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作成:森岡正博 
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『世界』 2000年10月号 129−137頁
臓器移植法・「本人の意思表示」原則は堅持せよ
森岡正博

*【数字】の箇所で、印刷頁が変わります。数字はその箇所までの頁数です。
入力ボランティア:佐川弘之さん


 
 日本の臓器移植法が施行されたのは一九九七年一〇月のことである。その後、脳死の人からの臓器移植が一九九九年二月に再開されて、現在に至っている。現行の臓器移植法は、脳死になった本人があらかじめドナーカード等によって「意思表示」をしており、家族がそれを拒まないときに限って、脳死判定と移植ができると定めている。
 ところが、現行法では「本人の意思表示」が必須となっているために、ドナーカードをもたずに脳死になった人からの臓器摘出ができない。だから、臓器不足がいつになっても解消されないという意見が出されている。さらに、臓器移植法のガイドラインによって、一五歳未満の子どもからの臓器摘出も禁止されている。心臓移植を待つ子どもは、同じくらいの年齢の脳死の子どもから取り出した、大きさが合う心臓でなければ手術ができない。この点においても、現行法は不備であるとの指摘がなされている。
 臓器移植法には、二〇〇〇年一〇月を目途に見直し作業に入ることが明記されている。これをにらんで、すでに、移植を受けた方々の団体である日本移植者協議会からは、一五歳未満の子どもからの臓器摘出を可能にするよう要望が出されており(一九九八年一一月)、同じくトリオ・ジャパンからは、本人があらかじめ拒否の意思を示していないかぎり、家族の承諾で臓器摘出を可能にするよう要望が出されている【129】(二〇〇〇年三月)。
 これらの動きと連動する形で、厚生省の厚生科学研究費による研究班「臓器移植の社会的資源整備に向けての研究」(主任研究者:北川定謙)のサブ研究班の「臓器移植の法的事項に関する研究」の分担研究者である町野朔上智大学法学部教授が、二〇〇〇年二月一八日に「「小児臓器移植」に向けての法改正−二つの方向−」と題する発表を研究班の公開シンポジウムで行なった。
 町野の発表内容は、その後、私の主催する「臓器移植法改正を考えるホームページ」<http://www.lifestudies.org/jp/isyokuho.htm>にて全文公開されている。町野はその後、若干の手直しを行ない、八月二二日に正式報告書を厚生省に提出した。町野の提言は明瞭である。すなわち、本人が移植に反対である旨をあらかじめ表示している場合は、さすがにその人から臓器は摘出できない。しかしながら、反対表明をせずに脳死になった人がいた場合、その家族さえ同意すれば、その脳死の人から臓器摘出ができるように法改正をしたいということなのである。子どもについても同じで、本人の反対表明がない限り、親権者の承諾によって、脳死からの臓器摘出ができることになる。
 平たく言えば、こういうことだ。ドナーカードをもたずにあなたが脳死状態になったとする(大多数のケースが実はこれである)。そのとき、たとえあなたがほんとうは脳死移植に懐疑的だったり、決断ができてなかったり、反対だったりしたとしても、その意向は反映されず、家族さえ承諾すれば、脳死状態のあなたから合法的に臓器が摘出されてしまうということだ。言い換えれば、脳死状態から臓器を取られるのがいやな人は、それをあらかじめ表示しておく義務があるということである。あらかじめ表示してなかったのなら、脳死状態になったあとで臓器を摘出されたとしても、一切文句を言うな、ということである(この点については『論座』二〇〇〇年八月号の対談収録の際に、町野教授に直接確かめた)。
 このように、町野改正案は、現行法の根本である「本人の意思表示」原則を根底から覆すものである。「本人の意思表示」原則、すなわち、「脳死になった本人が、臓器をあげたいと明言していた場合に、それを活かすのが臓器移植だ」という原則は、脳死臨調の最終報告書でも確認されている根本思想である。その枠組みを崩す改正案が、町野案なのだ。
 町野案発表に先立つ二〇〇〇年二月四日発売の『論座』三・四月合併号(二〇〇〜二〇九項)にて、私は、移植法改正に関する森岡案の枠組みを提示する論文「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」を発表した。これは、すでに報道されていた町野案の骨子を批判し、子どもからの臓器移植についての私案を述べたものだ。森岡案は、【130】「本人の意思表示」を前提とする現行法の枠組みを堅持したうえで、一五歳未満の子どもからの臓器摘出に関しては、子どもがドナーカードで意思表示することを認め、ドナーカードをもった子どもが脳死になった場合、家族が移植に同意するときに限って、子どもからの臓器摘出を認めればいいのではないかというものである。つまり、大人の場合は現行法のままでOKとする。それに、子どもの場合の特則を付加するという案だ。
 森岡案発表後、前記のホームページ上に、改正案に関する論文やデータが集結され、掲示板で活発な議論が開始されている。これはわれわれの生と死の決定にかかわる重大問題である。インターネットをもちいて、公開の議論を積み重ねるという手段を活用すべきである。ホームページでは、本人の自己決定を重視し、チェックカード制を導入する「てるてる案」(ホームページの掲示板の常連である「てるてる」さんが提案された本格的な移植法改正私案)も発表されている。そこでの議論を経て、私は、森岡案をさらに具体化することができた。以下に発表するのは、その成果の一部である。
 もちろん、脳死判定や臓器摘出のプロセス等について、疑義が残されているのは周知のとおりである。特に「ラザロ徴候」の問題や、昏睡状態患者への治療が移植のために控えられる危険性があるという問題などについては、今後も究明を続けていかなければならない。それらの点を再度確認したうえで、本稿では、「本人の意思表示」原則に焦点を絞って議論してゆきたい。

2 

 まず、なぜ私が現行の臓器移植法の枠組みを変更すべきでないと考えているのかを説明したい。その理由は、日本の臓器移植法は、「脳死を経て死にゆく者の人間の尊厳」を世界でもっとも手厚く保障した臓器移植法だからである。「本人の意思表示」と「家族が拒まないこと」を前提、条件とし、それがクリアーされたときにはじめて移植に進むという方式を世界ではじめて採用したのが、日本の臓器移植法なのだ。この方式は、脳死になった人とその家族がともに臓器提供に納得しているときに限って移植を進めるという精神にのっとっており、意に反した臓器提供という悲惨な事態が生じる危険性がもっとも少ない。
 日本の臓器移植法は、もちろん様々な問題を含んでいるし(島次郎「脳死と移植をめぐる政策問題」『臨床死生学』vol.5,No.1,二〇〇〇年参照)、この間の実施例を通して、運用面でも多くの問題を残した。しかし、脳死を経て死にゆく者の「人間の尊厳」を守るという点で、その枠組みそれ自体は、世界でもっとも先進的なものなのである。和田移植後の三一年間の議論の蓄積によって、はじめてこのような先進的な枠組みが日本において成立したのだ。われわれにいま必要なのは、このような発想の転換である。
 世界の臓器移植法は、本人の意思表示に関して次の二つの【131】パターンに大別できる。
 (1)本人が移植の意思表示をしていた場合は移植できる。本人の意思表示がない場合は家族が承諾すれば移植できる。
 (2)本人が移植に反対の意思表示をしていた場合は移植できないが、反対の意思表示がない場合は、移植に同意して死んだものとみなして移植できる。
 細部に差異はあるものの、アメリカ、スウェーデン、ドイツなどが(1)に属する。同じく、差異はあるものの、フランス、イタリア、スペインなどが(2)に属する。(1)の方式をとるアメリカでは、本人が意思表示をせずに脳死になった場合、家族が移植を拒否するケースがかなりあると言われている。(2)の方式は「推定同意」と呼ばれ、本人が事前にノーと言っていなければ、家族が反対しても法律上は臓器摘出できる。その点において、(1)の方式よりも、臓器を多く取ることができるとされている(家族が反対したときの実際の運用は様々であるようだ)。
 このように海外の臓器移植法のほとんどは、本人が意思表示せずに脳死になった場合は、家族の承諾があれば臓器摘出ができるとしている。これに対して、日本の臓器移植法は、本人が意思表示せずに脳死になった場合は、移植できないとする。ここが、もっとも大きな相違点だ。そして、町野改正案は、日本の臓器移植法を、まずこの点において、海外の法律に合わせようという提言なのである。
 ここで、海外の臓器移植法がなぜこのようになっているのかを考えてみる必要がある。歴史的に見た場合、人間が死んだあとの死体の処理をどうするかという問題があった。そもそもは死体に所有権なしという考え方であったが、しかし誰かが死体を処分しなければならない。誰も死体を埋葬しなければ、死体が腐ったり、伝染病が蔓延したりして、たいへんなことになる。だから、死体を家族や共同体が埋葬してきたという歴史的慣行を尊重して、人間の死後は、その死体の所有権が家族(あるいは国家)に移行するという法律上の擬制が成立した。所有権は、処分権と密接な関連性をもつ。だから、脳死になった人間を死んだとみなすのなら、脳死になった身体の所有権は、本人から家族に移るのであり、脳死の身体をどう処分するか、つまりそのまま心臓死させるのかそれとも臓器を摘出するのかは、家族が決定できるということになる(丸山英二「臓器移植の比較法的研究」『比較法的研究』四六号、一九八四年参照)。 
 このような考え方によって、本人の意思表示がない場合は家族が臓器摘出を決定できるという判断が導き出されるのである。そして、これが、海外の臓器移植法のひとつの骨子となったのである。しかしながら、ここで注意しておくべきは、この思想は、臓器移植が不可能であったはるか昔に成立したものであるという点だ。つまり、人間の死体に、何の使い道もなかった時代にできた考え方なのだ。そもそもの強調点は、「家族に死体の埋葬義務がある」ということだったのだ。それが、家族が臓器摘出に同意できる根拠へと流用され【132】たわけである。
 ところで、臓器移植が可能になったときに、新しい法理が持ち込まれた。すなわち、本人があらかじめ臓器を提供したいと意思表示していた場合、その希望をかなえて臓器を摘出できるという考え方である。臓器提供の意思があった場合、それを活かすのが臓器移植だという思想である。この思想は、きわめて新しい。一九六〇年代の議論を経て、一九六八年に成立したアメリカの統一死体提供法ではじめてその概念が確立したとされている。そして、この考え方こそが、日本の一九八〇年代以降の脳死論議において、移植推進派が多用したレトリックなのであった。「移植によって役立ちたいという本人の願いを活かすのが臓器移植である」という考え方こそが、日本での臓器移植再開をサポートした思想であったことを忘れてはならない。
 整理すれば、海外の臓器移植法には、ふたつの思想が混在している。(a)「脳死の身体の処分権(あるいは所有権)は家族に移行する」という伝統的な思想、(b)「本人の意思を活かすのが移植である」という新しい思想、の二つである。そして、海外の移植法のなかの、「本人の意思がなくても家族の承諾があれば」という部分は(a)の思想に裏付けられており、「本人の意思」を尊重する部分は(b)の思想に裏付けられていると考えられるのである。
 こうやって考えてみれば、海外の法律は、まったく異質な(a)と(b)の二つの思想の妥協の産物だということが分かる。そして、歴史的に見れば、まず(a)の「処分権の移行」の思想があり、臓器移植が登場してから(b)の「本人の意思」の思想が付加されて、このふたつが「or」で結ばれるようになったのである。
 日本ではどうなのだろうか。まず、一九五八年の「角膜移植法」では、「遺族の承諾」のみが条件であり、本人の意思は考慮されていなかった。まさに(a)の思想である。その後、一九七九年の「角膜及び腎臓の移植に関する法律」では、「遺族の承諾」と「本人の意思」が「or」で結ばれるようになった。(a)の思想に(b)の思想が加わったのである。この時点で、日本の移植に関する法律は、海外と同じ水準にすでに到達しているのである。そして、一九九七年の臓器移植法によって、この「or」が「and」になり、「本人の意思」と「家族が拒まないこと」の双方が満たされることが必要条件となった。すなわち、移植法はさらに進化して、よりいっそう「脳死を経て死にゆく者の人間の尊厳」を手厚く保障する法律となったのである。
 日本の法律は、「家族の承諾のみ」→「本人or家族」→「本人and家族」というふうに三段階にわたって進化してきたのだ。そして、海外の移植法は、まだ第二段階の地点でとどまっているのである。私が、日本の臓器移植法は世界でも先進的な法律であると言うことのひとつの意味は、ここにある。第三段階にまで至ってはじめて、脳死を経て死にゆく者の人間の尊厳を手厚く保障したうえで、移植を進めることが【133】できるのである。以上を踏まえて整理すれば、日本の現行移植法の評価すべき点は、@本人が「死の概念」の選択をできること、A「本人の意思表示」が前提条件となっていること、B本人も家族もともに納得するケースから移植を行うこと、の三点である。
 以上の認識に立ったうえで、町野改正案の最大の難点を指摘したい。
 町野案は、海外の臓器移植法にならい、本人が反対の意思を表明していない場合は家族の承諾があれば臓器を摘出できるとする。ここで、データを見ていただきたい。朝日新聞が一九九八年一〇月から連続して行なった三回の世論調査によれば、脳死を人の死と認める人は、約五〇パーセント。認めない人が約三〇パーセント。他社の調査でも、似たような傾向が見られる。ところで、日本では、ドナーカードで意思表示せずに臨床的な脳死状態になる人がほとんどである。とすると、ドナーカードをもたずに臨床的な脳死状態になった人の三割前後は、脳死を死と認めてない人だと推測される。
 もし町野案通りになってしまえば、これら脳死を死と認めていなかった三割の人々の運命は、家族にゆだねられることになる。そして家族が承諾した場合、これらの人々は、意に反して脳死による死の判定をされ、臓器を摘出されてしまうのである。これがいったい、人間の尊厳を保障する社会なのであろうか。人間の尊厳を保障する社会とは、「意に反して脳死による死の判定をされ、臓器を摘出されてしまう人間」が出てこないような制度的保障を張りめぐらしたうえで、脳死と臓器移植を実施していくような社会なのではないのだろうか。
 日本の現行の臓器移植法は、たしかに様々な問題点を抱えながらも、この点に関しては厳格な制度的保障を行なっている。町野案および海外の移植法は、この点において、重大な欠陥があると言わざるを得ない。
 人間の尊厳が保障される社会における臓器移植とは、「移植によって他人の役に立ちたいという本人の明確な希望があったときに、それをみんなで活かして、移植に結びつける」という思想によって、移植が運営されていく社会であると私は思う。たしかに、本人の意思の確認を前提とすれば、脳死の人から摘出できる臓器の数が劇的に増えることはないかもしれない。しかしながら、海外で見られるような、「臓器不足を解消するために、本人の意思が不明の場合からもっと臓器を摘出できるようにするべきだ」というような発想は、完全に本末転倒の考え方である。このような考え方を、徹底して退けることこそ、われわれに課せられた課題なのではないか。
 臓器不足の解消は、このような路線の法律改正によってではなく、「正しい知識をともなったドナーカードの地道な普及」によって、なされてゆくべきである。移植を受けるレシピエントの方々も、本人の意に反して摘出された可能性のある心臓を、受け取りたいとまでは思っていないはずである。【134】移植医療を、社会のなかへと着実に根付かせていくためには、「本人の意思の確認」を堅持することこそがなによりもまず大事なのだということを再確認する必要がある。

3 

 町野案には、まだ多数の重大な疑問箇所があるのだが、誌面が限られているので、次のテーマに進みたい。もうひとつの問題は、一五歳未満の子どもからの臓器摘出をどうするのかという点である。「本人の意思表示」を前提として、子どもからの臓器摘出を可能にするためには、子どもについても、ドナーカードによる意思表示を有効と認めるしかない。一五歳未満の子どもであっても、脳死による死の判定と、脳死後の臓器移植について、理解能力があり、意思表示能力があるケースが存在するはずだ。そのようなケースに限って、その子どもが書いたドナーカードに法的な効力を認めてはどうかというのが、森岡案の骨子である。
 子どもの場合であっても、「もしも自分の身に何かがあったら、自分の臓器を同い年くらいの子どもにあげて助けてあげたい」と明確に言っていた子どもから、「臓器をもらって健康になりたい」と思っている子どもへと移植がなされるというのが、脳死の子どもからの臓器移植の原則である。子どもの意向と無関係に、親の一存で臓器を摘出するのは、子どもに対する親の越権行為である。
 森岡案は、すべての子どもにドナーカードを強制せよというものではない。子どもが意思表示をした場合に、大人はそれを尊重すべきだと言っているのである。森岡案はまた、すべての子どもに、理解能力と意思表示能力があると言っているのではない。一五歳未満であっても、それらの能力があると親権者が認めた場合には、子どもの意思表示を尊重すべきだと言っているのである。この考え方は、日本も批准している「児童の権利条約」から必然的に導かれるものである。この点については、前記の『論座』論文で詳述したので、参照していただきたい。
 森岡案をさらに具体化しよう。
 まず、(a)意味のある意思表示をなし得る年齢の子どもが、(b)親権者とよく話し合ったうえで、(c)みずから子ども用のドナーカードにサインをしており、(d)親権者がその子どもの意思表示能力を裏書きし承諾するサインをしていたときにのみ、脳死の子どもからの臓器摘出が可能になる、とする。
 (a)についてであるが、意味のある意思表示をなし得る年齢とは、暫定的に六歳以上一五歳未満の子どもであると考えたい。この年齢の子どものすべてがその能力をもっているというのではなく、この年齢であれば、その能力をもった子どもが存在し得るということである。民法における意思表示能力の下限は、学説によるが、おおよそ八歳前後とされる。遺言の場合は、複雑な財産相続問題などがからむので、一五歳【135】とされている。しかし、臓器提供については、財産問題がからむわけではないので、一五歳未満でも充分に自分自身の生と死についての判断が可能な場合がある。ここで議論しているのは単なる「意思表示」能力であり、大人と同じように行為する能力や自己決定能力ではない。いずれにせよ、臓器移植に関わる年齢設定の問題は、従来の民法・刑法がまったく考慮してこなかった事項である。もう一度、白紙の状態から議論をしなおすべきである。(年齢の下限は、八〜一〇歳にまで引き上げた方がよいかもしれない。今後、議論してゆきたい。)六歳未満の子どもからの摘出は禁止する。心臓は、三分の一の小ささの子どもにまでなら移植できる。ということは、六歳前後の子どもから摘出した心臓は、二〜三歳くらいの子どもにも移植可能だということだ。
 (b)について。子どもは親権者とよく話し合ってドナーカードを書くことが必要である。森岡案が認めているのは子どもの「意見表明権」であって、「自己決定権」ではない。親権者は、子どもと話し合った結果、サインしない選択が残されている。
 (c)子どもが自分でサインする。大人の場合と同じである。
 (d)子どもが元気なうちに、親権者が、子どものドナーカードにサインをして、「この子どもには理解能力と意思表示能力がある」ことを裏書きすると同時に、子どもからの臓器摘出を承諾する。この二点が、親権者のサインの法的な意味である。意思表示能力が何歳から生まれるのかを一律に決めることはできない。そのかわりに、子どもといちばん接触の深い親権者が、それぞれのケースに応じて、子どもの能力を裏書きする。これは、改正民法の「成年後見人」制度に類比的な機能として提案されている。民法では、子どもは「制限能力者」と解釈されるが、「身分上の行為」や「労働契約」については、親権者の代理行為は制限される。とくに、労働契約に関しては、親権者は代理権をもたず、子どもが労働契約を締結する場合に、子どもがなした契約に親権者が同意を与えるという形をとる。「臓器摘出」についても、これらに類比的な法的処理を提案できるのではないかと私は思う。子どもからの臓器摘出は、子ども自身が第一に許可を与える法的行為なのであり、親権者にはそれを承諾するか、しないかが委ねられることになる。
 このような考え方に対して、「結局、親の言いなりに書かされるのではないか」という疑問、「法律は子どもの保護を第一に考えているので、子どもが意思表示したからといってそれをただちに認めるわけにはいかない」という疑問、そして「親の虐待で脳死になった子どもの例が少なからず報告されている以上、親の裏書きなどは信用できない」という疑問が出されている。とくに最後のケースは、『毎日新聞』二〇〇〇年五月二五日が報道したもので、厚生省が調査した一四〇例の子どもの脳死のうち三例と、それ以外の調査でわかった一例が、親の虐待で脳死になったケースであった。我が子を虐待して脳死にさせた親が、ドナーカードにサインしてい【136】たときに、それに効力を与えていいのかという問題が生じる。
 これらは、充分に考慮すべき問題である。これらの疑問を正面から受け止めるとするならば、子どものドナーカードに効力を与えるという案ではなく、むしろ子どもからの臓器移植はそもそも禁止するという案に傾いていかざるを得ないであろう。親の承諾があれば子どもからの移植が自動的に可能になるという町野案やトリオ・ジャパンの案などは、もってのほかである。これらの点は、これから充分に議論する必要がある。
 森岡案は、現行法第六条に、以下のような条文を追加するという修正案になるだろう(これにともない現第六条第三項も微調整が必要となるだろう)。

 「六歳以上一五歳未満の者については、生存中に臓器を移植術に使用するために提供する意思を書面により表示している場合であって、かつ親権者が書面によりそれに承諾を与えていた場合であって、かつその旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないときまたは遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。六歳未満の者からの臓器摘出は禁止する。」
 これは単に可能年齢を六歳まで引き下げるということではない。現行法では、大人の場合は家族の「事前の」承諾は不必要である。一五歳未満の子どもの場合は、それが必須となる。子ども用のドナーカードは別途作成する必要がある。(子ども用のドナーカードについては、前記ホームページに掲載されている「てるてる案」が参考になる。)六歳という年齢設定を引き上げたほうがよいのかどうかについてはさらに意見交換をしてゆきたい。
 大人についても、子どもについても、「本人の意思表示」原則を堅持することこそが、人間の尊厳をもっとも手厚く保障する社会のやり方である。もちろん、臓器を待つ者の人間の尊厳はどうしてくれるのだという反論もあるだろう。しかしながら、不運にして脳死になった者の人間の尊厳を保障したそのあとで、はじめて、移植を待つ者の人間の尊厳は考慮されるのである。臓器摘出というのは、脳死の人自身の治療にはまったく役立たない手術である。それを合法化するわけであるから、不運にも脳死になった者の人間の尊厳を第一に保障するのが、守るべき順序である。そして脳死になった者の人間の尊厳の保障は、なによりもまず、「本人の意思表示」原則の堅持によってなされるのである。臓器不足は、後ろ向きの法改正によってではなく、正しい知識をともなったドナーカードの普及によって達成されるべきである。「あげたい」とはっきり言っていた人から臓器を受け取ることこそが、レシピエントが真に望むことであるはずだ。「あげたい」と言っていない人からの臓器であってもほしいと望むようなレシピエントは、ほんとうはいないはずだ。これ以上、臓器移植法を後退させてはならない。【137】