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作成:森岡正博 
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意識通信

 

森岡正博『意識通信』ちくま学芸文庫(現在絶版)、初版1993年

第1章 意識通信 (13〜58頁 註番号および註は省略 後ほど公開されるPDF版では註も見れます)

 

情報通信から意識通信へ

  電話が日本に導入されたのは一八九〇年のことである。そして戦後の高度成長とともに全国的に普及した。初期は、公用や事務用の利用がほとんどであった。その後、しだいに個人的な利用が増加してくる。事務用の電話の数と、住宅用の電話の数の比率の推移を見てみよう。一九六〇年には約一割しかなかった住宅用電話が、一九七二年には五〇%を上回り、一九九〇年にはおよそ七〇%にまで増加している。
  日本に導入された当初は、電話は、大事な用件を、手紙よりも早く他人に伝達するための非常手段として使われた。電話料金も高かったであろうし、そもそも電話機の数が少なかった。電話はまず事務用の機器として会社や官庁を中心に導入されてゆく。そして、事務的な連絡のために使われる。従って、通話の内容も「用件の伝達」が中心となる。つまり、電話は、用件を手紙よりも早く伝えることのできる新しい事務用の機器としてまず受容されてゆく。この時点では、電話とは、情報伝達という目的を達成するための「道具」なのだ。
  ところが、住宅用電話の比率が高まってくるにつれて、もうひとつの電話の使い方が増えてくる。それは、誰かと「おしゃべり」することそれ自体を目的とするような電話の使い方である。住宅用電話の比率が七〇%に近づくようになると、個人で楽しむための電話利用(パーソナル・ユース)が多くを占めるようになってくる。電話のパーソナル・ユースは、事務用の利用とは全く異なった特徴をもっている。
  たとえば、子供や恋人たちの長電話を想像していただきたい。そこで交わされている通話は、決して「用件の伝達」のみではない。いや、むしろ、「用件の伝達」以外の通話に、彼らは多くの時間を割いているにちがいない。では彼らは電話を使って何をしているのか。子供たちの場合、塾の待合わせの用件は二分で済ませ、そのあとの三〇分は、たわいない「おしゃべり」そのものを楽しんでいるのだ。恋人たちの場合、明日のデートの約束は三分で済ませ、残りの六〇分は、声によるデートを楽しんでいるのだ。あるいは、都会に住む学生が、田舎の両親に電話するときはどうだろう。その通話目的は、「最近、冷え込みがきびしくなった」という事実の情報伝達にあるんではなく、むしろ、お互いの生の声を聞いて相手の存在感を確かめ合うことに比重がおかれているはずだ。つまり、これらの通話では、通話することそれ自体が「目的」になっているのである。
  すなわち、電話には二種類の使い方がある。
  ひとつは、用件をすばやく伝達するための「道具」としての使い方。もうひとつは、おしゃべりを楽しむことそれ自体を「目的」とする使い方。前者では、通話の目的はあくまで「情報の伝達」であり、電話はそれを達成するための便利な道具にすぎない。これに対して後者では、通話することそれ自体が「目的」となっている。
  ここで私は、新しいことばを導入しようと思う。
  データや用件や知識などの情報を、AからBへと(あるいは双方向に)正確に受けわたすことを目的とするようなメディアの使い方のことを、「情報通信」と呼ぶことにする。これに対して、メディアの中で誰かと会話することそれ自体を目的とするようなメディアの使い方のことを、「意識通信」と呼ぶことにする。電話は、初期は「情報通信」型のメディアであったが、その後、「情報通信」と「意識通信」とを兼ねるメディアへと進化してきたのである。
  一八七六年に電話が発明された時点では、それは明らかに用件伝達のための「情報通信」型メディアとして人々に迎えられた。(ちなみに、発明者であるベルが最初に行なった通話は、「ワトソン君、用があるから、来てくれないか」であった。)そして約百年の後、おしゃべりを楽しむための「意識通信」型メディアとして電話の機能がおおきくクローズアップされ、人々の間に浸透しはじめる。
  メディアを、「道具/目的」という視点から分類する考え方は、従来のコミュニケーション論の中でも行なわれてきた。ただし、私の提唱する「意識通信」という考え方は、従来のコミュニケーション論では捉えきれない、重要な意味内容をもっている。
  たとえば、さきほど述べたように、おしゃべりそのものを楽しむような通信では、その結果、いったい何が伝達されたと考えるべきか。たとえ知識が増えたとしても、それはその通信目的からみれば付随的なことにすぎない。その通信で達成されたものは、実は、お互いの存在感の交流、あるいは楽しみやここちよさの交流のようなものである。これは、「情報」の相互伝達という枠組みでは捉えきれない。それは、「意識」の交流、すなわち「意識交流」とでも呼ぶほかはない、特殊なコミュニケーションの形である。そしてこの「意識」の中には、人々の表層意識だけではなく、深層意識も含まれている。会話することそれ自体を目的とするメディアの使い方に、特に「意識通信」という名前をつける理由は、ここにある。これらの点については、第三章で改めて詳しく述べたい。
 
電話と匿名性

  電話では、相手の声しか聞こえない。相手の顔の表情の変化や、身振りなどを捉えることができない。電話とは、視覚像や匂いなどの要素が排除された、いわば「制限メディア」なのである。
  制限メディアでは、伝達される情報量が減る。しかし、制限メディアには、制限メディア特有の面白さがある。相手にこちらの顔やしぐさが見えないことで、かえってトクをすることもある。電話でなければ話せないようなこともある。
  おしゃべりすることそれ自体を目的とする「意識通信」が、電話という、顔やしぐさが見えない「制限メディア」の中で開花するとき、そこには独特のコミュニケーションと人間関係が作り上げられてゆくことになる。
  電話という制限メディアには、三つの特徴がある。それは、(1)匿名性、(2)断片人格、(3)自己演出、という性質である。この三つの特徴について、順番に説明してゆこう。
  まず、電話の匿名性から。たとえば、「いたずら電話」や「無言電話」は、電話が匿名の状態でかけられるからこそ可能になる。「匿名」とは、いま話をしている相手が、どこに住んでいてどういう名前の人で、どのような職業についているのかという、その人の社会的属性が不明であることを指す(第二章参照)。匿名電話の場合、かけている側の「場所」や「顔」や「名前」が絶対にばれないという安心感がある。
  もちろん、知り合いや友人にかける電話の場合では、匿名性は成立していない。しかし、デパートの催物案内デスクに電話をかけるときや、番号案内にかけるときなどは、こちらが匿名であることを前提にして電話をかけるのが普通である。このような匿名性の通話が、かける側の意志ひとつで可能になる点が、電話という制限メディアの大きな特徴なのである。
「匿名性」に裏付けられた電話のコミュニケーションによって、はじめて可能になるのが、(1)テレフォン・カウンセリング(いのちの電話)と、(2)テレフォン・セックスである。
「いのちの電話」とは、こころの悩みを持ったクライエント(相談者)が、匿名のまま、電話を通じてカウンセラーに悩み事の相談をするものである。そこでは、レイプの被害や、自殺などの、かなり深刻な問題が話し合われる。こころの奥底の傷や、聞かれたら〈恥ずかしい〉ことなどを、カウンセラーに面と向かっては話せない場合がある。そのようなときには、「顔」を見られず、かつ「匿名」のままでコミュニケーションできる電話相談が役に立つ。いのちの電話のようなテレフォン・カウンセリングは、制限メディアである電話の登場によってはじめて本格的に成立した。この意味で、これは電話のもっている「匿名性」という基本的な特徴を最大に利用したコミュニケーションだと言える。
  テレフォン・セックスとは、電話の音声を利用した性行為であり、主に相手の声を聞きながらマスターベーションすることによって成立する。この場合、マスターベーションする側は「匿名」を貫徹することが通常である。女性の自宅にかかってくる「いたずら電話」「無言電話」のかなりの部分がこの目的であると考えられている。このようなコミュニケーションが成立するのも、電話がまさにかける側の「匿名性」を保障するからである。
「匿名性」に裏付けられたテレフォン・セックス・サービスは、一九八〇年代に先進諸国に広まり、この種のサービスの社会的需要の厚みを感じさせる(アメリカではone-on-one club、日本ではテレフォン・クラブなど)。
  テレフォン・カウンセリングとテレフォン・セックスという、二種類の電話のコミュニケーションに共通するのは、そこでは、普通の状況ではとてもできない「深いこころの悩みの相談」や「みだらな性的願望の表出」が、とり行なわれている点である。そしてそれは、電話という制限メディアがもたらす「匿名性」に裏付けられてはじめて可能になっている。そこでのコミュニケーションは、冒頭で述べた二分法に従うと、会話することそれ自体を目的とする「意識通信」である。それも、会話する者同士の、こころの奥底に秘められ、抑圧された、深いレベルの意識がひそかに交流するような「意識通信」である。

断片人格

  匿名性に裏付けられた電話のコミュニケーションは、制限メディアの第二の特徴「断片人格」を生み出す。これについて次に説明したい。
  たとえば、デパートの催物案内デスクに電話をかけてみよう。そこで応対してくれる女性と一〜二分話すことで、我々は彼女の顔や表情や雰囲気についての漠然としたイメージを抱くようになる。しかし、これらのイメージは、すべて電話の「声」だけから類推されたものにしかすぎない。実際に彼女に会ってみたら、全然イメージと違っていたなどということもおおいにある。それにもかかわらず、何回もこの同じ女性に電話しているうちに、私の中に、ひとつの彼女の「人格イメージ」が徐々に形作られてゆくはずである。この人格イメージは、確かに、彼女の電話の「声」だけから類推して作り上げられた、きわめて人工的なものではある。しかし、彼女と電話で話を続けるうちに、その人格イメージは、しだいに現実感をおびたリアルな人格像として私のこころの中に定着してゆくにちがいない。
  この人格イメージは、現実の人物から、ある側面(たとえば声)だけを抽出して、それをもとに作り上げられる。現実の人格のある一側面(断片)だけが、制限メディアによって切り取られ、聞き手の想像力によって様々な変容をうけ、そこから新たな人格像が作り上げられる。この意味で、この新たな人格像(あるいは人格主体)のことを「断片人格」と呼びたいと思う。
  もちろん、フェイス・トゥ・フェイスの場合であっても、特に初対面のときなどは、お互いに相手のことをよく知っているわけではない。そんなときには、相手の第一印象にもとづいた「断片人格」を自分でかってに作り上げて、その色眼鏡を通して相手を眺めることも多い。また逆に、仕事の付き合いなどでは、自分の人格の一断片だけを相手に見せて付き合うことも多い。G・H・ミードは述べている。「我々は、自分自身を、幾人かの知り合いそれぞれに応じて、様々に異なった自己に分割する。」日常的にも見られるこの「断片人格」が、さらに大手を振ってまかりとおるのが、電話のような制限メディアの世界なのである。
  いつも電話で声を聞くかわいい声の交換手の女性に恋をして、人づてに会ってみたら、まったく興味のわかない顔の女性だったという話を聞いたことがある。このとき、実際に彼女に会うまでのあいだ、彼のこころの中に生きていた彼女の人格像、これが「断片人格」である。彼がその「断片人格」に恋をしたということは、その「断片人格」が彼のこころの中で、りっぱな一人格として機能していたことになる。もし、現実の彼女に一生会わなければ、彼は永遠に彼女=断片人格に恋をしつづけていたかもしれない。
  また、伝言ダイヤルなどの電話メディアを使ってナンパするときの決め手は「声」に尽きるという。そこでは、彼の「声」という素材から、どうやって彼の素敵な「断片人格」を創造するかが、問われているのである。

自己演出

  断片人格が機能するということは、それを利用した「自己演出」が電話の世界で可能になることを意味している。つまり、声だけしか伝わらないのだから、どんな女性でも、自分を美人の女性として演出できる。声の出し方や使い方、話術を研究することで、見事な「声美人」に生まれ変わることができる。そして、見知らぬ相手に向かって、「声美人」としての魅力をふりまくことで、実生活では味わえないような男性からの優しい対応を引き出すことができるかもしれない。そして、電話という架空空間の中で、もうひとりの私として生きることができるかもしれない。
「自己演出」、これが制限メディアである電話の第三の特徴である。現実生活でも、人々は服装で自分のイメージを変え、女性はお化粧をすることで変装できる。あるいは話術をみがくことで、自分を知的に演出することもできる。しかし、これら「自己演出」という性質は、電話のような制限メディアの中で、さらに過激に開花する。
  若い女性が電話にでるとき、その声は通常の音域よりも高くなる。彼女たちが電話に出るときに、本能的によそいきの声に演出してしまうのは、電話というメディアのもっている断片人格性と、自己演出可能性とを、熟知しているからであろう。
  電話という制限メディアでは、声の質を変えることで、まったくの別人のふりをして会話することができる。現実世界ではたいへん難しい「変装」が、電話では若干やりやすくなる。電話の「自己演出」は、「変装」や「変身」にまでたかまってゆく。
  アメリカのテレフォン・セックス・クラブの女性オペレーターは、ひとりで同時に三、四人の男性たちと「会話」をするという特技をもっている。そのせいもあって、彼女たちは、何種類かの「自己」を声で演出することになる。

 オペレーターは、本名をなのったり、電話番号を教えたり、かけてきた男性とデートしたりすることを、許されていない。報酬は一時間七ドル。それぞれの女性は、電話で演じる「源氏名」を少なくとも二つはもっている。同じひとりのオペレーターが、ソフィスティケートされた黒人女性〈シャンテ〉を演じ、尻軽ブロンド娘〈アリソン〉を演じ、陽気な赤毛の〈アリシア〉を演じる。

 それら女性オペレーターのためのトレーニング・マニュアルには、さらにズバリと要点が述べられている。

 あなた自身と、電話の中でのあなたの人格とは、全く関係がないことを肝に銘じておくこと。……[サービスにあたっては、まず]かけてきた男性の理想の女性になることから始めなさい。それから、娼婦、ニンフォマニア、女王様、奴隷、男装趣味者、レズビアン、外国人、あるいは処女へと変貌してゆくこと。もし男性が他の女と話したがっているなら、時間をむだにしてはいけない。すぐその女になりなさい。あなたは、どんな男性のファンタジーでも満たすことができるくらい、創造的でなければならない。

 女性オペレーターが、男性のファンタジーをすぐに満たすことができるのも、電話という制限メディアが、オペレーターの「顔」を隠し、男性の注意を彼女の「声」にだけ集中させることで、彼女の「自己演出」「変身」「変装」を強力にバックアップするからである。
  以上に述べた、「匿名性」「断片人格」「自己演出」という三つの性質は、もちろん現実世界の人間関係の中にも存在する。しかし、それらが本格的に開花するのは、むしろ電話のような「制限メディア」の中での人間関係だと私は思う。
  最近の技術の進歩によって可能になった、様々なハイテク制限メディアの中で、これら三つの性質がどのように展開されているのかを、以下順番に見てゆきたい。

CBとハンドルネーム

  普通の電話システムで同時に会話できるのは、二人の人間までである。しかし、多くの電話回線をコンピュータを使って結合させれば、多くの人間が同時に、電話を通して集団で会話できるようになる。このように、不特定多数の人間が、同時にひとつのメディアの中で会話できるようなメディアのことを、グループ・メディアと呼ぶことにする。
「匿名性」「断片人格」「自己演出」という制限メディアの三つの特徴は、これらグループ・メディアの中で、さらに過激に展開されることになる。
  グループ・メディアは、(1)音声系、(2)文字系、(3)画像系、に大別される。それぞれの代表的な例をとって、制限メディアの三つの特徴を検討してみよう。
  まず、音声系のグループ・メディア。そのトップバッターとして、CB(市民無線 citizen's band)から見てみたい。
  CBとは、アメリカで七〇年代からさかんになった、一般市民向けのアマチュア無線のことである。一九七五年に、政府がホビー用の無線使用の制限をゆるめた結果、多くの一般市民が無線機器を買っておしゃべりを始め、そこに独特のCBカルチャーが生まれた。
  CBには、誰もが利用できるオープンチャンネルがあり、その周波数にチャンネルを合わせると、同時に何人もの人間が会話できる。そのチャンネルでは、いろんな人々が、お互いに短いことばのかけ合い(チャット)をして、会話を楽しんでいる。CBの機器は車の中に置いてあることが多く、ドライバー同士の情報交換や、暇つぶしにも使われている。
  CBの第一の特徴は、「匿名」で参加できることである。自分の名前や住所を名乗らなくても、自由に会話に参加できる。そのかわりに、多くの参加者たちは、独特の「偽名」を使う。これを「ハンドルネーム」と言う。彼らは、「クルセイダー・ラビット」「スーパー・スタッド(絶倫男)」「スペードのエース」「クレイジーママ」などのハンドルネームを使って、CBワールドに参加し、お互いに冗談を言い合ったり、情報交換をしたりする。
  ハンドルネームを使うことで、参加者はお互いの「匿名性」を守りながら会話を続けることができる。そして、ハンドルネームにこめられた独特の意味(たとえば「絶倫男」)に、自分のイメージを合わせて演技することで、自分の新たな「断片人格」をCBワールドの中で作り出し、「自己演出」を楽しむことができる。C・ハーシェイらは、その古典的な論文の中で次のように述べる。「このようにして、CBユーザーは、彼が住んでいる場所での「実生活」上の社会的地位を危険にさらすことなく、彼が自分のものとして選んだどのような自己イメージでも自由に、[CBワールドの中に]投影できるのである。」日常生活では、たよりのない男性が、CBワールドの中では「絶倫男」として派手に活躍し、下品な冗談をまき散らすスターになることができるかもしれない。この現実世界では平凡なひとりの人間が、CBワールドというもうひとつの世界の中で、ハンドルネームに象徴されるもうひとりの私となって、生き生きとした時を過ごす。リスナーは、CBワールドの中の他人のハンドルネームとその声から、彼らの断片人格を想像によってふくらませ、彼らとコミュニケーションを結ぼうとする。この意味で、「ハンドルネーム」とは、参加者が、もうひとりの私としての「断片人格」にかけた、熱い願いの象徴なのだ。
  このようなCBワールドでは、「意識通信」の側面が強調される。C・ハーシェイらは、CBの会話から二〇五例を取り出して内容分析を行なった。その結果、おしゃべりすることそれ自体を目的とする「会話」が、七割弱をしめたと報告している。彼らの研究は、匿名性に裏付けられたグループ・コミュニケーションが、「意識通信」の側面を濃厚に持つようになることを示唆している。

パーティーライン

  電話は本来二人で話すものである。それを多人数で話せるように拡張すると、電話を使った会議ができるようになる。このような多人数電話を使った会議は、一九二〇年代からATTによって始められ、会社の本店と支店を結ぶ会議などにさかんに使われてきた。これはオーディオ・テレ・カンファレンスと呼ばれている。企業で使われるオーディオ・テレ・カンファレンスでは、参加者たちの名前もはっきり分かっており、その内容もビジネスに関する議論に限定される。
  ところが、一九八〇年代になって、同じことを通常の電話回線を使って、不特定多数の人間に開放する「パーティーライン」が出現した。つまり、誰でも、どこからでも、電話のパーティーに参加できるのである。一九八五年にニューヨークのNYNEX電話会社がパーティーラインを始めたときには、ほとんどの会話は「非常に知的で興味深いものであった。哲学や宗教、政治に関するフォーラムもあった。」ところが、あっというまにパーティーラインの会話内容は低俗化し、たわいないおしゃべりで埋めつくされるようになった。その後、アメリカでは九〇〇番ライン、日本ではダイヤルQ2という付加価値通信網の一部として発達し、パーティーライン=セックス・ダイヤルというラベル付けがなされた。
  パーティーラインの機能は、基本的にはCBと同じである。「匿名性」を確保でき、何人もの参加者たちと自由におしゃべりできる。そしてCBよりも長い時間、クリアーな音声で会話することができる。さらに、電話さえあれば誰でも参加できる。(ただし、かなり高い料金がかかる。)
  パーティーラインの世界もまた、「ハンドルネーム」が飛び交う世界である。B・グリーンは、「リーボック」「ターミネイター」「リッチー・ベア」などのハンドルネームを採集している。日本のパーティーラインも同様のようである。
  そこはまた、音声という断片的な手掛りをもとに、相手の断片人格を組み上げてゆく世界である。
「そこは盲目の人々が普段住んでいる世界と同じである。ほんのちょっとしたイントネーションや、地方のアクセント、ことばの選択などから、私は、話し相手の似顔絵を作り上げてゆく。」(K・メイノ)そうやって、匿名性を前提とした、見知らぬ相手とのコミュニケーションをはかってゆくのだ。
  そこでは、不特性多数の他者を相手に、「自己演出」や「変身願望」がかなえられる。特に女性にとっては魅力的な空間かもしれない。K・メイノは述べる。「たとえ太っていたり、目つきが悪かったり、はげであったとしても、それは全く問題にならない。いままでおしゃれをしたことのない女性でも、ここでは六人の男性を同時にもてあそぶことができる。それに加えて、ここには、自分が全状況をコントロールできるという、とほうもない解放感がある。それはほとんどセクシャルなものに近い。」現実世界では不利になる身体的特徴も、音声の架空世界の中では、無に等しい。それらの欠点によって現実世界では妨げられていた様々な振舞いを、我々は音声の架空世界の中で、繰り広げることができる。制限メディアは、我々の欠点のいくつかを覆い隠し、現実世界では不可能な、新たな断片人格を作り上げる。
  B・グリーンの報告する次の例は印象的である。彼は、一五歳以下専用のパーティーラインの様子を調査して、こう述べている。

 集まってくる少女たちの九〇%は、自分のことを、長いブロンドの髪の毛をもち、青い眼で、身長一六五センチ、体重五〇キロだと言っている。少年たちの九〇%は、栗色の髪の毛で、バーベルを持ち上げることができ、身長一八〇センチ、体重七五キロだそうだ。

 パーティーラインに集まってくる少年少女たちは、自分のことを、魅力的な美男美女に見せようとして、結果的に同じような「自己演出」をすることになる。将来の架空世界の住人たちは、絵にかいたような美男美女ばかりになるかもしれないという事実を、このレポートは示唆している。

パソコン通信とチャット

  文字系のグループ・メディアの代表がパソコン通信である。家庭や職場にあるパソコンやワープロを、電話回線でホストコンピュータに接続することによって、不特定多数の人間が画面の中で文字を使って会話したり、データベースから情報を引き出したりすることができる。パソコン通信には、電子掲示板(BBS)や電子メールなどの様々なサービスがある。その中でも、グループ・メディアとして、「チャット」あるいは「CBシミュレーター」と呼ばれるサービスに注目してみたい。これは、CBやパーティーラインと同じ機能を、パソコンの画面上で可能にしたものである。つまり、不特定多数の参加者が、電話回線を通してパソコンの画面上に集まり、リアルタイム(同時進行)で、文字によるコミュニケーションを行なうことができるのだ。もちろん、文字は、手もとのキーボードから黙々と打ち込む。
  パソコン通信のチャットの多くは、匿名の不特定多数の人々の会話から成り立っている。この点は、CBやパーティーラインとよく似ている。ただし、パソコン通信のチャットでやりとりできるのは、いまのところ、キーボードから打ち込んだ「文字」だけに制限されている。すなわち、パソコン通信のチャットとは、「文字」表現にだけ限定された「制限メディア」なのである。(この点で、「声」だけに限定された電話メディアとは異なっている。)
  通常のフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションと比較したときに、パソコン通信のコミュニケーションがどのような特徴をもっているかについての研究は、すでに一九七〇年代から多数蓄積されている。
  そこで、ここでは、パソコン通信のチャットに見られる意識通信の三つの特徴について述べておきたい。
  パソコン通信のチャットを楽しむためには、まず電話回線を通して、自分のパソコンを『ニフティサーブ』などの通信会社(あるいは草の根ネット)のコンピュータに接続させ、チャットのために特別に設定された「部屋」に入る。「部屋」での会話の様子は、すぐに手もとの画面に表示される。そして、その部屋に同時に入っている他の参加者たちと、文字でおしゃべりできるのである。時には一〇人以上の参加者がおしゃべりしていることもある。そしてそのおしゃべりのほとんどは、本書で言う「意識通信」である。
  チャットのための部屋の中では「匿名性」が保たれている。話している相手が誰なのかは分からない。そのかわりに、自分が自分自身に勝手につけた「ハンドルネーム」が、自分の発言の箇所に表示される(会員番号も表示される場合が多い)。従って、チャットの部屋の中では、「ポコちゃん」やら「リンリン」が、あるときは活発に、あるときはだらだらと、文字で会話していることになる。
  参加者たちは、お互いに、ハンドルネームだけを頼りにして、他人を識別している。自分のハンドルネームは、参加するたびごとに付け替えてもよいので、今日は「竜馬三世」という名前で出没し、明日は「アンパンマン」という名前で登場することも可能である。ただ、常連たちは、自分のハンドルネームを長期間変えないことが多い。そうすることで、チャットの世界で、それなりの有名人になれるわけである。また、同じハンドルネームを使い続けていれば、チャットの世界の中で、何人かの知り合いができる。お互いに、ハンドルネームで親しく呼び合い、存在感を確かめ合う。パソコン通信の中で知り合いになることと、現実世界でも知り合いになることとは別である。パソコン通信の知り合いであっても、お互いの現実世界での職業や社会的役割を知らないケースも多いし、そんなことに興味がない場合もある。
  チャットの世界では匿名性が守られ、メディアが「文字」だけに制限されているので、現実生活でのコミュニケーションでは不利益になるような自分の身体的特徴を隠すことができる。従って、パソコン通信のチャットでは、現実生活ではとうていなしえなかったような会話や満足を得られる場合がある。E・B・カーとS・R・ヒルツは、「年齢、人種、美しさ、身体の大きさ、声の大きさ、ボディランゲージ、癖、我の強さ、社会階級、組織の中での地位」などが会話に影響しない点を、パソコン通信の匿名性の利点だと言っている。そして、マイノリティー(少数社会集団の人々)・女性・障害者などがこの意味でいつも受けている不利益を、少なくできると述べる。この指摘は正しい。事実、自分の身体的障害を誰にも気付かれることなく、チャットを楽しんでいる身体障害者もいる。
  チャットでは、相手の文字表現しか伝わってこない。相手の「顔」も「声」も分からない。この意味では非常に乾いたコミュニケーションと言える。しかし、チャットに慣れてくると、そのことばの使い方や、特殊記号の使い方のくせなどから、相手のイメージが自然に浮かんでくることも多い。やたらせっかちな奴や、表現の隅々にまで周到に気を配る人間など、多彩な性格が見えかくれする。このように、リアルタイムで表示される参加者たちの文字表現をもとにして、我々は知らず知らずのうちに、相手の「断片人格」を組み上げ、その断片人格に向かって会話するようになる。文字表現は、実に豊かな「顔」と「表情」とをもっている。ハンドルネームが、その印象をさらに補強する。相手の断片人格が私のこころの中にしっかりと根付いてきたとき、画面にあらわれる文字列と私の間に充分な「間身体性」(お互いの身体を通して成立する様々な関係性)が成立し、こうやって私の意識と相手の意識とが、パソコン通信というメディアを通して、ゆるやかに交流し始めるのである。
  顔なじみの相手でも、パソコン通信のチャットを通して会話すると、フェイス・トゥ・フェイスのときとはまた異なった印象を受けることがある。その第一の原因は、相手の「顔」と「声」がこちらに伝わらないためである。しかし、その第二の原因は、「顔」と「声」が相手に伝わらないことに安心して、その人の意識下に抑圧され潜在していた「もうひとりの自分」が解放され、それが文章表現の中に染み出してきて、その人の断片人格に大きな影響を与えてしまうことがあるからである。「文字」だけによって作られる断片人格は、逆に、その人の深層意識のうごめきを敏感に反映させることがある。この点では、パソコン通信は、パーティーラインをしのぐかもしれない。

自己演出ともうひとりの私

  チャットの中での「自己演出」は、CBやパーティーラインの場合よりも、はるかに容易である。「顔」も「声」も相手には伝わらず、ただ「文字」だけが伝達されるのだから、いくらでも嘘をつける。たとえば、中年の男性が、中学生の男の子と、若者ことばで対等に会話している光景も見られる。中年の人間にとって、若者のふりをして画面に登場するのは、たまらない誘惑であるらしい。もちろん、現実の自分に徹して、自己演出をしない参加者も多い。しかし、画面を見る限り、誰が自己演出をしていて、誰がしていないのかを見分けるのは難しい。
  チャットの中での自己演出は、「ハンドルネーム」を用いたものと、語彙や語尾などの文章表現テクニックを用いたものに大別される。たとえば、知的なインテリという自己演出をしたければ、「漱石」というようなハンドルネームを自分に付ければよい。そして、自分の中に秘められた「知的な」もうひとりの私を、文章表現テクニックを駆使して画面上で活躍させればよい。ただし、チャットでは、リアルタイムで他の参加者たちと応答しなければならないので、自分の中に知的なものをあまり持ち合せていない人が「知的に」振舞おうとしても、すぐにボロがでる。チャットでの「自己演出」が成功し、現実の自分とは異なった生を謳歌できるのは、すでにそのような特質を内面でもちながらも、しかし現実世界ではその側面が抑圧されていた人に限られる。不自然な自己演出はすぐに見破られるというのは、パソコン通信マニアの間では常識となっている。ただし、抑圧されていた自己演出が無理なく開花したとき、それを見破るのは至難のわざとなる。
  パソコン通信のチャットの中で、男が女のふりをする(あるいはその逆)のは、電話のときよりもはるかに容易である。「顔」や「肉声」が遮断され、「文字」によるコミュニケーションしかできないのだから、女性っぽいハンドルネームを使い、女言葉と女性的な受け答えのパターンを習得すれば、どんな男性でも女性に変装することが可能となる。パソコン通信で、女性のふりをする男性のことを「ネットおかま」と呼ぶ。現在のパソコン通信では、女性のハンドルネームのうちのある一定の割合は、このネットおかまであると推測される。これは、パソコン通信のような制限メディアにおけるコミュニケーションが、参加者個人のこころの底に抑圧された深層意識を刺激する機能を持っていることを示唆している。
  性転換まで行かなくても、チャットの中は自己演出に満ち満ちている。そして、この自己演出の目的は、単に相手をだまして喜ぶことではない。そうではなくて、自分を「もうひとりの私」として羽ばたかせることによって、現実世界のしがらみのなかでは決して実現できないような「夢」を、匿名性にまもられた架空世界の中でささやかに満たすことにある。
  そこに広がるのは、電子空間の中の「もうひとつの世界」だ。そして人々は、現実世界での自分の役割を離れて、もうひとつの世界の中で、もうひとりの自分を生きる。
  現実世界の中で、私たちはいくつかの役割を引き受け、様々なしがらみに搦めとられながら生活している。たとえば学校ではまじめな生徒であり、家庭ではおとなしく物静かな男の子がいる。親の期待を一身に背負って、毎日塾に通い、受験勉強についてゆけるようにがんばっている。その彼が、みんなが寝静まった夜中、パソコン通信に侵入してもうひとつの人生を生きる。そこでは、彼はもうまじめな生徒でもないし、物静かな男の子でもない。彼はだじゃれを飛ばすジョークマンとなる。そして、チャットの世界の中で自由に動き回り、会話を盛り上げる。彼は夜中の二時間をもうひとりの自分となって燃焼しつくし、遅い眠りにつくのである。
  確かに、仕事に疲れたサラリーマンは、酒場や縄のれんに立ち寄ることで、現実のしがらみや役割から離れ、同僚や見知らぬホステスたちと会話することで自己解放しているであろう。その機能が、パソコン通信に委ねられただけだと思われるかもしれない。しかし、酒場は会社と同じ世界・同じ空間に属している。チャットの電子空間は、現実の空間とは永遠に交わらないもうひとつの空間である。また、パソコン通信に参加しているとき、彼はこの世界では「ひとり」である。回りを見回しても部屋の中には誰もいない。自分の部屋に自閉した個人同士が、もうひとつの電子空間の中で交わり合う。酒場では、私はなまなましい他者に出会う。酒臭い吐息やホステスの肉感的な雰囲気が私を襲う。パソコン通信は清潔である。そこでは猥雑な人間の属性が消去される。そのかわりに、私の想像力がそれらを限りなく補う。
  この現実世界に私がいて、その私は自分の一側面だけを誇張した断片人格となって電子空間の中に現われる。そして、新たなハンドルネームをもったもうひとりの私は、他の断片人格と会話を楽しみ、意識を交流させる。
  自分の人格のある特定の断片だけを、他者の人格の断片と触れ合わせるというコミュニケーション。これは、人類が「都市」を形成したときに発見されたコミュニケーション形式だ。そしてその触れ合い方は、電子空間での人々の出会いに、さらにぴったりとマッチする。私たちは、電子空間で人と出会うときに、お互いのすべての面を触れ合わせることで幸福になるのではない。触れ合う面を減少させること。選択的に触れ合うことができるとき、私は他者にやさしくなれる。総体的な人格同士の交わりではなく、断片と化した人格の、おずおずとした不器用な触角の触れ合いによって、電子空間の住人はほんの少しの平安と慰めを得ることができる。そしてそのような断片的な人格の触れ合いは、「いのちの電話」や「テレフォン・セックス」に見られるように、ときに鋭く個人のこころの奥底にまで切り込んでゆくのである。

チャットの中の人間関係

  チャットの世界の中では、現実世界での人間関係とは異なった、独特の人間関係が成立している。
  たとえば、現実の社会では、見知らぬ人や初対面の人に、いきなり笑顔で話しかけるのは大変難しい。知らない人に話しかけるときは、何かのきっかけを見出そうと気を使い、苦労する。逆に、知らない人にいきなり話しかけられたら、緊張して警戒する。ところが、チャットの世界では、その気苦労は減少する。なにしろ、相手は、自分の書き込みをきっかけにして誰かから話しかけられるのを、待っているからである。ほんのちょっとした勇気を持つだけで、知らない人と会話することができる。
  逆に、会話がつまらなくなったら、キーを軽く押すだけで、そこから瞬時に抜け出せる。現実の世界では、会話の輪の中から抜け出すタイミングをはかるのが大変難しい。
  ただ、現在のパソコン通信のチャットでは、会話に参加するときと、そこから出るときには、みんなにあいさつをするのが慣習になっている。あいさつをせずに突然割り込んできたり、さよならを言わずに消えたりすると、みんなから変なやつだと思われる。また、知らない人と話を続けるには、それなりの話術がいる。
  チャットの世界に滞在する期間が長くなると、知り合いが増えてくる。もちろん、お互いのハンドルネームで呼び合う知り合いである。すると、その世界の中に、顔なじみのムラ(村)が形成される。ムラの中では、匿名の断片人格同士の「一体感」や「連帯感」が醸成される。知り合いが増えてくると、その友人と会って近況をしゃべりあうことが、チャットに参加する主な目的になってくる。
  いったんムラが形成されると、たまたまそこに入ってきた新人を、会話の輪からはずしてしまう現象が生じる危険性がある。また、伝統のあるムラでは、ムラビト(村人)の間で、話題や言葉遣いなどについての「慣習」や「不文律」ができ上がっている場合がある。このようなムラのルールにとけこむ技術を持たない参加者は、電子空間の中においても「疎外」されるおそれがある。
  ところで、匿名性の保証される空間とは、ある意味では「無責任」が蔓延する空間でもある。たとえば、誰かの自尊心やプライヴァシーを傷つける発言をして、チャットからさっさと消え失せることができる。その場かぎりのハンドルネームを使用していれば、それが誰だったのか分からない。無責任な一参加者の「暴言」のために、チャットが閉鎖されることもある。ひとりよがりの議論を延々と展開したり、女性にしつこく電子メールを送ったりする嫌われ者の存在が、パソコン通信世界の社会問題となることも多い。断片人格同士のコミュニケーションができるということは、いわば自己を隠した「仮面」の付き合いができるということである。人は「仮面」を付けると人格が変わる。「仮面」のコミュニケーションが保証されることで、参加者に悪徳の扉が開かれるのである。従って、電子の架空世界とは、人間の「暴力性」や「犯罪性」が活性化される空間でもある。
  チャットでは、コミュニケーションへの「沈黙の参加」が可能となる。ROM(Read Only Members)と呼ばれる参加者の一群がそれである。画面の会話の様子を、じっと黙って見ているだけで、決して自分からは会話に参加しないメンバーたちのことだ。数人の会話を、十人以上の「沈黙のギャラリー」が見守っていることもある。ROMの参加者の姿は、画面上でしゃべっている人たちからはすぐには見えないことが多い。従って、画面上で会話している参加者たちは、誰か知らない人から覗き見されているという感覚を味わうこともある。
  実際には、チャットのグループごとに、人間関係の様子も異なっている。特に、テーマをもうけて会話しているチャットでは、そのテーマによって会話の雰囲気がずいぶん違う。F1やコンピュータ関係のチャットの内容は、はじめて参加した素人には何のことだか分からない。
  チャットでは、参加者それぞれが、自分の人格の中の、他人に向けて表現したい側面と、他人には見せたくない側面とを峻別している。そして、画面上に現われない側面については、お互い土足では踏み込まないという暗黙の了解の上で、コミュニケーションが進んでゆく。すなわち、チャットの世界と、現実世界の間での、参加者の人格の「同一性」や「一貫性」を前提としない人間関係が望まれることになる。〈いま目の前に現われているあなたの姿が、あなたの真実の姿である保証はどこにもない。だから、逆説的ではあるが、いま私の目の前に現われているあなたの姿それのみが、この架空世界でのあなたの「真実の」姿である。〉これが、電子架空世界で生きるものが頼れる究極の論理である。
  電子架空世界では、各自が、他人に踏み込まれたくない自分固有の境界線を、現実世界よりもはるかに高い緊張感で設定している。しかし、言葉の暴力は、その境界線をやすやすと乗り越えて参加者のこころの奥深くまで突きささる。従って、そこでは、参加者ひとりひとりが望んでいる自己と他者との距離を、みんながそれぞれ尊重するという、基本的な倫理が要請されることになるであろう。それは、他者と対面するときに、いつも自己と他者の望ましい距離を測定しつつ行動するという、いわば「距離の倫理」とでも言うべきものへと結晶してゆく。そしてこの倫理は、電子架空世界の道徳空間を律する根本原則となるであろう。また、それを支えるための、「距離の測定術」というテクニック体系が、架空世界の住人たちの間に共有されてゆくであろう。コンピュータ犯罪やハッカーなどを念頭に置いた「コンピュータ倫理学」が、欧米では現在構想されはじめている。それはやがて、ここで述べたような、電子架空世界での人間関係を取り扱う「電子架空世界の倫理学」と融合し、さらに発展してゆくにちがいない。

コンピュセックス

  電話はテレフォン・セックスを生み出した。パソコン通信は「コンピュセックス」を可能にする。「顔」や「肉声」が排除された透明で乾いた電子空間の中で、断片人格同士が出会い、お互いの想像力を最大限に駆使しながら、架空のセックスを体験する。
  アメリカのパソコン通信『コンピュサーブ』のチャットの1番チャンネルは、異性に出会うためのピック・アップ・バーとなっている。そこで意気投合した二人は、その後「トークモード」と呼ばれる、二人だけで自由に話せる環境に移動し、甘い会話を交わすことができる。そして、画面上でセックス・シミュレーションが行なわれることもある。
  女性ジャーナリスト、テレサ・カーペンターは、『コンピュサーブ』で未知の男性と出会い、トークモードでのコンピュセックスに誘われた体験を、次のように書いている。

 コンピュセックスは、私が以前に想像していたような、わいせつないたずら電話とはちがうものでした。彼の名前はデッドウッド。繊細なシナリオライター。彼は、私を、北カリフォルニアにある彼のリヴィング・ルームに案内してくれました。そこで私たちは、バリー・マニロウにあわせて少しダンスをして、それから彼のベッドルームへと向かいました。・・・・・・彼とのセックスはとても刺激的でした。これは驚くべきことです。というのも、そこでは、音声や触覚や表情が排除されているのですから。この奇妙なゲームは、肉体を介しない語りかけが、どれほどまでに優しく親密なものになれるかを、あらわしていたように思います。

「顔」や「声」など、現実世界につながったものを排除し、電子の虚構世界の中で、お互いの想像力だけによってセクシャルな関係をつむぎあげるこのコンピュセックスは、パソコン通信的な制限メディアの中での人間関係の本質の一側面を、極端な形であらわにしている。
  すなわち、我々を束縛する現実の肉体的特徴が排除され、匿名性によってお互いの私的空間がガードされ、そしてそのうえで、自己演出によってつむがれた断片人格同士が、電子空間のなかで優しく触れ合い、お互いのこころの深層へと侵入してゆく。その融合とせめぎあいの中で、二人の意識がセクシャルに交流し、興奮と快感となぐさめが共有される。これが、パソコン通信的な人間関係のひとつの理念型である。
  そしてこの美しい理念型は、他者からの暴力による自己変容の可能性を抑圧することで、新たな文明の病理を生んでゆくことだろう。

統合メディアと匿名性

  さて、画像系のグループ・メディアとしては、双方向テレビを利用して、多くの人間がお互いの顔を見ながら話をする「テレビ会議」がある。テレビ会議では、相手の顔や声は見えるが、相手に触ったり、相手の香りを感じたり、その場の生々しい雰囲気を味わったりすることができない。この意味で、テレビ会議もまた、視覚と聴覚に制限された「制限メディア」であると言うことができる。
  ただし、現在のテレビ会議ではお互いの「顔」と「声」が丸見えであり、相手の所属も分かっているので、「匿名性」はほとんどない。従って、パーティーラインやパソコン通信のチャットで見られたような、匿名性にまもられた意識通信は、ここではほとんど起こりえない。
  一九九〇年代から二一世紀に向けて、電話や、パソコン通信や、テレビ会議などのメディアが徐々に統合され、それらが一体となった統合メディア(マルチメディア)が出現すると言われている。
  そこで、統合メディアが社会の主流になったときの、制限メディアの運命について考えてみたい。
  統合メディアでは、相手の顔も音声もくっきり伝わるし、データや動画のやりとりもできる。たとえば、部屋の壁のスクリーンに、話している相手の顔や身体が三次元映像でくっきりと映し出され、声も相手の口から聞こえてくる。お互いに目線を合わすことさえできる。(人工現実インターフェイスが加われば、相手の身体に触れることも理論的には可能である。)
  このような統合メディアが、現在の電話機のように、各家庭に標準装備される時代がくるであろう。そのときには、各家庭のリヴィングから、統合メディアを通して遠くにいる人とリアルなコミュニケーションをするのが、標準的な形となる。この意味では、電話やパソコン通信のような〈単体の〉制限メディアは、その歴史的な役割を終え、死滅すると思われる。
  しかしながら、「制限メディアによるコミュニケーション」そのものは死滅しない。制限メディアは以下のような二種類の形で、生き残ってゆくのだ。
  まず最初の可能性。たとえば、統合メディアを使うときであっても、家庭のベッドルームからデパートのテレ・ショッピングを利用するときには、こちらのくつろいだ寝間着姿はカットして、音声とデータだけを相手に送るのが普通の神経であろう。これに対して、デパートの側は、美人の案内係の顔と声を顧客の部屋まで送り届けるサービスを欠かすわけにはいかない(それが本物であれコンピュータ・グラフィックスであれ)。つまり、デパートから顧客への情報の流れは「マルチメディア」となっているのに、顧客からデパートへの情報の流れは「制限メディア」となる。家庭の端末に、制限メディア用の切り替えスイッチがついていれば、これは簡単に実現できる。
  あるいは、初対面の人に仕事上の用件で連絡するときには、こちらの姿はマルチメディアで相手に見せ、相手からはその声だけを聞く、というのが一種のエチケットとなるであろう。また、上司と部下が話をするときには、部下は姿をさらし、上司は声だけということになるかもしれない。
  統合メディアの環境下でも、このような「非対称的なメディアの制限」がごく普通に行なわれるようになると予測される。
  また、統合メディアをわざわざ制限メディアにして使う人々もでてくるだろう。それはちょうど、カラー印刷が普及したあとであっても、小説のほとんどは白黒で印刷されているのとよく似ている。声だけで、あるいは文字だけで会話したほうが、より効果的なシチュエーションも存在するはずである。恋の告白は、音声メディアや、文字メディアを使ったほうがうまくいくかもしれない。
  第二の可能性は次のようなものである。
  子供のおもちゃで、ヴォイス・チェンジャーというものがある。これは、人間の声の高さや質を変えたり、マンガ声にしたりする機械である。これは、音楽制作の時に使われているヴォイス・シンセサイザーの普及版である。
  このヴォイス・シンセサイザーを拡張して、人間の声だけでなく、画面に映る人間の顔や姿をも変化させてしまう機械がいずれ登場するであろう。そしてこれをソフトウェア化して、統合メディアの端末機に組み込む。統合メディアの一部として組み込まれ、コミュニケーションする人間の声や顔などを自由自在に変化させることのできる仕掛けのことを、「インターフェイス・シンセサイザー」(あるいはコミュニケーション・シンセサイザー)と呼ぶことにしよう。
  これを使うと、たとえば、相手のスクリーンに映し出される自分の顔をミッキー・マウスそっくりにして、自分の声をマンガ声にすることも可能になる。あるいは、ヒットラーの顔をして登場して、相手を驚かすことも簡単にできる。この技術の初歩版は、すでに『HABITAT』というパソコン通信の環境で実現している。
  そんなに極端な例ではなくても、自分の顔を人前にさらすときに、少しでも見苦しくなく、美しく見せたいという欲求は多くの人がもっている。そんなとき、簡単に画面上の自分の顔の皺の数を少なくできるインターフェイス・シンセサイザーがあれば、多くの人はそれを利用するようになるだろう。はげを目立たなくするとか、身体を細めに見せるとかの修正が、統合メディアでのコミュニケーションでは日常的に行なわれるようになる。
  すなわち、相手を見て不快になりたくないとか、自分をもっと美しく見せたいという欲求を人間がもつ限り、インターフェイス・シンセサイザーは充分な需要をもつはずである。
そして、インターフェイス・シンセサイザーが、統合メディアに標準装備されるようになれば、自分の顔や姿をある程度修正してから画面に登場するのが、エチケットとなって定着するであろう。これは、現代社会において、ある程度のみだしなみや化粧が、最低限のエチケットとなっているのと同じである。専門家による近未来予測でも、自己映像を魅力的に加工する「電子美容処理サービス」などが出現すると想定されている。
  このように、インターフェイス・シンセサイザーを使って、自分の姿形を電子世界の中で修正しながらコミュニケーションを行なってゆくことを、「修正コミュニケーション」と呼ぶことにしたい。
  こういう状況が到来すれば、統合メディアにあらわれる相手の姿が、相手の「本当の」姿である保証はなにひとつなくなる。目の前にあらわれた美しい声の美女が、現実に会っても本当に美女なのか分からないし、そもそも本当に女なのかどうかも分からない。さらに言えば、その美女の姿がコンピュータのプログラムによって作り出された、どこにも実在しない人間である可能性もある。
  この状況は、パーティーラインやパソコン通信のチャットの中に存在した「匿名性のコミュニケーション」の状況と、まったく同じだ。インターフェイス・シンセサイザーによって作り出された「修正顔と修正声」は、パソコン通信のチャットの「ハンドルネーム」に相当する。匿名性に守られ、ハンドルネームによって強化された断片人格が、自己演出を行ないながらコミュニケーションを試みてゆくという「匿名性のコミュニケーション」が、統合メディアの中で復活するのである。
  統合メディアの時代においても、「匿名性」は、少なくともこれら二通りの方法で生き残る。(1)統合メディアをあくまで「制限メディア」として利用する場合と、(2)統合メディアで極端な「修正コミュニケーション」を行なう場合の、二通りである。
  匿名性が生き残る理由は二つある。ひとつは、人間が、電話やパソコン通信などの制限メディアを生活の中に受け入れた結果、制限メディアを使うことのここちよさ、楽しさ、面白さ、くつろぎ、魔力を知ってしまったからである。もうひとつは、それらの制限メディアの利用を通じて、もうひとつの虚構の世界に、もうひとりの私となって参加し、コミュニケーションをする快感に目覚めてしまったからである。人間が、これらの快感を手放すわけがない。
  もちろん、統合メディアの主流は、あくまで匿名性を排したリアルなコミュニケーションとなることは間違いない。しかし、メディアが生み出す虚構性は、修正コミュニケーションの形で、統合メディアのあらゆる場面を浸食する。そして統合メディアのいたるところで、メディアの制限性と修正性とを駆使した「匿名性のコミュニケーション」がしぶとく生き残ってゆくだろう。

匿名性のコミュニケーション

 「意識通信」とは、メディアの中で誰かと会話することそれ自体を目的とするような、メディアの使い方のことであった。
  ところで、この現実世界の三次元空間それ自体も、実は、我々のコミュニケーションを媒介するひとつの「メディア」であると考えられる。ということは、喫茶店で友人たちとワイワイ楽しくおしゃべりしたり、あるいは恋人と髪をなであったりするコミュニケーションも、「意識通信」である。
「意識通信」とは、より正確に言えば、〈コミュニケーションすることそれ自体を目的とするようなコミュニケーション〉のことである。
  電話やパソコン通信の中で生じる「意識通信」のことを、喫茶店でのおしゃべりなどに見られる現実世界での意識通信と区別するために、特に「電子意識通信」と呼ぶことにしたい。本章で行なった議論のほとんどは、パーティーラインやパソコン通信など、この電子意識通信についてのものであった。
  電子意識通信の第一の特徴は、そこに「架空世界性」が出てくる点にある。フェイス・トゥ・フェイスで誰かと話をしているとき、我々はその会話が行なわれている場所を特定することができる。それは、たとえば、A事務所の二階の三号室という実在の部屋である。ところが、電話で誰かと話しているときのことを考えてみよう。そのとき我々はいったいどこで会話しているのだろうか。私の部屋と相手の部屋の中間にある、どこか別の小部屋だろうか。それとも電話線の中か。それとも、NTTの交換機の内部か。我々が電話で会話しているその場所を、我々ははっきりと指定することができない。我々は、電話の中で、こんなにもリアルにその会話の「場所」を実感しているのに、その「場所」はけっして現実世界の一地点に同定されえない。
  この事態は次のように考えるしかない。我々は、電話システムの複雑なネットワークが生み出す「架空世界」の中で会話しているのだと。その架空世界は、この現実世界とは決して交わることのない、もうひとつの世界である。我々は、電子メディアを媒介することで、現実世界には存在しない電子の架空世界へと参入し、そこで他者と出会っているのだ。
  伝言ダイヤルやパソコン通信になると、我々はその架空世界の「構造」を把握できるようになる。伝言ダイヤルは多数の架空の「部屋」が積み重なる構造をしているし、パソコン通信では本の章立てに似た(ツリー状の)、さらに複雑な架空空間が設定されている。
  構造化された電子架空世界の中で行なわれる意識通信、これが電子意識通信の基本形である。
  パーティーラインやパソコン通信の中では、参加者の「匿名性」に裏付けられた、「匿名性のコミュニケーション」が成立する。匿名性のコミュニケーションでは、制限メディアが生み出す「匿名性」「断片人格」「自己演出」という三つの特徴が、もっとも活性化される。そうして、参加者たちは、電子の架空世界という「もうひとつの世界」の中で、「もうひとりの私」として、「もうひとつの生」を生き、そこで「もうひとりのあなた」と出会ってお互いの意識を触れ合わせ、存在感を交流させるのだ。
  制限メディアの意識通信を支えるものは、与えられた数少ない情報から相手の断片人格をつむぎあげようとする「想像力」である。「想像力」を駆使して会話を続けることで、参加者はより深くコミュニケーションへと入り込み、そこから快感と満足とを引き出すことができる。この意味で、制限メディアの意識通信とは、参加者たちの想像力それ自体が交流する場でもある。想像力とは、いま与えられていないもの、いま存在しないものに思いをはせ、〈いま・ここ〉に束縛された自分自身をそこに向かって解放してゆく営みのことである。制限メディアという仕掛けが、その営みを保証する。「想像力」こそ、意識通信を解明するキー・コンセプトである。

顔の存在

  匿名性のコミュニケーションは、制限メディアの中でも、統合メディアの中でも可能であると述べた。しかし、制限メディアの中での「匿名性のコミュニケーション」と、統合メディアの中での「匿名性のコミュニケーション」は、決定的に異なる点をもっている。まず、電話やパソコン通信を用いた匿名性のコミュニケーションでは、参加者たちの「顔」が見えない。我々は、参加者たちの「顔」以外の情報から、彼らの断片人格を組み上げなければならない。これに対して、統合メディアの修正コミュニケーションでは、たとえ修正されたものであるとは言え、参加者たちの「顔」が見えてしまう。人間の顔や、ミッキー・マウスの顔が画面上に現われる。我々は、参加者たちの修正後の「顔」の強大な影響を受けながら、彼らの断片人格を組み上げることになる。
  人間の対人認識において、「顔」が果たす役割は決定的に大きい。いったん、相手の顔が分かってしまうと、二度とその顔を離れて彼の人格を把握することはできなくなる。
「顔」が見えるかどうかという点は、参加者の「想像力」に大きな影響を与える。要するに、顔が見えなければ想像力は大きく広がるが、顔が見えてしまうと想像力は減退する。顔の見えない制限メディアでの意識通信では、参加者たちの想像力は大きく刺激される。これに対して、顔の見える統合メディアでの意識通信では、想像力はさほど刺激されない。刺激されるのは想像力ではなく、視覚、聴覚、触覚などの五感の方である。
  すなわち、「想像力」を活性化する制限メディアの意識通信と、「五感」を活性化する統合メディアの意識通信という、二つのタイプの匿名性のコミュニケーションがあることになる。
  M・マクルーハンは、情報量が少なく受け手が能動的に関与できるメディアのことを「クール」なメディアと呼び、逆に、情報量が多く受け手が受動的に感覚するままになるメディアのことを「ホット」なメディアと呼んだ。その用語を使えば、制限メディアの意識通信では「クール」な匿名性のコミュニケーションが可能になり、統合メディアの意識通信では「ホット」な匿名性のコミュニケーションが可能になると言える。この二つを分けるものは、「想像力」と「能動性」である。

二世界問題

  電子メディアを通して、我々はもうひとつの架空世界へと参入することができる。そうして、架空世界で意識の交流を行なってから、またこの現実の世界へと戻って来る。
  その二つの世界は、個人のこころの中で平和に共存することが多い。たとえば、デートから帰った恋人たちが、その夜にふたたび長電話をして、昼の幸福を再確認する。このとき、彼らは、現実世界でのデートでは出会えなかった、もうひとりの素敵な相手(断片人格)に、電話の架空世界の中で出会っている。彼らは、電話というメディアが作り出す架空世界というものを、現実世界の補完物として上手に利用している。
  あるいは、パソコン通信の中で知り合った人間同士が、現実世界で一堂に会するイベントがある(オフライン・ミーティング)。それに参加してみると、画面から想像していたのとはまったく違ったイメージの人がいたりして、けっこう面白いという。そしてその後で、チャットでその人に出会ったりすると、彼の顔を思い出しながら会話をすることができ、また一味違ったコミュニケーションができる。これもまた、現実世界での体験を生かして、架空世界での意識通信をより面白く楽しんでいる例である。
  ただ、架空世界でのコミュニケーションにしかリアリティを持てなくなったり、架空世界での「もうひとりの私」と現実世界での「私」とのギャップが広がりすぎて、自分の中でアイデンティティの統一がとれなくなるケースも出て来るであろう。そして最悪の場合、それは「現実世界」と「架空世界」の二つの世界の間で引き裂かれて放浪する、不幸な精神を生み出すことになる。
  乗越たかおは、パソコン通信小説の傑作『アポクリファ』の中で、「コンピュータゲーム、シミュレーション装置、パソコン通信なんかのテクノロジーによる人工現実」と、「現実生活」とを掛け合わせたものが、私たちが実際に認知している「現実」であると述べている。そして、「人工現実を現実の一部として完全に私達が受け入れられたとき、社会は新しい領域を迎えることになる」と語る。
  現実世界と架空世界を、ともに無理なく受容してゆくこと、これが高度情報社会に適応してゆくための条件になるのであろう。しかし、たとえば、産業社会は人類に大きな可能性を与えた反面、数々のこころの病を生み出した。それと同じように、架空世界を増殖させてゆく電子文明もまた、電子自閉症、外界リアリティの喪失、アイデンティティの崩壊など、いくつものこころの病を人類にもたらすにちがいない。
  そしてそのこころの病の多くは、現実世界と架空世界という二つの世界の整合性をどうつけるかという、この「二世界問題」から発生してくるのである。

失われた他者を求めて

  究極の電子架空世界の中では、私はあらゆる人間に変身することができる。人間だけではなく、動物や宇宙人や、無生物にまで変身することもできる。そして、考えられるあらゆる出来事を体験することができる。そこで、フリーセックスや殺人を楽しむこともできるし、自分の死さえ体験することができるようになるだろう。
  そこは、この現実世界で実現することが困難だったり不可能だったりする様々な欲望が、人工的にかなえられるユートピアなのである。
  言い換えれば、外界を自分の意のままにコントロールして自分の欲望を実現したいという、近代文明を支えてきた「コントロール欲望」が、そこでは完全に満たされる。そして、架空世界に参入する参加者ひとりひとりが、「神」の位置に立って、自分の環境を完全支配できる。我々は、電子架空世界の中で、そこに存在するすべての被造物を支配し、そこに現われる他者までをもコントロールすることができるのだ。
  しかしそのようなユートピアは、決して人間を幸福にはしないだろう。というのも、多くの人間のこころの奥底には、「自分の力ではコントロールできないものに出会うことによって自分を変容させたい」「自分の力を超えた存在者に出会うことによって救済されたい」という、もうひとつの本性があるからだ。人間のコントロール欲望をどこまでも追求する架空世界の住人たちは、自分たちの内面に潜むこの本性を徹底して抑圧することになり、〈快楽は得られても幸福は得られない〉という不毛の病理に陥ることになる。
  そのような病理にむしばまれた人間たちは、すでに他者が失われてしまった「繭の中のユートピア」(天野義智)の中で、自分のコントロール欲望を暴力的に打ち砕いてくれる〈他者〉を求めて、あてどもなくさ迷うことになるだろう。しかし、インターフェイス・シンセサイザーが徹底して浸透し、プログラミングされた人間と現実の人間の区別がつかない電子架空世界では、自分がいま出会っている存在者が本当の〈他者〉なのかどうか原理的には分からない。アルゴリズム(決められた根本ルール)に従って動いたり、あるいは自分の期待の地平の中で応答を繰り返す存在者は、もはや他者とは言えない。私が原理的に支配可能な世界の内部で、私に向かって暴力的に反抗する存在者を、本当に他者と呼べるであろうか。
「本当の他者」とは何か。これは、「本当のリアリティ」とは何かという問いと並んで、電子架空世界の住人たちが直面する二大難問となる。
  確かにこの現実世界には様々な限界があるので、自分のコントロール欲望を充分に解放させることは難しい。しかし、コントロール欲望が完全に実現された電子架空世界では、我々は〈他者〉を見失い、別の形の病理に陥ることになる。
  他者を見失った架空世界の住人たちの多くは、真の〈他者〉を見つけるために、この現実世界をふたたび訪れることになるだろう。そのとき、彼らにとって、この融通のきかない牢獄のような現実世界こそが、〈他者〉となるのだ。彼らは、自分たちのコントロールの手が及ばないこの現実世界それ自体に、究極の他者を見出すであろう。彼らを疎外し、彼らの傲慢な欲望を決して認めてくれなかったこの現実世界こそが、電子架空世界からの帰還者のための「不動の他者」となる。彼らは、自分の力を超えたこの現実世界のふところに抱かれて、はじめてその愛を知り、その中で救済され、そこで死にたいと思うようになる。
  コントロール欲望に突き動かされて電子架空世界へと旅立った人間のこころは、やがて安らぎと救済をもとめて、ふたたびこの現実世界へと戻ってくるのである。

 

入力:匿名希望さん