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作成:森岡正博 
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生命学への期待

「生命学に何ができるか」を読んで

黒崎宣博

 私は理性的な傾向の強い人間だと自分でも思う。ある人からは「貴方は何でも知識で合理化して、辛い苦しい感情から逃げている」と指摘されたこともある。と同時に私は、楽しいこと、嬉しいことも上手に味わえない人間でもあるようだ。はやりの言葉で言えばEQが低いのだろう。脳に障害があるということではなく、生きてきた過程で、そのような選択が行われたということなのだと思う。決して感受性が低いわけではなく、高すぎるくらいであり、それが故に理性をもって感情的な反応を封じなければ生活に支障を来すという状況だったのだ。本書のキーワードである「共鳴」という言葉を使うならば、私はあまり多くには共鳴しないが、時に深く共鳴する場合がある。そんな人間になった。
 さて、そんな私が「生命学に何ができるか」を読みはじめるとすぐに、自らの体温を自覚し、心臓の鼓動を意識し、呼吸が気になり、ああ、自分は生きているのだ、かけがえの無い、唯一の生命なのだ、という事実を突き付けられた。最初は1、2日で読もうと思っていたいたこの本を読み終えるのに、1週間もかかってしまった。刺激的な本だった。そして色々な感想を持った。「共同体」にたいする理解と意識が不足あるいは欠落してはいないか、とか、「基本的人権」や「個人」の概念がアプリオリな真理であるかの如く記述されていて、近代的なただの合意だという視点(捻れ)がないのは何故か、とか、筆者の大人になってからの揺らぎを赤裸々に告白されている箇所では、ああ、この人は子供の頃にそういう体験をしていない、ぼんぼん、秀才だったのだな、と思ったりした。
 しかし、私にはここで、それらについて議論するつもりはない。また、収まりの良い書評的要約を書くつもりもない。私に書けること。それは、自己否定を強いられ、自己否定と向き合いながら生きてきた、いろいろな面で弱者の、ハンディキャッパーである私の、生命学へ対する期待である。(私は行政が認めた障害者ではないが、いろいろなハンディキャップをもっており、それは多くの人に共通することと思う。)
 「現前」(いないはずの人がそこに現われていること)と「不在」(いるはずの人がそこに現われていないこと)は、別に脳死問題を考えるためだけの概念ではない。多くの人が経験する日常的な想像力であり、日常的な経験である。たとえば、同じ満員電車に乗る見知らぬ他人は「不在」であり、その満員電車で恋人の姿が浮かべばそれは「現前」である。筆者はこの「現前」と「不在」を捻れの構造とし、この構造こそが、この世界に生きるわれわれに生命を与えているのではないだろうか、と言う。また、生命学の出発点とも言える重要な概念が<他者論的リアリティ><揺らぐ私のリアリティ>である。<他者論的リアリティ>とは、生と死の現場で「見えるはずのないものを見よう」「感じるはずのないものを感じよう」とする営みだと筆者は言う。そして、<揺らぐ私のリアリティ>とは、自分で隠蔽しているものの中に真実があることを直観して、動揺して、その隠蔽されている何かを拒否せず注視することだと言う。
 この「揺らぐこと」自体が生命学の教えであり出発点であり基本となるスタンスなのであって、筆者はそれこそが「悔いのない人生を生きる」ことにつながると主張する。
 私は基本的にはそれらの見解に賛成しながらも、敢えて反論もしてみたい。そんなに揺らいでいては、実生活に支障をきたし、損をしないだろうか。それに、よほどの知性と精神力がなければ、揺らぎに耐えられないということはないだろうか。本気で万人に「生命学」を勧めておられるのだろうか。それとも、教養人や知識人に対する問いなのだろうか。あるいは、人間はそれほどに強いとお考えなのか。
 残念なことに、私自身は「見えるはずのないものを見よう」「感じるはずのないものを感じよう」と意識するまでもなく、それらが見え、感じられることで、日々苦しんでいる。苦しんでいると言うほどでもないが、苦しんでいるかもしれない。そこで私は、自己受容という自己変容の道を進んでみることにした。もしかしたら、この本が「自己肯定的」に生きたことのない私を「自己肯定的」に生きて行こうと変容させたのかもしれない。例えば共鳴の幅が狭い自分をそのまま肯定したし、能力以上に高いプライドもそのまま肯定した。もちろん「自己肯定という自己変容」が揺らぎを注視しない知性による合理化だというパラドクスを孕んでいることは承知しているのだが。
 こうして考えると、本書は生命学の出発点を示す書であるにも関わらず、生命学の次の課題は出発点につくまでの条件を明確化することのように思われてくる。つまり、揺らぐ私に耐えられる知性と精神力の条件を示す必要があると言うことだ。そうでなければ、私は本書の影響力が、読者自身を傷つけて、それだけで終わってしまう人を増やしてしまうような、そんな気がするのである。
 従って、私が生命学に期待することは、揺らぐことである以上に、揺らいでしまった私を肯定的に受け入れる寛容さだ。生命という揺らぎを存分に味わいながら、同時に現代文明という檻の中でどう帳尻を合わせるのかという技術論があっても良いだろう。森岡教授は「技術論」は「生命学」の対極だと否定されるかもしれないが。

2001.12.8記

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/5582