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作成:森岡正博 
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無痛文明論の書評など

 

日本経済新聞(2003年11月9日) 村上陽一郎  

 離職した壮年男性などを中心に自殺者が増えている。主要死因の五位(現在は事故死)に迫る勢いである。「将来への経済的不安」が原因だと言う。そうだろうか。例えば戦後、私たちは経済的不安どころか、明日食べていくものがあるかどうか、という不安で一杯の毎日を送っていた。しかし、だからといって人は簡単に自殺などしなかった。つまり「現代という社会に生きている」がゆえにこそ、人は「将来への不安」で死を選ぶようになったと言える。現代社会は、その成員が適合し難い何ものかを備えた社会ということができる。その何ものかを、本書の著者は「無痛文明」という言葉で括って解析しようとする。ユニークで、重要な問題提起である。
 「無痛文明」を著者は次のように定義する。「苦しみを遠ざける仕組みが張りめぐらされ、快に満ちあふれた社会」。苦痛を排し快を追求することを容認・称揚し、それを社会全体の目的として様々な制度が構築された社会は、本来ならば人類の理想社会ではなかったか。しかしそのなかで人間は無限の欲望の解放を求め、かえって満たされずに苦しむという自己矛盾のなかに陥っていく。簡単に言えば、これが本書のテーマである。
 このテーマを著者は、著者年来の生命論の領域、それも抽象的な場面よりも具体的な事例に当りつつ、丹念に解き明かしていく。当然分析は人間そのものの持つ欲望や愛という根源的な特性へと向かい、優れて「哲学」的な性格を帯びるが、そうしたアカデミックな論述でありながら、著者に独特とも言える、熱い情念を運ぶ論述スタイルは本書でも健在で、というよりも、一層磨きがかかって、哲学に馴染みの薄い読者にも、ある種の説得力を持つだろう。
 しかも、このような社会との戦いが、結局は、そうした社会の成員の「苦しみ」を除くという目標を掲げることになるという「自己矛盾」を、充分に確認しながら、なお、どのように立ち向かうべきか、その指針をも示そうとする。手ごろというには少し厚いが、意欲溢れる作。 (入力:りんごさん)

共同通信配信(2003年11月9日〜順次掲載、『高知新聞』『京都新聞』『信濃毎日新聞』など) 鬼頭秀一

 私たちは自然の脅威や不都合なことに対して、科学技術を発達させることにより、 ありとあらゆる苦痛を取り除き、人工的環境をつくりあげてきた。これは自然の支配 とも言われている。最近になって、私たち自身の身体さえもその対象として、生殖を管理し、さらには、「死」さえも管理しようとしている。
 そのことは、私たちにとっては、一見、心地よいことである。場合によっては他者の犠牲を強いることになるにせよ、そうした「欲望」はますます増幅している。しかしながら、一方で、私たちは、そのことに対して、真綿で包まれたような不安を感 じ、生のよろこびを失っているようにも感じているし、実際その結果さまざまな社会 的病理が出現している。
 著者はこうした事態の根底にある文明のあり方を「無痛文明」と呼び、本書でその 構造と論理、病理について渾身の思いを込めて語り、そこから脱却して、私たちが自分の生を悔いなく生き切り、無痛奔流から逃れるためにはどうしたらいいのかを身も よじれるような議論の中で示そうとしている。
 その中でも「欲望」に関する議論は示唆的である。無痛文明を突き動かしている、 苦痛を避け、今の快適な枠組みを維持しようとする「身体の欲望」に対して、苦しみ を前向きにくぐり抜けることによりみずからを解体し自己を変容し未知の世界に開いていこうとする「生命の欲望」に転換させる戦略には、今までの欲望論を越える魅力 がある。
 この種の議論は今まで部分的にはなされてきたし、環境倫理や生命倫理で論じられていることもその大きな問題の一部である。本書の特徴は、こうした既存の問題を、 「無痛文明論」という新しい枠組みの中で問題を統合して捉えようとするところにあ る。さらに一見平易な表現の中にも、著者も読者もともに自らをぐいぐいとその本質 に引き込んでいく新たな知の実践的な営みが感じられる。知の表現のあり方自体にも 挑戦した問題作でもあり、今後大きな議論を呼び起こすことになろう。

東京新聞(2003年11月9日) 山下悦子

 本書は、8年越しの執筆作業の結果生まれ、著者自ら「この本を書くために生まれてきた」と言い切るほどの力作である。生命学者として「脳死」「臓器移植」「宗教」「生命倫理」「フェミニズム」等々、現代的な課題に精力的に取り組んできた著者の深い見識をベースに、自らの言葉で丹念に綴っていくその現代文明論は、すこぶる斬新で、まさに森岡ワールドの集大成ということができよう。「無痛文明」を考える上でのキーワードは、「自己家畜化」「身体の欲望」「生命のよろこび」である。快を求め、苦しみを避け、手に入れたものは手放そうとせず、すきあらば拡張しようとし、他人を犠牲にしてもかまわないと思い、私達の人生・生命・自然を予測の範囲内に収めておこうとする「身体の欲望」。それが、人間を内側から変えていくような力や、自らの束縛を越え出ていこうとする力「生命のよろこび」を奪っていることが、「自己家畜化」の意味だと著者はいう。
 「無痛文明」とは、「身体の欲望」が「生命のよろこび」を奪い取っていくという仕組み、つまり私達の生命をマヒさせ、死にながら生きる化石の生へと誘い、生を管理する、社会の隅々にまで張りめぐらされた文明のことなのだ。確かに快と刺激と快適さを生み出す高度情報社会、大衆消費社会の中で、私達は飽食で貪欲な生活を満喫している一方で、「生命のよろこび」を見失っていることを漠然と感じる。読者は、本物の苦しみや本物のハプニングが排除され、「予防的無痛化」の中での調和的な生活こそが、心の病や残虐な犯罪の元凶ではないか、と思えてくるだろう。著者は無痛文明と戦うべく、無痛文明における愛、死、自然、テクノロジー、資本主義の内実を追及していく。「自己家畜化」からの脱却はいかにして可能か。著者は「ペネトレイター」という実存主義を加味させた概念を提唱するのだが、少々観念的でわかりにくい。これは今後の課題というべきか。

図書新聞(2003年12月27日号) 古賀徹

 対照的な他者論を二冊。はじめに熊野純彦『差異と隔たり』(岩波書店)。本書は膨大な倫理学的著作を参照しつつ、著者独自の文体によりそれを糾合し、レヴィナスをベースとしたラインでまとめ上げている。読後にとりたてて強烈な印象はないが、叙述の細部のうちには多くの学ぶべき点があり、論理構成は巧みであり、全体の論旨にとくに異論はない。日本語による他者論の標準的な著作となると思われる。総覧的で視覚的。
 これに対して、森岡正博『無痛文明論』(トランスビュー)は、同一モチーフの反復により読者をトランス状態へと引き込んでゆく。理論構成は単純であり、マルクス主義の「生産関係」と「生産力」そのままに、現状維持的拡大をこととする「身体の力」と、それを桎梏として打ち破る「生命の力」との単純な二元論に依拠する。だが叙述は読む者の精神を灼き尽くし、それを別の姿へと作り替える。そういう意味で音楽的な著作。
 どちらも倫理学のプロフェッショナルによる他者論だが、そのメディア論的性格は正反対といえる。エシクスとは「学問」なのか、それとも自我を突き崩す「威力」であるべきなのか、考えさせられる。今期はこの二冊。