LIFESTUDIES.ORG/JP 
ホーム > 論文・エッセイ > このページ
作成:森岡正博 
掲示板プロフィール著書エッセイ・論文
English Pages | kinokopress.com

論文

 

『現代生命哲学研究』第4号 (2015年3月):82-97
「人生の意味」は客観的か−T・メッツの所説をめぐって
生命の哲学の構築に向けて(7)
森岡正博

 

 *印刷バージョンと同一のものをPDFでダウンロードできます。引用するときにはかならずPDF版をご参照ください。 → PDFダウンロード


1 はじめに

本論文は、サディアス・メッツ(Thaddeus Metz)の著作『人生の意味:分析的研究(Meaning in Life: An Analytic Study)(1)における主張をいくつか紹介し、それを批判的に検討するものである。

「人生の意味」の哲学は、洋の東西を問わず古来より哲学的考察の中心にあった。たとえば古代ギリシアにあってはアリストテレスの『ニコマコス倫理学』における幸福論や友愛論はその典型例であるし、古代アジアにあってはゴータマ・ブッダの思索のひとつの中心はそこにあったと見てよい。現代においても、たとえばニーチェの哲学の中心点が「人生の意味」にあったことは誰しも認めるところであろう。心理学の領域では、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』が「人生の意味」をめぐる現代の古典であることも言を俟たない。

その一方で、現代の英語圏の分析哲学の領域に目を転じれば、そこにおいて「人生の意味meaning in life」(2)が哲学的議論の主潮流を形成することはほとんどなかったと思われる。もちろん、分析哲学の初発点において、「人生の意味」への問いが決定的な役割を担っていた事例があることは注目しなければならない。すなわち、ヴィトゲンシュタインの初期から後期に至るノート類において、生きることの意味への激しい希求が書き記されており、その情念が彼の論理哲学を推進させていたことに間違いはないだろうからである。だがヴィトゲンシュタインの場合においても、その主著でそれが中心的課題として明示的に取り上げられることはなかった。「人生の意味」の問いは、あくまで彼の論理哲学を駆動させる隠れたエンジンとして機能していたのである。

このように、二〇世紀の分析哲学を全体として見れば、「人生の意味」の問題は、あくまで傍流の問いであった。当然のことながら、そのような分析哲学の領域においても、「人生の意味」は問われ続けてきたし、その中にはきわめて重要な考察も数多くあった。ただそれらをまとめあげて一つの大きな地図として提示する試みがあまりにも少なかったのである。

その中で、今回刊行されたメッツの著作『人生の意味:分析的研究』は、英語圏における「人生の意味」についての哲学的議論を総ざらいし、論点をクリアーに整理して、このテーマに関する哲学的議論の見取り図を作成した重要な業績である。また、メッツ自身は「人生の意味」の客観主義に立って、「人生の意味」の概念についての彼自身の考察を行なっている。今後の分析哲学において「人生の意味」論を行なう者は、メッツの本書を必ずや参照しなければならないであろう。

本論文では、前半でメッツの議論を簡潔に紹介し、後半でメッツ自身の立場に対する批判を行なう。

2 メッツの「人生の意味」論

メッツは、本書の第1章から第4章で、「人生の意味」はその全体において問われるべきものなのかそれとも部分において問われるべきものなのかという問いや、「人生の意味」と「快楽」はどう違うのかという問いについて詳細な検討を加えている。これらの考察はたいへん興味深く、批判的な検討に値するが、その作業は別の論文に譲ることにする。

本書の第5章から第11章で、メッツは「人生の意味」を考察するときの立場を「超自然主義」「主観主義」「客観主義」の三つに分類して検討している。このパートは本書の中心をなす部分であるので、その概要を簡単に紹介しておくことにする。メッツによれば、その三つは次のような関係にある。

 

 

まず「超自然主義supernaturalism」とは、「人生の意味」を超越的なものとの関係性、たとえば神との関係性において把握しようとする立場である。「超自然主義とは次のような一般的見解のことである。すなわち、「人生の意味を構成するもの、あるいは少なくとも人生の意味に必要なものは、スピリチュアルな領域a spiritual realmとの関係性であるという一般的見解である」(3)。メッツは超自然主義的な「人生の意味」論について多くを議論しているが、結局のところその立場に決定的な優位性を与えることはない。超越的なものとの関係性が人に「人生の意味」を与えるのかどうかについては、確定的な結論を導くことはできないとする(4)。

これに対して「自然主義naturalism」は、神や魂がなければ人生は無意味なものになるという超自然主義の考え方を退ける。自然主義は、科学的な方法によって知ることのできる時空、すなわち純粋に物理的な世界において人生は有意味なものになり得ると考える(5)。

自然主義のひとつの形は「主観主義subjectivism」である。主観主義とは、人生を意味あるものにするのは主観であるとする立場である。その場合の主観とは、「命題的態度propositional attitude」を取ることのできるような主観のあり方を意味する。すなわち、単に心に快楽が湧いてくるとか、いらいらしてくるというような主観のあり方ではなく、たとえば「こんなことが起きてほしいと欲求する」とか、「自分が何ものかであることが誇りだ」というように、ある命題の形を取った対象を欲求したり誇りに思ったりすることができるような主観のあり方である。そしてそのような主観によって目指される命題内容の達成によって、人生に意味が与えられるとするのである(6)。

メッツは主観主義の立場について様々な議論を行なっている。そのうえで、主観主義のはらむ最大の問題点を、本人がそれに満足していたらたとえどんな内容の人生であったとしても意味があることになるところに見ている。たとえば、瓶の蓋を集めるための人生であっても、他人を傷つける人生であっても、単に生きているだけの人生であっても、もしそれに満足していたなら意味のある人生になるが、それはおかしいのではないかとメッツは示唆する。そして主観主義に対するこの種の反論は多数の哲学者から出されているとする。もちろん、このような主観主義を擁護する者もいるが、メッツによればそれはうまくいかない。人生に意味があるとすれば、それは何かの形で他人や社会に善をもたらすような人生でなければならないだろうと主張するのである。他人に害を与えるだけの人生や、ただ生きているだけの人生にたいした意味はないだろうと言うのである(7)。

このようにしてメッツは、自然主義のもうひとつの形である「客観主義objectivism」を最終的に擁護することになる。すなわち、「人生の意味」はある程度客観的に決まるとするのである。「客観主義者にとっては、物理的世界における出来事は、〈それ自体においてin themselves〉意味を持つのであり、主観的な命題的態度の対象であることとは独立に意味を持つのである」(8)。すなわち、人が自分の人生に満足しようがしまいが、そのようなこととは関わりなく、その人の「人生の意味」はある程度客観的に決まるとするのである。ではその客観的な諸性質とは何かということだが、それはその人生に内在するところの「善・真・美the good, the true, and the beautiful」(9)である。善・真・美を兼ね備えた人生こそが、客観的に意味を持つ。そうであるがゆえに、「聖人的善行、知的達成、美的創造moral supererogation, intellectual achievement, and aesthetic creativityが人生の意味の中心的源泉である」(10)と人々に信じられているのだとメッツは言う。その点において、マザー・テレサやマンデラの人生は客観的に有意味である。メッツは、「人生の意味」の客観主義を、帰結主義と非帰結主義に分け、それぞれの論者について批判的な検討を行なっている。この部分の議論も興味深いが、ここでは割愛する。

本書第12章で、メッツは客観主義に立つみずからの「人生の意味」論を、「基盤主義理論fundamentality theory」として定式化する。それは、人間の行為は、人々が生きていくうえでの基盤的諸条件の向上に寄与する程度に応じて意味を持つ、とする考え方である。その初発的定式は次のようになる。

人間の人生は、その人間が自分の理性を活用し、自分の理性を積極的に人間存在の基盤的諸条件へと向かわせれば向かわせるほど、より大きな意味を持つものとなる(11)。

ここでいう「理性」は、狭義の理性ではなく、感情などをも含んだ広義の理性であるとメッツは言う。また「基盤的諸条件」は「必要条件」のことではないとも言う。それらの議論をしたうえで、メッツは、「人間存在の基盤的諸条件」とは何かを、上記の「善・真・美」に即して考察していくのである。

メッツはまず「善」について次のような考察を行なう。直観的に言って、マンデラの人生には大きな意味がある。なぜならマンデラはみずからの多くを犠牲にしてアパルトヘイトを廃絶したからである。マザー・テレサの人生にも大きな意味がある。なぜならマザー・テレサはずたずたになった多くの人々に対して非常に共感的な態度で尽くしてきたからである。ところが、もし彼らが、すべての人々の足の爪が定期的に切り整えられるために全力を投入していたのだとしたら、あるいは口臭を持つ人がこの世にひとりもいなくなるように全力を投入していたのだとしたら、彼らの人生はけっしてここまで有意味なものだとはみなされなかったであろう。人々の平等と自由の促進、そして健康の改善は人間にとって基盤的substantialなものであり、それらにみずからの人生を積極的に関わらせようとした点において、マンデラとマザー・テレサの人生は客観的に意味を持つのである(12)。

メッツは次に「真」について次のような考察を行なう。「真」の次元においては、ある人間のよく訓練された知的理性intellectual rationalityが人間の生命と人間のリアリティの基盤的諸条件へと積極的に向けられれば向けられるほど、そして欲求・楽しみ・理解などの主観的ファクターがそこにおいてより多く表現されればされるほど、その人間の存在は真の領域においてより有意味なものになる。たとえばダーウィンやアインシュタインを想起すれば分かるが、ダーウィンは単に個々の種の起源を発見しただけではなく、我々の生命の大部分が自然選択の結果生み出されたという基盤的な真実を発見したのであり、アインシュタインは宇宙の時空的構造に関わる基盤的な真実を発見したのである。その点において、彼らの人生の意味は客観的に大きい、とメッツは言おうとしている(13)。

メッツは最後に「美」について次のような考察を行なう。道徳性・戦争・死・愛・家族などのトピックスを描くアートと、排泄やゴミを描くアートのあいだには大きな違いがある。もちろん排泄は人間にとって必要なことであるが、人生にとってはあくまで道具的なものであり、基盤的fundamentalなものではない。ドストエフスキーの『罪と罰』やピカソの『ゲルニカ』が偉大なのは、それらが深遠なテーマへの深い気づきを運んでくるからである。したがって、「美」の次元においても、これらの基盤的なものに向けられた人生ほど、より有意味なものになる(14)。

これらの議論を行なったうえで、メッツはみずからの基盤主義理論の最終定式を提唱する。基本的な考え方は初発の定式と同様である。それを引用しておこう。

人間の人生は、その人間が、犠牲を過小評価することを防ぐ道徳的制約を損なうことなく、自分の理性を活用し自分の理性を積極的に人間存在の基盤的諸条件へと向かわせれば向かわせるほどあるいはそれらを脅かすものへと向かわせなければ向かわせないほど、さらには力強く申し分なく独自なライフストーリーを生み出すようなプロセスによって人生の最悪の部分が人生の終わりに向けて最良の部分へとつながっていくようになっていればいるほど、より大きな意味を持つ。そして人間の人生は、人間存在の基盤的諸条件へとより向かわないようになっていればいるほど、あるいはナラティブな価値を減ずるようになっていればいるほど、より小さな意味をしか持たない。(15)

そして本書第13章で、メッツはこれまでの総まとめをして議論を終える。

3 「人生の意味」は客観的か?

私の見るところ、メッツの基盤主義理論は、「人生の意味」という概念の持つ、ある中心的な意味内容を捉え損ねている。そしてそれは客観主義に立つ「人生の意味」論が共有している難点であると考えられる。

メッツは、マンデラやマザー・テレサの人生は、彼らほど人類の基盤的諸条件の向上に寄与しなかった人間の人生よりも、より大きな意味を持つと結論づける。偉大な人間の「人生の意味」は、凡庸な人間の「人生の意味」よりも大きいとするのである。このようにして、ある人間の「人生の意味」と、他の人間の「人生の意味」を客観的に比較することができるとする。

もしこのように考えるとするならば、メッツの言う「人生の意味」は、ある人間に帰せられる「社会的な価値」とほとんど同じものになる。もちろんメッツは、人間が自分の理性をどのように使うか、あるいは人生行路の最悪の部分が後の最良の部分につながるようになっているかなどの、個々の人生内属的な側面が「人生の意味」の一部を構成することを指摘してはいる。しかしながら、もしその側面に大差がないのならば、「人生の意味」は、その人間の「社会的な価値」によって決まると言っていることになる。

メッツが好んで語る、マンデラやマザー・テレサの人生は凡庸な人間の人生よりもより大きな意味を持つという文章は、マンデラやマザー・テレサの人生は凡庸な人間の人生よりもより大きな「社会的な価値」があるという文章で十分に置き換えられるはずである。なにもわざわざ「人生の意味」という言葉を持ち出さなくてもかまわないと私には思われる。

というのも、我々が「人生の意味」を心底から問おうとするとき、それはけっしてあの人やあなたや私の「社会的な価値」を問うているわけではないからである。我々が「人生の意味」を心底問おうとするとき、それは次のような形を取るのである。

「ああ、私のこんな人生に、何の意味があるのだろうか?」

この問いこそが、「人生の意味」の初発の問いである。そしてそれは、自分を棚上げにして、Aさんの人生とBさんの人生のどちらがより大きな意味を持つのかとか、「人生の意味」とはどういう概念かなどを単に思索しているときにはすでに視界から消え去っているような種類の問いなのである。この初発の問いは、私が自分自身の人生を生きていくことの真の充実をその底から支えてくれる足場となるものが実は不在なのではないかと実感したときに、心の底から叫ばれる問いである。

この問いは、おそらく多くの場合、社会的に見て成功していない人間たちから発せられるものであろう。あるいは自分にとって耐え難い何かの失策を犯した人間たちから発せられるものであろう。しかし同時に、この問いは、マンデラやマザー・テレサのような「社会的な価値」に充ち満ちた人間たちからも発せされる可能性のあるものである。すなわち、メッツの言うような人類の基盤的諸条件を向上させるために全身全霊で生きて実際にその成果をあげたとされるマンデラやマザー・テレサであってすら、ある夜に「ああ、私のこんな人生に、何の意味があるのだろうか?」と心から叫ぶ可能性はあるのである。メッツの立場からすれば、この叫びは錯誤の問いである。定義からして最高度に有意味な人生を送っているわけだから、その人生に対して「こんな人生に、何の意味があるのだろうか?」とあえて問うことは錯誤以外の何ものでもない。

しかしながら、これはけっして錯誤ではない。マンデラやマザー・テレサのような人間ですら「ああ、私のこんな人生に、何の意味があるのだろうか?」と自問することが可能な概念、それこそが「人生の意味」という概念のはずだからである。メッツの言う基盤主義理論を十全に満たしている人間ですら、「はたして私の人生に意味があるのか?」と問うことが可能であるところに、「人生の意味」という概念の本質部分があると私は考える。

もう一度、初発の問いに戻ろう。「ああ、私のこんな人生に、何の意味があるのだろうか?」と私が問うたとする。私は凡庸で、社会的に成功することもなく、社会から見て別にいてもいなくてもいいような人間に過ぎないし、つまらない人生しか生きて来られなかった。私のこんな人生に、何の意味があるのだろうか。しかしそんな私が、あなたに出会うことができて、たったそれだけのことで私の人生には大きな光が差し込んできた。いま私は言うことができる、私は社会的には別にいてもいなくてもいいような人間だけれども、それにもかかわらず、あなたに会えたことで私の人生にはこれ以上ないほどの大きな意味が与えられた、と。

だがメッツの基盤主義理論は、このような「人生の意味」のとらえ方を徹底して抑圧していくのである。基盤主義理論は言うだろう、「あなたが自分の人生に意味があると思うことは自由であるが、それはあなたの人生に実際に意味があることとは別である。もちろんあなたの人生にも意味はあるが、マンデラやマザー・テレサの人生ほど意味があるわけではない」、と。このようにして、基盤主義理論は、凡庸な人生であってもマンデラやマザー・テレサの人生に匹敵するような意味を持ち得る、というような「人生の意味」の可能性を、なきものにしようとするのである。

ところが、古来からの文学や宗教文献を見るに、凡庸な人間や悪をなす人間であってもなお、いやむしろ凡庸な人間や悪をなす人間であるからこそ、高潔な聖人君子に匹敵するほどの「生きる意味」がもたらされる可能性があるということをあえて強調する文脈において、「人生の意味」という概念が多く用いられてきたように私は考えるのである。もしこのような逆説を見ないのであれば、あえて「人生の意味」という概念を用いる必要はないのであり、社会に貢献した人間たちの人生に対して「社会的な価値のある人生」という概念を用いるだけでよいはずである。人間というのは、たとえ社会的な価値に乏しいとしても、それにもかかわらず最高度の「人生の意味」を与えられる可能性がある、という人間存在の不思議を言い当てるために導入された言葉こそが「人生の意味」なのだと私は考える。それを捉えきっていないばかりか、「人生の意味」のそのような側面をあえて消し去ろうとするところに基盤主義理論の最大の難点がある。

メッツからすれば、このような私の立場は、典型的な主観主義のように見えるだろう。ここで、メッツを批判している私自身の立場を明確にしておきたい。私は、「人生の意味」は、主観の次元で生起する何ものかであると考えている。そしてその主観の次元を支えるものとして、客観的な世界へのつながりが存在すると考える。人生に意味を与えるものは主観だが、その主観は客観世界と切り離されているわけではないのだ。そのうえで、私は次の二つのテーゼを提出する。ひとつは、「私の場合において問われたものこそが、人生の意味の中核部分にあるものである」というテーゼで、もうひとつは、「人生の意味は他と比較することはできない」というテーゼである。順番に説明したい。

まず「私の場合において問われたものこそが、人生の意味の中核部分にあるものである」について。人生の意味の問いの初発の形である「ああ、私のこんな人生に、何の意味があるのだろうか?」を思い出していただきたい。ここで痛切に問われているのは、誰の人生でもなく、まさに「私の」人生に何の意味があるのかということである。この初発の形で問われているのは、私がいま内側から生きているこの人生において、すなわちこの論文を書いている私やこの論文を読んでいるあなたの実人生において、そこにいかなる意味があるのかということである。人生の意味の問いは、ここから出発して、最後にふたたびここへと帰ってくるのである。現に生きているこの私の人生について問われた人生の意味の問いを「人生の意味の中核部分」と呼ぶことにしよう。

これは、一般的に見て「人生の意味」はどこにあるのかという問いとは、まったく種類の異なる問いである。そして「人生の意味」を問うことの本質は、まさにこの「人生の意味の中核部分」を問うことにあると私は考える。「人生の意味の中核部分」をその基盤において問うていないような「人生の意味」論は、「人生の意味」のもっとも本質的な部分を取り逃がしているのである。

このように考えるとするならば、メッツが言うような「マンデラやマザー・テレサの人生には大きな意味がある」という判断において問われている「人生の意味」は、上記の「人生の意味の中核部分」を内在してはいない。なぜなら、マンデラやマザー・テレサの人生を、私が現に生きているわけではないからである。すなわち、他人の人生において問われた「人生の意味」は、「人生の意味の中核部分」を内在させていないのである。したがって、そこにおいて「人生の意味」という言葉は使われているものの、「人生の意味の中核部分」はけっして問われないままに放置されているのである。したがって、我々が他人の「人生の意味」について問うときに、そこで「人生の意味の中核部分」が問われたと考えるのは完全なる錯誤であることになる。そして他人の人生の場合に「人生の意味の中核部分」が問われることはないのであるから、他人の「人生の意味」の問いは往々にして他人の単なる「社会的な価値」についての問いへと変質してしまうのである。人生の意味の客観主義はこのようにして生まれる。

もちろん、マンデラやマザー・テレサが「自分の人生に意味はあるのか?」と自問することはあり得る。しかしそのことと、我々が「マンデラやマザー・テレサの人生に意味はあるのか?」と外部から問うことはまったくの別問題なのである。

そのうえで考えれば、私が自分自身の人生の意味を問うときに、その視野が自分を取り巻く広い範囲の人々と自分との関係性へと広がっていくことがあり得る。たとえば、自分の人生に意味があるのは、自分の行なったことが人々の役に立ったときであるというふうに思う人は多いであろう。これは、メッツの基盤主義理論とよく似ている。しかし決定的に違うのは、人々の基盤的諸条件の向上への寄与によって人生に意味が与えられることがあり得るのは、私が自分自身の人生を問題にしているときに限られるという点である。「人生の意味の中核部分」が問題となる場合に言えるのは、「世界の人々が幸せになった、だから私の人生には大きな意味がある」ということなのであって、「世界の人々が幸せになった、だからあの人の人生には大きな意味がある」ということではないのである。後者の場合、そもそも「人生の意味の中核部分」は問われてすらいない。

「人生の意味の中核部分」は、私の場合においてのみ問うべきものである。と同時に、それを問うときに考慮しなければならないファクターは、私を取り巻く広い範囲の人々との関係性へと広がっていく。「人生の意味の中核部分」は私においてのみ問われるのだけれども、「人生の意味の中核部分」が実際に生成するのは私の人生が人々のあいだの助け合いの関係性や愛の関係性へと組み込まれたときであるというケースは数多く見られるであろう。このような「人生の意味」論は、メッツの分類では主観主義とされるだろうが、それはけっして主観に閉じた論ではなく、主観的な意味を実現するために客観的な文脈が大きく寄与することを認めるような主観主義であることになる。「人生の意味の中核部分」が生成する場所は主観だけれども、「人生の意味の中核部分」をもたらすのは客観的な文脈であり得るし多くの場合そうなのである。

以上のことは、「私のあり得たかもしれない他の人生の意味」すなわち「私の反事実的な人生における人生の意味」についても当てはまる。たとえば、私が億万長者であるような反事実的な人生を想定して、その人生にどのような意味があるかと問うときに、私はいったい何を問うているのだろうか。大事なのは、その反事実的な人生を私は現に生きていないということである。したがって、いま現に生きている私のこの人生によってのみ問われ得る「人生の意味の中核部分」が私の反事実的な人生において問われていないのは明らかである。「人生の意味の中核部分」が問われ得るのは、いま現に生きている私のこの人生についてのみであり、私がひょっとしたら生きていたかもしれない架空の人生についてではないのである。

では次に「人生の意味は他と比較することはできない」について。

これはさらに三つに分かれる。「私の人生の意味を他人の人生の意味と比較することはできない」と「他人の人生の意味を別の他人の人生の意味と比較することはできない」と「私の人生の意味を、私のあり得たかもしれない他の人生の意味と比較することはできない」の三つである。ここで問われているのが「人生の意味の中核的部分」であるとするならば、以下のことが言える。

まず第一命題であるが、先に考察したように、他人の人生において「人生の意味の中核的部分」を問うことは不可能である。したがって、「人生の意味の中核部分」が問題となっているときに、私の人生の意味を他人の人生の意味と比較することはできない。メッツは多少の謙遜を込めてこのように言う。「私の人生は、これまでのところ、エミリー・ディキンソンの人生よりも快楽に満ちたものであるが、しかしアインシュタインの人生よりは意味の少ないものであると私は知っている」(16)。だが、もしここで「人生の意味の中核部分」が問題となっているのだとすれば、この後者のアインシュタインとの「人生の意味」の比較は、そもそも比べられないものを比べるという誤りに陥っていることになる。もっとも、メッツはここで「人生の意味の中核部分」を問題としているわけではなさそうだから、その意味においてはこの文章は誤りとは言えない。

次に第二命題であるが、これは第一命題と同様の理由によって論証される。そもそも他人において「人生の意味の中核部分」を問うことはできないのだから、それらを相互に比べることもまたできないのである。「人生の意味の中核部分」が問題となっている場合、メッツの行なうような、マンデラやマザー・テレサの人生の意味と凡庸な人間の人生の意味の比較は、そもそも本来比べられないものを比べてしまっていることになるのである。

最後に第三命題であるが、これもまったく同様であり、「人生の意味の中核部分」が問題となっている場合、私はそもそも、私のあり得たかもしれない他の人生の意味を問うことはできない。それを問うことができない以上、それと私の人生の意味を比較することもまたできないのである。

以上の考察から導かれるのは、「人生の意味の中核部分」は、私が現に生きているこの人生においてのみ問うことが可能であるということであり、それが問われる次元においては、私の「人生の意味の中核部分」はいかなるものごととも比較することができないということである。いかなるものごととも比較できないということは、私の「人生の意味の中核部分」において私の人生に何かよりも大きい意味があるとか、より少ない意味しかないとか判断することができないことを意味する。「人生の意味の中核部分」は、すべての比較を超絶しているのである。

すなわち、「ああ、私のこんな人生に、何の意味があるのだろうか?」という「人生の意味の中核部分」の問いに対して、私は、「それは××よりは大きな意味がある」とか「それは××よりは小さな意味しかない」というふうに答えてはならないのである。私がこの問いに答えられる形式はただひとつであって、それは「私のこんな人生には意味がある」か「私のこんな人生には意味がない」かの二値による答え、すなわち肯定か否定かのいずれかの答えだけなのである。「人生の意味の中核部分」の問いへの答えは、イエスかノーの二つしかないのであり、その中間は存在しないのである。「人生の意味の中核部分」については、「人生の意味」はあるか、しからずんばないかのいずれかである。ここにおいて問われているのは存在の問いであり、比較の問いではない。このことは、「人生の意味の中核部分」の問いに答えるということが、イエスかノーの二分法の選択肢のいずれかのほうへと私の存在をもって歩み出す応答行為であることを示唆している。

もちろん、「人生の意味の中核部分」の問いに対して私がいま答えられない、ということはあり得るし、多くの場合そうであろう。そのこと自体には何の問題もない。ここで主張されていることは、「もし私がその問いに答えられるとするならばそれはイエスかノーの二値になるだろう」ということである。ここから示唆されるのは、「人生の意味の中核部分」の問いに対して、私が「私の人生には少しは意味がある」と思うのなら、それは「私の人生には意味がある」と同値だということである。ほんの少しだけでもそう思うことで、「人生の意味」は十全に与えられているということである。これは、「私の人生には少しは意味がある」という文章と「私の人生には少し意味が足らない」という文章のあいだの非対称性を考えてみれば言えることのように思われる。この点については今後さらに精密に検討していきたい。

このように考えてみれば、「人生の意味の中核部分」の問いに対して肯定的に答えるとはすなわち人生のまるごとに対して「これでよかった」と肯定的に答えることにつながり、ひいては私の提唱する「誕生肯定」につながることとなるはずだ。同様に、「人生の意味の中核部分」の問いに対して否定的に答えるとはすなわち人生のまるごとに対して「これではよくなかった」と否定的に答えることにつながり、ひいては「誕生否定」につながることとなるはずだ。すなわち、「人生の意味」の問いは、その中核部分において、「生まれてきたことを肯定するとは何か」という「誕生肯定」の問いに接続しているのである。ここにおいて、「人生の意味」の哲学は、「誕生肯定」の哲学と結び付くことになる。

さて、ここで再び以前の議論に戻ろう。人間というのは、たとえ社会的な価値に乏しいとしても、それにもかかわらず最高度の「人生の意味」を与えられる可能性がある、という人間存在の不思議を言い当てるために導入された言葉こそが「人生の意味」なのだ、と私は述べた。そしてその意味において、たとえ凡庸な人生であってもマンデラやマザー・テレサの人生に匹敵するような意味を持ち得ると述べた。このことを、「人生の意味の中核的部分」の概念によって、より正確に言い直してみよう。するとそれは次のようになるだろう。たとえ私の社会的な価値が乏しいとしても、「人生の意味の中核部分」の次元においては、それにもかかわらず「人生の意味」が十全に与えられる可能性があるのであり、その「人生の意味」は、他のいかなるものともその優劣を比較することが不可能なのである。このようなパースペクティブでもって「人生の意味」を捉えるときにはじめて、「人生の意味」の概念はその独自性を持ちはじめるのである。

このような主観主義の立場に対して、メッツは反論を加えている。すなわち、すでに述べた文章を繰り返せば、メッツは主観主義の難点を、「本人がそれに満足していたらたとえどんな内容の人生であったとしても意味があることになるところに見ている。たとえば、瓶の蓋を集めるための人生であっても、他人を傷つける人生であっても、単に生きているだけの人生であっても、もしそれに満足していたなら意味のある人生になるが、それはおかしいのではないかと示唆される」。この点についてどう考えればいいのか考察してみたい。

まず、私の人生が、ただ瓶の蓋を集めるためだけの人生であり、私がそれに満足しているとしたら、私の人生には大きな意味があることになるが、それはおかしいだろうという点について考えてみる。まず、このような人生は、現実の私のこの人生ではない。それは、私の反事実的な人生である。したがって、「人生の意味の中核部分」の次元においては、ただ瓶の蓋を集めるだけの反事実的な私の人生の意味について、私は判断をすることができないはずである。したがって、そのような私の反事実的な人生については、いまの私はその人生に意味があるともないとも言えないことになる。その人生に意味があるとも言えないが、メッツが示唆するようにその人生にはたいした意味はないとも言えないのである。

では、ただ瓶の蓋を集めるためだけの人生を送っている人間が、「人生の意味の中核部分の次元において、私の人生には十全な意味がある」と言ったとしよう。我々はそれをどう考えればいいのだろうか。そのとき我々に求められるのは、その言葉をそのまま受け取り、それが正しいとも間違っているとも言わない態度である。そのような人生はマンデラやマザー・テレサの人生よりも小さな意味をしか持たないとか、そのような人生にはそもそもたいした意味はないなどと言うのは、明らかな越権行為をしているのである。単に生きているだけの人生を送っている人間についても、同様のことが言える。

ていねいに考察しなければならないのは、他人を傷つける人生においても「人生の意味」はあるのかという問題である。その極端な例として、ヒトラーのような人生を考えてみよう。もし私がヒトラーのような人生を送っているとして、私が自分の人生を生きることによって、莫大な数の人間たちを地獄の苦しみに遭わせているとする。しかし私はそれを知っていながら、自分の人生には大きな意味があると考えている。なぜなら、私はそのような人生を生きることによって、人類がなすことのできるひとつの生き方の可能性を実現しているから、その点において私の人生には大きな意味があると考えているからである。したがって、たとえ私の人生によって莫大な数の人間たちが苦しみにもだえようと、私の人生には大きな意味があるというのである。

さて、もしこれが「人生の意味の中核部分」の次元の話だとしよう。だとすると、そもそもヒトラーのような人生を送っている私の人生というのは、私の反事実的な人生にほかならない。であるから、私はそのような反事実的な人生における「人生の意味の中核部分」について判断をすることができないはずである。したがって、そのような人生を送っているであろう私については、いまの私はその人生に意味があるともないとも言えないことになる(17)。

では、現に私が生きているこの人生において、私はこれまでたくさんの人を傷つけ、苦しませてきたわけだし、現在においてもそのようなことは起きている。このような私の人生において、「人生の意味の中核部分」の次元で、それでもなお私の人生には意味があると言うことはできるのだろうか。この問いに答えるのは非常に難しいが、結論から言えば、私は可能であると考える。私がそれらの傷つきや苦しみについてきちんと振り返り、それら傷つけ苦しませてきた人々とこれからどのような関係性を結んでいくのかをきちんと考え、これからの私の人生において私とかかわる人々とどのような関係性を作り出していくのかをきちんと考えるという条件をみずからに課すことによって、「私の人生には意味がある」と説得的に発言することのできる地平が開かれると私は考えている。

では、ヒトラーが、「人生の意味の中核部分の次元において、私の人生には十全な意味がある」と言ったとしよう。感情的な面で言えば、ヒトラーがそのようなことを言うのは許されない気持ちになる人が多いだろうし、私もそういう気持ちになる。しかしながら論理的に考えれば、ヒトラーが莫大な数の人間たちを地獄の苦しみに遭わせてきたにもかかわらず、ヒトラーが「人生の意味の中核部分の次元において、私の人生には十全な意味がある」と言うとき、そこにおいて「人生の意味」の概念の使用にかかわる誤謬が生じているとは考えられないのである。したがって、いくら感情的には困難であったとしても、我々はヒトラーのその言葉をそのまま受け取るしかない。もし、我々が、ヒトラーのその言葉に反論し、「お前の人生に意味などない」と言うとすれば、それは明らかな越権行為をしていることにならざるを得ない。ここに「人生の意味の中核部分」という概念の独自性がある。ここは大事な点なので、しっかりと認識しておく必要がある。

そのうえで、我々はヒトラーに向かって、「お前の送ってきた人生は倫理的に批判されるべきである」と反論しなくてはならないのである。莫大な数の人間たちを地獄の苦しみに遭わせるような人生は、倫理的に否定されなくてはならないし、そのような人生はもう二度とこの世に生起してはならないとヒトラーに向かって言わなければならない。「人生の意味の中核部分」と「人生の善悪」はお互いに関わり合ってはいるもののその存在論的身分においてはクリアーに切り分ける必要がある。そして他人の人生について、我々は前者を云々することはできないが、後者について判断を下していくことは可能である(18)。

それでは、ある人の人生が快楽漬けであって、その人生はなにひとつその人の人間性を向上させないし、社会を良くすることもないのだが、それでもなおその人が自分の人生に心底満足している場合、その人生には意味があると言ってよいのだろうか(19)。良識的に考えればそのような人生に大きな意味はないと言ってしまいそうになるが、正確に言えば、もしその人が自分の人生に意味があると判断している場合には、我々はそれを外部から肯定することも否定することもしてはならず、ただそれをそのまま受け入れるしかないというのが私の結論である。もちろん、私はそのような人生を人々に勧めることはしないし、むしろそのような人生ではない人生のほうがより良いのではないかと主張することだろう。快楽によって支配される人生においては尊厳が毀損されることになるという主張を私は別論文で行なっている(20)。この視点からも、そのような人生は批判されなくてはならないだろう。しかしながら、それでもなお、他人の「人生の意味の中核部分」に関しては、それを外部から判断することは控えなくてはならないというのが、私の考え方なのである。

4 おわりに

以上、メッツの「人生の意味」の客観主義について批判を加えてきた。ここで私が述べたことのいくつかは、メッツの立場を超えて、「人生の意味」の客観主義一般に対して妥当すると考えられる。それについての検討は、また別の機会に行なうこととしたい。もちろん本論文の議論に関しては、メッツの側からすれば承服できないものがほとんどであろうから、それをめぐる応答はメッツとのあいだで継続して行なっていきたい。

また、「人生の意味」の哲学を、私がこれまで提唱してきた「誕生肯定の哲学」と結びつける作業を今後きちんと行なっていきたい。そのためには「意味」と「肯定」についての哲学的分析が必要である。それに取り組んでいくつもりである。

本論文でなされた考察はまだきわめて不十分なものであるから、読者とのやりとりを経て、根本的に再考しようと思っている。それまでのあいだの暫定的な論考としてお読みいただければ幸いである。

 

文献一覧

Metz, Thaddeus (2013). Meaning in Life: An Analytic Study. Oxford University Press.

森岡正博 (2012)「幸福感の操作と人間の尊厳:生命の哲学の構築に向けて(4)」『人間科学:大阪府立大学紀要』第7号、pp.93-108。

浦田悠 (2013)『人生の意味の心理学:実存的な問いを生むこころ』京都大学学術出版会

 

1) Metz, Thaddeus (2013).

2) 英語ではmeaning of lifeとmeaning in lifeの表記がある。メッツはmeaning in lifeを用いている。浦田悠は、meaning of lifeを「人類や世界全体の存在理由に関する概念であり、「人生全体・人生そのものの意味」を表わすもの」として「人生の意味」と訳し、meaning in lifeを「個人的・日常的な価値に関する概念であり、「生活の中で見出される意味」を表わすもの」として「生活の意味」と訳すことを提案している(浦田悠, 2013, p.43)。これに従えば、メッツのmeaning in lifeは「生活の意味」と訳されるべきことになるが、これまでの慣習に従って、本文ではとりあえず「人生の意味」と訳しておく。

3) Metz, p.79.

4) たとえばMetz, p.19, p.164など。

5) Metz, p.19.

6) Metz, p.164.

7) Metz, pp.175-176.

8) Metz, p.165.

9) Metz, p.181.

10) Metz, p.181.

11) “A human person’s life is more meaningful, the more that she employs her reason and in ways that positively orient rationality towards fundamental conditions of human existence.” Metz, p.222.

12) Metz, p.227.

13) Metz, pp.229-230.

14) Metz, pp.230-231.

15) Metz, p.235.

16) Metz, p.63.

17) 以上において考察してきた「私の反事実的な人生」については、それを「強い解釈」と「弱い解釈」に分けて考えたほうがよいとする立場もあり得るだろう。すなわち、「人生の意味の中核部分」の次元においては、「私の反事実的な人生」における「人生の意味」は問うことができないとするのは、反事実性の強い解釈に依拠している。しかしながら、もし反事実性の弱い解釈を採用するならば、「私の反事実的な人生」においても、それ相応の「人生の意味」を問うことはできるのかもしれない。すなわち、もし私が瓶の蓋集めに生き甲斐を見出し、それに熱中し、それによって埋め尽くされる人生に心底満足しているのならば、たとえ私の人生に社会的な価値がさほどないとしても、私の人生には十全な意味があると言ってかまわないし、たとえ私の人生が人々の基盤的条件の向上に寄与しなくても、たとえ私の人生が他人から笑われたりバカにされたり軽んじられたとしても、私がそれに心底満足しており、「人生の意味の中核部分」に対してイエスと答えるのならば、私の人生には他との比較を超絶した十全な意味があると言ってかまわないはずである―――ということになる。ただし、この弱い解釈の問題は、現実ではない私の人生について、それに意味があると言うときに、その「意味がある」という言葉で厳密に何が言われているのかがよく分からない点にある。これについては引き続き考えていきたい。

18) これと同じことは、DV加害者や、子どもの虐待者についても言えるだろう。

19) メッツはこれについて否定的な結論を導いている。Metz, p.27.

20) 森岡正博(2012)。