「どこまで許されるか」と問うことは、じつは現代文明の深層そのものの妥当性を問うことになるのです。その問いについて考える一つの手がかりは、脳死身体や母体外の死亡胎児を利用することで成立する社会とはどのような社会なのかについて、イメージを膨らませ、それが本当に住みよい社会であるのか、多くの人が幸福になれる社会なのかと自問してみることでしょう。そして同時に、そのような社会では、私たちは自然に対してどういう態度をとり、私たちの子供たちがどういう生命観をもつようになるのかを考えてみることです。そうやって、ひとりひとりの人が、自分たちのはまり込んでいる文明について深く考え始め、地味な議論が蓄積されてゆくことではじめて、脳死身体の各種利用についても、妥当な結論が導かれるようになると思うのです。
           *
  〔初校の段階で手にしたアメリカの医学誌(Annals of Internal Medicine, 15, October, 1988)に、とうとう本格的な脳死身体の臨床医学実験の論文が掲載されました(B. S. Coller et al., Inhibition of Human Platelet Function in Vivo with a Monoclonal Antibody――With Observations on the Newly Dead as Experimental Subjects)。これは、脳死になった七八歳の男性の身体に、モノクローナル抗体を注入して血液分析を繰り返し、得られたデータを吟味したものです。また同誌の論説で、J・ラ・ピューマは、最近親者と倫理委員会の承諾があり、重要性のある研究であれば、脳死身体を用いた研究は倫理的に許容できると述べています。どうやら、一九九〇年代へ向かって、先進諸国は同時並行的に、脳死身体の各種利用の方向へと邁進しているようです。〕

 

入力:だむす