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作成:森岡正博 
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消費社会の中の廃棄物問題

〜アプリオリにあるものとしてのモラルを超えて〜

畑中賢一

○はじめに

初対面の他者に対して、彼女/彼が私の考える一定水準以上の倫理性を保持し
ていることを、私は暗黙裏に期待する。しかし私が立て、もしくは暗黙裏に前
提する倫理的命題は、外界との接触の積み重ねを経て形成された私の人格に由
来するので、私に固有であり、なおかつ少なくない場合、私独自のものである。
また倫理的規準とはそもそも、他者との合意のうえではじめて成り立つもので
あり、したがって準拠枠として倫理、あるいは倫理的という言葉を使う場合、
そこには中身の有効性や、あるいは規範としての確かさについての、疑問がつ
きまとうはずである。

しかしながらこのことを忘れて、私は倫理/倫理的という言葉を、たやすく使
いがちである。倫理という、その言葉を出してしまえばそこから先には容易に
話が進まない概念にはまり込むことは、問題を考える上で大きな比重を占めて
いるかもしれない隠れた問題を見落とすことにもしばしばつながると、私は考
える。

その例として、廃棄物問題を扱ったテレビの番組を取り上げる。廃棄物処理の
不具合の問題は、現在の日本の消費社会の矛盾を象徴的、かつ集約的に体現す
る問題群の一つであり、その解決に向けての取り組みはようやく着手されたば
かりである。不具合を生じせしめている原因を洗いだし、整理することが必
要だが、この問題についてテレビをはじめ、マスメディアで報じられている内
容は、投棄行為を監視する周辺居住者に対する身体的暴力や脅迫の問題など、
部分的には重要な問題をついているが、しかしとりわけテレビの報道を見る限
り、廃棄物処理業者に対してモラルの有無を問いただす場面が重点的にクロー
ズアップされるなど、問題が由来する構造を把握しその解決をさぐる目的には、
必ずしも有意義に寄与していると思えないからである。

○人工物設計のリスクと市場評価の失敗

テレビのレポートはたいていの場合、廃棄物処理の費用の問題に触れることを
忘れない。であるなら業者の生活も考えるべきだ、と言うのではない。ゴミや
汚物を扱うことを私を含め、いまの日本の社会に生きる人間はとかくいとい、
しかもさげすみがちだという点を付け加えることは重要だが、同等以上に重要
な問題だと私が思うのは、開発するときに売値は考えても、処分の簡便さやコ
スト、安全性は考えない(眼中にない)商品設計の問題であり、商品がすっか
り普及し定着してしまった後で重大なリスクの存在がまま判明するという、人
工物に対する市場評価の失敗の問題である。

ここからは三つの問題が派生する。一つは商品を新たに設計開発すること自体
にまつわる、次の疑問にまつわる問題:商品の設計開発を、使用-普及が長期
間にわたり進行し継続した場合に生じうる問題や、希少資源の利用を抑えるこ
と、また処分の簡便性や安全性、適正に処分を行いうる主体の非限定性などす
べてを考慮して行った場合、その商品の開発と売り出しを行うことが果たして
利益を生むのか?逆にいえば、そうでない商品開発と売り出しによる利益は、
その分だけの上乗せリスクを商品に伏在させることによって初めて生まれてい
るのではないか?という疑問だ。これをどう考えるのか。二つ目は、商品が売
り出され普及する過程にまつわる問題。上述のやかましく、容易ならざる吟味
を経ずに設計開発された商品はそうである分だけより大きなリスクを伏在させ
ている訳だが、このリスクは商品が普及し定着するほど拡散し、顕著になり、
社会生活の中に不可欠の要素として組み込まれる。

以上二つの問題を解決するためには、リスクをより長期的なスパンで、またラ
イフサイクルのより末端にわたって、評価し吟味する商品設計を行うことに経
済的インセンティヴを与える法制度の再設計が必要だし、商品が売れ、拡散す
ることをリスクの拡散をはらむものとして評価し反映させる税体系の再設計が
必要だと思う。

○新商品開発の継続をビルトインされた枠組みとしての、消費社会

三つ目は、新商品を次々に開発し、売り込む活動をその維持のために必要とす
る、現在の消費社会のあり方の問題だ。これは私自身の内発的な欲望を背景と
するもので、その中身を厳しく吟味していくことはたしかに必要だと思うが、
そこに一意に問題の原因を求める見方があるとすれば、その見方には首肯でき
ない。なるほど私は消費欲をもち、消費欲を満たしたいと思うが、車を10年で
買いかえ、新居を25年で改築することを望むものではない。PowerBook150をわ
ずか4年で廃棄し、iMacに乗り換えようかと思うのも私の本意ではない。また
私は食糧調達は、できればスーパーでしたいと思っているが、にも関わらず25
時にコンビニに走ったりするのだ。

私は消費したいと思うが、いま現にしているような形でしたいと望んでいるの
では必ずしもない。私が消費欲を満たすあり方の一方には必ず、そういう形で
商品/サービスを提供した方がうまく回っていくという、社会全体の法制度な
り、そこから導かれる性格が噛んでいるはずだと思う。『じゃあ東京にいるの
やめれば?』の一言できれいさっぱり解決する問題では、これはない。都市を
離れてたとえ百姓をはじめたところで、日本国内にいるかぎりは多かれ少なか
れ、いわゆる利便性も一緒についてくるからだ。そこにどうしてハマるのか、
そうした便利さは本当に必要か、便利さにかまけずともどういう生活を送るこ
とができて、そこにどんな地平が開けてくるのかを、考え吟味する必要がある
と思う。

○死の概念が欠落した対象としての、物質/人工物

商品設計の問題をふりだしに三点指摘したが、廃棄物問題を扱ったテレビの番
組について続けると、レポートで視界から抜け落ちている重要なポイントは、
まだある。所有(→財/サービスに対する人間の働きかけ)という概念は立岩
真也さんが注意を喚起して焦点をあて直したように*3、使用、収益、および処
分の各概念を含む。とりわけ財に対して行為するに当たってこれらは一連のサ
イクルをなすが、しかし財に対して何かしらの行為を行うとき、私は入手し使
用し、ときに収益することまでは考えても、使用あるいは所持の過程における
劣化や、その結果財を処分することまではなかなか考えおよばず、まま新しい
ものを入手することについてのみ欲望を肥大させる。つまり使用-収益-処分と
いうライフサイクルが本来存するにもかかわらず、注目され焦点が当てられる
のは多くの場合、使用、および収益の各段階までなのである。

形成され普及しているこの傾向は消費社会の中で生きる私の物質/人工物観そ
のものに影響を及ぼし、それや、ひいては私のコスモロジーをも形成している
が、ここで問題なのは物質、あるいは人工物について、私は死の概念(あるい
は、弔いの対象と見なす認識)を欠落しているということだ。都市で24時間生
活の利便性を享受しながらその処理の末端を引き受けている他者に対して、廃
棄物の扱いの粗末さを咎めるのは馬鹿げているし、使用-収益-処分という財に
対する人間の働きかけのサイクルを踏まえるなら、その対象の一角をなすこと
がらについて、そのあり方を個人の倫理感の有無にのみ委ねている現在の社会
システムのあり方の方こそ、むしろ問われてしかるべきだろうと思うのだ。

○小括

以上の議論をさしあたり、次のように要約しておく:

     1. 現在の日本社会における廃棄物処理の不具合については、処理業者のモラル
     のなさがしばしばやり玉にあげられるが、そこだけを問題にするのは馬鹿げて
     いる。
     2. まず、廃棄物の処理を自ら行わない私たちは、ゴミや汚物を扱うことをいと
     いながら、しかもそれを委ねている人間をさげすみがちだ。私たち自身のこの
     態度が、一つには、廃棄物のリスクの小さい処理をさまたげている。
     3. また、廃棄物の処理が問題になっている背景には、
     [3-1] 一つに商品を新規に設計する際、リスクを十分に多角的な諸側面にわたっ
     て適切に評価しそれを反映させることが、困難であるにも関わらず経済的に奨
     励されていない点があり、
     [3-2] 二つに商品の普及にともなう、商品が持つ未知のリスクの影響は市場原理
     によって拡大されるという問題があり、
     [3-3] 三つにこれらの問題を未解決のまま抱えているにも関わらずその維持のた
     めに、現在の消費社会は新製品の絶え間ない開発と売り込みを要請するという
     問題がある。
     4. [3-1] についてはリスクをより完全に吟味して行う商品設計を経済的に奨励す
     る法体系を、また [3-2] については商品の普及をリスクを含むものとして把握
     し反映する税体系を、それぞれ新たに設計する必要がある。また [3-3] につい
     ては、新商品やシステムを次々と産み出す消費社会の便利さに社会を構成する
     諸個人がなぜハマるのか、そうした便利さに対してどんなオルタナティヴがあ
     りえ、そこにどんな感覚/概念/身体世界が開けてくるのかを、考え吟味する
     必要がある。
     5. さらに、[3-1]~[3-3] の問題を産み出す条件として、消費社会の中で私たちが
     形成し肉化している、死の概念(あるいは、弔いの対象と見なす認識)を欠落
     させた、物質/人工物に対する見方の存在と普及がある。私たちは自らの物質
     観、あるいは物質観と連関を持って存在している私たちのコスモロジーを、問
     い直す必要がある。

すなわち、従来指摘されていなかった新たな論点として、より完全にリスクを
考慮した商品設計を補助するための法制度の導入と、商品の普及がリスクに変
化する危険性を考慮した税体系の導入の必要、および物質/人工物に対する死
の概念の欠如の問題を指摘した。ここでは問題の所在を洗いだし整理するにと
どめ、各論点についてのより具体的な考察は別途わけて行う。

最後に、ここで行った簡単な考察は思いつきの域を大きく出ないもので、廃棄
物処理にかかわる問題を網羅しているものではないことをお断りしておく。私
自身が重要と感じる点を単にピックアップしたに過ぎない。しかしながらこう
した作業を複数の人間が互いに情報をやりとりしながら続けた場合、この問題
に関連して注目し解決すべき問題の所在と性質は上の議論をはるかに上回る妥
当性をもって明確化する可能性がある。諸外国の事例を研究することもさるこ
とながら、問題解決のための取り組みは、こうした作業の上に着手されるべき
ものと思う。その際、冒頭に述べた趣旨の繰り返しになるが、倫理の概念を用
いることは極力避けるべきものと思われる。上の議論は問題の洗い出しの、一
つの例示である。