作成:森岡正博 |
哲学と文献学について
岩田憲明
先の「頂上決戦」にて目立った反論がなく、森岡さん自身が日本哲
学会をやめようかと考えているようなので、少し残念に思っています。恐らく老
練な文献学者の皆さんは今回の「頂上決戦」を一種の世間に対するガス抜きぐら
いにしか見ていないのではないでしょうか? 森岡さんの言っていることはすで
に彼らには自明のことですし、いちおう哲学会として一部の愚痴を聞いてあげた
のだから、しばらくはこのままでいられるとタカをくくられる心配があります。
私はいまだに哲学科時代の恩師の方々との連絡があるのですが、どうも世間で言
う少子化の流れの中で、哲学科の教授の皆さんも少しづつ苦労が増しているよう
です。現実に教授のポストも減っているようですし、予算の獲得も厳しくなって
いるようです。-恐らく森岡さんに発表の機会が回ってきたのも、このような事
情によるものかと思います。森岡さんはお嫌いのようですが、私は今回の「頂上
決戦」を「次の機会」につなげるべきでないかと考えます。私には今のところ公
式な発言の機会はほとんどないのでかく願うところです。
せっかくなので、森岡さんの発表された事柄に関して私なりの考えを述べさせ
ていただきます。私が読ませていただいたのは、「現代において哲学するとはど
のようなことか」と「現代日本の哲学をつまらなくしている三つの症候群につい
て」です。私は本当は笑えない立場にいるのですが、やっぱり笑ってしまいまし
た。
*文献学と哲学
森岡さんのご指摘の通り、現在哲学の研究室が文献学研究室になっているのは
紛れもない事実です。しかし、「現代において哲学するとはどのようなことか」
の最後のところでも述べられていたように、哲学を一定の制度のもとで審査する
のが不可能なのも確かです。となると、哲学の研究が文献学になってしまうこと
も無理のないことですが、文献学の研究を以て哲学の研究と称することはこれま
た詐称ということになります。ここで問題になるのは文献学と哲学との関わりで
す。森岡さんは直接に哲学はいかにあるべきかと論じておられますが、ここでは
まず文献学とはなにか、文献学に何が出来るのか、文献学は哲学にとってどのよ
うな意味があるのかを明らかにすることが先決であると考えます。森岡さんも含
めて、文献学が要らないと割り切る人々は少数だと思います。しかし、森岡さん
も含めて、老練な教授方も哲学に対する文献学の位置づけを曖昧にしているので
はないでしょうか。私は文献学について消極的な役割と積極的な役割とに分けて
考えています。
まずは消極的な役割ですが、テキストクリティ−クや過去の哲学者たちの時代
背景の解明を通じて彼らの著した哲学書に関する予備知識を与え、起こりうる誤
解をあらかじめ取り除くことが掲げられます。私は江戸期の哲学者である三浦梅
園の研究をしているのですが、テキストクリティ−クが不完全なためかなり誤解
をしているのではないかと危惧するところがあります。また、梅園には『多賀墨
卿君にこたふる書』という著作があるのですが、なぜ書簡であるにもかかわら
ず、論文の体裁を取っているかが不明確なままでした。「多賀墨卿君」とは何者
ぞ?というわけだったのです。ところが、江戸期の思想の専門家によると、当時
は書簡の形で論文が書かれ、それが回し読みされていたとのことでした。こうゆ
うことは専門家でなくては分かりません。また、この前、12年ぶりに母校の哲
学会に出向いたときに、ヘーゲルの「理
性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的なものである」という有名な
文句についての研究があったのですが、ヘーゲルは自らの講義においては必ずし
もこのように社会の現状をそのまま肯定するニュアンスの言い回しをしていない
ことが指摘されていました。とかく反動的と見られが
ちな「法哲学」ですが、当時の時代状況も踏まえてリベラルヘーゲルの側面を示
すものとして感心いたしました。このような文献学の業績を私は(コンピュータ
ーソフトになぞらえて)哲学におけるノートン的機能と呼んでおります。この機
能は哲学そのものの内容を規定はしないが、それをテキストや歴史的事情からチ
ェックをかけるものと言えるでしょう。
次に、文献学の積極的な役割ですが、これは哲学書の読解を通じて自ら考える
ことを学ぶものだと言うことができます。哲学書に限らないのですが、古典と呼
ばれる書物は自ら積極的に考えることなしには理解されません。私もカントの
「純粋理性批判」筆写し原語で最後まで読みました。当初は何の役に立ったのか
よく分からなかったのですが「哲学者としての三浦梅園」(私のHPに収録して
あります)を書いていたときに如何に私が今までカントを読んでいたかを痛感い
たしました。将棋や囲碁ではある程度決まった手筋があり、それらは上級者と手
合わせすることによって身につくものだと聞いたことがありますが、古典の読解
もかくたるものと言えるでしょう。ただ、この実感は恐らくカントやヘーゲルに
ついての論文を書いているうちには得られなかったことと思います。
森岡さんが指摘する文献学最大の弊害である自らの思考を停止し、カントやヘ
ーゲルに考えてもらうことは、哲学書を読むという訓練を実践と取り違えること
によって生じていると言えます。これは哲学的な課題を文献学の範囲で解決しよ
うとするために生じる矛盾かも知れません。例えば、カントの提示した問題をカ
ントの言葉に則して新たに解釈し直そうとする場合、どうしてもカントの思索を
発展させなくてはならないのですが、文献学では原理的にこれは出来ません。勢
い、この矛盾を文献的な精緻さでカ−バーしようとするので、参考文献も多岐に
及び問題がより複雑になってしまいます。このような矛盾を老練な方々に理解し
ていただくには、カントが批判哲学に用いた方法を文献学に用いるのが最も効果
的ではないかと思います。すなわち、カントが形而上学に対して提示した問いを
そのまま文献学に当てはめてみるのです。これはいわば文献学によって得た手筋
を文献学の先生方に適応してみることになります。私は以前大学院にいるときに
カントについての論文はカント自らに語らせるように書かなくてはならないと言
う指導を受けましたが、これにはいまだに納得できません。当時は文献学を駆使
したところでぼけた写真を目をこすって見るようなものだと考えていましたが、
更に自ら哲学するようになって、自分の思想が後世の人に切り張りされて私の思
想であるかのように語られることがいかに「気持ち悪〜いか」を感じるようにな
りました。同じ私の中でもいろんな思想の側面があるのですから、その一面を以
て私の思想と言われるよりは、私の思想をきっかけにこう考えましたと言ってく
れる方がはるかに健全です。
*哲学を評価する基準及びコミュニティーについて
以上、文献学の位置づけを明確にすることによって現代において哲学をするた
めの外堀は埋めたのですが、肝心の「哲学すること」の中身はそれを客観的に審
査することが不可能なこともあって明らかにすることは容易ではありません。日
本哲学会の中で森岡さんの立場に共感する人がいたとしても(実際かなりいると
思います)、恐らく今回の発表ではこの点に物足りなさを感じたのではないかと
思います。しかし、如何に哲学が根源を問う学問であるとはいえ、論理を以て語
られ実践の場に影響を及ぼすものである以上、その是非は何らかの形で評価され
るべきものだと考えます。無論、自然科学のよう客観性・厳密性を求めることは
出来ないにせよ、その社会的影響や成果を総合的に判断することによって見極め
ることが出来るかと思います。この学問の柔らかい検証、評価基準については私
のHPの中の「医療と哲学 5」とその「おわりに」の部分で触れましたのでそ
ちらに譲りたいと思います。下記URLを参照してください。
http://www.oec-net.or.jp/~iwata/02natural.htm
ここでは更にそのような形で現実に生かされる哲学がその中で評価され発展させ
られる哲学を論じるコミュニティーについて考えてみます。
自然科学のような明確な基準がない以上、客観的な審査という形で哲学を評価
するわけには行きません。しかし、それは文学や芸術の世界でも同じことであっ
て、哲学に限ったことではありません。これらの世界ではコンクールのような形
で審査は行われても、新しい芸術の評価は後世に委ねられることになります。こ
れらの世界に共通しているのは、それぞれの分野にそれなりに通じた普通の人々
が多数存在し、適度な規模の経済市場を通してそれらの業界が成り立っているこ
とです。いわば、一般社会の中にそれなりの目利きが多数存在し、経済的にも成
り立つコミュニティーが存在しているのです。哲学の場合、その内容が一般の
人々にとって難解なこともあって、このようなコミュニティーは成立しにくい側
面があります。しかし、森岡さんが「三つの症候群について」で掲げている「現
実が突きつける問題への対決」に見られるように、多くの現実的な問題と哲学は
関わりを持っています。このことから考えるに、あるべき哲学のコミュニティー
は文献学を縦軸としつつも、他の学問分野の人々、更にはジャーナリストを含め
た広いフィールドワークの実績を持つ人々と関わることによって哲学はその意義
を一般にも認められるようになるかと思います。すでに森岡さんたちがはじめて
おられる「現代思想研究会」などがコンピューターネットワークに載っているこ
とを考えると、実現は決して難しくないと思います。
制度的にこのことを考えるならば、哲学の文献学的修養もある程度積み、更に
他の分野での社会経験を持った人が哲学をリードすべきではないかと考えます。
(かなり私に都合のいい話になるのですが)哲学を講ずる人は文献学の素養と共
に、他の学問、もしくは一般的な仕事のキャリアを考慮して任じられるべきでは
ないかと思います。そして、その上で、多様な人々のネットワークの上で哲学が
論じられるのがその望まれるべき姿と言えるでしょう。自然が科学の専門化・細
分化の弊害が指摘されて久しいのですが、私は哲学はジェネラリストの学問とし
てこの方向を目指すべきだと考えます。ここで文献学は哲学の縦軸の役割を持ち
ますが、多様な人々からなる横軸を通して現実に関わらざるを得なくなります。
以上が先の「現代において哲学すること」に関する私のコメントです。文献学
と哲学との関係を明確化し、哲学を論じるコミュニティーが如何にあるべきかを
通じて、哲学研究を如何に学問の制度の中に位置づけるべきかをより具体的に論
じてみました。制度についてはすでに森岡さんも「総合研究の理念」で論じてい
るところですが、正直、今回の発表はこちらの要素を主にした方がよかったと私
は思います。
いちおう、現在の哲学研究の問題についてはこれだけなのですが、エヴァンゲ
リオンに関してこれと絡む問題がありますので、少し触れさせていただきます。
*文献学としてのエヴァの謎解き
私はエヴァが嫌いです。森岡さんは共感するところが多かったと書いておられ
ましたが、私はその細部の出来が素晴らしかっただけにそのラストに耐えること
が出来ませんでした。これはひとえにオチを放棄したことから来る不快感による
ものです。しかし、それ以上に問題に思えたのは、アニメファンの文献学的態度
です。これは与えられた事実の整合的なつなぎ合わせによってエヴァを説明しよ
うとする点において、文献学的だと思えるのですが、こちらの方は笑うに笑えま
せん。何故なら、入学試験の場合と同じように多くのアニメファンが誰かの作っ
た答えをみんなで探しているように思えたからです。
私はこの物語もさることながら、この物語の社会的な影響の中に今の日本の閉
息感を感じざるを得ませんでした。文学は哲学と違って、面白いか面白くないか
がその評価の基準になります。いわば、主観的な感情の変化がその評価の基準に
なるわけです。しかし、神話を含めた物語にあっては、単に人の内面の変化に止
まらず、その行動にも変化を及ぼします。人の行動はその人の経験を核にして展
開されますが、それに止まるものではありません。それぞれの宗教や民族には神
話がありますが、その神話の提示する物語のパターンがその人の個人的経験を超
えてその人の行動を広げる媒介となります。ところが、エヴァは自らそのオチを
放棄することによってその役割を放棄してしまいました。〈エヴァンゲリオン〉
のHPの作者は庵野監督のメッセージがアニメファンに対する現実回帰の呼びか
けであったとしていますが、私にはむしろ結果的に彼らを無責任な形で現実に放
り出したと思っています。少なくとも、もし庵野監督のメッセージが有効であっ
たなら、多くのアニメファンが謎解きに走ることはなかったでしょう。
私はこの不快感を拭うために、自らエヴァの最終話を書き換えてしまいまし
た。これは私が哲学において文献学に止まれなかったのと同じ理由によるもので
す。話は粗筋だけしか書いていないのですが、私のHPにも載せておきましたの
でURLを下記に記しておきます。
http://www.oec-net.or.jp/~iwata/eva.htm
少しきつい言い方になるかも知れませんが、森岡さんは「次の機会に」を嫌う
あまりにその多くの発言が一時的なもの、時として感情的なものに流されている
気がします(貴HPのライブラリーを全部読んでいないので本当はそこまで言え
ないのですが)。私は森岡さんがエヴァに嫌悪感を持たないのもそのためかと考
えております。しかし、常に「次の一手」を考えつつ「今の一手」を打つ私の場
合、如何にエヴァの中に共感できるものがあっても、次の実践の場につながらな
い、もしくはそれから目をそらせるような内容には耐えることが出来ないので
す。
哲学茶房のサクサクHP http://www.oec-net.or.jp/~iwata