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作成:森岡正博
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映画評
『朝日新聞』2004年10月8日 大阪版 文化面
ジェンダー間が生む悲劇 − 映画「モンスター」を見て
森岡正博
この映画のタイトルは、「モンスター」と言う。米国初の、女性の連続殺人鬼の話だと聞いていたから、まさに「怪物」のように男たちを殺していくのだろうなと思っていたが、そういう話ではなかった。見終わってから、はじめて監督のことを知ったのだが、パティ・ジェンキンスという女性監督である。男の世界と、女の世界、すなわち「ジェンダー」のはざまで、モンスターにならざるを得なかったひとりの女性の悲劇を描いた、きわめて知的な映画だったのである。
子どものときから売春を余儀なくされていたアイリーンは、大人になってからも社会の底辺で売春をして暮らしていた。ある夜、彼女は、同性愛者の少女セルビーに出会う。社会から疎外されていたふたりは、心を通わせ、モーテルを渡り歩いて、逃避行をはじめる。
アイリーンが、最初に殺人を犯してしまったのは、客の男が彼女を縛ってレイプしようとしたときである。それは、正当防衛に近い行為だった。しかしこの瞬間、アイリーンの体に、何かの魔物が乗り移るのだ。それは、おそらく、この社会の中で男たちによって殴られ、犯され、ずたずたにされ、捨てられ、殺された無数の女たちの無念の思いだったに違いない。彼女は、気づかぬうちに、それらの女たちの怨念を晴らす「モンスター」となって、次々と殺人を行なっていくのだ。
アイリーンは、殺すべき客と、そうでない客とを選んでいる。殺すべき客とは、社会や家庭では正論を吐いていても、売春婦の前では汚い男の本音をさらすような客だ。そのようなとき、アイリーンの中の「モンスター」のスイッチが自動的に入り、客に銃を向けてしまうのである。
アイリーンは、しだいに、自分の中の「モンスター」をコントロールできなくなる。怨念の力は頂点に達し、間違えて、家族思いの善良な男を殺すところまでいってしまう。アイリーンもセルビーと、そういう幸せな関係を求めていたのだった。それに気づいたとき、アイリーンは自分の人生が終わったことを知るのである。
「モンスター」に憑かれているときのアイリーンは、どこから見ても暴力的な男そのものだ。ふるまいも、声の出し方も、粗暴なところも、凶悪な男としか思えない。なぜそうなったかと言えば、アイリーンの中に乗り移ってきた女たちの怨念が、彼女の体を、粗暴な男の肉体に改造し、それを利用して男たちに復讐をはじめたからである。
ところが、その粗暴な男そのもののアイリーンが、自分の好きなセルビーの前では、どこまでも自己犠牲的な「女のなかの女」となってしまうのだ。セルビーが共犯にならないように、すべての罪を自分で引き受ける。愛する者の前では、自己犠牲の天使としてふるまってしまうのである。外見は粗暴な「男」の肉体へと暴走し、内面はステレオタイプな「女」役割へとのめり込む。二つのジェンダーのあいだで引き裂かれる「モンスター」の悲劇がここにある。
アメリカ社会の底辺を、複雑なジェンダーの闇を背負いながら、使い捨ての駒のように生き切らねばならなかったひとりの女の姿を、ここまで見事に描いたのは、まさに監督の力量であろう。