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作成:森岡正博 
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意識通信

 

森岡正博『意識通信』ちくま学芸文庫(現在絶版)、初版1993年

第3章 意識交流場 (109〜144頁 註番号および註は省略 後ほど公開されるPDF版では註も見れます)

 

コミュニケーション論

  喫茶店で、親しい友人たちととりとめのない話をすることで、私は気分をやわらげ、こころの落ちつきを取り戻すことができる。あるいは電話で恋人と長話をすることによって、声のデートを楽しみ、満たされなかったセクシャルな欲求を解放させることができる。
  我々の日常のコミュニケーションの中に潜む、このような「意識通信」の側面を、明快な図式で捉えるにはどうすればよいであろうか。ひとつの方法は、意識通信の構造を把握するために最も都合のよい「モデル」を開発することだ。そしてそのモデルを通して、日常のコミュニケーションの現実を眺めてみることだ。
  ただ、従来のコミュニケーション論は、このような「意識通信モデル」についてほとんど考えてこなかった。というのも、コミュニケーションの研究者たちは、コミュニケーションのもうひとつの側面、すなわち「情報通信」の側面ばかりを集中的に研究してきたからである。今世紀のコミュニケーション研究は、通信工学とマスメディア論とともに発展してきた。そしてそこでは、いかにして「情報」が正確に伝達され、効力を発揮するかという点に議論が絞られた。そのようなパラダイムのもとでは、情報の伝達に重きをおかない「意識通信」の側面は無視されて当然であろう。
  しかし、それでは困る。本章では、意識通信の側面をうまく捉えることのできる「意識交流モデル」を提唱し、コミュニケーション論に対する問題提起としたい。
  ここで簡単に振り返っておこう。「意識通信」とは、メディアの中で誰かと会話することそれ自体を目的とするようなメディアの使い方のことであった。より正確に言えば、コミュニケーションすることそれ自体を目的とするようなコミュニケーションのことであった。そしてこれは、メディアを情報伝達の道具とみなす「情報通信」と対をなす概念であった。

シャノン=ウィーヴァー・モデル

  コミュニケーション論の分野で、今までに提唱されて来た唯一のコミュニケーション・モデルは、一九四八年にC・E・シャノンとW・ウィーヴァーによって作られた、いわゆる「シャノン=ウィーヴァー・モデル」である。これは、コミュニケーションを、情報の伝達という側面から見事に形式化したモデルである(図1)。このモデルでは、情報源から発したメッセージがトランスミッターをへてシグナル化され、途中でノイズの攪乱を受け、レシーバーをへて目的地へと達する経路が、簡潔に示されている。
  このシャノン=ウィーヴァー・モデルが、コミュニケーション論に与えた影響は果てしなく大きい。このモデルはそもそも、通信工学におけるシグナルの正確な伝送を考えるための枠組みとしてあみだされた。しかし、それが人間のあいだの社会的なコミュニケーションを扱う、社会学としてのコミュニケーション論に導入されるやいやな、そこでの思考法を決定してしまった。社会学者たちは、このモデルを利用していくつかのコミュニケーション・モデルを生み出した。しかし、それらは基本的にはシャノン=ウィーヴァー・モデルの拡張・修正版にすぎない。


  図2を見ていただきたい。これが、社会学のコミュニケーション論で用いられるコミュニケーション・モデルの標準形である。シャノン=ウィーヴァー・モデルでは、情報を送り出す「情報源」と、情報を受け取る「目的地」は、必ずしも人間である必要はない。しかし、社会学のコミュニケーション論のモデルでは、「送り手」も「受け手」も、ともに人間である必要がある。この意味で、図2のモデルは、情報科学で成立した一般モデルを、人間のあいだの社会関係に特化して適用したものであると言える。


  このモデルを、左から順番に見てみよう。まず、送り手から発せられたメッセージがコード化され、五つのチャンネル(五感)を通して外界へと送り出される。受け手はそのメッセージを自分のチャンネルを通してキャッチし、脱コード化してそのメッセージを理解する。このように、人間のあいだのコミュニケーションというものを、メッセージというボールの受け渡しの過程として把握するのが、コミュニケーション論におけるシャノン=ウィーヴァー・モデルの特徴である。
  D・K・バーロは、このメッセージ伝送の過程を、次のように典型的に描写している。

ジョーはメッセージを生み出そうと試みる。彼の中枢神経系は、彼の発声機構に、彼の言いたいことを表わすメッセージを作るように命令する。発声機構は、コード化装置として働いて、次のようなメッセージを作り上げる。「日曜日にピクニックに行かないかい? メアリー。」このメッセージは、メアリーに聞こえるように、空気中の音波を通して伝送される。これが「チャンネル」である。メアリーの聴覚機構は、脱コード化装置として働く。彼女はジョーのメッセージを聞き、それを神経インパルスへと脱コード化し、彼女の中枢神経系へと送り込む。そしてメアリーの中枢神経系はそのメッセージに反応するのである。

 この記述から容易に分かるように、シャノン=ウィーヴァー・モデルとは、メッセージがAからBへといかに受け渡されてゆくかという過程にのみ注目して、コミュニケーションというものを把握しようとする試みである。その意味で、このモデルは、AからBへと情報を受け渡すことを目的とする「情報通信」の側面を、なによりもまず的確に把握するためのモデルであると言える。
  しかし、コミュニケーションのもうひとつの側面、すなわち「意識通信」の側面を把握するモデルとしては、このシャノン=ウィーヴァー・モデルは、あまり役に立たない。たとえば、恋人たちがたわいもない会話を交わしながら、会話すること自体によって、お互いの存在感の確認を行なっているような場合を考えてみよう。そこでは、会話すること自体を目的とする「意識通信」の側面が濃厚にあらわれている。シャノン=ウィーヴァー・モデルで、この恋人たちの会話状況を記述したとする。それは、男性があるメッセージを音声によって発し、それを女性がキャッチして頭で理解し、彼女の中枢神経系がそのメッセージに反応して何かを感じ、そして今度は彼女がメッセージを発して……といった、二人の間で行き来するメッセージの、無限反復過程として描写されることになるだろう。しかし、このような捉え方では、「意識通信」の本質であるところの、存在感の交流や、触れ合いによるこころの癒しなどの局面を、コミュニケーションの単なる〈副産物〉としてしか捉えられなくなる。F・E・X・ダンスの述べるように、「問題なのは、情報理論あるいは数理的理論が、確かにきわめてエレガントにできてはいるけれども、しかしながら人間のコミュニケーションのすべてのケースに適用できるように作られていないという点である。それが適用できるのは、人間のコミュニケーションからその意味深い諸相が略奪され、情報学的特性の観点からのみ把握されたケースに限られる」のである。G・R・バックとP・ワイドンは明快に述べる。「親密なコミュニケーションというものは、単なるシグナルの授受以上のものを含んでいる。」彼らの主張は正しい。だが、それら「意味深い諸相」や「単なるシグナルの授受以上のもの」をうまく捉えるためのコミュニケーション・モデルの開発に成功した例はない。

意識交流モデルの開発

  では、情報のキャッチボールという図式では捉えられない、意識通信の本質とはいったい何であろうか。たとえば、長いあいだ会っていない恋人同士が、電話でたわいもない長話をしているという例を考えてみる。二人は、電話で、今日の大学での出来事や友人とのおしゃべりについて、だらだらと会話する。彼らは、お互いの声の響きを味わい、その声の調子から相手の顔や雰囲気を思い出し、そうやって電話の架空空間の中で触れ合い、お互いの存在感を確かめ合う。そして、特に重要性のない会話を続けることで、離れ離れになっていたことに起因する「さびしさ」や「孤独」が癒されてゆくのを体験する。このとき、この二人の間には、二人の親密なコミュニケーションを可能にするような独特の「場」が出来ていて、その「場」それ自体が二人を包み込んだまま変容することによって、二人の間にやすらぎがもたらされ、孤独が癒されていったのだと考えることができる。コミュニケーションを行なうことそれ自体を目的として会話するとき、その参加者たちの間に、コミュニケーションのための「場」が成立し、その場は参加者たちのこころを包み込んだまま徐々に変容してゆく。このような「場の形成」と「場の変容」こそ、意識通信の本質であり、シャノン=ウィーヴァー・モデルでは捉えられない側面であると私は考えたい。
  すなわち、コミュニケーションには、〈情報のキャッチボール〉図式によって把握されるべき「情報通信」の側面と、〈場の形成と変容〉図式によって把握されるべき「意識通信」の側面があるのだ。
  我々がいまなすべきことは、〈場の形成と変容〉に注目した新たなコミュニケーション・モデルを開発することである。ところで、このモデル化に近いことを、ある意味で試みていた数少ない社会心理学者のひとりに、K・レヴィンがいる。レヴィンは、ある状況下で個人の行動を決定するすべての出来事の全体のことを「生活空間」と呼んだ。この生活空間は、その個人の身体と、彼の心理学的環境を包み込んでいる。そしてこの生活空間は、ひとつの「場 field」として把握されなければならない。そしてレヴィンは、人間のあいだのコミュニケーションを、この「場」の中での出来事であると考えた。(フィールド・セオリー)。
  しかし、レヴィンは、「場」における意識通信のモデル化を行なってはいない。

意識通信モデルの七つの要素

  私は、意識通信を、以下のようなモデルで考えてみたい。
  情報通信を把握するためのシャノン=ウィーヴァー・モデルには、六つの基本要素があった。図2を見てもらえばすぐ分かるように、それは「送り手」「コード化装置」「チャンネル」「メッセージ」「脱コード化装置」「受け手」の六つである。
  これに対して、私がここで提唱する意識通信モデルには、次のような七つの要素がある。すなわち、「意識交流場」「交流人格」「触手」「人格の形態」「自己表現」「意識」「構造」の七つである。これらの概念を順番に説明しながら、意識通信モデルの輪郭を描いてゆきたい。
  まず「意識交流場」から説明したい。
  人々が集まったとき、そこにはコミュニケーションのための「場」が形成される。その「場」は独特の雰囲気をもっており、その雰囲気は、そこに集まるメンバーの顔ぶれによって微妙に異なってくる。以前に紹介したように、K・レヴィンは、人と人が出会ったときに、そこにひとつの「場」ができると考えていた。R・E・パークは、人々が集まったときに、その場所にはある「ムード」が醸成され、彼らのあいだには「共通の絆」が立ち現われると述べた。そしてこの絆は、彼らのこころを結び合わせ、彼らのこころに影響を与えてゆく。人々が出会い、お互いの存在を認知したときに、彼らのあいだにひとつの「場」が形成されるという考え方を、我々も採用することにしたい。
  では、「意識交流場」とは何か。「意識交流場」とは、意識通信を行なう人間たちが形成する、人間関係の「場」のことである。
  たとえば、私が路上で誰かと出会う場面を想像してみよう。私はぼんやりと道を歩いている。ふと目を上げると、向うから知り合いの女性が歩いてくるのが見える。やがて彼女も私の視線に気付き、私の方を見る。私は彼女に近づき、「元気? いまから遊びに行くの?」と声をかける。これは、彼女の行動についての情報を引き出そうとする質問ではなく、彼女と少しだけ会話して触れ合いたいという「意識通信」の呼びかけである。このとき、私の内面は、彼女と意識通信をしたいという心理的な「構え」になっている。私の呼びかけにこたえて、彼女が歩みを止め、「そう、あなたは?」と私に問いかける。このとき、この二人は、相手と会話することそのものを楽しみたいという「構え」を、共有している。意識通信的な構えが共有されたときに出現する人間関係の「場」が、すなわち「意識交流場」である。(なぜ「意識交流」という言葉を使うのかについては、後で説明する。)
  意識交流場とは、意識通信を行なう人間たちをすっぽりと包み込む、舞台装置のようなものである。意識交流場は、その中で意識通信する人々に対して大きな影響を及ぼす。意識交流場の中で会話する人々は、普段よりも魅力的になる。なぜかといえば、意識交流場においては、決まり切ったあいさつとか、仕事上の情報交換などが外部に押しやられる。そのかわりに、相手と触れ合うことによって、相手の良い面や美しい面を味わいたいという欲求が前面に出てくる。そして自分も、普段は自分の内面にしまってある自分の良い面や美しい面を、相手に見せ始めるからである。一般的に言って、意識交流場は、みんなのこころの内面から、良いもの、美しいもの、ここちよいものを、まず最初に引き出す働きをもっている。
  この意味で、意識交流場は、参加者たちのこころの内面からいろいろなものを引っぱり出して、参加者たちをその場につなぎとめておく機能をもっている。意識交流場は、人々のこころを吸い寄せる磁場をもつ。人々がソファで談笑していると、そこを通り過ぎる人がなんとなくその会話の話の中に加わってしまうのも、意識交流場のもつこの磁場の作用である。あるいは、親しい人々が集うパーティーで盛り上がったとき、パーティーが終わった後でもなんとなく帰りづらく、いつまでも会場に意味もなく居残ってしまうのも、そこでの意識交流場の磁場に我々がひっかかっているのである。人々を、特に意味のない二次会・三次会に押しやってゆくのも、この力である。我々が、ある人間関係の輪にはまってしまって、そこから簡単には抜けられなくなるのも、この磁場に関係がある。
  意識交流場は、まず最初には、人々の良い面や美しい面を引き出すと私は述べた。しかしその後で、今度はそこに集う人々の悪い面、醜い面、暴力的な面を、彼らの内面から吸い上げてくることがある。そして、それまでは楽しかった意識通信を、一気にぶちこわして、収拾がつかないものにしてしまうこともある。意識交流場には、人間のこころの中にある様々な側面が、最終的にはすべて出てくる。そして、彼ら自身が気付いていないこころの深層までもが、溢れ出してくるのである。いちど意識交流場ば形成されると、個人ひとりの力でそれを消滅させるのは、たいへん難しい。
  意識交流場の磁場を、我々はときおり実際に感じることがある。たとえば、親しい知人との会話から抜け出すときの、後ろ髪引かれる思いとして。あるいは、話しているうちに、自分でも自覚していなかったようなことばや考え方が、自分のこころの底から次々と出てきたときに。あるいは、私が会話を楽しんでいるときに感じる、その場の暖かくてなまめかしい雰囲気として。「意識交流場」とは、哲学的に導き出された単なる概念的な産物なのではなく、これらの実感に対応するような、何かの存在物なのだと私はときおり考えたくなる。
  意識交流場は、パソコン通信などの電子メディア上にも形成される。パソコン通信のチャットで、何人かの参加者たちが意識通信しているとき、そこには意識交流場ができている。ただ、この場合、意識交流場が存在している物理的場所を特定することは不可能である。ディスプレイの中にあるとも言えるし、メイン・コンピュータの中にあるとも言える。

交流人格

  第一章でも述べたように、制限メディアの中では、我々は自分の人格の一部分だけから類推された「断片人格」として、相手の目の前に現われるのであった。これは、日常生活のフェイス・トゥ・フェイスの会話においても当てはまる。相手は私の人格のすべてを知っているわけではない。相手から見えている私の人格の一部分から、私の「断片人格」を類推しているにすぎない。他人のこころの内面に秘められた性格や、こころの奥底に隠された感情を、我々はうかがい知ることはできない。
  意識交流場とは、従って、参加者たちの断片人格同士が、意識通信を行なう場のことでもある。
  意識交流場に現われたAさんを例にとって考えてみる。Aさんと私が会話しているとき、Aさんは、その独特の外見と顔と表情とを私の目の前にさらしている。そして、彼のしゃべりかたや身体の動き、それらがもたらす雰囲気、そして彼の話に見られる知性や性格などを、私はシャワーのように受けとめる。そしてこれらすべての印象が一体となって彼の「断片人格」が形成される。
  意識交流場に現われた断片人格のことを、我々は特に「交流人格」という名で呼びたい。「交流人格」とは、意識通信を行なうときの断片人格の呼び名である。
  では、どうしてここで、「交流人格」という名の断片人格をわざわざ導入しなければならないのか。それは、我々のコミュニケーションを的確に把握するためには、意識交流場という〈公共〉の場面に現われるものと、そこには現われずに自分の〈内面〉に沈潜しているものとを、区別することが重要だからである。我々は意識通信において、相手に見せる側面と、相手には見せたくない側面とを区別して会話していることが多い。そこに境界線があるから、意識通信はお互いの楽しみともなり、なぐさめともなるのだ。また、初めは隠されていたものが、徐々に表に現われてくるダイナミズムこそ、意識通信を魅力あるものにしている。
  これらの点を捉えるために、公共的な意識交流場に姿を現わす断片としての「交流人格」を、あらかじめ全人格から切り取って概念化しておく必要があるのだ。交流人格こそ、意識交流場の主役である。
  個人の全人格から交流人格を引いた残りの断片のことを、「残余人格」と呼ぶことにする。残余人格は相手からは認知されない。
  意識通信とは、意識交流場で、参加者たちの交流人格がお互いに触れ合うことである。

触手

  ここで、意識交流モデルの核となる概念を導入したい。それは、交流人格の「触手」である。意識交流場でのコミュニケーションを、私は交流人格同士の「触れ合い」として捉えたい。触れ合うためには、そのための道具がいる。触手とは、交流人格の一部がアメーバのように長く伸びたものである。その先端で相手に触れる。
「触手」という概念は、理解しにくいかもしれない。もちろん、現実の意識通信の場面で、アメーバのような触手が目に見えるわけはない。そうではなくて、これは、意識通信をモデル化するときに理論上要請されてくる観念的な装置なのである。人間関係をモデル化するときに「触手」概念を用いた前例としては、K・レヴィンのフィールド・セオリーがある。彼は、Aという人間がBという人間を〈見つめる〉という状況を、Aの一部分が「腕 arm」のように伸びてきてBに触れるというモデルによって説明している。これはたいへん示唆的である。また、電話をかけるときに、自分の一部が(電話線の中を)伸びていって相手の人に触れるという実感を、精神科の来談者が報告している。これは、我々が日常ぼんやりと感じていることを、クリアーに言語化しためずらしい例である。
  人と人が出会い、彼らの間に意識交流場ができる。このとき、水にひたした種子から細くて白い根が伸びるように、彼らの交流人格の表面から「触手」がするすると伸ばされる。伸びてきた触手は、意識交流場の中でお互いに触れ合って、押したり引いたり、あるいは絡まり合うといった運動をする。我々が視線を合わせて微笑んだり、声をかけ合ったりするとき、この触手の触れ合いの運動が生じている、と私は考えたい。「触手」とは、交流人格の一部が、意識交流を行なうために、アメーバのように意識交流場の中に伸びたものである。「触手」の特徴は、(1)伸び縮みすること、(2)他の触手に触れて様々に運動すること、(3)意識を送り出す通路となること、である。(3)については後述する。
「触手」概念を用いて意識通信の状況を説明してみよう。たとえば、恋人たちがお互いに見つめ合っているとする。このとき、彼らの交流人格から「視線」の触手が伸びてきて、お互いに触れ合っているのである。あるいは、恋人たちが電話で意識通信をしているとする。このとき、彼らは、「音声」の触手を電話線を通してお互いに伸ばしてきて、電話の意識交流場で触れ合わせている。触手は、電話線や電波の中にも、無理なく入ってゆける。
  この考え方を推し進めれば、そもそも他者の認知とは、交流人格の触手が他者の人格に触れることとして、一般的に把握できることになる。そして、意識通信とは、交流人格の触手同士が、お互いに触れ合い絡まりあって、様々にうごめく姿として捉えられることになる。会話や視線のコンタクトを、シャノン=ウィーヴァー・モデルのように〈メッセージのキャッチボール〉として捉えるか、あるいは意識通信のモデルのように〈触手同士の触れ合いの運動〉として捉えるかで、把握されるその内容は決定的に異なってくる。この点は、後の記述でよりいっそうはっきりするであろう。
  複数の人間たちの意識通信も同様に描写できる。たとえば何人かの人間がソファで談笑しているとき、彼らの人格の表面から何本もの触手が伸ばされてきて、蛸の足が絡まるように、お互いに複雑に交差しながら触れ合っている。都市のファッション街の匿名性のコミュニケーションの場面では、敏感に張り出された幾千もの視線の触手たちが、複雑怪奇に触れ合い、あちこちで火花を散らしている。電話やパソコン通信のネットワークを通して、無数の交流人格の触手が電子世界の中で触れ合い、交わり合ってゆく。

人格の形態

  さて、二人の人間が意識通信を行なったとする。このとき、コミュニケーションをする前後で、彼らのこころの状態は若干変容している。たとえば、会話をすることで、さびしさを忘れることができたかもしれない。あるいは、逆に気が滅入ったかもしれない。意識通信を行なうことで、彼らのこころの中の何かが変わったのである。では、いったい何が変わったのだろうか。私はそれを、彼らの人格の「形態」の変化として捉えたい。
  人格の形態とは、(1)私の「こころと身体の状態」のように瞬間瞬間に移ろいゆくものと、(2)私の「性格」や「行動特性」のように比較的固定したものを共に含んだ、こころと身体の全体的な姿を、ひとつの抽象的な〈形〉として把握したもののことである。「形態」という把握をすることで、単なる「こころの状態」だけではない、もっと幅広い人格特性を捉えることができる。
  たとえば、いらいらしていて破壊的だった私が、恋人と意識通信を行なうことができたおかげで、落ちついたやさしいひとときを送ることができるようになったとする。このとき、「いらいらしている」というこころの状態と、「破壊的」という行動特性が、意識通信によって、「落ちついて」「やさしい」ものへと変容したのである。ひょっとしたら、このとき、私の表情も、柔和なものへと変化したかもしれない。このような全変化を、私は、私の人格の「形態」の変化として捉えたいのだ。
  人格の形態の変化は、生理的な欲求の満足によって起きることが多い。たとえば、空腹のときの人格の形態と、満腹のときの人格の形態はかなり異なる。入浴の前後でも異なる。セックスの前後でも異なる。そして、これと同様の変化が、意識交流場において他者と意識通信したときにも、起きるのである。集中して仕事をしたあと、ソファで仲間たちと雑談を楽しむ。その雑談の前と後では、自分の人格の形態が変化したことに、我々は容易に気付くであろう。
  このように考えると、意識通信とは、コミュニケーションに参加する人間の、「形態の変化」のプロセスのことであると言うことができる。情報通信とは、情報やメッセージの伝達のプロセスのことであった。これに対して、意識通信とは、人格の形態の変化のプロセスのことである。そして、意識交流場の「場の変容」は、そこに参加する人間たちの人格の形態の変化の結果、もたらされるのである。この考え方は、コミュニケーション論に形態学的方法を導入することになる。

自己表現

  情報通信の会話と、意識通信の会話では、私の発話が相手に与える意味が異なってくる。情報のやりとりを目的として会話をするとき、私は、相手に対して「情報提供」を行なっていることになる。この点で、私は相手にとって情報提供者である。これに対して、会話することそれ自体を目的として会話をするとき、私は、相手に対して「自己表現」を行なっている。私は表現者なのだ。
  たとえば、電話で恋人と長話をしている例を考えてみる。この意識通信において、私が発する「問いかけ」や「あいづち」や「うわさ話」などは、決して彼女への情報提供ではない。そうではなくて、彼女と親密な声のデートを楽しむために、私から彼女へと送り出される、私の「自己表現」の誘い水なのである。意識交流場で発せられるすべてのことばは、自己表現である。すべての参加者は、意識交流場において表現者となる。
  自己表現は、ことばだけには限らない。視線の動きや、身振り手振りなどもまた、意識交流場の自己表現の一部となる。セックスにおける無言の身体の触れ合いも、意識通信の自己表現の典型例である。
  ところで、触手モデルによれば、私が誰かに話しかけるとは、私の音声の触手が彼の人格にまで伸びるということであった。このとき、私がその人に向かって伸ばした触手の能動的な「動き」が、私の「自己表現」である。意識交流場において、私が彼女を意味ありげにじっと見つめる。このとき、私の触手は彼女にまで伸びて彼女の人格に触れ、その表面で微妙な動きを行なう。この触手の動きが、私の自己表現である。
  私の好きな彼女が、突然私をじっと見つめる。このとき、彼女の触手は私の内面にまで達し、私に強烈な彼女の自己表現を送り届ける。私は彼女の自己表現にたじろぎ、激しく動揺する。その結果、私の人格の形態は微妙に変化し、私は以前のように素直には彼女の顔を眺められなくなる。
  視線に限らず、意識交流場で他者に対して投げかけられる、すべてのことばや身体動作は、交流人格の触手の動きであり、自己表現である。

意識交流

  ソファにすわって、気の合った友人たちと会話をするときのことを考えてみよう。私は仕事を終えた直後なので、なんとなく疲れている。脱力感を癒すために、熱い紅茶を飲みながら、彼らとおしゃべりを続ける。そうしているうちに、話題は盛り上がり、会話にはときおり爆笑が混じるようになる。私も、お茶を飲むのを忘れて会話にのめり込む。
  そのうち、私は、身体とこころの疲れがいつしか失せているのに気付く。まるで、そのホットな会話のエネルギーを、私の心身が吸収して、再び元気を取り戻したように。
  あるいは、会話の輪の中に、暗くて陰湿なタイプの人間がいたとする。彼の発言のたびに、会話はなんとなく暗くなり、話題はしめりがちになる。そんな会話を終えて、席を立ったあとでも、私のこころの中にはまだ彼から発せられた暗い陰湿な雰囲気が残存していて、気分が晴れないことがある。その雰囲気は、私の内部で増殖して、私は一日中不快な気分で過ごすことになる。
  逆に、暖かくて陽気な人間が会話に加わることで、その場の雰囲気がパッと明るくなることがある。彼を交えて話をすることで、そこに参加していた人々がある種の暖かさを共有することもある。彼の発話によって皆の緊張感がほぐれたことも大きいかもしれない。しかしそれよりも、むしろ彼から発散された暖かいエネルギーの放射を皆が直接に吸収した結果、そのエネルギーの暖かさによって直接に皆の心身が暖かくなっているのではないだろうか。
  このような事実を考慮するとき、私は次のように考えざるを得ない。すなわち、意識通信の場面では、会話する人の心理状況やこころの特性、その人の持つエネルギーとその性質などが、その人間の自己表現を通して会話の場へと流出し、そこに参加している人々の心身へと直接に流れ込んでゆくのだと。そして、彼らの心身に流入したエネルギーは、彼らの人格の形態を様々に変化させてゆく。
  このエネルギーの流れは、会話に参加する人間の内面にいつも存在し、彼が何かの自己表現を行なうときに、その自己表現を通して、その会話の場の中へと流出する。そもそも、自己表現とは、このエネルギーの流れに突き動かされて生み出されるのである。自己表現を生み出す元になる、この内面のエネルギーの流れのことを、私は「意識」という名で呼びたい。
  私が会話に参加するとき、私の「意識」は、私のことばや身振りなどの自己表現を通して会話の場の中に流出してゆく。私の「意識」は、私の内面の心理状態や、私のこころの特性や、私の思想や、私の気質や、あるいは温度や粘り気や匂いのようなものを内在させている。会話の場の中には、こうして、参加者たちのそれぞれの意識が様々な密度で充満することになる。そして、そこで参加者たちの意識が混ざり合う。これが「意識交流」である。意識通信とは、参加者たとがお互いの意識を交流させることを目的として行なうコミュニケーションのことである。
  我々は、意識通信の場のことを「意識交流場」と呼んできたが、その理由がようやくお分かりいただけたと思う。参加者たちの意識が交流する「意識交流場」をいう舞台装置の上で、我々は意識通信を行なっているのだ。
  ここで、いままで述べてきた意識通信モデルの諸概念を使って、意識交流についてさらに説明を進めたい。
  意識交流場に参加した人間は、その中で交流人格として振舞い、交流人格から触手を伸ばして自己表現を行なう。このとき、その人間の内面に潜む意識が、エネルギーの流れとなって触手を伝わって意識交流場へと流出し、そこで他の意識と交流する。これが「意識交流」の第一の姿である。
  しかしそれだけではない。意識交流場へと流出した意識は、他者の触手を逆に伝わって、他者の人格の内部へと侵入してゆくのだ。私の心理状態や匂いを内包した私の意識は、他者の人格の内部へと流入し、そこで他者の意識と混ざり合う。
  私の意識が他者の内部に侵入するプロセスとしては、このほかにも、もっと直接的なルートが考えられる。すなわち、意識交流場を経由するのではなく、私から他者の表面へと伸ばされた触手を伝わって、ちょうど注射器の針の中を液体が移動するように、他者の内部へと直接に意識が送り込まれるルートである。
  他者の内部に流入した私の意識のある側面は、そこで他者の意識と融和し、ある側面は激しく反発するであろう。こうして、私の意識は、他者の意識と人格の形態に決定的な影響を与え、そこに消しがたい刻印を残すことになる。
  同時に、他者の内部へと流入した私の意識は、他者の意識によって変容を受け、私の意識の表面には他者の刻印がくっきりと押されることになる。こうやって、他者によって変容された私の意識は、触手の中の道を引き返して、再び私の人格の内部へと還流してくる。私の意識は他者の内部へと侵入し、他者の意識は私の内部へと侵入する。これが「意識交流」の第二の姿である。
  意識は、その根っこを個々の人格の内部に持ちながらも、交流人格の触手を伝って外部へと流れ出してゆくことができる。触手そのものは触れ合うだけであるが、その中を伝う意識の一部は、他の意識の一部と渾然一体となって交わり合い、溶け合うことができる。もちろん、私の意識のすべてが他者に流入するわけではない。そのうちの一部が、人格の境界を越えて流入してゆくのである。
  会話のあと、相手の陰湿さが私の中で尾を引いたり、あるいは楽しい会話のあとで元気が回復するのは、相手の意識が実際に私の内部に侵入して、私の意識に様々な影響を与え、その刻印を残してゆくからである。以前に、意識交流場には独特の磁場があると述べた。楽しい会話の輪からはなかかな抜けがたい。それは、その会話に参加している私の意識と他者の意識とが、お互いに相手の人格の中へと流出していて、そこで縄のように強く交わり合っているからである。その会話を中断するには、重い綱を引っ張るようにして、自分の意識をたぐりよせてこなければならない。それには大きな努力と時間がかかる。
  意識が他者の人格へと流入し、混ざり合うことによって、他者の人格の形態は変化し、同時にそのリアクションによって私の人格の形態もまた変化する。意識通信の本質である人格の形態の変化は、交流人格の触手の触れ合いと、お互いの意識の交流によってもたらされる。彼女との会話によって、「さびしい私」が「楽しい私」へと形態変化を起こしたとすれば、それは彼女との触手の触れ合いと、意識の交流の結果なのである。私が楽しい私に変容したことによって、彼女の人格の形態もまた変化しているはずである。
  私は「意識」というものを、個人の壁を超えて流れ出ることのできる流動体として捉えた。これは、「意識」というものを、個人の内面に閉ざされた思考や感覚などによって把握する伝統的な哲学の常識とは、大きく異なる点である。しかし、意識をこのような流動体として捉えることで、今後の哲学や認知科学に新たな突破口を開くことができると私は確信している。

意識の流れの様相

  意識交流場で、私が意識交流を行なうとき、私の意識は流動体となって私の交流人格の触手から流出してゆく。同時に、他者の意識が私の触手を逆に伝って、私の内部へと侵入してくる。
  意識交流を行なうときの、流動体としての意識の流れに注目すると、その流れ方に、三つの様相があることを発見することができる。
  最初の様相は「発散」である。私の人格の内部で膨れ上がったエネルギーが、私の触手を通して、他者の人格の中へと次々に送り込まれてゆく。意識が大きなうねりとなって、私の外部へと発散する。たとえば、久しぶりに出会った友人に、堰を切ったように最近の出来事をしゃべり続けることがある。このとき、私の人格の中で出口を求めて膨れ上がっていた意識のエネルギーの流れが、友人に向かって一気に発散しているのである。友人の中に送り込まれた意識の流れは、彼の人格の内部で彼の意識と交流し、彼の人格の形態に変化を与える。私はこの膨れ上がるエネルギーを外に発散したことで、意識のひずみが取れ、私の人格の形態もまた変化する。私の話を受けて、彼が私に話しかけてきたとき、今度は、彼の意識の流れが私の内部に侵入する。それと同時に、さきほど彼の人格の内部に流入した私の意識の流れの一部も還流してくる。
  ことばを勢いよく他人に浴びせかけることを「シャワーを浴びせるように」と表現する。意識交流の観点から言えば、これは文字どおり、その人の「意識」をシャワーのように聞き手に浴びせかけているのである。この意識のシャワーは、聞き手の身体の表皮を突き抜けて、そのこころの奥底まで侵入してゆく。この意識の発散のエネルギーがあまりに強いとき、それは「攻撃」の様相を見せることもある。
  第二の様相は「取り込み」である。私が他者の意識の流れやそのエネルギーを欲するとき、私は自らの交流人格の触手をいっぱいに開放して、他者の意識の流れが流入してくるのをひたすら待つ。たとえば、恋人のいない女性が不安とさびしさに襲われたとき、彼女の信頼できる友人に電話をかけて、何でもいいから話をしてくれるように訴えるであろう。このとき、彼女の人格は「取り込み」の態勢をとって、他者からの意識の流入を待ちこがれている。友人が彼女になぐさめのことばをかけるとき、彼女は友人のことばを、砂漠にたらす水のように、自分のこころの中に吸収するであろう。彼女の人格は、友人の触手の先からあふれ出る意識の流れを、一滴たりとも逃さないようにしながら、自分の触手の中に迎え入れる。彼女の内部に入って来た友人の意識の流れは、彼女の人格の内部で彼女自身の意識と交わり合い、彼女の不安とさびしさは、友人の意識からもたらされた湿り気と暖かさによって、ほんのひとときほぐされるであろう。
  強い取り込みの態勢をとっている人間と話をしていると、自分の心身からエネルギーがとめどなく吸い取られてゆくような感触をいだくことがある。会話のあとには、脱力感が襲い、仕事が手につかなくなることもある。こんなときは、実際に、私の意識のエネルギーが吸い取られ、私自身が枯渇状態に陥っているのだ。
  第三の様相は「共有」である。これは、意識のエネルギーを「発散」させるのでもないし、「取り込む」のでもない。そのかわりに、お互いの触手同士を触れ合わせて、お互いの意識の流れを共振させることによって、意識交流場の共有を確認し、お互いの存在感の確認を行なうのである。お互いに、相手の感じていることや思っていることを分かり合おうとして、触手を双方が差し伸べ、二つの人格のあいだで二つの意識のエネルギーの流れが共振し合うとき、意識は「共有」の様相を示している。
  たとえば、同じこころの傷をおった者同士が、相手のこころの苦しみや孤独を自分の体験にもとづいて理解し、相手に対して限りなく優しくなれるとき、この二人の意識の流れは触手をとおして共振し、「共有」の様相にあると言える。あるいは、電話でとりとめもない長話をしている恋人同士が、その話の合間におとずれた沈黙を、幸福感と充実感に満たされて味わうとき、彼ら二人の意識の流れは共振し、「共有」の様相にある。情報通信の観点からすれば、まったくメッセージの伝達が行なわれていないこの瞬間にこそ、意識通信のなかでももっとも濃密な意識交流が達成されているのである。意識交流モデルはこの点を見逃さない。
  心理学で言う「共感」の状態は、この「共有」の一例である。心理学や看護学で焦点となる「共感」の状態を、意識交流の観点から分析すると面白い。
  実際の意識交流場では、これら意識の流れの三様相が複雑に交錯している。流動体としての意識が、人格の個体性の壁を超えて相互に流入し合うことで、意識交流が成立し、「意識通信」という形のコミュニケーションを可能にする。

構造

  意識交流場に現われた人の、こころの状態や性格や行動特性などを総体化したもののことを、その人の人格の形態と呼んだ。その人の人格の形態をよく観察してみると、まわりの状況に反応してくるくると変わる部分と、逆になかなか変化しない部分とがあることに気付く。たとえば、ある人は、普通の状況では堂々と振舞っているのに、危険な状況が迫ってくると、突然おくびょうになっておどおどし始める。この点に関しては、彼の行動特性には一貫性がない。
  ところがこれに対して、彼はどんな場合でも、自分のこころが傷つくのを極力避けようとする傾向をもっている。ふだんでも、危機的状況になったときでも、彼は自分のこころが傷つかないように本能的に身構えて、ものごとを処理する。そして彼のこの傾向は、どんな状況においても一貫している。
  ここで後者の一貫性に注目してみたい。何が、人格の形態の中に、このような一貫性を生みだすのだろうか。それは、その人の意識の底に、外部からの弱い刺激によってはなかなか変化しないような「意識の核」のようなものがあって、それが人格の形態に独特の性質と一貫性とを与えているのだと、私は考えたい。意識の深層にあって、人格の形態の基本的性格を決定しているこの「意識の核」のことを、私は「構造」という名で呼びたいのである。
  この「構造」という概念は、「意識」と対比させて捉えると分かりやすいかもしれない。意識は流動体であり、その一部は個人の壁を超えて流れ出る。これに対して「構造」は、あくまでもその個人の壁の内側にとどまっている。そしてその位置から、その個人の人格の形態や意識の性質を決定づけるのである。
  以前に、意識交流によって私の意識と他者の意識は混ざり合うと述べた。これを繰り返していると、私の意識の〈私らしさ〉が他者の影響を受けてだんだん薄められてゆき、没個性化してゆくはずである。しかし、実際には、私の意識の〈私らしさ〉が極端に失われることはない。なぜかと言えば、他者の意識の刻印を受けて私の中に還流してきた私の意識は、私のこころの底の「構造」とふたたび接触し、構造が持つ基本的性格によってふたたび強力な修正を受けるからである。
  このように、構造は、人間の意識の深層にあって、その人の人格の形態の基本パターンを決定する。しかし、構造はまったく不変であるわけではない。構造は外部から強い刺激を受けることで、変容を起こすことがある。たとえば、いつも自己中心的にばかり行動していた人間がいるとする。しかし、彼が大きな失恋を経験することによって、彼の自己中心的な「構造」が変容し、他人に優しい人格へと変化するかもしれない。
  大事な点は、このような深層の構造の変容が、失恋という、他者との「コミュニケーション」によって引き起こされたという点である。構造は人格の深部にあって、意識交流場に現われる人格の形態を決定している。しかし、意識交流場におけるコミュニケーションの力によって、その人間のもつ構造が劇的に変容させられることがある。
  人間のあいだのコミュニケーションが、こころの中の「構造」の変容を導くことがあるという発想は、サイコセラピーの中にも見られる。たとえば、G・A・ホランドは、サイコセラピーを構造変容の観点から次のように定義している。「サイコセラピーの基本的な目標のひとつは、人格の「習慣構造 the habit structure」を変容させ、彼が「より多くの快」と「より少ない不快」を経験するように導くことにある。この習慣構造の変容は、二人あるいはそれ以上の人間のあいだの「コミュニケーション関係」によって達成される。」
  この定義中に見られる功利主義的バイアス(快楽の量の最大化が望ましいとする考え方)を差し引いて考えれば、ホランドの言う「習慣構造」こそ我々の述べる「構造」のことであるのは明白である。サイコセラピーあるいは臨床心理学が捉える人間関係のモデルと、意識交流モデルとは、本質的な近さをもっている。サイコセラピー的な発想を、コミュニケーション論に持ち込んだときに、我々のような意識交流モデルができるのかもしれない。ただし、サイコセラピー研究者たちは、我々のようなモデルを立ててこなかった。サイコセラピー研究者の多くは、人間のあいだのコミュニケーションというものを、いまだにシャノン=ウィーヴァー・モデルによって把握しているのである。

意識交流モデル

  いままで述べてきた七つの要素、すなわち「意識交流場」「交流人格」「触手」「人格の形態」「自己表現」「意識」「構造」によって、意識通信を捉える新たなモデルが形成された。それは、意識通信のコミュニケーションというものを、情報のキャッチボールとしてではなく、互いに触れ合う触手を通した意識の交流として把握するものであった。意識の交流によって、人間のコミュニケーションを把握するという意味で、私はこれを「意識交流モデル」と呼びたい。
  意識通信とは、コミュニケーションすることそれ自体を目的とするコミュニケーションのことであった。ところで、意識交流モデルによれば、コミュニケーションとは、お互いの意識を交流させることである。ということは、意識通信とは、お互いの意識を交流させることを目的とするコミュニケーションであることになる。
  たとえば、ソファに座っている彼女と意識通信をするとき、私の目的は彼女と情報の交換をすることではない。私の目的は、彼女に触手を伸ばして彼女の交流人格と触れ合い、触手を通して彼女の意識と私の意識とを交流させ、彼女の意識を味わい、意識の湿り気を融合させることにあるのだ。このひとときの意識の交わりによって、私の人格の形態は変化し、私の内部に彼女の意識の一部が吸い込まれ、私は彼女の一部をその後何度も自分の内部で反芻することになる。同時に私の一部はその意識交流によって彼女の内部に侵入する。そして彼女はひとりになった後でも、彼女の中に残された私の一部を味わったり、あるいは振り払ったりするであろう。
  人々は、さびしいときやうれしいときに、他人と意識通信をしたくなる。それは、他者との意識交流をとおして、私の一部を他者に分け与え、あるいは他者の一部を私の中に取り込むことで、何かの喜びやなぐさめを得たいからである。意識交流モデルによって見えてくる人間のコミュニケーションの姿とは、自我の境界を突破してお互いに融合を繰り返し、自分の一部を他者に分け与え、他者の一部を自分の内部に同化させ、こうやってこころと身体を変容させてゆく人間の営みである。その融合と同化を可能にしているものこそ、個人の壁をやすやすと超え、他者と容易に混ざり合う、流動体としての意識である。人間は存在論的にはどこまでも孤独であり、決して他者と融合することはない。〈孤独〉これが人間の存在の基本であり、限界である。しかし、流動体としての意識は、個体の壁をやすやすと乗り越える。流動体としての意識は、浮遊する遺伝子のように、個体同士をゆるやかに結び付け、個人の人格の内容をその深部から決定する。

モデルの意味

  我々は、意識通信を把握するためのモデルとして、シャノン=ウィーヴァー・モデルに代わる新たな「意識交流モデル」を提案した。それは、コミュニケーションの成立する場を「意識交流場」として捉え、そこで触手が触れ合うことによって意識交流が起きると考えるモデルであった。このモデルは、コミュニケーションというものをメッセージのキャッチボールとして捉えるシャノン=ウィーヴァー・モデルと、鮮やかに対立するものである。
  しかし冷静に考えてみれば、実際のコミュニケーションの場面で、お互いに触れ合う「触手」の動きなんか決して観察できないし、他者の意識が自分の内面に侵入すると言われても、そんな実感を持てない人も多いであろう。では、意識交流モデルとは、架空の夢物語なのであろうか。
  そうではない、と私は考えたい。そもそも「モデル」とは、現実には見えないものなのだ。「モデル」とは、現実世界での出来事を抽象化して把握するために、頭の中で作り上げられた架空の枠組みのことである。うまく出来た「モデル」を使えば、現実に見える世界のことを整理して把握することができるが、しかしそんな場合でも「モデル」それ自体は決して目に見えはしない。「モデル」とは、目に見えるものを把握するための、目に見えない装置なのである。
  たとえば、シャノン=ウィーヴァー・モデルにおいても、その中心的な概念である「メッセージ」それ自体は、決して観察できない。我々が観察できるのは、メッセージを運ぶものとされる「印刷物の文字パターン」とか「ラジオの音声」だけである。印刷物のインクの染みの背後に隠された「メッセージ」それ自体を、我々は直接には見ることができない。「メッセージ」とは、現実に目で見るものなのではなく、シャノン=ウィーヴァー・モデルという「モデル」の一要素として、概念的に把握されるべきものなのである。従って、意識交流モデルの「触手」が目に見えないからといって、それが無意味だとは言えない。
「モデル」とは、世界を秩序立てて把握するための道具である。それが意味のある道具かどうかは、それを用いることによって、どれほど世界がすっきりと整理されて把握できるか、いままで把握し切れなかった部分がいかにうまく把握できるようになったか、それを用いることでいままで気付かなかった新たな側面をどれだけ発見できるようになったか、などを吟味することで決まる。世界をより深く、より新しく把握することのできる道具であれば、それは有意義なモデルであると言える。
  モデルの持つもうひとつの力は、それが我々の抱いていた世界像を乗り越え、新たなパラダイムを形成するきっかけとなり得ることにある。つまり、単に世界を説明する便利な道具というだけではなく、世界をトータルに把握するためのまったく新しい認識枠組みとして、モデルが機能する可能性があるのだ。
  私は「意識交流モデル」というものを、そういう新たな認識枠組みとして考えている。人と人との関係というものを、意識交流という枠組みから眺めてみることで、人間が出会うときの「場の形成と変容」のプロセスを新たな観点から把握することができる。そこで達成される「共感」や「癒し」の機能に、新たな意味を与えることもできるだろう。この知見は、人と人が電子メディアをとおして触れ合うときにまで拡張される。そしてこの認識枠組みを使って、世界の様々な出来事を眺めてみることで、この世界がまったく新たな姿をもって見え始めてくるのではないだろうか。それは、単なるコミュニケーション論の領域を超えて、たとえば哲学の認識論、あるいは心理学、あるいはシステム理論などに新たな示唆をもたらすかもしれない。
  もちろん、本章で示すことができたのは、意識交流モデルの粗削りで原始的なスケッチにすぎない。このモデルは、もっと洗練され説得力のあるモデルへと組み立てられなければならない。そのときはじめて、新たな認識枠組みの全体像がリアルに見えてくるはずである。

 

入力:匿名希望さん