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作成:森岡正博
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論文
『現代生命哲学研究』第7号 (2018年3月):107-119
人称的世界はどのような構造をしているのか
生命の哲学の構築に向けて(10)
森岡正博
1 はじめに
本論文は、本誌前号に掲載された拙論「独在今在此在的存在者:生命の哲学の構築に向けて(9)」における独在論の議論の一部をさらに発展させる目的で執筆された。世界は独在的に構造化されている側面がある。しかしそれと同時に、世界には他人がおり、私は様々な人々に出会う。これら世界の共在的な側面は独在性とどのような関係になっているのだろうか。
私はかねてより、人称をもって立ち現われる世界のことを「人称的世界(the personified world)」と呼んできた。独在性は、その人称的世界の一側面に対応するものにほかならない。前論文における独在性の議論を参照しながら、本論文では、人称的世界の構造についてのオリジナルな視点を提起する。人称的世界の哲学は、「生命の哲学」の中心をなすテーマのひとつでもある。
2 人称的世界の9象限構造
言語において、一人称、二人称、三人称の区別がある。これは私たちがこの世界を人々によって構成される世界として見るときの三つの様相を現わしたものである。一人称とは「私」のことであり、二人称とは「あなた」のことであり、三人称とは「あの人」のことである。一般的には、これらの三つの人称は以下のように理解されているのではないだろうか。
一人称・・・発話者が自分自身を再帰的に指示するときに指される者のあり方。一人称の私は、身体を内側から生きている。
二人称・・・発話者が、身体的あるいは心理的に身近な人を指示するときに指される者のあり方。二人称のあなたは、私にありありと対面しており、私はあなたに目の前で話しかけることができる。
三人称・・・発話者が、身体的あるいは心理的に疎遠な人を指示するときに指される者のあり方。三人称のあの人は、私と身近な関係性を持つことがなく、人間たちの単なるひとりとして私に現われている。
しかしながら、これら三つの人称だけによっては、人称的世界の様相を正しく捉えることはできないように思われる。たとえば、一人称として存在している者はこの世界に何人いるのであろうか。自分自身を再帰的に指示することのできる者はこの世界にたくさんいる。しかしながら、自分自身を再帰的に指示したときに指されている存在者は、この世界でただひとりだけ独自のあり方で存在していると考えられる。ここにひとつの難問が生じる。あるいは、二人称に関しても、目の前の人間の身体の内側に内的意識があるという前提でその人間に「あなた」と呼びかけることもあれば、脳死の子どもにむかって親が「お前」と呼びかけることもある。後者においては、脳死の子どもの身体の内側に内的意識があるとは必ずしも前提されていないが、それにもかかわらず、親の目にはその子どもは二人称としてその身体に現われているのである。ここにもひとつの難問がある。
私はこれまでの「生命の哲学の構築に向けて」の連続論文において、一人称にかかわる「独在性」の問題や、二人称にかかわる「ペルソナ」の問題を考察してきた。それらの考察を振り返ってみるに、上記の三つの人称の概念だけで人称的世界の構造を解明するのは不可能であることが分かってきた。そして次のような発想に至った。
まず人称を、三つの指示対象、すなわち「一人称的対象」「二人称的対象」「三人称的対象」に分ける。そしてそれとは独立の軸として、人称を三つの主体、すなわち「一人称的主体」「二人称的主体」「三人称的主体」に分ける。そのうえで、これらを掛け合わせて9象限にするのである。以下、これらを順番に説明する。
まず指示対象とは、発話者が指差しながらある対象を指示したり、その対象に呼びかけたりするときに指される対象のことである。その対象に、一人称・二人称・三人称の区別をする。
一人称的対象(私)・・・発話者が自分自身を再帰的に指示するときに指される対象のこと。
二人称的対象(あなた)・・・発話者が、直接に声が届く近さで、ある対象を指示したり、その対象に呼びかけるときに指される対象のこと。
三人称的対象(あの人)・・・発話者が、直接に声が届かないくらい遠くの、疎遠な対象を指示するときに指される対象のこと。
私たちが一人称、二人称、三人称という言葉を使うときには、以上の意味で用いていることが多いように思われる。この三つの指示対象については、とくに説明する必要はないであろう。これらは私たちが常識的に「人称」という言葉を使うときに意味しているものとほとんど同じだからである。ひとつ補足しておくと、二人称的な「あなた」は私にとって身体的・心理的に近くにおり、私に呼びかけたり私から呼びかけられたりする可能性がある。これに対して三人称的な「あの人」は私にとって身体的・心理的に遠くにおり、私に呼びかけたり私から呼びかけられたりする可能性に乏しい。
ところで、人称的世界には、この「指示対象」という軸とはまったく独立の、「主体」という軸が存在する。
主体とは、この世界に存在し、この世界に対して働きかける者のことである。その主体に、一人称、二人称、三人称の区別をする。
一人称的主体(人生の主体)・・・人生を実際に生きている当事者のこと。身体を実際に内側から生きている当事者のこと。
二人称的主体(ペルソナ的主体)・・・そこに人がいるという否定しがたいリアリティでもって私に迫ってくるような主体のこと。
三人称的主体(等根源的主体)・・・まったく平等な存在様式で存在している多数の存在者のうちのひとりとしての主体のこと。
この三つの主体について、もう少し説明を加える。
まず一人称的主体とは、人生を実際に生きている当事者のことである。すべての人は人生を生きている。ソクラテスも人生を生きていた。しかしながら、いまこの論文を読んでいる者にとって、人生を実際にありありと生きている当事者はひとりしかいない。そしてその当事者はソクラテスではない。その当事者が誰であるのかを読者は知っている。そしてその当事者を固有名詞で確定指示することはできない。この論点については、2017年に刊行した拙論「独在今在此在的存在者」で詳述したので参照していただきたい。一人称的主体のことを人生の主体と呼ぶことにする。
次に二人称的主体とは、目の前に人がいるという否定しがたいリアリティでもって私に迫って来るような主体のことである。たとえば、私が誰かと楽しく食事をしているとき、私は、ありありとした人の存在を目の前に感じ取っている。目の前に人がいるというリアリティは疑いようがなく、私はそこに人が確実にいるという前提でもって、その人としゃべったり、笑い合ったりする。そのときに目の前の人の身体に現われている主体が、二人称的主体である。私が誰かと楽しくしゃべっているとき、私はその相手の頭の中に魂やクオリアが存在しないかもしれないとか、ほんとうはよくできたロボットかもしれないと本気で疑ったりはしていない。この意味で、二人称的主体とは目の前の人の身体の背後に隠れて存在する精神的実体のことではなく、私の前にありありと現われてくるところの、そこに人がいるとしか思えないという迫力のことであると言える。それはまた「ここにいるよ」という「音波のない声」として規定することもできる。
脳死の子どもには自己意識は存在しないと考えられるが、その子を前にした親が、自分の子どもの身体に「まだその子がいるとしか思えない」というリアリティを持つことがある。彼らは、その子の身体にまだありありと現われているその子に向かって語りかけ、その身体を撫でるのである。このときに、その親に対して現われているところの、そこにその子がいるとしか思えないというリアリティのことを私は「ペルソナ」と呼んできた。「ペルソナ」は、目の前の身体に自己意識がなくても、その身体に立ち現われ得る。能舞台では、能役者が顔に付ける木製の能面の表面にさえ「ペルソナ」が現われることを和辻哲郎は指摘した。私は二人称的主体のことを、ペルソナ的主体とも呼ぶことにする。「ペルソナ」については森岡(2010, 2012, 2013b)などで詳述したので参照していただきたい。
最後に三人称的主体とは、まったく平等な存在様式で存在している多数の存在者のうちのひとりとしての主体のことである。この社会には、多数の人々がいる。私は私として、あなたはあなたとして、あの人はあの人として、人々は人称的に異なったあり方で存在しているように見えるが、しかしもし天上から神の視点で地上に生きる人々を眺め下ろしてみれば、すべての人々は、人称にかかわりなくまったく同じような存在のあり方で地上に存在していると考えられる。たとえば、チェス盤に同種類の駒をいくつか並べてみよう。このとき、並べられた駒は、互いにまったく平等な存在様式で盤の上に立っている。これと同じように、この社会に生きる人々もまた、互いにまったく平等な存在様式でこの世界に存在していると考えることができる。たとえ性格やジェンダーや体格は異なっていたとしても、彼らの存在様式だけはまったく平等であるというふうに考えることができる。一人ひとりは、それら平等な存在様式で存在する多数のうちの単なるひとりであると言うことができる。このように理解されたときの一人ひとりのあり方を、私は等根源的主体と呼ぶことにする。三人称的主体とは等根源的主体のことである。
以上の、三つの指示対象と、三つの主体という二つの軸を組み合わせることで、9象限の区分ができる。それを図示する(図1)。
|
一人称的対象 (私) |
二人称的対象 (あなた) |
三人称的対象 (あの人) |
一人称的主体 (人生の主体) |
@ |
A |
B |
二人称的主体 |
C |
D |
E |
三人称的主体 (等根源的主体) |
F |
G |
H |
図1
これら9個の人称のあり方について、順番に検討していきたい。
まず@象限である。これは、一人称的主体である人生の主体が、「私」という一人称的対象となっているような象限である。これは、人生を実際に生きている当事者が、自分自身を再帰的に指示するときの主体のあり方および対象のあり方が交わる状態である。この宇宙にただひとりだけ特殊な形で存在する存在者がそれ自身のことを再帰的に「私」と指示するときの主体のあり方および対象のあり方が交わる状態である。森岡はこれをかねてより「独在的存在者」と呼んできた。「独在的存在者」が誰であるのかを固有名詞によって確定指示することはできない。それは二人称的指示によって確定指示することができる。@象限は「独在的存在者」のもっともノーマルなあり方であると言える。このあり方については先述の拙論(森岡 2017)などによって詳述された。
次にA象限である。これは、一人称的主体である人生の主体が、「あなた」という二人称的対象と同一視されているような象限である。この状態を想像するのはなかなか難しいが、いくつかの例を考えることができる。一つは、私の目の前に他人がいて、私がその人の内面に激しく自己投入や感情移入をしているような状況である。たとえば、目の前の友人が誰かにひどい言葉をかけられて涙を流して悲しんでいるのを見たときに、私もまたその友人の身体の場所で自分自身がそのような言葉をかけられたかのように感じ、その友人を見ながら実際に涙を流してしまうというケースがそれである。この場合、涙を流して悲しみを実際に感じているのは一人称的主体である。しかしその一人称的主体が悲しみを感じている場所は「私」という一人称的対象の場所ではなく、「あなた」という目の前の二人称的対象の身体の場所であると考えられる。なぜならそのひどい言葉が投げつけられて到達した場所は、目の前の友人の身体の場所であり、一人称的主体は、友人の身体という目の前の「あなた」の場所においてその言葉の到達を受け止め、悲しみを感じるという経験をしているからである。これがA象限の実例になると考えられる。ここで働いているメカニズムが、一般に自己投入や感情移入と呼ばれるものである。
もう一つの例としては、拙論「「他我はこの私である」ということの意味:テレイグジスタンスを手がかりにして」(森岡 2013a)において考察したテレイグジスタンスのケースがある。私がテレイグジスタンスの装置を装着し、自分自身の身体を後ろから眺めたとする。そのとき、目の前の身体に人間の存在を実感した場合、一人称的主体の場所は目の前に見えている人間の身体であるということになる。この目の前の人間の身体が、私の目に二人称的対象として現われているかどうかは微妙であるが、もし二人称的対象として現われているとすれば、このAのケースに当てはまるように思われる。
次にB象限である。これは、一人称的主体である人生の主体が、「あの人」という三人称的対象と同一視されているような象限である。これも基本的にはAと同じく、自己投入あるいは感情移入のケースとして理解することができる。たとえば、暗闇の中で映画に没入しているとき、その映画の中で動いている主人公が感じているであろうと想定される悲しみなどを、一人称的主体が実際に感じてしまうことがある。このとき、一人称的主体が悲しみを感じている場所は、その映画の中の主人公の場所であると考えることができる。この構造は、映画だけではなく、小説を読むときや、音楽を聴くときにも現われるであろう。一般にフィクションを観賞する美的体験は、このような人称の構造を内在している。また、このときの「場所」は、三次元的な空間のどこかに位置するものではない。フィクションの哲学で「場所」の概念がどのように捉えられているかを含め、考察が必要である。
以上の考察によって、独在的存在者はノーマルな形で@象限に存在し、自己投入あるいは感情移入の形でAB象限に存在するということが分かった。この@ABを包括したものが人生の主体である。人生の主体は独在的存在者と同一であると言ってよい。またここから、独在的存在者と「私」は同一ではないことが導かれる。独在的存在者は指示対象としての「私」「あなた」「あの人」のいずれとも結びつくことができる。独在的存在者を「私」やそのバリエーション(「この私」など)によって説明しようとする試みがこれまでなされてきたし、森岡もそのようなことを行なってきたが、この試みには一定の注意が必要であると言える。独在的存在者は「私」やそのバリエーションと密接なつながりがあるのだが、独在的存在者を「私」やそのバリエーションと同一視することは間違いである。
次にCに行く前にDについて述べる。というのもペルソナ的主体のモデルケースはD象限だからである。これは、そこに人がいるという否定しがたいリアリティでもって私に迫ってくるような主体が、目の前の「あなた」の身体に現われるという象限である。ペルソナ的主体については、二人称的主体を説明するときに詳しく述べた。そこで述べられた内容は、このD象限におけるペルソナ的主体のモデルケースのことである。
ここで重要なことを補足的に述べておきたい。私たちの日常的な言葉の使用を振り返ってみれば、「あなた」という言葉にペルソナ的主体という意味をこめて使うことが多いように思われる。たとえば「あなたがいてよかった」と言うときは、単に二人称的対象が目の前にあるということだけではなく、その二人称的対象にペルソナ的主体が現われているということを意味している。であるから、私たちが「あなた」という言葉を見聞きすると、「あなた」とはペルソナ的主体のことを意味すると考えてしまいがちになる。しかしながら、「あなた」とは本来、二人称的な指示対象を指す言葉であって、主体を現わす言葉ではないと森岡は考えている。たとえば、「目の前の「あなた」はペルソナ的主体ではない」と言うことが有意味であるような形で、「あなた」という言葉は使われなくてはならないと森岡は考えている。この点については、後にふたたび触れることにする。
さて、私がこれまでの論文においてペルソナを考察するとき、私はD象限のことをもっぱら念頭に置いて考えてきた。しかし今回の9象限の検討によって、ペルソナ的主体には、さらなるバリエーションがあることが分かった。
その一つがC象限である。これは、そこに人がいるという否定しがたいリアリティでもって私に迫ってくるような主体が、自分自身を再帰的に指示するときの私のなかに現われてくるという象限である。すなわち、ペルソナ的主体が目の前にいる「あなた」に現われるのではなく、ここにいる「私」のなかに現われるのである。これにもっとも近いのは、私の中に他人がいるという精神病理的なリアリティであろう。私の肉体の中に悪魔がいるとか、私の中にもうひとりの人格がいて私を苦しめるとか、私の心の奥底にもうひとりの隠れた私が潜んでいるというリアリティである。私が再帰的に私を振り返ったときに、そこにありありとしたペルソナ的主体を発見してしまうのである。いま精神病理的なリアリティと言ったが、これが人称的世界の一つの象限であるとすれば、それを病理と名づけるのは誤っており、むしろ正常な人称の現われ方の一つであると考えなくてはならない。すなわちこれは、私たちすべてが経験する可能性のある人称の経験なのである。
もうひとつのケースを考えてみる。たとえば亡くなった父が「私」のなかに現われるという経験があり得る。すなわち、私がみずからを再帰的に振り返るときに、「私」の不可欠なピースとして「私」のなかに存在している父を発見するのである。その父は、そこに父がいるとしか思えないような否定しがたいリアリティでもって「私」のなかに現われている。これもまた、ペルソナ的主体が「私」のなかに現われるケースのひとつであろう。さらに考えれば、父がまだ存命していたときには、私の目の前にある父の身体に父のペルソナ的主体は現われていた。これはD象限である。そして父の死後に父のペルソナ的主体が「私」のなかに現われるようになった。それはC象限である。すなわち、父の身体の消滅を契機として、ペルソナ的主体の現われの場所が、D象限からC象限に移ったのである。さらには、父の死後に、父のペルソナ的主体が、あたりを吹きすぎる風のなかに現われるということもあり得る。(このようなリアリティは実際に多数報告されている)。これは、ペルソナ的主体がはっきりとした場所を持たないケースである。この場合、吹きすぎる風のなかに現われたペルソナ的主体はC象限ではないからD象限だと考えられる。ということは、D象限でペルソナ的主体が現われる場所は、人の身体である場合と、人の身体ではない場合があることになる。後者では、どこにも場所を持たないケースもあり得るだろう。
次にE象限である。これは、そこに人がいるという否定しがたいリアリティでもって私に迫ってくるような主体が「あの人」の身体に現われる、という象限である。以前に述べたように、二人称的な「あなた」の場合は、あなたは身体的・心理的に近くにおり、私に呼びかけたり私から呼びかけられたりする可能性がある。これに対して三人称的な「あの人」の場合は、あの人は身体的・心理的に遠くにおり、私に呼びかけたり私から呼びかけられたりする可能性に乏しい。そのような、遠くにいて、呼びかけの可能性の乏しい「あの人」に、ほかでもないペルソナ的主体が現われるというのがこの象限である。たとえば、窓越しに見える道路を、見知らぬ子どもが歩いていて、車に轢かれそうになったとき、私は思わず「危ない!」と声をかけようとするだろう。このとき、その子どもは私にとって「あの人」であるにもかかわらず、私にとってペルソナ的主体になっているのである。同じようなことは、私が一方的に憧れている有名人や、私が恋しているタレントにも言えるであろう。またE象限においても、D象限と同じく、ペルソナ的主体が現われる場所にバリエーションがあると考えられる。
次にFとGに行く前に、H象限について述べる。というのも等根源的主体のモデルケースはH象限だからである。これは、三人称的対象である「あの人」が等根源的主体というあり方で存在しているという象限である。このとき、「あの人」の身体の内側には、自分自身の生を生きる主体が存在しているというふうに、私たちは理解している。そのような内面の主体は、もうひとりの私という意味で「他我」と呼ばれることがある。社会科学において「社会」が定義されるとき、その社会を構成しているものはH象限の意味における多数の等根源的存在者たちである。
次にG象限である。これは、二人称的対象である「あなた」が等根源的主体というあり方で存在しているという象限である。このとき、「あなた」の内面には、自分自身の生を生きる主体が存在しているというふうに、私たちは理解している。私が「あなた」の目を見て何か大事なことを言うときに、私は「あなた」の内面に等根源的主体が存在しているということを確信しているはずである。「あなた」の身体の皮膚の内側に、「あなた」の生の主体が存在していて、それに向かってしゃべるというリアリティで私は言葉を発しているはずである。この象限においても、「あなた」の内面の等根源的主体のことは「他我」と呼ばれる。
最後にF象限である。これは、一人称的対象である「私」が等根源的主体というあり方で存在しているという象限である。このとき、「私」はこの宇宙にただひとり特殊な形で存在する存在者であるとは理解されていない。そうではなくて、「私」は宇宙に等根源的に存在するたくさんの主体たちのうちの単なるひとりとして存在しているのだというふうに理解されている。「私」はみずからを再帰的に指示して「私」と呼ぶのだが、このときに指示された存在者は、この世界にたくさん存在する等根源的主体の単なるひとりとして指されているのである。日常語では「三人称的な私」と呼ぶことができるかもしれないが、その言い方では、「指示対象としての三人称」が意味されているのか、「主体としての三人称」が意味されているのかがよく分からないので、哲学的分析においてはその言い方を使うべきではない。
以上が、9象限の人称的世界の構造の概略である。
私たちは単に物理的な世界だけを生きているわけではない。私たちは物理的世界に加えて、人称的世界をも生きている。人称的世界を生きるとは、ここで述べたような9象限の人称的世界の海をもがきながら泳いでいくことである。私たちはこの人称的世界の海から脱出することはできない。私たちが人称的世界の海を泳ぐとき、私たちはかならずしもこれらの象限をクリアーに分節し、意識的に理解しているわけではない。多くの場合、私たちは、はっきりと分節されることのない、あいまいで連続的な象限を生きているのである。
3 9象限の相互関係
以上の9象限の内実をさらによく理解するために、いくつかの象限を互いに比較して考察してみたい。
まず@象限とF象限を比較してみる。@象限は、独在的存在者である。独在的存在者とは、この宇宙にただひとりだけ特殊な形で存在する存在者がそれ自身のことを再帰的に「私」と指示するときの主体のあり方および対象のあり方が交わる状態である。この象限の対象を指す言葉として「私」が使われるのが普通である。一方、F象限で対象を指す言葉として使われる「私」もまた再帰的な指示として使われているのだが、そこで指されている「私」は、この宇宙に等根源的に存在するたくさんの主体たちのうちの単なるひとりとして理解されている。同じ「私」という言葉が使われているのだが、その意味するものはまったく異なるのである。ここから、独在的存在者を現わす「私」の無限後退という現象が生じてくる。すなわち、独在的存在者を「私」と呼ぶとき、それがいつのまにか等根源的主体としての「私」に読み替えられてしまい、それを避けるために独在的存在者を「この私」と呼んだとしても、それもまた等根源的主体としての「この私」に読み替えられてしまうという現象が生じるのである。この読み替えが起きる理由としては、公共言語は本質的に一般化を指向して機能するものであるから、一般化を本質的に拒否する独在性を公共言語によって捉えようとしても、つねに一般化によって変質させられてしまった残滓しか捉えることができないという理由が考えられる。この点はヴィトゲンシュタインの空回りする歯車の例や、永井均の初期の説明によって指摘されたものである。この読み替えが起きる現象を側面から支える機構として、本論文で述べた人称的世界の9象限構造があると考えられる。読み替えの運動は、@象限とF象限の往復によってなされる。
A象限とG象限を比較してみる。A象限において生を生きているのは独在的存在者である。これに対して、G象限で生を生きているのは等根源的主体というあり方で存在している「あなた」である。同じような対比はB象限とH象限においても見られる。B象限において生を生きているのも独在的存在者であり、H象限で生を生きているのは等根源的主体というあり方で存在している「あの人」である。こうしてみると、フッサールが直面した他我問題、すなわち他我の意味の構成の問題と他我の存在証明の問題は、AB象限とGH象限のあいだで生じる人称的問題であると考えることができる。すなわち自己投入的に理解されるAB象限からは、等根源的なGH象限はけっして導かれないという難問である。
D象限とG象限の違いも注目に値する。G象限においては、二人称的対象である「あなた」が等根源的主体というあり方で存在している、というふうに理解される。「あなた」の身体の中に等根源的主体が存在すると理解することもできる。これに対して、D象限においては、ペルソナ的主体は「あなた」の身体の表面に現われる。脳死の子どもの身体の表面に、あるいは死者の形見の時計の表面に、ペルソナ的主体はありありと現われる。それらの内側に何かの主体が内在するというふうには理解されない。ペルソナ的主体とは、徹底的に表面的なものであり、表面に現われるものの貴さのことである。D象限とG象限のあいだには鋭い対比がある。さらに二人称的対象であるA象限、D象限、G象限を並べて見てみると、そこには「あなた」に同定されたところの「人生の主体」、「ペルソナ的主体」、「等根源的主体」がそれぞれあることになる。さらには、あるひとりの「あなた」が、ペルソナ的主体であり、かつ等根源的主体でもあるというように、同一の「あなた」に対してD象限とG象限が同時に成立する場合もある。ここから分かるように、9象限のそれぞれの枠は、あるひとつの指示対象や主体の上で重なり合って成立することができる。これも興味深い性質である。
B象限とF象限の違いはどうだろうか。この二つは、一人称と三人称がちょうど逆の形で結合しており、その違いが分かりにくい。まずB象限は、一人称的「主体」と三人称的「対象」が結合する場合である。これは、独在的存在者が「あの人」の身体へと自己投入されている状況である。主体はあくまで独在的存在者であり、「あの人」ではない。これに対してF象限は、三人称的「主体」と一人称的「対象」が結合する場合である。これは、等根源的主体がみずからを再帰的に「私」として指示するというふうに理解されたときの人称のあり方である。主体は等根源的主体であり、「私」ではない。このような対比をすることによって、三人称的主体が何を意味するのか、よりいっそうクリアーになってくるだろう。
このほかにも、様々な象限を対比することによって、それぞれ興味深い性質が明らかになるものと思われる。
最後に、D象限の説明のときに触れた論点を再度考察してみたい。まず、「あなた」という言葉は本来、二人称的な指示対象を指すのであり、ペルソナ的主体を指すのではない。しかしながらD象限においては、二人称的な指示対象である「あなた」はかならずペルソナ的主体として現われる。このことから、「あなた」という言葉にそもそもペルソナ的主体という意味があるかのような理解が生まれてくる。そしてこれは間違った理解であるというのが森岡の見解であった。これと同様のことが、@象限とH象限においても生じると森岡は考えている。まず@象限であるが、「私」という言葉は本来、再帰的な一人称的指示対象を指すのであり、人生の主体を指すのではない。しかしながら@象限においては、再帰的な一人称的指示対象である「私」はかならず人生の主体として同定される。そこから、「私」という言葉にそもそも人生の主体という意味があるかのような理解が生まれてくるのである。このような間違った理解もまた、以前に述べた「私」をめぐる無限後退の出現を側面から支えているもののひとつであろう。H象限においても同じである。「あの人」は三人称的指示対象であるが、その言葉に等根源的主体という意味があるかのような理解が生まれてくる。
このように考えてみると、対角線上の@象限、D象限、H象限は、3つの人称的主体のモデルケースとなっているわけであるが、それと同時に、「私」「あなた」「あの人」という言葉の意味を誤らせるモデルケースともなっているのである。なぜこのような現象が起きているのか現時点では分からないので、今後の考察が必要である。
4 終わりに
今回の考察のひとつのポイントは、9象限が互いにつながりあい影響し合って出来上がる一枚の布によって人称的世界が構造化されているというところにある。9象限を互いに切り離すことはできないし、それぞれのあいだにある相互関係を無視することもできない。私たちは、ここに示したような9象限の人称的世界を実際に生きている。私たちはそれらの象限をクリアーに分節して理解しつつ生きているわけではなく、混沌としたカオスのような人称的世界を生きているのであるが、それを哲学的に分析するとここに示したような結論になるというのが本論文における私の主張である。
9象限の考察によって、私がこれまで行なってきたペルソナの哲学的考察と、独在的存在者についての哲学的考察を結びつけることができるようになった。これは私の構想している「誕生肯定の哲学」にとって大きな前進である。もちろん、まだ解けていない問題がある。たとえば、9象限のうち、一人称的主体に関わる@AB象限は、独在的存在者の領域であり、いわゆる「現実性」のかかわる領域である。私は論文「独在今在此在的存在者」において、「私」と「いま」と「ここ」にかかわる「現実性」について論じた。この「現実性」の論点が、本論文の人称的世界の構造における「現実性」にどう関わっているのかを考えなくてはならない。また、上記論文において詳述した、独在的存在者の二人称確定指示の論点を、人称的世界の構造によってどう説明するかという難問が残されている。一見すると、この難問は人称的世界の構造からは解けそうにない。さらなる考察が必要である。
文献一覧を見ていただくと分かるが、「人称的世界の哲学」は私が最初期から一貫して取り組んでいる課題である。今回の論文でひとつの階段を上がることができたと感じている。この論点を「誕生肯定の哲学」へと接続することが、今後の私のメインの作業のひとつになるであろう。
文献一覧
森岡正博 (1987)「人称的世界の数学:他者問題の構造変革」『倫理学紀要』第4輯、東京大学文学部、pp.85-112。
森岡正博 (1994)「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味−「独在性」哲学批判序説」池上哲司・永井均ほか編『自己と他者』(叢書エチカ3昭和堂、pp.110-132。
森岡正博 (2010)「パーソンとペルソナ:パーソン論再考」『人間科学:大阪府立大学紀要』第5号、pp.91-121。
森岡正博 (2012)「ペルソナと和辻哲郎:生者と死者が交わるところ」『現代生命哲学研究』第1号、pp.1-10。
森岡正博 (2013a)「「他我はこの私である」ということの意味:テレイグジスタンスを手がかりにして」『現代生命哲学研究』第2号、pp.1-22。
森岡正博 (2013b)「ペルソナ論の現代的意義」『比較思想研究』第40号、pp.44-53。
森岡正博 (2017)「独在今在此在的存在者:生命の哲学の構築に向けて(9)」『現代生命哲学研究』第6号、pp.101-156。
*文献は自論文に限定した。
* 科学研究費・森岡正博代表「「尊厳」と「意味」を二本柱とした生命の哲学・倫理学の基盤的研究」研究課題番号:17K02185および蔵田伸雄代表「「人生の意味」に関する分析実存主義的研究と応用倫理学への実装」研究課題番号:16H03337の成果である。