作成:森岡正博 |
なぜヒト・クローンを造ってはならないのか
『世論時報』2001年12月号・21−23頁
萩原優騎(国際基督教大学大学院博士前期課程)
*【数字】の箇所で掲載頁は変更となる。
近年、クローン技術の人間への適用をめぐって、様々な議論が展開されてきたが、そこには数多くの誤解が見られる。本稿では、従来の主要な論点の問題が、どこにあるのかということを検討する。なお、参考文献からの引用に際しては、別表の文献番号とページ数を記す。
人格はコピーできない
まず、クローン技術に対する最大の誤解は、それによって人格の同一性が冒されるから、禁止すべきであるという見解であろう。第一に、DNAの同一性は、記憶の同一性を意味しない。DNAが同一の一卵性双生児が異なる記憶を持つという、我々に馴染み深い事実からも、そのことは明らかである。しかも、DNAが同一だからといって、身体的特徴まで全く同じになるというわけでもない。この点も、一卵性双生児の事例から知ることができる。
次に、ヒト・クローンに記憶をコピーすることが仮に可能であったとしても、そこでは人格の同一性は生じない。なぜなら、人格には記憶だけでなく、その人の生きた経歴も含まれるので、人格のコピーは不可能だからである(b・112)。ただし、だからといって、記憶のコピーが正当化されるわけではない(詳細は、d・292−293)。
このことは、亡くなった子供のクローンを、その子の身代わりとして産むという場合にも当てはまる。これに対しては、親が子供を手段として用いることは許されないという批判がある。ところが、老後の面倒を見てもらう、家を継がせるといった目的のために子供を産むとしても、親が目的の手段としてのみ子供を扱うのでなければ、出産そのものを禁じる理由にはならない(b・118)。つまり、子育てを完全に放棄し、子供を全く愛さないことが、親自身の証言などによって事前に明白でない限りは、出産を禁止できないということである。
また、移植用の臓器を取得するためにヒト・クローンを製造することは、本人の人格の侵害であるという主張がある。しかし、このような人格侵害は、クローン技術に固有なものではない。クローン技術による生物組織の培養と、生み育てたヒト・クローンの個体から臓器【21】を搾取することとは異なるのであり、後者は現在でも殺人罪や傷害罪の対象である(b・120−121)。
自然と人為
ヒト・クローンの製造は、自然の秩序に反するものであり、人為的な生命操作であるから許されないという見解もある。ところが、自然ではないということは、必ずしも非倫理的であることを意味しない(e・89)。近代とは、人体という自然に対する人為化が、医療行為を通じて徹底的になされた時代であった。
医療行為は、放っておけば死んでしまう「自然」な状態や、様々な病原菌という「自然」を、人為の力で制御してきた。その意味でも、我々が享受する近代社会の生活は、人為化によってこそ達成されたと言えよう。もちろん、人為化の度合は進展しており、その延長上にクローン技術が現れた。ただし、それが人為的であるという理由だけでは、禁止の対象にならない。
この点に関して村上陽一郎は、クローン技術が人類の生物学的弱点を生み出すという議論は、合理的な根拠を持つと言う(e・93)。しかし、これには下記のような反論があり得る(a)。第一に、少なくとも現状では、クローン技術を望む人数が極めて限られている。その人々の家系が、もし数世代にわたって単性生殖を行ったとしても、生物学的弱点を有する「集団」を生み出すには至らない。すると、例外的措置としてのクローン技術の適用は、容認されることになるだろう。
第二に、この論理に従うならば、生物学的に見て有利に機能する遺伝子を保存するという目的に合致する限り、クローン技術は逆に肯定されるべきものとなる。これに似た議論として、クローン技術は、人類の進化の過程に反するという批判もある。ところが、先程の医療の例からも分かるように、これまで正当とされてきた行為の多くが、自然淘汰の抑制を目的としている(a)。また、生物学的弱点という論点と同様、クローン技術が進化に貢献するという保証が得られた場合には、その採用を否定できない。
差別問題の根深さ
もう一つの主要な見解として、クローン技術によって誕生した人が、差別を受けるのではないかというものがある。それに対して加藤尚武は、次のように述べる(b・127)。偏見を理由に、ヒト・クローンの製造を法的に禁じることは、かえってその偏見に加担することになる。それゆえ、もし妊娠してしまった場合には、例外的に中絶を容認しつつ、むしろ「偏見に屈しないで産みなさい」と勧めるべきであるという。そして、ヒト・クローンに対する法的禁止は、妊娠してしまった場合の出産の禁止としてではなく、その出産の準備行為に対して適用されるべきであると、加藤は論じる
(b・141)。
しかし、単にこうした理想を語るだけでは、現実の差別問題の深刻さを、かえって隠蔽してしまうことになるのではないだろうか。実際には、「差別をするな」という主張や、差別の根底にあるものが不当な偏見であるという根拠の提示によって、容易に差別が解体されるわけではない。差別がなされる理由が不当だと明らかであるにもかかわらず、各地でそれが残存している点にこそ、差別問題の根深さがある。
ここでの問題は、周囲からの差別だけではない。生まれてきた子供が、自らの【22】出生過程を知った時に受けるかもしれない、精神的苦痛という問題もある。本人の苦痛がどれほど大きなものとなるかは、あらかじめ予想できないのであり、周囲の人々が代わりに引き受けてあげることもできない。不当な理由によって妊娠した場合に出産がためらわれる理由も、ここにあると言えよう(詳細は、d・291)。
「他者」という視点こそが必要
我々の生命は、本人の存在を支える、かけがえのないものであり、所有や制御の対象ではない。そして、他者とは、決して自己に同一化できない存在である。それゆえ、他者が自ら作り出し制御するのではない、その人のもとに在るものや、その人が在ることを、奪ってはならないと我々は考える(c・105)。このような他者の在り方を、「他者の他者性」と呼ぶならば、これこそが、他者の人格を尊重する根拠となる。
以上を考えた上で、最後に「安全性」という論点を挙げたい。動物実験でクローン技術が成功したからといって、それが人間に適用された場合にも、絶対に安全であるとは限らない。ある新しい治療方法以外に救命手段がないために、危険を冒してでもそれを試すという場合と比べると、そういったリスクを負ってまで、ヒト・クローンを製造する必要があるだろうか(b・133)。もしそうでないならば、予想される混乱を防ぐ意味でも、ヒト・クローンの製造を法的に禁じることに不都合はない(e・91)。
すると、安全性が証明されれば、ヒト・クローンの製造は許されるのかという反論があるだろう。生命を維持するために、本人の意向で新しい治療方法を試す場合は、その人のかけがえのない生命の尊重となり得る。しかし、ヒト・クローンについては、誕生した個人の生涯を通じた観察以外に、技術の安全性を証明することはできない。その過程は、治療目的と無関係であるばかりか、技術の採用そのものが個人の誕生であるため、未知のリスクを負うことに関して、本人の同意さえ得られないのである。
これは、重度の障害を持つことが事前に明らかになった胎児を出産する場合とは異なる。なぜなら、ヒト・クローンという技術の採用自体が、胎児に未知のリスクを負わせることになるからである。他者の存在を制御すべきでないならば、実験の手段として、その人の存在を支える生命に、意図的にリスクを負わせて誕生させることは許されない。「他者の他者性」が見失われた時、我々は現代医療の暴走に歯止めをかけることができなくなるだろう。
参考文献
(a)加藤尚武「朝日のクローン論説(1月24日)はどこがダメか」、京都大学ホームページ、1998年。
http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/kato/clone3.html
(b)加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療 バイオエシックスの練習問題』PHP新書、1999年。
(c)立岩真也『私的所有論』勁草書房、1997年。
(d)萩原優騎「自己決定権論争の脱構築―脳死・臓器移植問題を中心として―」、『現代文明学研究』第4号、2001年。
http://www.kinokopress.com/civil/index.htm
(e)村上陽一郎『科学の現在を問う』講談社現代新書、2000年。【23】