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作成:森岡正博
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エッセイ
『北海道新聞』2005年8月4日夕刊・文化欄
自分を棚上げしない思想―生と死の意味考える「生命学」
森岡正博
「生命学」という学問がいま必要ではないかと私は思っている。振り返ってみれば、脳死・臓器移植のような、人間の生命をめぐる難問が次々と起きているし、人間と自然の関係をどういうふうにしていけばいいのかという課題も、難しさを増すばかりである。これらを突き詰めていけば、私たちひとりひとりが、この地球上で、限りあるいのちをどのように生き切ればいいのかという根本問題に行き着くのではないかと、私は思ったのである。その根本問題を、あらゆる角度から考え、自分の生き方へ反映していくことを、私は生命学と呼ぶのである。
この種の問題は、いままでは宗教が取り扱ってきた。生と死の意味や、限りある人生をどのように生きればいいのかについて、宗教が我々に指針を与えてきた。宗教の中には、これらの問いに対する大切な知恵が、たくさん蓄積されてきたと言える。
しかしながら、私は宗教を信じることができない人間であった。だから、宗教の道に入ることなく、生と死の意味を考える道を探すしかなかった。思うに、私と同じように、これらの問いに強く心を惹かれながらも、宗教に入ることができないがゆえに、苦しんでいる人々は、実はたくさんいるのではないだろうか。
私が、「生命学」というものをあえて提唱したひとつの理由は、ここにある。私は宗教は否定しないが、いままで宗教が考えてきたような生と死の問題を、宗教の外側で深めて追求していく道もまた、あるはずだと思う。人はなぜ他人を踏み台にしてまでも自分が幸せになりたいと思うのか。そしてそれを達成したときに、どうして人は心からの喜びを感じられないのか。欲望にまみれた私もまた、いずれは死んでしまわないといけない。では、私はどのように生きなければならないのか。これらの生命の問いを、自分自身に向かって問いつつ、同じような悩みをかかえた人々と交わって、学び合っていくことができるはずだ。それを、新たな形の「学問」として作り上げていく必要があると私は思うのだ。
もしそのような学問が成立するのならば、その最大の特徴は「自分を棚上げにしない」ことだと思う。「自分を棚上げにしない思想」、これがいまもっとも必要な学問の原理なのではないだろうか。
話は飛ぶかもしれないが、一九九〇年代に「援助交際」の是非についての議論が沸き起こったことがある。マスメディアは様々な特集を組み、文化人たちが意見を述べた。彼らの発言を聞いていて、私はなんとも言えないもどかしさを感じた。なぜなら、マスコミは、援助交際する「少女たち」につねに焦点を当て、文化人は「少女たち」がなぜ売春するのかばかり語っていたからである。そこには、もう片側の当事者たち、つまり買春する「男たち」への視線が欠如していたのだった。考えてみれば、マスコミを仕切っていたのは男たちだろうし、文化人のほとんどは男だった。なのに、どうして、「買う男」についての論説や吟味がなされないのか。
その答えはひとつだ。要するに、彼らは自分を棚上げにしているのである。自分たちも、ひょっとしたら、あるいは何かのはずみで少女たちを買うかもしれないということ、自分がそちらの側にいること、この点から巧妙に目をそらしているのである。若い女性に性的なまなざしを向ける自分自身のことを、棚に上げているのである。そしてそのおかげで、彼らの思索は非常に薄っぺらいものに終わってしまったのである。
生命学について一五年間ずっと考えてきて思うのは、この「自分を棚上げにしない」ことこそが、実は生命学のいちばん大事な点だということだ。自分を棚上げにせずに、生と死の問題や、限りある人生をどう生きるのかという問題や、人間と自然の関係をどうすればいいのかについて、深く考え、学び合い、自分たちの生き方に反映させていくことが必要なのだ。
そのための方法論を、私はいま志を同じくする者たちとともに開発しようとしている。生命学とは、自分を棚上げにせずに、生命について深く考え生きていくことであるが、実際の作業としては、各自の生命学を各自が独断に陥らずに作り上げていくことになるはずだ。各自がみずからを深めながら、学び合うところに、学の可能性が秘められているのである。