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作成:森岡正博 
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意識通信

 

森岡正博『意識通信』ちくま学芸文庫(現在絶版)、初版1993年

第2章 匿名性のコミュニティ (77〜101頁 註番号および註は省略 後ほど公開されるPDF版では註も見れます)

 

都市と雑踏

  電子意識通信の参加者たちは、匿名性に守られた架空世界の中で、断片人格同士を触れ合わせ、匿名性のコミュニケーションを達成する。
  彼らが電子意識通信世界の中で形成するこのような独特の人間関係は、しかしながら人類が都市を発明したときに、すでに基本的には存在していたものである。電子意識通信の予兆は大都市の雑踏の中にある。
  東京のような大都市の盛り場の街路を歩くと、肩の荷が軽くなったような感じを覚えることがある。なぜかと言えば、大都市の雑踏の中では、私は誰からも知られることのない「匿名」の一市民へと変貌するからである。家庭での役割や、職場での自己イメージを離れて、匿名の単なる一個人として私は街路を散策し、ショッピングを楽しむことができる。そして街頭の飾り付けや、人々の楽しい様子などから、様々なメッセージをシャワーのように受け取る。
  藤竹暁は、人々が銀座のような都心の「雑踏空間」に集まるのは、「都市の息吹きを呼吸する」ためであると述べる。人々は、「ウィンドウ・ショッピングと群れ集う人々とを互いに観察しあることのなかから、皮膚感覚的に〈時代の動き〉を感じること」ができる。そして「人間を匿名性の状態のもとで、その全体性を回復させる試みをも、この雑踏空間はもっているのである」と結論する。

ファッション街の視線

  都市社会学は、一般に、都市のもつ「匿名性」を否定的に評価してきた。つまり、匿名性のヴェールのもとに解き放たれることで、人は孤独になり、不道徳的な行ないに走るようになるというわけである。S・ミルグラムは、都市の「完全な匿名性は、反復される社会関係からの自由をもたらす。しかし同時に、それは疎外と孤立の感情をも生みだしかねない」と述べる。W・C・ホーレンベックは、人々が都市の匿名性のもとで「非道な行ないや不道徳な悪習にふける」ことを危惧している。
  このような考え方は、都市の中で人間は「無関心」「自制的」「打算的」「非人格的」になるという、古典的な都市社会学の発想の影響を受けている。
  しかし、都市の雑踏の匿名性によって、人間の悪徳ばかりが助長されるわけでもない。藤竹も言うように、都市の雑踏の中で、匿名性に守られて、見知らぬ人々と共にいるだけで肩の荷がおりることがある。あるいは、見知らぬ者同士がお互いに視線を交わし合うことで、一瞬の満足と快感を得ることもある。
  都市の雑踏を注意深く観察していると、ちょうどパソコン通信などで見られたような「匿名性のコミュニケーション」と同じものを、そこに見出すことができる。匿名性のコミュニケーションが、もっとも活性化されるのは、渋谷や六本木のようなファッション街である。
  新睦人は次のように述べている。「都市は人工的に形成された世界であるとともに、人々が匿名のまま互いに自分を「つくる」という感覚の発達する生活空間であるから、そもそも都市はファッション空間なのである。」たとえば、東京の渋谷や原宿、青山、六本木などの街路やブティックを、ハイセンスのファッションで身に固めて散策する人々のことを考えてみよう。彼らは、何かを見物したり、買ったりするためにそれらの場所を歩いているのではない。彼らの第一の目的は、自分の気に入るファッションを身に付けて、その場所を散策することそれ自体にある。そこを歩きながら、他人のファッションや雰囲気を眺め、逆に他人からの視線を意識し、あるいはそれらの人々と街路の美観・飾り付けとの調和やアンバランスを楽しみ、流行の波を敏感に把握することそれ自体が、彼らの散策の目的である。
  言い換えれば、彼らは、ファッションという装置を媒介にした「コミュニケーション」を、渋谷や原宿の雑踏の中で行なっているのである。会話によるコミュニケーションが、ことばのキャッチボールによって成立するのと同じように、街路でのコミュニケーションは、自己演出したファッションを他者に向けて表現し合うことによって成立する。たとえば、向かいから歩いてきた男性のシャツとスカーフの組み合わせのセンスに、私が一瞬注目したとする。彼はすれちがいざまに、私の視線を感じて、こちらに注意を向ける。このとき、彼は私のファッションから何かの印象を受けるかもしれない。こうやって、この瞬間、二人の間にある種のコミュニケーションが成立する。それは一瞬の敵意かもしれないし、一瞬の連帯感かもしれない。大都市の街路は、このようなコミュニケーションを円滑に活性化する装置に満ちている。たとえば、舗道に面したガラス張りの喫茶店では、店の中にいる女性と、道を歩く男性との間に、この種のコミュニケーションが容易に成立するようになっている。渋谷パルコのオープニングキャンペーンが「すれちがう人が美しい―――渋谷公園通り」であったことは示唆的である。
  吉見俊哉は、東京の渋谷を説明して、「七〇年代の終わり頃までには、街は、すでに小群化した若者たちがやって来て相互の差異を確認する場所へと変質していった」と述べている。そして、「渋谷がファッションの街であるというのは、まさにこうした「見る・見られる」(=演じる)という回路を過剰に保証しているからにほかならない」と的確に述べている。

雑踏と匿名性のコミュニケーション

  ハイセンスのファッションで街路を散策する人々は、このようなコミュニケーションを、他者や都市環境と行なうことそれ自体を第一の目的として、街に出てくる。第一章で私は、コミュニケーションを、情報の正確な受け渡しを目的とする「情報通信」と、会話することそれ自体を目的とする「意識通信」に分類した。それに従えば、大都市のファッション街で生じているこの種のコミュニケーションは、なによりもまず「意識通信」であることになる。そこでは、ファッションを介して触れ合うことそれ自体が、人々の第一の関心事になっているからである。
  大都市の街路で見られる、このような「ファッション街のコミュニケーション」は、次のような特徴をもっている。
  まず、お互いに相手の名前や職業を知らない。従って、これは基本的に「匿名性のコミュニケーション」である。向うから歩いてきた見知らぬ他人と、匿名の私とが、すれちがいざまに一瞬のコミュニケーションを行なう。無数の匿名の人間たちが、ことばによらないコミュニケーションを街路の上で連鎖させてゆく。大都市の人口と、盛り場の規模がその匿名性を保証する。
  次に、匿名の、一瞬のコミュニケーションによって触れ合うのは、お互いの人格のごく一部分、すなわちファッションに関わる部分だけである。つまり、お互いに、相手のファッションという側面だけから相手の人格を判断し、それを評価しようとする。ファッションという、人格の断片のみから作り上げられた人間像は、ファッションを媒介とした「断片人格」である。従って、これは、ファッションのみを媒介とした「断片人格」同士のコミュニケーションであると言える。お互いに相手がどんな人間性なのか、どんな職業なのかまったく知らないし、知りたいとも思わない。二人を交差させるのは「ファッション」だけ。触れ合う面はかぎりなく縮減される。
  そしてこの触れ合いは、強力な「自己演出」に支えられたコミュニケーションでもある。ハイセンスのファッションで身を飾ることで、私たちは、もうひとりの自分を演出する。普段の生活では発揮できない自分の側面を、ファッションの形式を借りて表現し、誇張させて演出する。職場では地味な女店員が、六本木ではミニスカートのディスコクィーンとなる。アパートの六畳一間に住んでいる青年が、土曜日には外車に乗って青山通りを曳航する。匿名性と、断片人格同士の触れ合いが一般化している雑踏においては、この自己演出の虚構は簡単には崩壊しない。
  こうやって考えてみると、第一章の電話と匿名性の項で述べた、匿名性のコミュニケーションの三つの特性である「匿名性」「断片人格」「自己演出」は、すでに都市の雑踏の中に出現していることが分かる。逆に言えば、こういうことだ。都市の雑踏の中ですでに成立していた「匿名性のコミュニケーション」が、いま、電子架空世界の中にまで侵入しているのである。匿名性のコミュニケーションの架空世界化がおきているのだ。

二つのコミュニティ

  都市のファッション街に出かけて、ファッションを媒介とした匿名性のコミュニケーションを行なう人々がいる。あるいは、週末のディスコでは、きらびやかな匿名性のコミュニケーションが交わされている。ここでは、人々は、みんなが匿名であるという前提のもとに、様々な自己表現を行ない、独特の人間の群れを形作る。このような人間の群れのことを「匿名性のコミュニティ」と呼ぶことにしよう。
  匿名性のコミュニティの重要性は、いままでの社会学では軽視されてきた。というのも、コミュニティは、常に何かの意味での「知り合いの輪」として考えられてきたからである。そして、まったくの赤の他人が、赤の他人のままでコミュニティを作れるなどとは、考えなかったからである。
  コミュニティ論は、F・テンニエスの「ゲマインシャフト/ゲゼルシャフト」の区別に始まり、その後様々に展開されてきた。R・M・マッキーヴァーは、テンニエスの影響を受けた著書『コミュニティ』の中で、「コミュニティ」概念と「アソシエーション」概念とを区別した。コミュニティとは、村や町や国など、様々なレベルで営まれている人間たちの「共同生活」のことである。これに対して、アソシエーションとは、ある共通の関心のもとに人々が結集したときの組織体のことである。たとえば、火事を消すために近所の人々が臨時の消防隊を作って、消火活動を行なうとき、これがアソシエーションである。(ただし、これらの用語法は彼独特のものである。現在では、彼の言う「コミュニティ」と「アソシエーション」の両方を含めて、広義の「コミュニティ」と考えるのが普通である。)
  近年のコミュニティ論は、マッキーヴァーの区別に対応した二種類のコミュニティを想定する。
  ひとつは「地域性のコミュニティ」である。たとえば、隣近所の仲よしグループや、地域に密着した「町内会」や「自治会」などの人々の集まりがこれである。同じ場所や地域に住んでいることがポイントとなる。これは要するに、同じ地域に住んでいることから生じる、地域的な知り合い関係だと言える。
  もうひとつは「共同性のコミュニティ」である。たとえば、カルチャーセンターなどの趣味のサークルや、市民活動を通して形成される人々の集まりがこれである。共通の関心や作業によってまとまる点が特徴となる。住んでいる地域は離れていてもよい。交通や通信手段の発展によって、遠く離れたところに住んでいても、同じ趣味や動機をもつ人々が簡単に集まれるようになったので、このコミュニティが成立した。

ノン・プレイス・コミュニティ

  ところで、情報化社会論が盛んになるにつれ、この二つのコミュニティ概念に加えて、もうひとつの新しいコミュニティ概念が提唱されるようになった。
  そのきっかけとなったのは、M・マクルーハンの「グローバル・ヴィレッジ」の考え方である。マクルーハンは、情報ネットワークが地球上にはりめぐらされることで、地理的距離の概念は消失し、我々は地球大の村(グローバル・ヴィレッジ)に住むようになると予言した。
  これを受けて、M・M・ウェッバーは、地理的束縛を離れて存在する「ノン・プレイス・コミュニティ」の概念を提唱した。ウェッバーは言う。従来、コミュニティは、ある「場所」の上で成立するものと考えられてきた。しかし、いまや明らかになったことは、コミュニティの本質は地理的な近さではなくて、「アクセス可能性」(何らかの方法を使って連絡をとりあえること)であるということだ。自動車や電話などを使って、お互いに自由に連絡をとりあえる(アクセスできる)人間のネットワークは、彼らが住んでいる場所とは無関係の、「ノン・プレイス・コミュニティ」を形成していると見なければならない。
  この考え方を、コンピュータ・ネットワークやパソコン通信の人間関係に適用する研究者も出てきた。そして、「メディア・コミュニティ」「オンライン・コミュニティ」などのことばも出現し始めている。つまり、パソコン通信のチャットやBBSでおしゃべりをして顔なじみになった人々は、彼らが現実に住んでいる場所とは無関係の、架空の「オンライン・コミュニティ」を形成しているというわけである。E・B・カーとS・R・ヒルツは述べている。「たとえば、EIESシステムの常連たちは、強いオンライン・コミュニティ感覚をもっている。そこには緊密な友情と、同志のきずながある。そして、システムにアクセスできなくなったときには、喪失感をあじわうことになる。」多人数の参加者が、離れた地域から同時にアクセスできる、パソコン通信のようなグループ・メディアでは、場所とは無関係な「オンライン・コミュニティ」感覚は特に強くなるであろう。
  しかし、これらの「ノン・プレイス・コミュニティ」は、決して、「地域性のコミュニティ」「共同性のコミュニティ」につぐ、第三のコミュニティではない。「ノン・プレイス・コミュニティ」を新たな第三のコミュニティ概念とみなす考え方は、批判されねばならない。
  というのも、交通手段や通信手段の発展によって、地域を超えた人間関係が可能になったとしても、それらの人間関係をそれだけで無条件に「コミュニティ」と呼ぶことはできないからである。たとえば、日本からアメリカへ国際電話をかけることが可能になり、それによって、私はアメリカの見知らぬ人間と話をすることができる。この意味では、世界はすでにマクルーハンの言う「グローバル・ヴィレッジ」となった。しかし、私の話しているアメリかの見知らぬ人間と私とは、必ずしも同じコミュニティに属しているとは言えない。たとえば、私がアメリカの百貨店の店員に、電話で、ある品物の在庫を尋ねているとする。我々は、しかし、この瞬間いかなるコミュニティをも形成していない。つまり、地域を超えて、オンラインで人々がつながっているだけでは、コミュニティは成立しないのである。コミュニティが成立するためには、それに加えて、何かもっと本質的な条件、たとえば共通の目標を持っているとか、同じ活動をしているなどの条件が必要となる。たとえば、一人暮らしの高齢の婦人の電話によるネットワークが、地域を超えた「コミュニティ」となるためには、電話が彼女たちを結合させているだけではだめで、それに加えて、彼女たちの間に何かの「連帯感」や「共感」などが共有されている必要がある。つまり、コミュニティが形成されるためには、何かがその成員たちの間に「共有」されていることが絶対条件となる。
  あるいは、このように言うこともできるだろう。メディアの拡張がもたらしたものは、従来よりあった「共同性のコミュニティ」の単なる地理的拡張にすぎないのだ、と。たとえば、電話が導入される以前はひとつの都市の内部に限定されていた「趣味のサークル」が、電話の普及にともなって、全国規模にふくらんだとする。これは、電話の普及によって新たな「ノン・プレイス・コミュニティ」が確立したのではなく、すでにあった趣味のサークルという「共同性のコミュニティ」の規模が、都市単位から国単位へと拡大したにすぎない。
  確かに、メディアの拡張によって、地理的束縛を離れた人々のつながりが成立した。しかしそれは、ただちに、地理的束縛を離れた「コミュニティ」の成立を意味しない。ノン・プレイス・コミュニティは、「地域性のコミュニティ」「共同性のコミュニティ」と並ぶような、第三のコミュニティの理念型を形成しない。それは、共同性のコミュニティが持つある一側面、すなわち「コミュニティの脱地域化」という側面を、メディア論の観点から再定式化したものにすぎない。
  ただし、「ノン・プレイス・コミュニティ」や「オンライン・コミュニティ」ということばが示唆している、コミュニティの「架空世界化」という事態については注意をはらっておく必要がある。つまり、パソコン通信のチャットで、お互いの住んでいる場所や職業などを知らないまま、知り合いになり、友人関係のネットワークができたとする。しかし、彼らは一度も現実に会ったことはない。そのとき、そのネットワークが作り上げる「コミュニティ」は、パソコン通信の架空世界の中に存在する、架空世界のコミュニティだと考えた方がよい。つまり、架空世界の中でのみ成立する「コミュニティ」というものが、あり得ることになる。
  これは、「地域性のコミュニティ」や「共同性のコミュニティ」のそれぞれに、その架空世界版があることを示唆している。たとえば、転勤になって離ればなれになった家族同士が、電話でいつもコンタクトを取り続けている場合、そこでできているコミュニティは、架空世界版「地域性のコミュニティ」かもしれない。また、自然保護を共通の目的とした世界的なパソコンネットワークの会員同士は、架空世界版「共同性のコミュニティ」を形成していると言える。つまり、この二種類のコミュニティには、それぞれ「この世界」のものと、「架空世界」のものがあることになる。電子ネットワークの浸透によって、コミュニティの〈架空世界化〉が始まったのである。「ノン・プレイス・コミュニティ」とは、新たなコミュニティ概念のことを指していたのではなく、実は、コミュニティのこの〈架空世界化〉のことを意味していたのである。
「コミュニティの架空世界化」、これは「コミュニティの脱地域化」と並んで、通信メディアがコミュニティにもたらす二大変容だと言えるだろう。

第三のコミュニティ

  コミュニティには、
   (1)地域性のコミュニティ
   (2)共同性のコミュニティ
  の二種類がある。そして、交通手段と通信メディアの発達によって、コミュニティの「脱地域化」と「架空世界化」が進行している。
  私は、この二種類のコミュニティに加えて、「匿名性のコミュニティ」を第三のコミュニティ概念として提唱したい。匿名性のコミュニティとは、それを構成する人々がお互いに匿名の状態であるにもかかわらず、お互いに親しみを感じたり、あるいは価値観を共有したりするような人間関係の場のことである。匿名性のコミュニティは、都市の雑踏のファッション街や、ロックコンサートの観客席、パソコン通信のチャットなどに見られる。そこで人々は、匿名性に守られたまま、匿名性のコミュニケーションを互いに交わす。
「匿名性のコミュニティ」をより正確に定義するためには、そもそも「コミュニティ」とはなんであるのかを検討しておかなければならない。しかし、コミュニティ概念の定まった定義は存在しない。G・A・ヒラリーは、コミュニティ概念に関する諸見解を調査した結果、コミュニティ概念についての諸説の完全な一致はないと述べている。そのうえで、人間のあいだの「共通の絆」とある種の「社会的相互作用」の存在がコミュニティの本質であるとみないている学者が多い、と結論している。
  私は、次のように「コミュニティ」というものを考えたい。
  人々がただ単に集まっただけでは、コミュニティは形成されない。それらの人々が、単に会話しているだけでも、コミュニティは形成されない。コミュニティとは、「ふるさと」や「サークル」などのように、そこに属することで自分の根っこを安定させることができ、同時に、他の成員たちと何かを共有できるような場のことであると私は思う。たとえば、「ふるさと」の場合だと、そのふるさとの「地域」や「人間関係」に自分のこころを帰属させることができ、そこで生まれ育った「歴史」や「生活形態」などを同郷の人々と共有することができるという意味で、それはコミュニティだと言える。
  要するに、コミュニティは、ばらばらで孤立しがちな人間たちに、帰属先を与え、他の人間と共有できるものを与えるのである。そういう人間関係の場のことを、私はコミュニティと呼んでゆきたい。
  コミュニティを定義すると次のようになる。「コミュニティとは、個人が(1)自分のこころを帰属させることができ、(2)他の成員たちと何かを共有できるような、人間関係の場のことである。」
  では、このコミュニティの定義に従って、先に述べた三つのコミュニティの性質を検討してみたい。
  まず、「地域性のコミュニティ」から。地域性のコミュニティとは、ある地域に共に住むことから生じる、人間関係の場のことである。従って、自分のこころを帰属させるその先は、「家庭」や「地域」という場所、そしてその地域にしばられた人間関係の網の目であることになる。そこに住む他の成員たちと共有しているものは、その地域という「生活空間」や「環境」、そしてそこで生活をともにした「歴史」などである。地域性のコミュニティの実例としては、家庭や町内会などがあげられる。さきほど例に出した「ふるさと」などもその一例であろう。
  第二の「共同性のコミュニティ」ではどうだろうか。共同性のコミュニティとは、何かの動機や目標などを共有することで、地域を超えて成立する人間関係の場のことである。従って、自分のこころを帰属させるその先は、それらの人間がおりなす組織やネットワークそれ自体である。その組織の「名前」とかステイタスなども含まれるであろう。そこで共有されているものは、「考え方」「動機」「感性」「目標」などの精神的なもの、すなわち、同じ趣味をもっているとか、同じ目標をめざして活動しているなどのことである。共同性のコミュニティの実例としては、趣味のサークルやカルチャーセンター、政党などがある。
  では、第三の「匿名性のコミュニティ」について考えてみよう。匿名性のコミュニティとは、お互いに匿名の状態のままで、自己演出のきいた匿名性のコミュニケーションを行なう、人間関係の場のことである。彼らが、そのようなコミュニケーションを行なう場所は、都市の雑踏のファッション街や、コンサートホールや、チャットの画面など、人工的に作り上げられ、あらかじめ用意された「虚構空間」である。彼らはそのような虚構空間の中に囲い込まれることではじめて、匿名性のコミュニケーションを開始できる。従って、彼らが自分のこころを帰属させるのは、それらの「虚構空間」それ自体である。彼らは、その虚構空間で、自らの断片人格のみを他人に見せ、自分を自己演出しながら他人と関わってゆこうとする。そしてその虚構空間の中で、もうひとりの私ともうひとりのあなたとの出会いを待ち望む。そして、そこに集まる人々は、そこに登場する断片人格たちが、多かれ少なかれ現実世界での人格とは異なった、虚構の人格であることを知りつくしている。
  そこで共有されているのは、ここでのコミュニケーションは基本的に虚構によって支配されているという自覚、すなわち「虚構意識」である。たとえば、ここに現われる断片人格の姿は、現実の人格とは似ても似つかない虚構であるかもしれないという虚構意識にもとづいて、コミュニケーションは進められる。六本木のディスコで踊る彼女の素性は、誰も知らない。そして、そこに集まる若者たちは、はなやかな都会のきらびやかな世界にその主人公として参加するという虚構意識を共有することで、ディスコのなかにコミュニティを作り出している。パソコン通信のチャットの世界では、そこに集まる人々の年齢や性別すらはっきりとは分からない。嘘をついている可能性も充分にあるが、確かめようがない。そういうことが、分かり切った上で、その虚構の世界に遊んでみようという虚構意識が、参加者たちの間に共有されるとき、そこにコミュニティが成立する。
  匿名性のコミュニティとは、匿名の状態のもとで、「虚構空間」に自分のこころを帰属させ、「虚構意識」を共有することで成立する人間関係の場のことである。
  都市の中のファッション空間や、パソコン通信のチャットなどに見られるこのような「匿名性のコミュニティ」こそ、「地域性のコミュニティ」「共同性のコミュニティ」に匹敵する、第三のコミュニティなのである。
  匿名性のコミュニティを、私は「虚構性」という概念を使って説明した。というのも、たとえば都市の雑踏や、パソコン通信のチャットに見られる匿名性のコミュニティの底辺には、この虚構性が色濃く見られるからである。そしてその虚構性は、多くの場合、集まる人々の「匿名性」によって裏付けられている。そこでは、匿名性と虚構性とは、切っても切れない関係にある。従って、これらの匿名性のコミュニティを虚構性によって把握するのは妥当であると思う。
  しかし、正確に考えてみれば、「匿名性」と「虚構性」は同一の概念ではない。たとえば、虚構性の希薄な「匿名の人間の集まり」の例として、アルコール依存症患者の自助グループであるA・A(Alcoholics Anonymous)がある。これは、アルコール依存症から立ち直るために、患者たちが匿名のまま集会場に定期的に集まって、お互いを励まし合う組織である。逆に、匿名性の希薄な「虚構の人間の集まり」もある。たとえば、友人たちの間で開かれる仮装パーティーなどがそれである。
  これらの人間の集まりを、匿名性のコミュニティと呼んでよいかどうかについては、議論が必要である。匿名性のコミュニティとは区別された、「虚構性のコミュニティ」という概念を提唱する考え方もあり得る。私は、匿名性のコミュニティの概念だけで充分だと思っているが、この点については今後の議論にゆだねたい。

匿名性とは何か

  では、「匿名性のコミュニティ」と言うときの、その「匿名性」についてもう少し詳しく考えてみたい。
  電話やパソコン通信では、相手の顔が見えないから、「匿名性」が出てくる。そういうふうに我々は考えがちである。コミュニケーション論の研究者たちは、お互いの顔が見える「フェイス・トゥ・フェイス」のコミュニケーションと、顔が見えない「匿名の」電話のコミュニケーションとの差異を、実験によって解明しようとする。この発想の背後にも、「顔が見えないこと=匿名性」という考え方が潜んでいる。
  しかし、都市の雑踏の中の「匿名性」ではどうだろうか。たとえば、見知らぬ人から不意に声をかけられたとき、我々はお互いに相手に顔をさらすことになる。しかしそれでも、お互いの「匿名性」は守られているはずである。この場合の「匿名性」とは、顔が見えないことではない。そうではなくて、自分の目の前にいる人間の、名前や職業や住所などが相手に分からない状態を指しているのである。ディスコの中の匿名性のコミュニティにおいても、そこで守られている「匿名性」とは、目の前にいる人の名前や職業や居住地域などがすぐには分からないこと意味している。
  こう考えてみると、「匿名性」の本質は、顔が見えるかどうかにあるのではなく、その人の名前や職業や住所などの「実生活のアイデンティティ」が秘密にされているかどうかにあることがはっきりする。つまり、「匿名性」とは、「名前・職業・居住地域などの実生活アイデンティティが秘密になっている状態」のことである。もちろん、顔が見えなければ、それらの実生活アイデンティティが隠しやすくなるのは当然なので、「匿名性」の保持のためには、顔を見せないことが大きな意味をもつ。
  また、「匿名性」に守られた人間関係とは、必ずしもよそよそしい他人行儀な関係だけではない。たとえば、パソコン通信のチャットに何回も参加していると、しだいにお互いのハンドルネームを覚え始め、ハンドルネーム友達の輪ができてくる。そしてお互いに知り合いになり、その友人たちに会うためにアクセスするようになる。そのような知り合いのグループのチャットは、冗談を言い合ったり、ひやかしたりして、たいへん楽しいものがある。匿名でありながら、しかしお互いに知り合いとなって、友人のように付き合っている。
  つまり、匿名性のコミュニケーションには、見知らぬ相手とのよそよそしい関係と、知り合い同士のフレンドリーな関係の二種類があるのだ。たとえ匿名の状態であったとしても、画面に現われたお互いの断片人格同士で深い付き合いをすることを通して、近くに住んでいる隣人のような関係ができる。このことを、私は「隣人性」と呼びたい。「隣人性」は、人間関係の中に、親密さや一体感を生み出す。この「隣人性」は、パソコン通信の匿名性のコミュニケーションの中だけに見られるのではなく、行きつけの飲み屋や、地域の近所付き合いの人間関係の中にも見られる。
  ここで、もう一度「顔」について考えておきたい。すでに述べたように、「顔」の不在は「匿名性」の定義にはならない。しかし、知らない人に道を聞くときのような、顔が見える匿名性のコミュニケーションと、パーティーラインのような、顔が見えない匿名性のコミュニケーションとでは、その会話の内容やそこでの人間関係の様子が、大きく異なってくる。一般的に言って、顔が見えない方がより大胆になり、自己演出が増大し、無責任になりやすい。人間は、有史以来、顔を付き合わせる対面型のコミュニケーションを基礎として文化を作って来たので、人間関係における「顔」の役割は予想以上に大きい。手紙などの、顔が見えないメディアで文通して、相手の人格や雰囲気についていろいろ想像を膨らませていたとしても、いったんその人と会って、顔を知ってしまうと、もう二度と以前のような自由な空想をもてあそぶことはできなくなる。「顔」は、人間のコミュニケーションの様相を、決定的に支配する。
「匿名性」の概念について検討することで、「匿名性」の定義がはっきりした。それと同時に「隣人性」と「顔」という、二つの重要なファクターをそこから分離抽出することができた。

意識通信と様々な人間関係

  匿名性のコミュニティの実例として、都市のファッション街や、ロックコンサートや、パソコン通信のチャットなどをあげてきた。しかし、この三つのコミュニティをとってみても、それぞれ「匿名性」の度合いや「自己演出」の度合いが違う。また、サークルや近所付き合いなどの人間関係の中にも、「自己演出」や「人格の断片性」は存在している。
  そこで、現実世界からいくつかの意識通信的な人間関係あるいはコミュニティを取り出し、そこでのコミュニケーションを、いままで議論してきた「匿名性」「虚構性」「人格の断片性」「自己演出」「隣人性」「親密性」「顔の存在」「架空世界性」の八つの特性によってそれぞれ特徴付けてゆきたい。この作業によって、パソコン通信などの匿名性のコミュニティの特徴が、よりいっそう明らかになるであろう。(次頁の図参照。)

 

  まず、家庭におけるコミュニケーションを考えてみよう。朝のあいさつや休日の団欒、食事の時のなにげない会話など、家族同士の親密性は非常に高い。隣人性も最高に高い。F・テンニエスのゲマインシャフト(註10参照)のモデルのひとつも家庭であった。当然お互いの「顔」は見えている。しかし、その他の五つの特性はほとんど見られないと言ってよい。(ただし崩壊しつつある家庭では自己演出などが増大するかもしれないが。)
  隣家や、同じ地域の人々との近所付き合いはどうだろうか。家庭よりも親密性は減少する。また、普通は、近所の人に自分のすべての側面をさらけださないので、人格の断片性が生じてくる。近所の人に対しては「うわべをつくろう」ことも多いので、自己演出や虚構性も出てくる。
  趣味のサークルやカルチャーセンターでの付き合いには、匿名性が加わる。相手が、どこの地域のどんな家に住んで、どんな仕事をしているのか最後まで分からずに付き合うこともある。場合によっては、自己演出の度合いが増すこともあるだろう。隣人性は減る。
  ファッション街のコミュニケーションについてはすでに述べたが、人格の断片性がさらに強まり(ファッションの側面だけの触れ合いに限定される)、虚構性も強くなり、匿名性が完全になり、自己演出も過剰になる。道ですれちがう人間は見知らぬ他人なので、隣人性は存在しない。人間関係の親密性も基本的には存在しない。都市に生じた独特のコミュニケーション形式である。ディスコの中の人間関係の一部も、このカテゴリーに入る。
  ロックコンサートに集まるファンたちの間の人間関係は、ファッション街のコミュニケーションと似ている。しかし、自己演出はそれほど強くないし、このアーチストのバラードを聴きに来たんだという形の親密性や連帯感が現われる場合がある。
  手紙や電話による意識通信は、きわめて特異な性質をもっている。まず、お互いの「顔」が見えない。そして、手書きの文字や肉声だけに限定された極端な「断片人格」同士によるコミュニケーションであるにもかかわらず、お互いにかなり「親密」な触れ合いを行なうことができるのである。これは、なまの人間に対面して話をするときよりも、間接的なやり方で会話したときのほうが、自分の内面を語りやすくなるという人間の心理によっている。ここには、触れ合う面を減少させることで、逆にお互いの想像力が刺激され、人間の心理の内面へとさらに深く旅することができるという「電子意識通信」世界の論理の萌芽が見られる。
  手紙では、文体や字体の選択による自己演出も容易である。虚構性が出てくる場合も多い。また、コミュニケーションの行なわれる場が、「紙」や「電気に媒介された音空間」である点で、架空世界性が生じてきている。
  最後に、CB・パーティーライン・パソコン通信のチャットなどに見られる人間関係のうち、匿名性が保証されているものを考えてみる。それは、すでに述べたように、「匿名性」「虚構性」「人格の断片性」「自己演出」などの特性が、最大に発揮されるコミュニケーションである。ハンドルネームの知り合いができている場合は、「隣人性」が出てくる。そのようなチャットでは、「親密性」も高くなるであろう。そして、「架空世界性」はもっとも高くなる。
  以上の限られた考察からも分かるように、ひとくちに「匿名性のコミュニティ」と言っても、そこには様々な種類があり、それぞれに独自の特徴をもっている。パーティーラインやパソコン通信が生み出す匿名性のコミュニティは、その中のほんの一部分でしかない。しかしそれは、将来への可能性を秘めた、魅惑的なコミュニティ形式なのだ。

入力:匿名希望さん